伝統板・第二
心の鏡 ③ - 伝統
2020/09/30 (Wed) 03:43:28
自分自身が変化せよ! さすれば、鏡に映る姿も変わる
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より
鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。
鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。
結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。
自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「心の鏡」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6914324
(2)伝統板・第二「心の鏡 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7769926
<感謝合掌 令和2年9月30日 頓首再拝>
外界は心の世界のあらわれ - 伝統
2020/10/06 (Tue) 04:36:03
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月6日)より
外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。
内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。
さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。
現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。
<感謝合掌 令和2年10月6日 頓首再拝>
深いところを映しだす「鏡の法則」 - 伝統
2020/10/16 (Fri) 04:40:04
*「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
斎藤一人・著(P81~82)より
自分が今世で決めてきた問題からは、絶対に逃れることができません。
だから、そういう問題から一時的に逃げられたとしても、
また別の、本質的に同じ問題が現れたりするんです。
たとえば、
勤めていた会社で人間関係がイヤだからといって辞めると、
また別の会社で同じような人間関係の問題が起こったりします
このように、人間関係でイヤなことが続くんだとしたら、
それは、自分の中にそうさせるものがあるんです。
「上司が私にいじわるをするんです」って言う人も、
そのいじわるをされた人が上司になったときに、
同じようなことをやりかねない性格だから、
そういうことが起こるんです。
これを『鏡の法則』といいます。
「自分が好意的に接すれば、相手も好意的に接してくれる」とか、
「相手に対して苦手意識や敵対心を持っていると、
相手もその人に対して同じような感情を持つ」
というのは表面的な話で、
『鏡の法則』は
もっと内面的に深いところまで映しだすことがあるんです。
たとえば
「威張っている人を見るとすごく腹が立つ」人というのは、
自分の心の中に、人の上に立ったときに威張ってしまう
という性格があるんです。
または、自分が威張りたいのを抑えてる。
抑えてるから余計に、相手が威張ると腹が立っちゃうんです。
鏡は自分の姿をそのまま映してくれるよね。
あなたの中の鏡はなにを映してくれていますか。
映ったものがちゃんと見られる自分でいようね。
・・・
<参照>
【斎藤一人】心の記憶が現実になります「心が鏡に映る話」
https://www.youtube.com/watch?v=-Y0FMDjvnkM
【斎藤一人】鏡の法則。その人の体型だけで性質が分かっちゃうんだよ【神々の集いNeo】
https://www.youtube.com/watch?v=1cEXkA0cgd4
<感謝合掌 令和2年10月16日 頓首再拝>
心が誂(あつら)えた「境遇」 - 伝統
2020/12/12 (Sat) 04:53:51
*「光明道中記」(12月12日《至誠神に通ずる日》)より
【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
(『生命の實相』第四巻)】
神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。
神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。
どんな貧しさもその人の心の寸法に合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、
神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、
彼の心が誂(あつら)えたものなのである。
それは無意識に誂えたのかも知れないが、
兎も角彼の心が誂えたものなのである。
自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で
吾等は善処しなければならない。
今労働服を着ている人は、
その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。
<感謝合掌 令和2年12月12日 頓首再拝>
思いを変えれば環境も肉体も変わる - 伝統
2021/01/04 (Mon) 04:26:34
*「光明法語」(1月4日《先ず想いを変えよ》)より
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。
若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。
危険を予感するものには危険が来るのである。
自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。
<感謝合掌 令和3年1月4日 頓首再拝>
《心の反映が環境である》 - 伝統
2021/01/05 (Tue) 01:35:40
*「光明法語」(1月5日)より
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、
自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、落ち着いて来るのは、
祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
<感謝合掌 令和3年1月5日 頓首再拝>
念を感謝に転ぜば一切は変化する - 伝統
2021/01/08 (Fri) 04:15:14
*「光明法語」(1月8日《吾は日に日に完全円満である》)より
神の完全なる実相が、
吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。
われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来(きた)るのである。
肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無礙であり、
交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。
若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。
念を感謝に転ぜば一切は変化する。
<感謝合掌 令和3年1月8日 頓首再拝>
我が住む世界はわが心の反影である - 伝統
2021/01/17 (Sun) 02:49:49
*「光明道中記」(1月17日《環境浄まる日》)より
【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】
我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。
自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。
他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。
あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。
苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。
何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。
<感謝合掌 令和3年1月17日 頓首再拝>
自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、家族 - 伝統
2021/01/21 (Thu) 06:32:31
*「光明道中記」(1月21日《笑門福来七宝充満の日》)より抜粋
【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】
凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、
夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。
それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。
妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりである。
<感謝合掌 令和3年1月21日 頓首再拝>
眼の形、眼の光は心の影である。 - 伝統
2021/02/01 (Mon) 04:56:55
、
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より
人に逢うて何かなつかしく、
いつまでもその人と話していたいと思える人と、そうでない人がある。
眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、
なんとなく凄い人と、狡(ずる)そうに見える人と、
人間にもいろいろあるものだ。
ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。
幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。
濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。
いろいろの眼の光のあるうちで、
一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。
時として冷酷にさえ感じる。
冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。
隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、
顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。
ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で
相手を見る人は必ず好運である。
形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。
どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。
<感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>
周囲の相が観世音菩薩である - 伝統
2021/02/06 (Sat) 02:33:19
*「光明道中記」(2月6日《一切に感謝謝する日》)より
【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。
小言はすべて暗い気分を招く。
暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】
「あなたは心に不平を持っているから、それを直さなければ、
その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。
すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。
負債があるのに負債のあることに気附かず、
借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。
そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、
自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。
そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら直ぐ
「チェッ雨が降って来て弱った!」
と言って天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。
不平を持たぬ心とは、どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。
観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。
自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。
<感謝合掌 令和3年2月6日 頓首再拝>
《建設的な精神内容のみ発展します》 - 伝統
2021/02/27 (Sat) 04:56:34
*「眞理」第2巻基礎篇第1章(P9~10)より
あなたの精神状態は常にあなたの顔色(かおいろ)や、健康状態に
あらわれて来るのですが、
あなた自身の環境、境遇、運命、貧富、栄枯盛衰等(など)に
あらわれて来ることを知らない人が多いのです。
形ある何物でも内部的理念のあらわれならざるものはないのでありますから、
内部にもっている精神的様相は必ず形にあらわれて来るのであります。
人のものを奪って自分が富もうとしても、
一時(いちじ)、金を掻き集め得るかのように見えても、
それは決して永続きせず破綻して来るのは、
奪うものは奪われると云う根本原理のあらわれであり、
「精神的内容のない形はやがて崩壊する」と云うことを
実証しているのであります。
事業を始めるには必ず「奪って儲ける」ことを考えてはなりません。
必ず建設的内容がなければなりません。
<感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>
《自分の心持は周囲に影響する》 - 伝統
2021/02/28 (Sun) 06:34:21
*「光明法語」(2月28日)より
人の一挙一動は無論のこと、その心持ちは必ず周囲に影響を与えるものである。
社員を充分働かせるのも、働くのが興味がなくなって怠けるのも、
社長または上役の一つの励ましの言葉や、
冷酷な尊大ぶりなどによって、それが変わって来る。
やさしい言葉、やさしい態度、それがどんなに周囲に影響するか。
私に議論を吹きかけようとして演壇近くやって来た聴衆が私が演壇に立って
ただ「皆様ありがとうございます」とお辞儀をしただけで理屈がなくなり、
生長の家が好きになった人もある。
<感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>
《世界は自分の心の鏡です》 - 伝統
2021/03/18 (Thu) 06:39:45
*「眞理」第2巻基礎篇第1章(P18~19)より
世界は自分の周囲に立て廻した鏡のようなものです。
自分の「心」を映(うつ)して見てそれを外界だと思って、
それが不幸であるならば悲しむのです。
少しく内省(ないせい)してみると、自分の周囲には
自分の「心」の結果ばかりがあらわれていることが分ります。
「周囲を善くしようと思うならば先ず脚下照顧せよ」
と云うのはそのゆえです。
自分は別に心に欠点はないのに不幸に陥った
と考えている人があるが、そんな筈(はず)はないのです。
損をするものは必ず欲張る心があるからであり、
人から冷遇されるものは必ず利己主義的な心があり、
人からひどく非難されるものは、自分に寛大の心がなく短気で、
他(ひと)を責めるに急な性格を持っているのであります。
先ず人を生かしましょう。
自分の生きる道が開けて来ます。
<感謝合掌 令和3年3月18日 頓首再拝>
世界は自らのこころを反映させた写し鏡のようなもの - 伝統
2021/06/05 (Sat) 04:33:33
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月19日)より
~運命を変える秘訣
「心が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる」
上記の名言は聞いたことがある人も多いかも知れません
出典は明らかではなく、
ウィリアム・ジェームズやウエイン・W・ダイアーあるいは
ヒンズー教の言葉だとするものもあります。
いずれにせよ、自分のこころを変えていく事で、
運命をも変えていくとする教訓が、
多くの人に影響を与えた言葉だと思います。
まずは自分のこころを変えていく事で、
未来を変えていく事も可能だという事です。
こころが変わる事で世界も変わってきます。
世界は自らのこころを反映させた写し鏡のようなものでもあります。
どのような心を持っているかで、世界の姿も変わてきます。
恐怖心で見ていれば、枯れ木もお化けのように見えてくるでしょう。
明るい心で見ていれば、世界は美しく見えてきます。
自分の置かれた環境はすぐには変えられませんが、
そのこころは変えていくことが出来ます。
自分のこころは唯一自分の自由に出来る領域です。
他人のこころを自由に変える事は難しいですが、
自分のこころは変えていくことが出来ます。
そうして心を変えていく事で、
周りの環境も次第に変わっていきます。
そしていずれは運命さえも変わっていくのです。
この名言はその事を教えてくれています。
運命を変えたいと願うなら、
まずは自分のこころを変えて見る事が大切です。
(https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_19.html)
