伝統板・第二

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神への信 ③ - 伝統

2019/12/15 (Sun) 04:25:45

自分の天分能力を遠慮するな  

         *「幸福を招く365章」(P104~105)より

あなたは神の子であることを信じなさい。

神の子は無限の力が自己の内に蔵されているのですから、
それを打出の小槌を掉(ふ)るように、掉(ふ)り出しさえしたら
無限の力があらわれて来るものだということを信じなさい。

あなたに無限の力があらわれて出ないのは、
あなたが、迷いによって自分の力を悟ることを抑えているか、
それを掘り出すのに努力しないからであります。

神の子は「自由」でありますから、あなたが自分でその無限の力を
認めようとしない限り、その無限の力を認めさすように強制さす力は
他(た)にないのであります。

その代わりまた、あなたが無限の力をあらわそうと欲せられる限り、
それを抑えたり、止(と)めたりする者は何者もないのであります。

あなたに許されている無限の力をふんだんに自由におつかい下さい。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神への信」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6948104

(2)伝統板・第二「神への信 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7753997

           <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>

人間の本質に対する自覚が信である。 - 伝統

2019/12/19 (Thu) 04:50:41


         *「光明法語」(12月19日《汝は何者であるか》)より

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

           <感謝合掌 令和元年12月19日 頓首再拝>

信仰の真髄 - 伝統

2020/01/08 (Wed) 04:32:54


       *昭和42年 新年祝賀式における御言葉 より

自分が救われたいと思っている人は、まだ信者ではないので、
人を救う側に立って、はじめて信者であり神様の側に立つので 
・・・・・ ただ神誌を読んで、ああいい思想だ、これを応用して、
自分が健康になり、自分の仕事が繁昌して、なんて考えている人は、
まだ未信者であるといわねばなりません。


今は国家にとっても重大な時でありますから、
自分だけが助かるのではなく、人に施す側になっていただきたい
と切に思うわけであります。


人を施す側になるのでも、自分が神様の御用をしてやっているのだというように、
傲慢な考えをもっては、本当にお蔭はいただけないのであります。 

神様から御用をさせていただく、その使命をおゆるし頂く、
それを光栄として人を救うことに励むのですね。

神様からさせて頂くこの光栄、この有難さですね。 
この境地になって道を弘めて行くということに本当の法悦という悦びが出て来るのです。 
こういう態度が信仰には尊いのです。

           <感謝合掌 令和2年1月8日 頓首再拝>

“行動なき信仰” と “信仰なき行動” - 伝統

2020/01/24 (Fri) 04:52:56


          *『白鳩』(昭和40年7月号)より

『汝ら求めてなほ受けざるは慾のために費さんとて妄りに求むるが故なり』 

とヤコブの言葉は金を儲けたいと想いながら、中々儲からず、損をする人たちに
適切な金言であるといわなければならない。

慾を棄てて人類の希望と人類の魂の向上とに奉仕するために、
あなたが誠意ある行動を行えば、自然に福田がつくられて、家庭は幸福となり、
現象界の富もおのずから得られる事になるのである。

 
行ないなき信仰は空念仏であり、功徳は乏しいのである。 

ヤコブは言う、 
『ああ虚しき人よ、なんぢ行為(おこない)なき信仰の
徒然(いたずら)なるを知らんと欲するか ・・・・・ 』 と。 

しかしまた信仰なき行動は、 
“吹く風” “揺れる地震” のようなものであって、
ただの盲動となるのみであって、自己を生かさず、
また他(ひと)を生かす事ができないのである。 

毎朝怠らず神想観を修して信仰を深め、神の “声なき声” に耳を傾け、
神の導きに従って行動するならば、
毎日の行ないが一々肯綮に当り、希望が成就し、自己を生かし、他を生かし、
自己の行為が世を照らす光となる事ができるのである。

           <感謝合掌 令和2年1月24日 頓首再拝>

信仰と人生 - 伝統

2020/02/09 (Sun) 02:28:01


          *『生長の家』(昭和24年7月号 巻頭言)より

信仰の生活は安易なイージーないい加減なものではない。

併し信仰によって神につながる時、
我らは神の愛の慈手によって導かれ、ついに困難をのり切るのである。 

レースに於ける競争者は殆どまけそうになる所でテストされると云われている。 
競争中彼は何回も、何回ももう抜かれるかも知れない。負けるかも知れない
というキワドイ瞬間を経験する。 

然も彼は走り続ける。 
もうこれ以上耐えることの出来ない限度が幾度も来たと思いながらも
不思議な力に支えられてそれを突き抜けて行くのである。 

斯くの如くして彼は、信仰につながる忍耐のゆえに、
ついにレースの優勝者となるのである。


信仰の開拓にも同じことが言えるのである。 
吾々はもう続けることが出来ないと感ずるような苛烈な人生体験に面するのである。 
もう事業の根拠は失われ、生活の地盤は崩れ、わがたよりたる城は落ちてしまった
と云うような苦しき苦い体験に出喰わすることがある。 

