伝統板・第二

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昭和43年理想世界「あなたの自己開発のために」 - 夕刻版

2018/12/22 (Sat) 19:54:02

”道産子 さま” ありがとうございます。
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
(http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7800091 からの転載です)



        (昭和43年理想世界誌10/1号)

                 谷口雅春先生

(上旬)

【一日のことば~人間は“眠れる神の子”である】

すべての人間には”神”が宿っているのである。
しかしその“神”は眠っているのである。

”眠れる獅子”という語があるが、
人間は”眠れる獅子”どころではない、“眠れる神の子”であるのである。

この“神の子”は呼び覚ましてくれるのを待っているのである。

・・・

【二日のことば~自己開発は内部から行われる】

自己に宿る“神の子”の目覚めの程度に従って、
そのひとの自己開発が行なわれるのである。

それを生長とか進化とかいうのである。

新たなる領域が開発されて来るのだけれども、それは既に埋蔵されたる
“神の子”の全能が次第を追って開発されて来るのであって、
本来ある”実相”の開発であるのである。

これから造るのではなく、内部に既にあるものを自己開発することにある。

・・・

【三日のことば~人間知と電算機】

人間の賢さは神の智恵の前には愚かなるものであると言われている。

人間の賢さは脳髄組織の電子計算機的解答に過ぎないのである。

電算機で計算して毎日天気予報が行なわれているけれども、
その半分以上は間違うのである。

それは電算機の記憶装置に記憶せしめて材料だけに基づいて
答えが出て来るからである。


未知の要素が加わると、どのように全体の動きが変化するかは
電算機では分らないのである。

だから常に未知の要素の加わる気象界や人間界の出来事が
どのように変化するかは、常に未知数であるのである。

人間の脳髄も過去の経験の記憶を基礎にして判断するが、
人生には常に新しき要素が加わるので、
人間知は結局間違うことが多いのである。

・・・

【四日のことば~無限に伸び行く吾らの能力】

人間の生命は“神”の生命そのものであるから、無限の内容を持つのである。

「無限」はクルミの殻を破るようには、殻を破ったら一ぺんに
全部が出て来るという様なものではないのであって、
一歩一歩前進するという形をとるのである。

それは無限に高き山を山巓をめがけて登り行くのにも似ている。

これだけ高く登ったと思っても、尚、五合目くらいしか登っていないのである。

しかし登れば登るほど視界は広くなり、
俯瞰する世界の美しさを味わうことが出来るのである。

そして更に前進してまた異なる美しき光景を見ることが出来るし、
また内部の能力もそれだけ一層多く開発されて来るのである。

・・・

【五日のことば~魂の本当の願いと記憶装置の願いとの相違】

神は、時間・空間の世界に完全に、
そして有意識的に自己表現を遂げ給うには、
人間を通して働き給うことが必要なのである。

人間は神の自己表現の出口である。

あなたが、尚一層進歩し向上し、また学びたい願いが起こって来るのは
内部から神が囁きかけているのである。

”神がこれを為せ”と囁きかけているのであるから、
あなたが勇敢に周到なる注意を以って精励すれば必ず目的を達するのである。

しかし、あなたの希望の中にも、単なる肉体の脳髄が、
その記憶作用の配合によって浮かび上がって来る機械的な作用を、
本当の自己の魂の希望だと錯覚していることがあるのである。

それをよく鑑別(みわ)けることが必要である。

・・・

【六日のことば~神から叡智を受信し得るために】

脳髄という電子計算機的装置から発送される考えには
よい考えもあるけれども間違いもあるのである。

気象予報が間違ったり、適中したりするのと似ている。

私たちは電子計算機以上の智恵を神から受信し得ることによってのみ、
常に間違いなき生活を営むことが出来るのである。

神から無限の英知を受信し得るようになるためには、
毎日怠らず神想観を実修して、いつでも欲するときに
自分の心を瞬時に神の智恵を受信し得るチャンネルに向きかえることの
出来る修練を積んで置く必要があるのである。

・・・

【七日のことば~あなたの可能性を爆発させよ】

あなたがスランプに陥ったり、人生無意義の感じがして
希望が失われたような消極的な感じに襲われることがあったら、
それは自分の内部にある可能性を充分に生かすことを
怠っているからであるのである。

