伝統板・第二
新生 ③ - 伝統
2020/10/01 (Thu) 04:23:18
月の始めに新しき心となれ
*『生長の家』(昭和25年6月1日の法語)より
今日一日が新しき日であり、
すばらしい機会を吾々に与えてくれる日であるのである。
この日一日は 何事も順調に進むのであって
悪いことなど起り様がないのである。
すべての日は
神の愛に満たされ、
神の智慧に導かれ、
悪いことといって何一つ起り様がないのである。
吾はこれを信じて、この月を始めるのである。
神は吾々のすべてを愛して い給うのである。
吾が夫を、吾が妻を、吾が子を、召使いを、すべての人々を
愛して 祝福し給うているのである。
我は凡(すべ)ての人々に感謝するのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「新生・新天新地」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=983
(2)光明掲示板・伝統・第一「新生 (82)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=51
(3)伝統板・第二「新生」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6464496
(4)伝統板・第二「新生 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7699664
<感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝>
今日、自分は新しき世界に目覚めたのである - 伝統
2020/11/01 (Sun) 04:39:38
*『生長の家』(昭和25年6月10日の法語)より
~【 吾は愛の言葉のみを語る 】
今日、自分は新しき世界に目覚めたのである。
この世界は物質の世界ではないのであって
唯 自分の想念感情が造る世界であり、
自分の想念感情を美しくよきものとすることによって、
自由によき世界を現すことができる世界である。
されば吾は 今よりよき言葉、深切の言葉、
美しき言葉のみを口にする。
今日一日は幸福の日である。
神が造った日に悪い日などはないのだ。
吾は今日、感謝と愛語と讚歎とのみに生きる。
吾は仕事をなす度毎(たびごと)に
神の愛と守りとに感謝しながらそれをなす。
<感謝合掌 令和2年11月1日 頓首再拝>
「新たに生れる」とは、我の脱落のことである - 伝統
2020/11/02 (Mon) 04:45:51
*「光明道中記」(11月2日《旧我の消える日》)より
【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】
「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。
道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、仏法を知れりと言うには
あらずということを」と言っていられる。
悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。
自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。
キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。
「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。
<感謝合掌 令和2年11月2日 頓首再拝>
《「今」 新生する 》 - 伝統
2020/12/01 (Tue) 05:02:32
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第3篇( P78~79) より
神は常に吾らに新しき日を与え給うているのである。
朝々が常にその人にとって「新生」なのである。
神は、「今」新生するとき、過去をもって責め給うことはないのである。
神が「今」を吾々に与え給うことを、神に対して感謝しようではありませんか?
過去の何があったであろうとも、それは既に過ぎ去ったのである。
「今」は一切の過去を変貌される力をもっているのである。
「今」ここに自分の生命(いのち)に神が在(まし)ますことを自覚したとき、
それは自己の魂に燈(ひ)をともされたのと同じことなのである。
過去の一切の悪も業も罪も、闇(やみ)と同じような仮存在に過ぎないのである。
闇は実在するかのように見えるけれども、それは「光りの非存在」の
仮の相(すがた)であって、光さえ射し込ませれば消えるのである。
それと同じく、「今」自己の内に神が存在し給うことを本当に自覚するとき、
過去に如何なる罪や因縁や業があるかの如く見えていても、
それは消えてしまうのである。
<感謝合掌 令和2年12月1日 頓首再拝>
新たに生まれる - 伝統
2020/12/22 (Tue) 05:01:55
*「光明法語」(12月21日~22日)より
《自己を死に切る》
『悔改め』を佛教では『懺悔』と言い、自己放棄と言い、
パウロは『自己を死に切る』と言った。
一遍、肉体としての自分を死に切ったとき、
霊の自分に復活(よみがえる)るのである。
自分を肉体だと思っている限りに於いて、
人間はエデンの楽園から追放せられなければならない。
自分を肉体だと思う知恵は、地(物質)に執した蛇の知恵である。
蛇は地を這う動物であり、地は物質を表徴し、
物質ありとして執着する五官を『蛇』をもってあらわし、
その蛇に教えられたる知恵を『知恵の樹の果』をもって表徴する。
・・・
《新たに生まれる》
知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。
人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。
『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。
だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。
物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。
これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。
<感謝合掌 令和2年12月22日 頓首再拝>
天地一新 - 伝統
2021/01/01 (Fri) 06:41:54
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より抜粋
新しい年には新しい心が生まれる。
元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。
他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。
元旦からまず始めよう。
それは明るい心を持つということである。
一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。
ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
ただそれだけ一つのことである。
これだけのことならばわたしにもできると思う。
明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
何事が起こっても悲しまぬということである。
何事が起こっても失望せぬということである。
何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。
去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。
天地一新。
悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
それはすべて一新していく姿である。
<感謝合掌 令和3年1月1日 頓首再拝>
天地開ける日 - 伝統
2021/01/15 (Fri) 03:37:02
*「光明道中記」(1月15日)より抜粋
【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、
自由な愛の世界に出ることである。 (「生命の實相」第四巻)】
新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。
注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、
新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、
惰力に押し流されていたような自分を発見して悲しくなる人が多い。
併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。
<感謝合掌 令和3年1月15日 頓首再拝>
