伝統板・第二
神への全托④ - 伝統
2019/12/10 (Tue) 04:28:11
「光明」と「全托」
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より
「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。
「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「神に全托」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562
(2)光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50
(3)伝統板・第二「神への全托①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6460526
(4)伝統板・第二「神への全托②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6945881
(5)伝統板・第二「神への全托 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7731682
<感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>
《難問題を神に委(ゆだね)よ》 - 伝統
2019/12/26 (Thu) 03:00:45
*『生長の家』(昭和26年4月3日の法語)より
どんな借金でも神なら払えるのであり、
神にまかせて解決しない問題は無いのである。
「 神様、この問題は肉体の人間としての私には解決することが難しいのです。
しかし神様は 無限の愛であられます。無限の智慧であられます。
貴方(あなた)様の智慧によって解決しない問題はないのでございます。
貴方様の愛によればすべての事がすべての人の幸福になるように
解決することが出来るのでございます。
この問題を、神様あなたに委ねます。
あなたはこの問題をすべての人の幸福になるよう調和した状態で
解決して下さいます。 」
こう神想観中に繰返し念ずるようにするならば
自然に解決の途(みち)が開けて来るものである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12198708.html (消滅)
<感謝合掌 令和元年12月26日 頓首再拝>
《自分が無くなり神に全托すること》 - 伝統
2020/01/14 (Tue) 04:18:54
*『 生長の家 』(昭和25年4月9日の法語)より
吾は 今 神の無限の力に信頼 して、
すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。
私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。
私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
自分の生命を神に全く うち任せたのである。
‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。
「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
いい給うているのが それが神であるのである。
神にすべてをまかす吾は強いのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html (消滅)
<感謝合掌 令和2年1月14日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2020/01/19 (Sun) 04:41:29
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和2年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2020/01/25 (Sat) 03:59:32
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 令和2年1月25日 頓首再拝>
《神にのみ頼れ》 - 伝統
2020/01/29 (Wed) 04:12:26
*「光明法語」(1月29日)より
吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。
吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。
だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。
唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。
<感謝合掌 令和2年1月29日 頓首再拝>
《神は吾が重荷を軽からしめ給う》 - 伝統
2020/02/24 (Mon) 02:53:57
*『 生長の家 』(昭和25年5月21日)より
あなたにとってどんなに難しくそれが見える時にも、
神にとって難しいものは一つもないのである。
どんな病気も神なら治すことができるし、
どんな借金も神なら払うことができるのである。
自分の体を 神の体だと思え。
自分の仕事を 神の仕事だと思え。
神は 弱き体をも 力士の如(ごと)く 強くならしめ、
貧しきものを ソロモンの如く 富ましめることができるのである。
