伝統板・第二
神への全托⑤ - 伝統
2021/05/20 (Thu) 07:00:20
《難問題は神に委ねよ》
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「神に全托」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562
(2)光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50
(3)伝統板・第二「神への全托①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6460526
(4)伝統板・第二「神への全托②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6945881
(5)伝統板・第二「神への全托 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7731682
(6)伝統板・第二「神への全托④」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7932506
<感謝合掌 令和3年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2021/05/21 (Fri) 04:47:46
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和3年5月21日 頓首再拝>
「出た目」に従う - 伝統
2021/05/23 (Sun) 04:44:20
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.11.11)より
~【デタラメに決める】
(ひろさちや氏の心に響く言葉より…)
私はいつも財布にサイコロを入れて持ち歩いています。
何かに迷ったら、奇数か偶数かで決めます。
天丼かうな丼かどちらにしようか…。
そもそも迷うというのは、どちらでもいいから迷うのです。
うなぎが嫌いなら、迷ったりしません。
そいういうときには、デタラメに決めるにかぎります。
デタラメというと、誤解を招きそうですが、これは「出たら目」。
出た目に従う。
出したのはほとけ様なのだから、ほとけ様に決めてもらう、ということです。
大学の先生をやっていたとき、ときどき学生が相談に来ました。
「この大学やめようと思っているんです。来年東大を受けようかと…」。
毎年5月くらいになると、相談者は増えます。
「君、大学やめてもいいの?」
「やめてもいいんです」
「この大学にのこってもいいの?」
「はい、のこってもいいんです」
とこんな調子です。
「四分六ぐらい?どちらの分が多いの?」
「いえ、五分五分です」
私はサイコロをとりだして、学生に渡します。
「振ってごらん。奇数が出たらやめる、偶数が出たら残る」
すると学生はあわてます。
「先生、ふざけないでください。僕はまじめに相談に来たんですよ」
「私もまじめに答えているんだよ。
あなたの人生にどっちがよかったかなんて、絶対にわからない」
と言い返す。
人間には、未来を決める権利などありません。
よかったという判断もつかない。
大学受験に合格してよかったと言うけれど、
同級生と相性が悪くていじめられて自殺する青年もいます。
1年浪人して恋人に出会う可能性もある。
現役で入ったら、実力がなくて、中退するかもしれない。
1年間地力をたくわてから入ったほうがいいこともある。
どちらがいいかなんてわかりません。
私たちには未来はわからないのです。
キリスト教でもイスラム教でも、
未来について知っているのは神だけです。
キリスト教ではこう言います。
「明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけでじゅうぶんである」
イスラム教ではこう言います。
「もし神がお望みならば…」
これは「イン・シャー・アッラー」という言葉で、
自分たちが未来を語るときには必ずこれを付け足すのです。
「私は明日これこれのことをすると言ってはならない、
ただしイン・シャー・アッラーとつければよい」
だからイスラム圏の飛行機に乗ると、
「イン・シャー・アッラー」と言ったあとで
「この飛行機はあと十五分で成田空港に到着します」とアナウンスが流れます。
つまり、神様が望むならこの飛行機は到着します。
もしもダメだったら墜落するかもしれません、ということです。
自分の未来を決める権利は、神様にしかありません。
私たちは権利放棄でいいのです。
これが宗教の教えです。
学生にもこの話をして、どちらがいいかなどわからない、
ほとけ様、あるいは神様、それとも宇宙意志にお任せして、
デタラメに決めたらいいと言うのです。
にもかかわらず、彼らは「先生のアドバイスが欲しい」と言う。
「今はしおらしくそんなことを言っているけども、
あとになって何かつまずいたときには、必ず私を恨むようになる。
先生にあんなこと言われたから、俺はこうなったんだって」
私はそんな相談には乗りたくありません。
あなたが自分で決めるほかない。
でも、自分で決められないから悩んでしまう。
だから、サイコロで決めなさいと言うのです。
でも、二十人相談に来て、サイコロを振ったのは二人くらいです。
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・・・
小林正観さんのこんな話がある。(豊かな心で豊かな暮らし)より
『たまたま1ヶ月ほどの間に、何人かの人から同じ質問を受けました。
「私に向いている職業は、どんなものでしょうか。
正観さん、教えてください」というものでした。
もちろん、その数人は現在無職であるということでした。
私の答えはすべての人に対して同じでした。
「自分で好きな仕事、嫌いな仕事とより分けているうちは、
宇宙さんも神も仏も味方をしないような気がします」と言いました。
自分にまわってきたことをやる、やる羽目になったことをやる、
たまたまなにかの縁で声をかけられたり、頼まれたりしたらそれをやる。
そういうふうに考えていったら、職業はなんでもいいのです。