自分の内部にある可能性が燃え上がらないで、燻っているからである。

自分の可能性は一体何であるか、神想観を実修してそれを神様に問うがよい。

「神よ、私の可能性が何であるかを知らしめ給え」と
就寝直前の神想観に於いて祈って眠るがよい。

そして翌朝目覚めた時に、神から来るヒントがあるならばそれに従うがよい。

翌朝返事がなくとも失望しないで、更に神想観を実修して祈りを深めるがよい。

やがてある機会にあなたの可能性が爆発し出る時が来るであろう。

・・・

【八日のことば~世界は自分の心の影である】

人生が退屈になったり、面倒くさくなったり、倦怠感に陥ったりするのは、
人生が面白くないのではなく、自分自身の可能性が充分発揮されないので、
面白くないのである。

世界が面白くないのではなく、自分自身の面白くない感じを外界に
投映して、人生を詰まらなくし感じさせるのである。

自分が変れば世界が変る、世界は自分の心の影なのである。

理想を描いて理想に向かって驀進せよ。

スランプは消え、退屈は消え、生き甲斐が湧いて来るであろう。

・・・

【九日のことば~いよいよ高く理想を描け】

理想は高く描かなければならない。

低い理想は魅力がないであろう。
そしてあなたを驀進にまで駆り立てて行く力とならないであろう。

理想を描く限りは高く高く愈々高き理想を描くべきである。
愈々高き人間像を自己に描けよ。

愈々高き人間像とは”神の子”であり、神の最高の自己実現であり、
神がわれを通して神の希望を実現すべく、地上に自己を遣わし給うたのだ
という高邁にして荘厳なる自覚である。

われ常に神と共に生活し、神と共に行動し、
神わが内にあり、われ神の内にあるという自覚である。

この自覚にあなたの情熱を燃え上がらす時、
退屈もスランプもあり得ないのである。

・・・

【十日のことば~問題の解決について】

右すべきか、左すべきか、去就を決しかねるような問題に面した時には、
如何にすべきであろうか。

問題の最善の解決法は唯一つあるのである。

次善の解決や遠回りの解決は幾種類もある。

いろいろの先生や、指導者に相談してみて、その指導者が教えてくれる
解決法がそれぞれ異なっていてもそれが皆間違った指導ではないのである。

一つの箱を開け方でも色々ある。一本一本釘を抜いて行くやり方もあれば、
一ぺんに叩き潰してしまうやり方もある。

右の板を先ず外す方法もあれば、左の板を外す方法もある。

けれども最もよい箱の開け方は、箱を損せず、箱を開いた後に、
中のものを取り出しても、再びそこへキチンと収めることが出来るし、
又、ほかのものを入れて保存したり郵送したりするのに使えるように、
一切のものに調和して、全てを生かしながら開く解決法が
最もよいといい得るのである。

            <感謝合掌 平成30年12月22日 頓首再拝>

(中旬) - 伝統

2018/12/25 (Tue) 19:58:32


【十一日のことば~問題はそれ自らのうち位に解決を含むのである。】

私達が問題に面して決しかねるのは、自分の心に先入観念があるからである。
そして、その先入観念が、自分の何かの欲望や執着に絡み合っていて、
問題そのものを純粋に解決する方向に考えないで、
自分の執着する方向に問題を引きずって行こうとするからである。

蕾はそれみずからの方法によって花を開いて、自己解決するのである。

それなのに、その蕾を自分の好む方向に捻じ曲げて花を開かせようとするならば、
そこに無理があり、誰かが犠牲となり、損をしたり、争いを生じたりするのである。

蕾が、それみずからの方法によって問題を解決して美しい花を開かせるように、
吾々は問題それ自身が内に含む意義の方向に問題を解決すればよいのである。

そこには無理はなくあらゆる方向に調和した解決が見出されるのである。

・・・

【十二日のことば~神のみこころによる解決を求めよ】

問題をそれ自らの方法によって解決に導いて行くには、
自分の執着や、好き嫌いや、愛憎の念を捨離しなければならないのである。

それには静かに坐して神想観をするがよい。

「われが心を空しうして神のみこころに帰一し奉る」と繰返し念じて、
神の智恵と一体となることを願うがよい。

「どちらの道をとるが、利益になるか」とか「自分が、このように結論を
持って行きたいのは、こういう理由による」とか、人間製造の理由などは
全然心から放ってしまうがよい。

