伝統板・第二
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ひかりの一日一言133~ひかりの語録(4月)
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1:伝統
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2026/04/01 (Wed) 04:34:58
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『栄える生活365章』第4篇 自己の尊厳を自覚して
ひかりの一日一言《1日》
(4月1日)(P77~78)
魂を向上成長させる真理を
あなたは、自己みずからの尊厳を知らなければならないのである。
人は自己を信じた通りのところのものとなるのである。
釈尊は自己みずからを”天上天下唯我独尊”であり
「われは最(い)と勝(すぐ)れたる者である」と自覚したとき
世界最大の思想家となり、仏陀となったのであり、
イエスは「われ神の子なり」の自覚によってついに救世主となった
のである。
諸君も、自分自身を自覚した程度に、偉大ともなり、
その反対に劣弱者(れつじゃくしゃ)ともなるのである。
生長の家の説く真理は諸君を劣弱の自覚から、
最高水準の自覚 ――”我れ神の子”の自覚にまで高めるために
必要な”米の飯”の如き魂の栄養となる働きをするのである。
”米の飯”はただそれが栄養になる事を知っただけでは
何の役にもたたないのである。
”米の飯”はただ知るだけでなく、
毎日”食べる”ことによって肉体が成長し、肥えふとるのである。
では、あなたの魂は毎日、”我れ神の子なり”の真理の言葉を読誦して、
自己の 魂 にその言葉を咀嚼し消化し吸収し同化して
魂 を向上進化させるとき、
本当に現実の運命も向上せしめることができるのである。
<感謝合掌 令和8年4月1日 頓首再拝>
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2:伝統
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2026/04/02 (Thu) 05:02:17
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(4月2日)(P78~79)
生存競争の世界観を超克して
自己を”神の子”より以下の”低卑なるもの”と
自己同一せしめてはならない。
自己を獣類(じゅうるい)より進化し、猿より進化した一種の動物だと
考えてはならないのである。
獣類以下の生物はすべて生物学的本能によって支配されているのであって、
自分自身を自主的に支配し、高き理想を心の描いて、その理想に向かって
向上して行くことを知らないのである。
彼らはただ盲目的な”性(せい)”と”食”との本能に支配され、
それを満足せしめるために、相闘うのである。
それゆえに、彼らの世界では、”力”による優勝劣敗の法則が支配して
おり、生存競争による適者生存が彼らの世界の現実である。
そのような現実を人間が観て、自己もまた動物中の一種族であり、
弱肉強食の生存競争の法則が人間を支配しているという信念をもって
いる限り、
人間は「信ずる通りのところのものに成るという法則」に従って、
永久に”平和”は来(きた)らず、弱肉強食の戦闘的世界を実現する
ほかはないのである。
僅(わず)かに力の均衡によって得られている”世界平和”や、
定期的に毎季節に行なわれる労働攻勢や、賃上げ闘争の如きは悉く
弱肉強食の人生観の反映にほかならないのである。
人間は万物の霊長として獣類以下の動物を支配しているところの
”弱肉強食の法則”を超越して、心の和解により相互尊敬、相互協力、
相互扶助することによって、戦いなく、弱者をも扶(たす)けながら、
弱者も一層繁栄する道がひらかれているのである。
それが生長の家の「天地一切のものと和解せよ」の訓(おしえ)なの
である。
<感謝合掌 令和8年4月2日 頓首再拝>
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3:伝統
:
2026/04/03 (Fri) 04:59:27
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(4月3日)(P79~80)
心の異常な緊張をなくすために
「天地一切のものと調和する」平和の心境 ―― 全くストレスがなくなった
心境に、私たちが到達することができるとき、自己の心の状態の反映として、
ストレス」より生ずる凡(あら)ゆる病気に罹(かか)らなくなってしまう
のである。
ストレスとは心の異常な緊張、不安、恐怖、物思い等(など)より生ずる
心のヒズミである。
従って絶対平和の心境になるとき、眠りは深く穏やかになり、全身の細胞
及び細胞を構成している分子原子の新陳代謝は完全に行なわれて、肉体は
常に若返り健康となるほかはなくなるのである。
あなたは毎日神想観を修して、この世界が唯一の神によって造られ、
唯一の神の知性によって支配され、神の無限の愛によって護られ、
弱肉強食のような不調和な状態は、断じて《真に》存在しないのだという
実相をひたすら観ずることによって、弱肉強食の闘いの人生観世界観より
脱却することが必要なのである。
弱肉強食の人生観のある限りに於いて、弱者は強者の侵害を受ける恐怖に
よって常におびやかされざるを得ないし、強者といえども、より強者より
侵害されるかも知れないし、弱者の、死にもの狂いの反撃がいつくるかも
知れない恐怖に悩まされなければならないのである。
それは恰(あたか)もアメリカのような世界第一の強大国がソ連からの
侵害と****からの攻撃とを常に心に描いて悩まされざるを得ないのと
同様である。
これは一国の問題であるが、一個の人間の場合に於いても同じことである。
<感謝合掌 令和8年4月3日 頓首再拝>
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4:伝統
