伝統板・第二
業の否定 - 伝統
2017/10/03 (Tue) 04:47:42
不完全な姿を否定せよ!
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
<十月「円満具足」10月3日>(P93)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、
過去の波動をつかんで、それを実在のごとく見るのはちょうど映画において
過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、ずっと後(あと)になって
映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、
ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 平成29年10月3日 頓首再拝>
愛することにより、業は消滅する - 伝統
2017/10/19 (Thu) 04:49:12
*『 生長の家 』(昭和25年1月31日の法語)より
《愛はすべての罪を消す》
愛は すべての罪を消す所の もっとも強力なる力である。
然し一党に偏して 一方を憎むが故に
もう一方を愛するというような愛し方は、
実は 愛ではなくして執着であるから、
そんな愛では 決して罪は消えないのである。
愛しようと思うならば、まず憎みを放たなければならないのである。
「 神に赦(ゆる)される 」 ということは、
「 業が消える 」 ということを いいかえたにすぎないのである。
業が消えるためには すべての人間を赦し、愛し、
心を尽し、言葉を尽し、行いを尽して
その愛を実践しなければならないので、
愛行の中にとびこみ、 「 わしが愛する 」 というような
傲(おご)りの心なしに、自からが空っぽになって、
神が吾に於いて 人を愛するというようになった時、
もう自分は空っぽであるから、
自分に まつわりついている業も罪もないのである。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/27f8b7ceb317db6de165e006a9fe4eab
<感謝合掌 平成29年10月19日 頓首再拝>
《凡夫は三業に翻転せられて止まる所を知らず》 - 伝統
2017/11/03 (Fri) 03:27:05
*「生長の家」(昭和51年6月12日の法語)より
「南無阿弥陀仏」と称名念仏して、極楽浄土に往生するという
浄土教の諸宗の教義の場合を考えてみるならば、
称名念仏することは「コト バを発する」ことであり、
「コトバの力」の応用である。
ところで称名念仏しようと思うのは、先ず” 心”が思うので
あるから「心動き出でてコトバ となる」ということである。
コトバは「心のエネルギー」の上に乗ったアイディアの展開である。
”心”は動き出でてコトバとなり、
その「コトバの力」によって万物は展開してあらわれる。
その万物を見て”心”が動く。
かくて再びコ トバが生じ、コトバによって万物が生じ、
その万物を見て”心”が動く、永遠に循環展伝して
繰返して止まるところを知らないのである。
これを意業・口業・身業ーー三業の流転といい、
業の流転のままに流され動かされていることを
「業力に転ぜらる」と言うのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
<感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>
業は、妄(まよい)から起る - 伝統
2017/11/15 (Wed) 04:49:31
*「光明道中記」(11月15日恐怖心が全然なくなる日)より
【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめう。(『生命の実相』第一巻)】
南岳禅師、嘗て病気をしたときに、自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。
以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、生長の家の説くところと同一である ――
「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
業と云うものは何処から起る、妄(まよい)から起る。
それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。
其業を作る所から病気が起って来る。
病気は元(も)と業だ。
業は元(も)と妄(まよい)だ、妄の源(みなもと)は心だ。
サア心と云うものは何だ。
心は無生(むしょう)としてある。
其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
全体姿形のあるものでない。
そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、
病は平癒したと云う事がある。
病を根底から直した。
それで自分の病気は心から妄となり、
妄から業と云う事になって来ている事である。」
口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、心も無と知り、
無いものから生じた病気も無と知り、大安心に達したとき
自然療能力で病気が治るのは今更(いまさら)始まったことではない。
<感謝合掌 平成29年11月15日 頓首再拝>
《業の形成と解消》 - 伝統
2017/12/05 (Tue) 03:37:48
*『幸福を招く365章』第1項(P18~) より
強烈に思念したこと、感情の底深く思いつめたこと、
最初はそんなに強烈に思ったことでなくても、
それが反復して思ったり、心に描いたりしたこと、
呆然として或る程の精神統一状態にあるときパッと投げかけられた暗示
――これらは潜在意識に蓄音機のレコードのように刻みつけられて「因」となり、
それが動き出す「縁」が来るのを待っているのである。
そしてそれが動き出せば必ず、その潜在意識にきざまれた通りの動き方をする。
戦争も、多くの個人的殺人も、経済界の動きも、個人の性格的な行動も、
それによって左右せられるのである。
それを宗教家は「業の催し」だと云う。
しかし業とは心の業(わざ)である。