今日、一日を神の仕事の番頭であると思いて業務を励め。
重荷を自分で負うな。
重荷は神に委(ゆだ)ねよ。
然して平安であれ、心安かれ。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和2年2月24日 頓首再拝>
神に振り向く - 伝統
2020/03/10 (Tue) 04:51:38
*『 生長の家 』(昭和25年5月28日の法語)より
~《困難の時には凡(あら)ゆる物に感謝合掌せよ》
四面楚歌(そか)の行きづまった状態を 解放する唯一の方法は
神に振り向くということである。
周囲が如何にふさがっているにしても、上方は必ず空いているのである。
神に向かう道がふさがるということはあり得ないのである。
神に振り向くとは、神に感謝することであり、
神の造り給うたあらゆるものに感謝と合掌とを送ることである。
疑わずそれを行ってみよ。
神は如何なる困難の金城鉄壁をも打破して
調和と幸福と豊かさと健康とを恵み給うのである。
( http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132 )
<感謝合掌 令和2年3月10日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2020/03/28 (Sat) 04:26:20
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>
平和なる眠りを得るには - 伝統
2020/03/29 (Sun) 04:16:31
*「光明法語」(3月29日)より
吾々は原因結果の法則の世界に生きているのである。
その原因は他から来るのではなく、自分から来るのである。
吾々が人々を愛すれば人々から吾々は愛されるのである。
人々に与えれば人々から与えられるのである。
吾々が人々を賞賛すれば人々から賞賛されるのである。
愛は愛を呼び、憎みは憎みを呼ぶ。
奪うものは奪われ、殺す者は殺される。
眠るときに愛念を起して眠れ、
感謝の念を起して眠れ、
明日の事を神にまかせて眠れ。
決して争いや、心配の心で眠るな。
<感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>
《難問題を神に委(ゆだね)よ》 - 伝統
2020/04/03 (Fri) 02:20:47
*『 生長の家 』(昭和26年4月3日)の法語より
どんな借金でも神なら払えるのであり、
神にまかせて解決しない問題は無いのである。
「 神様、この問題は肉体の人間としての私には解決することが難しいのです。
しかし神様は 無限の愛であられます。無限の智慧であられます。
貴方(あなた)様の智慧によって解決しない問題はないのでございます。
貴方様の愛によればすべての事がすべての人の幸福になるように
解決することが出来るのでございます。
この問題を、神様あなたに委ねます。
あなたはこの問題をすべての人の幸福になるよう調和した状態で
解決して下さいます。 」
こう神想観中に繰返し念ずるようにするならば
自然に解決の途(みち)が開けて来るものである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12198708.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年4月3日 頓首再拝>
《神と共に戦う者は平安なり》 - 伝統
2020/04/08 (Wed) 02:33:38
*『 生長の家 』(昭和25年4月8日の法語)より
困難に面して自分の力を以(もっ)て戦うと思うな。
自分の力で戦うと思うものは、
力が尽きてしまって結局 挫折してしまうのである。
自己の内に宿る神の力に頼る者は
永遠に挫折するということはないのである。
ここに無我全托(ぜんたく)の全勝である秘密があるのである。
自分が謙遜(けんそん)になった時にのみ
神は力を与えて吾々を支え給(たま)うのである。
神は常に自分を護(まも)り給い 幸福にし給い、平和を与え給うのである。
どんな困難が来た時にも 自分の力で それに対抗しようと思ってはならない。
「 吾 神と共にあり、吾 神と共に生く、何をおそれんや 」 と
念じ乍(なが)ら進むが好(よ)いのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786986.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>
《自分が無くなり神に全托すること》 - 伝統
2020/04/09 (Thu) 02:13:42
*『 生長の家 』(昭和25年4月9日の法語)より
吾は 今 神の無限の力に信頼 して、
すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。
私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。
私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
自分の生命を神に全く うち任せたのである。
‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。
「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
いい給うているのが それが神であるのである。
神にすべてをまかす吾は強いのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年4月9日 頓首再拝>
