伝統板・第二

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「母」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/05/11 (Sat) 11:17:09

光明掲示板・第二 消滅により、
「母」の伝統板・第二への再掲示です。


《母の愛に涙する話》

         *Webより

彼は幼い頃に母親を亡くし、父親と祖母と暮らしていました。

彼が17歳の時に、急性骨髄性白血病にかかってしまい、
本人すら死を覚悟していましたが、骨髄移植のドナーが運良く見つかり、
死のふちから生還しました。

そのときに1人でも多くの人を助けることができたらと医者になることを決意し、
猛勉強の末に某国立医科大学を卒業、インターンを経て
無事彼が骨髄移植を受けた病院に就職することができました。

その病院で私の友人、彼女もまた医師をしていますが、
彼女と出会い、晴れて婚約をしました。

彼の祖母が先日亡くなったので、しばらく沈んでいたようですが、
日々忙しく働く中で、徐々に持ち直していたようです。

そんなある日、1人の救急患者が運ばれて来ました。

50代後半くらいの女性で交通事故に遭い意識不明の重態だったので、
至急家族に連絡が必要だったのですが、身分証明を所持しておりませんでした。

首にかかっていたペンダントが俗に言う、「ロケット」タイプだったらしく、
手がかりになればと開けてみたところ、なんと幼い頃の彼の写真が。

彼はすぐに父親と連絡を取り、その旨を話すと父親もすぐ病院に駆けつけました。

父親から聞いた事情はこうでした。
もともと彼の祖母をはじめとする親族が父と母の結婚に大反対していたらしく、
それを押し切って結婚したものの、彼の母親はものすごい嫌がらせを受け、
心身ともに参ってしまったそうです。

母親は不眠症に陥り、
睡眠薬が欠かせない状態で自律神経失調症になってしまいました。

医師からは環境を変えなければ治りようが無いと言われ、
少しの療養のつもりが、結局父親の親族から追い出された形に
なってしまったのです。

何度も息子に会いに家を訪れる母親を、
祖母が知り合いの医者を使って精神異常との診断書を書かせ、
それを裁判所に持ち込み、息子との接触を許されない状況にされてしまいました。

そんな状態でしたが、母親が唯一彼と接触した日があったそうです。
急性骨髄性白血病にかかったとき、親族で誰一人として型が一致する者がおらず、
苦肉の策で母親を呼び出し検査したところ、見事に一致することがわかったのです。


もちろん母親は何の見返りも求めませんでしたが、
ただ1つ、夢にまで見た息子とどうしても話がしたいと申し出たところ、
手術のあと眠っている間に顔を見るのはいいと言われ、
もちろん彼は覚えてはいませんが、実際20分ほどだけ同じ病室にいたそうです。

彼も大好きだった遠い記憶にある優しい母が、
夢にまで見た母親が目の前にいて彼女は重態だということ、
親族一同が母親にした仕打ち、ものすごい感情と闘いながら必死で治療を続けました。

しかし2日間の集中治療の甲斐も虚しく、今日か明日かという状態になり、

病院長から
「是非お母さんと一緒にいてあげてください」と言われ、
彼はずっとお母さんの傍に座り、一晩中手を握っていたそうです。
そして翌朝、お母さんは息を引き取ったそうです。

事情を知っている同僚や看護婦もみんな涙したそうです。


後日、お母さんのアパートを友人の婚約者と訪ねたところ、
たった一人で暮らしており、とても質素な暮らしぶりだったそうです。

部屋には彼の幼い頃の写真がたくさん飾られていて、
彼が手にすることのなかった、親族が送り返した大量の手紙、
クリスマスプレゼント、誕生日プレゼントなどが押入れに残っており、

通帳の表表紙には彼の名前がサインペンで書いてあって、
預金額はその質素な暮らしぶりからは考えられないほどの金額でした。


最後に預金した日がお母さんが交通事故に遭った1日前の日付けで、
彼と婚約者はその場にうずくまって泣きつづけたそうです。


本当に残念なのが、彼の父親が手紙を送っており、彼が結婚を予定していること、
祖母も亡くなり、今さらだが息子のために結婚式参加してもらえないかという
内容の手紙を送っていたにもかかわらず、

