伝統板・第二

3837929
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

そのまま・法爾自然③ - 伝統

2021/01/11 (Mon) 02:39:34

神の心の波さながらに生きること

     *「光明道中記」(1月11日《天地の法輪を聴く日》)より

【全世界は如来の転ずる法輪である。****輪が実在の宇宙である。
                      (『驀進日本の心と刀』)】

生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。

恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、

また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、
空間的広がりがないのであるからその
微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。

その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。

「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。

大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。

神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、「永遠」を背負って立つなり、
無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「そのまま・法爾自然」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6983067

(2)伝統板・第二「そのまま・法爾自然②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7723875

            <感謝合掌 令和3年1月11日 頓首再拝>

《そのままの心でおれ》 - 伝統

2021/01/28 (Thu) 02:27:19


       *『 生長の家 』(昭和26年7月16日の法語)より

   肩に力を入れないこと。
   力む心を捨てよ。
   構える心を捨てよ。

   急ぐ心を捨てよ。
   遮二無二(しゃにむに)する心を捨てよ。
   焦る心を捨てよ。

   負けまいと思うな。
   かたよるな。
   そんなに鯱鉾(しゃちほこ)ばるな。

   何一つ悪いことは 神の世界に存在しないのである。

   力むと可(い)かんぞ。あせると可かんぞ。

   心を弛(ゆる)めい。身体を弛めい。


   その儘(まま)だ。そのままの心になるのだ。
   神に委(まか)せ切りの心になるのだ。

   神の創造(つく)り給いし世界には 何一つ悪いものはないのだ。

   そのままでおれば 水は澄み切っているものを、
   そのままの心を失うがゆえに、
   その心の反映として 万事が波立って見えるのだ。



   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ca666545d0dbab2b4e16492e8a18459

            <感謝合掌 令和3年1月28日 頓首再拝>

そのまま《よく》、そのままそれに対応し、何事にも引っかからない生活 - 伝統

2021/01/29 (Fri) 03:31:14


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。

紅でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来ればわれらの心は引っかかる。

引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、
風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。

《よし》と言いて、
《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。

そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、
いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

・・・

<参照Web>

伊勢ー白山 道
真っ直ぐな心で、ぶち当たること
2020-12-28
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/7a69fce30da481ee3d26bcee4f78229a

          <感謝合掌 令和3年1月29日 頓首再拝>

《常にそのままであれ 》 - 伝統

2021/02/17 (Wed) 02:07:00


       *『 生長の家 』(昭和25年7月17日の法語)より

   常に単純であれ。
   常に“そのまま”であれ。

   構える心をおこすな。
   “そのまま”の心になれ。
   しかも行きとどくべし。

   常に精神統一を行じ
   心を激昂(げきこう)せしめてはならない。

   激情は心の波をさわぎたて、
   汝の実相の悟りを不可能にするものである。

   怒り憎みは、執着すべからざるものに
   執着するからおこるのである。

   何よりも常に魂のことを考えよ。
   肉体のことについて思い煩うな。
   肉体は今日一日の存在だと思うべし。

   魂は永遠の存在である。
   魂の喜びを求めよ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

          <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

《そのままに純に生きよ》 - 伝統

2021/03/05 (Fri) 04:19:53


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P27~28)より

神は常に働き給う。
神には勤務時間もなければ、休暇もないのである。

吾々が勤務中に腕時計や懐中時計を見るようになったとき、
吾々の生活は稍々(やや)神から離れて来た証拠です。

梅の樹(き)は梅の花を咲かすために、
一分間も休みなく生命(せいめい)の営みを続けているのであり、
桜の生命(せいめい)は桜の花を咲かせるために、
一秒間も休みなく生命(せいめい)の営みをつづけているのです。

そしてその生命(せいめい)の営みは決して金銭のためでもなく、
何らかの報酬を期待するのでもなく、
どんな人里離れた奥山(おくやま)の岩の蔭にでも咲いているのです。