:
2026/04/04 (Sat) 04:52:02
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(4月4日)(P80~81)
先ず「神の国」を求めよ
あなたは今後毎日『生命の實相』の聖典を読み、
毎日一層”人間・神の子”の真理を魂の栄養として吸収し、
神想観を毎日怠らず実修して、
この世界は一つの神の知性によってつくられ支配されている
世界であるから、一切の不調和は、この世界には存在しない
のであるという真理を自覚するように努めるがよい。
―― この自覚の深まる程度に応じて、
あなたの心の状態の反映として今後益々あなたの住む世界は
調和したものとなり、あなたの人生は幸福に充たされたものと
なるのである。
これが釈尊が「三界唯心」と説き、イエスが「先ず神の国と
神の義とを求めよ、その余のものは汝等に加えらるべし」と
説かれた真理と同一なのである。
<感謝合掌 令和8年4月4日 頓首再拝>
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5:伝統
:
2026/04/05 (Sun) 05:01:12
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(4月5日)(P81~82)
”神の子”の自覚の容器に一切を入れる
あなたが自己を”神の子”であると自覚すればするほど、
あなたは一層健康となり、力の感じが湧いて来、活力が増進し、
何事は起ころうとも毅然として「千万人と雖(いえど)も、我れゆかん」
の自覚が得られることになるのである。
過去に如何なる不幸や失敗があったにせよ、
過去は既に過ぎ去ったのである。
あなた今、”神の子”と謂(い)う自覚の新しき”容器”に、
今後の生活を満たせばよいのであって、折角の”新しき容器”に、
古く濁った過去の液体の糟(かす)を入れる必要はないのである。
”神の子”という自覚の瓶(びん)の中に今後の生活の一切を容れるならば、
今後の生活の”見える姿”は、悉(ことごと)く”神の子”の色彩に染まって
美しい有様(ありさま)があらわれて来るのである。
街(まち)も、家々も、お空も、雲も、庭木(にわき)も、小鳥も
悉く輝いて見える時が来たのである。
それはあなたの自覚が一変したからである。
見られる世界は見る人の心の反映であるから、あなたが実相世界の
完全な姿を、本当に信じ、心に描き、それに波長を合わせるようにする
ならば、実相世界の完全な姿が現象世界に投映されて現実化して来るので
ある。
それが地上に天国を建設する道であり、
「先ず神の国を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」という
イエスの訓(おし)え、を生活に実践することになるのである。
<感謝合掌 令和8年4月5日 頓首再拝>
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6:伝統
:
2026/04/06 (Mon) 04:50:51
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(4月6日)(P82)
神の継承者であるということ
人間は”神の子”である。
”神の子”であるということは神の持ち給まえる
一切の善きものの継承者であるという意味である。
神の無限の善きものは悉くそれを継承し利用し役立てる力
と権利と義務を与えられているのである。
あなたはその権利と義務とを履行しなければならないのである。
あなたは神想観して、自己の実相が”神の子”なる実際を充分自覚して、
本当に神の万徳を継承しなければならない。
「継承者である」ということと「実際に継承する」ことは異なるのである。
放蕩息子も親の財産を継承する権利を本来もっているけれども、
実際に継承させてもらえないかも知れないし、継承しても、
それを正しく使用しないで却って不幸をもち来すかもしれないのである。
即ち「継承者」であることと、実際に継承して、
親に喜んで貰えるようにそれを使うこととは別なことが判るであろう。
<感謝合掌 令和8年4月6日 頓首再拝>
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7:伝統
:
2026/04/07 (Tue) 05:01:23
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(4月7日)(P83)
常に実相を反映した言葉を語ること
私たちは、常に実相を反映(はんえい)した”善(よ)き言葉”
のみを語るようにならなければならないのである。
言葉は種子(たね)である。
そして言葉は創造者であるのである。
悪(あ)しき言葉の種子(たね)を播(ま)いておきながら、
善(よ)き結果がでて来ると考えるのはナンセンスである。
だから、あなたは善き言葉のみを発するのである。
決して人の悪(あ)しき事を語らないのである。
あなたは“善き言葉”のみを語るがゆえに、
人の吐(は)いた”悪(あ)しき言葉”の力を打ち消し、
その効果を無効ならしめることができるのである。
あなたは裕(ゆた)かなる事のみを語るから
貧乏(びんぼう)は自然に退散(たいさん)するようになり、
あなたは健康のみを語るから、病気はおのずから
消滅(しょうめつ)するに至(いた)るのである。
常にあなたが”実相の善(よ)さ”のみを視(み)
”実相の善さ”のみを語るようにするならば、
あなたの言葉には実相の権威(けんい)が自然に備(そな)わって来て、
あなたが”迷(まよ)いの言葉”や、”迷いの想念(そうねん)”の
あらわれている病気等(とう)に対して”消えよ”と念ずるならば、
その病気等が消えてしまうようになるのである。
<感謝合掌 令和8年4月7日 頓首再拝>
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8:伝統
:
