伝統板・第二
神の創造 ② - 伝統
2019/07/28 (Sun) 04:35:41
*伝統板・第二「神の創造」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7538249
観念と創造
*「光明法語」(7月28日)より
観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>
創造は分化と綜合 - 伝統
2019/08/12 (Mon) 04:30:41
*「光明法語」(8月12日)より
神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。
陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。
画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの
画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。
摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。
しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。
<感謝合掌 令和元年8月12日 頓首再拝>
《神が唯一の創造者である》 - 伝統
2019/08/25 (Sun) 04:30:41
*『 生長の家 』(昭和40年3月24日の法語)より
生物学が進歩し、人体の生理活動の機構が分析され、研究され、
いかに肉体の機構が組み立てられていて、
それが作動するかが明瞭となり、
肉体の成分が精密に分析されて、
いかなる栄養素が如何に組み合わされているかが
明らかになったとしても、なお 其処(そこ)には
科学ではどうしても説明できない或る点に達するのである。
誰がそのように精巧なる人体機構を案出し、
どの成分をどのように排列(はいれつ)することによって
「人間」という驚くべき装置(比喩的に謂う)を
発明したのであるかということである。
その「誰が」を見た人はないのである。
その発明者を見たことはないのである。
人体だけではなく、一木(もく)の植物を考えてみても、
その最初の発生のもとになった「種子(たね)」は
誰が考案したのであるか。誰が発明したのであるか。
その発明者が「 神 」 であるのであり、
「 神 」 が、それを考案したのである。
「 考案する 」 とは霊の世界に於いて
「 想念を用いる 」 ということである。
万物は霊の世界に於いて神の想念によって創造され、
それが時間空間の「認識の形式」を通して
現象界に転現して、吾々はそれを見ているのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 令和元年8月25日 頓首再拝>
《想像力を駆使して善き事を実現せよ》 - 伝統
2019/09/07 (Sat) 05:01:06
*『人生の秘訣365章』第3篇(P84) より
物質がまだ何もない最始源に於いて、
神が一切のものを創造り給うたのは、心によってである。
物質の形の模型は未だ存在しないのであるから、
先ず一切のものを造るには、「心で想う」と云う方法しかないのである。
而も、まだ形の世界に存在しないものを「心で想う」のは
想像力に頼るほかはないのである。
つまり想像力は創造力であるのである。
神はその同じ想像力を人間に授け給うて、
自己の欲する事物を現実界に造り出すことを得せしめ給うたのである。
如何なる悲観的状態が眼の前にあらわれていようとも、
想像力によって、善き事を心に思い浮べて想像し、その実現を固く信じて、
常に神想観して、自分に内から催して来る通りに行動するならば、
自然に適時に適所に適当なる方法を講ずることができて、
自分の希望を実現することができるようになるのである。
<感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>
無限の生長と前進 - 伝統
2019/09/10 (Tue) 04:48:54
*「光明法語」(9月10日)より
かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。
それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの
全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。
大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。
<感謝合掌 令和元年9月10日 頓首再拝>
新しきものの創造 - 伝統
2019/09/11 (Wed) 04:29:39
*「光明法語」(9月11日)より
汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。
大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。
吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。
<感謝合掌 令和元年9月11日 頓首再拝>
創造は感情によって行なわれる - 伝統
2019/09/17 (Tue) 04:39:31
*「光明法語」(9月17日《生命の純粋律動》)より
生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。
しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。
それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。
創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。
<感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>
創造の最初に感情あり - 伝統
2019/09/20 (Fri) 04:49:36
*「光明法語」(9月20日)より
最初に感情が動いて、
軈(やが)てハッキリした行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。
たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。
即ちハッキリした形に思い浮び、それが行動を指導することになるのである。
腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。
<感謝合掌 令和元年9月20日 頓首再拝>
感情、想念が創造を決定する - 伝統
2019/09/26 (Thu) 03:54:52
