伝統板・第二

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神の国の義(ただ)しきを観る」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/09/30 (Mon) 12:46:07

光明掲示板・第二 消滅により、
「神の国の義(ただ)しきを観る」の伝統板・第二への再掲示です。


【異なる者の渾一調和】

        *「光明法語(10月1日)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 平成25年10月1日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>)   

無限の健康調和 - 伝統

2019/09/30 (Mon) 12:48:30


        *「光明法語(10月2日)」より

各々の細胞がその個性を発揮しながら完全なる協力を遂げているとき
人体の健康は最も完全に実現するのである。

完全なる協力は 「本来一」 の自覚より生ずる。
人間の健康も先ず人間同士が完全に 「一」 である自覚をもって互いに相結ばれ、
人間相互にその感情が調和している時にのみ真に実現し得るのである。

人間同士の感情が争っているときには、肉体は心の影であるから、
心の乱れている限り真に無限の健康は発揮されようはないのである。
汝ら互いに調和せよ。


       <感謝合掌 平成25年10月2日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>)   

物質の自覚 - 伝統

2019/09/30 (Mon) 12:49:38


        *「光明法語(10月3日)」より

完全なる健康の裏には「完全」なる調和の念がなければならないのである。

先ず肉体は「物質」であるとの念を捨てよ。

物質は結局バラバラのものであって互いに漠然とした一体の自覚なきものであるから、
吾々の肉体が物質で出来ているものだとの考えが吾々の心を占めている限り、
自己の肉体はバラバラのものであると云う念を抱いていることになるから、
その念があらわれて完全なる健康は得がたい。

完全なる健康は、吾は「霊なる完体なり」の自覚から生まれるのである。

       <感謝合掌 平成25年10月3日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>)   

肉体健康の秘訣 - 伝統

2019/10/02 (Wed) 18:09:13

        *「光明法語(10月4日)」より

肉体を健康ならしめるためには、肉体を愛しなければならない。
肉体を霊の敵であると憎んでいる限りに於いて、その肉体は健康になる事は出来ない。
肉体を「霊の完全なる表現」であると信じ、それを愛し敬しなければならない。

肉体を醜いものと考えてはならないし、
それを神の人間理想の最高顕現であると見なければならない。

常に神想観する時に「吾が肉体は神の最高美の理想的顕現である」と念ぜよ。
而(しか)して病気を見る勿(なか)れ、病気を想念する勿れ。

       <感謝合掌 平成25年10月4日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>)   

健康美を讃賞せよ - 伝統

2019/10/02 (Wed) 18:11:06

        *「光明法語(10月5日)」より

健康美の発現を悦べ。

それが体操であれ、スポーツであれ、舞踊であれ、
健康美の表現されているものを素直に悦ぶ心がなければ、
ただの健康は得られても健康美ある肉体の美しさは得られないのである。

何でも愉快に体操でもスポーツでも舞踊でも、
健康の美の発現を実際に喜んで実践するとき健康美はあらわれる。

何でもそれを讃えてやり賞(ほ)めてやり喜んでやったならば、
それは益々発達しその完全なる姿を現すのだ。


肉体美もその通りである。
肉体を軽蔑してはならぬ。

       <感謝合掌 平成25年10月5日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>)   

肉体を憎む勿れ - 伝統

2019/10/02 (Wed) 18:12:29


        *「光明法語(10月6日)」より

肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。

聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。

聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。

肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。

       <感謝合掌 平成25年10月6日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>)   

病気は心の影 - 伝統

2019/10/06 (Sun) 12:41:48


        *「光明法語(10月7日)」より

病気が自他の肉体に現われても、肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。
その病気を「自分の心の影」だと見よ。神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる
「心の影」として不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。

そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 平成25年10月7日 頓首再拝>


   (   <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>)   

神と共に静かに語れ - 伝統

2019/10/06 (Sun) 12:42:46


        *「光明法語(10月8日)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、親子が静かに語る時間を持つと云う事
であって是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 平成25年10月8日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>)   

恐怖すること勿(なか)れ - 伝統

2019/10/06 (Sun) 12:43:48


        *「光明法語(10月9日)」より

何事に対しても恐怖すること勿れ。
神の子であり、神が常に汝を護っている事を知るならば吾らは何事も恐怖する事はない。

恐怖するのは神を信じていないからである。
恐怖すれば血管は収縮し血液中の過度のアドレナリンを生じ、血圧は昂(たか)まり、
全身の細胞は萎縮して活力を失うのである。