2026/04/08 (Wed) 03:48:06
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(4月8日)(P83~84)
悪を認める「迷いの心」
神の根本創造の世界を「実相世界」と称するのである。
それは『創世記』の第一章に於いて神が一切のものを創造して、
「神その創造(つく)りたるものを見給いけるに甚(はなは)だ
善(よ)かりき」と仰(おお)せられた世界である。
ところが『創世記』第二章以下に「善悪を知る樹(き)の果(み)」
を人間が食して、神によってエデンの楽園から追放せられることが
録(しる)されているのである。
「善悪を知る樹(き)の果(み)」を食するとは、神が造りたまえる
すべてのものを見給いて「甚(はなは)だ善(よ)し」と宣言
せられた事に対する反論的見解の知識である。
即ち
「善のほかに悪もあるぞ」
「悪人もおれば、悪しき病気も病菌も存在するではないか」
という人間的見解の知識である。
そういう「善のほかに悪がある」という知識を、
『創世記』に於いては、蛇(地を這うもの)によって象徴されている
ところの五感による知覚意識によって教えられ、
その知識を「本当の智慧」だと思って食べた結果、
心にみとめるものが現象にあらわれるという法則によって
色々の不幸が出現するという真理をのべたのが、
「善悪を知る樹(き)の果(み)」を食べた結果
「楽園から追い出された」という物語によって象徴されているのである。
<感謝合掌 令和8年4月8日 頓首再拝>
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9:伝統
:
2026/04/09 (Thu) 05:04:00
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(4月9日)(P84~85)
尊貴無限の「自己」を観ること
宇宙には唯一つの「根本的心(こころ)」というものがあるのである。
その「根本的心(こころ)」を「神」というのである。
神の中に思い浮かべられた色々の思想(アイデア)が所謂(いわゆ)る
コトバである。
(「太初<はじめ>に言<ことば>あり、言<ことば>は神なりき ――」
『ヨハネ伝第一章』)
神は霊であり。霊とは現象的な頭脳から出て来る「心」ではなくして、
久遠不滅の「根本的な心」を指すのであり、その「根本的心(こころ)」
は心であるが故に「動く」のである。
物質は動けば運動となってあらわれるが、「心」が動けば「想念」と
なってあらわれ、想念は、やがて具体化され形の世界にあらわれるので
ある。
神の「想念」のうち、神の尊き属性を全部抱容して、万物を支配し得る
「最高の想念」即ち「神の像(かたち)」の如くあらわれたのが人間
であるのである。
「人間の本質」をなすものは神そのものの完全な肖像(すがた)を
表現する「想念」であるから、それが其の儘に、「迷いの雲」に
遮(さえぎ)られることなくして表現されれば、
健康で、幸福で、裕(ゆた)かで、美しく、あらゆる神の徳性を
あらわしたものとならざるを得ない筈(はず)である。
私たちは「迷いの雲」を去って、唯(ただ)、実相なる尊貴無限の
「神の像(かたち)」である自己及び他(た)ぼ人見なければ
ならないのである。
<感謝合掌 令和8年4月9日 頓首再拝>
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10:伝統
:
2026/04/10 (Fri) 05:04:54
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(4月10日)(P85~86)
本来この世界には不調和はない
この世界は本来、
一つの”根本的心”即ち神の智慧によって造られたのであるから、
すべての存在(人間及び一切の生物を含めて)は、その各々の
《あるべき》正しいポジションがあり各々その個性を発揮しつつ、
その《正しき位置に坐る》とき、
恰(あたか)も時計の歯車輪(はぐるま)は、その大きさも性能も
動きの方向も異なりながら、全体調和して摩擦なく快適に全体の
目的を達することができるのと同じように、少しも矛盾なく
摩擦なく快適に生活することができるようになるのである。
では、その正しき位置に坐るには如何にすべきか。
神想観をすることことである。
そして
「われ心を空(むな)しくして神のみこころに随(したが)わんことを
希(ねが)う。神のみこころの如くならしめ給え」
と念じつつ無我の心境に入(い)ること、数十分間、
かくの如くして神のみこころに完全に融合するとき、
神のみこころがあらわれて来て、
自分の坐(ざ)する位置が自分にとって正しくない位置であるときには、
自然の順序で、自分の境遇が変わって来て、全体と調和して自己の使命を
完全に果たし得るようになるのである。
<感謝合掌 令和8年4月10日 頓首再拝>
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11:伝統
:
2026/04/11 (Sat) 05:04:27
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(4月11日)(P86~87)
犯罪テレビ、犯罪映画を禁止せよ
神の智慧に叡(さと)きものは、善き事のみを語る。
悪しき事を語ることなかれ。
神という「根本的こころ」は善き事のみを語り、
善きコトバをもって一切の善きものを造り給うたのであるけれど、
人間は五官の感覚をもってものを知覚し、「悪しきものがある」との
知識を得て悪を語る。
悪を語るところに、悪はあらわれて来るのである。
大学教授の息子が一夜(や)に7軒の強盗をはたらいて捕われ、
中学生が停車中の自動車を盗乗してガソリンがつきると乗り棄て、
更(さら)に次の自動車を盗乗して犯罪を重ねたと新聞は報ずる。
此等(これら)は真(まこと)に犯罪映画や犯罪テレビがそのような
「悪」を表現し、表現は広義の意味のコトバであるから、
コトバは造る力があり、テレビや映画が犯罪映画を表現すれば
