伝統板・第二
神への信 ② - 伝統
2018/06/09 (Sat) 04:51:32
*伝統板・第二「神への信」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6948104
神の全能を信じて常に神に振り向けよ
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月9日)より
汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、常に神に振り向くべし。
神はすべての解決である。
「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。
少々の疑いも、恐怖も持つべからず。疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。
完全なる信のあるところ恐怖はないのである。
恐怖なくして神に振り向き、「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」と念ぜよ。
<感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>
神の真が自分の中に生きている - 伝統
2018/06/12 (Tue) 04:07:18
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より
信心とは《自分が》こう信ずるということではない。
神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。
<感謝合掌 平成30年6月12日 頓首再拝>
天国の行的把握 - 伝統
2018/06/27 (Wed) 03:37:05
*「叡智の断片」(P71~73)より
ある人は云う ―― 天国は既に完成して居るのであって
今誰でも入ることが出来るのである。
彼等は又曰く天国は単に心の状態である。だから今若し人が斯う云う
心境になるのならば、彼は若し神の子の権利を要求するならば、
今直ぐここに天国に入ることが出来るのであると。
これは実相直視の言である。
誠にも神の国は既に完成して居ると云うことは全く真実である。
併し乍らその波長を現実に受楽する為には
吾々は心の準備をしなければならないのである。
心の準備もせず、行いも清めず「ただ好いことが来る」と信じておったと
云うだけで、好い事が出て来ないと苦情を云う人がある。
それは「好い放送がある」とただ信じているだけで、
波長を合わさなかった人と同じである。
それでは好い放送も何も聴こえないのは勿論である。
楽して多くを儲けようと云うほど、人生とその人の魂を害するものはない。
人生をただ遊んで眠って暮らす式な安全な保証として神を信じようと云う位、
間違った信仰はない、「ただ信じていた」のではだめである。
「主よ主よと云う者必ずしも神の国に入るにあらず」とイエスは云っている。
「天にまします父の御心を行ずる者のみ神の国に入る」と云っているのである。
それは愛の道であり行の道であり、神を実践する道である。
そして身・意・口の三業が神の国の波長に合うとき
その人に神の国の自在境が実現する。
某は言う、神の国とは斯くの如き「行(ぎょう)」を通して
入らなければならないというようなものではない、
それは此処に見よ、彼処に見よと云うのではなく、意識の一状態であると云う。
このことも真実ではある。
併しこの意識の一状態と云うのは、頭脳だけの皮相な認識の問題ではなく、
体験の結果として直接生命に把握される所の状態であるのだから、
どうしても身・意・口の三業を通してそれを直接把握しなければならないのである。
「自分は神を信じ神は必ず自分を護って呉れるものと信じていたのに、不幸になった」
と云うような人は頭で神を信じていて行的に神を把握していなかったのである。
若し神の国を行的に把握していた人ならば、不幸に遭っても、必ずその不幸を
克服して却って周囲の人々を自己の愛行によって救っているだろう。
信仰は行的把握を必要とするから自分が救われたつもりでいて、
誰にも其の福音をのべ伝えなかったり、周囲の人や知己を救わなかった人が
不幸に遭っても、それは信仰が無力である証拠にはならないのである。
<感謝合掌 平成30年6月27日 頓首再拝>
無限者なる神に信頼 - 伝統
2018/07/09 (Mon) 03:19:03
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より抜粋
無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。
さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから御心を行じていて
われらは決して乏しきことはありえないのである。神は唯一の本源であり、
われらの求めるすべてのものを豊かに与え給うているのである。
われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、すべてはよくなり自己に来る
すべての事件は最初はいかに見えても好転するほかはないのである。
いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。
「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」
常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、荊棘(いばら<けいきょく>)は
切りひらかれ、道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。
<感謝合掌 平成30年7月9日 頓首再拝>
神と直通する道は「信」である - 伝統
2018/07/17 (Tue) 03:22:12
*「光明法語」(7月17日 神と直通する道)より
神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。
人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。
神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。
あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る
<感謝合掌 平成30年7月17日 頓首再拝>
《神はあなたの参謀本部である》 - 伝統
2018/07/29 (Sun) 04:35:53
*『人生の秘訣365章』第6篇(P154~155) より
あなたの希望を最も完全に達成するための根本的な方法は、
あなたの「希望の実現」を全能の神のみ掌(て)に
ゆだねるということなのである。
そして人間は何もしないでよいかというと、そうではないのである。
「全能の神」の参謀本部から“命令”される“内的催し”又は
インスピレーションの来るままにそれを素直に実践することなのである。
実践がなければ、設計だけでは家(うち)が建たないようなものである。
「全能の神」にその参謀又は指令を求めながら、
「それが実現しないかも知れない」と危惧や恐怖の念をいだくということは、
本当は「神を信頼していない」「神の御手にゆだねていない」事を
表明しているのであるから、それによって、その希望が実現しないからといって、
神の責任ではないのである。
あなたは神は全能であり、その希望の成就が他(た)を害しない希望である限り、
神はそれを実現せしめたまうのに吝(やぶさ)かでないことを
知らねばならないのである。
信ぜよ、信ぜよ。
必ず希望は実現するという前途を信じて、勇気を出し実践せよ。
<感謝合掌 平成30年7月29日 頓首再拝>
神を信ぜぬ者 - 伝統
2018/08/02 (Thu) 04:05:03
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より
神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。
疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。
否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。
神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。
<感謝合掌 平成30年8月2日 頓首再拝>
「証上の修」~知・思念・信仰一体の行 - 伝統
2018/08/08 (Wed) 04:42:29
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より
知的に知ることと、信仰的に知ることと、それを思念することとは、
いずれも別のことである。
知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。
知的に知り、同時に信仰的に信じながら、
なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。
思念は一種の実行であり、力であるのは、
油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。
学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、
そして石油の存在を信念的に信じていて
さえも掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、
『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、信仰的にそれを信ずるとも、
神想観を修しなければ、その実相の完全さが実現しないことがある。
道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。
真宗でも、どうしないでも救ってくださっている阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。
<感謝合掌 平成30年8月8日 頓首再拝>
信仰は行的把握を必要とする - 伝統
2018/08/31 (Fri) 03:32:05
*『叡智の断片』(P72~73)より
某は言う、神の国とは斯くの如き「行」を通して
入らなければならないというようなものではない、
それは此処に見よ、彼処に見よと言うのではなく、意識の一状態であると言う。
このことも真実ではある。
併しこの意識の一状態というのは、頭脳だけの皮相な認識の問題ではなく、
体験の結果として直接生命に把握される所の状態であるのだから、
どうしても身・意・口の三業を通してそれを直接把握しなければならないのである。
「自分は神を信じ神は必ず自分を護って呉れるものと
信じていたのに、不幸になった」と言うような人は
頭で神を信じていて行的に神を把握していなかったのである。
若し神の国を行的に把握していた人ならば、
不幸に遭っても、必ずその不幸を克服して
却って周囲の人々を自己の愛行によって救っているだろう。
信仰は行的把握を必要とするから自分が救われたつもりでいて、
誰にも其の福音をのべ伝えなかったり、
周囲の人や知己を救わなかった人が不幸に遭っても、
それは信仰が無力である証拠にはならないのである。
<感謝合掌 平成30年8月31日 頓首再拝>
金剛の信心 - 伝統
2018/09/15 (Sat) 04:23:05
*「光明道中記」(9月15日 肩の荷を卸(おろ)す日)より抜粋
【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。
(『生命の實相』第十一巻)】
金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、ここにある通り「たまわる」のである。
凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って自然に信心したくなるのである。
それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って
自然に赤ん坊が****を吸うことを知るようなものである。
****を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。
そう思えば自力で救われるところは一つもない。
みんな仏様のお計らいであるから、念仏も自分が往生極楽の行を積むというような
偉そうな気持でなしに、如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。
<感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>
信仰と人生 - 伝統
2018/10/02 (Tue) 04:09:50
*『生長の家』(昭和24年7月号 巻頭言)より
信仰の生活は安易なイージーないい加減なものではない。
併し信仰によって神につながる時、
我らは神の愛の慈手によって導かれ、ついに困難をのり切るのである。
レースに於ける競争者は殆どまけそうになる所でテストされると云われている。
競争中彼は何回も、何回ももう抜かれるかも知れない。
負けるかも知れないというキワドイ瞬間を経験する。
然も彼は走り続ける。
もうこれ以上耐えることの出来ない限度が幾度も来たと思いながらも
不思議な力に支えられてそれを突き抜けて行くのである。
斯くの如くして彼は、信仰につながる忍耐のゆえに、ついにレースの優勝者となるのである。
信仰の開拓にも同じことが言えるのである。
吾々はもう続けることが出来ないと感ずるような苛烈な人生体験に面するのである。
もう事業の根拠は失われ、生活の地盤は崩れ、わがたよりたる城は落ちてしまった
と云うような苦しき苦い体験に出喰わすることがある。
このような時に信仰なき者は 『神も仏もなくなった』 と考える。
しかし吾々が神の善意を信じて最後まで持続するならば、
またどんな高価な価を払おとも最後まで行きつこうと決心するならば、
やがて吾々は筆紙に尽すことの出来ない信仰の悦びを得ることが出来るのである。
その時、労しただけのお蔭があるとわかるのである。
信仰への途は、最初は安易な御利益信心から出発する。
そして有頂天となり、やがて中途で光を失って大いに悩む。
それは最初に見せられた光であり、自分が見出した光ではなかったからである。
しかし一度見た光を見失うまいと勇気を鼓して進むときついにその目標に到達する。
其の時始めて彼は自分の蒔いた光の種を刈り取るのである。
(http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p3.html <07/16/13>)
<感謝合掌 平成30年10月2日 頓首再拝>
神への信が、祈り・思念を成就させる - 伝統
2018/10/13 (Sat) 03:35:48
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月13日>(P99)より
祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。
祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。
それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。
だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、必ずしも完全に
効果を挙げることができないのである。
キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。
<感謝合掌 平成30年10月13日 頓首再拝>
我れ是を為す、神が為さしめ給うなりと信ぜよ - 伝統
2018/10/25 (Thu) 02:48:24
*「真理」第4巻青年篇(P123~124)より
神は決して何人(なんぴと)をも束縛したり、能力を制約したりするものではないのです。
神は神の子たる人間に最大の力を発揮することを望んでいられるのである。