母親は受け取らないままに亡くなってしまったことでした。



約30年近く夢にまで見たかけがえのない息子を抱きしめることができただろうに・・・・



みなさん、お母さんを大切にしてあげてください。

一度でいいから

「ありがとう」と声をかけてあげてください。

             <感謝合掌 平成26年5月9日 頓首再拝>

・・・

母からの手紙

心霊ではないんですが、
母が死んだ次の日に手紙がきていたのには泣きました。

数年前私は東京の会社に勤めていて、
母が倒れたことを聞き一度見舞いに地元には帰ったものの、
ちょうどそのとき仕事の過渡期でなかなか休みをとれず、
半年ほど様子見に帰ることもできない日が続いてました。

ちょうどそのとき、私が付き合ってた女性のことを、
両親とも認めてくれず、特に母親は
「絶対に結婚は許しません」の一点張りで、
プロポーズまでして、二人の間では婚約してはいたものの、
結婚となると、家同士のこともありますし、なかなか出来ないでいました。

母が入院しているときにも、電話をかけると必ずその話になってしまい、
病気だというのにもかかわらず、電話ごしにけんかするばかりで、
正直なところ、心の中で母を憎んだこともありました。

そうこうしているときに、急な母の病状の悪化。
危篤の知らせが入った3時間後には息を引き取るという突然の死でした。


母の死に目にも会えず、急いで実家に戻った時にはもう母は実家に運ばれ、
冷たくなった母の手を握り、とても後悔していました。

「何でもっとやさしくしてあげなかったんだろう。」
「何でもっとお見舞いにきてあげなかったんだろう。」
「何で結婚のことを反対されたからといって憎んでしまったりしたんだろう。」

後悔先に立たず、死んでからわかる親のありがたみ、
そんな言葉が身に染みて分った気がします。

お通夜、葬式、後片付けなどを済まし、
後ろ髪が引かれる思いで、仕事がたまってしまった東京に戻りました。

借りていたマンションの郵便受けに溜まった新聞や手紙。
何もする気が起きないまま、呆然とそれらをテーブルの上に投げ出したとき、
目に飛び込んできたのは、母の字で書かれた私宛の手紙。

状況が飲み込めないまま、その手紙を手にとり、中身を読み出した私は
その手紙が母からの最後の手紙ということを知りました。

なくなる前日に、珍しく手紙を書こうと思ったのでしょうか、
病状が悪化し、震える手で、書いたであろうその手紙。
まさか自分が死んだ後に私に届くとは思ってなかったのでしょう。

「今度来るときはもうちょっと長くいれるようにしなさい。」
「仕事ばかりしてないで、たまには東京を案内して頂戴。」
と、生きていたころには、うざいと思っていつもけんかになるような内容。

でも、その時、初めてわたしは、母は寂しかったんじゃないか、と思いました。

そんな手紙の中に、意外な事がかかれていました。

「今度帰るときは○○さんもつれて帰ってきなさい。渡したいものがあるから。」

その一行に、最後の最後になって、
母が私たちのことを認めてくれたということを悟りました。

よくある話ですが、私が小さいころから母は、
大切にしていた指輪を私に見せながら、

「おまえが独り立ちして、
お嫁さんを連れてくるようになったらこれをその子にあげるからね。」

と言っていました。多分その事なんだろうと・・・

それから数日して、改めて現在の私の奥さんとなる人を始めて実家に連れて行き、
正式に父と亡き母を前に、結婚する旨を伝えました。

今思うと、母はなんとなく自分の命のことを分っていたのではないかと思います。
だから、最後の最後に、あのような手紙を送ってきたのではないかと。

そう考えると、とても切ない気持ちになります。
もうちょっと冷静にちゃんと話し合えばよかったなと。

今では、2人目の子供も無事生まれ、一人目もわんぱくざかりで、手に余るほどですが、
でも、こうやって幸せな家庭をもてるようになったのも、母のおかげと、
そして、いつも草葉の陰から見守ってくれているからだろうと奥さんともども感謝しています。

             <感謝合掌 平成26年5月10日 頓首再拝>

・・・

【母を拝まん】


【 合掌すれば妙楽の世界今開く、父を拝まん母を拝まん 】(谷口雅春先生)



