伝統板・第二
神への全托 ③ - 伝統
2018/03/28 (Wed) 03:14:53
*伝統板・第二「神への全托②」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6945881
内在の神性に委せ切れ
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、
ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「神に全托」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562
(2)光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50
(3)伝統板・第二「神への全托①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6460526
<感謝合掌 平成30年3月28日 頓首再拝>
神の御心のままに - 伝統
2018/04/15 (Sun) 02:35:48
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より
「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。
「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。
こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。
<感謝合掌 平成30年4月15日 頓首再拝>
神に全托(ぜんたく)すれば最も善いものが来る - 伝統
2018/05/05 (Sat) 03:22:41
*『 生長の家 』(昭和25年1月20日の法語)より
「 私の意志が 神様にきかれますように」と祈るよりも、
「 神さまの意志が、み心の通りに私の中に行われますように 」 と
祈る方が正しき祈りであるのである。
自分の欲するものが その祈りの結果として実現して来なくとも、
それは 却(かえ)っていいことなのである。
自分の意志よりも、神さまの み心の方が、
何が一そう善いかということをよりよく知り給うからである。
神への無条件降伏は 宗教の極致であり、幸福の源泉であるのである。
無条件降伏が無条件幸福である。
(http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/04babba361b61c4710eb0611f64f4c45)
<感謝合掌 平成30年5月5日 頓首再拝>
《喜びの青空に出る道》 - 伝統
2018/05/11 (Fri) 03:39:40
*「光明法語」(5月11日)より
海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。
墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。
今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。
かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。
神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。
<感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>
《神が汝をつかんでいる》 - 伝統
2018/05/12 (Sat) 03:47:53
*「光明法語」(5月12日)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2018/05/20 (Sun) 04:20:43
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 平成30年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2018/05/21 (Mon) 04:21:40
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 平成30年5月21日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2018/06/14 (Thu) 03:17:44
*「光明法語」<6月14日>より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 平成30年6月14日 頓首再拝>
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。 - 伝統
2018/06/25 (Mon) 03:28:15
*「光明道中記」(6月25日 神に全托する日)
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みすからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>
心の扉を開け放ち、神を招き入れる - 伝統
2018/06/28 (Thu) 03:42:06
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月28日)より
神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。
心を開いて待つことが神を招く方法である。
明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。
<感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>
《神にゆだねる時一切が好転する》 - 伝統
2018/07/12 (Thu) 03:27:24
*『人生の秘訣365章』第6篇(P156) より
神に於いては、大も大ならず、小も小ならずなのであるから、
どんな大(だい)なる問題でも、どんな小なる問題でも神にゆだねて、
その叡智の指導を受けることはよい事であるのである。
神に敵対する力のあるものはこの世の中に何ものも存在しないのであるから、
神に問題をゆだねる以上は、心を騒がす必要も、恐怖する必要もないのである。
ただあなたにとって必要な心の態度は、
「此の今の時点に於いて、神の御心を成就するのに何を為すべきかを導き給え」
という信仰をもつことである。
そしてそのような信仰によって毎日祈るとき、それから後(のち)、
どんな環境があらわれて来ようとも、その背後には
「神の聖なる御心」があるのであるから、
それはその上に、御心である壮麗な建築が造られるための地均しであるから、
感謝してそれが必ず好転し行くことを見戌(みまも)るがよい。
