伝統板・第二

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神の生命 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 04:04:45


《神常に吾を生かし吾を導き給う》

          *「光明法語」(1月21日)より

神のすべてを生かし給う生命、
吾が内に吾が心の内に、吾が魂の内に、
すべての事件の内にあらわれて生かし給う。

この神の大いなるいのち、常に新しきいのち今もわが中に流れ入りて
常にわが組織を新たならしめ給い、健全ならして給うているのである。

今この瞬間このわが頭の先からわが爪先に到るまで
輝く神のいのちに満たされているのである。

もはやわが肉体は神の肉体である。
わが肺臓は神の肺臓である。
わが胃袋は神の胃袋である。

吾が全ての内臓は神の全ての内臓である。

完全に健康であるほかあり得ないのである。

            <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>

「神の生命(いのち)」に就いての黙然の言葉 - 伝統

2017/02/05 (Sun) 04:15:37


           *「静思集」(P38~40)より

「神は生命(いのち)であり給う。
一切の処に神の生命(いのち)は満ちていたまう。

この家は神の生命(いのち)に完全に祝福されいるのである。
この家のあらゆるものは悉く神の生命(いのち)に充ち満たされて
生き生きと輝いているのである。

我がうちにも、我が妻のうちにも、我が子のうちにも、召使たちのうちにも、
本部の凡ての人のうちにも、教団関係のすべての団体のうちにも、
各地の誌友会また誌友たちのうちにも、
神の生命(いのち)は充ち満ちて生かしてい給うのである。

吾々生長の家の家族たちすべてのうちに神の生命(いのち)は満ちてい給う。

どこにも病気はない。
神は決して病気を創造(つく)り給わないから病気はないのである。
すべての生長の家家族は神の光明燦然たる生命(いのち)に満たされて健康である。

われ今、わが全身を観ずるに我が全身神の生命(いのち)に満たされている。
わが全身は神の生命(いのち)に満たされて光明燦然と輝いて現れている。

全身の総(すべ)ての細胞は互いに相拝み合っているのである。
全身のすべての細胞は互いに生かし合っているのである。

すべての内臓、すべての器官悉く相拝み合い、相生かし合い、互いにその処を得て
争うことはないのである。だから私は常に健康であり、凡ゆる点に於いて
調和しているのである。」

 ―― これは或る日の私の「神の生命(いのち)」に就いての黙然の言葉であります。
この通りに念じて神想観をして御覧なさい。

あなたの周囲に光明世界が実現し、あなたの肉体が健康が実現するでありましょう。

            <感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>

《わが生命の神なることを直視する》 - 伝統

2017/02/20 (Mon) 04:47:00


         *『生長の家』(昭和25年8月10日の法語)より

   今日、自分は自分の生命が神の生命流れ入って
   吾が生命と成っている事実を直視するのである。

   われはわが生命が神の生命であって完全に調和しており、
   何処にも不完全なきことを見るのである。

   自分の肉体の現状がどうあろうとも、
   私はそんな事に自分の心をまどわさないのである。

   何故なら 「 肉体 」 は自分自身ではなく、自分の産物であり、
   自分の過去の心がそれをつくったのであるからである。

   これから先の肉体は、
   これから毎日自分が何を思うかによって定まるのである。

   今後私は常に善念を抱き、人を憎まず、
   病いを思わないから必ず健康になるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

            <感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>

《生命は智慧によって生命体となる》 - 伝統

2017/03/04 (Sat) 04:07:28


          *『生長の家』(昭和23年9月1日の法語)より

   人間の本体は 生命である。
   生命は 生きているから動く。

   それは生きているから偶然出鱈目に動くのではなく、
   律をもって動くのである。
   律は秩序であり、秩序は智慧の働きである。

   生命は 智慧によって働き、
   智慧は 秩序をもって展開して 生命体になるのだと
   云うことが出来る。


   だから 知慧ある生活は 生命体を健康ならしめるのであるが、
   智慧のない生活は 生命体を不健康ならしめるのは当然である。

   智慧のない生活は 生命体の秩序を破壊するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成29年3月4日 頓首再拝>

《神の生命との一体感が深まれば》 - 伝統

2017/03/22 (Wed) 05:01:19


           *『 生長の家 』(昭和46年3月21日の法語)より

   神との一体感が深まれば、神は完全なる生命であるから、
   神の完全なる生命の流入によって
   生かされている人間が病気するということはなくなるのである。

   そして病気があらわれれば、
   神の完全なる生命が流入する通路となる「 心のレンズ 」に
   何らかの迷いの曇りがあるに相異ないことを知り、

   心を反省してその“迷いの心の曇り”を取り除くようにすれば
   病気は間もなく雲散霧消することになるのである。

   “生長の家”が病気を治すのではないと説きながら、
   多くの病気の治癒現象があらわれるのは、

   真理を知れば、“迷いの心”によって
   自縄自縛せられていた自己の“神の子”なる生命が
   解放されて自由自在を得られることになるからなのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12697468.html