御心のままに - 伝統
2020/04/15 (Wed) 04:08:57
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より
「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。
「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。
こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。
<感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>
宗教には全托と云うことが要求されます - 伝統
2020/04/30 (Thu) 05:00:29
*『明窓浄机』戦後篇(P230)より
宗教は天啓の文化活動でありまして、
それは「啓示」即ち天降りであることを特色としているのであります。
宗教と政治とは異なるのです。
政治はそのあるべき様(さま)のあり方に従い或る場合は民主主義形態で、
多数決により、人民みずからの責任に於いて人民みずからの幸福を
さだめても宜しいのでありますが、
宗教と云うものは、
教祖又は教主が「信者」を指導すると云う立場にあるのでありまして、
その指導に従うのが嫌やな人は、そのまま嫌やでよろしいのでありますが、
既にその人は指導者に対する「信者」ではないのでありますから、
その宗教から去れば好いのでありまして、
自分の気に入る或る部分は指導に従うが、
自分の気にいらぬ部分は指導に従わないと云うような、
半信半疑的な信者は本当の信者ではないのであります。
宗教には全托と云うことが要求されます。
「全てか、無か」でありまして、『八十パーセントと二十パーセント』
と云うようなことは許されないのであります。
宗教に必要なるところの心境「幼な児の心」と云うものは100パーセント
信頼 「ハイ」の精神でなければならないのであります。
阿難が迦葉から仏教の真髄を伝えられたとき、
唯「ハイ」を教えられたのでありました。
<感謝合掌 令和2年4月30日 頓首再拝>
つかむも放つも人間の自由である、神に委(まか)せよ - 伝統
2020/05/12 (Tue) 04:27:36
*「光明法語」(5月12日)より
~《神が汝をつかんでいる》
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、掌(てのひら)の上に、
「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和2年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2020/05/20 (Wed) 04:35:10
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 令和2年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2020/05/21 (Thu) 04:45:22
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和2年5月21日 頓首再拝>
「思い煩い」を唯 捨てて、神に任せる - 伝統
2020/05/26 (Tue) 04:54:04
*『 生長の家 』(昭和25年5月3日の法語)より
~ 物事を良くするのは心配によってではない
如何なる不調和に見え、それは正しくない
と見えるような出来事がおこって来ようとも、
私は決して心配したり いらいらしたりすることはないのである。
そこに何があろうともそれをよくする力は
自分の内に宿っているのである。
それを良くする方法は
それを心配することではないのである。
「思い煩い」を唯 捨てて、神に任せるがいいのである。
ある詩人は唱(うた)っている。
「 吾は吾が戦いを戦えるに非ず、神とともに歌を歌えるなり 」
何事をするにも神とともに歌を歌う積(つも)りで
明るくすることが大切である。
<感謝合掌 令和2年5月26日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2020/06/14 (Sun) 04:12:31
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である
<感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>
難問題の解決は神にゆだねよ - 伝統
2020/06/21 (Sun) 04:30:34
*『 生長の家 』(昭和25年5月17日の法語)より
右すべきか左すべきか決定することのできないような難問題に面した時には、
直ちに神にふりむく事が必要である。
神の智慧は曲れるを直くし、くだけたるを完全ならしめ、
傷つきたるを癒やすべき道を知り給うのである。
かかる際には
「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」
と念ずることが必要である。
この言葉を数回念じて 心を平静にしていると
自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、
如何なる難問題も解決されることになるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和2年6月21日 頓首再拝>
【 神は吾が重荷を軽からしめ給う 】 - 伝統