このような時に信仰なき者は 『神も仏もなくなった』 と考える。 
しかし吾々が神の善意を信じて最後まで持続するならば、
またどんな高価な価を払おとも最後まで行きつこうと決心するならば、
やがて吾々は筆紙に尽すことの出来ない信仰の悦びを得ることが出来るのである。 

その時、労しただけのお蔭があるとわかるのである。

信仰への途は、最初は安易な御利益信心から出発する。 
そして有頂天となり、やがて中途で光を失って大いに悩む。 
それは最初に見せられた光であり、自分が見出した光ではなかったからである。 

しかし一度見た光を見失うまいと勇気を鼓して進むときついにその目標に到達する。 
其の時始めて彼は自分の蒔いた光の種を刈り取るのである。


http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p3.html
07/16/13

           <感謝合掌 令和2年2月9日 頓首再拝>

《病気や不幸を信じてはならぬ》 - 伝統

2020/04/27 (Mon) 04:07:55


         *『 生長の家 』(昭和26年4月27日の法語)より

   あなたは「 神 」 を信ずるか、「 現象 」 を信ずるかです。
   現象にあらわれている「 病気 」を実在であると信ずるのも信仰です。

   自分は信仰がないと云う人も、実は何かを信じているのです。
   恐らく「病気」を信じているか、「不幸」を信じているのでしょう。
   だからこそ「病気」になり「不幸」になっているのです。

   それよりも、「神」を信じなさい。
   神がすべての創造主であり、神は「善」であるから、
   「善」なる神が病気や不幸を決して創造(つく)らないと信じなさい。

   しからば、今あなたに現れている病気は、不幸は、一体何ですか。
   それは貴方の信仰の反映です。

   映画の如く、あなたの信仰の波があらわれているのです。
   信仰をかえなさい。幸福になり、健康になれます。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12251301.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月27日 頓首再拝>

《信仰の本質は「知る」にある》 - 伝統

2020/04/28 (Tue) 04:45:58


       *「光明法語」(4月28日)より

神に対する信仰を深めるためには、神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

            <感謝合掌 令和2年4月28日 頓首再拝>

《神はすべてを知っていられるのです》 - 伝統

2020/05/09 (Sat) 04:36:50

          *「真理」第9巻生活篇第3章(P78~79)より

人生には色々の問題があります。
それは、山獄重畳(さんがくちょうじょう)の山道(やまみち)を
縦走するようなものです。

向(むか)う側の山には如何なる道がついているか、
そんな樹木が生(は)えているか、
どんな美しい景色があるか、
それは人間の智慧や感覚では見えないのです。

何が明日おこるかも予知することができないのが人間です。
そんな時に私たちを導いてくれるものは「信」であります。
神はすべてを知りたまうのです。

その全ての智慧に接触して導かれさえすれば、
どんな人生の山道(やまみち)の迷路にさしかかっても
安全に其処を通過することができるのです。

ある人は人生に問題が起るごとに

「あゝ神よ、私はあなたを信じます」

この簡単な語(ことば)を心の内で繰返しながら、
神の中に自己放棄するのでした。

自己放棄と云うのは全く「自分考え」を棄(す)ててしまって
神への委(まか)せ切りの心境になるのです。

すると自然に回答が得られ、事が順調に進んで行くのでした。

            <感謝合掌 令和2年5月9日 頓首再拝>

吾は吾を唯幸福にのみ導き給う神を信ずる - 伝統

2020/05/24 (Sun) 04:52:49


        *『 生長の家 』(昭和25年5月2日の法語)より

外の世界に如何なることがおこって来ようとも、
吾は吾を唯幸福に導きたまう神のあることを信ずるのである。

吾々は現在の状態を人間の努力によって変化しようと力む必要はないのである。

「 吾が業は吾がなすに非(あら)ず天地(あめつち)を貫きて生くる み親の力 」 と、

信ずるのである。


どんな時にも神に頼って居(お)れば、
神がその時その場に適当なことをなすべく導いて下さるのである。

これを信ずるが故に吾は常に心の平和と安静とを保ち得て、
落ち着いて何事もなすが故に
如何なる暗黒をも光に変ずることができるのである。

            <感謝合掌 令和2年5月24日 頓首再拝>

神は犠牲を要求し給わぬ - 伝統

2020/06/25 (Thu) 04:13:44


       *『 生長の家 』(昭和25年5月23日の法語)より

犠牲が必要であると思い、受難が必要であると思うのは、
神が造り給うたこの世界に、何か足りない所があって

自分の犠牲や受難によって、
それを補うてやらねばならないのだというような、
神の創造の完全さを信じない増上慢の心から生ずるのである。

神の造り給うた此の世界は、
人間の犠牲によって補わなければならないという様な
そんな不完全なものでは決してないのである。

犠牲も要らず受難も要らず、
唯 神の完全なる生活を営ましめんと欲し給うのが
神の み心であるのである。

            <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>

神への信 - 伝統

2020/07/09 (Thu) 04:49:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、今が、そしてその状態が自己の魂の進歩
にとり最善の時であり、最高の機会なのである。われわれがわれわれ自身を見出すところの
今の環境が、その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから御心を行じていてわれらは決して
乏しきことはありえないのである。神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、すべてはよくなり自己に来る
すべての事件は最初はいかに見えても好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、荊棘(いばら<けいきょく>)は
切りひらかれ、道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。