肉体の各器官は神の諸々(もろもろ)の霊的属性の表現である。
神の諸々の属性を完全に表現すればする程、肉体の各器官は一層健康となる。

心臓は愛の表現である。
愛が乱れれば心臓が乱れる。

またそれは心膽(しんたん)である。
気を大きくすれば心臓病は治る。

            <感謝合掌 平成25年10月9日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>)   

恵美子の誕生日 - 伝統

2019/10/06 (Sun) 12:45:59

        *「光明法語(10月10日)」より

今日は自分の娘恵美子の誕生日である。

彼女は関東大震災に震災直後の無一物の吾々の家庭に生まれたが
一度も生活に不自由した事がない。

震災で吾々が避難する時にも、彼女のお産に要する一切の用品、
及び生まれてから着る為の一襲(ひとかさね)の縮緬(ちりめん)の布団、着物
《こどてら》などは、私が担いで出たので彼女のみは何の不自由もなかったのである。

それから後にも彼女は一度も不自由をした事がなかった。
何でも欲するものは与えられ、「お菓子来い」と空中に向かって叫べばお菓子が出た。

・・・

谷口恵美子先生は、大正12年10月10日に富山県高岡市で御誕生されました。
大正12年は、9月1日に関東大震災のあった年です。

谷口恵美子先生のますますのご健勝を心よりお祈りいたします。

            <感謝合掌 平成25年10月10日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>)   

背骨は肉身の心柱(しんちゅう)(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/10/08 (Tue) 13:26:53


          *「光明法語(10月11日)」より

「ど性骨(しょうぼね)が腐っている」と云う言葉がある。
背骨は肉身の心柱であるから、肉親者の心柱たる先祖又は家長に対する忘恩又は
目上の者に対する反抗等が形にあらわれて、背骨が曲がったり、腐ったりするのである。

祖先に感謝し、「素直に目上の者に随(したが)います」と云うような気持ちになったら
素直に脊柱の折れ屈(かが)みが出来るようになるのである。

祖霊を鄭重に祭って『甘露の法雨』を読誦すると不思議に脊椎カリエスの治ることがある。

また脊柱は家の柱たる家長をあらわす。
目上の者に反抗しているときに故障があらわれる。

            <感謝合掌 平成25年10月11日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>)   

祈りの2つの種類 - 伝統

2019/10/08 (Tue) 13:28:24


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする
自力の行は断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって仏陀(さとり)の境地に達しようとした。
併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

・・・

相対的祈りと絶対的祈り

          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 平成25年10月13日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>)  

神の国の義しきを観よ - 伝統

2019/10/08 (Tue) 13:29:33


          *「光明法語(10月14日)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。其の余のものは汝らに加えられるべし」と
イエスが言ったのは、彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。
イエスが「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして成さしめ給う」と
言ったのは此処である。

            <感謝合掌 平成25年10月14日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>)  

神を讃美する祈り - 伝統

2019/10/08 (Tue) 13:30:26


          *「光明法語(10月15日)」より

天の父われに在(いま)してみ業(わざ)を成し給う式の祈りは、
天の父のみ業の荘厳極(きわま)りなく美しき事を認め、
ただ讃(ほ)め称(たた)えるだけで好いのである。

観と讃嘆である。

此の種の祈りは長時間やってもつかれる事はない。
天の父の無限の力が流れ入って却って心気爽快、再生の思いがするものである。
聖書によれば、イエスは常に暁方(あけがた)に山に入って長時間祈っていたらしい。

彼はそれによって力を得、実際病いを治す時には、「神が成し給う」と思うだけで、
祈りもしないで、「起ちて歩め」と言ったようである。

            <感謝合掌 平成25年10月15日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月8日 頓首再拝>)  

自力の思念伝達法 - 伝統

2019/10/09 (Wed) 18:40:14


          *「光明法語(10月16日)」より

自己の思念力を念送して相手の悩みを癒やす方法は、電波の波及と同様の原理を、
電波よりも尚一層精妙なる霊的波動にあてはめたものである。

その方法は、自己の送ろうとする思念又は想念を、心の中で繰返し繰返し、
余念なく、他念なく強烈に繰返す事によって成立っている。
時には十数分間、時には十数時間も強烈に同一想念を繰返すのである。