<感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝>
立ち対(むか)う人の心も環境もおのが心の鏡なり - 伝統
2021/06/16 (Wed) 02:33:42
*「光明法語」(6月16日《よき「思い」を種蒔くこと》)より
神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。
蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。
自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。
まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。
<感謝合掌 令和3年6月16日 頓首再拝>
【投げたものは返ってくるという法則】 - 伝統
2021/07/27 (Tue) 02:09:58
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.04.21)より
(斎灯サトル氏の心に響く言葉より…)
《投げかけたものが返ってきます。
優しさを投げかけると優しさが。笑顔を投げかけると笑顔が。》(小林正観)
人に優しくしたら、優しくされやすい。
笑顔で会話をすると、相手も笑顔になりやすい。
実は、逆もしかり。
むしろ逆から考えるとよくわかると思います。
いら立ちを投げかければ、相手もいら立ち、
他人の不幸を願えば、自分にも災い という形で返ってきます。
イライラしながら攻撃的に相手と接して、
相手が満面の笑みになることはありません。
もし立場が上の人が、強圧的に部下に命令したら、
その人は一時的にいうことを聞くフリをするかもしれません。
しかし、その人のストレスは、別の形で発散されます。
お釈迦さまは、それを「因果応報(いんがおうほう)」
という言葉を使って説明しました。
宇宙の法則のひとつです。
昔、インドのある王さまが、国内の治安について考えていました。
多額のお金をつぎ込み、警察(兵隊)を使い、
民衆を強制的に抑えつけても、よけいに暴動が増えるだけでした。
抑えた分、反発があるのです。
暴動は増え続け、さらに多くの警察を雇い、財政はどんどん圧迫されました。
そこで、お釈迦さまの「因果応報」という考えを、
教育などに取り入れました。
「人に嫌なことをすれば、嫌なことをされる。
良いことをすれば、良いことをしてもらえる」
このシンプルな本質を伝えたことにより、
国民は自分の行動を少しずつ考えるようになりました。
それだけで暴動がなくなり、治安が良くなったので、
民衆も仕事がはかどり、物流も良くなり、国が豊かになっていきました。
人々には笑顔があふれていきました。
「負の連鎖」から「正の連鎖」にしていくには、
このシンプルな法則を理解しておくといいようです。
<『正観さんのしあわせ絵言葉』廣済堂出版
https://amzn.to/3goQULX >
・・・
小林正観さんのこんな言葉があります。
『振り返ってみると、私は「先生(教師)」に恵まれていました。
学生時代一度も「おい」とか「おまえ」とか呼ばれたことがありません。
どなったり、怒ったり、高圧的だったり、
感情的であったり、という方はおられませんでした。
宇宙の****則は
「投げかけたものが返ってくる。投げかけないものは返らない。
愛すれば愛される、愛さなければ愛されない。
嫌えば嫌われる。嫌わなければ嫌われない。」
だから、荒っぽい言葉を使っていると、
そのとおりの言葉に囲まれることになります。
投げたものが返ってくるので、何年かすると自分に返ってきます。
乱暴な、荒っぽい言葉に囲まれることになります。
「荒れた学校」のことを聞くことがありますが、
もしかすると、その学校には、「おい」「おまえ」
という言葉が飛び交ってきたのかもしれません。
国際神道学会の会長で、
中央大学の中西旭(あきら)先生は、
「神様は上に行けば行くほど、腰が低くなります。
いばったり、偉そうにすることは絶対にありません。
ときには人間に対して、土下座さえもします。
ほんとうにすごい神様は、とても腰が低いのです」
その話を聞いて以来、私は年下の男性に対しても、
「さんづけで呼ぼう」と決めました。
「言葉を大事にする」ということの中に、「敬語」というものもあります。
中西先生は「丁寧な言葉」以上に、「美しい言葉」をお使いになるかたでした。
「敬語」の使い方が素敵なのです。
年下の教え子に対し、普通に何事もなく敬語を使って接しておられました。
「敬語をさりげなく使いこなせる人は、かっこいい」のでした。
会話の部分で丁寧な言い方をする。
そういう日々を続けていると、
荒っぽい言葉を浴びせられることがなくなります。』
(幸も不幸もないんですよ/マキノ出版)
夫婦で経営している、とても繁盛している飲食店があった。
その店では、ご主人が奥さんのことを
名前で呼んでいて(たとえばケイコさんのように)、
「〇〇さん、〇〇お願いします」と、とても丁寧だった。
反対に、別の夫婦で経営している中華のお店では
「早くやれって言ってんだろ、このグズ」のように
奥さんのことを罵(ののし)っていた。
いたたまれなくなって、早々にお店を出たのを覚えている。
自分の発する言葉は、まわりの人がちゃんと聞いている。
特に小さなお店ではなおさらのことだ。
そして、その発する言葉で、その人のひととなりがすぐに分かってしまう。
家庭内(親子や夫婦間)で、
「おはようございます」
「おやすみなさい」
「行ってきます」
「いただきます」
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「ハイ」
という丁寧なあいさつを交わしている家は円満だ、
という話を読んだことがある。
親しくなればなるほど、丁寧な言葉は大切だ。
投げたものは返ってくる、という法則を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和3年7月27日 頓首再拝>
顔は心の鏡である - 伝統
2021/08/24 (Tue) 04:55:01
*「光明法語」(8月24日《心に化粧せよ》)より
誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。
顔は吾々の心の鏡である。
****(おしろい)でいくら塗っても、
その精神の下劣さは隠すことは出来ない。
「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。人間の顔には、
その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、愚かさや、感情や、
最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」
とカレル博士は更に言っている。
誰も隠すことは出来ないのである。
天知る、地知る、自分知るである。
<感謝合掌 令和3年8月24日 頓首再拝>
損失や、犠牲や、負債は、心の世界で克服する - 伝統
2021/09/04 (Sat) 05:00:52
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月4日)より
誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。
実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。
どこにも自分を害した者もないのである。
いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)は
まず心の世界で克服しなければならないのである。
心の世界でそれを消滅するとき、
損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。
<感謝合掌 令和3年9月4日 頓首再拝>
環境と心は合わせ鏡のように互いに影響し合う - 伝統
2021/09/17 (Fri) 04:54:57
*『靜思集』(P175~176)より
今日一日自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。
如何なる不快なる相(すがた)をもって現れようとも、
その不快なる相(すがた)は、現在又は過去に於いて
自分のどこかに潜んでいた不快な心の反映であると信じ、
自己をかえりみよ。
そして相手の奧にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。
自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。
人は既に完全であるのに、その完全なる相(すがた)が
自分の眼に映じないのは、自分の心の眼が曇っているのであるとして、
責任を自己に帰し自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。
<感謝合掌 令和3年9月17日 頓首再拝>
境遇は、自分の性格の反影 - 伝統
2021/09/29 (Wed) 04:54:50
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より
自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。