2020/07/03 (Fri) 05:00:03
*『 生長の家 』(昭和25年5月21日の法語)より
あなたにとってどんなに難しくそれが見える時にも、
神にとって難しいものは一つもないのである。
どんな病気も神なら治すことができるし、
どんな借金も神なら払うことができるのである。
自分の体を 神の体だと思え。
自分の仕事を 神の仕事だと思え。
神は 弱き体をも 力士の如(ごと)く 強くならしめ、
貧しきものを ソロモンの如く 富ましめることができるのである。
今日、一日を神の仕事の番頭であると思いて業務を励め。
重荷を自分で負うな。
重荷は神に委(ゆだ)ねよ。
然して平安であれ、心安かれ。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132 )
<感謝合掌 令和2年7月3日 頓首再拝>
神に全托 - 伝統
2020/07/15 (Wed) 04:46:07
*「光明法語」(7月15日)より
~ 神は遍満し給う
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」
と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>
神へ一切をささげる - 伝統
2020/07/16 (Thu) 04:28:42
*「光明法語」(7月16日《神に対して戸を開け》)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和2年7月16日 頓首再拝>
「わが全存在を神にゆだねる」 - 伝統
2020/07/22 (Wed) 04:56:26
*『 生長の家 』(昭和32年5月31日の法語)より
~《完全に自己が救われたとき》
「わが全存在を神にゆだねる」これがあなたの全存在の革命です。
今まで物質的な欲望をもった肉体的なニセモノが
あなたの全存在を占領していたのが、神にまで無条件降伏して、
その全存在を「肉体的ならざるもの」「神なるもの」
「真(しん)に無我の愛なるもの」に明け渡すのです。
「神よ、わが城に入り給え」 と
無条件に 「わが存在」 という城を明け渡すのです。
その時あなたの肉体の外観は元のままであるかも知れないけれども、
その肉体の中に生きている主人公が一変(いっぺん)したのです。
今迄の主人公は肉体に属する色々の因襲や、業因や、習慣を
背負っていた欲望であるけれども、
過去の主人公が降伏してそれを明け渡したとき、
もう肉体と云う城に住む主人公は 「神」 御自身となったのです。
その人は新たに生れ更(かわ)ったのです。
さればあなたは 神そのままに 完全に世界を観、
神そのままに完全なる人間を観、
神そのままに 完全なる悦びを感じ、
神そのままに 立所(たちどころ)に病いを消し、
神そのままに 罪人を清浄(しょうじょう)ならしめ、
その行くところに、平和と豊かさとを来らしめ、
神がなし得る凡(あら)ゆる神聖にして
偉大なる御業(みわざ)を成すことを得るのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P313~314>に収載)
<感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>
祈りのあとは、心をゆるめて 神に全托する - 伝統
2020/08/04 (Tue) 04:47:56
*『生長の家』(昭和25年6月8日の法語)より
~祈っても 「 結果 」 をつかんではならぬ
静かに坐して実相を観ぜよ。
「 吾は汝の父なる神である 」 と
神は宣給(のたま)うているのである。
困難の時、不幸の時、病気の時 まず第一に必要なのは
内部の心が神の方へ振り向いて落ち着くということである。
吾々が何か現象的な御利益を求めて
それに対して祈る時には
その 「 求める結果 」 を 「 結果、結果 」 と心につよくつかむが故に
本当に心をゆるめて 神に全托することができないのである。
吾々はまず求めなければならない、
「 求めよ、さらば与えられん 」 である。
然(しか)し求めた後には
心を放って神に全托することが必要である。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2)
<感謝合掌 令和2年8月4日 頓首再拝>
「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2020/08/06 (Thu) 04:46:20
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>
祈った後は 事柄を心から放って全托せよ - 伝統
2020/08/16 (Sun) 04:09:00
*『生長の家』(昭和25年6月9日の法語)より
自分の周囲を如何に暗黒が とりまこうとも、
心を平和にし、静かに神に祈りて後 完全に全托すれば、
よき結果が得られないということはないのである。
恐怖と焦燥の観念を心よりとり去れ。
吾々は唯(ただ)神に全托すればいいのである。
南無阿弥陀仏の一念によって救われるというのも、
一念で好いのであって、繰り返されなければ頼りなく思うのは、
阿弥陀仏の 「 救う力 」 が絶対無限であるということを知らないからである。
口の動く回数で救われると思うものは、
自分の口に頼るのであるから自力の行であって
本当の信心に到達することはできないのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
<感謝合掌 令和2年8月16日 頓首再拝>