そして、それは相手に於いて効果を顕す事があるが、
その時には思念者は精力を消耗してフラフラになっている事が多い。

            <感謝合掌 平成25年10月16日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>)  

クーエの自己暗示法 - 伝統

2019/10/10 (Thu) 19:57:10


          *「光明法語(10月17日)」より

クーエの自己暗示法は「自分はこれから毎日あらゆる点で一層よくなる」と云う
同一思念を20回繰返す事によって成り立っている。

併しこれは念力波及の方法ではなく、ただの言葉で、その想念を潜在意識につぎ込めば、
潜在意識が絶大なる力でその言葉の通りを成し給うと云う信念に基いている。
これは精力を消耗し尽す事はない。

クーエも他に念力を送る場合もある。
子供をよくしたいと思う時、欲する内容の言葉を眠れる子供から1米(メートル)
離れて繰返し唱えれば好結果を得ると主張したのである。

            <感謝合掌 平成25年10月17日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>)  

精神は互いに感応する - 伝統

2019/10/10 (Thu) 19:58:19


          *「光明法語(10月18日)」より

眠っている子供の枕元で数学の公式を幾度も唱えて聞かせて、
覚めてからその数学の公式を思い出させると完全に暗誦し得たと云う実例もある。

リーテル・ブルバンクは自分の妹に会いたいと思うとき手紙を書かないで、
思念で「今日はお前に会いたいんだが」と念じたら必ずその次の列車で
その妹はブルバンクのところへやって来たと伝えられている。

夫婦の思いが互いに感応した実例は沢山ある。
妻があやまる気になったとき、夫が妻に済まぬと思うようになった例も多い。

            <感謝合掌 平成25年10月18日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>)  

神を通じての目的実現 - 伝統

2019/10/10 (Thu) 19:59:46


          *「光明法語(10月19日)」より

精神波及はかくの如く効果をあらわすが、それは、個別の精神と、個別の精神との間の
感応であって、神がそれを成し給うのではない。

最高の精神感応は、神は普遍者(どこにも在る)であらせられるから、如何なるところに
ある人にでも、如何なるところにある物資でもそれは感応し、それが切実なる願いである
ならば、その人はいつの間にか自分のところに訪れ来り、その物資は自分の処に呼び寄せ
られるのである。

それは上手下手はないのであって
神に波長の合う誠心(まごころ)の出た人なら誰でも出来る。

            <感謝合掌 平成25年10月19日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>)  

強力なる願い - 伝統

2019/10/10 (Thu) 20:01:01

          *「光明法語(10月20日)」より

「切実なる願い」はきかれる。
切実とは単に「強力なる事」ではない。

深切真実と云う事である。
深切とは表面浅膚(せんぷ)の反対である。

流行を追い、虚栄を追い、時局に乗り、時流に投じ、世間の噂に動かされた其の結果
「こうしたい」と思う事は、如何なるものでも「強力なる願い」だと云うことは出来ない。

キリストはゲッセマネの園に於いて
「みこころならばこの苦き盃をわれより取去り給え」と血の汗を流して強く祈った。

併しそれは彼の切実なる願いではなかった。

            <感謝合掌 平成25年10月20日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>)  


切実なる願い - 伝統

2019/10/11 (Fri) 18:11:34


          *「光明法語(10月21日)」より

イエスの切実なる願いは「モーゼが金の蛇を竿の先にあげてユダヤ民族を神の怒りより
救った如く、みずからが十字架にかかって人類の罪の意識を身代わりとなる事」であった。

だから彼は「モーゼが蛇を挙げた如く、我れも挙げられるとき来らん」と預言した。
それは潜在意識の切なる願いであったのである。

併し現在意識の強き願いは、「この苦き盃をわれより取去り給え」であった。
現在意識の如何に強き願いがあるとも、潜在意識の中にその反対の願いがあると成就しない。

            <感謝合掌 平成25年10月21日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>)  

「祈り」は願望実現が目的でない - 伝統

2019/10/12 (Sat) 19:02:01


          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。
「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、祈りに志向性はつきものである。

自分の願いがないならば「祈る」必要はない ―― と考えるのは間違いである。
「祈り」と云うものは、「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。
だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