そして「神さまのみこころに於いて、ただしき道を示し給え」と念じて、
正しき解決(又は裁決)であると直感できる方向に解決して行くのがよいのである。

神の御心による裁決に従うならば、神はすべてのすべてであるから、
すべての人々に調和した解決の道を見出すことが出来るのである。

・・・

【十三日のことば~神は超越的内在の本源者である】

神は遍在であり給う。

神は超越的内在とでも謂うべき存在であられるのであって、
単なる“内在”でもなければ、“外在”でもない。

超越と言っても吾々から離れているのでもない。

内に在り、外にあり、前にあり、後方にあり、上にあり、下にあり、
時間空間を超えているが故に、あらゆる時空を通じて、
全ての時、すべての空間に作用し給うことが出来るのである。

しかし、この神の導きを受けようと思うならば、
それに波長を合わす必要があるのである。

それはテレビの放送電波が吾々の視覚を超越した世界にありながら、
吾々がそれに波長を合わす事によって、それを視聴し得る世界に
持ち来し得るようなものである。

・・・

【十四日のことば~神の自己実現である人間は何を為すべきか】

神はすべての渾てであらせられる。

神は無限であり、無限の力であり、無限の智恵であり、無限の生命であり、
無限の資源であり、無限の調和であり、無限の企画であり、無限の構図であり、
無限のアイディアであり、無限の癒す力であり、無限の健康であり、
無限の裕さであり、その他、筆舌では、表現することの出来ない
“無限の善”である。

この無限の善が吾々を取り巻いており吾々人間をその最高の表現の機関として、
自己表現しようとしていられるのであるが、その表現のデリケートな機構は
吾々の“心の波長”にあるのであって、何と言っても吾々は自分の心の波長を
神の霊的波動に同調するようにしなければならないのである。

・・・

【十五日のことば~アダムは、こうして楽園から追放された】

苦しんだり、闘争し続けなければならないのは、
“無限”に同調することを忘れた人であり、
神の力に融合することに失敗した人だけであるのである。

それは神に背いて人間知の禁断の果実を食べたアダム・マンであって、
神の子(God man)ではないのである。

人間知の禁断の果実とは、五官で判断した結果のすべてのものは
物質で出来ているという唯物論である。

無論人間をも、ただの肉体という物質的塊に過ぎないと考える
唯物論的人間観である。

したがってこのような物質的人間観を持つ人たちは、神に波長を合わす事を
考えないから、有限の肉体的力のみによって世に処して行かなければならない
から、苦しんだり、闘争したりしなければならないのである。

創世記ではこの事を象徴的に、知恵の樹の実を食したアダムは
エデンの楽園から追放せられたと表現されていゐるのである。

・・・

【十六日のことば~アダム・マンよりゴッド・マンへ】

不幸に陥ってる人たちは、アダム・マンであって、
肉体的力のみで苦闘しているのである。

私たちは自己の生命の本質を自覚して、自己が“神の子”であり、
霊的実在であることを知り、父なる神の方向に振向いて
「神と偕に生きる」ようにしなければならない。

そのとき自分は神と一体となり、アダム・マンより脱却して、
ゴッド・マンとなることが出来るのである。

アダム・マンの生活は常に間違いに満たされているから、エデンの楽園から
追放されることになり、今まで人間に生まれた不幸を歎いていたのであるが、
ゴッド・マンにはそのような歎きはないのである。

それ故に本来のゴッド・マンに還ることを、私たちは「楽園奪還」とも、
「空手にして郷に還る」ともいうのである。

・・・

【十七日のことば~唯物論者の人生はロボットである】

物質的構造の世界のみを認める唯物論者は、
物質は物理学的法則に従って機械的に動くのであるから、
そのような人には自由はなくただ機械的に時計の針のように動く
宿命の世界に住むことになる。