必ず解決の道はある、神のみ手に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2020/08/28 (Fri) 04:21:54
*『生長の家』(昭和26年6月19日の法語)より
~必ず解決の道はある
問題が行き詰って来たときには、神の方へ振り向くべしである。
人間にはどうしたら好(よ)いか判(わか)らなくても、
神は必ず解決の道を知り給うのである。
如何なる問題にせよ、それが問題である以上は
解決の方法があるから問題なのである。
神の造り給うた世界に、自分とそしてすべての人とに共々幸福になる解決が
存在しないと云うことはないのである。
多くの人々が常に不安に包まれ、恐怖に覆われているのは、
神に全托することを知らないからである。
不安と恐怖とから完全に離脱する道は、
すべての問題の解決を愛深き神の み手に委(ゆだ)ねることを忘れているからである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 令和2年8月28日 頓首再拝>
神に全托する者は悩まない - 伝統
2020/09/08 (Tue) 03:38:44
*『生長の家』(昭和26年6月20日の法語)より
若し何事かが起って貴方の心を悩ますならば、
その問題の解決は その問題に就いて悩むと云うことではないのである。
問題の解決法は、
第一、問題から「 悩む心 」を放つことである。
第二、その問題を神に委ねることである。
如何なる条件が起ろうとも「 神の愛の御手(みて)が護っており、
すべての人々に最もよいようにこの問題が解決せられるに相異ない 」 と思念して、
その思念の通りになることを信ずるが好いのである。
愛する子供や、愛する良人(おっと)や、愛する妻について、
その病気や、その素行について疑うな。
すべての人々の内には神が宿っていて
それみずからを健全の方向へ導いているのである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127 )
<感謝合掌 令和2年9月8日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2020/09/14 (Mon) 02:55:13
*「光明法語」(9月14日)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは
考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和2年9月14日 頓首再拝>
本当の廻心とはまかせる心になること - 伝統
2020/09/23 (Wed) 04:49:10
*「光明道中記」(9月23日《空をも捨てて自由を得る日》)より抜粋
【空にして一切を破(は)しおわらば空も応(まさ)に待つべし。智度論。
(『仏教の把握』)】
信心する人は、自然腹を立てたり、悪いことを犯したり、
念仏の同信者たち互いに口論することがあったりしたら
よく廻心(くいあらため)して二度とそんな罪を犯さないようにしなければ
救われないと言う人があるが、
それは自力で悪を断じ善を修して、救われの原因とするのであるから
本当の他力信心ではないのである。
本当の廻心とは心が三百六十度転回して、
自力を捨てて、仏の本願にたのみ切って、
そのまま私のはからいをせず、まかせる心になることなのである。
<感謝合掌 令和2年9月23日 頓首再拝>
神に 「 自分 」 を明け渡すのだ - 伝統
2020/10/27 (Tue) 04:49:00
*『 生長の家 』(昭和26年7月9日の法語)より
~《神とはどんな難問題をも解決したもう》
神は すべての渾てであるから、
神は 外にも内にも到(いた)る処に いますのである。
何事が起って来ようとも、
問題が起るのは 解決があるから起るのであるから
心配することは 要らないのである。
解決が出来ないのは 智慧(ちえ)が足りないからである。
神の智慧をもって来さえすれば どんな問題でも解決出来るのである。
神の智慧をもって来るのはどうするか、
神にその問題をわたしてしまえば好いのである。
神に 「 自分 」 を明け渡すのである。
「 神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
神よ、あなたは無限の愛であり、無限の智慧であられます。
だから必ず此(こ)の問題をすべての人の幸福になるよう
解決して下さいます 」
このように祈るが好い。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e611a8076c6ee4611c171ace03a28c2
<感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2020/11/13 (Fri) 04:53:39
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。
合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 令和2年11月13日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2020/11/29 (Sun) 04:58:26
*「光明法語」(11月29日の法語)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和2年11月29日 頓首再拝>
満ち引き - 伝統
2020/12/15 (Tue) 04:44:54
Web:かんながら(2020.12.07)より抜粋