心の方向を一転することによって業の方向が変わるのである。
<感謝合掌 平成29年12月5日 頓首再拝>
《一切の業から超出する道》 - 伝統
2017/12/21 (Thu) 03:19:58
*『幸福を招く365章』第1項(P19~20) より
「性格」と云うものは、反復して心に描いていたものが、
その方向に動き易くなった「人間の心の型」を云うのである。
吾々は一度や二度練習してもピアノを上手に弾くことはできないけれども、
幾度も繰返しているうちに、努力なしに自然に指が動くようになって来る。
更に反復していると、「月光の曲」と題を思うだけで、
その曲譜の通り自然に指が動くようになる。
それと同じく、性格を自分の思うように改めるのも、
最初は自分の想念を自分で支配することが出来なくとも、
幾回も繰返しているうちには
何の苦もなく自分の想念を支配し得るようになって来る。
先ず神想観して、
「吾は神の子である。いと優れたるものである。吾は霊である。
霊は自由自在であるから自分は何ものにも支配せられない。
自分は一切の業から超出せるものである」
と思念する練習を毎日繰返すが好いのである。
<感謝合掌 平成29年12月21日 頓首再拝>
《善業つねに循環す》 - 伝統
2018/01/08 (Mon) 03:57:48
*「生長の家」(昭和51年6月13日の法語)より
「業が深い」などというと、
過去の悪業の蓄積が多いことに普通用いられているけれども、
業というものには善業もあり悪業もあるのである。
善業の展開として生じたる幸福や健康や繁栄を見て、
心が幸福や健康や繁栄を心に描く。
心に描かれたこのが、また具象化するという法則に従って、
また幸福、健康、繁栄が現われ無限に連鎖循環するに至ることが
善業を積んでおけば起こるのだから、業力に翻転せられていることは
必ずしも悪くはないのである。
それは善 業の永遠の流転となって、積善の報いとして
善き現象があらわれて来るので、その善き現象を見て
”心”がよろこび、”心”がよろこんで明るくなるので、
明るい積極的な愛他的な行為が出来る。
そして自然に和顔となり、感謝となり 、親切丁寧なコトバが出て来、
善きアイディア が発想せられて来るのである。
このようにして 、運の好い人はいつまでも好運にめぐまれ、
その好運が常につき添って幸福な生活が自然に送られて来るように
なるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
<感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>
《あなたは”過去の業”の後押 しをしていないか》 - 伝統
2018/01/25 (Thu) 04:26:01
*「生長の家」(昭和51年6月23日の法語)より
自分自身が”心の力”を加えて、不幸や病気をつくる
”過去の業”を後押しして運行せしめているのであるから、
”過去の業”に引きずられて、
その業の運転する方向へ進んで行くほかはない。
そして「因果は免れることは出来ない」とか
「業というものは果たさなければならない」とか
思ったりして”呟く”のである。
わたしが一般人は、過去の業の轍に”心の力 ”を加えて
後押ししているというのは、「過去の業は果たさねばならない」
とか「因果は免れることは出来ない」とか思うことを
指して言うのである。
「思う」ということ は「意業」のエネルギーを加えて
更に”過去の業”に後押ししていることであり、
それを言葉に出して言ったり呟いたりすることは、
”言葉の業”(即ち口業)によって、”過去の業”の運行に
拍車をかけて益々、その業力を強めて、自分自身が
”業 ”の運行に引き 摺られて行くことになるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
<感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>
業苦を横超(おうちょう)する世界に出る - 伝統
2018/06/11 (Mon) 03:55:16
*『生命の實相』第25卷教育実践篇上(P171~174)より
三界は唯心の所現であり、業の流転でありますから、
その根本原因たる「心」を治さないでいて「不幸」を取り除こうとすると、
それが他(た)の形の「不幸」になるのは当然であります。
病気は治ったが貧乏になったという人もありますが、
児童の「成績不良」というのも業の所現でありますから、
「成績不良」ばかりを治そうとしてやたらに学業を詰め込むと、
家庭教師や参考書代に金を払って「成績不良」という「業」の現われは消える代わりに
「貧乏」という「業」の現われとなって出るか、あまり詰め込んだり、
入学試験に恐怖した結果、児童の健康を損ねて、成績不良が「病気」という
業の現われに転換して出てきたりするのであります。
成績不良 ―― 病気 ―― 貧乏 ―― こういうふうに一つの業の現われは、
動機を与えて流転せしめると形は変化して出るけれども、
内容においては、依然としてわれらにとって「不幸」なるものとなって、
その人に潜在する業が形を顕わすのであります。
そういう人が、何か事業に成功して金持にでもなるとしますと、
子供が不良青年になって成績不良になって顕われ、
あるいは、妾(めかけ)でも蓄えて家庭が不和になってみたりして、
業は循環流転して、その不幸は尽くるところをしらないのであります。
病気の治療でも対症療法というのがそれでありまして、
病気の根源、病気の本体を衝(つ)かないで、一つの症状を攻撃する ―― たとえば、
高熱で苦しいので熱を下げるために解熱剤を用いますと、一時高熱は下がって、
下がっている間は苦痛は少ないのでありますが、
体温は抗菌作用として高まるのですから、熱が下がっただけ病菌の活力を増し、
あるいは血液中に薬毒の侵入を受けてピリン疹を生じたり、
時には胃腸を害したり、心臓に悪影響を与えたりするのであります。
そんなことが仮に起こらない完全な治療法を行なうとしますと、
病気は治って貧乏という経済病に転じたりします。
苦しい業の顕われは、その一つを避けようとして攻撃すると、
このように必ず他の形に業が転じて以然としてわれわれの苦しみは尽きないのであります。
こんなことではわれわれは永遠に業の苦縛(くばく)から
脱することはできないのであります。
ではこの業の苦縛から脱する道はないのでしょうか?