そして「自分」というものは、
宇宙という巨大な時計の一つの歯車に過ぎないものとなるのである。

時計の歯車は全体の機構の上から、定められた速度で、
定められた方向に運動するほか全然自由がないのである。

唯物論者は結局、宿命論者にならざるを得ないのである。

若し精巧緻密な電子計算機がつくられて、
一切のデーターをそれに記憶せしめて、その人の運命を計算し出すならば、
電子計算機の計算した通りに彼は動くことになる。

彼はロボットであり、自由があると感じたのは
唯の錯覚に過ぎなかったと云うことになるであろう。

気の毒なのは唯物論者の人生である。

・・・

【十八日のことば~ただ”神の子”のみが自由人である】

唯物論者には自由はないが、
霊的実在であり、神の子であるゴッド・マンには自由があるのである。

彼は“心の自由”を享受している。

“心”は物質の物理化学的な変化に対して、
必ずしも一定の反応を示さないのである。

同一の物質的条件に対しては、百人は百人ながら、別の考えや、
ニューアンスの異なる反応を示すのであり、
その反応の仕方によって行動が変って来るのである。

すなわち、彼独特の反応の示し方によって、
彼独特の人生がつくられて来るのである。

しかし彼独特の反応の仕方にも色々あって、
物質に執着して、物質の変化に振り廻されるならば、
唯物論者とあまり異なることはないのである。

唯、神に振り向き、神の叡智によって、
如何なる環境条件をも克服し得る人のみ
本当の自由人であり、”神の子”である。

・・・

【十九日のことば~常に前進して失敗せざるもの】

私たちは、前進しなければならない。

前進ばかりしていては、墜落することがあるのに気が付かければならない。

現象界は、心臓の働きの如く、また肺臓の呼吸作用の如く、
一張一馳(いっちょういっし)のうちに、進展して行くのである。

退くべき時には退いて勢力を内に蓄えて前進するのである。

それは往復式エンジンのピストンの作動の如く、尻とり虫の歩行の如く、
一進一退しつつ全体としては常に前進するのである。

勝ちに奢るものが、やがて敗れて滅ぼされるのは、後退して、
時期を待つべき時に、何時、何処で、如何に待つべきかの智恵を失ったために
?(おとしあな)に係るのである。

その何時何処で、如何に待つべきかの智恵は、常に神想観をして、
神と融合する精神的習慣をつけている者には得られるのである。

・・・

【二十日のことば~現象我は「人間」そのものではない】

肉体は現象の変化に従って喜んだり悲しんだりする。

しかしそれは「現象の我」のことであって、
「本当の我」(実相の自我)は、一喜一憂の自我以上のものである。

時には有頂天になって昂奮し、時には陰気臭く沈鬱してしまうような
「心」は”神の子”の“本当の心”ではないのである。

それはあなたの意識の表層にある一種のレーダー装置の反応でしかないのである。

肉体感覚や、それに伴って起こる知覚は現象界に何が起こりつつあるかを
報道する為のレーダー装置に過ぎないのである。

レーダー装置は現象界の出来事の進行をメモするための道具であって、
「人間」そのものではないのである。

            <感謝合掌 平成30年12月25日 頓首再拝>

(下旬) - 伝統

2018/12/26 (Wed) 19:57:09


【二十一日のことば~仏教の無我の説について】

五官の感覚によって営まれる肉体的生活は、
脳髄という電子計算機を備えたロボットの生活である。

それには「本当の我」はないのである。

それは生命が自己表現するために造り出したロボットであり、
「人造人間」である。

多くの人はこの人造人間を「本当の自分」の如く錯覚しているのである。

そんなものは本当の“我”ではない。

それゆえに釈尊は、そのような“ニセモノの我”を否定するために
「無我」をお説きになったのである。

「無我」は「真我」を否定されたのではなく、
真我を肯定するための大前提としての否定であるのである。

だから、釈尊はその最後の説教「涅槃経」に於いて
「常楽我浄」とお説きになっているのである。

法華経及び涅槃経以前に於いてお説きになった「無我」は

「常楽我浄」をお説きになるための準備であって、
決して矛盾するものではないのである。

・・・

【二十二日のことば~実相の浄土は久遠常住にして毀けず】

「常楽我浄」の「常」というのは、此の世界は常恒不変確固たるものではなく、
常に移り変わる、即ち無情なものであると、その時迄釈尊が説いて来られたのを
翻して、無常なのは現象世界の事であって、実相世界は「常」であるぞ、
常恒不変堅固なる世界が「実相」として現象界の奥にあるぞ
とお説きになったのである。

即ち法華経の如来寿量品に於いて、「衆生、劫尽きて大火に焼くると
みる時にも、わが此の土は安穏にして天人常に充満す」
とお説きになった事に涅槃経は符節を合わすのである。

“劫”と言うのは、この天体が発生してからやがて
その天体が衰滅又は破壊して無くなる迄の一周期である。

その一周期の終末が来ることを「劫尽きる」というのである。

そして、仮にこの天体が他の天体と衝突でもして瓦斯体となって焼けて滅する
時が来ても、それは現象界のことであって、「わが此の土」即ち
釈尊の住んでいられる「実相の浄土」は焼けて滅するということもなく
「常恒堅固」なる世界であって、餓鬼や畜生や阿修羅の住んでいる世界ではなく、
容姿端麗にして善意に満ちた天人のみの充満せる世界であるとお説きになった訳である。