            <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>

《”生命は”常に前向きに前進する》 - 伝統

2017/04/10 (Mon) 03:52:07


          *「理想世界」(昭和47年10月5日の法語)より

   やがて、あなたに時間・空間を超越した
   実相の自分を自覚し得た一瞬が来る。
   それまでは、普通の人は

   「時間と空間の障壁は 真実で克服しがたく思われるほど、
   感覚の力は 心を圧倒してしまっている」

   とエマソンは言っている。

   私たちの肉体は、時間・空間の枠の中で生活している。
   そしてこの肉体を五官の感覚 で見て実在であるかの如く感ずる。

   そして又、 肉体をとり巻いている外界の一切のものを、
   固定した存在の如く考える。しかしエマソンは言う。

   「私どもが今固定していると考えることも、
   あたかも熟れた果実のように、ポタリ、ポタリと 、
   私どもの経験から離脱して落ちて行くのだ

   ・・・・・風景、人物、ボストン、ロンドンも
   昔の制度や一抹の霧や煙と同様に一時的なものだ 。
   社会もそうだ、世界もそうだ。

   Soul(魂)は じっと前を見つめ、前途に一つの世界を創造し 、
   背後にいくつも世界を捨てていく。

   Soul(魂 )には日付けもなく、儀式もなく、からだもなく、
   専門もなく、人間もないのだ。

   Soul(魂) はSoul(魂)のみを知る。
   森羅万象はSoul(魂 )が包まれている外装に過ぎないのだ。」

   The things we now esteem fixed shall, one by one,
   detach themselves like ripe fruit from our experience, and fall.
   The wi nd shall blow them none knows whither.
   The landscape, the figures, Boston, Lo ndon,
   are facts as fugitive as any institution past,
   or any whiff of mist or sm oke, and so is society,
   and so is the world.

   The soul looketh steadily forward s, creating a world before her,
   leaving worlds behind her.
   She has no dates, nor rites, nor persons, nor specialties nor men.
   The soul knows only the s oul;
   the web of events is the flowing robe in which she is clothed.


   森羅万象は、(それは自分の肉体も引っくるめて)
   Soul(魂)が創造した外皮なのである。

   それは蚕の生命が創造した繭のようなものであり、
   蛇が生長して行く毎に脱皮する“皮”(蛇 の抜け殻)みたいなものである。

   脱け殻は蛇の 一時的外装であって、それは嘗て蛇によって創造せられ、
   用終わりて棄て去られ消え行くべきものなのである。

   生命は嘗て創造して、用を果したところのものを棄てて行くが、
   ”生命”は死ぬのではなく、常に前向きに前進するのである。

   その”生命”がただの生きる力でなく、叡智を備えた
   普遍的なものであるとみとめたとき 、それをSoul(魂)
   とエマソンは呼んでいるの である。


   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2731

            <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>

天地の生命と一枚になりきる - 伝統

2017/04/19 (Wed) 03:37:31


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 

その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、いろいろと人間の理屈で考える。
打算で考える、欲で考える、
そこに純潔であるべきはずの恋愛が不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って****を扱うから、
****が汚れたものに見えてくる。

            <感謝合掌 平成29年4月19日 頓首再拝>

《生命は物質を創造し物質を支配する》 - 伝統

2017/06/07 (Wed) 04:43:15


          *『 生長の家 』(昭和44年12月25日の法語)より

   青春の泉は、物質の栄養剤にはないのである。
   物質は、物理化学的な力を及ぼすけれども、
   細胞の老衰を食いとめる力はないのである。

   生命は ある物質条件が整うと、そこに姿をあらわすけれども、
   物質が生命をつくるのではないのである。

   生命自身が物質をつくり、物質の条件をつくり出して、
   そこに生命は“ 生物 ”として姿をあらわすのである。

   生命は 物質を左右し、物質をつくり出し、
   その条件をかえる力があるのである。

   地球上では近頃「 土地の造成 」ということが行われているけれども、
   天地創造の最初には、大生命が、真空の中に“ 水素 ”をつくり出し、
   “ 水素 ”を集めて大いなる球体として、それを太陽その他の天体とし、
   天体の地表に鉱物、植物、動物を生み出したのである。

   これは全く“ 生命 ”が物質を創造し 天体を創造し
   動物、植物、鉱物等をつくり出す力があることを示すのである。

   生命は 原子を転換して他の元素をつくることも出来るのである。
   かくて、最初は“ 水素 ”だけの固まりであったところの
   天体に多くの元素をつくり出したのである。

   祝福すべきかな
   生命の力、偉大なるかな生命の力、尊敬すべきかな生命の力、
   ありがとうございます。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5a8699a8a6a08783fb87b1d2823812e2

            <感謝合掌 平成29年6月7日 頓首再拝>

神の「《完きいのち》」の中には業はない - 伝統

2017/06/20 (Tue) 04:42:42


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より

自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。

冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。

生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、解剖せられるのは
業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。

ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。

業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界 
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の 「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」 と念じて、
神の 「完(まった)き《いのち》」 の中に没入してしまうことである。

神の 「《完きいのち》」 の中には業もなければ、暗(やみ)もない。

           <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>

自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ - 伝統

2017/07/07 (Fri) 04:53:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月7日>(P10~12)より

健康を得んと欲するならば、
自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。

神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、
「神の生命」が自己の生命であると観じられるかぎりにおいて
健康を失うことはありえないのである。


瞑目合掌して自己の全身が「神の生命」に満たされて
光明燦然と輝いている有様を瞑視して、
それに精神を統一せよ。

漠然と「健康」と観ずるよりも、
具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。


自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。


次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、

「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

この眼は神の眼であって、神はこの眼を通して自己の創造の美しさを
鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが眼の視力は増大するのである。