するほど、それは「犯罪の種」を播(ま)いているのであり、
自然に犯罪を現実界に表現することになるのである。
犯罪テレビ、犯罪映画の禁止ということが、
このような犯罪の根を断つために非常に必要なことなのである。
<感謝合掌 令和8年4月11日 頓首再拝>
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12:伝統
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2026/04/12 (Sun) 05:04:37
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(4月12日)(P87~88)
先ず叶えられた願いに感謝しましょう
朝目がさめた時、神に感謝いたしましょう。
眠っている間も守護されて、生きていたことを感謝いたしましょう。
神が若(も)し、あなたの”生命(せいめい)”を引きとって
しまったらあなたは今朝(けさ)は生きていなかった筈(はず)で
ありますのに、こうして今朝(けさ)も生きているという事は、
生きているのではなくて、
全(まった)く「生かされていた」ことにほかならないのです。
そして昨日(きのう)自分の思いが叶えられていた如く、
今日(きょう)もまた自分の思いが既に叶えられる事になっている
事を想い浮かべて感謝いたしましょう。
「だって、昨日(きのう)だって私の思いは叶えられなかったのに」
とあなたはおっしゃるのですか、そんな考えがいけないのです。
無論、叶えられなかった思いもあるでしょう。
しかし、その願いは「叶えられる」ために近づきつつある途上に
あるかも知れないのに、「叶えられない」という思いを起して、
その”実現の力”を中断してしまうのは、まことに拙(まず)い
事だといわねばあんりません。
また実際叶えられた事柄も随分沢山あるではありませんか。
顔を洗うのに水もあったし、腹が減っているのに食事をいただけたし、
空気を吸いたいのに空気を与えられたし、着物を着たいのに着物も
与えられたし、お茶を飲みたいのにお茶を与えられたし、
すべてこれらの事は、あなたの願いが叶えられた事柄であって、
それに感謝しないで、叶えられない方面ばかりを心に留めて
それに不平をいってはならないのです。
与えられたもの、願いの叶ったものに、
「私の願いを既に叶えて下さいまして、ありがとうございます」
と感謝していれば、次の願いも叶えられる事にあるのです。
<感謝合掌 令和8年4月12日 頓首再拝>
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13:伝統
:
2026/04/13 (Mon) 05:00:04
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(4月13日)(P88~89)
現象を超えて実相を観る思念語
次の如く念ずるがよい。
「私の願いは既に叶えられました。ありがとうございます。
まだ叶えられない願いは、今叶えられる途中にあるのでございます。
私は毎日一層、私の実相なる”神の子”の完全さが現実に
あらわれつつあるのであります。
現象がまだ不完全でありましょうとも、
私な既に実相の完全さを覚(さと)りましたから、
現象の不完全さに引っかかって悩む心を克服いたします。
私は毎日一層、ふるき”現象人間”の皮を脱いで、
実相が一層完全にあらわれ新しき人間になりつつあるのであります。
それですから、
常に一層善きものが私の方へ集まって来つつあるのでございます。
一見事物が悪しきように進行しつつあるかの如く見えます時にも、
それは迷いの現象が自壊しつつあるので、それは屹度(きっと)
一層善きものがあらわれる過程であると信じて、
私は唯(ただ)今(いま)換気に満たされているのであります。
私は今、現象世界に引っかかる心を完全に克服し得て、
実相常楽の世界に住んでいるのでございます。
ありがとうございます」
<感謝合掌 令和8年4月13日 頓首再拝>
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14:伝統
:
2026/04/14 (Tue) 04:56:56
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(4月14日)(P89~90)
あなたは神から”愛”の力を譲られている
神は愛であり給い、あなたは”神の子”として神の後継者(あとつぎ)
であるから、無限の愛の力も譲られているのである。
あなたはすべての人を”愛する”のである。
”愛する”とは”女(おんな)を愛する”ことや、
男女互いに性的に愛撫することではないのである。
”愛する”とはもっと神聖なることである。
最も神聖なることである。
相手の人格の神聖性を尊び、その神聖性が現実に伸びて来るように
心で尊敬し礼拝し、行為によって扶(たす)けてあげることである。
そのために相手に現象的な”悪”があらわれていても、その”悪”に
自分の心が引っかかって、その人をあしざまに罵(ののし)ったり
することをしない。勿論、相手を憎まない。
そして本来その人が”神の子”である実相を引き出すように、
その美点をみとめて称(ほ)めてあげるのである。
以上の如きが本当に”愛する”のであって、キッスや肉体の接触を
楽しみたいなどというのは”愛”ではないのである。
<感謝合掌 令和8年4月14日 頓首再拝>
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15:伝統
:
2026/04/15 (Wed) 05:06:39
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(4月15日)(P90~91)
愛をもっと純化しよう
神は、あなたが、純粋に神から譲られた愛をもって
人々を愛するとき、神はあなとたを祝福したまう。
あなたは屹度、その善き報いを恵まれるにちがいないのである。
