伝統板・第二
神と人 ③ - 伝統
2019/09/03 (Tue) 04:40:12
有限にして無限
*「光明法語」(9月3日)より
人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。
果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。
人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。
人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「神と人」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6979874
(2)伝統板・第二「神と人 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7686509
<感謝合掌 令和元年9月3日 頓首再拝>
個は如何にして表現されるか - 伝統
2019/09/04 (Wed) 04:32:07
*「光明法語」(9月4日)より
普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。
牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。
普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。
<感謝合掌 令和元年9月4日 頓首再拝>
個別者の相互関係 - 伝統
2019/09/05 (Thu) 03:56:25
*「光明法語」(9月5日)より
個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。
個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、
折角、個別化されたものも表現を完うする事が出来ない。
個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。
個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。
<感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>
大生命の援護(バック)を受けて前進する - 伝統
2019/09/12 (Thu) 04:10:17
*「光明法語」(9月2日《沈滞と頽廃との原因》)より
大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。
かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、事業に挫折したりして
自己の運命の進展をみずから停止する事になる。
自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。
若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。
<感謝合掌 令和元年9月12日 頓首再拝>
大生命は「人間」に自主独立に創造することをまかせている - 伝統
2019/09/13 (Fri) 03:59:40
*「光明法語」(9月13日《大生命の導き》)より
吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。
大生命はみずから大自然を創造すると共に、
大生命の自主的支点とも称すべき吾々「人間」をつくって、
「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。
大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、
指導も惜しむものではない。
<感謝合掌 令和元年9月13日 頓首再拝>
神の人間創造の目的 - 伝統
2019/09/16 (Mon) 03:38:48
*「光明法語」(9月16日)より
神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。
外から創造したのではなく、
神は「内在の生命」として内から創造したのである。
演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、或は美しき波模様をなして
自然に配列されるが如く、
女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。
<感謝合掌 令和元年9月16日 頓首再拝>
人間は神の創造の中心 - 伝統
2019/09/25 (Wed) 04:37:37
*「光明法語」(9月25日)より
人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。
神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。
パイプの小なることを見て、そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。
大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。
<感謝合掌 令和元年9月25日 頓首再拝>
個性を通じての表現 - 伝統
2019/09/28 (Sat) 04:46:04
*「光明法語」(9月28日)より
神は自己を表現するのに、普遍であるばかりでは
自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、
それは何らの表現をもなし得ない。