神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく
『耳よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

この耳は神の耳であって、神はこの耳を通して大自然および神の子たる
人間の音楽のいかに美しきかを鑑賞したまうのであるから、
毎日いっそうわが耳の聴力は微妙であっていかなるデリケートな音調でも
聴き分けることができるのである。


神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜にプラナを流れ入らしめたまいて、
これらを祝福して言い給う『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。


わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として
具象化したまいしものであるから霊的実在であるのである。
だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものではないのである。

自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を今かなぐり
捨てたのである。神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。


神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う
『心臓よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとく
われもまたすべての人々を愛したのである。

神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」



このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して
現実的に一つひとつの身体各部を健全化して視るのである。

「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、
神のプラナを吸い込むような気持ちで呼吸をそれに合致せしめると
いっそうよいのである。

         <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>

すべては、神という生命の大海で生きる - 伝統

2017/08/14 (Mon) 04:20:13


宇宙は一つの生命体である。

          *「光明法語」(7月12日)より

運動と云うものは「動くもの」とそれがその中で動くところの「媒質」とによって
可能となるのである。例えば魚は水中で動き、鳥は空中で動き、
ラジオの波は空間のエーテルを媒質として動く。

では吾々の想念は何を媒質として動くのであろうか。
吾々の想念は、「宇宙に満つる想念の普遍的波」の中で動くのである。
吾々の想念が全宇宙に伝わらないと云うことはあり得ないのである。

ただ、吾等はそれを自覚することが出来ないに過ぎない。
吾々の想念が或る処へ伝達して無限供給が出て来る原理は其処にある。

・・・

生命の本源は神

          *「光明法語」(7月13日)より

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

・・・

すべては霊である

          *「光明法語」(7月18日)より

すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。

雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。

雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。

霊魂は「生命」の高い段階の現れである。

・・・

霊は物質を支配す

          *「光明法語」(7月19日)より

生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。

ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。

実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。

         <感謝合掌 平成29年8月14日 頓首再拝>

生命の本源は智慧であり、愛であり、美である - 伝統

2017/09/01 (Fri) 04:52:57


    *「光明法語」(9月1日)より

智慧と愛と美


生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。

智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。

生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。

アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。

アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。

           <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

《物よりも生命が大切である》 - 伝統

2017/09/21 (Thu) 03:52:47


         *『 生長の家 』(昭和25年1月22日の法語)より

   「 人もし全世界を得るとも その生命を失わば何の価値あらんや 」
   とキリストは教えている。

   生命程 尊いものはないのである。


   その生命のことを忘れて、生命以外のことを求める。
   それが顛倒(てんどう)妄想である、逆さまの想(おも)いである。

   もし吾らが死刑の宣告を受けて、
   「 お前の全財産を自分によこすならば お前の生命は助けてやろう 」
   といわれたならば、喜んで その全財産を投げ出すに違いない。

   然しそういう切羽詰った場合でないと 多くの人は、
   つまらない物質的なものを得んがために尊い生命を忘れている。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/35076a103b53b142389c4fd0460e8110

           <感謝合掌 平成29年9月21日 頓首再拝>

《「 生命 」 は 目に視(み)えざる実質》 - 伝統

2017/10/13 (Fri) 03:16:04


        *『 生長の家 』(昭和24年2月11日の法語)より

   吾々は、自分の身辺に起るすべての事物と状態とを、
   自分の想念の力によって造る。

   吾々の 「 生命 」 というものは
   目に見えざる実質の如きものであって、
   その中に無限の力を蔵している。

   然(しか)しその無限の力は、
   そのまま静かなるままでは現れない。

   それは宇宙に充満するエーテルが、
   そのまま静かなるままでは何ら現れないけれども、

   それが一度 波動となれば、
   光となり、電磁波となり、電子となり、
   諸々の原案となって出現し来るように、

   吾々の 「 生命 」 も 波動となり想念となった時、
   始めてその力を現(あら)わす。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12924646.html

           <感謝合掌 平成29年10月13日 頓首再拝>

《いのち》に触れよ! - 伝統

2017/10/18 (Wed) 04:46:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」18日>より

肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。

一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。

眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。

《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。

           <感謝合掌 平成29年10月18日 頓首再拝>

 「 生命 」 は《発心・修行・成道・円環》へと動く - 伝統

2017/11/02 (Thu) 04:11:10


       *『 生長の家 』(昭和26年2月13日の法語)より   

   「 生命 」 は動くのである。

   ただ宿っているだけで動かないのは
   生命ではなく 「 死 」 である。

   その最初の 「 動き 」 が発心である。

   発心即ち道に志す気持が起って来るのは
   既に 「 道 」 がその人に宿っているからである。

   「 発心 」 は最初の動きであるが、
   心あれば必ず形にあらわれるのであって、
   それが修行又は行為となってあらわれる。

   それが修行されるとき、既に宿れる 「 道 」 が成就するのである。
   これを 「 成道 」 と云うのである。

   成仏と云っても同じことである。

   天地にミチ満つる 「 生命(いのち) 」 であるから
   これを 「 道 」 と云うのである。

   「 道 」 は吾々に宿り、発心として芽生え、
   修行として生長し、 「 成道 」 として果(み)を結ぶ。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/65be82a5525f2b722f737a2bf51991ef