あなたは祝福され、健康と、繁栄と、生き甲斐と、魂の悦びとが、
”わがもの”となるのである、
神からの祝福は、象(かたち)に具体化して
色々の功徳となるのである。
人間関係は到る処に於いて円満に調和して来(き)、
すべてが調和して順調に事が運(はこ)ぶようになるのである。
この人よりも、あの人の方が好きだというのは、
人間の感情であって、人間の感情は神さまから戴(いただ)いた
”絶対の愛”ではないのである。
どんなに醜い形をしている者でも、苟(いやしく)も、
相手が人間である限り「愛する」のが神から戴いた本当の愛である。
差別のある愛には、自己中心的な不純なものが含まれいるのである。
それは”愛”の形をした執着であることが多いのである。
だから釈尊は、さとりを開かれたとき諸愛を悉(ことど)く解脱して
”本当の愛”即ち大慈悲心に超入せられたのであった。
不純な愛から解脱することが本当の愛に超入する門である。
<感謝合掌 令和8年4月15日 頓首再拝>
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16:伝統
:
2026/04/16 (Thu) 03:45:52
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(4月16日)(P91)
実相界の風光を観る
外界は内界の投影でしかないのである。
無論、外界に《ものそのもの》実在しないのではないのである。
実在は到る処にある。
しかし私たちがそれを知覚するのは、自己の感覚器官を通して、
それを自分風に翻訳して認めるのである。
それは恰度(ちょうど)、色眼鏡をかけて外を見るようなものである。
緑色の眼鏡をかけて見れば自分の住む世界が緑色に見え、
赤色の眼鏡をかけて見れば自分の外界が赤色に見見えるのと同じである。
私たちは眼鏡を外(はず)して素通(すどう)しになって、
神の創造(つく)り給うた《そのまま》の世界
実相世界を見るようにしなければならないのである。
それが神想観である。
神想観によって私たちは、この世界に神の智慧と愛と生命(せいめい)
と調和と豊富とが満ちみちている有様(ありさま)を観るのである。
ひとたび五官の眼を瞑(つぶ)って実相世界の美しき妙(たえ)なる
相(すがた)を見るとき、今より後(のち)、嘆きも悲しみも恐怖も
不平もいかりも患(わずら)いもあり得ないのである。
あなたは今、神の生命(せいめい)を呼吸し、神の智慧を呼吸し、
神の愛にとりまかれ、神によって愛され、護られている実相を観る
のである。
<感謝合掌 令和8年4月16日 頓首再拝>
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17:伝統
:
2026/04/17 (Fri) 05:01:02
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(4月17日)(P92)
”神の子”として愛の権化に
私たちは、今、神の絶対の愛に包まれているのである。
神の絶対の愛の炎は一切の冷たきものを無くするのである。
神の絶対の愛のあらわれるとき冷酷なる批判は消え、
冷戦は消滅し、闘争はなくなり、摩擦はなくなり、
一切の存在は完全に調和したものとなるのである。
愛はよく耐え忍ぶ、容易に昂奮して相手に
竹箆返(しっぺいがえ)しをすることはないのである。
愛は表面を見て相手を誤解することはないのである。
愛は現象的表面の醜さの奥にある美しきものを見る。
愛は愛を呼び出(だ)し、反抗するものを従順ならしめ、
敵と見える者を味方に変えることができるのである。
愛は調和を引きつける磁石である。
如何なる寂しさも憂鬱も、愛のあるところには消えてしまうのである。
愛は神である。
あなたは”神の子”であるから愛に満たされているのである。
<感謝合掌 令和8年4月17日 頓首再拝>
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18:伝統
:
2026/04/18 (Sat) 04:36:20
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(4月18日)(P92~93)
神より出ずるものは無限
生命(せいめい)は神より出(い)ずるものであるから、
使い禿(ち)びてしまうことはないのである。
それを使えば使うほどその表現力を増大するのである。
使わない生命(せいめい)は委縮してしまうのである。
プロレスの選手や、相撲とりの肉体は常にその生命力を
筋肉の方面に使うがゆえに、愈々益々筋肉が発達して
美しき筋肉美を発揮しているのである。
小説家は美しき人間関係の筋を、異なる小説を書く毎にまた
新たな捜索をするのであるが、真に熱意をもって書き綴る作家には
その構想も無限にして、尽きるということはないのである。
あなたの生命(せいめい)も智慧も愛も神より出(い)ずるもの
であるから、今どんなに素晴らしい生命(せいめい)や智慧や愛の
表現があろうとも、明日(あす)は尚一層素晴らしいそれらの
表現があるのである。
無限に進歩してやまない宇宙旅行の構想の如きも、
神の無限の智慧の表現であるのである。
出(だ)せば出(だ)すほど益々伸びるのが神の智慧である。
<感謝合掌 令和8年4月18日 頓首再拝>
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19:伝統
:
2026/04/19 (Sun) 04:58:29
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(4月19日)(P93~94)
永遠に老いざる自己を自覚せよ
あなたは”神の子”であるところの
素晴らしき実相を自覚したのであるから。
決して実相を蔽(おお)い隠すような言葉や
悪しき言葉を吐くことはないのである。
自分が他(ほか)から、そんなに言われたら
辛いような言葉を決してあなたは吐かないのである。
あなたは”神の子”であるから一種の光体みたいなのものである。