「そんなことはとても出来ない」などと言うこと勿れ。
何事がやって来ようとも、「自分には『約2倍の力』が出るのだ。」と信じなさい。
途中で如何なる事が起ころうとも究極には必ず勝利あるのみと信じなさい。
全世界で最も幸福であるのが自分だと信じなさい。
神が自分の運命を支持しているのだから唯成功あるのみと信じなさい。
信ずれば其の通りになるのです。
常に「わが業(わざ)はわが為すに非ず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の力」
と云うことを信じ、神我一体にて何事をも為す者は、一挙手一投足悉く肯綮(こうけい)に
方(あた)り、萬(よろず)の計画悉く成就しないことはないと云うの境に
達するのである。
<感謝合掌 平成30年10月25日 頓首再拝>
“實相” と “現象” とを混同してはならない - 伝統
2018/11/10 (Sat) 04:08:13
*『生長の家』(昭和40年新年号)より
自己の内にやどる “神” を観、すべての人々の内に宿る “神” を観て、
自己尊敬と他己尊敬の心を起し、万事万物の奥に横たわる “神性” を礼拝し、
その “神性” を生かすように、生かすように生活するとき、
万事は都合よく順調に運ぶようになるのである。
『あの人を “神の子” であると信じていたのに、裏切られた、
これから人を信じてはならない』 などと人は往々にして考えるのであるが、
それは “實相” と “現象” とを混同してしまうから、そんな考えが起るのである。
『信ずる』 というのはその人の生命の實相が神の生命が宿っており、
本来立派な圓萬完全なものであるということである。
しかし現象を見る時には、その實相の圓萬完全さが
どの程度その人にあらわれているかを見なければならない。
そしてその不完全を知り、彼が本来の實相たる完全さがあらわれるように
彼の實相を礼拝してあげることが、彼の實相を見ることであり、拝むことである。
若し現象にどの程度實相があらわれているかを見ることが悪いのであれば、
人物考査も美術鑑賞も出来なくなり、現象界の万事の評価もできなくなるのである。
だから現実に対する真実の評価は、實相の圓萬さを背後に肯定して、
その上にどの程度その實相があらわれているかの批判によって成立っているのである。
『實相の圓萬さ』 が背後になければ、現象の批判も成立たない訳である。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24602175.html)
<感謝合掌 平成30年11月10日 頓首再拝>
《“心に描くこと”と“信ずること”》 - 伝統
2018/11/25 (Sun) 03:45:31
*『人生の秘訣365章』第7篇(P181~182) より
“神の世界”には人間を幸福にするアイディアが無限に存在するのである。
「神はコトバである」という意味を、別の表現をもってすれば
「神はアイディアの宝庫である」と言い得るのである。
その宝庫から良きアイディアを搬(はこ)び出すエネルギーが、
「アイディアを心に描いてその実現を信ずる」ことなのである。
この「心に描くこと」「信ずること」が動力となってそれに伴うところの行動が起り、
“神の世界”にある人間を幸福にする「良き考え」が人類への福祉として
“人間の世界”に映写され、具体化されて来るのである。
コトバが肉体と化(な)り、アイディアが形態となって現出するのである。
<感謝合掌 平成30年11月25日 頓首再拝>
《あなたは神を信ずるか、感覚を信ずるか》 - 伝統
2018/12/13 (Thu) 04:34:55
*『人生の秘訣365章』第8篇(P204) より
神は、その創造し給える一切のものを、その無限の叡智をもって
点検し給うて「すべて甚だ善し」と宣言されたのである。
その神の宣言に反して、「この世界には悪もあり、悪人もある」と
五官の感覚による認識は告げるのである。
あなたは神の宣言を信ずるか、五官の感覚の宣言を信ずるか、
どちらかの信者であるのである。
神を信じない人を不信者というけれども、
不信者というものは、本当は、この世界に誰ひとりいないのである。
彼らは何かを信じている。
唯物論者は、物質の力を信じているし、
感覚主義者(素朴的実在論者―Primitive realist)は
感覚にあらわれる通りを存在すると信じているのである。
しかし物質の力を信じ、感覚にあらわれている通りを存在とするものは、
神を信じない者である。
そして物質は常に変移し、感覚面にあらわれる姿は常に変化し無常である。
従って、変移し無常なるものを信じている彼らは浮動するものの上に
生活しているのであるから常に恐怖していなければならないのである。
こうして恐怖の世界に追いやられる事を
「エデンの楽園からの追放」と称するのである。
<感謝合掌 平成30年12月13日 頓首再拝>
信念を伴った決意でなければならぬ - 伝統
2018/12/16 (Sun) 03:47:56
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より
決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。
「われ祈れば天地応(こた)え、
われ動けば宇宙動く。」
天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。
<感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>
人間の本質に対する自覚が信である - 伝統
2018/12/19 (Wed) 04:18:15
*「光明法語」(12月19日 《汝は何者であるか》)
汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。
汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。
信念は山をも動かす。
信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。
人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。
それが悔改(くいあらた)めである。
<感謝合掌 平成30年12月19日 頓首再拝>
神の完全を信じること - 伝統
2018/12/22 (Sat) 04:33:46
*「光明道中記」(12月22日 完全解放の日)より抜粋
【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】
本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。
神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。
不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。
<感謝合掌 平成30年12月22日 頓首再拝>
《常に神吾を導き給うと信ぜよ》 - 伝統
2019/01/11 (Fri) 04:16:30
*「光明法語」(1月11日)より
朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも祝福されたる日であると信ぜよ。
而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。
また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。
しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。
然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。
<感謝合掌 平成31月1月11日 頓首再拝>
すべては与えられると信じること。 - 伝統
2019/03/27 (Wed) 02:02:31
*『「言い訳」をやめるといいことがたくさん起こる』第3章 より
~ウエイン・W・ダイアー(著)
創造したいと思うものに心を集中させれば、