《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》 - 伝統
2021/01/17 (Sun) 02:47:38
*「光明法語」(1月17日)より
新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。
新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。
今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。
新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。
如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。
満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。
<感謝合掌 令和3年1月17日 頓首再拝>
我また新しき天と新しき地とを見たり - 伝統
2021/01/24 (Sun) 03:09:45
<「光明道中記」1月・いのち立つ春~はじめの言葉 より>
我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前(さき)の天と前(さき)の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
我また、聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく
準備(そなえ)して、神の許をいで、天より降るを見たり。
また大いなる声の御座(みくら)より出づるを聞けり。
曰く『視よ、神の幕屋人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、
神みづから人と倶に在して、かれらの日の涙をことごとく拭い去り給わん。
今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり』
斯(かく)て御座に坐し給うもの言いたまう。
『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたまう
『書き記せ、これらの言(ことば)は信ずべきなり、真(まこと)なり』
また我に言いたまう
『事すでに成れり、我はアルハなり、オメガなり、始なり、終なり、
渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。
勝を得る者は此等のものを嗣がん。我はその神となり。彼は我が子とならん・・・』
(「ヨハネ黙示録」第二十一章1―7)
<感謝合掌 令和3年1月24日 頓首再拝>
《肉体を十字架につけて新生せよ》 - 伝統
2021/02/01 (Mon) 05:04:56
*『生長の家』(昭和25年7月23日の法語)より
「 人もしキリストにあらば、新たに造られたるものなり。
古きはすでにすぎさり、見よ、新しくなりたり。」
(コリント後書第五章十七節)
吾々は肉体だと思ってはならないのである。
肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。
かくてキリストと共に吾は新生するのである。
そうでないものは 今すぐ「 肉体無 」 を悟って
肉体を抹殺しなければならない。
かくて肉体無を悟る時、
汝は自己の内にキリストを見、
新たに造られたるものとなるのである。
古きはすでにすぎ去り、
みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>
《先ず心の観点を新たにして》 - 伝統
2021/03/01 (Mon) 03:39:41
*「眞理」第2巻基礎篇第1章(P3~4)より
あらゆる宝のうちで最も大切なるものは
魂の清らかさと、心の平和である。
如何なるものもこれに匹敵するほどの
価値あるものは見出されないのである。
而(しか)も多くの人たちはこの最も大切なる魂の清らかさと、
心の平和とを、他(た)のそれほど大切でない事物を求めるために、
ふみにじって顧みないのである。
若(も)し世界のあらゆる宝をあなたが得ようとも、
魂の清らかさと、心の平和とを失わば何の甲斐もないのである。
多くの財宝を所有しながら、戦々兢々としてそれを失うまいと、
醜い心でしがみついているならば、
何のための財宝ぞや ―― と言わねばならぬ。
新生活に出発しようと思うものは
「第一のものを第一にする」ための覚悟を新たにしなければならない。
<感謝合掌 令和3年3月1日 頓首再拝>
《幸福の国に入るには、「新たに生れる」ことが必要》 - 伝統
2021/04/01 (Thu) 05:01:21
*「眞理」第2巻基礎篇第1章(P19~20)より
~幸福の国に入るには
「人あらたに生れずば神の国に入る事能(あた)わず」と
イエスは言ったのであるが、
人間が「神の国」即ち「幸福の国」に入(はい)るためには
「新たに生れる」ことが必要なのである。
「新たに生れる」とは肉体が母親の胎内に入って
再び出直して来る事ではないのである。
自分自身を内的に変化して霊的に生れ更(かわ)ることである。
自我の想念が完全に新しくなることである。
考え方がスッカリ新たになる事である。
肉体と云う皮袋が新しくなっても、
自分の心の想いが新しくならなければ
幸福生活を送ることは出来ないのである。
吾らが不幸に感じたり、淋しくて遣(や)る瀬(せ)なく感じたりするのは、
自分自身が神の波長から勝手にハミ出している証拠である。
謂わば迷い児になっているに過ぎないのです。
<感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>
『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいる、これを発見することが新生である - 伝統
2021/04/08 (Thu) 03:48:08
*「光明道中記」(4月8日《釈迦新生の日》)より
【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今
―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】
「お前は何を求めているのだ? 」
「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」
「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」
「《この》私が永遠か? 」
「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」
此の対話の示す真理を理会する者は幸である。
各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。
是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。
吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。
<感謝合掌 令和3年4月8日 頓首再拝>
《我 今、神の子として新生せり》 - 伝統
2021/05/01 (Sat) 02:54:03
*『 生長の家 』(昭和25年4月23日の法語)より
今、自分は新生したのである。
肉の子なる夢さめて、霊の子に新生したのである。
物質の自分はなくなって神の子の自分となったのである。
吾は 新たに生れ更(かわ)ったのである。
過去の失敗は決して自分を悩ますことはできないのである。
過去はないのである。
唯(ただ) 「 今 」 のみがあるのである。
今 自分は 新生したのである。
今自分は過去の放蕩(ほうとう)息子であった姿をすてて
父の家に帰ったのである。
吾は 新たに衣をぬぎかえたのである。
吾は 神の独子(ひとりご)である。
神のもち給(たま)うすべてのものは わがものである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843022.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年5月1日 頓首再拝>
毎朝毎朝が新生 - 伝統
2021/06/01 (Tue) 02:52:02
*『 幸福を招く365章 』(P4)より
~朝 起きた時に この簡単な方法で
今 新生せり。
こう云(い)う考えは、私達を清らかな新生活にまで
おし進める力をもっているのである。
だから新年でなくとも、つねに今、新年だ。今、新生だと
常に考えることは まことによいことであるのである。
吾々(われわれ)は 毎日新生するのである。
毎朝毎朝が新生である。
この新生の最初の時間 ― ポッカリと目覚めたその瞬間に、
善(よ)き事を考えましょう。
「 私は神の子だ。健康だ。素晴らしい朝だ。
好(よ)い事が屹度(きっと)訪(おとず)れてくる 」
こう心の中で、又(また) 言葉に出して二十遍(ぺん)となえてから起きましょう。