あなたがいま落ち込んでいようと、喜びの絶頂にいようと、
どちらも来ては去っていく一時のものです。
人は人生の中で、楽を引き寄せ、苦を遠ざけようとしますが、
それは海に向かって満ち潮だけに固定しようとするようなものです。
大切なのは、寄せては返す波と共に生きること。
この姿勢を絶対他力と呼びます。
(https://abetoshiro.ti-da.net/e11759995.html)
<感謝合掌 令和2年12月15日 頓首再拝>
「ようこそ ようこそ さてもさても」~因幡の源左 - 伝統
2020/12/29 (Tue) 04:41:26
*Web:仏教人生大学(2015年03月の法話) より抜粋
源左(げんざ)は天保十三年(一八四二年)四月十八日に
鳥取県東部の因幡(いなば)に生まれ、
妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた念仏者です。
そして念仏の教えを言葉に残して、
昭和五年二月二十日に八十九歳で浄土に還りました。
さて、源左は十八歳で父親と死別しました。
父親は、「おらが死んだら親様をたのめ」と遺言しますが、
源左は意味が分からずにお手次の本願寺派願正寺(がんしょうじ)の
住職から念仏の教えを聞かれます。
そして三十歳の夏の日にデン(鳥取県山根の方言で牛のこと)を
連れて山へ草刈に行きました。
そして山から下りる時に刈った草を束ねてデンの背中に載せようとしますが、
「デンも苦しいだろうから」と、自ら草を担いで下ります。
しかし途中で重くて歩けなくなり、
デンの背中に載せた時に”すとん”と楽に成ったそうです。
源左はこの時に遺言の意味を知りました。そのことをこの様に話しています。
「ここがお他力か、わがはからいではいけんわい、
お慈悲もこの通りだと気付いてなあ。デンに知らせてもろうてなあ。
デンはおらあが善知識(ぜんぢしき)だがやあ。
この朝長い間の夜明けをさせてもらっただいなあ。
おらデンめに、ええご縁をもらってやあ。
帰りにゃ親様のご恩を思わせてもらいながら戻っただいなあ」
(『妙好人を語る』NHK出版)と言われています。
源左は住職を訪ねて喜びを確認すると、「源左そこだ」と言われて、
この日を機縁に心配事が無くなりました。
源左が気付いたことは宿業の身です。
この業苦に苦悩する源左を助ける如来のはたらきに
背を向けていた我が身の愚かさを知ったのです。
父親の遺言の意味は、
「自分の思い通りに成らない身を如来に任せて如来の願いに生きよ」
ということでした。
源左はこれを機に、「ようこそ、ようこそ、さてもさても」の
言葉が口癖に成りました。
このようこそとは因幡の地方の方言で、「ありがとう」です。
ですから、
「阿弥陀如来がこの源左を助けるぞと良く誓って下さった。
ありがとう、ありがとう」
という意味です。
このことが転じて源左の生き方が、「ようこそ、ようこそ」と、
境遇を受け入れる、「包容」の姿勢に転じて行きました。
(https://bukkyo-seikatsu.jp/hougo/298/ )
<感謝合掌 令和2年12月29日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2021/01/19 (Tue) 04:46:34
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから
神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和3年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2021/01/25 (Mon) 02:46:04
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 令和3年1月25日 頓首再拝>
《神にのみ頼れ》 - 伝統
2021/01/29 (Fri) 03:33:18
*「光明法語」(1月29日)より
吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。
吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。
だからその祈りの言葉が如何にまずくとも
そんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。
唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。
<感謝合掌 令和3年1月29日 頓首再拝>
風流な人~味わい深い人生を送るためには - 伝統
2021/02/16 (Tue) 06:22:06
*『「そ・わ・か」の法則』小林正観・著
~メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.01.18)より抜粋
たとえば、時速10キロで流れている川にボートを浮かべているとき、
人は「漕(こ)がなくてはいけない」と思ってしまいがちです。
ボートを浮かべて「そのまま流れ下っていいんだ」と教えられてはこなかった。
時速10キロの川の流れに対して、上流に向かって時速10キロで
漕いでいる人は、外から見ていると、少しも動いていません。
「あの人、いったいいつまで同じところにいるのかな」という状態。
大汗かいて、「こんなに私は、努力してがんばっているのに、
なぜ、人生変わらないの」と本人は嘆く。
しかしそれは、上流に向かって漕いでいるのかもしれません。
流れに逆らっている。
じゃあ、今度は、下流に向かって漕いでいる人はどうか?