すべては与えられると信じること。
私は、自分には宇宙からの無限の恩恵を受ける価値があると信じることで、
「豊かさ」を引き寄せる続けている。
創造したいと思うものに心を集中させれば、
すべては与えられると信じること。
私は、自分には宇宙からの無限の恩恵を受ける価値があると信じることで、
「豊かさ」を引き寄せ続けている。
その一方で、執着しない、
つまりより多くを望まないことで、容易に手放すこともできる。
多くの人にとって「謎」であることが、
私にとってごく単純な「真実」にほかならない。
<感謝合掌 平成31月3月27日 頓首再拝>
信じて待つ - 伝統
2019/04/14 (Sun) 03:46:26
*『人生の秘訣365章』第3篇(P70~71) より
~《現象界には時間的順序であらわれる》
すべての“良きもの”は、實相世界に於ては、既に存在し、
既に“神の子”は、その“良きもの”を得ているのであるけれども、
それが現象界にあらわれる映画のフィルムの巻きもどしのように、
一齣一齣、時間的順序を通してあらわれて来るのである。
それは恰も植物の種子(しゅし)の中にある「理念」が、
種子の発芽、双葉展開、茎の生長、葉の繁茂、蕾(つぼみ)の形成、
そして花咲き、やがて実るというような順序を通して出て来るのである。
急ぎ過ぎて、急に出て来ないので失望したり、
信仰を失ったりしてはならないのである。
信じて待つということが必要である。
<感謝合掌 平成31月4月14日 頓首再拝>
思いとして出た神の計らいを信頼せよ - 伝統
2019/04/27 (Sat) 03:35:07
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月27日)」より
なんじの求むるものをまず考えよ。
考えることはそれが得られる初めである。
考えた相(すがた)が《すでに》あるとしてその実現にまで努力せよ。
供給無限の世界において、ある事物を得ようと思う「思い」が
自分の内に起こったことがすでに「自分ならぬ」はからわれである。
それを計(はか)らわせ給いしものに信頼せよ。
<感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>
《信仰の本質は「知る」にある》 - 伝統
2019/04/28 (Sun) 04:51:05
*「光明法語」(4月28日)より
神に対する信仰を深めるためには、神は法則であると云うことを先ず知ることである。
種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。
それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。
即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。
信ずるとは「真に知る」ことである。
<感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>
心の奥底に神を信ずる心がある - 伝統
2019/04/29 (Mon) 04:36:25
*「光明法語」(4月29日)より
~《恐怖心を捨てること》
信ずるとは知ることである。
生命をもって直接に知ることである。
自己の生命は神より出でたるものであるから、
自己の生命は実相に於いては既に神を知っているのである。
だから危急のときに人間は神を呼ぶのである。
思わずとは「無意識」にと云うことである。
「無意識」とは意識がないと云う意味ではない。
「気がつかぬ意識」と云うことである。
自分の気がつかない心の奥底に神を信ずる心があるのである。
しかし神を呼んでも感応がないのは恐怖心や狭い心があるからである。
<感謝合掌 平成31年4月29日 頓首再拝>
《種の発芽する時には変化が起る》 - 伝統
2019/05/17 (Fri) 04:27:30
*『人生の秘訣365章』第3篇(P71) より
あなたが“神の子”たる権能を以て、万物の支配者として、創造の指揮者として、
神想観を実修する前に、コトバの力によって、“善き事物”を祈って、
「既にそれを受けた」と念ずるならば、
宇宙の創化作用が、命令を奉ずる兵隊のように
動き出して、それを現象界に造り出してくれるのである。
その時、自然法爾に催して来る自分の行動を抑制してはならないし、
また周囲に動き出して来る人々の動きや、環境の変化に驚いたり、
心配したり、恐怖したりしてはならないのである。
種(たね)が発芽し発根するときには種(たね)の外皮を破壊して伸びるように、
實相の世界にあるものが、現象界にあらわれて出ようとする時には、
何等かの変化作用又は破壊作用が起って来ることがあり得るのである。
その変化に対して驚くことなく、必ず良き結果と成るのである
という信念を失わなかったら、屹度そのように成るのである。
<感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>
神の全能を信じて常に神に振り向けよ - 伝統
2019/06/09 (Sun) 03:29:22
*『光明法語』(6月9日)より
汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、常に神に振り向くべし。
神はすべての解決である。
「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。
少々の疑いも、恐怖も持つべからず。疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。
完全なる信のあるところ恐怖はないのである。
恐怖なくして神に振り向き、「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」と念ぜよ。
<感謝合掌 令和元年6月9日 頓首再拝>
神を先ず認め、波長を合わす - 伝統
2019/06/12 (Wed) 04:35:13
*『光明法語』(6月12日)より
神に波長を合わすには、ラジオと同じく先ず放送局がある事を認めなければならない。
神を先ず認め、神は無限に寛大に吾らの願いをきいて下さるものである事を、
認めなければならぬ。
神が神罰を与えるような苛酷な存在であると吾々が認めるならば
「苛酷」な波長に波長を合わす事になり、苛酷なものが現象界に実現することになるのである。
それよりも吾々は神は愛深き存在であり、無限の癒やしであり、
無限によきものを吾らに与え給うべく待ちかまえていられるのであることを信ずれば、
それに波長を合わすことになるのである。
<感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>
《 成就の過程に於ける杭打ち作業に驚く勿れ 》 - 伝統
2019/07/05 (Fri) 04:48:01
*『人生の秘訣365章』第3篇(P72) より
神の子たる自覚をもって、神に祈ってそれを“既に得たり”として
感謝して待つならば、適当な時に、適当な場所に、適当な人と物とが動き出して、
あなたが求めたところのものを成就させてくれるのである。
その成就の途上に於て起るところの一切の出来事は、
たとい一時は破壊物に見えても、それは土を掘り返してコンクリートを打ったり、
地盤を固くするための杭打ち作業であったりするのであるから、
破壊の如き外見に心を執らわれて、「必ず成る」という信念の種子を
掘り起して棄ててしまうような事があってはならないのである。
<感謝合掌 令和元年7月5日 頓首再拝>
神への信 - 伝統
2019/07/09 (Tue) 04:41:09
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より
困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、その民族の衰退は始まる。
今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、今が、そしてその状態が自己の魂の進歩
にとり最善の時であり、最高の機会なのである。われわれがわれわれ自身を見出すところの