そして神想観をすぐ寝床(ねどこ)の上で坐(すわ)って行いましょう。
この簡単な方法が、あなたの無限の可能性をひらいてくれる事になるのです。
無限に完全なあなたの実相への扉(とびら)を ひらいていくれるのです。
無限に円満な人格が 日に日に大成(たいせい)されて来るのです。
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/af456d2e063c6bcdb18e443c0a29c54f
<感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>
心の岩戸開きに、新天新地が顕われる - 伝統
2021/06/29 (Tue) 03:05:03
*「光明道中記」(6月29日《天国成就の日》)より抜粋
【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】
「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。
《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。
おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。
そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。
<感謝合掌 令和3年6月29日 頓首再拝>
毎日が新生であり、毎日が新しき体験である - 伝統
2021/08/01 (Sun) 04:43:08
*「眞理」第2巻基礎篇第3章(P81~82)より
~《毎日新しき心持で仕事をなせ》
毎日が新生であり、毎日が新しき体験である。
、
毎日同じ机に向って事務をとっているようであるけれども、
心持の上から、又来信や、接触する人々との心遣いの上から云えば、
昨日と同じものはひとつもないのである。
ひとつひとつの体験が悉(ことごと)く
自分の魂の向上進歩の段階となるものなのである。
過去にとらわれてはならない。
今、新しき経験があなたの目の前にあるのである。
それを真心(まごころ)を以て一心不乱につくすとき、
その次の段階がひらけて来るのである。
蕾はそれが熟し切ったとき開花するのである。
蕾は蕾自身を充分にふくらましておれば、
或る時期が来たら、自然に美しく開く、
時期が来(こ)ぬのに花を咲かせては
霜(しも)にあてられて枯れてしまうのである。
<感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>
《永遠に若き自己の生命を自覚せよ》 - 伝統
2021/09/01 (Wed) 04:50:20
*「眞理」第2巻基礎篇第3章(P88)より
新年ばかりが新しい年ではないのである。
毎日が新生でなければならない。
今あなたは全然新しい生活に入(はい)ることが出来るのである。
あなたは今迄環境に縛られてどうすることも出来ない
弱小者(又は劣等者)だと思っていたかも知れないけれども、
今日(こんにち)以後は決して弱小者でも劣等者でもないのである。
あなたが今、神の子だと自覚したとき既にあなたは強者であるのである。
自己が既に強者であると云う事を自覚したとき
直(すぐ)にあなたは強者となることが出来るのである。
もう既にあなたは強者であるのである。
新生するのにあなたは決して老い過ぎていると云うことはないのである。
神の子たち人間は何人(なんぴと)も永遠に若いのである。
<感謝合掌 令和3年9月1日 頓首再拝>
《新しき天と地とを見る》 - 伝統
2021/10/01 (Fri) 05:02:36
*「眞理」第2巻基礎篇第8章(P226)より
今、すべての過去の悲しみを拭い去れ。
すべて過去の不快の印象を心より消し去るべし。
そして悦びの世界に新生せよ。
今、あなたはすべての悲しみと不快とを心から拭い去ったのである。
貴方の心の中に残っているものは唯(ただ)、
愛と悦びと美しさと平和と賞讃とのみである。
醜いすべてのものは過ぎ去ったのである。
憎しみも悲しみも争いも既にない!
今貴方は幸福の世界に新生したのである。
慶びの世界に新生したのである。
愛情と讃嘆の世界に新生したのである。
見渡すかぎり唯(ただ)、美しき物のみが充ち満ちているのである。
古き天と地とは過ぎ去り、新しき天と地とが、
喜びの花嫁に愛と平和と賞め合いとの装(よろお)いをつけて
天降って来たのである。
<感謝合掌 令和3年10月1日 頓首再拝>
“今までの自分” に暇乞させること - 伝統
2021/11/01 (Mon) 04:40:12
*『白鳩』(昭和37年3月号)より
環境は自分の心的状態の投影である。
これを仏教では “三界唯心” と謂い、
生長の家では “環境も境遇も皆心の影” と謂うのである。
吾々は四方すべて鏡でつくられた部屋の中に住んでいるようなものである。
周囲と自分とは不可分の一体なのである。
環境をかえることよりも、自分自身が変ることが必要なのである。
自分自身が変れば、環境も自然に変るのである。
“今までの自分”に暇乞させることが必要である。
環境は自分の心の影なのである。
自分の愛が足りなかったことを反省せよ。
境遇の善悪は“場所”を変えることによって得られるのではなく、
“心”を変えることによって得られるのである。
愛はすべてを好転する万能薬である。
「自分」は自分自身の環境を自分の行くところへ持って行くのである。
「自分」が変らなければ環境の変わりようはないのである。
「自分」自身からのがれるために映画を観に行く。
小説を読む。 性的遊戯をする。
しかし、そんな事では「自分」自身を一時的に胡魔化すだけで
「自分」自身から完全に脱却する訳にゆかないのである。
何故なら、小説を読むのも、“旧い自分”〈旧我〉 であるし、
映画を観るのも、セックスを楽しむのも 「旧我」 であるからである。
其処には 「旧我」 からの脱却は全然ないのである。
「旧我」 からの脱却は “肉体的自我” の自覚から、
“霊的自我” への自覚に生れかわらなければならない。
「旧我」 は憎むかれども “霊的自我” は愛するばかりである。
「旧我」 は恐れるけれども霊的自我は愛するだけである。
“無我”になったとき「旧我」が消滅する。
「旧我」が消滅するとき“新しき霊的自我”があらわれる。
それを“新生”すると云うのである。
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c7df22474665eaa628fccfbcb194186c
<感謝合掌 令和3年11月1日 頓首再拝>
神は、不断の新生である - 伝統
2021/12/01 (Wed) 05:05:38
*「希望を叶える365章」(P174)より
~生命には前進のほかない
生命の実相を悟った者にとっては、毎日毎日が新生である。
何故(なぜ)なら人間の生命の実相は神の子であり、
神は、不断の新生であるからである。
神は過去を捨てて、常に「今」前進する。
過去と同じものを大自然は一つとしてつくらないのを見ても
それが分かるのである。
過去が失敗の歴史のように見えてもそれが何だ。
北樺太で自然林に大火があっても一切の樹木が焼けて
痕跡をとどめなくなった後(のち)に、
やがて小さなトド松の苗木が生(は)えてくるそうである。
それが生長して来ると、トド松の枝で護られながら白樺の苗が生えて来る。
このように生命(せいめい)は困難を超えて前進するのである。
生命(せいめい)にとっては前進のほかないのである。
唯(ただ)前進あるのみだ。
過去に大火があって焼けてしまったとて、
生命(せいめい)は”死を超えて”前進する。
(中略)
過去の失敗が何だ。唯(ただ)前進あるのみである。
<感謝合掌 令和3年12月1日 頓首再拝>
《新たに生まれる》 - 伝統
2021/12/22 (Wed) 04:59:14
*「光明法語」(12月22日)より
知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。
人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。
『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。
だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。
物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。
これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。
<感謝合掌 令和3年12月22日 頓首再拝>
《キリストの復活》 - 伝統
2021/12/23 (Thu) 04:54:06
*「光明法語」(12月23日)より
ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。
彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。
キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。
かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。
<感謝合掌 令和3年12月23日 頓首再拝>
新たに生まれる - 伝統
2022/01/01 (Sat) 04:37:02
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より
われわれを生かすのは明るい思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。
生命は暗黒の中にも光を見る。
暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
光の方へ光の方へと向いていく。
そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
生命には光が必要なのである。
光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。
再び言う。生命には光が必要なのである。
新しい年には新しい心が生まれる。
元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。
他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。
元旦からまず始めよう。
それは明るい心を持つということである。
一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。
ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
ただそれだけ一つのことである。
これだけのことならばわたしにもできると思う。
明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
何事が起こっても悲しまぬということである。
何事が起こっても失望せぬということである。
何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。
去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。
天地一新。
悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
それはすべて一新していく姿である。
<感謝合掌 令和4年元旦 頓首再拝>
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。 - 伝統
2022/01/03 (Mon) 07:26:06
*「光明道中記」(1月3日《そのまま素直な日》)より
【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
(「生命の實相」第十二巻)】
一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って
吾々を生かしてくれていると知るのが悟りである。
斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。
料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が
如何に鹹(から)く、如何に酸(す)っぱきかを思え。
既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。
既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。
犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。
足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。
到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。
到るところに大自然の恵満ちたり。
霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、
百鳥(ひゃくちょう)啼くも、白鳩飛ぶも、犬走るも、
眼覚めて見れば恵みならざるなし。
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。
<感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>
毎日、毎日が新生 - 伝統
2022/01/15 (Sat) 01:56:57
*「光明道中記」(1月15日《新天地開ける日》)より抜粋
【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、自由な愛の世界に出ることである。
(「生命の實相」第四巻)】
新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。
注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、
新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、
惰力に押し流されていたような自分を発見して悲しくなる人が多い。
併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。
<感謝合掌 令和4年1月15日 頓首再拝>
新生と云うことの本当の意味 - 伝統
2022/02/01 (Tue) 05:03:59
*「眞理」第3巻初学扁(P15~16)より
たとえば、誰でも年のはじめと云う言葉をきくと
何となく嬉しい気がするでありましょう。
しかし如何に新年を迎えたからと云って、
それが単にカレンダーを一枚めくったと云うだけの
意義しかないものであってはならないのであります。
またそれが、単に一歳(さい)年を老った
と云う意味であってもならないのであります。
それはもっと深い意味をもったものでなければなりません。
古(いにしえ)の聖者は
「人あらたに生まれずば 神の国を見ること能わず」と云われました。
新年を迎えると云うことは、新生することであってこそ尊いのです。
ちょうど昨夜眠って次の朝に目を覚ますと、
昨夜の疲れていた時に比べると、元気《はつらつ》として、
一層若くなったような気がするでしょう。
それと同じように、新年を迎えると云うことは、
去年よりも一層元気になって、《はつらつ》とした気持ちになり、
一層若返って来て、「何でもできるぞ」と云うような勇気が、
自分の中から湧き出てくるようでなければならないのであります。
<感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>
今日は旧暦の1月1日 - 伝統
2022/02/01 (Tue) 15:08:25
新年のご挨拶
*Web:かんながら(2022.02.01)より
あけましておめでとうございます。
今日は旧暦の1月1日。
旧暦では元日の夜は新月で、ここから全てが新しく始まっていくのです。
月は命のサイクルとも呼応しているので、
旧暦のほうが暮らしに密接しているような気がします。
気持ちは何度もリセットするに越したことはないので、
今日も新しく生まれ変わるとしましょう。
実際は毎瞬のように新しく生まれ変わっているのですが、
我々のマインドは記憶や知識や信条などを持ち運び、
新しいいまを過去の繰り返しに変えてしまいます。
だからこういう機会を使いましょう。
もう終わったことなどどこにもない。
すべては一新された。
どんな生き方だって可能だ。
そんなわけで
あけましておめでとうございます(^^)
https://abetoshiro.ti-da.net/e12150428.html
<感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>
毎日を感謝の生活に致しましょう - 伝統
2022/03/01 (Tue) 04:16:44
*「眞理」第3巻初学扁(P16~17)より
無論、新年でなくとも、吾々は日に日に新たに生れた若人(わこうど)の
ような元気と、新らしい精神と、新らしい理想とをもって、
毎日の朝々を迎えねばなりません。
それはあなたが向上しようとするかぎり絶対に必要なことなのです。
しかし何と云っても、普通の日の毎朝は、昨日(きのう)のつづきであって、
新らしく生れたような気持にはなりにくいものなのです。
誰でも「来年からはしっかりやるぞ」とか、
「来年からはこの悪い《くせ》を改めるぞ」とか、
「今年こそは心の日記帳に一つの悪いことも記録しますまい」とか
思うのでありますけれども、いつの間にかその決心が失われ、
もとのつづきのような、何の《へんてつ》もない、何の希望もない、
何の理想もない、ただの惰力で動いているような
無意義な退屈な生活になってしまうのは、惜しいことです。
この新年からは、そんなことのないようにしようではありませんか。