表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。
桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。
人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。
他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。
<感謝合掌 令和元年9月28日 頓首再拝>
《神は人を通して御心を為し給う》 - 伝統
2019/10/04 (Fri) 04:58:41
*『人生の秘訣365章』第11篇(P277~278) より
“神の子”だということは、神の自己表現の中心であるということである。
神の自己表現の中心であるということは、
神が人間を通して自己表現をなし給うことであり、
神が成し給うのであるから、
それが成就しないということはあり得ないということである。
それゆえに、あなたは何事をなすにも
躊躇することも恐怖することも要らないのである。
御業を成し給うのは神であり、神は、あなたをパイプとして
又は“媒体”として仕事を為し給うのである。
宇宙の大神の媒体として、神の御心を行ずる使命を与えられたということは、
何という光栄なことであろう。
<感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>
《肉体を貫き超えてその奥にある“神の子”を見ること》 - 伝統
2019/10/18 (Fri) 02:50:17
*『人生の秘訣365章』第12篇(P292~293) より
物質分子が結合して人間としてあらわれているのは、
神の叡智が主体となって物質分子を支配している結果である。
人間の主体は“神の叡智”であるのである。
“人体”を“人間”そのものと認めていたのは、
吾々の五官の惑わしでしかなかったのである。
私たちは“神の子”であり“霊”であり、完全であり、調和であり、
完全以外、調和以外の状態は、吾々の五官が錯覚によって
そのように見えていたに過ぎないのである。
吾々の本体は“神の叡智”であるから、
叡智というものは物質ではないから肉眼には見えないものである。
ただその叡智の表現としての表現体を、仮に“我(われ)”として観るのである。
それは地上生活及び地上の仕事遂行上の便宜のために五官によって、
仮に自己を肉体として観るのである。
吾々は肉体という表現体を貫き超えて、
その奥にある霊なる自己を観なければならないのである。
それは自個に対してもそうであると同様に他個に対してもそうでなければならない。
<感謝合掌 令和元年10月18日 頓首再拝>
基督教も佛教も、すべての人間を「神(仏)の子」を見る - 伝統
2019/10/28 (Mon) 04:51:17
*『人生の秘訣365章』第12篇(P306~307) より
~《基督教も佛教もその神髄は同様である》
“神の子”は決してイエスだけではないのである。
“神の子”は決して一人のユダヤ人だけではないのである。
肉体を裸にし、人間から肉体という衣裳を脱がせてしまい、
その内に宿っている聖霊だけを取り出して見るならば、
すべての人間は“神の子”なのである。
釈尊もこの事を教えた、「一切衆生悉く佛性有り」と。
そして、その「佛性なるもの」「神聖なるもの」「汚れなきもの」
それが本当の人間であるということを釈尊は教えたのである。
そしてすべての人間は“天上天下唯我独尊”的存在であると教えたのである。
そう教えてもよく理解できないで、
人間を“罪悪深重の凡夫”としか感ずることが出来ない者に対しては、
「佛(ほとけ)」なる至高のものを意識の頂点に置いて、
それに対して至心廻向(心を専らにして振向く)するように教えた。
「自分ではどうしても救われないから絶対者の存在を想定してその方へ振向き、
絶対者と一体になれ」と教えたのである。
これが佛教の他力の教えである。
この事はイエスが
「われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(ましま)して
御業(みわざ)を為さしめ給うのである」
といったのは、釈尊の他力の教えと全く同一なのである。
真理はキリスト教も佛教も結局おなじことなのである。
<感謝合掌 令和元年10月28日 頓首再拝>
人間は神の身体 - 伝統
2019/11/07 (Thu) 04:55:08
*「光明法語」(11月7日の法語《黴菌も寄生虫も無い》)より
人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。
宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。
人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。
―― 斯く念ぜよ。
<感謝合掌 令和元年11月7日 頓首再拝>
《創造の意識的中心としての人間 》 - 伝統
2019/11/19 (Tue) 04:31:07
*『人生の秘訣365章』第3篇(P68) より
大自然の動植物及び鉱物等に見られる叡智には
ただただ感嘆するほかはないのであるが、
それら鉱物・植物・動物は、ただ被造物であって、
作られ、与えられたる形や働きやを受けてあらわしているだけであって、
それは、どこまでも「造られたもの」であって
「創造の主体」でもなければ、「創造の意識的中心」でもないのである。
それは「《られ》たるもの」(受動)であって、
「《する》」(主働)ものではないのである。
しかし、人間は、「創造の意識的中心」である。
人間はシテであって、神が主働者であるが如く、
自己が創造の意識的中心となって創作し、創造するのである。
それゆえに、人間は単なる被造物ではなく、
神と共に創造の主体的“担い手”なのである。
それゆえにこそ「神の最高の自己表現」と言い得るのである。