今の環境が、その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。
われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。
家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。
それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。
そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。
人から見て目覚しい仕事を為すということは、それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。
すべての人生の出来事と環境において、人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。
重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。
無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。
さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから御心を行じていてわれらは決して
乏しきことはありえないのである。神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。
われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、すべてはよくなり自己に来る
すべての事件は最初はいかに見えても好転するほかはないのである。
いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。
「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」
常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、荊棘(いばら<けいきょく>)は
切りひらかれ、道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。
<感謝合掌 令和元年7月9日 頓首再拝>
神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。 - 伝統
2019/07/17 (Wed) 04:43:15
*「光明法語)(7月17日《神と直通する道》)より
神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。
人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。
神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。
あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る
<感謝合掌 令和元年7月17日 頓首再拝>
神の愛、神の創造を疑う者は幸福でありえない - 伝統
2019/08/02 (Fri) 04:29:30
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より
神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。
疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。
否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。
神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。
<感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝>
「証上の修」 - 伝統
2019/08/08 (Thu) 04:52:32
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より
知的に知ることと、信仰的に知ることと、
それを思念することとは、いずれも別のことである。
知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。
知的に知り、同時に信仰的に信じながら、
なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。
思念は一種の実行であり、力であるのは、
油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。
学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、
そして石油の存在を信念的に信じていて
さえも掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、
『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、
信仰的にそれを信ずるとも、神想観を修しなければ、そ
の実相の完全さが実現しないことがある。
道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。
真宗でも、どうしないでも救ってくださっている阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。
<感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>
自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統
2019/08/09 (Fri) 04:47:00
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月9日)より
もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、
その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。
金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。
神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。
神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。
神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。
空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。
だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。
われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。
この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。
しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。
神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。
神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。
<感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>
「信」によって救われる - 伝統
2019/08/12 (Mon) 04:35:13
*「光明道中記」(8月12日《業の消ゆる日》)より