毎日が《よろこび》の生活であり、感激の生活でありたいではありませんか。
<感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>
「新たに生まれる」とは - 伝統
2022/04/01 (Fri) 06:45:25
*「眞理」第3巻初学扁(P17~19)より
~生活に歓びが伴わない根本的原因は何でしょうか
吾々が、よろこびの生活を送ることが出来ないのは何故でしょうか。
その根本的原因が何であるかと云えば、あの古(いにしえ)のの聖者の云った
「人新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」の言葉に
尽きるのであります。
毎日毎日は新たに訪れ、新らしき年は、「正月」と云う
新らしい装いをつけてあらわれてまいりますが、いくら容れものが
新らしくなっても、その中に住む人間が新らしくな らないから、
いつまでたっても、新らしい悦びに満ちた人生 が生まれて来ないのであります。
それでは、「新たに生まれる」とはどう云うことでしょうか。
ニコデモと云う人は 「もうこんなに年を老ったら再び母親のお腹に入って
新たに 生まれてくるなどと云うことは出来ないではないか」と云った
と云うことでありますが、「新たに生まれる」とはそ んなことではありません。
「新たに生まれる」とは、「自分自身とは一体どんなものであるか」
と云う考えが新らしくなることなのであります。
人間を物質の塊(かたまり)であり、物質の或(あ)る成分とある成分とが
偶然に適当な温度や湿気の中で集まったら、その化学的作用によって、
蚊のボーフラがわいて来るように、
人間も、物質の偶然の集まりで生れて来たのであって、
人間と云うものには、何も生れた意義も目的もないと云うような
「人間」についての考え方をもっている限りは、 「人間」であること
が楽しい筈(はず)はありません。
「人間」を地球に生(わ)いたカビかボーフラのように思っているのでは、
毎日毎日の生活に意義も理想もないのは当然のことになります。
それどころか「人間」に生れたことが詛(のろ)わしくさえなります。
「人間」に吾々を生んでくれた父母が、うらめしくさえなります。
それは無理はありません。
それで、生れたのだから止(や)むを得ないと云うような、
だらしない生活を送っているのでは、
「年」ばかり新年になりましても、楽しくないのは当然です。
人間が本当に楽しくなるには「人間」は物質の塊ではない。
それ以上の素晴しいものなのだと云う新らしい考え方に
生れかわらねばなりません。
<感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいる、これを発見することが新生である - 伝統
2022/04/08 (Fri) 07:37:40
*「光明道中記」(4月8日《釈迦新生の日》)より
【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今
―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】
「お前は何を求めているのだ? 」
「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」
「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」
「《この》私が永遠か? 」
「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」
此の対話の示す真理を理会する者は幸である。
各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。
是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。
吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。
<感謝合掌 令和4年4月8日 頓首再拝>
たえず新しくなること - 伝統
2022/05/01 (Sun) 06:58:39
*『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93>より
創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。
現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。
表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。
たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。
たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。
たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。
<感謝合掌 令和4年5月1日 頓首再拝>
「肉体は人間でない」と根本的に自覚することがコンヴァーションであります - 伝統
2022/06/01 (Wed) 06:11:05
「肉体は人間でない」と根本的に自覚することが、「自我の新生」であり、コンヴァーションであります
*『 到彼岸の神示 』神示講義・自覚の巻(P228~231)より
「 我(われ)が何々を欲する 」といっても、
その「 我 」の正体が「 肉体 」という自働装置の「 心 」であるか
「 霊(たましい) 」そのものの「 想い 」であるかが問題であります。
肉体は「 霊 」の使う道具であり
「 霊 」が飼っているシェパードみたいなものである。
肉体は「 本当の自分 」じゃないので、一つの道具であって、
恰(あたか)もシェパードが番犬という「 道具 」として
備えられてあるのと同じであります。
それが、たとい道具でありましても、
道具としても一代かぎりでは困るものですから、
「 肉体 」という道具には、オートメーション式に、
食欲を起(おこ)して食物を摂取して エネルギーの消耗を補給し、
一代きりで、次の代がなくては困るからオートメーション的に
****も起きるように構造され、
その肉体の生活を維持するには いろいろの物質も要(い)るから
物質に対する所有欲も自働的に起るようになっており、
睡眠によってのみ補給される成分もあるから
自働的に睡眠欲も起るようになっております。
所謂(いわゆ)五欲というやつが
肉体それ自身の自働的作用として起っている訳なのであります。
それですから、これらの欲望は、
“ 本当の自分 ”( 霊的自我 )の願いではなく、
肉体の自働装置から起る作用ですから
「 自我 」のように見えても「 我 」ではない。
( 中略 )
肉体の****や食欲に 霊(たましい)が
無統制に引きずられて行(ゆ)くのは、
肉体というシェパードに霊(れい)が引きずられて行く
逆様事(さかさまごと)であります。
私たちが自由を得(う)るには、
どこまでも「 肉体 」というものを「 人間 」そのものだ
と考える考え方を捨てなくてはなりません。
「 肉体は人間に非(あら)ず 」という事は、
聖経や神示にも示されておりますし、
いろいろの生長の家の書物の中にも書かれてあるのでありまして、
「 肉体は人間でない 」と根本的に自覚することが、
「 自我の新生 」であり、コンヴァーションであります。
( 中略 )
私たちのように、「 霊的自我 」に目覚めた人たちは、
出来るだけ力をつくして、「 肉体は人間そのもの 」ではなく、
人間が念絃(ねんげん)即(すなわ)ち「 想念の絃(いと) 」によって
弾奏した曲譜が外界に具象化した形だということを人類に知らさなければなりません。
だから此の神示には
「 生命はその念絃の弾ずる曲譜に従って 肉体を現(あらわ)すのである 」と
示されているのであります。
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/79b63bd8f9edfd0d1c4e00b275f8ca44
<感謝合掌 令和4年6月1日 頓首再拝>
《今》既に新天新地がある - 伝統
2022/07/01 (Fri) 07:30:31
*「光明道中記」(6月29日《天国成就の日》)より抜粋
【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】
「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。
《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。
おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。
そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。
・・・
<参照>
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
【新天新地の神示】&【講義】