<感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>
《人間は一体何者であるか》 - 伝統
2019/12/03 (Tue) 04:53:54
*『人生の秘訣365章』第12篇(P288~289) より
ソクラテスは“汝みずからを知れ”といったのであるが、
人間として最も重大な問題は、人間は一体何者であるか、
それは物質で構成されている単なる肉体であるか、
それとも物質を超越した霊的実在であるかという
“人間存在の根本自覚”の問題である。
人間の外見を観ればたしかに、かれは物質の食物をたべ、物質の空気を吸い、
そこから肉体成分の補給をし、肉体的活力を得ているのである。
だから人間は物質の化学的生産品だと普通の人は結論するのである。
けれども果たして人間は肉体という単なる物質的化学生産品であろうか。
否々、決して人間は単なる物質的産物ではないのである。
人間は“神の生命(せいめい)”の地上降誕であり、
肉体はその“神の生命(せいめい)”の地上生活上の道具であり、
地上生活を営む場合の表現体に過ぎないのである。
本体と表現とは異なるのである。
それは画家と、画家の描いた絵画との相異にも似ている。
画家という人間は本体であり、絵画は単なる表現体に過ぎない。
表現体を“人間”そのものと誤解してはならないのである。
<感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>
神の自己實現ということ - 伝統
2019/12/20 (Fri) 05:01:05
*『生長の家』(昭和39年5月号)より
◆人間誕生の神聖性
あなたがこの人生に生まれて来たことは、まことに素晴らしい事なのです。
神はその大自然力をもって鉱物植物動物等の色々なものをお造りになりましたが、
それらすべて神の創作であり、神につくられたもの ― 被造物に過ぎないので
あり、神の属性の一部分が表現されているに過ぎないのであるけれども、
人間は単なる被造物ではなく、神御自身の最高の自己実現であるのである。
神が無機物的な《大自然の力》をもってしては成し遂げ得なかった色々の精巧な
仕事を、神が《人間》という知能的人格として現われ給うて、成し遂げようと
なさるのが、この世に《人間誕生》の意義であるのである。
我々の誕生のこの神聖なる意義を忘れて、単に人間を肉体的****の因果関係の
産物として自分が生まれて来たのだというような『根本的劣等感』から、
人生色々の罪悪が生じて来るのである。
我々は自己存在の根元をもっと神聖なものに認得たとき、
人生は全く異なる光で観ることが出来るのである。
◆常に實相を観て善のみを語る
いま私たちは人間誕生の神聖性を知り、生き甲斐を感ずることができ、
無限の悦びに満たされているのである。
人間は神の自己顕現であることを知ったのであるから、
今後決してつまらない無価値の言葉を語らないのである。
少なくとも私は、真理の言葉を語り、人を生かす事を語り、
人に悦ばれることを語り、智慧の言葉を語り、愛の言葉を語り、
調和の言葉を語り、美しき言葉を語る。
今後決して、周囲の人々の言葉に釣り込まれて、
確証もない想像による人の悪しき事については語らないのである。
たとえ確証があっても、その人を傷つけることは語らないのである。
現象に如何なる事があっても、その人の実相を観じて、
その人の善にして完全なる実相を観じて、
その人の善にして完全なる実相があらわれることを念じ、祈り
いたずらに周囲の人々の悪評に雷同するような事はしないのである。
人の悪評を想像し、それを心に描くことは、
自分の《心のカンバス》に醜い絵を描くことであり、
自分自身を汚す事だと知るのである。
◆神の自己實現ということの意味
人間が神の自己実現であるということは、
単に抽象的な言葉で人間の存在を意義づけしたことではないのである。
神があなたを通して語り、神があなたを通して行為し、神があなたを通して愛し
神があなたを通して創造し、神があなたを通して生活するということである。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18323918.html ~消滅)
<感謝合掌 令和元年12月20日 頓首再拝>
《人生は何のためにあるか》 - 伝統
2020/01/01 (Wed) 03:22:12
*「光明法語」(1月1日)より
人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。
これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。
凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。
しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
<感謝合掌 令和2年元旦 頓首再拝>
《神の人間創造の意義》 - 伝統
2020/01/02 (Thu) 04:49:04
*「光明法語」(1月2日)より
自己が自己を知り、自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。
換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に分化しなければならないのである。
眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。
神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。
<感謝合掌 令和2年1月2日 頓首再拝>
《神は親であり吾は神の子である》 - 伝統
2020/01/12 (Sun) 04:23:47
*「光明法語」(1月12日)より
神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。