           <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

「生命(せいめい)」は心の波を道具として、神の子の理念を実現する - 伝統

2017/11/24 (Fri) 04:56:03


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より

生命(せいめい)なき物質と、生命ある有機体との間には
けざやかな相異があるのである。

それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、
それに生命(いのち)が宿らない間は、その分解・結合の状態は
いつまでも無機物的な方向において行なわれる。

いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、
全然異なる分子の分解・結合が行なわれ、
一定の「理念」(または精神的原型)にしたがって
あるいは絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。

イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。

すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。

「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、
自己の「理念」または「精神的模型」の秩序にしたがって、
新しく再配置する力をもっていることである。

それは物質それ自身の性質を利用しつつ、
新たに自己の理念または精神的模型を造形しゆくこと、

あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。

宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、
宇宙精神の高次にして優位なるあらわれなるいわゆる「生命(せいめい)」に
対してはただ素材を提供するのみであって、物質が生命(せいめい)を
左右することはできないのである。

逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。

野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して自己の理念の姿を表現することが
できているのに、

人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。

諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」を
みずから主張しないからであって、それは『法華経』にある大通智勝如来が
十劫の間(あいだ)道場に坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。

大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とを
そなえていながらみずから進んでそれを自覚しないから、
自分の実相の完全さがあらわれないにすぎないのである。

諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。

         <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

神の生命に、大もなく小もない。 - 伝統

2018/01/11 (Thu) 04:18:21


           *「光明道中記」(1月11日天地の法輪を聴く日)より抜粋

【全世界は如来の転ずる法輪である。****輪が実在の宇宙である。
                        (『驀進日本の心と刀』)】

生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。

恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、
また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、

空間的広がりがないのであるから
その微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。

その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。

「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。

大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。

         <感謝合掌 平成301月11日 頓首再拝>

《わが生命は神の生命の歓喜》 - 伝統

2018/04/03 (Tue) 04:22:59


        *「光明法語」(4月3日)より

われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。

神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。

われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。

生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。

         <感謝合掌 平成30年4月3日 頓首再拝>

神の生命を感ずるために - 伝統

2018/07/11 (Wed) 04:22:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、
神の”いのち”宿りいますを感じ、神の智慧宿りいますを感じ、
神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、
    感ずる対象と同じ波をこちらが起さねばならぬ。
    神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、
すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 平成30年7月11日 頓首再拝>

神の生命(せいめい)を頂く - 伝統

2018/07/24 (Tue) 03:46:28


         *「希望を叶える365章」(P279~280)より

一ワ碗(わん)の食物にも、一杯の水にも、
神の子たる人間は神の恵みを見るのである。

一片のパンにも一杯の葡萄酒にもキリストの肉を頂き、
キリストの血を戴くのである。

万物は決して物質ではないのである。
それはすべて神の生命(せいめい)の具象化である。

米も、水も、パンも、葡萄酒も、その他の飲食物も悉く、
神の生命の割(さ)きはえであるがゆえに、それを食すれば、
白い御飯やパンが赤い血となり、黒い毛髪となり、
複雑なる生理組織を其処に実現するのである。

物質であるものは一つもないのである。


私たちが神の生命(せいめい)を食して毎日生きていることを知るならば、
自分の力で生きているのでhなく、神に生かされている自分であったと
云うことに気づくのである。

常に神がわがうちに生きており、多くの生物の生命(せいめい)が
わがうちに生きていることを知るならば、無駄に此の生命(せいめい)を
使ってはならぬことが判る。

         <感謝合掌 平成30年7月24日 頓首再拝>

生命の本源 - 伝統

2018/09/01 (Sat) 03:42:57


    *「光明法語」(9月1日 智慧と愛と美)より

生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。

智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。

生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。

アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。

アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。

         <感謝合掌 平成30年9月1日 頓首再拝>

生命の神秘に驚く日 - 伝統

2019/03/07 (Thu) 04:49:55


           *「光明道中記」(3月7日)より

【物質からは生命は生まれない。生命を生むものは生命のみである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


人間の身長は、蛋白質の分子を20億個積み上げた高さがあると生物学者は計算した。
此の20億の蛋白質の分子を、積み重ね間違えたら人間の身体は出来上がらないのである。

此のような大仕掛けな建築物が唯の偶然で出来上がるなどと云うことが可能であろうか。
此のような大建築物が出来上がるためには、
必ずや叡智の導きがなくてはならないのである。

その叡智を吾々は 「神」 と呼ぶのである。

仏と言っても「大自然」と称(よ)んでも可(い)いが、
そんな呼び名は吾々の問うところではない。

此の大建築物が、ただビルディングのように静止しているのではなくて、生きて複雑に、
しかも一糸紊(みだ)れずに統制を保って活動していると云うことは実に驚くべき
設計である。

人体を構造している400兆もある細胞は、その一個一個がただの半滲透性の壁に
囲まれて原形質と云う実に簡単な組織のゼラチン様物質だと考えるのは間違である。
400兆の細胞の各々は、それ自身が一個一個蒸気機関よりも複雑な装置を備えている。

