伝統板・第二

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「お母さん、ありがとう」 - 伝統

2015/05/09 (Sat) 04:42:11

『年中無休・年中無給』

日経新聞のコラムに、なるほどと思った文章があったので、かいつまんで紹介します。



ネットに、とある企業の広告動画が載っていたそうです。

その会社は、面接に来た応募者に、以下ように自社を紹介するのだそうです。


「職種は現場総監督です。

原則1日24時間勤務。

年間365日、休暇はありません。

食事は同僚が食べ終わってからです。

徹夜で働いてもらうこともあります。

サラリー? そんなもんはありません。

無給です。

でも世界で一番大切な仕事です。

どうですか、やってみませんか?」



いったい何人が就職するというのでしょう。


意外や意外、この職業には世界で数億人が就いています。

しかも現場監督の合間を見て、時給でアルバイトする人たちも少なくありません。

そして帰ってまた、同僚たちの生活のために働くのです。


・・・・・・・・・・・


いまでは考えられないことですが、
我々が子供のころは、タライで洗濯板を使って洗濯していました。

七輪で火をおこし、みそ汁を作り、かまどでご飯を炊きます。

しかも休日なしの毎日です。


きちんとやっても誰も褒めてくれませんし、評価もありません。

一通りの激務が終わると、幼い妹よ弟を負ぶって出かけます。

帰ってくるのはいつも夕方でした。


そこからまた家族全員の食事の世話をし、寝るのはいつも一番最後。

そして最初に起きて仕事を始めます。

文句も言わず、ただ黙々と働いていた、そんな母の後姿を見て育ちました。


どうにか間に合って、少し楽をさせてあげられている方もいるかも知れないけれど、

この言葉を、どれだけ素直に言ってきただろうか。



「お母さん、ありがとう」



明日の日曜日(5月10日)は「母の日」です。



<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板「母の大恩 (964)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=224   

(2)“本流宣言”掲示板「お母さんの偉大な力 (4535)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=943    

(3)“本流宣言”掲示板「いのちが響き合う (8809)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2067     

(4)光明掲示板・第一「母の日~「心に響く”いい話”」」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1546     

(5)光明掲示板・第二「母 (8071)」からの継続です。
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1610  

(6)光明掲示板・伝統・第一「母の愛」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=28     


           <感謝合掌 平成27年5月9日 頓首再拝>

《母の日、感涙動画の紹介》 - 伝統

2015/05/10 (Sun) 04:52:28


(1)感動CM 母の日
    → https://www.youtube.com/watch?v=_5YEsRZ2Ngk


(2)東京ガス CM 家族の絆・お弁当メール篇
    → https://www.youtube.com/watch?v=Xgp3aPR-llM&list=RD_5YEsRZ2Ngk&index=3


(3)【日本語字幕】感動的なタイのCM「母と息子」-
    → https://www.youtube.com/watch?v=YpHQkRibNj8


            <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

【念ずれば花ひらく】 - 伝統

2016/05/08 (Sun) 04:32:25



(今日、5月8日は「母の日」)

         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年05月07日)より

   (臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…)

   坂村真民先生は生涯を通じて、母の恩に報いようとされた方です。
   私たちがよく知っている「念ずれば花ひらく」というこの言葉も、
   真民先生の詩に記されていたものです。