そしてその咲くことが神のみ心であり、
天分であるがゆえにそれが喜びであるのです。

唯、その“まま”営むと云うこと、
それが其の儘の生き方であり、
生命の実相そのままの生き方であり、純粋の生き方である。

其処には一切の悩みなく、病いなく、憂いなく、
そのままであり、実相(じっそう)であるのです。

          <感謝合掌 令和3年3月5日 頓首再拝>

《果報は寝て待て》 - 伝統

2021/04/05 (Mon) 05:03:53


        *『光の泉』(昭和34年4月号)より

  「果報は寝て待て」 と云う諺がありますがね、
   「果報」 というものは、原因に対して起る結果としての報いであります。

   悪い原因に対して起る結果は悪い報いとしてあらわれて来ますが、
   「果報は寝て待て」 と云う場合の 「果報」 は“善い果報” であります。 

   “善い果報” を得るには、「我」 のはからいで盲動してはならない。 
   心を鎮めて、そのままの動きにまかせよと云うのが 「寝て待て」 であります。

   「我」がなくなり天地自然と一つになって、自然と眼が覚めて天然自然にあくびでもして、
   ‘ほっ’と“伸び”でもしたら、棚にゴツンと、伸ばす手があたると、
   自然に棚から‘ぼた餅’が落ちてくるのであります。 

   それは「我」のはからいでなく、自然の動きであります。 

   「動き」がなければならない。 
   行動化がなければならないが、「我の心」の行動化ではなく、
   天地自然の動きそのままに動くことが必要なのであります。

   紛失物を探すのにも、我々がうろたえ騒いでさがし廻ると、なかなか見附からないもの
   ですけれども、そう云うときに落着いて、心を鎮めて神想観をして、天地自然の智慧と
   一つとなって、‘ふと’明けたくなって抽斗を開いてみると、

   「ああ、ここに探していた品物があった。不思議だな、さっき此の抽斗の中の物を
   ひっくり返して調べてみたのに、あの時はどうしても見附からなかった。 
   それなのに、神想観をしてから、‘ふと’開くと‘そこ’にあった」 

   というようなことがおこってくるのであります。

   すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで
   「我」の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。

   「祈り」 又は 「神想観」 によって天地の智慧の中に没入し
   「我」と云うものが無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
   何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

   併し祈ったり「神想観」すると言っても、
   動かないで祈っておったらいいというわけではありません。

   祈り且つ神想観をすれば、心が整って、実相の智慧と一つになるのです。 
   実相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという内からなる
   “催し”が自然と湧いてくるのです。

   その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動する
   という所に信仰が行動化し、そこに実相の完全さが、その行動を通して実現して来る
   ということになるのであります。

    http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19662144.html (消滅)

          <感謝合掌 令和3年4月5日 頓首再拝>

思考から離れる - 伝統

2021/04/18 (Sun) 04:16:06


      *Web:かんながら(2021年04月16日)より

あるがままの命に落ち着く

何度もここに戻ってきましょう。


いつも頭を悩ませている問題が、
想像上のものだと知ることは重要です。

何一つ実体はありません。

すべては変わり続けているのだから。


あるがままの命に落ち着いたとき、
神経症のような思考が抜け落ちて、大いなる知性と調和します。

すると人生を自分の力で何とかしようとしなくなります。

自我を超えるために奮闘する必要もありません。



何かになろうとするのではなく、
すでにそうであるところのものに寛ぐのです。

あいかわらず思考はやって来ることでしょう。

誰一人、次の瞬間に考えることを知ることはできません。


そもそも考えているのは自分ではありません。

考えている自分自身も考えの産物です。


思考と距離をとること。

たいていの思考は、苦悩と混乱を引き起こす以外は何もしていません。

そんな思考を相手にしないことです。

考えなくてもいままでと同じように人生は展開していきます。

あなたにもそういう経験があるはずです。


時間を忘れて何かに集中している時。

愛する人と静寂の中にある時。


そのときは行為者が消えていて、存在と行為が同時に起きています。

それが三昧の境地であり、人間以外のあらゆる生き物はそれを生きています。



考えなくてもことは起きていくのに、
考えが主人になってしまっているので生きるのが難しく感じるのです。

その気になれば、抱えている問題や、
いやなこと、いやな人のことを考えないでいることも可能です。

今日はそんな過ごし方をしてみませんか。



思い出すたびに、あるがままの命に落ち着いてみましょう。

人生には成功も失敗もありません。

いつもいまがあるだけ。


それがわかれば、人生はスムーズです。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11899071.html