<感謝合掌 平成30年7月12日 頓首再拝>
宇宙に遍満し給う神に全托 - 伝統
2018/07/15 (Sun) 03:59:07
*「光明法語」(7月15日の法語 神は遍満し給う)より
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、私は私の生命(いのち)を神様にすっかり
もたれかけました」と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>
神に与え切る - 伝統
2018/07/16 (Mon) 07:11:48
*「光明法語」(7月16日の法語 神に対して戸を開け)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>
あなたに難問題が訪れたときには - 伝統
2018/07/27 (Fri) 04:01:47
*『真理』第九巻生活篇(P228~229)より
問題が行き詰まって来たときに、
人間智慧でどうにでもならない時に、唯ひとつの道があります。
それは神の方へ心をクラリと振り向けることであります。
神は全能であり、全智であり、無限の愛であるから、必ずすべての人々が
満足するような解決の道を示したまうことができるのであります。
若しあなたが真に疑いの心をもたずに神の前に振り向き
神に全托ささいましたならば決して例外はないのであります。
しかし解決の道を神の御手にゆだねた以上は神が解決したまうので
ありますから、その解決の順序が自分の予想と異なる方向に
運ばれて往っても、それに失望したり、解決への委任を神から
取り戻したりしてはなりません。
全然、その解決の順序を神にまかせきるのでなければ、
全托とは云えません。
<感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>
全托の心境に万事を委ねる - 伝統
2018/08/06 (Mon) 03:23:14
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 平成30年8月6日 頓首再拝>
脇目も振らずに神に全托するのです - 伝統
2018/08/29 (Wed) 04:15:54
*『真理』第九巻「生活篇」(P229)より
神はあなたの心を変化してくださいます
神のお委(おまか)せする場合には全托でなければ可(い)けません。
何か自分自身の工夫巧者が混じったり、斯う云う形で解決されなければ
嫌(い)やだと云う成心(せいしん)をもっていたりしてはなりません。
神は予想外の智慧をもって解決に運ばれることがあるものですから、
人間智慧でそれを批判して、神の大智慧によるハカライを制約する
ことがあってはなりません。
「神は全能だ。われ神の全能にひたすれ全托する」
この言葉を繰り返し心のうちに念じなさい。
そして脇目も振らずに神に全托するのです。
この世界に何者も神の力に抗(こう)し得るものもなく、
神と偕(とも)にある者の行動を妨げるものはないのです。
若しあなたが無制限に、全然、無我になって神にまかせ切るならば、
神はどんな困難をも乗り越える力をあなたに与えて下さるのです。
<感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2018/09/14 (Fri) 04:19:19
*「光明法語」(9月14日)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 平成30年9月14日 頓首再拝>
<神仏におまかせ出来る人> - 伝統
2018/11/06 (Tue) 04:41:51
*紫雲誌 平成26年12月号巻頭言より
人間の一生には悩むこと、貧すること、病気をすることなど色々ある。
その時に信仰心のある人は容易に救われることが多いが、
そうでない人は困難に深入りしていくのである。
例えば借金が多くて困る場合、
自分の智慧才覚で幾ら考えても名案が無いことが多い。
その時に詐欺や横領などをして罪人になったり、相場や競馬などをして、
最後のなけなしのお金まで失うのは信仰心のない人である。
うまく当たればよいと考えるのも間違いで、
若し当ったら当らない時より一層悪いことになるのに気づかない。
何故なら、そのようなことで得たお金は、善事の裏付けのないアブクゼニであるから、
子孫まで禍するのである。
そのような場合にあわてないで、事情を神仏に申し上げ、
「私の智慧才覚ではどうにもなりません、どうかよろしくお願いします。
私は神仏の御心に適うように、常に善いことに心掛け、努力し、
些細なことでも善事に尽くします。借金の事はどうかよろしくお願いします」
と申し上げ、毎日写経をするとか、或は日の出を拝む行などもしていると、
環境の変化によって救われるのである。
また商売の競争相手でも、相手を憎むようではその人は既に敗北している。
神仏の道は広大無辺であることを信じ、
どうか双方共に栄えるようお導き下さいと祈り、
努力することである。
そうすればその人は必ず栄えることになる。
このように神仏におまかせ出来る信仰心ある人にならねばならない。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou3/&mode=res&log=366 より転写)
<感謝合掌 平成30年11月6日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2018/11/13 (Tue) 04:37:33
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。
合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 平成30年11月13日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2018/11/14 (Wed) 03:28:50
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝>
「神よ、御心のままになし給え」 - 伝統
2018/11/30 (Fri) 04:36:08
*「光明法語」(11月30日の法語 与えよさらば与えられん)より
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝>
信仰とは神への全託 - 伝統
2018/12/28 (Fri) 04:30:45
*「続・常楽への道」吉田国太郎・著(P66~68)より
信仰とは神への全託であり
一切の重荷を背負わずして
神に廻向することである
光にゆだねることである・・
信仰とは神の懐に抱かれる事である・・
盲人にして聾唖であるヘレンケラーは
よくきき、よく観、よく語る 山上の聖者である
ヘレンケラーのすばらしさは
彼女のすばらしさでは無い
褒めるべきは神のみである・・
神がひとたび大工の子をとらえれば
キリストとなる・・
神に捕えられることこれが人生の
秘訣である!