境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。
あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。
鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。
たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、苛辣であって気が短く、
人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、まず自分自身を寛容にすればよい。
<感謝合掌 令和3年9月29日 頓首再拝>
自分自身が変化せよ! - 伝統
2021/09/30 (Thu) 04:38:05
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より
鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。
鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。
結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。
自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。
<感謝合掌 令和3年9月30日 頓首再拝>
取り巻く環境は、私たち自身を映し出す鏡 - 伝統
2021/10/16 (Sat) 04:22:08
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年10月13日)より
「心は、創造の達人です。そして、私たちは心であり、
思いという道具をもちいて自分の人生を形づくり、そのなかで、
さまざまな喜びを、また悲しみを、みずから生み出しています。
私たちは心の中で考えたとおりの人間になります。
私たちをとりまく環境は、真の私たち自身を映し出す鏡にほかなりません」
これは自己啓発書の原点とも言われるジェームズ・アレンの
『原因と結果の法則』に書かれた言葉です。
同書は一世紀経った今でも売れ続け、
聖書に次ぐベストセラーとも言われています。
それだけ彼の言葉には真理が宿っており、
人々のこころを明るく照らしているのでしょう。
私たちは一日のうちにいろんな思いを発しています。
そして自分がどのような思いを発しているのか、
たいていの人は自覚せず、流れる川のように
思考が過ぎ去っているのではないでしょうか。
おおくの人は条件反射的に物事を考えている、
あるいは反応している事が多いでしょう。
アレンは普段何気なく私たちが発している思いこそが、
実は私たちを取り巻く環境を作り出しているというのです。
「思い」が先にあって、結果として「環境」が現れると言います。
私たちはつい環境が悪いと愚痴を言ったり、
不平不満を述べたりするものです。
勤めている会社がブラック企業だとか、
旦那がちっとも家事を手伝ってくれないなどと
言っているかも知れません。
しかし、そうした私たちを取り巻いている環境が出てくるのも、
私たちの思考が外の世界に映し出されているのです。
ですから、私たちは思考を変える事で、
取り巻く環境も変えていけるということです。
因果の法則は、
古くは仏陀その人が説かれた教えであり、現わされた真理です。
仏陀は私たちの間違った思いや行いが、
諸々の苦しみを生みだす原因と説きます。
そして誤った思いから、死後も種々の地獄に通じると教えます。
思いの針の先が、どのような世界に通じるかで、
死後の行き先も変わってきます。
それは死後ばかりではなく、この世においても
現象化は起り、思いが具現化して
私たちを取り巻く環境を作り上げていきます。
私たちは思いを変えていく事で、
置かれた環境も作り出し、変化させていく事が可能です。
https://www.spacebrothers.jp/2021/10/blog-post_13.html
<感謝合掌 令和3年10月16日 頓首再拝>
【投げかけた結果が今の状況】 - 伝統
2021/11/02 (Tue) 04:25:10
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.05.29)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
2500年前、お釈迦さまは、自分のことについて相談されたときには、
親身になって相談に乗りアドバイスをしました。
しかし、自分のこと以外の問題を持ち込まれたときには、
急に口と目を閉じて、瞑想に入ったそうです。
私はこれまで40年の間に、12万件の相談を受けてきました。
最近は他人の問題を相談する人が増えてきました。
他人の問題とは、
「子供が…」
「舅(しゅうと)が…」
「夫が…」
というものです。
自分以外の問題を熊手(くまで)で、かき集めてきていることに、
本人は気がついていません。
たいへん面白いのですが、例えば、
会社の同僚のことを、このように言う人がいます。
「私は言わないのだけれど、同期で入った10人のうち、
私以外の人は、集まると会社の悪口を言っています。
こういう場合はどうしたらよいでしょうか」
「今、あなた自身も、
同僚の悪口を言っているのではないですか」
それが「家族」に置き換えられることもあります。
「私は言わないのだけれど、家のおばあちゃんが
近所から帰ってくると、近所の悪口を言っている。
こういう場合はどうしたらいいでしょうか」
これは、おばあちゃんの悪口を言っています。
本人が「どうしたらよいか」と相談していることのほとんどは、
相談という形をとり、他人の悪口を言いに来ています。
「私は言わないんですけど…」
と言いながら自分が悪口を言っているので、
そういう自分に“ちょうどいい”人が、
周りを取り囲んでいるということになります。
何年か前に、熊本県の山鹿(やまが)温泉で、一泊の合宿を行いました。
そのとき5人くらいから「子供が…」などの
他人の問題を質問されましたので、
「悩み苦しみと言う話は、他人を思い通りにしたいということ」
という話をしていました。
その翌日、朝食会場の大広間で、40代後半のご婦人と
並んで食事をすることになったときに、
「質問してもいいですか?」
と、その奥さんが口を開きました。
「いいですよ」
「実は子供のことなのですが…」
そう言われた瞬間に、私は手でX印を作り、
「ブー」
と言いました。
「ゆうべも言いましたよね。子供や他人のことを
どうしたらいいかというのは、質問しているようですが、
自分の思い通りにしたいということなのですよ」
この女性は、10秒ほど黙って食べていましたが、
またこのように言いました。
「舅がですね…」
「ブー」
また1分ほど黙っていましたが、口を開いて、早口でこう言いました。
「職場の上司で自分に対して、とても辛く当たる人がいるのですが、
どうしたらいいでしょうか」
「ブー。やはりそういう話なのですね」
私は、ニッと笑い、このように答えました。
「いろんな人間関係の中で気に入らないという問題が、
あなたをたくさん取り囲んでいるということですよね。
気に入らない人間関係が、どうしてあなたを
取り囲んでいるかわかりますか?」
「わかりません。いろいろな人から、
ひどいことやきついことを言われて困っています」
「ゆうべからあなたを見ていましたが、
一度も笑っていませんでしたね。
そして、あなたの口から出てくる言葉は、
問題をあげつらうだけの話題ですから、
そばにいても楽しくありません。
もし、家庭や職場で同じようなことをやっているのなら、
あなたの周りの人はなるべくあなたに近寄ってほしくないと思います。
近寄らせない権限を持っている上司などは、
あなたが近づいてこないように、
いつも嫌味や皮肉、厳しく冷たい言葉を浴びせかけて、
“近寄ってくるな”と言っているのではないでしょうか。
あなたが、いつもトゲトゲした言葉、態度を投げかけた結果として、
今の状況に囲まれているのだから、
これからは、
笑顔で楽しい話だけをしてみてはどうでしょう」
<『日々の暮らしを楽にする』Gakken
https://amzn.to/3fMR7GY >
・・・
本書の中で「投げかける」にいついてこんな話があった。
『「私には友人が一人もいません。
友人をつくるには、どうしたらいいでしょう」
と質問をしてきた人がいました。
その人に対して、このように尋ねました。
「1年間のうち何通手紙を書きますか」
「1通も書いていません」
「自分から電話をかけたことがありますか。
用事があるときはいろいろなところにかけますが、
あえて用事を作って、
友人に電話をかけたりすることはありますか」
「一度もありません」
手紙を書かない、電話もかけていないということは、
自分から相手に対して全く働きかけていません。
このような人は、向こうから友達になりたい
と言われることはないでしょう。
もし、友人が欲しいと思うのだったら、
暑中見舞い、年賀状を出す、まめに手紙を出す、
用事がなくても電話をしてみるなど、自分から
コミュニケーションを図っていくと友人が
できていきます。
宇宙の法則に、
「投げかけたものが返ってくる」というものがあります。
自分から投げかけていくことで、次から次へと、