向き不向きというのがあるとは思えません。
向き不向きと言うのは、もしかすると
自分の奢り、高ぶりなのかもしれません。
どんな仕事でも、誠実に真面目にやる。
真摯(しんし)に取り組む。
それに尽きるのではないでしょうか。
楽しい仕事というのがあるわけではないのです。
そんな仕事にいきなり恵まれてる人は、世の中にいないと思います。
好きだ、嫌いだと言うのではなくて、
やる羽目になったことを、ただ淡々とやること。
それを真面目に誠実にやり続けること。これに尽きると思います』
「デタラメに決める」というのは、
「たのまれごと」の人生を生きるのと同じだ。
人から頼まれたことや、たまたまやる羽目になったことを、
文句を言わずにただひたすら真摯にやっていく、という人生。
「デタラメに決める」ことは、
投げやりになったり、無気力にやることではない。
決まったことに対し、それが運命だと受け止め、誠実に真面目に努力する。
まさに、それが「お任せして生きる」という生き方。
「ここから先は神の領域」と思ったとき、
ああだこうだとグダグダ言うことはなくなる。
それがストンと腹落ちしたとき、宇宙も、神も仏も応援してくれる。
未来は神のみぞ知る。
今、この一瞬を一所懸命に生きてゆきたい。
<感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>
《「果報は眠(ね)て待て」と云う諺(ことわざ)がある》 - 伝統
2021/06/12 (Sat) 04:41:31
*「眞理」第2巻基礎篇第14章(P379)より
人間の偉大さの物尺(ものさし)は、
決断の速さのほかに、その人が如何に多くの物事を平静な心で
受容れることが出来るかの限度である。
どんなに大きな問題が起っても又、
どんなに沢山の問題が一時に起っても、
心を騒がせないで平静でいられる人は
その心の包容力が偉大であると云うことが出来るのである。
何よりも問題の解決のために必要なのは「平和な心境」である。
何故なら周囲に起る事件は自分の心を反映して賦彩せられるからである。
問題が解決しない時には、その問題に関係している
すべての人に対して感謝して後、
「神よ、あなたの叡智にこの問題の解決をゆだねます。
今晩私の眠っている間に此の問題を解決して下さいませ」
と祈って眠るが好いのである。
<感謝合掌 令和3年6月12日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2021/06/14 (Mon) 04:44:01
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 令和3年6月14日 頓首再拝>
神に全托する日 - 伝統
2021/06/25 (Fri) 03:03:32
*「光明道中記」(6月25日)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 令和3年6月25日 頓首再拝>
遍満する神に委ねる - 伝統
2021/07/15 (Thu) 04:50:18
*「光明法語」(7月15日《神は遍満し給う》)より
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」
と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 令和3年7月15日 頓首再拝>
神に対して戸を開け - 伝統
2021/07/16 (Fri) 06:34:45
*「光明法語」(7月16日)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和3年7月16日 頓首再拝>
「宇宙の知性」に委ねよ - 伝統
2021/08/11 (Wed) 03:53:52
*「光明法語」(8月11日《宇宙の知性と人間との関係》)より
兎も角、宇宙すべての物の背後に
宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。
では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。
そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、何故、
現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。そんな筈がない。
それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。
<感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2021/09/14 (Tue) 04:46:27
*「光明法語」(9月14日の法語)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは
考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和3年9月14日 頓首再拝>
【人生の食卓】 - 伝統
2021/10/11 (Mon) 04:40:43
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.01.23)より
(ひろさちや氏の心に響く言葉より…)
わたしは豆と芋が嫌いである。
子どものころ、親類の家で豆と魚を出され、
嫌いな豆を片付けたあと、ゆっくり魚を食べようと思った。
ところが叔母が、「そんなに好きなんだったら…」と、
もう一杯おかわりの豆を入れてくれたのには往生した。
それ以来、好きな物から食べることにしている。
それはともかく、曹洞宗の現代の名僧であった沢木興道の言葉に、
「全部いただく。選(え)り食いはせぬ」
がある。
なかなかいい言葉だ。
わたしにはちょっと耳が痛いが…。
しかし、沢木老師はたんに偏食について言われたのではない。
お分かりであろうが、これは人生の生き方についての言葉なのである。
人生の食卓には、いろんなご馳走が出てくる。
好物もあれば、嫌いな物も出てくる。
ご馳走ばかりとはかぎらない。
粗末な食事が供されることだってある。