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/&mode=res&log=140
<感謝合掌 令和4年7月1日 頓首再拝>
《われ新しき天地に呼吸す》 - 伝統
2022/08/01 (Mon) 08:56:01
*『栄える生活365章』(P4)より
われ新しき天と地を迎う。祝福すべきかなこの新天地。
今よりのち一切の悩み、悲しみ、失望、落胆ことごとくなき新天地に我生まれたるなり。
暗黒は空の彼方に消え去り、新しき光、五彩の虹を放って今この新天地を照らすのである。
われは一切の過去を放ち去ってこの新天地に立ち、この新天地に呼吸するのである。
生命(せいめい)満ちあふれたわが生命よ。
汝は神のいのちである。
一切の汚れなき新しき生命である。
過去の悪しき印象は、青空が飛ぶ鳥の跡を印しないと同じように、
わが潜在意識から消え去ったのである。
わがいのちは新しき自由と繁栄の世界に羽撃(ばた)くのである。
一切の”悪”は過ぎ去ったのであった。
”悪”は実在ではなく、単に妄想の幻影に過ぎないのであるから、
一度過ぎ去った後(あと)に再び還ってくることはないのである。
わが新しき天地は永遠に新しく汚れなく悩みなく神聖である。
神わが家族すべてを祝福したまうのである。
<感謝合掌 令和4年8月1日 頓首再拝>
《新生を感謝する祈り》 - 伝統
2022/10/01 (Sat) 05:06:45
*「聖経 真理の吟唱」(P10)より
https://www.youtube.com/watch?v=eLa64_Nmxpw
われらここに新しき日を迎う。
感謝すべきかな。
われ神に感謝し奉り、さらに天地一切のものに感謝し奉る。
覚めている間も、眠っている間も、一分一秒といえども、
神の護りなくしては私たちは生きていられなかったはずである。
日光は、空気は、水は、食物は、すべて神より来たり、
私たちを養い給うたのであり、これからも常に養い給うのである。
新しき年を迎うるにあたり、過去の御護りに感謝し奉るとともに、
今後もまた神の御護りの篤からんことを希い奉り
神の御恩に報い奉らんがために、神から与えられたる使命に
誠心(まごころ)をつくして邁進せんことを誓い奉る。
神はすべてのすべてであり給う。
天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、
私たち人間も神の愛と智慧と生命との顕現であるから、
天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、
兄弟姉妹であるのである。
それゆえに、天地間の一切のもの悉くみな私たちの味方であって、
私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。
もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、
天地と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、
天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、
神は「省みて和解せよ」と教えられているのである。
神はすべてのすべてであり給い、一切処に偏在し給うのである。
神は無限にして神聖、常に永遠に、そして今ここに、
私を取り巻き、私の周囲に、上にも下にも、左にも右にも、
前にもうしろにも、天地、上下、四方、四維、
神の在(いま)さざる処は無いのである。
その神の最高の表現体として 今 私はここに生きてあるのである。
したがって私は、永遠の存在であり、有限に見ゆれども無限、
個とみゆれども全、久遠即今、調和おのずから備わり、
万物の霊長であり、万物の支配者であるのである。
したがって、わが往(ゆ)くところ常にそこは極楽となり、
地上に天国の秩序が実現し、争いは消え、暗黒は滅し、病は癒され、
悦びと感謝とに充たされるのである。
私は今、この真理に目覚めたのである。
この真理に目覚めることが新生である。
私は今新生して、新しき日を迎う。
過去は過ぎ去り、すべてのもの新しき悦びに満たされ、
すべての者、神に向かいて賛歌を謳う。
真理の御光り照り輝き、今より後、悲しむものなく、嘆く者なく、
苦しみによる呻(うめ)きも、叫びも、この世界より消え、
ただ神に向かいて感謝の歌を謳う。
その歌、天に舞いのぼりて、天上楽となり、地に降りて泰平楽となる。
まことに我れ新生して真理に目覚めたる今、
ここに久遠実成の浄土が現実に存するのである。
われ今、神を敬し、神に感謝し、悦びの賛歌を献げ奉る。
頓首、合掌して、再拝又三拝す。
ありがとうございます。
<感謝合掌 令和4年10月1日 頓首再拝>
『未来はあなたの掌中にある』 - 伝統
2022/11/01 (Tue) 08:46:49
*『幸福を招く365章』(P94)より
過去の不幸を心の中で繰り返すな。
過去は既に過ぎ去ったのであり、
未来は自分の心の中にあるのである。
朝々(あさあさ)が新生である。
新たなる人生があなたを訪れるのである。
未来はあなたの掌中にある。
夜の帳(とばり)は
あなたの過去のすべての嘆きを拭(ぬぐ)い去ったのである。
この朝、あなたは新生したのである。
新しき機会があなたを訪れる。
これこそが真理である。
昨日(きのう)までの一切の不幸を嘆くな。
一切の病弱を、一切の貧苦を。
それは過去のあなたの想念の影に過(す)ぎなかったのである。
過去は、あなたが心でそれを捉えない限りは
あなたを最早(もは)や苦しめることはできないのである。
過去を捨て、現在に生きることが光明生活の極意である。
今ここにあなたが、人々の幸福のために何物かを与えれば、
未来にあなたの幸福が実って来る。
あなた自身が未来を創造(つく)りつつあるのである
<感謝合掌 令和4年11月1日 頓首再拝>
「新たに生れる」とは、旧我の脱落のこと - 伝統
2022/11/02 (Wed) 09:21:06
*「光明道中記」(11月2日《旧我の消える日》)
【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】
「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。
道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、
仏法を知れりと言うにはあらずということを」と言っていられる。
悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは
旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」
とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。
自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。
キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。
「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。
<感謝合掌 令和4年11月2日 頓首再拝>
毎日の朝を“新生の日”とせよ - 伝統
2022/12/01 (Thu) 04:51:22
*『聖経版 続 真理の吟唱』(P57より)
毎日毎日があなたの人生の元旦(がんたん)でなければならないのである。
朝目が覚めたら、その時を一年の元旦のように思うがよろしい。
そしてすべての人々に
「お目出とう、好い年が明けまして有りがとうございます」と
挨拶し得るほどに“新生の気分”になっていなければならないのである。
・・・
*聖歌『天国成就の歌』(一番)
過去はいま 過去になりたり
未来世は いまだきたらず
いまここの いのち生きたり
真理のみ われをてらせり
真理のみ われをてらせり
<感謝合掌 令和4年12月1日 頓首再拝>
《新たに生まれる》 - 伝統
2022/12/22 (Thu) 08:07:17
*「光明法語」(12月22日)より
知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。
人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。
『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。
だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。
物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。
これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。
<感謝合掌 令和4年12月22日 頓首再拝>
《再び新生をする》 - 伝統
2022/12/31 (Sat) 10:31:52
*「光明法語」(12月31日)より
愈々今年もこれで終わる。