【業は実際に於いて何処(どこ)にも実在するものではない。
(『生命の實相』第八巻)】
(歎異抄第一条)
弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、
ただ信心を要(よう)とすとしるべし。
そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にまします。
弥陀の本願は、宇宙大生命の大慈悲そのものであるから、
老人であろうが、少年であろうが、善人であろうが、悪人であろうが、
問うところではないのである。
キリスト教の聖書には
「天の父は太陽の善人をも悪人をも照したまう如く、これを照し給う」
とあるのは、仏耶(ぶつや)真理を等しうしているのである。
ただ救われるのは、「信」によって救われるのである。
「信」は人偏に言(ことば)である。
人と神のコトバ即ち仏の誓願との一致である。
誓願とはコトバにほかならない。
仏の誓願と人間の心とが一致したとき、
人間は仏の誓願の中に溶け込むのである。
コトバは誓願であり、名号であり、本体であり、仏のイノチである。
仏のイノチの中に溶け込む時、
”そのまま救われている”実相があらわれるのである。
「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、
ただ信心を要(よう)とすとしるべし」である。
私は「老少善悪を選ばす」のほかに、
「肉体の生死の前後を選ばす」と附け加えたい。
「肉体の生死」如何が「救われ」に関係があるなら
弥陀の救いに条件を置くことになる。
<感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>
絶対の信 - 伝統
2019/08/15 (Thu) 04:23:40
*「光明道中記」(8月15日《絶対信を獲(う)る日》)より
【解脱の中には因なし、因なきを以て解脱となす。(『生命の実相』第十一巻)】
(歎異抄第二条)
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの
おほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に
むまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。
ここに親鸞聖人の絶対信がいかに深いかがあらわれているのである。
『よきひと』と云うのは法然上人のことであるが、怜悧(さかしら)に
「念仏は何故(なぜ)極楽往生の因であるか」などとたずねると
当時の智者学者理窟やに対して、
「念仏は念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、
また地獄におつる業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり」と
ポンと撥ねてしまったところに、迷妄裁断の親鸞の力が見られる。
「弥陀は何故絶対力で衆生を救いたまうか」
と若し親鸞に訊(たず)ねるならば
「また総じてもて存知せざるなり」と応えるであろうと思う。
「何故神は完全であるか」と云う質問に対して私も、
「完全なものを神と称(よ)ぶのであって何故はない」
と云うように答える他はない。
<感謝合掌 令和元年8月15日 頓首再拝>
弥陀の本願をたのむよりほかない - 伝統
2019/08/17 (Sat) 04:25:26
*「光明道中記」(8月17日《この儘救われる日》)より
【迷いを去れば此の世界は光明浄土。(『生命の実相』第十一巻)】
(歎異抄第二条)
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言(きょげん)なるべからず。
仏説まことにおはしまさば、善導の御釈(おんしゃく)、虚言したまふべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞がまうすむね、
またもてむなしかるべからずさふらふか。
詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、
面々の御(おん)はからひなりと、云々。
ここに親鸞聖人はその信念が
「法然上人に騙されても好い、どうせ救(たす)からない自分だ」
と云うような意味で、自虐的なことを被仰っているのではないことが判るのである。
法然上人の語(ことば)は、善導大師の御釈(おんしゃく)は釈迦の説法から出て、
釈迦の説法は、釈迦の「先験的要諦」から出たのである。
釈迦の先験的要諦と親鸞の先験的要諦とが戞々(かつかつ)と相触れたところに、
弥陀の本願をたのむよりほかないと云う念仏往生の悟りが発生したのである。
「このうえは念仏をとりて信じ奉らんとも、
また捨てんとも面々の御(おん)はからいなり」とは
「そう云う先験的要諦は自分にない」と云う人には、
無理に信ぜよと言っても仕方がないと稍々(やや)鋭い親鸞の一面が現れている。
<感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>
浄土の慈悲への信 - 伝統
2019/08/20 (Tue) 04:56:10
*「光明道中記」(8月20日《何でも有難く感ぜられる日》)より
【信心とは仏の心が自分の中に生きることである。(『生命の實相』第十四巻)】
(歎異抄第四条)
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、
ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、思ふが如く救けとぐること、極めてありがたし。
また浄土の慈悲といふは、念仏して、急ぎ仏になりて、
大慈大悲心をもて、思ふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生(こんじょう)に、いかにいとをし、不便(ふびん)とおもふとも、
存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏まうすのみぞ、
末(すえ)とをりたる大慈悲心にて候ふべきと、云々。
慈悲にも自力の慈悲と浄土門の慈悲とがある。
自力の慈悲では「現象我」の智慧で救おうとするのであるから、
その自力の「可哀相な」「悲しい」「何とかしてやりたい」のはからいが
却って相手の害する事になるかも知れないのである。
肺病の人を救ってやりたい。
「そんなに働いては病が増悪する。もっと安静にしていなさい」
と凡夫のはからい心で深切を尽せば尽す程
相手の病人は恐怖心に駆り立てられて病気が増殖するが如くである。
凡夫の慈悲は始終(はじめおわり)を全うする事が出来ない。
ただ念仏即ち「実相」を念ずる浄土の慈悲によってのみ
久遠の仏性は引き出され、肉体が死ぬにせよ生きるにせよ。
末徹(すえとお)りたる終りを完(まっと)うする慈悲になるを得るのである。
<感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝>
《「信仰」は霊的実在を観る霊(れい)の眼(まなこ)である》 - 伝統
2019/08/31 (Sat) 02:47:14
*「真理」第9巻生活篇(P109)より
「信仰」とは、本当か嘘かわからぬから信ずるのだと云うような
アヤフヤなものではない。
「信仰」と云うものは肉眼で見えない実在(実相)を観る霊の眼(まなこ)である。
「信仰」のない人は事物を、ただ五官(眼、耳、鼻、口、皮膚)の
感覚によって判断する。
そして悪人と見えれば、彼を根本的に悪人だときめてしまい、
病気があらわれれば、病気が本当にあるときめてしまい、
心できめてしまうから、もう変化の余地がなくなって、
悪人は善人にかえらず、病気は治らない事になってしまう。
正しい「信仰」は神の造り給うた世界に全然悪人がなく、
また神の造らない病気などは存在の余地がないことを正しく知り、
「悪人」と万人が見る人に於いて「善人」を見出し、
「病気」と万人が見るところに「健康」を見出(みいだ)すのである。
<感謝合掌 令和元年8月31日 頓首再拝>
仏縁おろそかならず - 伝統
2019/09/12 (Thu) 04:18:14