否、否、それはないことはありません。
自己内在の「神の子」を悟ることであります。
自己内在の「神の子」を知ったときに
「神の子」はすでにいっさいの業が贖(あがな)われていますがゆえに、
もうそのような業の流転の世界に這入ることはないのであります。
キリスト教的に言えばすでにキリストは、われらに代わって磔けにかかって
業(罪)をつぐないたまうたがゆえに、キリストに結びついて、
「吾れ神の子」を悟るときに、われらはもう業の苦縛に縛られるということは
ないのであります。
仏教的に言えば、法蔵菩薩はすでにわれらのいっさいの業を横超すべき本願を
成就して阿弥陀仏となり極楽浄土を造りたまいしゆえに、われら阿弥陀仏の本願に
つながり「我れ仏子なり」と自覚するときは、もうこの業の苦縛を受けることは
ないのであります。
ひとたび、「我れ神の子なり、我れ仏子なり」との自覚を得るとき、
われらは心の底より、いっさいの業苦を横超(おうちょう)する世界に
でることができるのであります。
第三者より見てなお困難と見ゆる世界に彼は住むといえども、
彼はすでにかかる困難を横超せんがゆえに、困難としては感じないのであります。
彼にとってはなお盤根錯節(ばんこんさくせつ)はありといえども、
すでにそれは苦しみではないのであります。
盤根錯節は「生命(せいめい)」がたわむれるための一つの運動具である。
諸君はスキーを多難だと言うか。
登山を不幸だと言うか。
ゴルフを艱難だと言うか。
競泳を悲惨だと言うか。
いかなる苦しみも戯(たわむ)れに化するとき人生は光明化し、
そこから剛健なる無限の生命力が湧いてくる。(『光明の生活法』より)
とあるように、その人にとっては人生のいっさいが、
平凡な茶判事(さはんじ)も困難も苦痛もいっさいが光明化してしまうのであります。
人生のいっさいが光明を点じ、希望を点じ、興味を点ずるのは
「汝、神の子なり」のこの中心教育よりくるのであります。
<感謝合掌 平成30年6月11日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2018/06/20 (Wed) 04:40:02
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、解剖せられるのは
業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには神想観をして神の
「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」 と念じて、
神の 「完(まった)き《いのち》」 の中に没入してしまうことである。
神の 「《完きいのち》」 の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 平成30年6月20日 頓首再拝>
業は 業であって、自分は 神の子である - 伝統
2018/08/01 (Wed) 04:31:14
*『 生命の實相 』第21巻経典篇(P20~21)より
われわれが
「 人間は 神の子である。ああそうだ 」
と気がついたら ちゃんと みんな成仏しているのです。
みんな仏であるのです。
けれどもそこに昔の薫習が、
遠方の星の光のようにちらちらとある期間光っている。
その光っている星のまたたきのようなものがわれわれの薫習として
残っていて、時々羊や犬に育てられたライオンが実相を忘れて
羊の真似をしたり、犬の真似をするように、
われわれは 神の子である 仏の子である と悟っていて
時々 煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぷ)のような
真似(まね)をするのであります。
煩悩具足の真似をしても、それは 業(ごう)がするのであって、
自分は 神の子である 仏である と悟れば、
もう 自分というものの内容(なかみ)が置き替わっている。
今までは 業を 自分だ と思っていたが、今は 業は 業であって、
自分は 神の子である とチャンと 分離していて、
業 本来 実在では ない、
神こそ渾(すべ)ての 渾てだ と解(わか)っているので、
業が どんなに自叙自壊(じじょじかい)しても、
それに 捉(とら)われなくなるのであります。
神こそ渾(すべ)て である。
迷いはない、この世は 光明一元の世界である ――
このことが悟れると、心に認めたものだけが 現象世界に現(あら)われるのが
現象顕現(げんしょうけんげん)の法則であるから、
光明一元の世界が そこに現われて現象界は ただ ただ
「 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、
いっさいの生物(せいぶつ)処(ところ)を得て争うものなく、
相(あい)食(は)むものなく、病(や)むものなく、苦しむものなく、
乏(とぼ)しきものなく 」 供給無限の理想世界が 顕現するのであります。
だから われらは 何よりも、光明一元の世界、善のみの世界、幸福のみの世界で
あるところの 「 実相の世界 」 を十分認識して、それのみが 実在であり、
暗黒の世界、悪の世界、不幸の世界は 実在するかのように見えても
非実在(ひじつざい)であるということを 知らねばならないのであります。
<感謝合掌 平成30年8月1日 頓首再拝>
現象界は、宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3 - 伝統
2018/09/09 (Sun) 03:44:51
*「光明道中記」(9月9日 善業有りがたき日)より抜粋
【祈ってから五官に証拠を求めるな。
祈ったとき既にそれは成就している(『生命の實相』第ニ巻)】
過去に「つくれる罪」の機械的流転によって
一切のものが内部から催して来るのであったならば、
其処に自由意志はあり得ない。
自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。
汽車が疾走中大風吹き来って自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、
その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。
『生命の實相』第五巻には、
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。
<感謝合掌 平成30年9月9日 頓首再拝>
実相を観ずるといっさいの業障は消える - 伝統
2018/10/02 (Tue) 04:07:35
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
<十月「円満具足」10月2日>(P92)より
過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。
ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。
過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。
生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに新たなる創造を成しつつあるのである。
過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。
端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。
<感謝合掌 平成30年10月2日 頓首再拝>
ありもしない業を否定せよ! - 伝統
2018/10/03 (Wed) 03:15:39
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
<十月「円満具足」10月3日>(P93)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、それを実在のごとく
見るのはちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 平成30年10月3日 頓首再拝>
業は元(も)と妄(まよい)だ - 伝統
2018/11/15 (Thu) 03:05:15
*「光明道中記」(11月15日 恐怖心が全然なくなる日)より
【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめう。(『生命の実相』第一巻)】
南岳禅師、嘗て病気をしたときに、自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。
以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、生長の家の説くところと同一である ――
「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。業と云うものは何処から起る、
妄(まよい)から起る。それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと
心から起る。其業を作る所から病気が起って来る。
病気は元(も)と業だ。業は元(も)と妄(まよい)だ、妄の源(みなもと)は心だ。
サア心と云うものは何だ。心は無生(むしょう)としてある。
其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
全体姿形のあるものでない。
そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、
病は平癒したと云う事がある。
病を根底から直した。
それで自分の病気は心から妄となり、妄から業と云う事になって来ている事である。」
口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、病気の本源を探ね行き、
心に到達し、心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、大安心に達したとき
自然療能力で病気が治るのは今更(いまさら)始まったことではない。
<感謝合掌 平成30年11月15日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2019/06/20 (Thu) 04:38:46
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和元年6月20日 頓首再拝>
《潜在意識の役割に就いて》 - 伝統
2019/07/28 (Sun) 04:39:33
*「眞理」第9巻生活篇第13章(P358~359) より
「霊」が人間であり、「肉体」はその使命遂行の道具であり、
肉体の構造過程を指導するのは「霊」であるが、
それは「潜在意識」を媒介として、
肉体を構築する工人(こうにん)が監督せられる。
「霊」は設計者であり、潜在意識は現場監督の技師であり、
細胞は工人(こうにん)である。
人間の「霊」は神の分霊であるから、人体を完全に設計しているので
あるけれども、潜在意識と云う技師は時々「自分考え」をもっていて、
「霊」が本来設計した通りに工人(こうにん)を指導しない事がある。
潜在意識が憎しみの念や、悲しみの念や、自暴自棄の自己破壊の念に
かられている時には、それによって指導が歪められ、設計通りに
肉体と云う建造物が出来上がらない事がある。
潜在意識の中につみ重ねられている悪念や迷いの念は
仏教で所謂(いわゆ)る「悪業」として作用して、
生まれつきの奇形児などを生ずる事にもなる。
<感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>
如何なる業もそれを超越して弥陀の本願は救い給う - 伝統
2019/09/07 (Sat) 04:56:56
*「光明道中記」(9月7日《自然と悪癖が治る日》)
【仏教の無明縁起は「創世記」の第二章アダムの原罪に一致する。
(『生命の實相』第十三巻)】
(歎異抄十三条)
弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、
また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。
この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
・・・そのかみ邪見におちたるひとあて、
悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、
わざと好みて悪を造りて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうに
あしざまなる事のきこえ候ひしとき御消息に、
くすりあればとて毒をこのむべからずと、
遊そばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。
またく、悪は往生のさはりたるべしとには非ず。
阿弥陀仏のどんな悪人でも救わずに置かぬ本願が如何に不可思議力であるからとて、
それでは盛んに悪を犯してやれと云うのでは「本願ぼこり」と云うものであって
往生極楽は出来ない――
斯う云う議論をする者は救いは絶対であり、業は相対なのである事を知らぬものである。
如何なる業もそれを超越して弥陀の本願は救い給う。
その絶対的救いの否定し難き事実とは別に、
悪人を救おうと云うのが弥陀の本願であるとてわざと
好んで悪をする者がある由(よし)聴えて来たときに親鸞聖人は
「くすりあればとて毒をこのむべからず」とお書きになった。
<感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>
正しき宿業観 - 伝統
2019/09/09 (Mon) 04:00:50
*「光明道中記」(9月9日《善業有りがたき日》)
【祈ってから五官に証拠を求めるな。祈ったとき既にそれは成就している
(『生命の實相』第ニ巻)】
(歎異抄十三条)
またあるとき唯円房はわがいふことをば信ずるかと
仰せの候ひしあひだ、さん候ふと申し候ひしかば、
さらば、わがいはんこと違(たが)ふまじきかと重ねて仰せの
候ひしあひだ、謹(つつし)んで領状(りょうじょう)
申して候ひしかば、喩(たと)へば
ひと千人殺してんや、然(しか)らば
往生は一定(いちじょう)すべしと仰せ候ひしとき
仰せにては候へども、
一人もこの身の器量にては殺しつべしとも覚(おぼ)えず候ふと
申して候ひしかば、さては、如何に親鸞が言ふことを違ふまじきとは言ふぞと。
これにて知るべし。何事も心に委(まか)せたることならば、
往生のために千人殺せと言はんに、乃(すなは)ち殺すべし。
然れども一人にてもかなひぬべき業縁(ごうえん)
なきによりて害せざるなり。わが心のよくて殺さぬにはあらず。
過去に「つくれる罪」の機械的流転によって
一切のものが内部から催して来るのであったならば、
其処に自由意志はあり得ない。
自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。
汽車が疾走中大風吹き来って自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、
その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。
『生命の實相』第五巻には、
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。
<感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>
罪が消えるのは、神の約束(仏の本願)による - 伝統
2019/09/16 (Mon) 03:43:43
*「光明道中記」(9月16日《価(あたい)なくして受ける日》)
【汝のニセ物の仮面を剥げ、ニセ物の罪状をあらわにせよ。
(『生命の實相』第十一巻)】
(歎異抄十四条)
念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、
すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。
もし然(しか)らば一生のあひだ思ひと思ふこと
皆生死(しょうじ)のきづなにあらざることなければ、
生命(いのち)尽きんまで念仏退転せずして、往生すべし。
念仏を申すごとに、「これで罪が消える」と信じて念仏するが如きは
「念仏申す」と云う自己の行為の力で罪を消すと思っている力みである。
「これで罪が消える」と云う自力の行(ぎょう)も悪いことはないが、
それならば言いたいことがある。
一生のあいだ常に吾々の思い思うこと、
生死超越の障(さわ)りとなる執着煩悩に関係しないことは
一つだってないのであるから、毎日毎日その執着煩悩の数だけずつ
念仏を称えなければ救われないと云うことになるだろう。
聖書(バイブル)の中にも
イエスは譬(たとえ)をもってこのことを説いている。
或る葡萄園の主人が、朝雇い入れた園丁も、昼雇い入れた園丁も、
夕方もう仕事の終りころに雇い入れた園丁も、同一の給料を支払った。
そして葡萄園の主人は神であり、働き人は人間の譬えである。
この実話によってイエスは、人の救われるのは、
その働いた分量によるのではなく
神の約束(仏の本願)による事を示し給うたのである。
<感謝合掌 令和元年9月16日 頓首再拝>
端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消える - 伝統
2019/10/02 (Wed) 04:14:59
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より
過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。
ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。
過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。
生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに
新たなる創造を成しつつあるのである。
過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。
端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。
<感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>
不完全な姿を否定せよ! - 伝統
2019/10/03 (Thu) 04:51:29
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、
過去の波動をつかんで、それを実在のごとく見るのは
ちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて
見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、
ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>
根本的なる善業とは? - 伝統
2019/10/19 (Sat) 04:31:38
*『如意自在の生活365章』(P59~60)より
善き業にもいろいろある。
他に金銭を恵むのも善き業であり、真理を伝えるのも善き業である。
もっと根本的な善業は、神の善意を信ずることである。
神を、神罰の本源や、災禍の本源であるかのごとく信ずるならば、
それは根本的な悪業を積むことになるのである。
神は健康の本源であり、力の本源であり、美の本源であり、
富の本源であり、繁栄の本源であるのである。
その本源を正しく認めて、その本源と融合して、
神の”み心”とともに生活するように心懸けるのが、
本当の根本的な善業である。
単に金銭を人に与えることは必ずしも善業にはならないことがある。
誰に、何を、何の目的で与えるかが問題である。
<感謝合掌 令和元年10月19日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2020/06/20 (Sat) 04:51:37
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>
罪業無の自覚 - 伝統
2020/07/07 (Tue) 04:48:31
*「光明道中記」(7月9日《病人に真理を語れば病い消ゆる日》)より
【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】
「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」僧璨(そうさん)が斯う言った
のは清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。
併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、本来の清浄心
(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。
罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気があるとしか考えられないのである。
或る日僧璨(そうさん)は、
「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 と言った。
「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。滅罪の法をして進ぜよう」
と慧可は言った。
僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。
「罪業は求むれども見当りませぬ」
「罪はそのように無いものじゃ」
ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。
僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。
キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。
それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。
<感謝合掌 令和2年7月7日 頓首再拝>
三業に翻転せられる生活から脱却する道 - 伝統
2020/07/26 (Sun) 04:19:18
*「生長の家」(昭和51年6月12日~15日の法語)より
十二日の法語
凡夫は三業に翻転せられて止まる所を知らず
「南無阿弥陀仏」と称名念仏して、極楽浄土に往生する
という浄土教の諸宗の教義の場合を考えてみるならば、
称名念仏することは「コト バを発する」ことであり、
「コトバの力」の応 用である。
ところで称名念仏しようと思うのは、先ず” 心”が思うのであるから
「心動き出でてコトバ となる」ということである。
コトバは「心のエ ネルギー」の上に乗ったアイディアの展開である。
”心”は動き出でてコトバとなり、
その「コ トバの力」によって万物は展開してあらわれる 。
その万物を見て”心”が動く。
かくて再びコ トバが生じ、コトバによって万物が生じ、
その万物を見て”心”が動く、永遠に循環展伝して
繰返して止まるところを知らないのである。
これを意業・口業・身業 ―― 三業の流転といい、
業の流転のままに流され動かされていることを
「業力に転ぜらる」と言うのである。
・・・
十三日の法語
善業つねに循環す
「業が深い」などというと、
過去の悪業の蓄積が多いことに普通用いられているけれども、
業というものには善業もあり悪業もあるのである。
善業の展開として生じたる幸福や健康や繁 栄を見て、
心が幸福や健康や繁栄を心に描く。
心に描かれたこのが、また具象化するという法則に従って、
また幸福、健康、繁栄が現われ無限に連鎖循環するに至ることが
善業を積んでおけば起こるのだから、業力に翻転せられていることは
必ずしも悪くはないのである。
それは善業の永遠の流転となって、
積善の報いとして善き現象があらわれて来るので、
その善き現象を 見て”心”がよろこび、”心”がよろこんで明 るくなるので、
明るい積極的な愛他的な行為が 出来る。
そして自然に和顔となり、感謝となり 、親切丁寧なコトバが出て来、
善きアイディア が発想せられて来るのである。
このようにして 、運の好い人はいつまでも好運にめぐまれ、
その好運が常につき添って幸福な生活が自然に送られて来るようになるのである。
・・・
十四日の法語
あなたの生活を「幸福新幹線」 に乗りかえなさい
以上は常に善業を蓄積している人のことであるが、
過去に悪業を積み重ねて来て、暗い現象 を見、心が暗くなり、
心に暗いアイディアのみ が想い浮び、そのアイディアの具象化として
暗い運命、不幸や災厄や病気のおとずれに見舞われ、
その現象を見て、更に心が暗くなって、
暗い事のみ心に思い浮かぶような気の毒な人は、
どうしたらこの業の流転を喰い停め、業力に翻 転せられる事なしに、
幸福の”人生電車”に乗 り換えることができるのだろうか?
それは、”不幸の業力”の電車に乗っているままだから、
その「不幸電車」が運んで行くところについて行くより仕方がないのである、
「 幸福新幹線の電車」に乗り換えればよいのである。
・・・
十五日の法語
観の原点を「実相世界」に移すこと
「幸福新幹線」に乗り換えるというのは、 言葉はやさしいけれども、
一体、具体的に は、どうすればよいのであろうか。
人間の 住む世界は”心の世界”であるから、
”自分の 心”が不幸 ばかりの”暗い世界”を描いて、
その自分の描いた”暗い世界”に、”自分の 心”が今まで住 んでいたのであるから、
そん な”暗い世界”か ら”自分の心”を呼び出せば よいのである。
「一躍超入実相地」ともい うべき境地に入るのである。
今まで”自分の 心”という”生活の 原点”が、
”現象の脚場”の 上に立ち、”現象 の周囲”を見廻して、
その 現象の暗さのみを見て、暗いアイディアを 積み重ねて来たために、
そのアイディアの 具象化としての暗い世界ばかりがあらわれていたのであるから、
今度は、「われ今五 官の世界を去って、実相の世界に入(い)る」と、
神想観実修の最初の「観の原点」 の転換をするために唱える言葉にある如く、
今まで”五官の世界”(現象界)に立って、
現象界の暗い事象のみを眺めて来ていた其の「観の原点」を、実相世界に移すのである。
そして新しき”観”がはじまる。
神の無限に完全なる智慧が満ち、その、完全なる智慧によって
構図されたる無欠の実相世界が今ある。
其の万徳現前の世界を”観る”のである。
”観る ”ことは、”既にある”ものを顕すことになるのである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363 )
<感謝合掌 令和2年7月26日 頓首再拝>
神の根本業こそ本当の実在である - 伝統
2020/08/10 (Mon) 04:51:04
*「生長の家」(昭和51年6月21日~26日の法語)より
二十一日の法語 ~ 人間の根本運命には不幸も病気もない
だいたい”運命”の”命”という字はイノチ とも ミコトとも読む字である。
ミコトとはミコ トバ(御言)のことであって、
人間のイノ チは神のミコトバが宿っていて、
それがわれわれの人体に運(めぐ)り循環しているので、
われわれは生きているのである。
新 約聖書の『ヨハネ伝』に、
「言(ことば)は肉体となりて我らの中 (うち)に宿りたまえり。
我らその栄光を 見たり」(第一章十四節)
とある。
根本運命とはこの一節に録(しる)されている
われらの内に宿るところの”栄光”であるのである。
この栄光ある”神の子”としての実相を、”根本運命”又は”根本業”として 、
神の像(かたち)の如く、不可視の神の像(かたち)が、
可視的像(かたち)をもって生まれて来たのが人間であるのである。
この”根本運命”として授かって来た”命”をそのまま歪めることなしに
運行せしめて来たならば、人間はいつまでも本来の完全の相(すがた)にあらわれて、
病気や不幸はあり得ない筈なのである。
”根本運命”というのは、
「人間は”神の子”であり、あらゆる方面に於いて完全円満無 欠である」