・・・

【二十三日のことば~この世界は苦娑婆にあらず】

「常楽我浄」の“楽”と言うのは、釈尊はその時まで、
此の世界は苦しみ充満せる「娑婆世界」であるから、
それは厭離しなければならないと否定的に説いて来られたのであった。

ところが涅槃経をお説きになるに及んで、
苦しみの娑婆世界とは「現象世界」の事であって
「実相の浄土」は、楽が充満せる世界であるとして、
苦しみの世界ではないとて、

「天人、天鼓を撃って、諸々の伎楽をなし、曼陀羅華を雨降らして
仏及び大衆に散ずる世界」であるとお説きになったのである。

それは厭離すべき世界ではなく、享受し遊楽すべき世界である
とお説きになった訳である。

・・・

【二十四日のことば~実相世界の楽について】

「此の世界は楽の充満せる世界である」ということは、
バーやキャバレィやナイトクラブで、享楽に現を抜かしてよい
という意味ではないのである。

実相世界の楽は清浄神聖にして、
嫉妬や、愛情の葛藤や、奪い合いや、恨みや、憎しみは存在しないのである。

そこには聖楽とでも謂うべき神聖なる魂の音楽があり、
聖楽とでも謂うべき神聖なる悦楽があるのである。

そして実相世界に於けるいとなみは、それは仕事であると同時に
遊戯三昧であって、単なる享楽という様なものではないのである。

・・・

【二十五日のことば~迷我の否定と如来我の肯定】

「常楽我浄」の“我”というのは法華経及び涅槃経を釈尊がお説きになる時まで
「無我」と言って“我”の存在を否定して来られたところの
其の“小我”のことではないのである。

涅槃経には「我とは如来蔵是れなり」と示されているのである。

即ち、「常楽我浄」に於いて、肯定されたる“我”とは吾らの
「内に宿る如来」であり、「神の子」であるのである。

仏教では宇宙の本体を「真如」という。

その本体が人格的姿をもって来生せられたのを
「真如来生」即ち「如来」というのである。

キリスト教や神道では宇宙の本体を「神」というのである。

その神が人格的姿をもって来生したのを「神の子」というのである。

だから「如来」も「神の子」も同意義であるのである。

「無我」と言って否定せられたる「我」は「如来の我」でもなく、
「神の子の我」でもなく、脳髄的電子計算機より生じたる現象的意識の
自我であって、それは「心、全相に達せざるが故に」時々迷いの判断や、
迷いの意欲である煩悩を起こすものである。

法華経に於いて「如来の我」の久遠不滅生が肯定されているのは、
その如来寿量品に於いて、「我れ常に此処にありて滅せず」
と説かれているので明らかである。

・・・

【二十六日のことば~久遠浄土の自覚について】

「常楽我浄」の“浄”と言うのは、
釈尊が法華経及び涅槃経をお説きになる以前は、
この娑婆世界は「不浄の世界」であり「穢土」であるから
厭離すべきものであると説かれたのを一転して、
「この世は穢土ではなく、浄土である」とお説きになったのである。

即ち、法華経の如来寿量品の自我偈に於いて、

「衆生、劫尽きて大火に焼かれると見る時にも、
わが此の土は安穏にして天人常に充満せり」

と説かれたのは、

「大火に焼かれて、阿鼻叫喚に満たされている穢土」のほかに、
「天人常に充満せる楽土」が存在することを肯定せられたのであり、

此の浄土(楽土)が、久遠堅固にしてくだけないが、現象界は、凡夫が迷いに
よってその浄土を見ることが出来ないのだと云うことを釈尊は

「わが浄土は毀れざるに、衆は焼け尽きて憂怖諸々の苦悩充満せりと見る」

と仰せられて、真実世界のみ、唯一の堅固常楽の浄土であるのに、
衆生はその真実世界を見ることが出来ず、錯覚して苦悩不浄の世界を
見ているのは誠に残念なことであると仰せられているのである。