あなたの行(ゆ)くところ闇を消え、暗黒はなくなるのである。
あなたは”神の子”であるから、「これ以上は”行き詰まり”」
などということはないのである。
常に明日は今日(きょう)より一層善くなり、一層豊かになり、
一層楽しくなるのである。
老衰などということはあり得ないのである。
老熟ということはあるにしても、決して衰弱するということは
ないのである。
「現実に衰弱して来た」などという事勿れ、それは単に人類意識の
表現であって、あなた自身が老衰しているのではないのである。
あなたの実相は”神の子”であり、久遠不滅の生命(せいめい)であり、
老いることなく、衰えることなき永遠に若き生命(せいめい)である
のである。
<感謝合掌 令和8年4月19日 頓首再拝>
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20:伝統
:
2026/04/20 (Mon) 04:26:27
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(4月20日)(P94~95)
祝福する者は祝福される
神はすべての親様であり、
人間はみな神の子であり、
人類互いに兄弟であるのであるから、
あなたは、自分以外の人々の成功や出世や金儲けや諸々の幸福を
自分の得たる幸福の如く、それを悦んであげ、更に一層の幸福を
彼らが得(う)るように祈ってあげるのである。
これを”同喜の心”と称して、
この心を得た人は余程心境が高くなっているのである。
人の幸福を羨(うらや)んで、「彼がもっと不幸であればよいな」
などという「人の幸福を否定する心」がちょっとでも自分にあるとき、
その「幸福を否定する心」が自分自身から発するのであるから、
自分自身の幸福をも否定することになり、
やがて訪れようとしている自分の幸福に対して
門を閉ざしてしまうことになるのである。
或る例では、父がその妻を失って暫くの後(のち)に後妻をもらった。
その父の娘はその後妻を継母(ままはは)として厭(いと)わしく思い、
父の《結婚を否定する心》を起した。
その結果、自分に縁談が起こっても九分九厘のところで
成立しなくなるのであった。
その娘が父の結婚を祝福してあげるようになったとき、
間もなく良縁が得られて今は幸福な家庭を築いているということである。
すべて己より出(い)ずるものは己に還るのである。
<感謝合掌 令和8年4月20日 頓首再拝>
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21:伝統
:
2026/04/21 (Tue) 05:04:24
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(4月21日)(P95~96)
萬教を真理の奥殿に招待するもの
「自分」という狭い固い殻の中に、「自分の考え」という狭い先入観を
持ち続けている限り人間は幸福にはなれないのである。
自己否定が一たんは是非必要なのはそのためである。
仏教で”無我”と説き、キリスト教で
「凡(およ)そ天国に入(い)る者は、その幼児(おさなご)の如き者である」
とイエスがいったのは、
幼児(おさなご)の如く「親の処置に全托し切って無我になっている者」
が本当に天国即ち「実在の世界」(実相)にあるすべての恵福(けいふく)
を素通しに投影して、その恵福を実現し得ることができることを訓(おし)
えたのである。
「われわれが心を空(むな)しくして神のみこころを聴かんことを欲す。
みこころを我に示したまえ」
このように神想観中に念じて、無我全托の心境の中に《ただ》坐るのである。
”只管打座”と道元がいったのは《それ》であり、
”一向専心念仏”と真宗に於いて説かれているのはそれである。
すべての宗教は唯(ただ)一つの真理を説くのであるけれども、
道を伝える人が”派閥の心”を棄(す)て切れず、”自分の宗門”を
護るに急(きゅう)であって、他(た)の宗門をけなそうとするから、
いたずらに”門(もん)”のみ多くして、真理の奥座敷が何処(どこ)に
あるか分からないのである。
その真理の奥座敷を指示(さししめ)して、その奥座敷に萬教を
ゲストとして招待する教え ―― これが生長の家である。
<感謝合掌 令和8年4月21日 頓首再拝>
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22:伝統
:
2026/04/22 (Wed) 05:00:08
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(4月22日)(P96~97)
あなたは”神の子”であり奴隷ではない
一切万事われより出(い)でて我(われ)に還るのである。
あなたは”神の子”であるから、決して何事にも、何物にも、
何人(なんぴと)にも、如何なる環境にも支配されるような
弱小者ではないのである。
如何なる環境も、あなたの身辺にあらわれる凡(あら)ゆる人間、
あらゆる事件はことごとく、あなたの神通自在の心が、心に描いた
想念感情の姿にまで、すべてを展開せしめたのである。
それは恰(あたか)もプラレタリウム(天象儀)が中心に於いて
機械を回転するならば、それと同時に、仰ぎ見る天空の全部の星
がその回転するままに位置を変ずるのと同じことであるのである。
プラレタリウムの観望室に入(はい)って仰ぎ見るところの
空の星は、実は「外」にあるのではなくて、中心に据えつけてある
機構の「中(なか)」にあるのである。
それと同じように我々の外界にあらわれて来る一切の《すがた》は
すべて自分の「心」の中にあるものが外界に展開したに過ぎない
のである。
「外の物」があなたを縛るのではなくて、「内(うち)にある心」が
自分でそれを展開するのであるから、あなたは常に自主的存在であり、
奴隷ではないのである。
<感謝合掌 令和8年4月22日 頓首再拝>
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23:伝統
:
2026/04/23 (Thu) 05:03:33