祈りも神想観も形式では
価値も無い・・
魂のそこから出た祈りであること
信仰によって高まったる
感情を伴うものでなければ・・
(http://igaiganet.seesaa.net/category/6901509-167.html 2009年12月05日より転載)
<感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2019/01/19 (Sat) 04:47:09
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 平成31年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2019/01/25 (Fri) 04:46:01
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 平成31年1月25日 頓首再拝>
【お任せして生きる】 - 伝統
2019/02/21 (Thu) 04:37:27
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年12月30日)より
(元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…)
年寄の子は、えてして心配性と言われますが、
私が女学生の頃、すでに六十歳を超えていた母が、
雨の降りそうにない日にも、よく傘を持たせてくれたものです。
乗り物に乗る時には十分な時間的余裕を持って出かけ、
降りる時には一つ手前の駅から準備しはじめるように。
横断歩道を渡る時、青だったら一度赤に変わるのを待って、次の青で渡りなさい。
そうすれば途中で赤になることはないから。
一事が万事、このようでした。
このように育てられたためかどうか、自分でも心配性だと思うことがあります。
信仰が薄いのでしょう。
聖書の中に「思い煩うな」と書いてあることも知っています。
野の百合(ゆり)、空の鳥を養い給い、私たちの髪の毛一本にまで
心を注いでくださる父なる神がましますこともわかっています。
しかしながら、昔から私には、うんと心配したり、最悪の事態を想定すると、
その心配が来なかったり軽くて済む、という迷信めいた思いがあります。
それは多分、たくさん心配しておけば、
実際に来た時にも「思った通り」とあきらめられるし、
来なかったら、または思ったほどでもなかったら
「もうけもの」をしたような気になるからかもしれません。
信仰が薄いと叱られそうですけれども、
キリスト様にしてみれば、そのような心配性の人間が、
迷いに迷ったあげくの果てに「おまかせします」と申し上げた時のほうが、
全然心配しようともしない人が事も無げに「お願いします」
と言った時よりも、「よし引き受けた。心配するな」
おっしゃり甲斐(がい)があるのではなかろうかなどと、勝手に自分を慰めています。
キリストは、とても人間的な心をもっていてくださいます。
頼られてうれしいのは人の常です。
問題は、どのあたりで心配をやめて、おまかせするかであり、
またおまかせした結果については、「とやかく申しません」という
一札(いっさつ)をきちんと入れる覚悟を持つということです。
「どうしてこんなヘマをなさったのだろう。
私でも、もうちょっとスマートに片付けるのに」と
神のなさることに思う時があります。
ところが後になってみると
「すべては、その時に適(かな)って美しい」のです。
天が下のすべてのみわざには神の時があり、
「人は神のなされるわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」
のです。
だからこそ、安心して心配していいのであり、思い煩いながら、
今日もおまかせして生きていられるのだと思うのですが、
これは矛盾した考え方なのでしょうか。
<『どんな時でも人は笑顔になれる』PHP研究所>
・・・
小林正観さんのこんな話がある。(豊かな心で豊かな暮らし)より
『たまたま1ヶ月ほどの間に、何人かの人から同じ質問を受けました。
「私に向いている職業は、どんなものでしょうか。正観さん、教えてください」
というものでした。
もちろん、その数人は現在無職であるということでした。
私の答えはすべての人に対して同じでした。
「自分で好きな仕事、嫌いな仕事とより分けているうちは、
宇宙さんも神も仏も味方をしないような気がします」と言いました。
自分にまわってきたことをやる、やる羽目になったことをやる、