神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、
自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。
<感謝合掌 令和2年1月12日 頓首再拝>
《人間は地上に天国を建設するために誕生した》 - 伝統
2020/01/27 (Mon) 03:33:37
*『人生の秘訣365章』第12篇(P304~305) より
自分の富を“自分の富”だと思うことは錯覚に過ぎないのである。
“自分の富”などというものは一つもないのである。
「これは自分の富だ」と思ったとき、
無限流通のパイプである自分の意識に、
流通を妨げる塊ができることになるのである。
誰ひとり、自分の富によって自分の生活を支え得る者はなく、
自分の富によって他(た)の貧しき者を救い得る者はなく、
誰ひとり、自分の富によって教会や講堂の建立に献金し得る者もないのである。
神が、唯、神のみが、その愛を実現すべく、
その無限供給を傾けて吾らに注(そそ)ぎ給うのである。
この宇宙は神の宇宙であり、この世界は神の世界であり、
この世界の富は神の富であり、この世界の人間は、皆神の分身であるのである。
神の分身即ち“神の子”が集って、
この地上に天国の美しき光景を再現するために、
吾々は地上に降誕して来たのである。
<感謝合掌 令和2年1月27日 頓首再拝>
《神の最高の自己実現として 》 - 伝統
2020/02/13 (Thu) 02:22:28
*『人生の秘訣365章』第1篇(P39) より
新しき年と共に、新生して、新しき自覚を有て。
自己の内に神の正しき愛と、正しき智慧と、正しき力とが内在することを自覚せよ。
神は、人間を神の最高の自己実現として造ったのである。
それゆえに私たちは、自己にやどる神の正しき愛と、正しき智慧とを、
神より受けた無限の力によって実現に移さなければならないのである。
それにはすべての人と物とにやどるところの神の愛と智慧とを見て、
それを礼拝しなければならないのである。
若し何人かの行為が自分の心を傷つけ、若し何らかの事件が自分の心を
動揺せしめるならば、直ちに心を一転してそれらの人々や事件のうちに宿る
神の愛と智慧とが自分に何を示そうとしてい給うかを省みて、
尚一層自分の心に赦しと愛と感謝を満たすようにつとめなければならないのである。
<感謝合掌 令和2年2月13日 頓首再拝>
《心の波長を合わせるのは人間の役目》 - 伝統
2020/02/24 (Mon) 02:46:36
*「光明法語」(2月24日)より
「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。
世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。
実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。
自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。
<感謝合掌 令和2年2月24日 頓首再拝>
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである - 伝統
2020/03/01 (Sun) 04:42:16
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より
啓示 ――
人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。
神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。
第一の創造は神の「世界および人間創造」である。
神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。
「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。
しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」「創世記」第一章の神の宣言に
あらわれている。
神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。
人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。
人間に病気はない。
<感謝合掌 令和2年3月1日 頓首再拝>
《永遠の勝者たる道》 - 伝統
2020/03/13 (Fri) 04:28:10
*『人生の秘訣365章』第1篇(P41) より
“神の子”たるあなたは、常に神と偕にあるのである。
神があなたの導き手であり、神があなたの相談相手である。
神の智慧には失敗はないのである。
神は永遠の勝利者であるから、真にあなたが“神の子”たるの自覚をもち、
神との一体感を深め、神の叡智に導かれるならば、
必ずあなたは“永遠の勝利者”となることができるのである。
“永遠の勝利者”とは
“此処に見よ、彼処に見よ、此処に、彼処に点々として勝利の跡がある”
というような断続的な勝利を得ることではないのである。
“久遠の今”を通して神と偕に、“常今(つねいま)の勝利”を生きることである。
<感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>
《神とつながる通路を開きなさい》 - 伝統
2020/03/26 (Thu) 03:43:34
*『人生の秘訣365章』第2篇(P51~52) より
人間は“神の子”であり、神の最高の自己実現であるから、
吾々が迷いによって、神の叡智との通路を閉鎖しない限りは、
常に神の智慧によって導かれ、神の愛によって護られ