母を拝む歌

      *谷口雅春先生・著「拝み合う心 第1篇 父母を拝む歌」(P3~8)より

    
《母仰慕》

☆ 七十七(ななそなな) 老いて優しくなりし母は 入歯さはると遅く食(は)みたまふ


☆ 二歳のときの私を抱きて硝子(がらす)の寫眞(しゃしん)にうつりゐたまへる若き母かも


☆ 老いて深く皺(しわ)める皺のひとつひとつにわが掛けし苦勞の刻まれてあるか


☆ 母よく來(き)ませりと思へども待遇(もてなし)もせず原稿を書く公けの此の身なるかな


☆ 庭の紅葉(もみぢ)美しく日に映(は)ゆるさま此の母に見せばやと思ふに日は照りもせず


☆ 捨てて捨てて捨て切りし頃のわれを見て乞食(こつじき)になるらむと悲しみし母


☆ 母喜べば生ける甲斐あり 庭の石をつみてよろしかりしなど思ふ


☆ 池の金魚 みな浮(うか)びあがり 鰭(ひれ)ふろて母をたたへよ赤き背見せよ



             <感謝合掌 平成26年5月11日 頓首再拝>

・・・

【一粒の豆】

     *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年06月07日)」より


   (曹洞宗長寿院住職、篠原鋭一氏の心に響く言葉より…)

   交通事故でお父さんが亡くなり、
   小学校3年と1年の男の子、そしてお母さんが残された。

   この交通事故はどちらが被害者・加害者かの判定が難しかったが、
   最後には母子家庭側に加害者という決定が下されたのである。

   加害者側とされた3人は家を売り払って、見知らぬ土地を転々として暮らした。


   やがて落ち着いたのは農家の納屋。
   親切な農家が見るに見かねて貸してくれたのである。

   ムシロを敷いて、裸電球をつけ、小さなガスコンロとダンボール箱の食卓だったが、
   3人はとてもうれしかった。


   育ち盛りの男の子2人をかかえてお母さんは、昼は学校給食の手伝い、
   夜は料理屋の洗い場へと、寸暇を惜しんで働いたのだが、

   やがて限界がやってきた。

   「これ以上働けない!  申しわけないけどお前たちをおいてお母さんは死にます」

   こう決めたお母さんは、
   家事のすべてを引き受けてくれる小学校3年の長男に
   最後の手紙を書く。


   ・・・お兄ちゃんへ、おなべのなかに豆がいっぱい水にひたしてあります。
   今夜は豆をにておかずにしてください。
   豆がやわらかくなったら、おしょうゆを入れるのですよ・・・。


   深夜、家に帰ってきたお母さんの手には、多量の睡眠薬が握られていた。

   足元には枕を並べて眠っている兄弟の顔が見える。

   よく見ると長男の枕のそばに一通の手紙が置かれていた。

   思わず手に取って開いてみると・・・、


   ・・・お母さん、ぼくはいっしょうけんめい豆をにました。
   おしょうゆも入れました。

   でも夕食のとき、弟はしょっぱくて食べられないといって、
   かわいそうにごはんに水をかけて食べたのです。


   お母さんごめんなさい。

   でもぼくを信じてください。

   ぼくは本当にいっしょうけんめいにたのです。


   お母さん、お願いです。

   ぼくのにた豆を一つぶだけ食べてください。

   そしてもう一度、豆のにかたを教えてください。


   お母さん、今夜もごくろうさまでした。

   お休みなさい。

   さきにねます・・・。


   長男の煮た豆を一粒一粒食べるお母さんの目から大粒の涙がとめどなく落ちた。

   大声で叫びたい気持ちをおさえて、
   お母さんは心の底からわが子にあやまったのである。


   「ああ、申しわけないことをした。
   お前がこんなに一生懸命生きているのに、
   お母さんは自殺しようとしている。

   申しわけない。

   ごめんね。

   お兄ちゃん。

   お母さん、もう一度頑張るからね」


   袋の中に、豆が一粒残っていた。

   この時からお母さんはこの一粒の豆と長男の手紙をハンカチに包み、
   お守りにして肌身離さず持っていることにしたのである。


   この夜から20年。

   3人は貧乏のどん底から抜け出し、長男と次男は東京大学を卒業。
   たくましい社会人となった。

   一粒の豆は、今もお母さんの懐(ふところ)深く大切に持ち続けられている。

   母の自殺をとどめたのは、長男の一途な思いである。

   どこまでも母を親として信じ、尊敬している孝順心に他ならない。


   母を救った“わが子”は菩薩さまに違いない。

          <『本当の話』興山舎>

             <感謝合掌 平成26年6月8日 頓首再拝>  

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