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(4月23日)(P97)
”我(が)”の殻を破って神と融合しましょう
小さな”我(が)”の殻を破って、神の導きに直接触れるとき、
神は無限の智慧であり、愛であるから、その導きがあらわれて来て、
何時(いつ)、何処(どこ)で、如何なる人と、何をすべきかが
インスピレーション的に、また”虫の知らせ”式に知らされることに
なるのである。
それゆえにあなたは是非とも毎日、1、2回は神想観を実修して、
神と融合するように努めるべきである。
そして本当に神との融合を得られるならば
「我(われ)神と偕(とも)にあり」の自覚によって、
何事をなすにも自信ができて来、恐れることや、
取越し苦労をする必要がなくなり、
従って思い切って断行して、機会を速(すみ)やかにとらえる事が出来、
物事(ものごと)に成就のチャンスが多くなり、
精神が自信と信頼とによって安定するから、ストレスがなくなり、
血圧も下がり、健康が増進し、長寿が自然に得られる事になるのである。
まことに神想観を修して「我(が)」の殻を破る功徳は限りないのである。
<感謝合掌 令和8年4月23日 頓首再拝>
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24:伝統
:
2026/04/24 (Fri) 04:19:55
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(4月24日)(P97~98)
問題を先ず神にゆだねて
かくて、あなたは日常生活のあらゆる場面に於いて神から導かれ、
神から創造の”催(もよお)し”を受け、色々の新しい考案や計画や
発明や創作のアイディアが滾々(こんこん)と湧き出(で)て来る
ようになるのである。
神は決して、お宮やお厨子(ずし)という箱の中《のみ》にその存在を
限定させているような窮屈な、自由のきかぬ存在ではないのである。
神は宇宙に満ち、到る処に、あなたの内に、あなたの周囲に、そして
何処(いずこ)のも満ち充ちてい給う存在であるから、何処(どこ)
に何があり、あなたに何が必要であり、その必要なものをどの経路を
通してあなたに引き寄せれば最もよいかを知っていられるのである。
肉体の「小さい自分」で、”如何にしようか”とクヨクヨ思うことを
止(や)めなさい。
あなたの問題を、先ず神想観して神に告げなさい。
そして神の導きを待ちなさい。
その時すべての先入観念や既成概念を棄(す)てて、心を白紙にして、
白紙に何があらわれるかを待つような気持であることが大切なのである。
<感謝合掌 令和8年4月24日 頓首再拝>
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25:伝統
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2026/04/25 (Sat) 05:05:32
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(4月25日)(P98~99)
人間誕生の神聖性
あなたが此の人生に生まれて来たことは、
まことに素晴らしい事なのです。
神はその大自然力をもって鉱物植物動物等の
いろいろなものをお造りになりましたが、
それらすべてのものは神の創作であり、神につくられたもの
―― 被造物に過ぎないのであり、神の属性の一部分が
表現されているに過ぎないのであるけれども、
人間は単なる被造物ではなく、
神御自身の最高の自己実現であるのである。
神が無機物的な”大自然の力”をもってしては成し遂げ得なかった
色々の精巧な仕事を、神が”人間”という知能的人格として現われ給うて、
成し遂げようとなさるのが、この世に”人間誕生”の意義であるのである。
人間誕生の、この神聖なる意義を忘れて、単に人間を肉体的****の
因果関係の産物として自分が生まれて来たのだというような
「根本的劣等感」から、人生の色々の罪悪が生じて来るのである。
吾々は自己存在の根元をもっと神聖なものに認得たとき、
人生は全く異なる光で観ることができるのである。
*初出は『生長の家』(昭和39年5月号)。
<感謝合掌 令和8年4月25日 頓首再拝>
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26:伝統
:
2026/04/26 (Sun) 05:00:01
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(4月26日)(P99~100)
常に實相を観て善のみを語る
次の如く念ぜよ ――
いま私たちは人間誕生の神聖性を知り、生き甲斐を感ずることができ、
無限の悦びに満たされているのである。
人間は神の自己顕現であることを知ったのであるから、
今後決してつまらない無価値の言葉を語らないのである。
少なくとも私は、真理の言葉を語り、人を生かす事を語り、
人に悦ばれることを語り、智慧の言葉を語り、愛の言葉を語り、
調和の言葉を語り、美しき言葉を語る。
今後決して、周囲の人々の言葉に釣り込まれて、
確証もない想像による人の悪しき事については語らないのである。
たとえ確証があっても、その人を傷つけることは語らないのである。
現象に如何なる事があっても、その人の実相を観じて、
その人の善にして完全なる実相を観じて、
その人の善にして完全なる実相があらわれることを念じ、祈り
いたずらに周囲の人々の悪評に雷同するような事をしないのである。
人の悪を想像し、それを心に描くことは、
自分の”心のカンバス”に醜(みにく)い絵を描くことであり、
自分自身を汚(けが)す事だと知るのである。
*初出は『生長の家』(昭和39年5月号)。
<感謝合掌 令和8年4月26日 頓首再拝>
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27:伝統