神の力によって支えられているのである。
あなたの事業は、神の無数の事業のうちの一つであり、
神の叡智の通路を遮断しない限りは、神からの導きにより
必ず繁栄するにきまっているのである。
あなたは神の自己実現であるから、
あなたが迷いによって神の生命(せいめい)の流れを遮断しない限り、
神そのままに完全であり、従って無限の健康と無限の生命力とをもって、
あなたが神から与えられた使命を充分完全に盡すことができるのである。
“迷い”を去るために常に怠らず神想観実修して、
神の生命(せいめい)と智慧と愛との通路をひらくがよい。
<感謝合掌 令和2年3月26日 頓首再拝>
《常に「自己が神の最高の自己表現」であることを思い出せ 》 - 伝統
2020/04/16 (Thu) 03:25:02
*『人生の秘訣365章』第3篇(P68~69) より
吾々は時々、自己が「神の最高の自己実現」であることを忘れるのである。
そんな時、私たちは失敗したり、脱線したり、意気消沈したり、
悲観したり、病気に罹ったりするのである。
それゆえに私たちは自己が「神の最高の自己表現」であることを
毎日新たに思い出す必要があるのである。
神想観は、人間が神の最高の自己表現であることを思い出すための
最もすぐれたる行事である。
<感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>
《神はあなたを健やかに護りたまう》 - 伝統
2020/04/29 (Wed) 05:02:42
*「真理」第9巻生活篇第6章(P148)より
神の生命(せいめい)あなたに流れ入りて、
あなたの生命(せいめい)となりたまう。
あなたの生命(せいめい)は神の生命(せいめい)であるのです。
神はあなたの生命(せいめい)と活力との源泉であり、
常に流れ入って涸渇すると云うことはないのである。
神の生命(せいめい)無限であるがゆえに、
あなたの生命(せいめい)も無限であり、
神の活力は無限であるがゆえに、あなたの活力も無限であるのである。
この事実を知ってあなたは今後決して悲観的な消極的なことを考えないのである。
神の永遠に変わることなき健やかなる生命(せいめい)なのである。
神が一度健やかに定めたまうたものを、
何者といえどもそれを不健康にする力はないのである。
あなたは気候の変化を恐れないし、食物(しょくもつ)の適不適を恐れないのである。
気候も食物も黴菌もビールスもあなたを害することはできないのである。
それを信ぜよ。
<感謝合掌 令和2年4月29日 頓首再拝>
《人間は神的実現》 - 伝統
2020/05/10 (Sun) 04:51:52
*「光明法語」(5月10日)より
人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。
最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。
****食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。
仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。
その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。
<感謝合掌 令和2年5月10日 頓首再拝>
《人は神の子であって運命を選擇し得る》 - 伝統
2020/05/19 (Tue) 04:37:17
*「真理」第9巻生活篇第2章(43)より
人間は神の子であって、神の奴隷ではない。
この事は注意してハッキリ自覚することが必要です。
「神の僕(しもべ)」などと考えてはなりません。
「僕は主人の為すことを知らざるなり、今日(きょう)より汝らを友と呼ばん」
とキリストはヨハネ伝の中で言っています。
キシストは「神の子」であり、あなたが「その友」であるならば、
貴方も当然、「神の子」であります。
「神の子」と「神の僕」、又は「奴隷」と何処が違うかと言いますと、
僕や奴隷は課せられた仕事をするだけで自己選擇の自由がありませんけれども、
神の子は自分で自分の行為や運命を自己選擇することができるのです。
あなた達はみな神の子ですから、決して課せられた運命の重荷の下(もと)に
悲しみながら悩んでいる必要はないのであります。
ただ無自覚のゆえに、運命だとあきらめているに過ぎません。
先ず自覚なさい。
<感謝合掌 令和2年5月19日 頓首再拝>
真に神のパイプとなるには - 伝統
2020/05/28 (Thu) 04:20:24
*『 生長の家 』昭和26年5月4日の法語)より
自然現象のほかは、神は人間を通してその働きをあらわし給うのである。
人間が神のよきパイプとなり、よき道具となることが必要なのである。
自己を空(むな)しくしての祈りは
人間をして神のよきパイプとなることを可能ならしめ、
神の完全なる表現としての人間を完成することになるのである。
人間を通して神は自己実現したまうのであるから、人間が働かないで
行動しないでただ祈るばかりでは役に立たないのは明らかである。
祈りによって神の御心(みこころ)と同調し、行動の方向が決定せられ、
その決定せられた方向に行動をとることによって、
その人は本当に神のパイプとなり、
神の自己実現となるのである。
<感謝合掌 令和2年5月28日 頓首再拝>
何らかの使命 又は 天分を 神は人間に与えている - 伝統
2020/05/31 (Sun) 03:29:08
*『 生長の家 』昭和32年5月5日の法語)より
~《あなたは今何(ど)んな位置に立っているか》
人間は 「 神の子 」 である。
何(なん)らかの点に於いて 神の最高の自己実現なのです。
だから何らかの使命 又は 天分を 神は人間に与えているのです。
若(も)し あなたが現状に不満足を感ずるならば、それは
あなたが まだ自分に与えられた 「 使命 」 の上に乗っていないで、