それは栄養を補給し、それを燃焼し、その燃焼産物を排出し、
更に電気的な感受機関を備えている。

外界を観じて、触手を伸ばしたり引込めたりする。
微細構造の中にこう云う複雑な組織を400兆もならべて
互いに聯絡させたのが人体である。

         <感謝合掌 平成31年3月7日 頓首再拝>

生命を礼拝する日 - 伝統

2019/03/08 (Fri) 04:55:46


           *「光明道中記」(3月8日)より

【愈々(いよいよ)の時が来れば無限の力が出る。爾(なんじ)の内に宿る力を信ぜよ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

1個の蒸気機関(エンジン)でもそれを制作するには相当の智慧が要る。
それだのに400兆のエンジンを互いに繋ぎ合して1個の如く統一して
運転するにはどんなにか優れたる智慧が要ることであろう。

蒸気機関(エンジン)が煙を吐く如く、400兆の細胞は老廃物と云う煙を吐くのだ。
その煙を逃がさないと細胞は窒息して了うのである。

人体のように400兆台もあるエンジンが肉眼で見れば間隙の見えないほど
《ぎっしり》密集している場合に、その煙である老廃物を逃がす装置を工夫するのは、
恐らくどんな大技師でも、現在のような機械工学の発達では出来なかろうと思う。

それを巧みに成就しているのが人間の《生命力》である。

人体の煙である老廃物を気体の形で逃がす為に、生命力は極めて狭い容積の中に、
長さ50m、幅10m にも当る肺臓内の面積を拵(こしら)え、
液体状で老廃物を流し出す為には、極めて巧みな静脈管やりんぱ管を造った。

細胞を人工培養して人体のりんぱ管のような複雑な組織なしに、
老廃物を流し去るにはその細胞群の大きさの2千倍の清浄液を必要とする、
当り前なら2千人入りの浴槽で細胞を毎時洗っている作用で、
殆んど容積のない血管及びりんぱ管にて行なっている。

         <感謝合掌 平成31年3月8日 頓首再拝>

《何故、胃袋の中と試験管の中とでは相異が起るか》 - 伝統

2019/04/04 (Thu) 02:29:54


       *『人生の秘訣365章』第12篇(P289~290) より

私たちはパンや野菜や色々の肉類を食物として胃袋に入れると、
胃の粘膜からそれに適する消化液が分泌(ぶんぴつ)され、
消化液の化学成分によって其処に化学的な醗酵現象が起って、
食べられた食物は原形を失ってドロドロの粥状(かゆじょう)となる。

それは必ずしも胃の附(ふ)の中に食物を入れないでも
試験管内にそれと同じ食品を入れ、それに適当の水分と消化酵素とを入れ
或る時間経過すると、その食品は胃袋の中の食物と同様に
化学的に消化されて粥状となる。

そこまでは胃袋の中で起る現象も、試験管の中で起る現象も全く同じである。

物質の物理化学現象は、不可不の法則(必ず起る、それ以外はあり得ない
普遍的法則)で行われるのであって、場所や個性の移動変化によって
影響を受けないのである。

それは酸素と水素が集って白金という触媒にふれると
必ず水になるようにである。

ところが試験管の中の食品は粥状のドロドロになった儘で
それ以上に創造的又は造形的な働きは起らないで、
それ以上は腐敗過程に移るだけのことである。

何故(なぜ)なら、試験管の中には、
直接“生命(せいめい)”がその食品に働きかけないからである。

“生命(せいめい)”は“主動者”であり、物質は物理化学的法則によって
機械的に働くだけであるから、“主動者”なる“生命(せいめい)”の
ない所では何ら積極的な創造は起らないのである。

         <感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>

生命は前進するのみ - 伝統

2019/04/17 (Wed) 03:54:47


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者は
ついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

            <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

《人間に宿る“生命(せいめい)”の神秘に目覚めよ 》 - 伝統

2019/05/02 (Thu) 04:17:34


       *『人生の秘訣365章』第3篇(P75~76) より

神はあなたに素晴しい“神の生命”を与えて、
それをあなたの“生命(せいめい)”としたのです。

実に偉大な、驚くべき能力を内に蔵する“生命(せいめい)”が
あなたの内には宿っているのです。

どんな科学者も“生命(せいめい)”とは何ぞやと云うことは分析することができない。

彼らが烏滸(おこ)がましくも“生命(せいめい)の起源”と称するところのものは、
“生命(せいめい)”が人体をつくった最初の一歩のただの軌跡にしか過ぎない
簡単な窒素化合物 ―― 蛋白質やアミノ酸の一種に過ぎないのであって、
それは“生命”の起源でも何でもない。

唯の“生命(せいめい)”の足跡にしか過ぎないのです。

近頃、母体を解剖して卵子をとり出し、試験管の中で人工授精させることに成功し、
その卵細胞を三十二個になるまで分裂せしめることに成功したので、
“人間の人造”と云うこともやがて出来るであろうとの説を為すものもあるけれども、

卵細胞がいくら分裂増殖しても、
それを一定の人間も形に排列するところの“知性”が天降って来なければ、
結局、それはただの蛋白質の集合体であって、人間ではないのである。

            <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

《この生命の荘厳を見よ》 - 伝統

2019/05/23 (Thu) 03:16:55


         *『人生の秘訣365章』第3篇(P76) より

人間の眼球は実に素晴しい天然色カラー・テレビである。
市販のカラー・テレビは嵩(かさ)がたかくて
一人では搬(はこ)び切れないくらいに重いのである。

しかも視野がせまくて、二十一吋(インチ)型は二十一吋にしか映らないし、
十七吋型は十七吋の寸法にしか景色が入らないのである。
しかも色彩が天然色より落ちるのである。