たまたまなにかの縁で声をかけられたり、頼まれたりしたらそれをやる。
そういうふうに考えていったら、職業はなんでもいいのです。
向き不向きというのがあるとは思えません。
向き不向きと言うのは、もしかすると自分の奢り、高ぶりなのかもしれません。
どんな仕事でも、誠実に真面目にやる。
真摯(しんし)に取り組む。
それに尽きるのではないでしょうか。
楽しい仕事というのがあるわけではないのです。
そんな仕事にいきなり恵まれてる人は、世の中にいないと思います。
好きだ、嫌いだと言うのではなくて、やる羽目になったことを、ただ淡々とやること。
それを真面目に誠実にやり続けること。
これに尽きると思います』
まさに、これが「お任せして生きる」という生き方。
「ここから先は神の領域」と思ったとき、ああだこうだとグダグダ言うことはなくなる。
そう思ったとき、宇宙も、神も仏も応援してくれる。
たまたままわってきたもの、それは、仕事に限らず、面倒なことでも、
あるいは好きなことでも嫌なことでも、病気であっても、
引き受けなければならない時は、引き受けるしかない。
そして、引き受けたらそこで誠実に真面目に努力する。
しかし、結果は神のみが知るであり、「そこから先は神の領域」。
「お任せして生きる」という生き方を選びたい。
<感謝合掌 平成31年2月21日 頓首再拝>
事件全般を神の御手に委ねる - 伝統
2019/03/16 (Sat) 03:52:55
*『人生の秘訣365章』第2篇(P53~54) より
~《 解決困難の問題に面した場合 》
あなたの身辺で、あなたの人間力だけでは
どうにも解決できない問題が起って来たときには神想観を実修して、
自分の心を神に振り向け、神にこの問題の解決をお願いして、
神の処置に全托するがよいのである。
「神さま、あなたは全能であられます。神さまあなたは全智であられます。
あなたはこの問題を、双方どちらにも調和した姿で解決する道を知っていらっしゃいます。
私はこの問題の解決をあなたの全能にして全智なる愛深き判断と指導におまかせ致します。
どうぞみこころの如く成らしめ給え」
このように祈念して事件全般を神の御手に委ねる気持になり、
一切の不安や心配や焦燥の念から自由になるがよいのである。
そして今後、自然に出て来る“全体の働き”に逆うことなく、
「悪くなるのは、好くなる始めだ」との自覚で、素直に人からの申し出を用い、
自分の頭に閃くヒントを実行するようにするとよいのである。
<感謝合掌 平成31年3月16日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2019/03/28 (Thu) 04:12:02
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 平成31年3月28日 頓首再拝>
御心のままに - 伝統
2019/04/15 (Mon) 03:10:24
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より
「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。
「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。
こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。
<感謝合掌 平成31年4月15日 頓首再拝>
【第三の選択】 - 伝統
2019/04/29 (Mon) 04:29:07
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.03.12)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
わたしたちは、なにか「思い」を持つこと、
その「思い」を、努力を重ねて実現することが唯一の価値、
と教え込まれてきました。
しかし、その「思い」こそが、
人間の悩み、苦しみ、苦悩、煩悩の源であったのかもしれません。
もし、悩んだり苦しんだりしているならば、
そしてそれがつらいのであれば、
その「思い」に「執着しない」ことをおすすめします。
さらには、「思い」自体を「持たない」ようにすると、
楽に生きられます。
元々、わたしたちはたいしたものではないのですから、
気合いを入れて生きるところから、
もう少し気を抜いて生きる人生、でもよいのではないでしょうか。
もう、気合を入れて生きるのをやめませんか?