*「光明法語」(9月26日《想念感情は同類相(あい)引く》)より
大生命は流れるが、どんな形に流れさせるか。
大生命は創造するが、どんな形を創造させるかその形を決定し、
創造されるものの姿を決定するのは、自分の感情であり、想念である。
それは類似の波長は共鳴し、相牽(あいひ)くと云う法則に随って、
明るき感情は明るき想念を呼び出し、明るきものを創造せしめる。
暗き感情は暗き想念を呼び迎え、暗きものを創造せしめる。
一瞬時と雖も暗き感情をもつ事は罪悪である。
罪悪とは本来の明るい姿をツツム事である。
<感謝合掌 令和元年9月26日 頓首再拝>
《創造は衝動》 - 伝統
2019/10/10 (Thu) 04:26:53
*『生活の智慧365章』
(第3部歓喜の泉)第4篇(P95~96) より
宇宙大生命は“真空”と見えながらカラッポではなくして虚空を埋め、
それ自身が想念を起こすことによって万象が展開してあらわれて来るのである。
「元始めにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき。
よろずの物これによりて成り、成りたるものこれによりて成らざるもの無し」
とヨハネ伝に録(しる)されているのは、このような意味なのである。
“真空”の中にこのような創造力があるのである。
“真空妙有”(しんくうみょうう)が即ち“創造の霊”であるのである。
既に“真空”の中に伏在せる“妙有”が内部から押し出して来るはたらきが
“創造の衝動”としてあらわれて来るのである。
“宇宙の霊”の中にこの衝動があり、それが“真空”と見える実質を、
みずからの“内部の智慧”によって、形ある相(すがた)に設計し、
その“内部の力”によって、その形を維持しているのである。
その“内部の智慧”を混乱に導かず、その“内部の力”を流動しやすいように
維持するとき、その形は崩れない、即ち、肉体に於いては健康を保ち得る
ということになるのである。
<感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>
《神の創造に協力しよう》 - 伝統
2019/10/23 (Wed) 04:22:10
*『生活の智慧365章』
(第3部歓喜の泉)第4篇(P96~97) より
人間に於ては、“創造の霊”(神)が“真空妙有”の世界から
常に“新しき創造の原型”を形の世界に押し出して来て、
常に吾々は何か新しい設計や計画や創造的仕事をなしつつあり、
人体では、それが新陳代謝としてあらわれて来ているのである。
神はその霊の“創造の新しき拠点”として肉体を作り、
その肉体の中に、自己の“霊”を宿らせて、
其処に自己の欲する事物をつくり出す“中心”を創造したのである。
吾らは神の“新しき創造の拠点”として、
即ち神の常に新しき自己表現の“中心者”たるものである。
人間は常に外界に新しき創造をつくり出しつつあり、人体は新陳代謝で、
陳(ふる)きものを追い出して新しき創造をつづけつつあるのである。
自然界では春夏秋冬の遷(うつ)りかわりに、花咲き実り、葉茂り、落葉し、
更に新たな春の装いをつけつつ、植物は常に新しき形にまで生長をつづけるのである。
即ちこの世界は新創造新生長の実現する世界であり、
それを内部から動かしているのは、神なる“創造の霊”なのである。
従って吾らは常に新しき創造をこの世界に為すべきであり、
それによってのみ、神の創造に協力することができるのである。
もし吾々が“新しき創造”を何もしないならば、
それは神の“創造力”の出口たる使命を果たさないのであるから
生命(せいめい)は内部から引退し死に招くに至るのである。
<感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>
世界は心の「思い」でつくられた - 伝統
2019/10/28 (Mon) 04:48:26
*「生活読本」(P2~3)より
人間は自分の思いで、一歩一歩、自分の運命をきずいて行きます。
国の運命も、その国の人々の思いで、築いて行くのです。
築くばかりではない、こわしても行くのです。
その人が自分の思いの善し悪しを知っておろうが、知らずにおろうが、
こわす思いは自分をこわし、生かす思いは自分をも生かすのです。
何よりも知らなければならないことは、
この世界は、「思い」でつくられていると云うことなのです。
神様がこの世界をおつくりになったのも、
神さまが心の中に先ずどんな世界をおつくりになろうかと
お考えになったその「思い」によってつくられたのです。
「思い」どおりになったのがこの世界なのです。
「思い」と云うのは生命の動きでありまして、
生命の動きをコトバとも申します。
何でも考えるのは心のコトバを思い浮かべるのでありますから、
「思い」でこの世界が造られたと云うことは、
この世界がコトバで造られたと云うのと同じであります。
神様はこの世界をおつくりになって、
七日目にお休みになったと聖書には書いてあります。
これは神様は世界の大きな部分をお造りになりまして、
あとは自分の生命(いのち)をつぎ込んで神様自身のお姿に
つくられた人間に一切のことをおまかせになりまして、
自分みずからは、人間のことに直接には干渉(おせっかい)しないことにして、
お休みになったことを云ったものであります。
<感謝合掌 令和元年10月28日 頓首再拝>
神が創造した世界 - 伝統
2019/12/21 (Sat) 05:06:30
*『生命の實相』第二十一巻「経典篇」(P25~28)より
われわれの五官で見る世昇は、縦、横、厚みの三次元でできている世界でありますが、
実相の世界は無限次元の世界であると、こうお考えになれぱよろしいのであります。
この縦、横、厚みの外にもうーつ余計の縦、横、厚みなどの広がりを含んだ
別のある世界というふうなものをわれわれ頭や数学上では考えられるのであります。
けれども、感覚にはどうも現わすことができない。
さらに、五次元の世界、六次元の世界になるといっそう現わすことが
できないのであります。
現わすことができないから無いというわけにゆかない。
それで、われわれこの実物の人間をよく見ると、
柔らかいような感じやら、赤のような色やら、黄色のような色やら、
あるいは紫のような色やら、黒のような色やら、
いろいろ複雑な色をもっているけれどもそのまま写真版に現わすわけにゆかないので、
やはり黒一色、あるいは、三色版にしたら三色をいろいろに交えて現わして
見せるというだけであって、
ある制限というものが、そこに入ってきてそれ以外のものを捨象(のけ)てしまう、
その捨象(のけ)てしまうということによって、
そのままではとうてい五官に触れることのできない複雑な実物の相(すがた)が、
われわれの認識しうる程度の簡単な三次元的存在となるのであります。
縦、横、厚みのこの三次のひろがり、それ以上のひろがりのものを
認識の外に捨てて濾(こ)し出して感じているのがこの現象の世界、
現象の人間であるということになるのであります。
で、その捨象(すて)られる前の、濾(こ)し出される前の無限次元の世界は