その途中にあるか、別の方向に往(ゆ)きつつあるかしているのです。
若し今あなたの位置が本当に、神があなたを使命した位置にあるならば、
あなたは何となく自然に幸福感に満たされ、心が幸福で、
伸び伸びして自縛しないですから、計画も自由自在になり、事業は発展し、
肉体の健康も おのずから増進するのであります。
そのような時には 其の事業を遂行(すいこう)するに必要な経費も
自然に裕(ゆた)かに入ってくるようになります。
併(しか)し あなたが、若し神が
あなたに使命づけた位置にいないならば
どんなに物質に豊かであっても本当の幸福感は得られないでしょう。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P289~290>)
<感謝合掌 令和2年5月31日 頓首再拝>
《神への抵抗としての病気》 - 伝統
2020/06/23 (Tue) 04:37:39
*「真理」第9巻生活篇第14章(P380~381)より
”神があるなら、もう少し、此の問題を
何とか処理して下さってもよさそうなものだ”
と云うような考えが随分、信者の中にさえもあるものなのです。
そして貴方は祈ります。
”神さま、何とかして下さい”と祈ります。
併しながらその祈りが矢張りきかれない事があるのは何故でしょうか。
それはわたしたちの懇願のしようが足りないのでしょうか。
そうではありません。
神は決して泣きつきや懇願によって動かされるような方ではないのです。
神はすべてのものを造り、その支配者として人間をお造りになりました。
人間は自分自身で地上の万物を支配する力を与えられているのです。
従って、健康を支配する力を与えれているのです。
本来、”神の子”として健康につくられている ――
その健康をすら支配して病気にする力さえ与えられているのです。
それが神への抵抗です。
<感謝合掌 令和2年6月23日 頓首再拝>
【 神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ 】 - 伝統
2020/07/02 (Thu) 04:27:11
*『 生長の家 』(昭和25年5月29日の法語)より
凡ゆる瞬間 凡ゆる所に於いて、神がましますということは、
凡ゆる時と場所とに於いて、神が吾らを守って い給うということである。
あなたの心を神に対して投げかけよ。
神はあなたに与え給うであろう。
常に神の助けのない世界はないのである。
どこから如何にして神が吾々を助け給うかはわからないにしても、
神の 目に見えぬ智慧の手が、凡ゆるものの自然なる運行を導き給うて
あなたを本当の幸福に導き給うのである。
神は一切のものを
調和と繁栄と幸福とに導き給う所の
中心的統一者である。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132)
<感謝合掌 令和2年7月2日 頓首再拝>
《人間の地上降誕の意義について》 - 伝統
2020/07/16 (Thu) 04:40:15
*『白鳩』(昭和48年9月号 P31~32)より
人間は、神の生命が天降って来て、そして神の生命の個性的顕現として、
その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、
使命を授かって地上に顕現しているのである。
この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。
唯物論的人間観ではその根拠が失われしまう。
指紋の同じ人間が一人も居ない、それと同じ様に、
全ての人間は、神から与えられた使命が異なるのである。
だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、言い換えると堕胎する
――― 人工妊娠中絶するということは、せっかく神が個性を与えて特殊なる使命を
与えられて神の生命が自己実現して来ようとしているのを中断してしまうことになる。
それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。
その人間の魂は、別の人間を以ては代用することの出来ない、
全然違う個性と使命を持って生まれて来るのであるから、彼は絶対価値の生命である。
かけ換えのない、代用品の無い貴い生命であるのを殺して仕舞うというのは、
神の計画に対する非常なる反逆であるということになるのであります。
(http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17391382.html 消滅)
<感謝合掌 令和2年7月16日 頓首再拝>
神の目覚め - 伝統
2020/08/01 (Sat) 03:56:30
*Web:かんながら(2020年07月20日)より
今日は神という観点から、目覚めについて書いてみます。
神(宇宙・全体意識)はあなたをこの世に誕生させました。
それは、神があなたを通して様々な体験をしたかったからです。
いまもあなたを通して、あなたと同じ感情、感覚、思考を体験しています。
あなたの人生は、たとえそれがなんであれ、神の人生でもあるのです。
したがって人生とは、神とあなたの共同創造という言い方ができます。
この共同創造の向かう先はどこでしょう。
それはズバリ、あなたの目覚めです。
と言ってもあなたが目覚めるわけではなく、
神であるあなたが「あなたという夢」から目覚めるのです。
言葉ではナンセンスに聞こえますが、
目覚めが訪れた時、このようにしか言えないことを理解することでしょう。
したがって神はあなたに期待しています。
あなたという、後にも先にもない独自の個性を通しての目覚めの味は、
宇宙初まって以来のことだからです。
目覚めの味は無数にあり、神は無数の目覚めを体験できることになります。
そうやって意識である宇宙(神)が、自らをより豊かに拡大していくのです。
もし自分の人生に目覚めが訪れなかったらどうなるかって?