          <感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2021/06/16 (Wed) 02:37:50


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

           <感謝合掌 令和3年6月16日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2021/07/13 (Tue) 04:04:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、
「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、
手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。

法爾(ほうに)として、
法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくるごとく
素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、
「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。

仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 令和3年7月13日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の動きが、「無限供給」を開く - 伝統

2021/07/14 (Wed) 03:05:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月14日)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、
法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。

法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 令和3年7月14日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2021/08/18 (Wed) 04:30:32


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して
向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。

その心境が一夜のうちに具象化して
彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 令和3年8月18日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2021/08/24 (Tue) 04:58:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は
親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
 吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。

捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

      <感謝合掌 令和3年8月24日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の境地 - 伝統

2021/08/25 (Wed) 04:51:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

      <感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>

そのままの心で愛を行ずる - 伝統

2021/09/15 (Wed) 05:01:28


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

          <感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>

《“そのままの心”は壽命をのばす》 - 伝統

2021/10/28 (Thu) 04:53:17


        *「生長の家」昭和43年7月27日の法語)より

   西田天香師が京都大学の島薗内科で行った実験では、完全にビタミンB1 を
   抽出除外して“無”にした食物を二ヶ月間食しても脚氣にならなかった
   という実例であるが、

   これによって“心の力”が如何にその人の健康を支配し、
   且つ食物の成分の欠陥を補正することができるかの証拠である
   ということできるのである。

   西田天香師は食物の欠陥を、“悟境”による“そのままの心”によって超越し、
   大生命から流入するところの生命の営みを歪むことなく、そのままに
   受け容れることによって健康をかくまで長く保持せられて長寿を保たれたのに
   相違ないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4341

          <感謝合掌 令和3年10月28日 頓首再拝>

無我直心 - 伝統

2021/11/17 (Wed) 04:56:52


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

          <感謝合掌 令和3年11月17日 頓首再拝>

《無理にたくむな》 - 伝統

2021/12/06 (Mon) 04:56:34


        *「光明法語」(12月6日)より

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。

迂余曲折しているままで美しいのであり、
その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、
我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、
美しい結果が得られないで苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

          <感謝合掌 令和3年12月6日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2021/12/11 (Sat) 04:55:47


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。
老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いてそれに
「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に鍛錬を経た
作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 令和3年12月11日 頓首再拝>