友人が増えていくようになっていきます。』
昨今は手紙を書いたり、
電話をしたりする人は少なくなっている。
現代でいうなら、メールだったり、LINEだったり、
FacebookやInstagramの投稿への「いいね!」や
コメントだったりする。
いずれにしても、
こちらから投げかけているかどうか、ということだ。
つまり、アウトプットをしているかどうか、ということ。
「いいね!」やコメントが欲しいなら、
SNSへ記事をアップしなければならない。
挨拶して欲しいなら、自分から先に挨拶する必要がある。
笑顔が欲しいなら、先に自分から笑顔になることだ。
今まで投げかけてきたことが、今返ってきているだけ。
自分から先に…
あたたかな言葉や笑顔、態度を発する人でありたい。
<感謝合掌 令和3年11月2日 頓首再拝>
境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである - 伝統
2021/12/12 (Sun) 04:45:14
*「光明道中記」(12月12日《至誠神に通ずる日》)より
【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
(『生命の實相』第四巻)】
神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。
神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。
どんな貧しさもその人の心の寸法に合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、
神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、
彼の心が誂(あつら)えたものなのである。
それは無意識に誂えたのかも知れないが、
兎も角彼の心が誂えたものなのである。
自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で
吾等は善処しなければならない。
今労働服を着ている人は、
その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。
<感謝合掌 令和3年12月12日 頓首再拝>
《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》 - 伝統
2022/01/03 (Mon) 07:22:26
*「光明法語」(1月3日)より
かくて人間は神の映像であるから、
神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在する
と考え出したのである。
これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。
この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。
かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。
思いを変えよ。
<感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>
《先ず想いを変えよ》 - 伝統
2022/01/04 (Tue) 01:53:46
*「光明法語」(1月4日)より
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。
若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。
危険を予感するものには危険が来るのである。
自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。
<感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>
《心の反映が環境である》 - 伝統
2022/01/05 (Wed) 02:21:03
*「光明法語」(1月5日)より
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、
自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、落ち着いて来るのは、
祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
<感謝合掌 令和4年1月5日 頓首再拝>
環境浄まる日 - 伝統
2022/01/17 (Mon) 04:54:10
*「光明道中記」(1月17日)より
【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】
我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。
自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。
他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。
あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。
苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。
何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。
<感謝合掌 令和4年1月17日 頓首再拝>
家族は、己の心の鏡 - 伝統
2022/01/21 (Fri) 03:42:00
*「光明道中記」(1月21日《笑門福来七宝充満の日》)より抜粋
【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】
凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、
夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。
それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。
妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、
儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。
<感謝合掌 令和4年1月21日 頓首再拝>
眼はその人の心と運命を現している - 伝統
2022/02/01 (Tue) 04:59:23
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より
人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたい
と思える人と、そうでない人がある。
眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、なんとなく凄い人と、
狡(ずる)そうに見える人と、人間にもいろいろあるものだ。
ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。
幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。
濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。
いろいろの眼の光のあるうちで、一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。時として冷酷にさえ感じる。
冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。
隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。
ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず好運である。
形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。
どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。
<感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>
打つ心は打たれる心である - 伝統
2022/02/10 (Thu) 04:53:22
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。
かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。
「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」
「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」
殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。