どうってことありません。
すべてはリーラ(神の戯れ)であり、無限に続く生命の躍動なのだから。
そしてあなたこそがこの無限の命であり、
時間を超えているので早いも遅いもなく、
すべての個別意識は全体意識に帰ることになります。
宇宙の仕組みは完璧です。
目覚めが起きた時、心からこう叫ぶことでしょう。
「神、すげーー!!」
(https://abetoshiro.ti-da.net/e11618225.html )
<感謝合掌 令和2年8月1日 頓首再拝>
人間性の無限の味 - 伝統
2020/08/18 (Tue) 03:30:42
*「光明法語」(8月18日)より
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。
「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・
かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか概括して言うことは出来ない。
愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。
<感謝合掌 令和2年8月18日 頓首再拝>
人間は神の自己実現 - 伝統
2020/08/20 (Thu) 04:53:30
*「光明法語」(8月20日)より
人間が神の自己実現であることは、直覚認識によって知ることが出来るのである。
『法華経』にある「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。
天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、われ神の自己実現なりとわかるのである。
これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。
<感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたもの - 伝統
2020/09/03 (Thu) 04:37:59
*「光明法語」(9月3日《有限にして無限》)より
人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。
果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。
人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。
人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。
<感謝合掌 令和2年9月3日 頓首再拝>
神という言葉は動詞です - 伝統
2020/09/04 (Fri) 04:20:04
*Web:かんながら(2020年08月12日)より
ぶっ飛んだ言い方になりますが、
本当は誰もいないんですよ。
この「一つなる存在」だけがあります。
「一つなる存在」は見かけ上、無数の形に分裂して、
自らを瞬間ごとに新しく表現しています。
この「一つなる存在」を神と呼びます。
どこかに神という独立した存在がいて、
それが万物を作り出しているというのは、
人間のマインドの産物であり誤解です。
人間は自分を独立した存在だと思っているので、
本当はいない自分以外のところに、これまた独立した存在を描きます。
こうして分離した神が生まれました。
そしてその神が、全体を創造していると考えます。
その全知全能なる神に見捨てられないように、叱られないように、
愛してもらえるように、認めてもらえるように、
自らを見張りながら生きているのが人間です。
しかし「ひとつなる存在」は瞬間ごとに、
「無数に分裂したように見える全体」を新しく生じさせている力であり、
事実はその動きこそが神です。
創造者と創造物は一つです。
神という言葉は動詞なのです。
このことが理解されると、迷信的な宗教はすべて姿を消すことになります。
なぜなら彼らは「神」という独立した存在に依存しているから。
今日伝えたいことは、とても重要なことです。
創造者と創造物は一つだと言いましたが、
その一つこそがあなただということ。
あなたは、普段考えているような分離した個人ではなく、
「ひとつなる存在」そのものであり、あなたが「それ」です。
この発見こそが、本当の人生の入り口になります。
(https://abetoshiro.ti-da.net/e11642699.html)
<感謝合掌 令和2年9月3日 頓首再拝>
個としての表現 - 伝統
2020/09/05 (Sat) 03:52:38
*「光明法語」(9月4日~5日)より
九月四日の法語 個は如何にして表現されるか
普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。
牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。
普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。
・・・
九月五日の法語 個別者の相互関係
個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。
個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、
折角、個別化されたものも表現を完うする事が出来ない。
個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。
個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。
<感謝合掌 令和2年9月5日 頓首再拝>
大生命そのものの意志に一致した創造をしようとするならば、大生命が吾々を助ける - 伝統
2020/09/12 (Sat) 03:15:10
*「光明法語」(9月12日)より
~ 沈滞と頽廃との原因
大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。
かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、
事業に挫折したりして自己の運命の進展をみずから停止する事になる。
自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。
若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。
<感謝合掌 令和2年9月12日 頓首再拝>
神の人間創造の目的 - 伝統
2020/09/16 (Wed) 04:04:32
*「光明法語」(9月16日)より
神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。
外から創造したのではなく、
神は「内在の生命」として内から創造したのである。
演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、或は美しき波模様をなして
自然に配列されるが如く、
女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。
<感謝合掌 令和2年9月16日 頓首再拝>
人間は神の創造の中心 - 伝統
2020/09/25 (Fri) 03:11:05
*「光明法語」(9月25日)より
人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。
神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。
パイプの小なることを見て、
そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。
大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。