ということである。
これは変わることなき人間の享けた根本の運命である。
・・・
二十二日の法語 ~ 中間運命について
第二の中間運命というのは、人間が自己の肉体的顕現を見て、
自己を物質的存在であり、有限の存在であり、
他より奪わなければその”有限”を何とか”やり繰り”できない
不完全な存在だと誤認することによって、 実相の完全な顕現の上に、
”迷い”のヴェー ルを着せられ、実相が眩まされて不完全に
あらわれて生活が狂って来た、その狂って来た生活に於いていとなんだ
”間違いの業”の運行が中間運命として、現世の生活にあらわれているのを指すのである。
その中間運命の現在の運行の轍から大抵の人は免れることができない。
それは自分自身が造った業であり、その業の轍の運行に 今も自分が関与して、
それを運(めぐ)らす”心の力”をそれに加えつつあるからである。
・・・
二十三日の法語 ~ あなたは”過去の業”の後押しをしていないか
自分自身が”心の力”を加えて、不幸や病気をつくる
”過去の業”を後押しして運行せしめているのであるから、
”過去の業”に引きずられて、その業の運転する方向へ進んで行くほかはない。
そして「因果は免れることは 出来ない」とか
「業というものは果たさな ければならない」とか思ったりして”呟 く”のである。
わたしが一般人は、過去の業の轍に”心の力 ”を加えて後押ししているというのは、
「過去の業は果たさねばならない」とか「因果 は免れることは出来ない」とか
思うことを指して言うのである。
「思う」ということは「意業」のエネルギーを加えて更に
”過去の業”に後押ししていることであり、
それを言葉に出して言ったり呟いたりすることは、
”言葉の業”(即ち口業)によって、”過去の業”の運行に拍車をかけて
益々、その業力を強めて、自分自身が”業 ”の運行に引き摺られて
行くことになるのである。
・・・
二十四日の法語 ~ あなたの根本運命に超入せよ
あなたが、もし”過去の業”を”心の力”( 意業)や”口業”(言葉の力)によって
後押しをしているならば、即刻、今それを止めなさい。
つまり言葉や呟よって、「自分には 悪い業がつきまとっている」とか
「業は果 たさねばならない」とかいうことを表現することを止めなさい。
そして、「人間・神の子」の地上誕生の” 原点”に心を振り向けなさい。
あなたは決して、”過去の業”を”誕生の原点”として
この世 に生まれてたのではなかったのです。
”心”を 一躍させて、”神のコトバ”によって創造られて
完全な自性をもって生まれた其の原点に還るのです、
『創世記』が示すところの「神の像(かたち)の如く人を創造(つく)り」と
神が仰せられて、人間をつくり給うた”人間の根本運命”に立ちかえるのです。
根本運命だけが、青空のように常住なのです。
”中間運命”に心を 引っかからせて現実の不幸や病気を悩んではなりません。
”中間運命”は、青空の上に途中から湧き出た”雲”のようなも のであり、
それは根本実在ではないから、 あなたが”心の力”で それを握って、
消えるのを妨げない限り必ず消えるのです。
あなたの”心”の中から”中間運命”に過ぎない不幸や病気を、
今直ぐ放ち去って、常住の存在である青空の如き、
あなたの根本運命「人間・神の子の実相」に想いを馳せ、
その根本運命こそ実在だ、そのほかに何もないのだと、
「実相」の中に超入するのです。
・・・
二十五日の法語 ~ 自己の実相たる神の根本業を観よ
わたしは人間の運命を「根本運命」 「中間運 命」「未来運命」という語で
説明して来ましたが、それを次の 如くを言い換えれば、
人によっては 一層理解し易いかと思います。
”運命” という語を”業”という語におきかえるので す。
一、根本業(根本運命)
二、中間業(中間運命)
三、未来業(未来運命)
「根本業」というのは、神のコトバによって 、天地一切のものを支配すべき
「神の代表」( 神の像(かた ち))としてつくられたところの 、
あなた自身の存在の根元たる神のみ業 (わざ )のことであります。
”神のコ トバ”が「汝、わが像(わが代表)と して天地一切のものを支 配せよ」
と 仰せられた。
その「コトバ」が我ら の内に宿り給うて地上に誕生した
自己の実相の 尊厳さと栄光とを”自覚”の に観るのであります。
「ここに神の御業によって誕生した”神の子 ”たる自分がある」と、
今 直ちに自分の実相の 完全さを観、”神の子”の完全さを繰り返しコトバに唱え、
繰返し心で念じなさい。
また毎朝神想観のときに念じなさい。
病気なんていう 中途に出来た”迷いの雲”は 吹っ飛んでしまうでしょう。
・・・
二十六日の法語 ~ 神の根本業こそ本当の実在である
「根本業」とか「中間業」とか「未来業」と か申しましたが、
”業”という字 は”わざ” と読む字で行動または行為を表現するのでありますが、
神は 「万物を想うということによって創造った」と仰せられているのであるが、
(『 神 真理を告げ給う』参 照)
”想う”という行為をするとは、何をするかと言いますと、
コトバ即ち アイディアを心の中に思い浮かべ、
それ を心の中で唱えていることであります。
それは 心の中にコトバを唱えていることでありますから、
意業であると共に、口業であります。
それだから”業”という字はわざと読む字でありますが、
業(鳴り)とも読まれる字であります 。
在原業平という 『伊勢物語』に出て来る有名な歌人 もありましたが、
生活とか渡世とかいう 意味の語に「なりわい」(業生 い)という語もあります。
兎も角、
「元始(はじめ)にコトバあり、コトバは神とともにあり、コトバは神なりき」
という『ヨハネ伝』 の冒頭の語は、神の”根本業 ”として
コトバ(アイディア)が業(わざ)となり行動となって、
”人間神の子”が創造さ れた人間存在の根本業(根本運命)を示すのであって、
その根本業にくらべれば、中間業としての現在 の不幸な運命の如きものは
浮雲のように間もなく消えて行くべきものであります。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363 )
<感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>
業本来無し - 伝統
2020/09/08 (Tue) 03:35:55
*「光明道中記」(9月8日《流れつつ流れを超える日》)より抜粋
【仏教の無常観は、実は生々流転の教である。(『生命の實相』第十三巻)】
誰かが最初に造ったのであるならば、宿業ならざる自由意志的業の問題が生ずる。
また誰も未だ「つくるつみ」を造ったことが無いとするならば、
その「つくる罪の宿業」なるものも、
有るように見えても本来無いものであると云うことに帰着するのである。
真宗では「つくるつみ」の存在を認めて罪悪深重の凡夫と言い
生長の家では「つくるつみ」は存在せずしてと罪本来無いと言う。
<感謝合掌 令和2年9月8日 頓首再拝>
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3 - 伝統
2020/09/09 (Wed) 03:04:06
*「光明道中記」(9月9日《善業有りがたき日》)より抜粋
【祈ってから五官に証拠を求めるな。祈ったとき既にそれは成就している
(『生命の實相』第ニ巻)】
過去に「つくれる罪」の機械的流転によって
一切のものが内部から催して来るのであったならば、
其処に自由意志はあり得ない。自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。
汽車が疾走中大風吹き来って自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、
その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。
『生命の實相』第五巻には、宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。
<感謝合掌 令和2年9月9日 頓首再拝>
業に捉われるな、実相を観ぜよ! - 伝統
2020/10/02 (Fri) 03:48:30
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より
過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。
ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。
過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。
生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに新たなる創造を成しつつあるのである。
過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。
端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。
<感謝合掌 令和2年10月2日 頓首再拝>
業を心より放下せよ、不完全な姿を否定せよ! - 伝統
2020/10/03 (Sat) 04:09:19
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、それを実在のごとく
見るのはちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和2年10月3日 頓首再拝>