人にわかってもらいたいとか、評価されたいとか、
眉間(みけん)にしわを寄せてがんばるのもいいですが、
良い加減に、適当に、ニコニコと「頼まれごと」を
やっていくほうが人生はおもしろくなります。
私は、「努力をしてはいけない」とか
「がんばってはいけない」と言っているのではありません。
努力して必死になってがんばるのが好きな人は、そうすればいいでしょう。
しかし、自分の努力ではどうにもならないような問題を、
ドンと突きつけられることもありますよね。
手ごわい問題が次から次へと湧き上がってくることもあります。
そのとき、人間は「謙虚」にならざるを得ない。
謙虚になるということは、
「自分の力だけではできない」と思い定めること。
それが、「努力しない」「がんばらない」「必死にならない」
ことの意味です。
最終的にわたしたちができることは、
〈お任せをする〉ことだけ、ということになります。
お任せするとは、目に見えない四者(神、仏、精霊、守護霊)と、
目に見える四者(友人、知人、家族、わたしの体)、
この八者に対して、常に「ありがとう」を言いながら、
感謝をして生きていくということです。
すると、「ありがとう」と言われた八者から共感・共鳴を呼ぶのでしょうか、
周りの人は、なぜか手伝って応援してくれるし、
神、仏も“やる気”になってくれるようです。
<『人生が全部うまくいく「ありがとう」の不思議な力』三笠書房>
・・・
小林正観さんは「がんばる」について本書の中でこう語っている。
『わたしは人の5倍ぐらい働いています。
「おかしいじゃないですか、がんばっているじゃないですか」
がんばっていません。
ただ、やるはめになったので、仕方なくやっているだけです。
「努力してるんでしょ?」
していません。
ぜんぜん。
いやがるものを無理やりやされているのでもありません。
年間280回の講演会というのを感心してくれて、
「小林さんよく続きますね。よっぽど好きでないとできませんね」
と言う人がいます。
好きでやっているのではありません。
「そうだったんですか!イヤイヤやっていたんですか?」
イヤイヤやっているわけではありません。
「じゃあ、やっぱり好きでやってるんじゃないですか」
好きでやっているのではありません。
イヤイヤやっているのでもありません。
「じゃあ、やっぱり好きでやってるんじゃないですか」
好きでやっているのではありません。
イヤイヤやっているのでもありません。
好きなのか、嫌いなのかはっきりしろと言われそうですが、
人生には、「好き」でも「嫌い」でもないという選択があります。
「好きなこと」「嫌いなこと」で人生を選ぶのではなく、
「第三の選択」があるのです。
好きでもなく、嫌いでもなく、自分の目の前に起こることについて、
いちいち論評・評価をしない、いちいち感想を言わない
という生き方があります。
わたしはその3つ目の生き方を選んでいるだけです。
好きだとか嫌いだとか、いちいち論評・評価しないで、
“淡々と”生きているのです』
また、小林正観さんは、こうも語る。
『夢や希望を持って、それを語りなさい。
それに向かって行きなさい、という表現もあふれています。
夢や希望というのは耳にはいい響きですが、よく考えてみると、
結局は「足りないこと」を言っているにすぎないのです。
「あれが足りない。これが足りない。あれを寄こせ。これを寄こせ」
と言うことを夢や希望であると吹聴しています。
これは突きつめていくと、エゴなのです。
私たちは九千九百九十の喜びを宇宙からいただいているのに、
足りない十個を挙げて、それを「寄こせ、寄こせ」と言っているのです。
「その十個を手に入れたら幸せだ。手に入らなかったら不幸だ」と。
我々は、今ある幸せに感謝しないで、
「足りない、足りない」、「もっと欲しい」と言っている。
何か特別な面白いイベントがなければつまらない、不幸だ、と。』
感謝が足りないと、
好き嫌いをことさら言い立てたり、不足を嘆くようになる。
感謝が足りないとは、謙虚さが足りないということ。
「第三の選択」は感謝の選択。
謙虚で、感謝多き人でありたい。
<感謝合掌 平成31年4月29日 頓首再拝>
神に委(まか)せよ。 - 伝統
2019/05/12 (Sun) 04:19:45
*「光明法語」(5月12日《神が汝をつかんでいる》)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2019/05/20 (Mon) 04:40:14
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2019/05/21 (Tue) 04:39:08
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和元年5月21日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2019/06/14 (Fri) 04:48:01
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 令和元年6月14日 頓首再拝>
神が歩ませ給う道を行く - 伝統
2019/06/25 (Tue) 04:38:44
*「光明道中記」(6月25日《神に全托する日》)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、
自分が公けな心を持っているかどうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>
神に全托である - 伝統
2019/07/15 (Mon) 04:47:46
*「光明法語」(7月15日《神は遍満し給う》)
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、私は私の生命(いのち)を神様にすっかり
もたれかけました」と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 令和元年7月15日 頓首再拝>
神に対して戸を開け - 伝統
2019/07/16 (Tue) 04:13:55