ところが、人間の両眼(りょうがん)と云うカラー・テレビは
携帯用の最小型で、その持ちはこびに少しも目方を感じないのである。

しかも視野はひろくて、この二センチほどの横長の眼の切れ目に広大な景色が、
天然色そのままに入って見えるのである。

この便利な携帯用カラー・テレビなる両眼を造って下さった
不思議な力は余程素晴らしい智慧をもつ不可思議力だと言わねばならぬ。

この不可思議力が神であり、大生命であり、
それが吾らに宿って偉大なる“個生命”となっているのである。

            <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>

《吾が生命(せいめい)の神秘さに目覚めよ》 - 伝統

2019/06/19 (Wed) 04:49:38


         *「眞理」第9巻生活篇第13章(P345~346) より

人間の内部の不可視の力は常に私たちの肉体の消耗を補充し、損傷を修復し、
生理作用を内部から調節しつつあるのである。

この不可視の力を欠如しては人間は生活できない。
この不可視の力は、人間に宿っている神の力である。

私たちはこの内部の不可視の力を礼拝し、
この内部の不可視の力に感謝しなければならないのである。
それは”神の力”であるとともに”人間の生命力”である。

肉体は「人間そのものではなく、この生命力がそれ自身を表現するための
器官であり、道具であり、媒介であるに過ぎない。」

生長の家の光明宣言の第一ヶ条に、
「吾等は宗派を超越し、生命(せいめい)を礼拝し、生命(せいめい)の法則に
随順して生活せんことを期す」
と書かれているのは其のためである。

生命(せいめい)は「神」である。
私たちの「生命(せいめい)」そのものが「神」である。

それに目覚めるのが新生である。

            <感謝合掌 令和元年6月19日 頓首再拝>

自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ - 伝統

2019/07/07 (Sun) 04:29:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月7日)より

健康を得んと欲するならば、
自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。

神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、
「神の生命」が自己の生命であると観じられるかぎりにおいて
健康を失うことはありえないのである。

瞑目合掌して自己の全身が「神の生命」に満たされて
光明燦然と輝いている有様を瞑視して、それに精神を統一せよ。
漠然と「健康」と観ずるよりも、具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。

自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。

次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、

「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

この眼は神の眼であって、神はこの眼を通して自己の創造の美しさを
鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが眼の視力は増大するのである。


神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、
わが耳を祝福して言いたまわく『耳よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。

この耳は神の耳であって、神はこの耳を通して大自然および神の子たる
人間の音楽のいかに美しきかを鑑賞したまうのであるから、
毎日いっそうわが耳の聴力は微妙であっていかなるデリケートな音調でも
聴き分けることができるのである。


神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜に
プラナを流れ入らしめたまいて、これらを祝福して言い給う
『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。


わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として
具象化したまいしものであるから霊的実在であるのである。
だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものではないのである。

自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を今かなぐり
捨てたのである。神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。


神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いて
これを祝福して言い給う『心臓よ、健やかであれ』と。

すなわちかくなりぬ。わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとくわれもまた
すべての人々を愛したのである。

神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」


このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して
現実的に一つひとつの身体各部を健全化して視るのである。

「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、
神のプラナを吸い込むような気持ちで呼吸をそれに合致せしめると
いっそうよいのである。

         <感謝合掌 令和元年年7月7日 頓首再拝>

神の生命を感ずるために - 伝統

2019/07/11 (Thu) 04:50:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、
神の”いのち”宿りいますを感じ、神の智慧宿りいますを感じ、
神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、
    感ずる対象と同じ波をこちらが起さねばならぬ。
    神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、
すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 令和元年7月11日 頓首再拝>

生命の本源は神 - 伝統

2019/07/13 (Sat) 04:33:09


       *「光明法語」(7月13日)より

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

         <感謝合掌 令和元年7月13日 頓首再拝>

霊魂は「生命」の高い段階の現れ - 伝統

2019/07/18 (Thu) 04:28:56


       *「光明法語」(7月18日《すべては霊である》)より

すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。

雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。

雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。

霊魂は「生命」の高い段階の現れである。

         <感謝合掌 令和元年7月18日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきる - 伝統

2019/07/23 (Tue) 04:43:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、
いっさいのものの内に、そして「自分の内にも充ち満ち、
その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」との深い実感のうちに、
30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、
そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 令和元年7月23日 頓首再拝>

《すべての人種は悉く 「 神の兄弟 」 である》 - 伝統

2019/08/14 (Wed) 04:51:18


        *『 生長の家 』(昭和40年3月30日の法語)より

   自己の内に宿り給う神、それがあなたの生命である。

   あなたの生命は神なる大生命より来る。
   神は無限の叡智をもちたまい、必要に応じて必要なるものを準備したまう。

   赤道直下や亜熱帯地方に生まれた人種には、その強力な紫外線を防ぐために、
   皮膚に黒い暗幕をつくって紫外線の害を防いでいられるのである。
   これが黒人種である。