吾等は今日限り一切の悪しき習慣、
人を怒ること、憎むこと、恨むこと、不平に思うこと、悲しむこと、
取越苦労すること、持越苦労する事を止めることを誓うのである。
何事に対しても腹立てることなく、常に愉快に、明るく、
人々の心の中に、行いの中に、常に善のみを見て悪を見ず、
物事は今を生かして積極的に取進み、
常に自らが神の子であり、円満完全であり、
無限の能力と健康とを所有していることを自覚自信し、
撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。
<感謝合掌 令和4年12月31日 頓首再拝>
【 天国成就の歌 】【元旦、尊師の言葉】 - 伝統
2023/01/01 (Sun) 05:03:49
【 天国成就の歌 】
一)
過去はいま 過去になりたり
未来は いまだきたらず
いまここの いのち生きたり
真理のみ われをてらせたり
真理のみ われをてらせたり
ニ)
わがこころ みそらにむかい
みこころと ひとつになれり
かがやきは こころに満ちて
わがいえに たからみちたり
わたいえに たからみちたり
三)
くらきもの すべて消えたり
わがくにに かがやきみちぬ
よろこびは こころにみちて
いえいえに 祝福みちぬ
いえいえに 祝福みちぬ
四)
ときはいま ついにきたりぬ
かみのさが いまあまくだり
いとたかき ひかりの雲に
のぼり行く われら神の子
のぼり行く われら神の子
五)
のぼり行く われら神の子
うつくしき 神の子のさが
愛と智慧 いのちのひかり
かがやきて ここぞてんごく
かがやきて ここぞてんごく
六)
てんごくと 地はひとつなり
かみがみと われは身ひとつ
みちびきは 神よりきたり
よろこびの 讃歌みちたり
よろこびの 讃歌みちたり
・・・
伝統板・第二「元旦、尊師の言葉」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6711245
(1)【 我れ今日(こんにち)新生す 】 *「幸福を招く365章」(P3)より
(2)【 わが家は喜びの庭 】 *「女性の幸福365章」(P3)より
(3)【 われ新しき天と地を迎う。祝福すべきかなこの新天地。】
*『栄える生活365章』(P4)より
(4)【 あなたは幸福の磁石である 】 *「人生の秘訣365章」(P21~22)より
(5)【 新たに生まれるあなたの自覚 】 *「神と偕に生きる真理365章」(P19)より
(6)【新たに生まれるための祈り】 *「如意自在の生活365章」(P21~22)より
(7)新たに生まれる :「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より>
<感謝合掌 令和5年1月1日 頓首再拝>
新年に噛み締めたい名言集 - 伝統
2023/01/02 (Mon) 07:55:57
*メルマガ「人間力」(2023.1.1)より
(1)【東洋思想家・安岡正篤先生の言葉】
一、年頭まず自ら意気を新たにすべし
二、年頭古き悔恨(かいこん)を棄つべし
三、年頭決然滞事(たいじ)を一掃すべし
四、年頭新たに一善事を発願すべし
五、年頭新たに一佳書を読み始むべし
(『安岡正篤 一日一言』より)
(2)【仏教詩人・坂村真民先生の言葉】
日本を
楽しい国にしよう
明るい国にしよう
国は小さいけれど
住みよい国にしよう
日本に生まれてきてよかったと
言えるような
国造りをしよう
これが二十一世紀の日本への
わたしの願いだ
(『坂村真民一日一言』より)
(3)【京都大学元総長・平澤興氏の言葉】
およそ世の中に目がさめたことも、
無事に太陽が昇ったことも、
今無事に心臓が動き、
やすらかに呼吸していることなども、
一見平凡ではありますが、
実は未だに完全には解き明かすことのできぬ
不思議がその奥にあるのであります。
(『平澤興一日一言』より)
(4)【不世出の哲学者・森信三氏の言葉】
「人生二度なし」
これ人生における最大最深の真理なり。
(『森信三一日一語』より)
(5)【京セラ名誉会長・稲盛和夫氏の言葉】
ほとんどの人は心の大切さに気づかず、
心を立派にしようなどということに関心を持たない。
まずは、心を高めなければならない、
心を美しくしなければならない、
と思わなければならない。
そうしても、われわれは煩悩、
欲にまみれた人間であるから、
なかなかそうなれない。
なれないけれども、
「ならなければならない」と思い、
反省する
この反省があるから、
また努力をしようと心がける。
このことが人生にとっては大切なのである。
(『稲盛和夫一日一言』より)
<感謝合掌 令和5年1月2日 頓首再拝>
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり - 伝統
2023/01/03 (Tue) 08:03:38
*「光明道中記」(1月3日《そのまま素直な日》)より
【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
(「生命の實相」第十二巻)】
一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って
吾々を生かしてくれていると知るのが悟りである。
斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。
料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が
如何に鹹(から)く、如何に酸(す)っぱきかを思え。
既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。
既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。
犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。
足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。
到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。
到るところに大自然の恵満ちたり。
霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。
<感謝合掌 令和5年1月3日 頓首再拝>
毎日、毎日が新生なのである - 伝統
2023/01/15 (Sun) 06:41:57
*「光明道中記」(1月15日《新天地開ける日》)より
【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、
自由な愛の世界に出ることである。 (「生命の實相」第四巻)】
新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。
注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、
新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、惰力に押し流されていたような自分を
発見して悲しくなる人が多い。
併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。
愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、
大自然の愛を感ずること、人の愛を感ずること、
すべての物と事とに内在する愛を感ずること
―― 一言にして言えば、すべての事物をただ有難く
拝まさせて戴く心になることが此の月の毎日の課題であったのである。
有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。
自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。
「机さん有難う」「空気さん有難う」「御食事有難う」「日光有難う」
「お父さん有難う」「お母さん有難う」
斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。
<感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>
【常に自分を新しくする】 - 伝統
2023/02/01 (Wed) 08:01:14
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.5)より
(ナイジェル・カンバーランド氏の心に響く言葉より…)
《成功する人は常に自分を新しくしようとし、
成功しない人はいつまでも古い自分にしがみつく》
「自分自身をつくり上げ、それを新しくする。
そして、人生も新しくする。
これはあなたの人生であり、
その歴史と現在はあなたのものなのだ」
(チャールズ・ブコウスキー /アメリカの作家)
誰もが、「今は大きな変化を起こすべきときだ」
「自分をリセットすべきときだ」と思ったことがあるはずです。
人生を振り返り、歩んできた道のりを辿ってみれば、
転機と呼べる出来事がいくつもあったことがわかるはずです。