<感謝合掌 令和2年9月25日 頓首再拝>
すべてを神の表現として見よ - 伝統
2020/10/07 (Wed) 04:22:41
*『 生長の家 』(昭和26年6月27日の法語)より
神は大自然を通して、またすべての人々を通して
自己を表現したまうのである。
大自然の一木一草にも神の表現と囁(ささや)きとを
きくことが出来るのである。
すべての人々の動きにも神の表現と囁きとを
きくことが出来るのである。
相手がそのように自分に対して持ちかけて来るのは、
神が何かを自分に対して示していられるのである。
「 立ち向かう人の心は鏡なり 」と云うのはそのためである。
またすべての人々は、その人でなければ出来ないところの
神の「 特殊性表現 」をしていられるのである。
だから、あまり人を自分に等しからしめようとしてはならないのである。
ピアノはピアノの音(ね)を出し、琴は琴の音を奏でるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 令和2年10月7日 頓首再拝>
あなたの理想を、ただ神に振り向けよ - 伝統
2020/10/20 (Tue) 04:55:15
*『 生長の家 』(昭和26年6月28日の法語)より
貴方が心を高き理想に振り向けるとき、
あなたの人格は 高きものとなり、
あなたの行動は 高きものとなるのである。
あなたが低きものに興味を持つとき、
あなたの人格は 低きものとなり、
あなたの行動も 低きものとなるのである。
最も高き理想は「 神 」である。
あなたの理想を神にまず振り向けよ。
それは意志の力で神にまで自分の念を
強力に持ちつづけなければならぬと云うことはないのである。
自分が神の子であることを知れば好いのである。
唯(ただ)知るだけで好(よ)いのである。
自己の生命の源泉が神より来たれるものであることを知り、
神が人間を神の子として神の如く完全に創造(つく)り給うた実相を
“ ただ ” 知るだけで可(よ)いのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 令和2年10月20日 頓首再拝>
人間の身体は「神の宮」 - 伝統
2020/11/07 (Sat) 04:45:23
*「光明法語」(11月7日の法語《黴菌も寄生虫も無い》)より
人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。
宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。
人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。
―― 斯く念ぜよ。
<感謝合掌 令和2年11月7日 頓首再拝>
キリストは道標 - 伝統
2020/11/08 (Sun) 04:36:45
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より
キリストに対するユダヤ人の呪いは
「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を涜(けが)すものである」
ということであった。
ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された
「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」
とエホバの宣言したところの物質人間でしかなかったのである。
キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」と宣言したのである。
そして
「我(われ)は道であって、この道を通れば
すべての人間は神の子なることを自覚しえて、
永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」
と断言したのである。
キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである
<感謝合掌 令和2年11月8日 頓首再拝>
《人生の目的は神を実現せんがためである》 - 伝統
2020/11/21 (Sat) 04:47:08
*『 生長の家 』(昭和25年7月4日の法語)より
吾(われ)は 今 吾(わ)が本性の 「 神 」 なることを知ったのである。
吾は個人ではないのである。吾は全体である。
吾は無限である。吾は絶対である。
吾は永遠である。吾は不滅である。
吾が人生の目的は これを実現せんがためである。
「 吾が完全円満なる実相よ。
実相の愛よ、吾が内にあふれ出(い)でよ、
実相の生命よ、吾が内にみなぎれよ、
実相の智慧よ、吾が内に湧(わ)き出でよ、
実相の供給よ 吾に豊かにあふれよ。」
かく絶えず自分の内に対して
黙念によって呼びかけよ。
かくすること、十日、二十日、一ヶ月にして
諸君の生活は一変するであろう。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和2年11月21日 頓首再拝>
尊いのは、人の子のうえに「神の霊波」が昇り降りすることである - 伝統
2020/12/10 (Thu) 02:44:01
*「光明法語」(12月10日《天の使とは》)より
「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たり
と言いしに因(よ)りて信ずるか、
汝これよりも更に大いなる事を見ん』また言い給う
『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』(「ヨハネ伝」第1章末節)。
預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。
それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。
「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。
<感謝合掌 令和2年12月10日 頓首再拝>
神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である - 伝統
2020/12/26 (Sat) 06:22:11
*「光明法語」(12月26日《人間はすべからく偉大なれ》)より
神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。
神は決して神の子たる人間に
最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために
生きているものではない。
神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、
偉大なる生活を送らなければならぬ。
夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す
夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も
美しく尊いのである。
<感謝合掌 令和2年12月26日 頓首再拝>
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがため - 伝統
2021/01/01 (Fri) 06:34:47
*「光明法語」(1月1日《人生は何のためにあるか》)より
人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。
これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。
凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。
しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
<感謝合掌 令和3年1月1日 頓首再拝>