空々漠々として何もないかというと何もないのではありません。
われわれの縦・横・厚みの感覚によってとうてい測ることのできない、
無限に荘厳されたる美しい天国がそこにあるのであります。
またそこに無限に美しい人間があり、もろもろの美しい事物が、
完全な相をもって、調和した相をもって、そこに現わされている。
これが実相の浄土、実相の天国なのであります。
そいつはそのままではどうしてもわれわれの五官では感ずることができない。
そのままでは五官に感ずることができないので、五感に感ずる場合には、
四次元、五次元、六次元…無限次元を、スクリーンにかけて省いてしまって、
後の三次元だけをそこヘ見せている、
こういうのがわれわれの眼で見ている現象世界であります。
そのスクリーンに色がかかってくる、
あるいは印刷なら印刷に黒というインキがかかってくる。
そのために、本当は黒ではない、黒一色ではないけれども、
黒をもって現わすより仕方がない。
それで、無限次元の実相の世界における、実に美しい色彩の世界においても、
われわれは、この地上における七色ぐらいの色の感覚をもって、
現わされたようにしか見ることができないのであります。
すこし皆さんが「神想観」の修行をなさいますと時として
この美しい相(すがた)を、霊感的にふと観ることができることもある。
地上において観ることができない光を人々の背光に観、
あるいは樹木を見ても樹木の輝きが違うというふに見ることができるようにも
なりますけれども、
それでもまだまだ実相の無限次元の世界における美しい相をそのまま現わしている
というわけにはゆかないのであります。
ともかく、この実相の世界が、空々漠々たる何もない世界である
と考えることはまちがいなのであって、
われわれの感覚をもっては想像ができない、言葉で表わしようがない、
黙っている方がましである、現象界の事物を、譬喩(ひゆ)にして言うと、
その無限の美しさを壊すことになるから、
現象界のものみたいなものは何もないような、
わけのわからないような世界であるというだけであって、
それが「全然何もない」ということじゃないのです。
あまり無限の美しさがあって、有限で形容してはかえって損(そこ)ねることになるから、
そんな有限なものは何もないと言う。
それは、「無限大」は数字を何億列(なんおくなら)べても表わすことができないから、
零(れい)を二つ横にくっつけて転(ころ)がして
∞、にして「無限大」の符号にしてあるようなもので、
「何もない、何もない」と零を横に転がして
実相の無限荘厳世界(むげんしょうごんせかい)をあらわしているのであります。
それをもって本当に何もないのだと思うと違う。
この実相の無限荘厳世界は大調和の極の極の世界であって、
神の無限の知慧、無限の愛、無限の生命によって出来上がった
秩序整然たる世界が儼存するのであります。
この実相を知ることが肝腎なのであります。
現象世界はまだ完成していないで、実相世界の投影を徐々に完成しつつあるので、
現象世界はやがて実相世界のとおりの無限荘厳大調和の世界となるのです。
これが「み心の天に成るがごとく地になる」ということであります。
<感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>
創造は「今」行なわれている - 伝統
2020/04/01 (Wed) 04:55:41
*「光明道中記」(4月1日《天地の開くる音を聴く日》)より
【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
(生命の實相第十一巻)】
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、何かもう現在には何の関係もない、
たとい関係があるにしても、それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに
過ぎないので、今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。
創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。
一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、原始(はじめ)であり、
終末(おわり)であり、一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの
「一」である。
「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。
「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。
併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。
<感謝合掌 令和2年4月1日 頓首再拝>
《神が宇宙を造る方法》 - 伝統
2020/04/14 (Tue) 04:49:07
*「真理」第9巻生活篇第2章(35~36)より
「心」が宇宙を造ったとか、天地を創造したとか云う場合の「心」とは
脳髄の作用として出て来る「第二次的心」のことではありません。
「天地創造の心は脳髄の産物だから、物質が先で心が後(あと)だ」
などと言えば笑われます。
天地を創造した「心」と云うのは脳髄の生ずる以前の「心」であって、
普遍的宇宙霊の意識波動のことである。
その波動が、波動自身で或る条件(素粒子を始め、それを複合した諸状態)
をつくり出し、恰もテレビ放送の波がテレビ・セットの条件によって
形ある姿をあらわすように、天地をつくり出したのであります。
宇宙霊は時空を超越して時間空間をあらわし、
其処に万象をあらわすところの普遍の智慧を内在せしめているのであります。
その宇宙霊が物をあらわすために、「想念」と云う道具を使うのであります。
想念こそ万物を造るものでありまして、心に想った通りのものが表れます。
だから吾々は常に善いことのみを思うようにしなければなりません。
<感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>
《実相(第一創造)と現象(第二創造)との関係》 - 伝統
2020/04/26 (Sun) 06:17:39
*「真理」第9巻生活篇第2章(36~37)より
~《実相と現象との関係》
神が神の叡智による正しき想念によって創造した世界を「実相の世界」
「神の国」「天国」「極楽浄土」又は「第一創造の世界」と申します。
それは既に存在し、既に完全でありますが、それは「霊」によって
つくられた世界でありますから、肉眼では見えない世界であります。
その「実相世界」の上に、人間自身が想念の波動によって、
色々の姿を第二創造します。それが現象世界であります。
完全なる姿を描いて第二創造した場合には、その姿は、第一創造の世界と
重なり合いますから、「実相即現象」として完全なる相(すがた)が