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2026/04/27 (Mon) 05:03:20
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(4月27日)(P100)
神の自己實現ということの意味
人間が神の自己実現であるということは、
単に抽象的な言葉で人間の存在を意義づけしたことではないのである。
神があなたを通して語り、
神があなたを通して行為し、
神があなたを通して愛し、
神があなたを通して創造し、
神があなたを通して生活するということである。
*初出は『生長の家』(昭和39年5月号)。
<感謝合掌 令和8年4月27日 頓首再拝>
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28:伝統
:
2026/04/28 (Tue) 04:56:48
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(4月28日)(P100~101)
既に”神の子”となりしとき罪はない
あなたは、今日(こんにち)、人間は”神の子”であり、
”肉の子”でない事を本当に深く知ったのであるから、
あなたは、新たに生まれ変わったのである。
肉体で見たならば以前の同じ人間であるけれども、
中味が生まれ変っているのである。
”意識”が生まれ変わったときが人間の生まれ変わりである。
人間の本体は、”意識”であるから、意識が生まれ変わったとき、
もうあなたは”過去の人”ではないのである。
過去に何があったにせよ、過去にどんな罪を犯したにせよ、
それはあなたが”肉の子”であるという”意識”が行なっていたので
あって、
”肉の子”の意識が犯したところの罪は、”肉の子”が消えて、
”神の子”があらわれたときに、その罪が引きつがれるということは
無いのである。
既にあなたは神の子として真清浄(しんしょうじょう)・真無垢の
霊的実在であるのである。
既に”神の子”ということを自覚したとき罪が消えることを称して
「キリストに来(きた)れる者は罪が釈(ゆる)される」と言うのである。
キリストとは「真理」のことです。
「キリストに来(きた)る」とは「歩いてキリスト様の側(そば)へ行く」
ということでも「教会という建物の門に入(い)る」ことでもないのである。
自分の意識が、
「自己内在のキリスト」(註・仏教では”内在の仏性”という)に
振り向き、それと一体となることである。
<感謝合掌 令和8年4月28日 頓首再拝>
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29:伝統
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2026/04/29 (Wed) 02:55:49
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(4月29日)(P101~102)
汝自身の内在の仏性に目覚めること
あなたが「自己内在のキリスト」に振り向き、
そして内在のキリストと一体となるとき、
キリストの愛があなた自身に蘇生(よみが)えるのである。
教会のキリスト教信者になるということと、
内在のキリストを自覚して生活することとは別である。
キリスト教会に毎日通っていながら、自己内在のキリストを知らず、
自分自身が「キリストの宮(みや)」であることを知らない人もある。
”キリスト”という語(ご)を使うからキリスト教になることだと
思い違える人もあるのであるが、「内在のキリスト」を自覚するという
ことは、仏教的に言えば「内在の仏性」を自覚することである。
宗教の相違によって用語が異なり、全く同じ内容を別の語(ご)で
説くものだから、異教邪宗のように誤解する者を生ずるのである。
神は普遍的で偏執(へんしゅう)のない無限の愛であるから、
何々教にならねば救われぬとか、何々宗にならねばたすけぬとかいう
ようなケチな存在ではないのである。
<感謝合掌 令和8年4月29日 頓首再拝>
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30:伝統
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2026/04/30 (Thu) 05:03:59
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(4月30日)(P102~103)
物質文明の極まるところ
ひとたびあなたが”肉体的自己”から一転して霊的自我の自分に
蘇生(よみがえ)ったとき、あなたは」エデンの園を奪還するのである。
見るもの感ずるもの悉く新鮮に、生き生きとして感じられる。
どんな不完全なものも、あなたの霊的感覚の前には
姿を消してしまうことになるのである。
あなたは到るところに精妙なる神の智慧の自己実現を見る。
それを文章であらわせば名文となり、それを描けば傑作の絵画となり、
それを彫(ほ)り刻(きさ)めば傑作の彫刻となる。
あなたは凡(あら)ゆるところに神のみ声をきく。
それは二重人格的に耳から別の声が聴こえてくるような異常性格者の
それではなく、風のひびき、波の音、虫の啼き声、小川の流れ、
小鳥の囀(さえず)り・・・悉く皆神の音楽として
あなたの心を悦ばせてくれるのである。
白雲のただよい、登る太陽、沈む落日(らくじつ)、
太陽に映(は)える濤(なみ)の姿、金鱗(きんりん)、銀鱗、
山々の曲線、山肌の美しさ、岩壁の高く聳(そび)えたる、
樹(き)の根の蟠屈(はんくつ)せる
・・・悉くこれ神の創作になる絵画であり、彫刻である・・・
それらの美をこわして自動車の交通路とした無暗矢鱈(むやみやたら)に
鉄橋を立体交叉に走らせてそれを文明の発達だと思いちがっている
人々がある。
それが本当の文明の発達でない証拠に毎日欠かさず発生している
衝突事故を見るがよい。
あゝ、われら霊的文化の発達を待ちのぞむ。
<感謝合掌 令和8年4月30日 頓首再拝>