*「光明道中記」(9月12日《神に催される日》)より
【吾が生命は、よき水脈に穿たれた井戸のように汲めども尽きぬ。
(『生命の實相』第十一巻)】
(歎異抄十三条)
願に誇りて造らん罪も宿業のもよほすゆへなり。
さればよきこともあしきことも、業報にさしまかせて、
ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候へ。
唯信抄(ゆいしんしょう)にも、弥陀、
いかばかりのちからましますと知りてか、
罪業の身なれば、すくはれ難しと思ふべきと候ふぞかし。
本願に誇る心のあらんにつけてこそ、
他力をたのむ信心も決定(けつじょう)しぬべきことにて候へ。
一切が業の催すところであるとするならば
「ひとへに本願をたのみまいらす」ことも業の催すところである。
併し、これは本願の催すところなのである。
「信心よろこぶそのひとを如来とひとしと説き給う。
大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」
と『弥陀和讃』に親鸞聖人がお説きになっているのがそれである。
信心は内部に宿る仏性の催しなのである。
而も仏性はどうして内部から開発され催して来るのであるのか。
善智識に遭い又は善き書物に触れることである。
善智識に遭い、善き書物に触れるのは「自己のつくれる過去の業」によるか
―― そうすれば、自力となるのである。
然らず、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁である。仏縁である。
仏縁おろそかならず、善智識はその人にとり弥陀であり、
善き書物はその人にとり弥陀の説法である。
<感謝合掌 令和元年9月12日 頓首再拝>
金剛の信心 - 伝統
2019/09/15 (Sun) 02:57:58
*「光明道中記」(9月15日《肩の荷を卸(おろ)す日》)より
【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。
(『生命の實相』第十一巻)】
(歎異抄十四条)
弥陀の光明にてらされまいらするゆへに、
一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、
すでに定聚(じょうじゅ)の位におさめしめたまひて、
命終(みょうじゅう)すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、
無生忍(むしょうにん)をさとらしめたまふなり。
この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、
いかでか生死を解脱すべきとおもひて、
一生のあひだまうすところの念仏は、
みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
然り、「弥陀の光明に照らされまいらする故に」
一念発起して金剛の信心が発現するのである。
金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、
ここにある通り「たまわる」のである。
凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って自然に信心したくなるのである。
それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って
自然に赤ん坊が****を吸うことを知るようなものである。
****を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。
そう思えば自力で救われるところは一つもない。
みんな仏様のお計らいであるから、
念仏も自分が往生極楽の行を積むというような偉そうな気持でなしに、
如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。
<感謝合掌 令和元年9月15日 頓首再拝>
”既に救われていると云う自覚” - 伝統
2019/09/25 (Wed) 04:39:24
*「光明道中記」(9月25日《信心決定(けつじょう)の日》)より
【生命の真を形の世界にあらわすのが實人生である。(生命の實相第十二巻)】
(歎異抄十六条)
信心さだまりなば、往生は弥陀にはかられまいらせてすることなれば、
わがはからひなるべからず。悪(わろ)からんにつけても
愈々願力を仰ぎまいらせば、自然(じねん)のことわりにて
柔和忍辱のこころも出でくべし。
すべて万(よろづ)のことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、
ただほれぼれと弥陀の御恩の深重(じんじゅう)なること、
つねは思ひいだしまゐらすべし。
然れば念仏も申され候。
これ自然なり。わがはからはざるを自然とまふすなり。
これすなはち他力にてまします。しかるを自然といふことの別にあるやうに、
わがもの知り顔言ふひとの候ふよし承(うけたまは)る浅ましく候なり。
「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なることを常に思い出だす」ときに、
自然の真理にて人間の心が柔和忍辱の心になって来ると云うことに
注目しなければならない。
肉体は本来無いのであるから肉体と肉体”ごころ”の間違を
一つ一つ悔改めるのが救われる原因ではない。
そうかと云って仏の善悪差別の救いに甘えて故意に悪を犯せと言うのでもない。
「柔和忍辱の心」は救われる原因ではなくして、
”既に救われていると云う自覚”から来る自然の道理(ことわり)なのである。
その自覚から「自然に念仏申される心」が出て来る。
自然であるから自分のはからいではない。
全く他力である。
<感謝合掌 令和元年9月25日 頓首再拝>
弥陀本願の全的救済を信ずる - 伝統
2019/09/26 (Thu) 03:57:48
*「光明道中記」(9月26日《清浄の天地を観る日》)より
【このまま仏である。このまま極楽往生しているのである。(『仏教の把握』)】
(歎異抄十七条)
辺地往生をとぐる人、つゐには地獄におつべしといふこと。
この条いづれの証文に見え候ふぞや。
学生(がくしょう)だづるひとの中に言ひ出ださるることにて候ふなるこそ、
あさましく候へ。
経論正教(しょうぎょう)をば、如何やうにみなされてさふらふらん。
信心欠けたる行者は、本願をうたがふによりて辺地に生じて
疑ひの罪を償(つぐの)ひて後、報土のさとりを開くとこそ、
承(うけたまは)り候へ。
信心の行者すくなきゆへに、化土(けど)におほくすすめ入れられ候ふを、
遂にむなしくなるべしと候ふなるこそ、
如来に虚妄を申し付けまいらせられ候ふなれ。
純粋の他力信者になり切れない者は報土のお浄土へ救い摂(と)って頂けないで、
辺地と云う化土(かりのところ)に往って遂には地獄に堕ちると言う者があるが、
そんなことは経釈のどこにも証拠がない。
これが学者と云う者から言われるのだから何と浅ましいことだろう。
純粋他力になり切れないでも兎も角念仏申す人は、本願の全的救済を信ぜず、
完全に三百六十度廻心(えしん)出来ないから一旦は化土(けど)に生まれて、
そこで浄(きよ)められて報土(弥陀本願の報いとして建てられた浄土)へ
生れる悟りを開く。
化土に生れる者は地獄に落ちると云うのは
弥陀の全的救いの誓願を嘘だと言うに等しい。
<感謝合掌 令和元年9月26日 頓首再拝>
法性法身を観る - 伝統
2019/09/27 (Fri) 03:58:16
*「光明道中記」(9月27日《仏とともにある日》 より
【夜々仏を抱いて眠る。朝々還ってともに起く。起坐常に相随う。語黙居止、
身影の如く相似たり。仏の去処を知らんと欲せば、ただこの語声これなり。
(『仏教の把握』)】
(歎異抄十八条)
仏法の方に施入物(せにゅうもつ)の多少にしたがひて
大小仏になるべし言ふこと、この条、不可説なり、云々。
比興(ひきょう)のことなり。
まづ仏に大小の分量を定めんことあるべからず候。
かの安養浄土の教主の御身量をとかれて候も、
それは、方便報身(ほうべんほうじん)のかたちなり。
法性(ほっしょう)のさとりをひらいて長短方円のかたちにもあらず、