と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。
やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者と話していた。
野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのあった。
打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。
阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、
釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。
阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。
そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。
「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。
「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」
「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。
「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。
「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」
『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はどこかへ姿を消してしまった。
野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。
ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。
しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。
相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。
「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。
<感謝合掌 令和4年2月10日 頓首再拝>
《無意識の心的影響》 - 伝統
2022/02/19 (Sat) 03:33:32
*「光明法語」(2月19日)より
吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。
意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、
心の中に反感や、嫌悪の念や、けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。
世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、姑からいじめられている嫁の如きはそれである。
<感謝合掌 令和4年2月19日 頓首再拝>
先ず心を幸福にせよ - 伝統
2022/03/03 (Thu) 04:48:34
*『 生長の家 』(昭和25年9月7日の法語)より
吾々の想念感情が先ず幸福にならなければ
吾々の住む世界は幸福にならないのである。
貝類は自分の分泌する液によって、
自分の肉体の棲(す)む貝殻を造るかのように、
吾々は自分の分泌する想念感情によって自分の住む環境をつくるのである。
吾々は旅行するにも、その旅行を最も楽しきものにするには、
旅行案内書を見て、どの行路をとるのが最も良き景色であるかを
知らなければならないのである。
そして、旅行地のどの点に心を注いで鑑賞しなければならぬか
と云うことを知らねばならぬ。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
<感謝合掌 令和4年3月3日 頓首再拝>
【燦爛輝く桜花】 - 伝統
2022/04/01 (Fri) 06:48:04
*「光明道中記」四月「相倚りたすける」はじめの言葉
観る世界は観られる世界である。
能観(のうかん<あるもの>)の中に所観(しょかん<みられる>)の世界があり、
所観の世界の中に観る人の心がある。
観る者と観られるものとは本来一体であるのである。
これを吾々は心の影と言っている。
日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、
執拗でなく淡白であるからである。
本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』
と云う歌は日本精神を詠んだものとしてその内容に就て色々と解釈せられているが、
『朝日に映(は)えている爛漫たる相(すがた)』が日本精神だとか、
散りぎわの潔い相(すがた)が日本精神だとか、互に言い争って、
その解釈の優劣を決定する必要はないのである。
観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば、
日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を
現していないものはひとつもないのである。
風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、
人間も生命であり、心の表現であるから、
日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、
桜の中に日本人があるのである。
差し昇る朝日に映える桜花を鑑賞する日本人の心には、
差し昇る朝日に映える桜花の心があるのである。
<感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
子供の肉体は親の念の具象化の舞台である - 伝統
2022/05/04 (Wed) 07:51:09
*「光明道中記」(5月4日《争いを捨てる日》)より
【喘息はイキが激しく擦れ合う病気にて、
スレ合う心、争う心、呪う心の象徴である。『生命の實相』第九巻)】
子供は親を模倣するものである。
その模倣は親の表面の生活の模倣と、親の内面の感情と両方がある。
親が愉快に喋らない習慣の家庭に育った子供は、
憂鬱で陰気臭くて明朗さがない。
両親が感情(いき)の奥で衝突した生活を送っている家庭の子供は、
時として蓄膿症であり、アデノイドがあり、
或は20歳までに肺結核で斃(たお)れる傾向がある。
それは子供の模倣性だと考えられないこともない。
それは両親の「感情(いき)の奥」の葛藤を、
呼吸(いき)の奥であるところの鼻の奥や肺臓の奥に具象化する。
この意味に於て子供の肉体は親の念の具象化の舞台である。
親の悲しみの念が反映して子供が寝小便することもある。
子供が口を開いて眠っている時には
両親はこれによって呼吸(いき)の奥に故障があることを発見し、
これによって自分たち夫婦の精神の奥に葛藤があることを反省し、
それを是正すべきである。
両親が感情上の葛藤を経験しながら、
その子供が呼吸器を患っているから治して欲しいと訴えても、
感情上の葛藤そのものが、呼吸器病の内面的本質であるから治る筈がない。
<感謝合掌 令和4年5月4日 頓首再拝>
よき「思い」を種蒔くこと - 伝統
2022/06/16 (Thu) 07:33:57
*「光明法語」(6月16日)より
神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、
自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。
蒔かぬ種は生えぬし、
蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、
それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。
自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。
まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。
<感謝合掌 令和4年6月16日 頓首再拝>
他人に怒りを感じるのは、相手にあなたの姿を見ているから - 伝統
2022/07/19 (Tue) 07:03:45
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年7月18日)より
他人がしたことに怒りを感じる事は誰しも経験していると思います。
その時に、実は怒っている相手の中に、自分を投影している事があるのです。
自分自身の中に、抑圧された面があると、
それを他人に投影してしまい、ついつい怒ったり、
不快な感情が湧き出る事があります。
たとえば、あなたが子どもの頃から親に
「身だしなみをちゃんとしてなくてはいけない」と厳しく躾けられたとします。
親を愛するあなたは、その言いつけを守りました。
でなければ、親から愛されなくなるという恐怖があるからです。