            <感謝合掌 令和2年7月9日 頓首再拝>

神と直通する道 - 伝統

2020/07/17 (Fri) 06:31:05


      *「光明法語」(7月17日)より

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

            <感謝合掌 令和2年7月17日 頓首再拝>

信念は万事を成就する - 伝統

2020/07/27 (Mon) 03:54:52


       *『 生長の家 』(昭和26年6月14日の法語)より

人は信ずる通りのものとなり、信ずる通りにその事業が成るのである。

信仰は勝利の第一の要素である。


「 神われと偕(とも)に在り 」と常に心の中(うち)で呟(つぶや)け。

それが重なる毎(ごと)に信仰は強くなり、
何事でも成就する智慧が湧き出て来るようになるのである。

「われは神と偕に何事でも為すがゆえに、自分は如何なる事態に処しても過ちなく
 物事を処理することが出来るのである。わが内より神の智慧は湧き出でるのである。
 神はわが内に宿りたまいて、内より自分を助けて い給うのである。
 われは神想観中に必ず神の導きの声をきくのである 」

かく念じつつ 神想観すれば必ず昂(たか)まるのである。

            <感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統

2020/08/09 (Sun) 03:15:51


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月9日)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

            <感謝合掌 令和2年8月9日 頓首再拝>

信仰を深くするには - 伝統

2020/08/13 (Thu) 04:44:02


       *『生長の家』(昭和25年6月24日の法語)より

毎朝毎朝が新生である。
自己の生活に神が実現する機会であるのである。

吾が如何に不幸な環境にいようとも、又信仰が浅くとも、
目がさめた時、吾が心ぼんやりしている時、

「 吾は神の子である、神が吾を幸福にし給うのである。吾神を信ず。 」

と二十回ずつ静かなる声にて自分自身にささやきかけよ。

言葉の力によって自から信仰が深まって来るのである。


又 眠りしなにも その通り念じながら眠るのである。


おこたらずこの行事をはげめば、
やがて信仰が深まり幸福が訪れるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )

            <感謝合掌 令和2年8月13日 頓首再拝>

「神一元の世界」「唯神実相」を信念とする - 伝統

2020/08/25 (Tue) 04:32:28


        *『生長の家』(昭和47年新年号)より抜粋
         ~自己を冒すものは、自己の想念である

神想観を毎朝夕1回20分乃至30分間実修せよ。
どんなに忙しくとも1回は必ず実修せよ。

而して、自己が神の子であり、物質身ではなく、
霊身であることを自己の想念に深く印象せよ。

自分を扶けるものは、自分の信念のほかにはないのである。 
信念を強化し得た程度に従って、あなたは何物にも冒されず、
傷つけられることはないのである。


『天地一切のものと和解せよ』 との神言を
自己の生活に実践するための根本となるものは先ず、
この世界が 「神一元の世界」 であると 「唯神実相」 を深く理解し、
それを信念としなければならないのである。

もしこの世界が一元の世界でなく、
目的や想念を異にするところの “多元” より発生したものであるならば、
目的と目的とに食い違いや衝突を生じ、根本的に完全に和解し得ない原因を
内に蔵していることになるのである。

それ故に、先ず、この世界の一切のものは、
叡智ある唯一神によって創造せられたものであり、
その唯一神のほかには、如何なる積極的に実在する力も存在しないことを、
心にハッキリ承認すべきである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p18.html
December 27, 2013, 3:18 am

            <感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>

信心は内部に宿る仏性の催し - 伝統

2020/09/12 (Sat) 03:20:16


       *「光明道中記」(9月12日《神に催される日》)より抜粋

 【吾が生命は、よき水脈に穿たれた井戸のように汲めども尽きぬ。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

「信心よろこぶそのひとを如来とひとしと説き給う。
 大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」
と『弥陀和讃』に親鸞聖人がお説きになっている。

信心は内部に宿る仏性の催しなのである。

而も仏性はどうして内部から開発され催して来るのであるのか。
善智識に遭い又は善き書物に触れることである。

善智識に遭い、善き書物に触れるのは「自己のつくれる過去の業」によるか
 ―― そうすれば、自力となるのである。

然らず、それは如来より廻施(えせ)せられたる機縁である。仏縁である。

仏縁おろそかならず、善智識はその人にとり弥陀であり、
善き書物はその人にとり弥陀の説法である。

            <感謝合掌 令和2年9月12日 頓首再拝>

自然な信心 - 伝統

2020/09/15 (Tue) 04:55:53


       *「光明法語」(9月15日《肩の荷を卸(おろ)す日》)より抜粋 

 【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、
「たまわる」のである。

凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って自然に信心したくなるのである。

それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って
自然に赤ん坊が****を吸うことを知るようなものである。
****を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。
そう思えば自力で救われるところは一つもない。