現象世界にあらわれます。
吾々が不完全な姿を心に描いて第二創造した場合には、実相界の姿は
肉眼には見えず、心に描いた不完全な姿のみが形の世界にあらわれ、
病気や不幸に見舞われることになるのであります。
・・・
<参照>
(1)実相と現象との関係
https://ameblo.jp/sbmaitnanixy/entry-12449106175.html
(2)実相と現象
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/27zissou-to-genshou.htm
(3)実相」と「現象」について
http://ma-honma.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-43d0.html
<感謝合掌 令和2年4月26日 頓首再拝>
「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統
2020/05/06 (Wed) 05:00:49
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より
眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。
第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。
曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。
第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。
思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。
<感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>
《宇宙創造の二つの面》 - 伝統
2020/05/25 (Mon) 04:54:39
*『 生長の家 』昭和52年5月2日の法語)より
ついにその霊的生命は単に、単純な渦巻きの形をしているだけではなく、
アイディアの形相(かたち)にまで具体化する。
所謂る太陽系統の如き具体的組織が生成されるのである。
単なる星雲の如き生命の波動の渦巻きが、
太陽系統、の如きものを生成するには二つの作用が行なわれるのである。
それは“分化”と“統合”の二つである。
宇宙創造はこのような二つの原理によって行なわれるのである。
<感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>
“分化”は、イザナミの原理 - 伝統
2020/05/29 (Fri) 04:41:22
*『 生長の家 』昭和52年5月4日の法語)より
~《イザナミの神われに宿り給う》
星雲がいつまでもガス状の一個渦巻であって、
分化が行なわれなければ、太陽も遊星も創造されることはない。
分化があるので新しき形相がうまれ、
新しき人格が生まれ、創造が行なわれる。
それは“イザナミの原理”である。
“原理、”という語と、同様の意味を含む“神“という語で置き換えれば、
それはイザナミの神の御はたらきである。
それは“母”の原理である。
イザナミの神“母”に在してわれを産み給うたのだ
ということができるのである。
<感謝合掌 令和元年5月29日 頓首再拝>
《創造とは“漂えるもの”に秩序あらしめること》 - 伝統
2020/05/31 (Sun) 03:32:39
*『 生長の家 』昭和52年5月5日の法語)より
しかしイザナミの原理だけでは、ただ分化するだけで、
分化されたものが、一定のアイディアによって組織される
ということがないのである。
海の波を見てもわかるが、それは漂える姿であって、
定着すべきアイディアの中枢的統制がないのである。
ナミは波であって組織されることなく散ってしまうのである。
だから『古事記』には、
「是(ここ)に天神(あまつかみ)、諸(もろもろ)の命(みこと)以ちて、
伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の神に詔りたまいつらく、
“是のただよえる国を修理り固め成せ”と、天沼矛を賜いて、言依さし賜いき」
という風に書かれているのである。
「ただよえる」という語が、その次の、
これを「つくり固め成せ」という命令に対して用いられていることを
考慮に入れて解釈すると、ナミは波であってバラバラに散ってしまう。
それらの波動を散り崩(くだ)けないように固めることが必要である。
これが創造のハタラキである。
そのバラバラに分散するナミを分散しないように
理念の相(すがた)にまとめて秩序あらしめるのには、
どのようにすればよいかとというと、
『古事記』の本文は「修理固成」という文字を使っている。
すなわち、「創造する」ということは、
“理”即ちアイディアをもって“修める”ことであると示しているのである。
そのとき定形なきナミが一定のアイディアの形に固成されるのである。
「修める」は「治める」に通ずるのであって、修身治国と熟語される語である。
理に随って、あるべきものを、あるべきところにあらしめて、
秩序あらしめることを「おさめる」というのである。
<感謝合掌 令和2年5月31日 頓首再拝>
《イザナキの大神の理念によって動き出した宇宙》 - 伝統
2020/06/03 (Wed) 04:25:48
*『 生長の家 』昭和52年5月6日の法語)より
「故(かれ)、二柱の神、天浮橋(あめのうきはし)に立たして、
其の沼矛を指し下して画きたまえば、塩こおろこおろに画き鳴して、
引き上げたまう時に、其の矛の末より垂(したた)り落つる塩、
累(かさな)り積りて嶋と成りき。是(これ)オノコロ嶋なり」
(『古事記』天地創造の巻)
イザナギの大神・イザナミの大神二柱、天の浮橋に立ちたまう。
まことに雄大な光景である。
“天”は“天球”すなわち“大宇宙”のことである。
「塩こおろこおろに画き鳴して」とは、
水(し)火(ほ)(陰陽)の電気を帯びた微粒子の回転旋回する有様を
形容したものであるが
「画き鳴して」というのはイザナギの大神の心に浮べられたアイディアが
音を立てて旋回しつつ、そのアイディアの形をなすよう
核融合が行なわれつつある光景である。
<感謝合掌 令和2年6月3日 頓首再拝>
《創造神による天地創造はこのようにして行なわれる》 - 伝統
2020/06/05 (Fri) 04:26:52
*『 生長の家 』(昭和52年5月7日の法語)より
天地創造は、このようにして神の生命の波の上に
アイディアの波動が音を立てて旋回して行なわれる。
アイディアの波動の音をコトバと言うのである。
「はじめに言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき、
よろずの物これに由りて成り、成りたるものにして一つとして