左右の岸にすごく面白い人たちがいるにもかかわらず、
動きが速すぎて、その人たちに手を振っている余裕がない。
笑顔を交わすことすらできない。
結果として、ものすごい速さで流れ下っていくのですが、
その先は、ナイアガラの滝のようになっている。
わざわざ急いで行かなくても…。
ナイアガラの滝というのは、つまり死というものです。
人間の肉体の死です。
自分は、一生懸命やっているつもりでも、もしかしたら、
死に急いでいるということかもしれません。
では、味わい深い人生を送るためには、どうすればいいか。
川の流れに舟を浮かべているだけ。
漕がない人生はどうかといえば、左右の景色を楽しみ、
風を感じながらゆったりと流れていく。
それが、とても豊かな選択のように思えます。
この流れをあれこれ変えようとせずに、「おまかせ」してみてはどうでしょうか。
身をゆだねるとは、そういうことです。
そして、ゆだねはじめた人からは、ほんわか温かい空気が漂ってきます。
おまかせした人は、生き方もしなやかですから、
まわりの人はその人に対して「あれやって」「これやって」と
いろんなことを頼みたくなるようです。
とても頼まれやすい人になる。
そのときに「自分は今まで何も考えないで、のほほんと生きてきたけど、
頼まれごとを引き受けることが、生まれてきたことの意味かな。
喜ばれることかもしれないな」
と思いながら、あちらに動かされ、こちらで楽しい人々と出会い、
というのをやっていくことになります。
さらに、流れを素直に受け入れれば受け入れるほど、
宇宙はどんどん示唆をくれるようになります。
すると「どうも自分はある方向に向かって、
同じようなことを頼まれているようだ」と感じはじめます。
ある人は、心安らげる場所を提供する。
ある人は、子供たちと笑顔で接する。
というような、ある種の方向性みたいなものに気がついてきます。
そうしたら、そのまままわりの皆さんが持ち込んでくることを、
もう何も考えずに、ただやっていけばいい。
不思議なことに、自分で努力目標を立ててがんばっていたころよりも、
風に吹かれ、川に流されて生きるほうが労働量が多かったりするのですが、
好き嫌いを分けない心になっていると、
悩んだり苦しんだり迷ったりすることが少なくなる。
精神的なストレスがなくなって、元気でいられます。
私も20年くらいかけて、一切抵抗しないで、宇宙が「こうしましょう」と
示唆している流れに舟を浮かべて下っていく、という生き方になってきました。
“風”に従い、“流れ”に従う。
こういう人を、「風流な人」と呼びます。
「風流な人」でいることは、
人生の喜びを優しく感じることができる生き方のようです。
<感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>
すべての労苦の重荷を霊に引き渡す - 伝統
2021/02/26 (Fri) 03:21:37
*「心と運命」(P205~206)より
斯様にして吾等は、吾等自身の想念の刺激に応じて活動する
「法則」を観察の根拠として、事物が此の世に実現する過程を
研究し来たったのである。
此の場合「宇宙の心」は受動的に創造の能動者(はたらきて)として
作用するのであるが、それに対して吾ら自身の想念が、
現実的事件となって示現する第一動を与えた訳である。
吾等の選択は、
無相不偏の「宇宙の心」に提示したる意思の全てである。
斯様にして智慧の目を開かれた吾等は、
宇宙霊が自己の問題のために、活(はたらい)ていますことを
如実に自覚するように自己に対して命じ、
然る後、自己の健康、財福及び幸福について、
宇宙霊が創造の模型となすための雛型を選定する時、
神の如きはたらきをなすのである。
人の心がこの高揚した一点に達する時、
彼はすべての労苦の重荷を霊に引き渡して了(しま)う
ことが出来るのである。
その人はあらゆる苦闘を止めて了う。
何故なら彼は彼の観念をしずかに述べる。
そして唯それだけで「霊」がやがて自己の欲する事物を
自己のために成就し給うべきことを知るからである。
否更に進んで、
現にそれを成就しつつありたまうことを知るからである。
「宇宙の本体」は全能力を挙げて、
斯かる人に於いてその顕現をつづけるのである。
<感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>
神に一致する - 伝統
2021/03/14 (Sun) 02:21:08
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月14日)」より
現象界においては時節が事を成就する。
時節に乗ると乗らぬとは、成敗(せいはい)の基(もとい)である。
時節に乗る秘訣は神に一致すること。
神に一致するには、《今ある》状態をまずありがたいと享受して、
そこで百%を行ずること。
急ぐはことを破壊し、急ぐ息はセク息である。
<感謝合掌 令和3年3月14日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2021/03/28 (Sun) 04:53:55
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 令和3年3月28日 頓首再拝>
《難問題を神に委(ゆだね)よ》 - 伝統
2021/04/03 (Sat) 01:52:19
*『 生長の家 』(昭和26年4月3日の法語)より
どんな借金でも神なら払えるのであり、