みんな仏様のお計らいであるから、
念仏も自分が往生極楽の行を積むというような偉そうな気持でなしに、
如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。

            <感謝合掌 令和2年9月15日 頓首再拝>

人は、自力によってはなく、神の約束(仏の本願)により救われるのである - 伝統

2020/09/16 (Wed) 04:09:44


       *「光明法語」(9月16日《価(あたい)なくして受ける日》)より抜粋 

 【汝のニセ物の仮面を剥げ、ニセ物の罪状をあらわにせよ。(『生命の實相』第十一巻)】

聖書(バイブル)の中に、イエスは譬(たとえ)をもってこのことを説いている。

或る葡萄園の主人が、朝雇い入れた園丁も、昼雇い入れた園丁も、
夕方もう仕事の終りころに雇い入れた園丁も、同一の給料を支払った。
そして葡萄園の主人は神であり、働き人は人間の譬えである。

この実話によってイエスは、人の救われるのは、その働いた分量によるのではなく
神の約束(仏の本願)による事を示し給うたのである。

            <感謝合掌 令和2年9月16日 頓首再拝>

人間の本質に対する自覚が信である - 伝統

2020/12/19 (Sat) 06:10:48


       *「光明法語」(12月19日 《汝は何者であるか》)

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

            <感謝合掌 令和2年12月19日 頓首再拝>

実際の尊い体験 - 伝統

2020/12/21 (Mon) 06:59:25


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、
昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、
昨日(きのう)お礼申し上げようと思いましたが、
他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
遠慮いたしましてつい今日に延びました。

実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、

昭和9年、谷口先生のお山に伺って、
いろいろお話をうけたまわりましてからは、もうそのことは
全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、
そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。

そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが

『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
もしものことがあったら、あなたを当てにして
喜んであつまる人を困らせはしないか。

そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、
誌友会の日は自動車で来たらどうか』

という忠告を受けたくらいでありますが、
それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、
それを避けようと思って、避けようとした瞬間、どうしたものか、
《ずーん》とその川縁(かわぶち)から中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。

ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。

普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたように
ズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで
落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
と言うので、見ますと、なるほど落ちています。

荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

此の服を着ておりましたが、
どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
帰ってきました。

実に尊い。
私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』
という感じがなしに、ただふわふわと『神の子だ! 』
というような感じで、そこに落ちて行った。これがありがたいのです》。

これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことに
よってこういう気持になることができたんだろう、

帰りましてさっそく神想観をし、私を最初に導いてくださいました
福島博先生にお会いしまして、こういうわけで今日こそ
実にありがたい体験をしました、

ありがたくてしかたがないと言って私はお話をしたのであります。

すると福島さんは『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。
早くから蚕をしても、人は外(はず)すというのに、
あなたは安く桑を買って、誰も豊作したという人はない今年に、
いつもより1割以上も成績をあげていながら、

それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生に
お礼に行くように神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』

と言うので、実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、
今日(こんにち)まで50年間蚕に従事しておりますが、
お導きをいただきましてから4、5年この方、
蚕は必ずうまくゆくものであるという確信を持たせていただいております。

それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、
天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。

それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様と
お詣りしてあるきます。

それが本当の信心なら結構でありますが、
あちらこちらと諸方の神仏を渡り歩く心持の中には
つまり確信が無い、確信を持っておらないから

あちらの神様を拝みながらそれを信じきれずこちらの仏様を拝む、
そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。


ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、
本当に『お蚕さん』として『あなたは立派なお蚕さん』として
その仏性神性を拝むようにしていったところが、
当たり外れがなくなってしまった。

お蔭さまで、蚕の飼育については
自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまい
というくらいの信念をもって働かせていただくようになりました。
お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、
実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 令和2年12月21日 頓首再拝>

全き信仰を以て神の愛を信じる - 伝統

2020/12/22 (Tue) 04:56:09


       *「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。
                    (『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

            <感謝合掌 令和2年12月22日 頓首再拝>

《常に神吾を導き給うと信ぜよ》 - 伝統

2021/01/11 (Mon) 02:33:13


         *「光明法語」(1月11日)より

朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも
祝福されたる日であると信ぜよ。

而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。

然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。

また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。

しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。
然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。

            <感謝合掌 令和3年1月11日 頓首再拝>

《神は親であり吾は神の子である》と信ぜよ - 伝統

2021/01/12 (Tue) 02:53:42


          *「光明法語」(1月12日)より

神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。

神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、

自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。

         <感謝合掌 令和3年1月12日 頓首再拝>

《神常に吾に宿り給うと信ぜよ》 - 伝統

2021/01/20 (Wed) 04:57:33


        *「光明法語」(1月20日)より

吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。

されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。
吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。

吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。

吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。

吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。

         <感謝合掌 令和3年1月20日 頓首再拝>

常に神を信ずること - 伝統

2021/02/22 (Mon) 05:03:14


    *「光明法語」(2月22日《すべては神の導きである》)より

どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。
人間知恵で突進している場合、
それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。
そんな時、思わぬ事件が起って、その方向転換させて下さるのが神の導きである。