   「念ずれば
   花ひらく

   苦しいとき
   母がいつも口にしていた
   このことばを

   わたしもいつのころからか
   となえるようになった

   そうしてそのたび
   わたしの花がふしぎと

   ひとつひとつ
   ひらいていった」

           《念ずれば花ひらく》


   真民先生の母親はまだ36歳の若さで、小学校の校長だった夫を亡くしました。
   それまで裕福だった一家の暮らしは激変します。

   11歳の姉を頭に8歳の真民先生、6歳、3歳、生後11ヶ月の5人の子どもを抱えて、
   若いお母さんは途方にくれたことでしょう。

   それでも真民先生の母親はわが子を一人も手放しませんでした。
   大変愛情深く、意思の強い方だったことがうかがえます。

   父親が亡くなってまもなくのこと、母親の実家から祖母がやってきます。

   11歳の長女と8歳の真民先生、6歳の妹の3人を養子か奉公に出し、
   幼い子二人をつれて実家に戻るように説得しに来たのです。

   今の人たちが聞くと、ひどい話に思えますが、あの時代ではそれが当然でした。
   むしろ良識的な判断だったと思います。

   しかし、真民先生の母親は説得に応じませんでした。

   狭い家でしたから、真民先生はじっと息をひそめてそれを聞いていたというのです。

   説得は昼間から始まり、夜になっても続きました。
   それでも母親は首をたてに振りません。
   時計の針がとうとう深夜零時になっても、母親は説得に応じない。

   午前1時になっても、8歳の真民先生は一睡もできずに、
   隣の部屋で耳をそばだてていたのです。

   母親は最後の最後まで説得に応じませんでした。
   祖母はあきらめて帰って行きました。

   もし説得に応じていたら、その明くる日から
   子どもたちはバラバラになっていたでしょう。

   どんな一生になっていたかわかりません。


   母が頑張ってくれたおかげで、自分たちはひとつ屋根の下にとどまることができた。

   8歳の真民先生は母の愛を全身で感じたといいます。

   これが真民先生の原点となりました。


   それから母親の苦労は筆舌に尽くしがたいものでした。
   貧乏のどん底の暮らしが続きます。

   その中で母親が口ぐせのように言っていたのが
   「念ずれば花ひらく」という言葉でした。


   自分はどんなに苦労をしてでも、
   5人の子どもたちに決して寂しい思いをさせないのだという、
   その願い、母の強い思いが「念」という強い言葉にこめられているのです。

   今の若い方は「念」というと、念力のようなものを連想して、
   念力で花がひらくのかと誤解する人もいるようです。

   しかしこの詩の意味はまったく違います。

   母の愛、母の強い思いのことを「念」という言葉で表しているのです。

   5人の子どもたちは誰一人として戦争や病気で死ぬ者がいませんでした。
   それはひとえに母の強い愛、強い思いのおかげです。

   その母の思いを少しでも人々に伝えていきたいという願いがほとばしって、
   結晶になったのが『念ずれば花ひらく』という詩だったと、
   真民先生は語っています。

      <『二度とない人生だから今日一日は笑顔でいよう』PHP研究所>

                ・・・

今どんなに偉くなっている人であろうと、若い人も年配者も、男も女も、
誰一人として自分の母親の世話になっていない人はいない。

お乳を飲ませてもらった

オシメをかえてもらった

着替えさせてもらった

ご飯を食べさせてもらった

病気のとき看病してもらった

抱っこしてもらった


もし、母親がいなければ、この世に生まれ、生きていくことができなかったのに、
我々はそのことを忘れている。

それは、見かえりを求めない、ただ与えるだけの無償の愛…


「念ずれば花ひらく」

恩を感じ、感謝の気持ちを忘れずにいたい。

・・・

<関連スレッド:一日一言(坂村真民)
        → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6747223 >

            <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

【あなたに褒められたくて】 - 伝統

2016/05/09 (Mon) 04:24:58


           *メルマガ「人の心に火を灯す」(2016年03月07日)より

   (高倉健氏の心に響く言葉より…)

   あれがいやだ、これが嫌いだと言っているうちにこういう年齢になってしまいました。

   だから、やっぱり母親の教育ってのは、すごく影響ありますよね。

   スパルタでね…。

   魚が嫌いだっていうと、わざわざ頭のついている姿のままのやつ。

   母は、

   「乃木大将は食べるようになるまで、食べさせられたのよ」

   「乃木大将になんかなりたくないよ」とか言ってね。

   それで大人になっても、結局は食わないですものね。


   ぼくの母は、本当に僕が残したものは、十日間くらい出しましたよ、続けて。
   単なる依怙地ですよね。
   それは…。

   小学校へ上がってすぐ、肺湿潤に冒されて、
   安静にしたまま、治るのに1年かかったんです。

   この病気は肺結核の初期とかで、
   そのころはまだ伝染病として恐れられていたんです。
   コメカミに細い青い血管が浮いたような顔で一人、離れに寝かされていた。
   学校も2年生の1年間、休学したんです。

   この間、母は、毎日毎日ぼくに鰻を食べさせた。
   まだ川に鰻がたくさんいたころで、近くの人が釣って魚屋に卸すものを、
   買ってくるらしかった。

   肺病の息子に、鰻を食べさせてなんとか滋養をつけさせたい、
   という母の気持ちは、子ども心にもわかりましたが、毎日の鰻はつらかった。

   それで、鰻は今でも一番苦手なんです。
 
   明治の女だったですからね、母は。

   歯ブラシなんか、勿体ないって、もうすり減っちゃって毛なんか曲がっちゃってんのに、
   ほとんど柄で磨いているような歯ブラシで…捨てんの勿体ないって言うんですよ。