之に由らで成りたるものなし」とはこの事を述べたのである。
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=umenohana&mode=res&log=7
<感謝合掌 令和2年6月5日 頓首再拝>
創造は、陰陽への分化とその融合によって行われる - 伝統
2020/07/08 (Wed) 04:49:44
*「光明法語」(7月8日《天国に於ける夫婦愛》)より
ひとたび相手を真に放ってしまった時に、愛は清まって真に法愛たるを得るのである。
キリストは「天国に於いては、彼等は結婚せず、夫婦関係もなく、天の使の如し」と
言っている。これは決して天国では人間が、中性的な人間になる意味ではない。
すべての創造は唯一者の陰陽への分化とその融合によって行なわれるのである。
それはキリストの言った天国の状態は陰陽の結合の否定ではなく、
それは猥雑な肉的関係がないと云う意味に過ぎない。
天国に於ける陰陽の結合は魂に於いて音楽の合奏の如く行なわれる。
<感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>
観念と創造 - 伝統
2020/07/28 (Tue) 04:51:48
*「光明法語」(7月28日)より
観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和2年7月28日 頓首再拝>
絶対なる神の「自己限定」による物質と云う「表現」 - 伝統
2020/08/12 (Wed) 06:49:39
*「光明法語」(8月12日~13日)より
八月十二日の法語 創造は分化と綜合
神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。
陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。
画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。
摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。
しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。
・・・
八月十三日の法語 霊と物質との関係
物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。
物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。
併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。
人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。
<感謝合掌 令和2年8月12日 頓首再拝>
一神にして陽陰二神なり - 伝統
2020/08/19 (Wed) 04:01:39
*「光明法語」(8月19日)より
神はかく分化と綜合にによって万物を創り給う。
故に、神は『唯一神』または「絶対者」であり給うと同時に、
その創造にあたっては陽陰に分化して創造せざるを得ない。
それ故、神は絶対神にして同時に陽神なり、イザナギなり。
同時に陰神なり、イザナミなり。
イザナギとイザナミを相結んで万物生ず。
女性の肉体は柔らかく骨を包んで露骨に現さず内に陰(かく)すは「陰」となり。
併しその内性の「愛」は温かき故「陽」なり。
女性は外陰・内陽。
陰のみの者なし、陽のみの者なし。
<感謝合掌 令和2年8月19日 頓首再拝>
無限の生長と前進 - 伝統
2020/09/10 (Thu) 02:44:28
*「光明法語」(9月10日)より
かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。
それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。
大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。
<感謝合掌 令和2年9月10日 頓首再拝>
新しきものの創造 - 伝統
2020/09/11 (Fri) 03:41:54
*「光明法語」(9月11日)より
汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。
大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。
吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。
<感謝合掌 令和2年9月11日 頓首再拝>
創造は感情によって行なわれる - 伝統
2020/09/17 (Thu) 04:29:49
*「光明法語」(9月17日《生命の純粋律動》)より
生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。
しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。
それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。
創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。
<感謝合掌 令和2年9月17日 頓首再拝>
創造の最初に感情あり - 伝統
2020/09/20 (Sun) 04:33:31
*「光明法語」(9月20日)より
最初に感情が動いて、軈(やが)てハッキリした
行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。
たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。
即ちハッキリした形に思い浮び、それが行動を指導することになるのである。
腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。
<感謝合掌 令和2年9月20日 頓首再拝>
真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる - 伝統
2020/09/21 (Mon) 04:37:21
*「光明法語」(9月21日《良き芸術、良き科学》)より
愛は生命の純粋感情であるから、真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。
真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、如何なる知的な作業も可能ならしめる。
想念も実は愛の産物であり、愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。
愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。
<感謝合掌 令和2年9月21日 頓首再拝>
神の創造の完全さを信じる - 伝統
2020/10/12 (Mon) 04:47:37
*『 生長の家 』(昭和25年5月23日の法語)より
~《神は犠牲を要求し給わぬ》
犠牲が必要であると思い、受難が必要であると思うのは、
神が造り給うたこの世界に何か足りない所があって
自分の犠牲や受難によって
それを補うてやらねばならないのだというような、
神の創造の完全さを信じない増上慢の心から生ずるのである。
神の造り給うた此の世界は、
人間の犠牲によって補わなければならないという様な
そんな不完全なものでは決してないのである。
犠牲も要らず受難も要らず、
唯 神の完全なる生活を営ましめんと欲し給うのが
神の み心であるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>
神の霊が力となり、万物を生ず - 伝統
2021/01/05 (Tue) 01:38:00
*「光明道中記」(1月5日 万物皆霊を知る日)より
【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
(「生命の實相」第十一巻)】
人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。
それを展開して引き出すのが教育である。
凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。
エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、ただの「無」ではなくして、
そこに動き始むる力があった。それが神の霊である。
「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
神光あれと言い給いければ光ありき」である。
エーテルの大海中に「霊の振動」が起る ―― 即ちコトバ起れば、
宇宙電気となり、大火焔の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、
万物を生じ、万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。
エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。
物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。
吾々は物質の力を使わないのではない。
物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。
<感謝合掌 令和3年1月5日 頓首再拝>
第一の創造 - 伝統
2021/03/01 (Mon) 03:22:05
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より
啓示 ――
人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。
神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。
第一の創造は神の「世界および人間創造」である。
神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。
「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。
しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」
「創世記」第一章の神の宣言にあらわれている。
神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。
人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。
人間に病気はない。
<感謝合掌 令和3年3月1日 頓首再拝>
第二の擬似創造 - 伝統
2021/03/02 (Tue) 02:47:19
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より
啓示の第二 ――
人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。
人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ――
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。
エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。
かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。
しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。
神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」とある以上は、
すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。エデンの楽園のほかに国土はない。
このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。
実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。
そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。
もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。
では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。
そしたら「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の「どこへ?」逐い出されたのであるか。
誰が? どこへ?
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。
神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。
<感謝合掌 令和3年3月2日 頓首再拝>
すべてが創造主の表現 - 伝統
2021/03/11 (Thu) 06:33:33
【衝撃】大天使ミカエルからのメッセージがヤバすぎる!!
皆さんは地球上のすべての生き物とチームを組んでいる!!