何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。

人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。

         <感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>

信仰の誤解 - 伝統

2021/03/07 (Sun) 03:39:17

 
         *『生長の家』(昭和23年8月号 編集後記)より

人間が自由な創造者であるか否かは、
古来多くの哲学者によって論ぜられて来た所である。

然しながら、人間が自由である為には、
少なくとも自分自身の運命や環境を自在に変貌し得るのでなければならぬ。 

そうでなければ、自由であると云っても主観的観念的な自由に留まり、
第三者の目から見るならば矢張り不自由な必然的な存在にすぎぬことになろう。

世人縷々口角泡を飛ばして人格の自由や尊厳を説きながら、
而も現実生活を光明化し得ず、自己の宿命に対して忍従している。 

忍従は敗北であり、諦観である。 
忍従は不自由であって自由ではない。 

凡そ現代の宗教が無力化している所以のものは、
運命に対する諦観や屈従を以て信仰と誤解している宗教家が多いからである。 

更に又、観念論哲学が論理的に極めて複雑高度な体系を装っているにも拘らず、
進歩的インテリ層の関心を惹くに到らないのも、
人間生活を現実的に変貌せしめ得るとの明確な確信を
その根底に持っていないからである。

今日唯物論が急速に弘まりつつあるのは、その説く所が、
社会的実践を通して人間生活を変貌し得ると云う事を
合理的に論証している事に由る。 

すべて人は幸福を求める。 
幸福を確約してくれないような、あやふやなたよりのない観念論や信仰に
満足している人があるとするならば、閑人か感傷家か社会的弱者である。

 
幸福と救済を約束するものこそ真実の宗教である。 

ただそれが唯物論と異なる所は、 
『今・此処に』 直ちに久遠の救済が現成することである。 

社会革命による方法は、反対者の反動を買うかも知れぬ、
現実の事情が許されぬ事もあるであろう。 
そこにはやはり制約を被らざるを得ない。

すべての人類が正しい信仰者となるならば、
社会改革の如きも、それが行なわれる可き最も適当な時に
スムーズに行なわれるい違いないのである。 (N生)

                
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p2.html
07/10/13--08:10:

         <感謝合掌 令和3年3月7日 頓首再拝>

《常に 「 父 」 に呼びかけよ》 - 伝統

2021/03/26 (Fri) 02:19:37


       *『 生長の家 』(昭和25年4月25日の法語)より

   神の意思は 人間の幸福ということである。

   神は 決して人間に罪を与えたり不幸を与えたりしようと
   計画しては いられないのである。

   神は 吾らを富ましめ、吾らの病を癒やし、
   吾らの家庭を幸福にならしめるべく
   内から導いておられるのである。

   その導きに従わないで、楽園の外にとびだそうとしているのが
   我(が)の人間であるのである。

   まず 神の善を信ぜよ。神の無限力を信ぜよ。
   神が常に恵み深き吾が父であることを信ぜよ。

   そして時々 「 神よ 吾を導き給え 」 と念じながら
   目をとじて 新たなるよき想念が天降って来るのを
   まつことにするがいいのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13845881.html(消滅)

         <感謝合掌 令和3年3月26日 頓首再拝>

御心を信じる - 伝統

2021/04/15 (Thu) 02:36:38


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より

「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。

「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。

こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。

            <感謝合掌 令和3年4月15日 頓首再拝>

《病気や不幸を信じてはならぬ》 - 伝統

2021/04/27 (Tue) 04:54:01


          *『 生長の家 』(昭和26年4月27日の法語)より

   あなたは「 神 」 を信ずるか、「 現象 」 を信ずるかです。
   現象にあらわれている「 病気 」を実在であると信ずるのも信仰です。

   自分は信仰がないと云う人も、実は何かを信じているのです。
   恐らく「病気」を信じているか、「不幸」を信じているのでしょう。
   だからこそ「病気」になり「不幸」になっているのです。

   それよりも、「神」を信じなさい。
   神がすべての創造主であり、神は「善」であるから、
   「善」なる神が病気や不幸を決して創造(つく)らないと信じなさい。

   しからば、今あなたに現れている病気は、不幸は、一体何ですか。
   それは貴方の信仰の反映です。

   映画の如く、あなたの信仰の波があらわれているのです。
   信仰をかえなさい。幸福になり、健康になれます。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12251301.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月27日 頓首再拝>

《信仰の本質は「知る」にある》 - 伝統

2021/04/28 (Wed) 04:37:06


        *「光明法語」(4月28日)より

神に対する信仰を深めるためには、
神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

            <感謝合掌 令和3年4月28日 頓首再拝>

《あなたは既に救われる神縁になっている》 - 伝統

2021/04/30 (Fri) 03:40:14


          *『 生長の家 』(昭和26年4月30日の法語)より

   今、あなたが 「 生長の家 」 を披(ひら)いて読んだ瞬間に、
   あなたのすべての不幸の原因が 浄(きよ)められたのだと信ぜよ。

   信ずれば信じたとおりになるのである。
   あなたが「生長の家」を披いて読む気になったのは
   決して偶然ではないのであって、深い深い神のおはからいによるのである。