   それで磨くから歯茎がすり減っちゃって。
 
   「母さんね、こんな機械があって、電気でこうやって」って。

   「バカ」って言ってましたよ。

   「そんな歯を磨くくらいで、そんな贅沢をして」って。


   あの『八甲田山』やって、母が見に行った後、

   「あんたも、もうこんだけ長い間やってるんだから、
   もうちょっといい役やらしてもらいなさいよ」って言う。

   「もうその雪の中ね、なんか雪だるまみたいに貴方が這い回って、
   見ててお母さんは・・・切ない」って。

   僕が荒れ性であかぎれが切れたり、いろいろするってのよく知ってるんですよ。


   仁侠映画のポスターでね、入れ墨入れて、刀持って、後ろ向きで立っているやつでね。
   全身の。肉絆創膏を踵(かかと)に貼ったんですよ。それを、

   「アッ、あの子、まだあかぎれ切らして、絆創膏貼っとるばい」って。

   見つけたのは、おふくろだけでした。

   全身のポスターで、誰も、気がつかない。

   「あんたがね~可哀想」


   僕の映画は、大体観てたみたいですね。
   だけど妹たちがいやがってました。

   やっぱり母親で見るから役で見ないんですよね。
   独り言がだんだん多くなってきて、恥ずかしくて連れていくのがいやだって。

   「後ろから斬るとね。そんな卑怯なことして」とか言うんですって。

   「つかまえてみろ」とか「逃げなさい」とかね。

   そういうことチョコチョコと言うんで、周りの人に恥ずかしくって、
   一緒に行くのがいやだって、だんだん言ってましたね。


   毎年、写真送ってきてましたよ…離婚して…2、3年たってから、
   毎年お見合い写真みたいなのに履歴書入れてね。
 
   母の家系って、教育者が多いんですね。

   中学校の校長先生とか…母も先生でした。

   『一人になって可哀想・・・』といつも書いてました。

   『あなたが不憫だ』って、それはいつも書いてありましたね。

   僕が何かのロケへ行ったりして、ワッと囲まれたとか、
   ファンレターがなんとかってそういうのいっさい見たことないですから。

   想像できないんですね、ぼくの生活が。

   『帰っても誰もあなたを迎える人がいない。それを思うと不憫だ』って、
   毎回書いてありましたよ。


   「お母さん、あなたが思っているより、
   僕ずーっともててるんだよ。教えてやりたいよ本当に」

   「バカ」って言ってました。

   頑固で、優しくて、そして有難い母だったんです。


   自分が頑張って駆け続けてこれたのは、
   あの母(ひと)に褒められたい一心だったと思います。

 
   そして…。

   この母が本当に逝ったとき、自分は告別式に行かなかった。

   『あ・うん』の大事なシーンを撮影しているときでした…。

   葬式に出られなかったことって、この悲しみは深いんです。


   撮影の目処がついて、雨上がりの空港に降りると、
   いつものように電気屋の門田ちゃんが出迎えてくれた。

   彼も自分の気持ちを察してくれて、長い無言の車内。

   実家へ行く途中、菩提寺の前で、車を停めてもらって、母のお墓に対面しました。

   母(おふくろ)の前で、じーっとうずくまっているとね、
   子ども(ガキ)の頃の事が、走馬灯のようにグルグル駆けめぐって…。

   寒い風に吹かれて、遊んで帰ると膝や股が象の皮みたいになってて、
   それで、風呂に入れられて、たわしでゴシゴシ洗ってくれたのが痛かった。

   そのときの母のオッパイがやわらかかったこととか、踵にあかぎれができると、
   温めた火箸の先に、なにか、黒い薬をジューッとつけて、割れ目に塗ってくれた。


   トイレで抱えてもらって、シートートー、とオシッコをさせてくれたり、
   反抗して、シャーッと引っかけたり。

   なにか、そんなことばかりが頭の中にうず巻いて。

   はいていたチノパンツが、濡れて、それが冷たくて、ハッと気がついたんですね。

   いつの間にか、周りが乳白色の靄(もや)で、墓石の文字がおぼろになって、
   供えた都忘れの花に、もう滴(しずく)がついていて。

   濡れたズボンが、お寺さんを出て実家からホテルへ、
   それでもまだ乾かなくて、不思議ですね。

   人の心は、肉体を規制するんですね。


   肌色のバンドエイドで隠してる踵のあかぎれを見つけてくれる、
   たった一人の人はもういない。
 

   お母さん、僕は、あなたに褒められたくて、

   ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青(ほりもの)を描(い)れて、
   返り血を浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸せの黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、
   雪の『八甲田山』。

   北極、南極、アラスカ、アフリカまで、30年駆け続けてこれました。


   別れって哀(かな)しいですね。

   いつも…。

   どんな別れでも…。


   あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。

          <『あなたに褒められたくて』集英社文庫>

              ・・・

サトーハチロー氏のこんな詩がある。


『この世の中で一番』


この世の中で一番

美しい名前 それはお母さん

この世の中で一番

やさしい心 それはお母さん

おかあさん おかあさん

悲しく愉(たの)しく また悲しく

何度もくりかえす

ああ おかあさん



人は大人になると、子どもの頃を忘れてしまう。

何もできなかった小さな頃、母親のお乳をもらい、オシメをかえてもらい、
ぐずったり泣いたりしたのをあやしてくれ、病気になれば必死に看病してくれ、
そして、すべてをかけて子どもを守ってくれたことを…。

母親にお世話にならなかった大人は誰一人としていないのに。


この世でたった一人の母に感謝の気持ちを捧げたい。


            <感謝合掌 平成28年5月9日 頓首再拝>

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