そのまま受けることが天意に協(かな)う - 伝統

2021/12/19 (Sun) 05:02:38


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。

そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。


            <感謝合掌 令和3年12月18日 頓首再拝>

すでにある - 伝統

2022/06/06 (Mon) 11:29:23


       *Web:かんながら(2022.01.30)より

心の安らぎを分かち合いたくてこうして書いています。

愚かさを生きてきたからこそのアドバイスです。


いまのままでは何かが足りないという思いに突き動かされて、
全力で遠くまで走ったつもりが、実際にはどこにも行っていませんでした。

唯一のリアリティである「いまここ」は、動いてなどいなかったのです。


動いていたのは自分の心でした。

心がどこかに向かっているつもりになっていただけです。



この人生がどこにも向かっていないことを知れば、
いつもあるがままの自分がいるだけだと分かります。

あるがままの自分とは他でもない、
まさにいま感じているあるがままの自分です。

これ以外は存在していませんし、これからも存在しません。



多くの人は、いまこの自分ではなく、
本来あるべき自分でなければいけないと信じています。

あるべき自分になった暁には自分を認めることができるというわけです。


しかし、たぶんこの先も同じことでしょう。

将来を心配している人は10年後も将来を心配し、
自分を克服しようとしている人は、
いつまでも自分との戦いを続けていることでしょう。



これらの不毛なゲームを手放すのは「いま」です。

求めている安らぎはすでに「ここ」にあるのです。

ここ以外のどこにあると言うのでしょう。


完全に安らいだ時に、あらゆる戦いが終わっています。

人生を思い通りにしようと、戦うことはなくなります。

人生の流れを信頼しだすのです。


でもまだ先があります。

自分が流れを信頼すると言うときには、
まだ「自分」と「流れ」が別々に存在していますが、
しだいに流れだけがあるようになります。



個が全体に戦いを挑んで勝てるはずがありません。

こざかしさを使って、波が海をコントロールしようとしているのと同じです。

全体のことは全体に任せてはダメですか。


この全体は、あなた自身なのですよ。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12148963.html

・・・

<参照>

「素直」「何も考えていない」「心が空」
伊勢ー白山 道(2022-01-04)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/566ade9c92f7bf5b456367f95e7baa07

            <感謝合掌 令和4年6月6日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2022/06/16 (Thu) 07:35:45


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

           <感謝合掌 令和4年6月16日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2022/07/13 (Wed) 07:43:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、
罪を犯してまで何を求めることがあろう。

「罪」というほどでないにしても、
「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、
手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。

法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に
自然(じねん)に動き出してくるごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、
「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。

仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 令和4年7月13日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の動きが、「無限供給」を開く - 伝統

2022/07/14 (Thu) 07:21:04

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月14日)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 令和4年7月14日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2022/08/24 (Wed) 06:31:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は
親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
 吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

      <感謝合掌 令和4年8月24日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の境地 - 伝統

2022/08/25 (Thu) 10:07:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

      <感謝合掌 令和4年8月25日 頓首再拝>

《無理にたくむな》 - 伝統

2022/12/06 (Tue) 07:33:46


       *「光明法語」(12月6日)より

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。
迂余曲折しているままで美しいのであり、
その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、
我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、
美しい結果が得られないで苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

      <感謝合掌 令和4年12月6日 頓首再拝>

《逆らえば順潮も逆潮》 - 伝統

2022/12/07 (Wed) 07:51:37


       *「光明法語」(12月7日)より

一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。
自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。
波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

      <感謝合掌 令和4年12月7日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2022/12/11 (Sun) 08:20:49


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。

老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を
用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いて
それに「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。

単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。

切り出した材木のそのままの切り口に
そこの深い所からそのまま美しい木目が脈々と見えるような
深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。

足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に
鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。

ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。

ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。

ぴったりするのがそのままなのである。

        <感謝合掌 令和4年12月11日 頓首再拝>

そのまま受けることが天意に協(かな)う - 伝統

2022/12/19 (Mon) 09:03:48


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。

そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。


            <感謝合掌 令和4年12月19日 頓首再拝>

神の心の波さながらに生きる - 伝統

2023/01/11 (Wed) 07:20:59


      *「光明道中記」(1月11日天地の法輪を聴く日)より抜粋

神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、
「永遠」を背負って立つなり、無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>

そのまま《よく》、そのままそれに対応し、何事にも引っかからない生活 - 伝統

2023/01/29 (Sun) 07:06:41


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。

紅でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来ればわれらの心は引っかかる。

引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、
風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。

《よし》と言いて、
《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。

そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、
いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

          <感謝合掌 令和5年1月29日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2023/07/13 (Thu) 05:03:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、
罪を犯してまで何を求めることがあろう。

「罪」というほどでないにしても、
「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、
手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。

法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に
自然(じねん)に動き出してくるごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、
「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。

仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 令和5年7月13日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2023/08/24 (Thu) 18:23:37

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は
親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
 吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