そのためあなたは身だしなみに気を付けるようにしています。
しかし、会社に行くと、身だしなみがだらしない部下がいました。
あなはたそれを見て不快になってしまい、
ついには「どうして身だしなみをきちんとできないのか」っと
その部下の事が嫌になり、しっかりしなさいと怒ってしまいます。
この時、あなたは自覚しなくても、子どもの頃から刷り込まれた、
親などからの躾が影響し、その物差しで他人を裁いている事があるのです。
ほんとうはだらしなくしていたかったのに、
そんな自分を抑圧して生きてきたため、抑圧された自分を他人に見ると、
怒りが込み上げてきます。
たとえば仕事で言えば、
作業の早い人は、遅い人にイライラしてしまう事があります。
「どうしてこんなのろまなんだ」と怒ってしまう事もあるでしょう。
しかし、その人は、丁寧な仕事をするのが得意なのかもしれません。
作業は遅いですが、
ゆっくりと丁寧に、間違いを少なくするタイプであったりします。
また、細かな事にも気を配る人は、無神経なタイプに不快になったりします。
ですがそれも、自分が神経質で、相手はおおらかなタイプなのかもしれません。
相手の短所と思えるものも、実は裏を返せば、
あなたが持っていない長所を持ち合わせているかも知れません。
そのように、自分の中にある価値観や物差しを使って、
人は他人を裁き、怒りなどの感情を湧き立たせていますが、
実は自分自身の問題であったりします。
相手に抑圧された自分の姿を見ていたり、
自分の持ち合わせていない長所を認めていないだけかもしれません。
https://www.spacebrothers.jp/2022/07/blog-post_18.html
<感謝合掌 令和4年7月19日 頓首再拝>
【人は「顔つき」で選べ】 - 伝統
2022/07/23 (Sat) 08:02:43
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.07.23)より
(上阪徹(うえさかとおる)氏の心に響く言葉より…)
人には「顔つき」というものがあります。
これは顔そのものとは別にあって、
この両方から顔は作り上げられている。
文句なしにイケメン顔なのだけれど、
どこか怪しいところがあるように思えてならない。
顔そのものは必ずしも美しいというわけではないけれど、
とても素敵な顔に思える......。
人の顔を見ていて、そんな印象を持つことがあるのではないかと思います。
顔かたちとは別に、その人の性格や考え方、教養、品性や器、
さらには過去にやってきた行動を表しているのが顔つき、
と言ってしまったら、言い過ぎでしょうか。
私はもう20年以上にわたって、毎週のように知らない人と顔を合わせ、
じっくり1時間、2時間とインタビューする仕事を続けてきました。
そうしているうちに、人の顔にとても強い興味を持つようになりました。
そして、いつ読んだかわからないくらい前に読んだ本の中で出てきた、
こんなフレーズが、なんとも鋭いものであったことにも気がついたのでした。
「友達は顔や肩書きで選んではいけない。顔つきでこそ、選べ」
人柄は顔つきに出るものだ、という意味合いで使われていたのだと思います。
どういうわけだが、このフレーズを私はよく覚えていて、
自然にこれを実践に移していたのでした
(そう、私は顔つきで友人を選んでいます。信頼できる仕事相手も、です)。
結果的に、私は本当に幸運とも思える友人関係を構築することができました。
落ち着きのない人生を送ってきましたから、
これまでどれほど友人たちに助けられたことか ......。
そして、10年近い付き合いの小学校の同級生から、
娘の学校のパパ友だちに至るまで、その広がりは今も続いています。
顔でもなく、肩書きでもなく、顔つきで選ぶ。
取材で聞いたわけではありませんが、 これは間違っていなかったと思っています。
《人を外見や肩書で判断していませんか? 》
<『成功者3000人の言葉』知的生き方文庫
https://amzn.to/3PqX25l>
・・・
観相学、藤木相元氏の「顔つき」についての言葉があります。
『男性でも女性でも、人気のある人、周囲から協力を得やすい人は、
ほとんど例外なく、いい笑顔の持ち主です。
笑顔は運を呼び込みやすいのですが、
これは、笑顔になることを「相好(そうごう)を崩す」ということからもわかります。
だれでも心から喜んで笑顔になると、目尻や眉が下がり、くちびるの形も変わります。
つまり、顔の相が変わるわけですが、
好(よ)い相、運のつきやすい相に変わるというわけです。
相を好もしく崩すのが、笑いのほんとうの意味といってもいいでしょう。
ただ、同じ笑いでも、
冷笑、嘲笑、含み笑い、艶笑などには“暗”がつきまといます。
喉の奥が見えるくらい大きな口を開けて笑う、
ほんとうの意味の笑いとはほど遠いものです。
心の底から笑えない人は、“暗”に支配され、相が好もしく崩れないのです。
冷笑、嘲笑、含み笑いなどはその典型ですし、
女の人が男の人に媚びを売る場合の艶笑も、
相手を自分の都合のいいように利用しようと思うから、
そういった笑いになってしまうのです。』(運のつくり方 開き方/PHP文庫)より
生き様は必ず顔に出る、と言われます。
どんなに表面を繕っても、その人の内面が出るのです。
それは、若い頃はあまりわかりませんが、
50代、60代を過ぎたあたりから、それははっきり表れます。
誠実さや謙虚さ、思いやり、あたたかさ、やさしさ、おおらかさ、
と言った“明”の人間性。
逆に、不誠実さ、不遜(ふそん)、偉そう、冷たさ、いじわる、
狡(ずる)さ、腹黒さ、などの“暗”の人間性が出てきます。
そして、その“明”を一言であらわすと「笑顔」です。
“暗”は、「不機嫌」。
笑顔を磨き…
「よき顔つき」を目指したいと思います。
・・・
<参照>
顔が語るとは本当だった
伊勢ー白山 道(2022-07-22 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/04b7391204ee6ab695c16e0f498a7dda
<感謝合掌 令和4年7月23日 頓首再拝>
心の影、観世音 - 伝統
2022/09/07 (Wed) 04:39:20
環境は一切心の影
谷口雅春先生を学ぶ会全国講師 貢正一
seimeinojissoh(2022/07/27)
https://www.youtube.com/watch?v=-sQfv_Bljko
・・・
<参照>
虐待と因果と観音様
伊勢ー白山 道(2022-09-02)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9f1c8a7cbfc33e60dfb79f75d2486bd2
嫌なことも、無駄ではありません
伊勢ー白山 道(2022-09-06)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/17a5a0a917aaf65bebcadee792fd55c0
<感謝合掌 令和4年9月7日 頓首再拝>
境遇は、自分の性格の反影 - 伝統
2022/09/29 (Thu) 05:03:30
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より
自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。
境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。
あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。
鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。
たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば
自分自身の性格が、苛辣であって気が短く、
人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、
まず自分自身を寛容にすればよい。
<感謝合掌 令和4年9月29日 頓首再拝>
環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科 - 伝統
2022/09/30 (Fri) 05:05:41
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より
鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。
鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。
結局、自分自身が変化するよりほかに
鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。
自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。
<感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝>
外界は心の世界のあらわれ - 伝統
2022/10/06 (Thu) 06:52:36
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月6日)より