   此(こ)のおはからいを通してあなたは既に浄められたのである。
   この病気は治らぬのではないか、この店の不景気はどうにもならぬのではないか
   などと云う心配を心から放逐せよ。

   そのような心配や恐怖の雲が晴れてしまったときにのみ、
   太陽のように輝く実相の円満完全なる相(すがた)があらわれるのである。

   信ぜよ、あなたは神の生命の最高顕現として何等の欠点なく
   完全に造られているのだと云うことを。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12258903.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月30日 頓首再拝>

《信じて祈れ》 - 伝統

2021/06/06 (Sun) 04:31:50


        *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
           第3篇( P73~74) より

「汝らの中(うち)、もし智慧の説くる者あらば、また惜しむ事なく、
凡(すべ)の人に与うる神に求むべし、然(さ)らば与えられん。

但(ただ)し疑うことなく、信仰をもて求むべし。
疑う者は、風に動かされて翻(ひるが)える海の波のごときなり、
斯(かか)る人は、主(しゅ)より何物をも受くと思うな」と、
ヤコブ書第一章には書かれているのである。

吾々は神の子として、すべての善きものは与えられているのである。

しかし、時間空間で限られている現象界にすべてのものが、
一ぺんにあたわれて来たら却(かえ)って困るようになるので、
テレビと同じように自分の選ぶ番組をあらわすためにどのチャンネルに波長を
合わすか、選局の自由があたえられているのである。

そのチャンネルを合わす方法が信じて祈るということである。
信じて祈りて、「既にそれは与えられております。有りがとうございます」
と感謝するとき、放送局のスタジオで実演されていることが
テレビのブラウン管面にあらわれて来るように、

実相世界の善き番組のうち、求むる番組があなたの運命として
あらわれて来るようになるのである。

            <感謝合掌 令和3年6月6日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2021/06/12 (Sat) 04:34:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

           <感謝合掌 令和3年6月12日 頓首再拝>

神への信 - 伝統

2021/07/09 (Fri) 06:29:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、
今が、そしてその状態が自己の魂の進歩にとり最善の時であり、
最高の機会なのである。

われわれがわれわれ自身を見出すところの今の環境が、
その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、
そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、
事務所で働くこと、病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは
散文的な、あまり馨(かんば)しからぬように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、
神に対する義務のごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく
忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた日課を果たす
ということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、
また生活がわれらに齎(もたら)したるところのすべての位置において
全力を尽して試みることは、魂の向上の道に入るための日々の課業である
のである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、
それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、
人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。

すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、
またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから
御心を行じていてわれらは決して乏しきことはありえないのである。
神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、
すべてはよくなり自己に来るすべての事件は最初はいかに見えても
好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
 神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、
荊棘(いばら<けいきょく>)は切りひらかれ、道なき所に道を生じ、
砂漠に花咲き、豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して
湧き出ずるであろう。

         <感謝合掌 令和3年7月9日 頓首再拝>

神と直通する道は「信」である - 伝統

2021/07/17 (Sat) 02:15:24


          *「光明法語」(7月17日)より

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

         <感謝合掌 令和3年7月17日 頓首再拝>

神を信ずるとは - 伝統

2021/08/02 (Mon) 04:51:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 令和3年8月2日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統

2021/08/09 (Mon) 04:45:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月9日)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

      <感謝合掌 令和3年8月9日 頓首再拝>

「信」によって救われる - 伝統

2021/08/12 (Thu) 05:04:18


   *「光明道中記」(8月12日《業の消ゆる日》)より

【業は実際に於いて何処(どこ)にも実在するものではない。
                    (『生命の實相』第八巻)】

(歎異抄第一条)

   弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、
   ただ信心を要(よう)とすとしるべし。
   そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の
   衆生をたすけんがための願にまします。


弥陀の本願は、宇宙大生命の大慈悲そのものであるから、
老人であろうが、少年であろうが、善人であろうが、悪人であろうが、
問うところではないのである。

キリスト教の聖書には
「天の父は太陽の善人をも悪人をも照したまう如く、これを照し給う」
とあるのは、仏耶(ぶつや)真理を等しうしているのである。

ただ救われるのは、「信」によって救われるのである。
「信」は人偏に言(ことば)である。
人と神のコトバ即ち仏の誓願との一致である。

誓願とはコトバにほかならない。
仏の誓願と人間の心とが一致したとき、
人間は仏の誓願の中に溶け込むのである。

コトバは誓願であり、名号であり、本体であり、仏のイノチである。
仏のイノチの中に溶け込む時、
”そのまま救われている”実相があらわれるのである。

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、
 ただ信心を要(よう)とすとしるべし」
である。

私は「老少善悪を選ばす」のほかに、
「肉体の生死の前後を選ばす」と附け加えたい。

「肉体の生死」如何が「救われ」に関係があるなら
弥陀の救いに条件を置くことになる。

       <感謝合掌 令和3年8月12日 頓首再拝>

弥陀による救いは、絶対力にて行われる - 伝統

2021/08/13 (Fri) 04:56:20


   *「光明道中記」(8月13日《弥陀の本願ありがたき日》)より

【光明念波は「類に非ざる念波」を反撥して災害から逃れる。
                   (『生命の実相』第十三巻)】

   しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
   念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、
   弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。