《過去の”悪業“に負けるな”善業“を創造せよ》 - 伝統
2020/10/21 (Wed) 05:10:13
*『 理想世界 』(昭和42年7月11日の法語)より
潜在意識の録音テープは、吾々のテープレコーダーよりも、もっともっと
精妙に一切の自分の想念・言葉・行為を記録して、どんな精細なことでも、
それを記録からはずしてしまうことはないのである。
そして録音テープをテープレコーダーにかけて音を再生せしめるならば、
前と同じ音をそのまま繰り返すのと同じように、
一度我々が行った行為は、同じような環境条件が再来したときに、
同じような行為を繰り返すことになり勝なのである。
(意志の力によってそれに抵抗し、新たなる良き業を創造するときは別である。)
諸君は常に新しき”良き業”を創造して、”悪しき業”があらわれて
動き出す隙間を与えぬようにしなければならないのだ。
http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6956412
<感謝合掌 令和2年10月21日 頓首再拝>
宇宙の修正力により、業(ごう)は永遠の存在であり得ない - 伝統
2021/06/05 (Sat) 04:53:00
*「光明道中記」(6月5日《罪浄まる日》)
【罪は本来無いから、それに心が捉えられなければ消えるのである。
(『生命の實相』第十一巻)】
若し吾々の「念」そのままに此の世界が現じて来るものとすれば、
若し吾々の日々の憎しみの心の通りに、日々の悲しみの心の通りに、
日々の呟きの言葉の通りに、此の世の中の現象が悉く現れて来るものならば、
此の世界はもっと惨憺たる傷(いた)ましい状態を現出していただろう。
それは、若し吾々の春秋の大清潔法(おおそうじ)のとき
畳を叩くときの埃(ほこり)がいつまでも浄まらないで
空中に渦巻いているとしたならば、
吾等は到底生活に耐えないような環境を見出すだろう。
然るに、神は讃むべきかな、宇宙に浄化力を下ろしたまうて、
常に吾々の立騰(たちのぼ)らす塵埃を浄化して
環境を澄み切らして下さるのである。
それと同じように、吾々の心から立騰(たちのぼ)らす無数の「心の埃」が
その儘、具象化(かたちにか)するならば、それこそ大変であるのに、
神はそれを常に修正していたまうのである。
吾々が暗の中で攪(か)き濁(にご)す心の塵埃もいつの間にか、
神の光で、空中の大気のように浄まって了(しま)うのである。
茲(ここ)に私は宇宙の修正力を観、神の愛を観るのである。
業(ごう)は永遠の存在であり得ないのは此の宇宙の修正力によるのである。
<感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2021/06/20 (Sun) 04:54:22
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和3年6月20日 頓首再拝>
業に捉われるな、実相を観ぜよ! - 伝統
2021/10/02 (Sat) 04:54:11
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より
過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。
ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。
過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。
生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに
新たなる創造を成しつつあるのである。
過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。
端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。
<感謝合掌 令和3年10月2日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2022/06/20 (Mon) 07:23:49
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和4年6月20日 頓首再拝>
不完全な姿を否定せよ! - 伝統
2022/10/03 (Mon) 05:03:22
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、それを実在のごとく
見るのはちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和4年10月3日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2023/06/20 (Tue) 10:12:44
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和5年6月20日 頓首再拝>
「有りがたく受ける」ことで、業は形にあらわれ消えるのである - 伝統
2023/08/10 (Thu) 10:13:09
*「光明道中記」(8月10日《善き言葉のみ使う日》)より
【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。
万物はその言葉通りになる。 (『生命の實相』第六巻)】
すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。
良人は「自分」が近づく以前から
あんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。
凡そ三界唯心の真理は
「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。
即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは
自分の心の反映であると云うことが出来るのである。
良人から見た妻の場合も矢張りそうである。
妻の性格がたとい自分と結婚する以前からそのようであるにしても、
そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。
かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、
ただ「有りがたく受ける」ことである。
ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。
<感謝合掌 令和5年8月10日 頓首再拝>
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3 - 伝統
2023/09/09 (Sat) 11:02:03
*「光明道中記」(9月9日《善業有りがたき日》)より
【祈ってから五官に証拠を求めるな。
祈ったとき既にそれは成就している(『生命の實相』第ニ巻)】
過去に「つくれる罪」の機械的流転によって
一切のものが内部から催して来るのであったならば、
其処に自由意志はあり得ない。
自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。
汽車が疾走中大風吹き来って
自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、
その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。
『生命の實相』第五巻には、
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。
<感謝合掌 令和5年9月9日 頓首再拝>
不完全な姿を否定せよ! - 伝統
2023/10/03 (Tue) 11:54:32
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、
過去の波動をつかんで、それを実在のごとく見るのはちょうど映画において
過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、ずっと後(あと)になって
映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、
ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和5年10月3日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2024/06/20 (Thu) 11:08:41
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和6年6月20日 頓首再拝>
カルマの意味とは?人生の課題と人の縁に秘められた仕組み - 伝統
2024/08/02 (Fri) 09:08:29
カルマの意味とは?人生の課題と人の縁に秘められた仕組み
宇宙の兄弟たちへ(2024年8月1日)
https://www.spacebrothers.jp/2013/12/blog-post_18.html
<感謝合掌 令和6年8月2日 頓首再拝>
カルマの清算を阻害する要因が溢れる時代に生きるには - 伝統
2024/08/25 (Sun) 09:11:32
赦しを自分に与える~カルマの清算を阻害する要因が溢れる時代に生きるには
アトランティスになるな!