青黄赤白黒のいろをも離れなば、なにをもてか、大小をさだむべきや。
仏法では供養のお布施の大小によってお浄土へ往って大きな仏縁になったり、
小さな仏縁になったりすると説いて布施を慫(すす)めるものがあるが、
言語道断、以ての外の興ざめたことである。
仏には分量大いさなどと云うものはないし、
供物の大小で救われ方が異(ちが)うなどと云うことはない。
阿弥陀仏の身体の大きさなどが御経に説かれているが、
それは、相(すがた)を説かないと判らない凡夫に仰ぐように現しくださった
方便報身(ほうげんのおからだ)であるのである。
方便のおからだの奥に法性法身(ほっしょうのおからだ)、
眼に見えない、形を超えた実相の法身(おからだ)があるので、
これが実相である。
それは長いも短いも、青、黄、赤、白、黒の色をも超越しているから、
大小などと云うことは比較の出来ないことである。
<感謝合掌 令和元年9月27日 頓首再拝>
《心の種子(たね)は 蒔(ま)いた時 既に発芽しつつある》 - 伝統
2019/10/12 (Sat) 05:10:50
*『 生長の家 』(昭和25年3月22日の法語)より
吾々の祈りは、それが真に自分の求むる
魂の叫びであるならば必ず聴かれるのである。
その祈りが尚(なお)きかれないからといって失望してはならないのである。
種は土の中に蒔かれた時 すぐには発芽しないでも、
もうその種の中には発芽すべき化学変化が行われつつあるのである。
実際に目に見える変化の前に、目に見えない変化が行われるのである。
だから心静かに信じて待って 信念を失わないことが必要である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
<感謝合掌 令和元年10月12日 頓首再拝>
神の存在のみを全的に承認する - 伝統
2019/10/13 (Sun) 02:27:46
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月13日)より
祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。
祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。
それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。
だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、必ずしも完全に
効果を挙げることができないのである。
キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。
<感謝合掌 令和元年10月13日 頓首再拝>
《病気や不幸を信じてはならぬ》 - 伝統
2019/10/24 (Thu) 04:44:19
*『 生長の家 』(昭和26年4月27日の法語)より
あなたは「 神 」 を信ずるか、「 現象 」 を信ずるかです。
現象にあらわれている「 病気 」を実在であると信ずるのも信仰です。
自分は信仰がないと云う人も、実は何かを信じているのです。
恐らく「病気」を信じているか、「不幸」を信じているのでしょう。
だからこそ「病気」になり「不幸」になっているのです。
それよりも、「神」を信じなさい。
神がすべての創造主であり、神は「善」であるから、
「善」なる神が病気や不幸を決して創造(つく)らないと信じなさい。
しからば、今あなたに現れている病気は、不幸は、一体何ですか。
それは貴方の信仰の反映です。
映画の如く、あなたの信仰の波があらわれているのです。
信仰をかえなさい。幸福になり、健康になれます。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12251301.html
<感謝合掌 令和元年10月24日 頓首再拝>
《あなたは既に救われる神縁になっている》 - 伝統
2019/11/06 (Wed) 05:02:17
*『 生長の家 』(昭和26年4月30日の法語)より
今、あなたが 「 生長の家 」 を披(ひら)いて読んだ瞬間に、
あなたのすべての不幸の原因が 浄(きよ)められたのだと信ぜよ。
信ずれば信じたとおりになるのである。
あなたが「生長の家」を披いて読む気になったのは
決して偶然ではないのであって、深い深い神のおはからいによるのである。
此(こ)のおはからいを通してあなたは既に浄められたのである。
この病気は治らぬのではないか、この店の不景気はどうにもならぬのではないか
などと云う心配を心から放逐せよ。
そのような心配や恐怖の雲が晴れてしまったときにのみ、
太陽のように輝く実相の円満完全なる相(すがた)があらわれるのである。
信ぜよ、あなたは神の生命の最高顕現として何等の欠点なく
完全に造られているのだと云うことを。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12258903.html
<感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>
神の力が善にして無限であることを自覚する - 伝統
2019/11/11 (Mon) 04:54:07
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より
なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。
また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)
これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。
薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。
ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。
多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。
何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。
真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。
なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。
すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。
誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。
カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)
「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。
わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。
<感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>
《吾は吾を唯幸福にのみ導き給う神を信ずる》 - 伝統
2019/11/27 (Wed) 04:59:49
*『 生長の家 』(昭和25年5月2日の法語)より
外の世界に如何なることがおこって来ようとも、
吾は吾を唯幸福に導きたまう神のあることを信ずるのである。
吾々は現在の状態を人間の努力によって変化しようと
力む必要はないのである。
「 吾が業は吾がなすに非(あら)ず天地(あめつち)を貫きて生くる み親の力 」 と、
信ずるのである。
どんな時にも神に頼って居(お)れば
神がその時その場に適当なことをなすべく導いて下さるのである。
これを信ずるが故に吾は常に心の平和と安静とを保ち得て、
落ち着いて何事もなすが故に
如何なる暗黒をも光に変ずることができるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和元年11月27日 頓首再拝>