ワンダーウォール ! (2021/03/05)
https://www.youtube.com/watch?v=ysIDAGvuzSI
(1)自分を認める。
(2)創造主の複数の振動が皆さんの中を流れています。
それは皆さんが創造するすべてのものへと流れていきます。
これはみなさんの創造主の表現です。
(3)現実のすべての瞬間は、皆さんに創造された瞬間であり、
皆さんが自分自身の中で感じるすべてのもの、
皆さんの周りのすべてのものは、
信念、潜在意識、意図、または魂の契約であるかどうかで、
皆さんによって創造された経験です。
(4)皆さんは創造する機械のようなもので、
創造を止めることはできません。
(5)地球上のすべての人は常に創造しています。
その創造は、ポジティブで充実した目的を持っていたり、
ある時は、理解と成長の「旅へと皆さんを導いて
くれたりします。
このプロセスの目的は、第一に自分自身をより完全に理解し、
創造の機械を微調整し始めることです。
第二に、創造主をより完全に理解できるように、
自分の存在を通して創造主の目的を受け入れ表現することで、
意識的に自分自身を開くことができます。
(6)地球上みなさんとチームを組んでいる自分を想像してみてください。
皆さんは地球上のすべてに支えられていて、支えているのでうs。
そこには、チームのエネルギー、つながり、共創があります。
(7)すべてが創造主から創造されるので、闇さえも光から創造され、
生長の目的と理解の旅を持っていると言うのは本当です。
(8)皆さんが創造したいものが何であれ、地球と内なる惑星の
たくさんの存在が皆さんを応援し、皆さんが創造したいものを
増幅し拡大しています。
(9)皆さんの作品の素晴らしいところは、常に創造しているという
ことだと、自分自身を奮い立たせてください。
心と魂の中にあるものを表現するために練習する時間は、
たくさんあります。
<感謝合掌 令和3年3月11日 頓首再拝>
創造の動力 - 伝統
2021/03/29 (Mon) 04:38:08
*『人生は心で支配せよ』(P107~109)より
~言葉に因って造られたるもの
吾等は宇宙の実質は想念によって活動し、
想念が言葉となって表現されることを認めねばならない。
更に吾等は一歩を進めて、
言葉は声によって表現されると言ってはならないだろうか。
それ故古代の預言者の書には頻々(ひんぴん)として
『主、水の上にて声を出だし給う』と云うような文句が見出されるのである。
「声」はサンスクリッド語では”Vach”
拉丁(ラテン)語では”Vox”
英語では”Voice”である。
換言すればこの宇宙は、声をもって喚起されたる
エーテル運動すなわちエーテル波動によって成り立っているのである。
声が出されるまでは、この宇宙は、見えざる暗(やみ)のうちに、
無空間のうちに潜在したに過ぎないのである。
宇宙霊が、或る世界を何処に創造せんと欲したとき、
そこに直ちに声によって運動ないし波動が惹起されるのである。
客観世界全体は何らかの形における波動だと説明し得る。
凡ての物質的存在はこれを分子に分解し得る
―― しかして新興物理学に於ける学説上からは
電子はエーテル波(光波)に分解し得るのである。
然るに前述せる如く、エーテルは無空間の世界から生命が振動を起して
空間的に展開させたものの又の名称に過ぎない。
結局一切の現象界は生命の振動エネルギーの別名に過ぎない。
それ故に、あらゆる事物の究極的本質は皆同一なのである。
そしてこの物質と彼の物質とが相違するのは、畢竟するに、
ある面積内の電子数及びその運動速度又は振動数の相違なのである。
この事は、吾々の住む世界の事物が個々別々の存在ではなく、
凡てのものが本質的に一体であることを示すものとして、
吾々の決して看過してはならない事項である。
ウィリアム・ヘイス・ワールドはこう言っている ――
「星の世界で成り立っているこの全宇宙は一つである。
それは同じき実質で造られ、同じき力で動かされ、
同じき物理的法則で支配をせられている。
それは唯一つの体系である。
唯一つの法則である。
唯一連の思想である。
唯一つの構図である。
唯一つの幾何学である。
唯一つの公式にあてはまる唯一つの設計である。
そして唯一つの不可分の宇宙である」と。
この唯一つの実質とは受動的方面から解すれば「無」であり、
能作的根源として解すれば「心」に他ならない。
そしてその能作的力とは想念にほかならないのである。
想念を「神の想念」の場合には「理念」と言ってもよいし、
人間の想念である場合は阿頼耶識とか想念力とか言ってもよい。
そしてこの想念は具体化して言葉となり、
更に表現して声もしくは波動となるのである。
声とは目的ある音響であるが、
目的ある音響とは、換言すれば言葉にほかならない。
かくの如くなるが故に創造の動力となるものは言葉であることを知るのである。
この事は、宇宙に就いて言っても、個人に就いて言っても同様である。
<感謝合掌 令和3年3月29日 頓首再拝>
天地の開くる音を聴く日 - 伝統
2021/04/01 (Thu) 04:58:59
*「光明道中記」(4月1日)より抜粋
【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
(生命の實相第十一巻)】
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、何かもう現在には何の関係もない、
たとい関係があるにしても、それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに
過ぎないので、今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。
創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。
一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、原始(はじめ)であり、
終末(おわり)であり、一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの
「一」である。
「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。
<感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>
創造の心を持つものは若返る - 伝統
2021/04/03 (Sat) 01:43:38
*『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93(4月3日)>より
創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。
現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。
表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。
たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。
たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。
たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。
<感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>
《神が宇宙を造る方法》 - 伝統
2021/04/25 (Sun) 04:54:11
*「真理」第9巻生活篇第2章(35~36)より
「心」が宇宙を造ったとか、天地を創造したとか云う場合の「心」とは
脳髄の作用として出て来る「第二次的心」のことではありません。
「天地創造の心は脳髄の産物だから、物質が先で心が後(あと)だ」
などと言えば笑われます。
天地を創造した「心」と云うのは脳髄の生ずる以前の「心」であって、
普遍的宇宙霊の意識波動のことである。
その波動が、波動自身で或る条件(素粒子を始め、それを複合した諸状態)