・・・

【二十七日のことば~現象の穢土を超えて、実相の浄土を想念せよ】

何のために、釈尊は「久遠不滅の浄土」をお説きになったのであろうか。

吾々は想念によって描くところの状態を
未来の世界に創造し出すことが出来るからである。

若し吾々が、苦悩・恐怖のみ充満せる世界を、唯一の存在の世界として、
吾々の想念を固定化してしまうならば、唯心所現の世界である現象世界は、
その固定想念の具象化として永遠に苦悩・恐怖の状態が打ちつづいて
救いがたきものとなるからである。

吾々が自由人として、現象界に於いても、
自己の運命を、自分の欲する快適なる状態に改めようと欲するならば、
現象の苦悩充満せる穢土から心の眼を一転して、常楽歓喜の世界に心を振向けて、
常楽歓喜の状態を心に観ずる必要があるのである。

吾々自身の状態と、自分の運命の状態とは自分が心に描いた
「想念のイメージ」の具象化であるからである。

不幸である人よ、病める人よ、苦しめる人よ、貧しき人よ、
今迄のあなたの想念の習慣を変えよ。

暗い状態を常に心に描いていた心の習慣を改めて、
常に明るい状態を、健康の状態を、裕かなる状態を心に描けよ。

そして、その状態が既に、今・此処にあることを
”心の世界”に確認して感謝せよ。

日ならずして、その明るい想念が具象化して、あなたの境遇・環境・運命
及び自分自身が改善されて来ることに気付くであろう。

・・・

【二十八日のことば~心を暗黒の方向に動揺せしめてはならぬ】

柳生流の極意の歌に「心こそ心まどわす心なれ、心に心、心ゆるすな」
というのがあるそうである。

心は常に動く、常に動いて欲せざるを事をも想念に描くのである。

その想念の動揺によって始終あなたは、成功から失敗へ、勝利から敗北へ、
裕かさから貧しさへ、堅硬から病弱へと動揺するのである。

若しあなたが、そのように、光明から暗黒へと動揺させることなく、
常に一念不動に、光明の想念のみを持ち続けてることさえできるならば、
過去はどうあろうとも、未来はただ光明の運命のみがあなたを待っているのである。

・・・

【二十九日のことば~あなたの心の沃土に建設的な明るい想念を描け】

あなたの心の注目を、怒りや悲しみや失望や挫折や、病気や貧乏や、
すべての不幸や暗黒から、一転させよ。

これらすべての不健全な暗黒な消極的なものを
あなたの心の世界から葬り去るがよい。

そして、その代わりに、あなたの心の沃土に、調和と愛と、歓びと、
平和と相互扶助による発展や、その他一切の建設的想念を播種するがよい。

想念の種子は肉眼には見えないけれども必ず現実界に発芽して大きく生長し、
やがて美しき花を開き、良き実をゆたかにみのらすにちがいないのである。

・・・

【三十日のことば~神はあなたに自由人としての運命を与えた】

あなたの人生は、あなた自身の人生であって、
誰の力によっても変化せしめることは出来ないのである。

ここに”神の子”なる自由人として特権があるのである。

ただ、あなたの想念のみ、あなたの人生を変革する。

それは、あなた自身の人生であるからである。

「運命」と呼ぶ不可知の力が自分を支配するとか、神というものが、
各人に特殊の運命を割り当てたのであって、それから吾々は逃げ出すことが
出来ないのだ――などと考えてはならないのである。

神があなたに割当てた運命は”神の子”として自由人であるということだ。

そして「想念」という道具をもって、
どんな運命でも開拓できる力を与えたということである。

そのほかに、あなたを束縛するような神の意志などというものはないのである。

・・・

【三十一日のことば~あなたは運命の指揮者である】

自由人とは、自分自身が、運命に先立ってイニシアチウ“をとることが
出来る機能を持つことであって、与えられた既成の運命をいやいやながら
受け身的に甘受するということではないのである。

あなたが立って、先ず、運命に対して号令をかけるならば、
運命を構成するあらゆる要素が、その命令に従って動き出して、
あなたが先ずイニシアチウ“をとって命令した通りの運命を
造り出すように働いてくれるのである。

劣等感をもつな。

あなたは神の子であり、あなたの命令の通りに万物が従い仕えるのである。

併し、他の人を害したり、他の人の権利を侵害して自分だけ、
幸福になるような願いを命令してはならない。

それは実相の秩序に反するが故に、
実相世界の無限の力が協力してくれなくなるからである。

            <感謝合掌 平成30年12月26日 頓首再拝>

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