進化した世界では、テクノロジーと心は同等に発達していなければ
調和が取れない世界になる。【Saarahat/サアラ】
Torus Star Channel(2024/08/22)
https://www.youtube.com/watch?v=8rtTfj6TGEg
<感謝合掌 令和6年8月25日 頓首再拝>
不完全な姿を否定せよ! - 伝統
2024/10/03 (Thu) 11:52:04
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、
過去の波動をつかんで、それを実在のごとく見るのはちょうど映画において
過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、ずっと後(あと)になって
映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、
ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和6年10月3日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2025/06/20 (Fri) 11:28:59
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和7年6月20日 頓首再拝>
如何なる業もそれを超越して弥陀の本願は救い給う - 伝統
2025/09/07 (Sun) 09:46:26
*「光明道中記」(9月7日《自然と悪癖が治る日》)
【仏教の無明縁起は「創世記」の第二章アダムの原罪に一致する。
(『生命の實相』第十三巻)】
(歎異抄十三条)
弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、
また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。
この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
・・・そのかみ邪見におちたるひとあて、
悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、
わざと好みて悪を造りて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうに
あしざまなる事のきこえ候ひしとき御消息に、
くすりあればとて毒をこのむべからずと、
遊そばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。
またく、悪は往生のさはりたるべしとには非ず。
阿弥陀仏のどんな悪人でも救わずに置かぬ本願が如何に不可思議力であるからとて、
それでは盛んに悪を犯してやれと云うのでは「本願ぼこり」と云うものであって
往生極楽は出来ない――
斯う云う議論をする者は救いは絶対であり、業は相対なのである事を知らぬものである。
如何なる業もそれを超越して弥陀の本願は救い給う。
その絶対的救いの否定し難き事実とは別に、
悪人を救おうと云うのが弥陀の本願であるとてわざと
好んで悪をする者がある由(よし)聴えて来たときに親鸞聖人は
「くすりあればとて毒をこのむべからず」とお書きになった。
<感謝合掌 令和7年9月7日 頓首再拝>
”既に今”救われている - 伝統
2025/09/18 (Thu) 10:32:39
*「光明道中記」(9月18日《自仏の光明を知る日》)より
【欲が起らば山ほど起して見よ。仮令起るも自仏の光明なり。天桂禅師。
(『仏教の把握』)】
(歎異抄十四条)
また念仏のまうされんも、ただいまさとりを開かんずる
期(ご)のちかづくにしたがひても、
いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。
つみを滅せんとおもはんは自力のこころにして、
臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。
摂取不捨の仏の本願に漏れている人は一人もないのであるから、
愈々(いよいよ)悟りを開く時期が近づくにしたがいいよいよ
阿弥陀仏に依(たよ)り切って申す念仏は、御恩報じのために
称える念仏でなくてはならない。
真宗は平生業成(へいじょうごうじょう)であって、
普段弥陀をたのみ奉る心になっておれば、
臨終になって念仏を称えようが、称えまいが、
弥陀仏の救いの中に摂取不捨せられて了っているのである。
定衆(じょうじゅ)即ち詳しく言えば
正定衆(しょうじょうじゅ)の位にいると云うのである。
「わしの称える念仏の力で罪を滅しよう」と思うのは
自力の念仏であるから忌むのである。
そう云うわしの力の念仏であるからこそ「臨終正念」を大切に言うのだが、
それは本当の他力の信心ではない ―― と云う意。
併しその平生の業が必要だと云うならば
平生弥陀をたのむ心がないときには救われぬか。
他力の救いには平生業も必要ではない。
”既に今”救われているのが人間だと云うのが生長の家である。
<感謝合掌 令和7年9月18日 頓首再拝>
不完全な姿を否定せよ! - 伝統
2025/10/03 (Fri) 11:48:58
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より
業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。
人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、
過去の波動をつかんで、それを実在のごとく見るのはちょうど映画において
過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、ずっと後(あと)になって
映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。
かくしてありもしない存在、
ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。
われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。
<感謝合掌 令和7年10月3日 頓首再拝>
業を飛び超える道 - 伝統
2026/06/20 (Sat) 11:19:44
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より
自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、
他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。
生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、
解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。
ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。
業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」と念じて、
神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。
神の「《完きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。
<感謝合掌 令和8年6月20日 頓首再拝>