*「光明法語」(7月16日)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和元年7月16日 頓首再拝>
「思い煩い」を唯 捨てて、神に任せるがいい - 伝統
2019/08/05 (Mon) 04:49:21
*『 生長の家 』(昭和25年5月3日の法語)より
《物事を良くするのは心配によってではない》
如何なる不調和に見え、それは正しくない
と見えるような出来事がおこって来ようとも、
私は決して心配したり いらいらしたりすることはないのである。
そこに何があろうともそれをよくする力は
自分の内に宿っているのである。
それを良くする方法は
それを心配することではないのである。
「思い煩い」を唯 捨てて
神に任せるがいいのである。
ある詩人は唱(うた)っている。
「 吾は吾が戦いを戦えるに非ず、神とともに歌を歌えるなり 」
何事をするにも神とともに歌を歌う積(つも)りで
明るくすることが大切である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和元年8月5日 頓首再拝>
全托の心境で「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2019/08/06 (Tue) 04:41:35
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、
そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、
「聖(せい)」であり、生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>
絶対他力 - 伝統
2019/08/16 (Fri) 03:52:17
*「光明道中記」(8月16日《自力を捨てる日》)より
【悟るとは内在の仏が浮かび上がって来るのであって、脳髄意識の巧者ではない。
(『生命の実相』第十一巻)】
(歎異抄第二条)
そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、
念仏をまうして地獄にもおちてさふらはばこそ、
すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。
いづれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。
何故神は完全であるかと云うことは、神以上の存在に我々がなって見て、
神の由って来る所以を批判しなければ判るものではないのである。
ただ吾々は完全なる絶対者を立ててそれを実在の本源として立て、
それに全帰依を捧げなければ、到底たえられない要諦を生命の内面に感ずるのである。
カントの所謂る「先験的要請(ア・プリオリ)」であるのである。
先験的要請は、人間の最も深い存在の根本に根ざすものであるから
否定せらるべきものではないのである。
親鸞聖人が「たとい法然上人に瞞(だま)されたとしてもどうせ他の行では救われない
自分なのだから」と仰せられたのは、決して自暴自棄的なお言葉ではない。
絶対力ある弥陀の誓願を立てなければ到底耐えられない
「先験的要請(せんけんてきようせい)」と、その「先験的要請」の主張する
絶対他力の必然的存在を爰(ここ)に高調されたのである。
<感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>
《神の扉は暴力では開けない》 - 伝統
2019/08/28 (Wed) 03:45:00
*『 生長の家 』(昭和25年5月10日の法語)より
まず神の扉を開くことが第一である。
神の扉は 暴力では開けない。
我(が)の力でも開けないのである。
それは感謝によって開かれ
愛念によって開けるのである。
与えれば与えられる。
自分がまず与える心をおこすことである。
「 神よ、私はあなたに私自身を与えます。
私の肉体を 私の心を私に属する凡ゆるものを
あなたに与えます。
私の肉体をあなたの欲し給(たま)うが如(ごと)く
お使い下さい。
私の心をあなたの み心のままにお導き下さい。
私の仕事をあなたの管理の下にお導き下さいませ 」
こう 真心から祈ることが必要である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和元年8月28日 頓首再拝>
《難問題の解決は神にゆだねよ》 - 伝統
2019/09/10 (Tue) 04:55:27
*『 生長の家 』(昭和25年5月17日の法語)より
右すべきか左すべきか決定することの
できないような難問題に面した時には、
直ちに神にふりむく事が必要である。
神の智慧は曲れるを直くし、
くだけたるを完全ならしめ、
傷つきたるを癒やすべき道を知り給うのである。
かかる際には
「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」
と念ずることが必要である。
この言葉を数回念じて 心を平静にしていると
自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、
如何なる難問題も解決されることになるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和元年9月10日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2019/09/14 (Sat) 04:57:05
*「光明法語」(9月14日)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和元年9月14日 頓首再拝>
《神に完全にまかせ切ること》 - 伝統
2019/09/24 (Tue) 04:24:43
*『人生の秘訣365章』第3篇(P73~74) より
神は全能であり、最高の力であり、何物も神に抗して、
計画を破壊することはできないのである。
若し私たちが神に対して無我になり完全に全托しさえするならば、