      <感謝合掌 令和5年8月24日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の境地 - 伝統

2023/08/25 (Fri) 13:05:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

      <感謝合掌 令和5年8月25日 頓首再拝>

そのまま受け流す - 伝統

2023/10/19 (Thu) 09:20:02


    *「光明道中記」(10月19日《心配のなくなる日》)より

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。
                   (『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、
那箇(いかん)かこれ明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かん
と言っている間は通力を失った状態であるから
本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって
血を喀(は)いたりするのである。


善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、
それ以上何も嘆かぬ。

出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 令和5年10月19日 頓首再拝>

《無理にたくむな》 - 伝統

2023/12/06 (Wed) 09:40:32


       *「光明法語」(12月6日)より)

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。

迂余曲折しているままで美しいのであり、
その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、
我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、
美しい結果が得られないで苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

           <感謝合掌 令和5年12月5日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2023/12/11 (Mon) 09:15:18


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。
老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いて
それに「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。

単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と
見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に
鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

         <感謝合掌 令和5年12月11日 頓首再拝>

そのまま受けることが天意に協(かな)う - 伝統

2023/12/19 (Tue) 11:33:33


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。

そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。

         <感謝合掌 令和5年12月19日 頓首再拝>

そのまま素直な日 - 伝統

2024/01/03 (Wed) 08:25:47


           *「光明道中記」(1月3日)より

 【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
                    (「生命の實相」第十二巻)】

一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って
吾々を生かしてくれていると知るのが悟りである。
斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。

料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が
如何に鹹(から)く、如何に酸(す)っぱきかを思え。

既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。

既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。

犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。

足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。


到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。

到るところに大自然の恵満ちたり。

霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。

心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。

            <感謝合掌 令和6年1月3日 頓首再拝>

神の心の波さながらに生きる - 伝統

2024/01/11 (Thu) 10:19:26


      *「光明道中記」(1月11日天地の法輪を聴く日)より抜粋

神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、
「永遠」を背負って立つなり、無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 令和6年1月11日 頓首再拝>

何事にも引っかからぬのが「生長の家の生活」 - 伝統

2024/01/29 (Mon) 11:42:29


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、
風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。

《よし》と言いて、
《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。

そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、
いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

          <感謝合掌 令和6年1月29日 頓首再拝>

神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心 - 伝統

2024/02/18 (Sun) 09:40:19


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで地踏鞴(じだたら)踏んで
泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。

「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。

それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を
縛るところの《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

            <感謝合掌 令和6年2月18日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2024/07/13 (Sat) 10:20:47


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、
罪を犯してまで何を求めることがあろう。

「罪」というほどでないにしても、
「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、
手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。

法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に
自然(じねん)に動き出してくるごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、
「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 令和6年7月13日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2024/08/18 (Sun) 10:01:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して
向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。

その心境が一夜のうちに具象化して
彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 令和6年8月18日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2024/08/24 (Sat) 11:33:21


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために
釈迦時代の弟子は親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
 吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。

捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

      <感謝合掌 令和6年8月24日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の境地 - 伝統

2024/08/25 (Sun) 10:07:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

      <感謝合掌 令和6年8月25日 頓首再拝>

そのまま受け流す - 伝統

2024/10/19 (Sat) 11:40:33

    *「光明道中記」(10月19日《心配のなくなる日》)より

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。
                   (『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、
那箇(いかん)かこれ明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かん
と言っている間は通力を失った状態であるから
本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって
血を喀(は)いたりするのである。


善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、
それ以上何も嘆かぬ。

出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 令和6年10月19日 頓首再拝>

《無理にたくむな》 - 伝統

2024/12/06 (Fri) 10:55:32


       *「光明法語」(12月6日)より)

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。

迂余曲折しているままで美しいのであり、
その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、
我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、
美しい結果が得られないで苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

           <感謝合掌 令和6年12月6日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2024/12/11 (Wed) 12:10:21


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。
老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いて
それに「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。

単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と
見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に
鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 令和6年12月11日 頓首再拝>

そのまま受けることが天意に協(かな)う - 伝統

2024/12/19 (Thu) 09:52:02


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。

そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。
そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。

            <感謝合掌 令和6年12月18日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.