当時はたいしたことではないと感じていても、
後になって考えてみるとそれが大きな変化のポイントだった
とわかることもあります。
自分に大きな変化を起こす方法には、様々なものが考えられます。
・今の仕事を辞め、新しいキャリアを目指す。
・新しいことを学ぶために学校に戻る。
・古い人間関係から離れ、新しい人とつながる。
・気楽な独身暮らしをやめ、パートナーと暮らし始める。
・自分の性格の一部を変えようとする。
・古い服を捨て、ファッションスタイルを変える。
・住み慣れた場所を離れ、新しい土地に移住する。
・家族やパートナーとの関係を変える。
大きな変化を起こそうとしているとき、罪悪感を覚えることがあります。
挫折感や、人生を最初からやり直さなければならないという感覚です。
しかし、このような罪悪感や恥ずかしさに悩まされる必要はありません。
成長し、成功を手に入れたいのなら、
自分を刷新していかなければなりません。
私たちは年をとって成熟するにつれ、
多くのことを学び、経験していきます。
それに合わせてそれまでの目標や計画を変えていくことは、
不可欠なのです。
変化を受け入れましょう。
そして、その変化があなたの今日までの
成功の上に成り立っていることを確かめましょう。
まったく新しい自分になろうとするのではなく、
それまで人生で築いてきたものを土台にして変化を起こしていくのです。
《成長し、成功を手に入れたいのなら、
自分を刷新していかなければならない》
<『成功者がしている100の習慣』ダイヤモンド社>
・・・
変化を起こすには、コンフォートゾーンという
居心地のいい場所から抜け出すことだ。
それを、立命館アジア太平洋大学学長の出口治朗氏は「人・本・旅」という。
「変わった人」「面白い人」「年下の人」「年上の人」
「異性」「異業種の人」「初めての人」「学んでいる人」
という様々な人たちと会うこと。
では、どこでそういう人と会えるか。
それが「旅」だ。
旅とは、海外や日本を旅するだけではない。
新しくできたカフェや斬新なショップや
シェアオフィスに出かけたり、セミナーや勉強会や
イベントに参加するのも立派な旅だ。
そして、自分がイベントを企画したり、
セミナーを主催するなら、もっといい。
そのことが、自分のコンフォートゾーンから抜け出すことになるからだ。
勇気を振り絞って参加した勉強会であればあるほど、
新たな面白い人に出会うチャンスは高まる。
そして、本はとにかく多読すること。
様々なジャンルの本を片っ端から読み続けること。
多読すれば、「量は質を凌駕(りょうが)する」という意味が分かる。
多読すれば、あるときを境に、読書が習慣として体の一部になる。
常に自分を新しくすること…
つまり、自分を定期的にアップデートすること。
「人・本・旅」で自分を常にアップデートしたい。
<感謝合掌 令和5年2月1日 頓首再拝>
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統
2023/02/16 (Thu) 07:33:00
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より
常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。
人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを
生物学上の実験によって確かめられたという。
人間の肉体が老いて衰え死するということは、
細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれないからであって、
必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。
人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。
老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、
ただ過去の惰力で生きており、過去の惰力でものを考え、
過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。
過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。
<感謝合掌 令和5年2月16日 頓首再拝>
新芽には力がある - 伝統
2023/02/17 (Fri) 04:59:23
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より
ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、
あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。
開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。
宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。
新しい酒を古き革袋に容れるときは破れる。
<感謝合掌 令和5年2月17日 頓首再拝>
【新たに生れる言葉】 - 伝統
2023/03/02 (Thu) 07:52:07
*日々読誦三十章経《一日の経言(のりごと)》より
天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。
今吾等は新生したのである。
今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである。
吾れはいま力と勇気をもつて
新生し新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事に溢るる熱誠をもつて赴(おもむ)く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。
そは吾れいま吾が求むるものは
凡て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る。
吾れは決して此の感じを失わないのである。
吾れは今日(きょう)も終日(ひねもす)
吾れを支えたまえる無限全能の力をわがうちに感ずるのである。
何が吾れに起つて来ようとも、
其れに対する準備が与えられていないと云う事はあり得ない。
吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。
吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。
吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。
吾が内なる生命(せいめい)は、
神と融け合つて一つとなつているのである。
吾が内より生命(せいめい)の清水は
無限に泉(いず)み出るのである。
真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、
真理の道にわれを導き給うのである。
吾れは全能の力によって守護されているのである。
吾れは無限の力の泉を自己のうちに有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。
今日(こんにち)われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。
吾れは此の魔力の如き力が、
吾が内に宿れる『無限なる者』の力であることを知るのである。
吾れ此の『無限なる者』に感謝し奉る。
<参照Web:”山ちゃん1952 さま”ブログ(2014年07月16日)
『日々讀誦三十章經』
→ http://tecnopla1011.blog.jp/archives/9817360.html >
<感謝合掌 令和5年3月2日 頓首再拝>
既にあなたは新生したのである - 伝統
2023/04/01 (Sat) 06:42:02
*「栄える生活365章」(P105)より
あなたは今、神想観して、
神の智慧を受け、愛を受け、生命(せいめい)を受け、
全心身が新たなるものとなったのである。
あなたは今サラサラと過去を水に流したのである。
人々があなたに与えた損害、侮辱、不当なる取り扱い・・・など、
一切の恨みをあなたは今完全に心から洗い流したのである。
それゆえにあなたの心は今サラサラとして何ものにも縛られない
快(こころよ)い自由を享受(きょうじゅ)しているのである。
あなたの心の掃除は完全にできてしまったのである。
あなたは心の中に何ものもあなたを縛る不快なものは残っていないのである。
あなたは自分の綺麗サッパリ洗われた心の中に
新しい”善き計画”を何でも描くことができるのである。
あなたは神想観して、素晴らしい善き美しきアイディアを
神から受けることができるのである。
やがて、その美しき善きアイディアはあなたの周囲に実現して
裕(ゆた)かにして幸福なる美しき楽園が実現するのである。
過去を洗い流して新生せる人は幸いなるかな。
<感謝合掌 令和5年4月1日 頓首再拝>