そうだ、「弥陀」は「去って去る所なく、来って来るところなく、
生なく滅なく、過、現、未来に非ず」して空間時間生滅(しょうめつ)を
超越せる絶対存在であり給うが故に、
その救いは絶対力にて行われるのである。

弥陀の救いの本願は、大実在の御意志であるが故に、
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪は存在し得ないのである。
弥陀の本願力の前には「肉体」の滅不滅は何らの障礙にはなり得ない。

そこに生長の家の説く阿弥陀仏に至心廻向すれば
「肉体そのまますくわれている、此処がこのまま極楽浄土になる」
と云う真理が裏付けられるのである。

宇宙大実在の我を救いたまわんとの本願の絶対力の前には
何物も礙(さ)えぎることが出来ないと云うのは真理である。

そこに『歎異鈔』の「他の善も要にもあらず」
「悪をもおそるべからず」の根拠がある。

本願の絶対力に触れるとき、無限燭光の光に触れて暗黒が消え去るように、
「他力の善」がおのずから自然に行われて悪が自然に消え去る意味である。

       <感謝合掌 令和3年8月13日 頓首再拝>

神を信ずることの功徳は無限 - 伝統

2021/08/19 (Thu) 04:48:31


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の****をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 令和3年8月19日 頓首再拝>

《信じて待てば花が咲く》 - 伝統

2021/09/13 (Mon) 05:00:16


        *『 生長の家 』(昭和24年8月12日の法語)より

「 待てば 海路(かいろ)の日和(ひより)が来る 」という諺(ことわざ)がある。

好(よ)き運命を余り早急(さっきゅう)に得ようとしてこづきまわしてはならない。

折角 蒔(ま)いた種を、じれったがってほりかえしていては結局 何も得る所はない。

下がった株式は 必ず上がる時期が来るのである。
一つの会社がつぶれても外の会社が栄えるのである。

急ぐことや“ あせる ”ことは、
生命をすりへらしてしまう鑢(やすり)である。

ゆっくり構えて 然(しか)も信じて努力している人は常に大成するのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12791809.html (消滅)

      <感謝合掌 令和3年9月13日 頓首再拝>

金剛の信心 - 伝統

2021/09/15 (Wed) 05:03:30


    *「光明道中記」(9月15日《肩の荷を卸(おろ)す日》)より抜粋

【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。
                (『生命の實相』第十一巻)】

「弥陀の光明に照らされまいらする故に」
一念発起して金剛の信心が発現するのである。

金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、
ここにある通り「たまわる」のである。

凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って
自然に信心したくなるのである。

それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って
自然に赤ん坊が****を吸うことを知るようなものである。
****を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。

そう思えば自力で救われるところは一つもない。

みんな仏様のお計らいであるから、
念仏も自分が往生極楽の行を積むというような偉そうな気持でなしに、
如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。

      <感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>

《信なければ農夫は種を播くことすら出来ない》 - 伝統

2021/10/07 (Thu) 04:54:33


          *「眞理」第2巻基礎篇第9章(P231)より

自分の息子は「学校へ行く」と云って家を出たが、
果して学校へ行っているかどうか分らんなどと
疑うようなことでは親子の関係は成り立ちません。

息子は必ず「学校へ行く」と云って出たら
「学校へ行ったにちがいない」と信ずることによってのみ、
安(やす)んじて息子を学校へ通学させることが出来るのであります。

農夫が種を蒔いて収穫を得ることが出来るのも、
種を蒔けば必ず発芽し生長し、花が咲き実を結ぶと云う信仰が
あるからこそ、安(やす)んじて種を大地へ入れたまま数日又はそれ以上、
大地のなすがままに委せて置くことが出来るのであります。

そうでなければ、毎分、又は毎時間、
種(たね)が芽を出したかどうか疑って、掘り返し掘り返ししていたのでは、
ついに種子(たね)は折角芽を吹きかけていた芽も
摩擦のために傷ついて枯れてしまうのであります。

お食事をするのでも、この御飯に毒が混入していないと信じない限りは
一椀の食事もできないのであります。

      <感謝合掌 令和3年10月7日 頓首再拝>

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる - 伝統

2021/11/11 (Thu) 05:00:10


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。

ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。

なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

      <感謝合掌 令和3年11月11日 頓首再拝>

人間の本質に対する自覚が信である - 伝統

2021/12/19 (Sun) 05:00:51


       *「光明法語」(12月19日 《汝は何者であるか》)

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

            <感謝合掌 令和3年12月19日 頓首再拝>

実際の尊い体験 - 伝統

2021/12/21 (Tue) 04:57:57


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、
昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、
昨日(きのう)お礼申し上げようと思いましたが、
他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
遠慮いたしましてつい今日に延びました。