をつくり出し、恰もテレビ放送の波がテレビ・セットの条件によって
形ある姿をあらわすように、天地をつくり出したのであります。
宇宙霊は時空を超越して時間空間をあらわし、
其処に万象をあらわすところの普遍の智慧を内在せしめているのであります。
その宇宙霊が物をあらわすために、「想念」と云う道具を使うのであります。
想念こそ万物を造るものでありまして、心に想った通りのものが表れます。
だから吾々は常に善いことのみを思うようにしなければなりません。
<感謝合掌 令和3年4月25日 頓首再拝>
ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統
2021/05/14 (Fri) 04:55:41
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より
すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。
それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。
「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。
生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。
<感謝合掌 令和3年5月14日 頓首再拝>
創造(つく)り出すことが喜び - 伝統
2021/06/09 (Wed) 05:06:28
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より
人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。
体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。
自分の持物が少ないといって嘆くことはない。
釈迦はあたかも要るだけの体温が
すでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。
ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。
生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。
生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。
人間が神の子であるのは事実である
―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。
「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。
<感謝合掌 令和3年6月9日 頓首再拝>
適時、適所、適人 - 伝統
2021/07/25 (Sun) 02:36:22
*「光明法語」(7月25日)より
生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。
心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。
神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。
<感謝合掌 令和3年7月25日 頓首再拝>
観念と創造 - 伝統
2021/07/28 (Wed) 02:40:47
*「光明法語」(7月28日)より
観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和3年7月28日 頓首再拝>
創造は分化と綜合 - 伝統
2021/08/12 (Thu) 04:59:22
*「光明法語」(8月12日)より
神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。
陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。
画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして
何もそれ妨げるものがなければ、「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あって
はじめて絵をかき得るのである。
摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。
しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。
<感謝合掌 令和3年8月12日 頓首再拝>
霊と物質との関係 - 伝統
2021/08/13 (Fri) 04:52:01
*「光明法語」(8月13日)より
物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。
物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。
併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。
人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。
<感謝合掌 令和3年8月13日 頓首再拝>
人間性の無限の味 - 伝統
2021/08/18 (Wed) 04:26:57
*「光明法語」(8月18日)より
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。
「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・
かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか概括して言うことは出来ない。
愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。
<感謝合掌 令和3年8月18日 頓首再拝>
無限の生長と前進 - 伝統
2021/09/10 (Fri) 04:52:37
*「光明法語」(9月10日)より
かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。
それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。
大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。
<感謝合掌 令和3年9月10日 頓首再拝>
新しきものの創造 - 伝統
2021/09/11 (Sat) 04:55:57
*「光明法語」(9月11日)より
汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。
大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。
吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。
<感謝合掌 令和3年9月11日 頓首再拝>
沈滞と頽廃との原因 - 伝統
2021/09/12 (Sun) 04:46:35
*「光明法語」(9月12日)より
大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。
かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、事業に挫折したりして
自己の運命の進展をみずから停止する事になる。
自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。
若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に
大生命が吾々を助けるであろう。
<感謝合掌 令和3年9月12日 頓首再拝>