外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。
内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。
さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。
現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。
<感謝合掌 令和4年10月6日 頓首再拝>
悟りの心で観るのか、それとも鬼の心で見るのか - 伝統
2022/11/16 (Wed) 07:38:13
*「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より
【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】
秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が
赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。
「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の
下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、
日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。
私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と
小さい声で言って居った。
ナカナカそんな本など見て居れる時では無いが、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」
秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。
見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。
若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。
<感謝合掌 令和4年11月16日 頓首再拝>
境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服 - 伝統
2022/12/12 (Mon) 09:58:54
*「光明道中記」(12月12日《至誠神に通ずる日》)より
【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
(『生命の實相』第四巻)】
神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。
神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。
どんな貧しさもその人の心の寸法に合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、
神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、
彼の心が誂(あつら)えたものなのである。
それは無意識に誂えたのかも知れないが、
兎も角彼の心が誂えたものなのである。
自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で
吾等は善処しなければならない。
今労働服を着ている人は、
その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。
<感謝合掌 令和4年12月12日 頓首再拝>
鏡の仕組み - 伝統
2023/01/02 (Mon) 07:59:37
*Web:Jのあっちもこっちも(2022年12月31日)より
それぞれの価値観を大切に思うことです。
それぞれの生き方があり、それぞれの役割があります。
誰かを悪く言えば、誰かに悪く言われます。
誰かを大切にすれば、誰かに大切にされます。
あなたは見させてもらっているのです。
あなたの心の中を、自身の器を。
誰かの言葉に反応する時、
その言葉は、"今あなたに必要な課題"を教えているのです。
腹を立てるならば、そこに課題があるのです。
すべてには、原因となる要因があります。
そのことを気付かせて貰えたと思える時、
感謝の気持ちに変わります。
「教えて下さりありがとうございます。」
みなみなうれしうれしたのしたのし
かわるかわるありがたいありがたい
2022.12.31 神人 拝
https://ameblo.jp/j-out-sider-zzz/entry-12781963373.html
<感謝合掌 令和5年1月2日 頓首再拝>
《先ず想いを変えよ》 - 伝統
2023/01/04 (Wed) 07:53:02
*「光明法語」(1月4日)より
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。
若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。
危険を予感するものには危険が来るのである。
自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。
<感謝合掌 令和5年1月4日 頓首再拝>
《心の反映が環境である》 - 伝統
2023/01/05 (Thu) 07:46:00
*「光明法語」(1月5日)より
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、
自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、落ち着いて来るのは、
祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
<感謝合掌 令和5年1月5日 頓首再拝>
住む世界はわが心の反影である - 伝統
2023/01/17 (Tue) 07:21:09
*「光明道中記」(1月17日《環境浄まる日》)より
【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】
我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。
自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。
他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。
あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。
苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。
何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。
<感謝合掌 令和5年1月17日 頓首再拝>
眼はその人の心と運命を現している - 伝統
2023/02/01 (Wed) 08:06:28
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より
人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたい
と思える人と、そうでない人がある。
眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、
なんとなく凄い人と、狡(ずる)そうに見える人と、
人間にもいろいろあるものだ。
ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。
幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。
濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。
いろいろの眼の光のあるうちで、
一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。
時として冷酷にさえ感じる。
冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。
隠し心のある眼、
正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、
顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。
ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で
相手を見る人は必ず好運である。
形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものが
あなたの運命をあらわしている。
どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。
<感謝合掌 令和5年2月1日 頓首再拝>