実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、

昭和9年、谷口先生のお山に伺って、
いろいろお話をうけたまわりましてからは、
もうそのことは全然忘れてしもうて、

冬でも、前橋で誌友会がありますので、
そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。
そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが

『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
 もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を
 困らせはしないか。

 そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、
 誌友会の日は自動車で来たらどうか』

という忠告を受けたくらいでありますが、
それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。

そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、
それを避けようと思って、避けようとした瞬間、どうしたものか、
《ずーん》とその川縁(かわぶち)から中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。

ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。

普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたようにズラリと尖っておって
実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで
落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
と言うので、見ますと、なるほど落ちています。

荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

此の服を着ておりましたが、
どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
帰ってきました。

実に尊い。
私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、
 ただふわふわと『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。
 これがありがたいのです》。

これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによって
こういう気持になることができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、
私を最初に導いてくださいました福島博先生にお会いしまして、
こういうわけで今日こそ実にありがたい体験をしました、
ありがたくてしかたがないと言って私はお話をしたのであります。

すると福島さんは

『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。早くから蚕をしても、
 人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、
 誰も豊作したという人はない今年に、いつもより1割以上も成績をあげて
 いながら、それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生に
 お礼に行くように神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』

と言うので、実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、
今日(こんにち)まで50年間蚕に従事しておりますが、
お導きをいただきましてから4、5年この方、
蚕は必ずうまくゆくものであるという確信を持たせていただいております。

それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、天の虫とか、
天の日の虫とか書いてあります。

それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、
こちらの神様とお詣りしてあるきます。

それが本当の信心なら結構でありますが、
あちらこちらと諸方の神仏を渡り歩く心持の中にはつまり確信が無い、
確信を持っておらないからあちらの神様を拝みながらそれを信じきれず
こちらの仏様を拝む、そういうふうに少しもそこに固い信念がないから
常に動揺しておって、自分の『蚕は必ず豊作である』などという
確信がございません。

その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、
本当に『お蚕さん』として『あなたは立派なお蚕さん』として
その仏性神性を拝むようにしていったところが、
当たり外れがなくなってしまった。

お蔭さまで、蚕の飼育については自分ほどの確信を持っている人は
他(ほか)にあるまいというくらいの信念をもって
働かせていただくようになりました。

お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、
実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 令和3年12月21日 頓首再拝>

《信仰はイザと云う時に力をあらわす》 - 伝統

2022/01/20 (Thu) 04:55:19


        *「眞理」第2巻基礎篇第9章(P255~256)より

新潟県の小出(こいで)タケさんは無学であるけれども実に信仰の深い人で、
この人に救われた人は数多いと小林春恵さんが、
長岡の講習会が終って新発田(しばた)へ行く途を、汽車の中で云われた。

小出さんは「お腹に雁(癌)がおろうが、鴨がおろうが、鳩がおろうが、
人間神の子だからそんなことを心配いらん」と云うような調子で、
直腸癌と診断されて心配している患者を治してしまったと云うのである。

全然病気の存在をみとめない信仰の深い人の言葉は、
恰度(ちょうど)キリストが「死せるに非ず、眠れるなり」と
医学的診断と全然異なることを断言してラザロを復活せしめたと同じように、
「癌(がん)」を「雁’がん)」と語呂合わせしながらでも
治すことが出来るのである。

或る日小出タケさんは、稲架(いねか)けに掛けて置いた
一段八畝(いったんはっせ)の稲を全部一晩中に盗まれてしまった。

家人があわて騒ぐのを制して、

「稲は盗まれても心まで盗まれるなよ」

と云って平然としていたと云う。

・・・

<参照>

上記の法語に関するものではありませんが、

次の先代の掲示板に、
小林春恵さんと小出(こいで)タケさんの名前が
出ている情報があります。

   ↓

光明掲示板・第一
人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 「小林昭三青年のこと (1767)
by 童子 さま
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou/&mode=res&log=379

       <感謝合掌 令和4年1月20日 頓首再拝>

《人間運命の弱小は自己欺瞞に過ぎぬ》 - 伝統

2022/05/03 (Tue) 06:34:38


        *「光明法語」(5月3日)より

神の子であるところの人間が、
そんなに弱小なる運命に定められていると思うのは
自己欺瞞に過ぎないのである。

自己欺瞞を去れ。
汝は神の子ではないか。

人間は自分自身の運命を斯くの如く限ってはならないと同時に、
他の人の運命も限ったり縛ったりしようと
望んではならないのである。

誰をも害しない、誰をも束縛しない
自分の伸びる道があると云うことを信じなければならない。

自己の運命をよくするためには、
悪は存在すると云う人類の通念に縛られず、
現象の形に惑わされないようにせねばならぬ。

       <感謝合掌 令和4年5月3日 頓首再拝>

神を信じ、神の子であることを信ぜよ - 伝統

2022/05/18 (Wed) 07:30:23


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より抜粋

神は自己自身を実現するために
「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。

しかしてわが欲することは
神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

       <感謝合掌 令和4年5月18日 頓首再拝>

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