神は如何なる障礙をも突破し得る力と智慧とを与えたまうのである。
神の智慧は、その進行しつつある事件のうちに、
そしてそれに対応しつつあるあなたの心のうちにあらわれて、
事件を円満解決の道に導きたまうのである。
併し、この無我全托には、
一切の自我的はからいを抛つ(なげうつ)だけの勇気を要するのである。
同時に、こんなことでうまく物事が解決するだろうかと云うような
不安、恐怖、疑惑などを悉く棄て去り、
「神に全托しておれば、何事も結局はうまく行くより仕方がない」と云う
堅信を持ちつづけるだけの勇気が必要なのである。
神に委せ切り、自我が無くなり、自分を神そのものの自由にゆだね切って、
恰も海綿が全体に海水を吸い込むように神を全身に浸潤せしめるとき、
神そのものの智慧が自分を支配して行動化してくれるのである。
<感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>
《決断して神の智慧にまかすこと》 - 伝統
2019/10/07 (Mon) 04:21:47
*『人生の秘訣365章』第3篇(P80~81) より
信仰は一つの決断であり、勇気であり、思い切りの良さである。
勇気を出して思い切りよく、神に祈って一切万事を神に全托せよ。
神の智慧の動き出すままの事物の進行は、
常識では端倪(たんげい)し得ないのがあり、
“こんな事では迚ても駄目だ”と思えることもあるであろうけれども、
神は結果を見通しであるから、
やがて事態が一変して、必ずよき結果を生むことになるのである。
神は全能である。
神は既によき“番組”を放送してい給うのである。
神は肉眼には見えない。
神は感覚では認識することができない。
だから神に全托すると云うことも、
中々思い切って決断することがむつかしいのである。
併し、事態が不良に向っているとき、是非為さなければならないのは、
その事態を不良に向わせたところの人間的判断を捨てると云うことである。
そして、人間的判断以上の優れたる智慧を喚び出して来なければならないのである。
それが神に委すということである。
<感謝合掌 令和元年10月7日 頓首再拝>
《面白くない出来事が起こりましたら》 - 伝統
2019/10/20 (Sun) 02:26:19
*「真理」第9巻(P91~92)より
何か不都合な出来事が起こって来たとき、
その不都合な出来事の表面の姿を心でつかんで、
自分の心をその不都合から放たないでいますと、
自分の心がその「不都合さ」に縛りつけられて自由を失ってしまって、
自由自在の活動ができなくなりますから失敗するに到るのであります。
それよりも先ず神の方へ心を振り向けよ。
そして
”この事件に対しては神の愛と智慧と調和とが、
自分にためにも彼にためにも働いているのであるから必ず好都合に解決する”
と強く強く念じて神の《おはからい》に信じて
お委(まか)せして置くのが好(よ)いのであります。
私達の想念は習慣性をもっておりますから、
心配する癖を付けますと、益々心配するようになり、
神にまかせて明朗になる習慣をつけると、そのようになりますから、
神に祈って委まかせする習慣をつけましよう。
<感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>
《我みずからにては何事をも成し得ず》 - 伝統
2019/11/02 (Sat) 04:59:23
*『 生長の家 』(昭和40年3月27日の法語)より
イエスは
「 我みずからにては何事をも為し得ず、
天の父われに在して御業(みわざ)をなさしめ給うなり 」
と訓(おし)えている。
諸君は、自分が生まれて来ようと努力して、
母親の胎内でその栄養分を自分で整理し排列して
自分の人体を造ったのではないのである。
「 われみずからにては何事をも為し得ず、
天の父われにいまして、この人体を造り給うたのである。」
それならば、私たちが母親の胎内から出て来てからも
「 われみずからにては何事をも為し得ず」であって、
自分の力では胃液を製造することも、各種のホルモンを製造することも、
そのホルモンの精妙なバランスを得させることもできないし、
自分の力では腎臓で不浄物を択(よ)り分けて
排泄(はいせつ)することもできないのである。
これらの働きは悉く神授のものであるのである。
この真理が理解できるならば、私たちが病に罹(かか)ったとき、
自己の内に宿っているこの無限の智慧の御(おん)はたらきに全托して
「 神よ、み心の如くならしめ給え 」と、人間的心配を棄て去ったとき、
神癒の力がこんこんと内部より湧き出でて
速やかに癒される理由がわかると思うのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 令和元年11月2日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2019/11/13 (Wed) 04:38:40
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。
合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 令和元年11月13日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2019/11/14 (Thu) 04:45:09
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2019/11/29 (Fri) 04:33:41
*「光明法語」(11月29日の法語)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和元年11月29日 頓首再拝>
神に与え(任せ)きる - 伝統
2019/11/30 (Sat) 04:48:09
*「光明法語」(11月30日の法語《与えよさらば与えられん》)より
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和元年11月30日 頓首再拝>