            <感謝合掌 平成25年10月22日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月12日 頓首再拝>)  

潜在意識と現在意識の食違い - 伝統

2019/10/13 (Sun) 18:59:08


          *「光明法語(10月23日)」より

吾々人間の潜在意識の願いには、実相本来の願い(既に実相に於いて与えられている本性)
そのものではない、「歪(ゆが)み」があるものである。

現在意識の願いが遂げられないのは、
潜在意識の願い(又は想念)がその反対であって邪魔をするからである。

戦争中、日本人は現在意識の願いは「勝ちたい」と云う事であったに拘らず、
潜在意識の願いは「海ゆかば水漬く屍(かばね)・****で会おうよ」(負けて死ぬ)
事であった。

そこに現在意識の願いと潜在意識の願いとに食違いがあったのである。


            <感謝合掌 平成25年10月23日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月13日 頓首再拝>)  

実相完全の願いの実現 - 伝統

2019/10/14 (Mon) 18:52:58


          *「光明法語(10月24日)」より

この現在意識と潜在意識の食いちがいはどううして起こるのか。

それはみずからの「実相の願い」(本来与えられている本性又は使命)を
ツツミて知らざるところから来るのである。
換言すれば、それはツツミ(即ち罪)である。

「みこころのままにならしめ給え」と祈ることは単に自己の現在意識の願いを捨てるに
とどまらず、潜在意識の願いの歪みまでも、その自我放棄によって捨てることになる。

かくて現在・潜在の両意識の歪みが悉く捨てられて実相完全の願いのみが実現する。

            <感謝合掌 平成25年10月24日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>)  

神の祝福の流れに乗るには - 伝統

2019/10/15 (Tue) 21:07:58

神の祝福は万人平等

          *「光明法語(10月25日)」より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。
神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

・・・

          *「光明法語(10月26日)」より

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 平成25年10月26日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月15日 頓首再拝>)  

摂理と云うこと - 伝統

2019/10/16 (Wed) 19:16:46


          *「光明法語(10月27日)」より

神の波長に合わぬと言っても、その場合、神が人間を罰し給うのではないのである。
光に対して眼をつぶっている者が「暗い」のは、神罰ではなくして、
理としてそれが出て来るのである。

そして「暗く」して打突(ぶつ)かり、頭を打って痛いと思って、その人が眼をひらいて、
そして方向転換するのは、神が頭をなぐったのではなくて、自分が頭をぶつけたのであり、
そして自然に眼がひらくのは、「理」として自然に来るのである。

これを「摂理」と言う。
不幸に出遇(であ)ったと思っている時に神の導きがある。

・・・

神罰ではない

          *「光明法語(10月28日)」より

病気をした為に神を知ったと言い、災難を受けたために神信心をするようになった。
これは神の導きであったと言う人がある。

これは摂理であり、「理」であり、神が自由意志をもって、導かんがために、
病気や不幸を課したのではない。

「理」にしたがって、心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれるのである。
眼をとじていれば暗いが、その暗いのは「理」に従って暗いのであって、
神罰によって暗いのではない。

暗くて頭を打つのも「理」にしたがって頭を打つのであって神罰ではない。

・・・

「理」は神から来る

          *「光明法語(10月29日)」より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。
しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、むしろ神御自身が
人間によって利用できるように「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。
神は「自由の本体」であるから変幻自在である。
しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

・・・

「理」に順応せよ

          *「光明法語(10月30日)」より

高圧電線に触れて傷つくのも、機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして
病気になるのは「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、食べすぎねば傷つくことはない。

・・・

心の法則に順応せよ

          *「光明法語(10月31日)」より

それと同じく「心の法則」と云う理によって起こる災禍や病気は、
神の肆意(しい=かってきまま)による神罰でないから、顧みて、自分が如何なる心を
もったかを反省し、理に逆らっていた心の持ち方を捨て、理に順応する心の持ち方に
心を転ずれば災禍や病気は治るのである。

何よりも今まで神の光に眼を瞑(ふさ)いでいた眼を開くことが大切である。
そうすれば暗がりにいて頭を打つ様な馬鹿らしい病気や災難は受けなくなる。
人を打つ心をもてば、自分が打たれる。

心の法則は何も難しい事はないのである。

            <感謝合掌 平成25年10月31日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>)  

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