神にまかせて解決しない問題は無いのである。
「 神様、この問題は肉体の人間としての私には解決することが難しいのです。
しかし神様は 無限の愛であられます。無限の智慧であられます。
貴方(あなた)様の智慧によって解決しない問題はないのでございます。
貴方様の愛によればすべての事がすべての人の幸福になるように
解決することが出来るのでございます。
この問題を、神様あなたに委ねます。
あなたはこの問題をすべての人の幸福になるよう調和した状態で
解決して下さいます。 」
こう神想観中に繰返し念ずるようにするならば
自然に解決の途(みち)が開けて来るものである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12198708.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>
《神と共に戦う者は平安なり》 - 伝統
2021/04/08 (Thu) 03:14:01
*『 生長の家 』(昭和25年4月8日の法語)より
困難に面して自分の力を以(もっ)て戦うと思うな。
自分の力で戦うと思うものは、
力が尽きてしまって結局 挫折してしまうのである。
自己の内に宿る神の力に頼る者は
永遠に挫折するということはないのである。
ここに無我全托(ぜんたく)の全勝である秘密があるのである。
自分が謙遜(けんそん)になった時にのみ
神は力を与えて吾々を支え給(たま)うのである。
神は常に自分を護(まも)り給い 幸福にし給い、平和を与え給うのである。
どんな困難が来た時にも 自分の力で それに対抗しようと思ってはならない。
「 吾 神と共にあり、吾 神と共に生く、何をおそれんや 」 と
念じ乍(なが)ら進むが好(よ)いのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786986.html(消滅)
<感謝合掌 令和3年4月8日 頓首再拝>
《自分が無くなり神に全托すること》 - 伝統
2021/04/09 (Fri) 02:57:56
*『 生長の家 』(昭和25年4月9日の法語)より
吾は 今 神の無限の力に信頼 して、
すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。
私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。
私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
自分の生命を神に全く うち任せたのである。
‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。
「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
いい給うているのが それが神であるのである。
神にすべてをまかす吾は強いのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月9日 頓首再拝>
《神と一体となりて仕事をするには》 - 伝統
2021/04/26 (Mon) 04:52:29
*『 生長の家 』(昭和26年4月9日の法語)より
神にすべての仕事をゆだねよ。
神にすべての仕事をゆだねると云っても
自分が何事もなさないと云うことではないのである。
自分が神の力の流れ出(い)ずる
パイプとなり出口となると云うことである。
何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。
すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。
すべての仕事を神に導かれ為すところの
自己向上の途(みち)であると思ってなせば
楽しく好成績に順潮に運ぶのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月26日 頓首再拝>
神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない - 伝統
2021/05/11 (Tue) 04:52:20
*「光明法語」(5月11日《喜びの青空に出る道》)より
海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。
墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。
今有(も)てる何物かを失った時には、
それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、
喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。
かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。
神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。
<感謝合掌 令和3年5月11日 頓首再拝>
《神が汝をつかんでいる》 - 伝統
2021/05/12 (Wed) 03:39:53
*「光明法語」(5月12日)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和3年5月12日 頓首再拝>