   緯度の高い、太陽光線の乏しい地域に生まれたる人種は、
   太陽光線が体内に吸収せられやすいように皮膚を殆(ほとん)ど透明にして
   色素の乏しい幕を張ってあるが故に、これを白人人種と称し、
   血管が皮膚を透かして見えるが故に、概ね淡紅色(たんこうしょく)の
   顔貌(がんぼう)をしているのである。


   私たち黄色人種は 赤道直下ほどには日光は強くないし、
   さりとてヨーロッパの大部分の地域ほどには、日光の乏しい地域でもないので、
   適当に淡彩をほどこした皮膚の幕をもって全身を覆っているのである。


   皮膚の色が異るとて、その人々に宿る「 神の生命 」は
   本来「 一つの神 」であるから互いに兄弟姉妹なのである。
   皮膚の色に拘(かかわ)らず兄弟姉妹互いに愛し合うべし。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>

《“ 神の生命はわが内に在り ”》 - 伝統

2019/08/26 (Mon) 04:54:40


          *『 生長の家 』(昭和46年3月31日の法語)より

   私たちは“神の子”で“ある”から、
   “神の生命”がわが内に“ある”のである。
   その神の生命の時間空間面に於ける自己顕現が
   私たちの肉体であるのである。

   肉体が単に三次元空間面にある物質の如く見えているのは、
   それは「見えている」だけのことであって
   本当は物質ではないのである。

   私たちの肉体は神の生命の自己顕現であるから、
   神の無限に完全なる叡智の顕われであり、
   従ってどんな不完全さもあり得ないのである。

   従って病気に罹(かか)るなどということは、本来あり得ないのである。

   若したまたま病気に罹るような事があるならば、
   それは神の叡智の表現のパイプとなる“自分の心”に
   何かその表現の通路を邪魔しているような想念感情があるのである。

   心の表現通路を邪魔している阻礙(そがい)物とは
   憎しみ、悲しみ、憤(いか)り、嫉(ねた)み、
   口惜しさ、呪い、貪欲(とんよく)、
   抑圧感情、秘密、恐怖、不安、孤独等の感情である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12743787.html

         <感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>

生命の本源 - 伝統

2019/09/01 (Sun) 04:13:06


        *「光明法語」(9月1日《智慧と愛と美》)より


生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。

智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。

生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。

アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。

アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。

           <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>

《具体的に神に近づけ》 - 伝統

2019/09/20 (Fri) 04:54:08


         *『 生長の家 』(昭和26年4月26日の法語)より

   あなたを生かしているのは 神の全能の力である。
   全能の神の力が宿ってあなたの「 生命 」となっているのである。

   それを読み、それを知るだけで尚(なお)健康になれないのは、
   飯を消化して自分の血液になっているのであると読み知るだけで
   腹がふくれて来ないのと同様である。

   腹がふくれ、元気が出るためには、
   具体的に食事をとり、それを同化する必要がある。

   それと同じく、あなたが真に健康となるためには、
   具象的にあなたは神に近づかねばならぬ。

   新しき感情と想念と意思とをもって
   神の波長と自分の生命との波長を合わすように
   努力しなければならぬ。

   「 神 」をわがものとしてそれを同化しなければならぬ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12244780.html

           <感謝合掌 令和元年9月20日 頓首再拝>

《生命力は肉体を操縦する技師である》 - 伝統

2019/11/07 (Thu) 05:02:22


        *『真理』第九巻生活篇(P260~261)より

食物が体内に摂取せられと、吾々の生命力は消化器官を利用して、
それを化学的に分解し、適当な成分にまで再化合し、血液にかえ、
皮膚とし、内臓とし、脳髄とし、その消耗部分を補うのであるが、

これを肉体が単にオートメーション(自働操縦制御装置)式に
行なうのだと考えると間違いです。

肉体は、成る程非常に精巧な自働器官ではあるが、
その自働装置が精巧であればあるほどその装置は偶然に
自働的に「つくられたものではないことが判るのです。

そして既に自働するように造られてしまった肉体装置も、
それを始動せしめるための技師がいなければ、
運動を始めることはできない。

その技師が「生命力」でありその技師が人間の「魂」です。
人間の魂が人間から去れば装置はあれども運転はしないのです。

           <感謝合掌 令和元年11月7日 頓首再拝>

《わが生命は神の生命の歓喜》 - 伝統

2020/04/03 (Fri) 02:29:28


       *「光明法語」(4月3日)より

われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。

神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。

われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。

生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。

        <感謝合掌 令和2年4月3日 頓首再拝>

《新生命を汲み出す道》 - 伝統

2020/04/14 (Tue) 04:51:35


          *「真理」第9巻生活篇(P6)より

吾々は肉体と五官の感覚を通して、有限の物質界に密接に関係しております。
物質部面ばかりを人間だと思っている人が多いのでありますが、
吾々は潜在意識及び超在意識を通して、無限の霊的世界 ―― 
吾々の生命(せいめい)の本源成る世界 ―― に関係をもっている
のであります。

この本源の世界から万物は生み出されて来るのでありますから、
そのつながりを自覚するとしないとで、その本源から引き出されて来る力に
相異を来(きた)すのであります。

白隠禅師が「軟酥の法」などの坐禅的神想観の修行によって、
その肺結核を征服せられた如きは、結局、生命(せいめい)の本源の
世界と、自分の個生命(こせいめい)とのつながりが、修行によって
自覚の上にハッキリと把握された結果であります。

皆さんも日々神想観なり坐禅なりを行なって、吾々の久遠生命(せいめい)
の本源の世界から新しい生命(せいめい)を汲もうではありませんか。

        <感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>

《無限の平和の流れと一体になりましょう》 - 伝統

2020/04/28 (Tue) 04:44:01


          *「真理」第9巻生活篇(P6~7)より

個人の生命の底深くながれている久遠の生命(せいめい)、滔々と
而(しか)も音(おと)もなく静かに無限の水音をたたえながら
無限の平和で流れている大生命の声なき声をききましょう。

これが禅宗で言う「隻手の声を聴く」と云うことなのです。
或いは「闇の世に啼かぬ鳥(からす)の声を聴く」と云うことなのです。

その声なき声の滔々とながれ静かなる生命(せいめい)の平和の河に、
私たちの生命(せいめい)逆らわず、順調に棹(さお)さして行きますならば、
其処には必ず平和が訪れ、悦びが湧き出で、ゆたかに豊富な生命感が得られるのです。


何故あなたは、一日の出発である目覚めたときの少時間を坐禅なり、
祈りなり、神想観なりをしてあなたの生命(せいめい)を、大いなる
無限の平和の生命(いのち)の流れと一致するようにしないのですか。

生長の家本部なり各地の生長の家教化部、誌友相愛会等では早朝の
神想観をしていますからご参加下さい。

        <感謝合掌 令和2年4月28日 頓首再拝>

すべては霊である - 伝統

2020/07/18 (Sat) 04:47:17


         *「光明法語」(7月18日)より

すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。

雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。

雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。

霊魂は「生命」の高い段階の現れである。

        <感謝合掌 令和2年7月18日 頓首再拝>

あなたに宿る”生命”は”神” である - 伝統

2020/07/30 (Thu) 03:35:49


         *「生長の家」(昭和51年6月17日の法語)より

それゆえに”行”が必要である。
行動が必要なのである。

その行動の必要と仕方とを説いたのが私の『人生を前進する』である。

毎日”光 ”をかかげて前進するものはついに、
”暗い過去の影”を消して光明輝く世界に自分の住む世界を
光転してしまうことができるのである。

『人生を前進する』の本には、幾たびも過去に地殻が変動し、

一度築かれたものが破壊されて地殻の中に埋没されても、
またその地殻の上に何かを築きあげずには置かなかった
大自然の生命力の逞しさを説いて、

それと同じ生命力が自分の内に宿っていることを説き、
次の如く結論しているのである。

「諸君に宿っているところの生命力もおよそかくの如きものである。
 生命がかくも執拗にたくましく、埋没されても、圧下されても、
 滅びることを知らずに伸びることのみを知って退嬰しないのは
 生命とは『神』であるからである」(『人生を前進する』 200頁)

        <感謝合掌 令和2年7月30日 頓首再拝>

智慧と愛と美 - 伝統

2020/09/01 (Tue) 04:49:54

        *「光明法語」(9月1日)より)

生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。

智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。

生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。

アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。

アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。

        <感謝合掌 令和2年9月1日 頓首再拝>

普遍とその個體化 - 伝統

2020/09/02 (Wed) 04:38:38


        *「光明法語」(9月2日)より)

普遍にして無限なる「一」の生命は
如何にして自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと云えば、
普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。

表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。

普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。

        <感謝合掌 令和2年9月2日 頓首再拝>

生命は、無空間の無限相の存在である - 伝統

2021/01/10 (Sun) 04:24:15


           *「光明道中記」(1月10日《自在を得る日》)より

【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
 ・・・空間の上に投影されたる生命の放射せる観念の紋(あや)。
 これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】


「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、
空間は心が認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。

画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。

画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、
それは寸法を超えたものである。

1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、

その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って
無限に多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。

無寸法にして無限寸法のものであり、
無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。

生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に
肉体と云う反影(リフレクション)を投げかけているものが生命だ
と知れるのである。

だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。

            <感謝合掌 令和2年1月10日 頓首再拝>

生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って肉体と云う装置を支配している - 伝統

2021/01/12 (Tue) 02:55:52


      *「光明道中記」(1月12日《生命の神秘を拝む日》)より

【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。(『生命の實相』第ニ巻)】

肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。

それは毛細現象と云う毛細管が液体を吸着する力によってのみ循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、
心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。

併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、もう血液は循環しなくなるのである。

所詮は物理的構造はその補助であって、生命機能の本体ではないのである。

生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って
肉体と云う装置を支配している。

そのためにこそ肉体は「生命体」として普通の物質を試験管に入れたのとは
異なる物理化学的発展を遂げるのである。

生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。

            <感謝合掌 令和3年1月12日 頓首再拝>

生命は前進するのみ - 伝統

2021/04/17 (Sat) 04:12:44


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者はついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

            <感謝合掌 令和3年4月17日 頓首再拝>

生命の生長 - 伝統

2021/05/15 (Sat) 04:37:11


【衝撃】今あなたの生命を成長させる時が来ました!!
大天使ラファエルからのメッセージがヤバすぎる!!
【スピリチュアル】ワンダーウォール !(2021.05.13)

https://www.youtube.com/watch?v=P85zIC6KnFg

            <感謝合掌 令和3年5月15日 頓首再拝>

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