わたしたちはこの人生において客である。
客だと考えたほうがいい。
なかなか、自分の思い通りには生きられないからである。
客だとすれば、わたしたちは出された食事を、
あれこれ選り好みしないで全部いただかねばならない。
注文をつけることは、客の分際をわきまえていないことになる。
そう、逆境になれば、逆境の人生をしっかり生きればいいのである。
まあ、ほとけさまがそのような食事を出してくださったと思えばいい。
安楽に生きられるなら、安楽に生きるとよい。
死ぬときも同じで、のたうちまわって死ぬ運命であれば、
それもほとけさまの食事としていただけばよいのだ。
それが沢木老師の言いたかったことであろう。
<『のんびり生きて気楽に死のう』PHP研究所
https://amzn.to/3946JDX >
・・・
良寛和尚が71才の時、三条市を中心に大地震が起こった。
そのとき知人にこんな見舞の手紙を送っている。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」
災難にあったらジタバタせず、腹をくくって災難を受け入れなさい。
死ぬ時が来たら、あわてず騒がず、淡々と死を受け入れなさい、
これが災難を逃れる唯一の方法だ、という。
災難は、腹をくくると、気持ちが落ち着く。
「災難は、敵対しないで淡々と受け入れる」
それが、災難をのがれる最良の方法。
まさに…
「全部いただく。選(え)り食いはせぬ」
選り好みをしないで、人生を淡々と生きてゆける人でありたい。
<感謝合掌 令和3年10月11日 頓首再拝>
全てを放下し、神の神意でありますようにと祈れ。 - 伝統
2021/10/30 (Sat) 04:58:12
*「光明道中記」(10月30日《求むるに先立ちて財宝集る日》)より
【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。
よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。
(『生命の實相』第一巻)】
「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。
更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を
私事に予想する心がなくなってしまわなければならないのである。
ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。
今更何を求めよう。
ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。「我」の求めがなくなることである。
偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、すべての野心、
野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、
之(これ)らすべてのものを放下せよ。
真に神の神意でありますようにと祈れ。
おお! その中にこそ全てがあるものを。
神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。
<感謝合掌 令和3年10月30日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2021/11/13 (Sat) 03:08:21
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。
合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2021/11/14 (Sun) 04:42:30
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 令和3年11月14日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2021/11/29 (Mon) 04:53:00
*「光明法語」(11月29日)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和3年11月29日 頓首再拝>
神に委ねる - 伝統
2021/11/30 (Tue) 04:46:20
*「光明法語」(11月30日《与えよさらば与えられん》)より
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和3年11月30日 頓首再拝>
「光明」と「全托」 - 伝統
2021/12/10 (Fri) 04:50:09
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より
「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。
「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。
<感謝合掌 令和3年12月10日 頓首再拝>
すべては束の間~降参のススメ(サレンダー) - 伝統
2022/01/16 (Sun) 04:07:39
Web:かんながら(2021年10月09日)より
数日前に見た夢を思い出せないように、
我々が大騒ぎして過ごすこの人生も、わずかな時間に全て忘れ去られ、
後には何も残らないことでしょう。
そう、文字通りなにも残らないのです。
それなのに、どうして小さいことを気にして、
人の目や評価を気にして生きていくのか。
全ては束の間です。
とどまるものは何もありません。
あらゆるものは来ては過ぎていきます。
あらゆる想いも来ては過ぎていきます。
しかもただ過ぎるだけではなく、対極に変わっていきます。
喜びは悲しみに
充足は不足に
愛は憎しみに
栄華は凋落に
そしてまた反転し始めるのです。
これがわかれば、執着するものは何もありません。
全体が動くままに任せるだけです。
そもそもやっているのは自分ではない。
ことはただ起きているのだから。
自分のスタイルを持つ必要もなく、流儀に縛られる必要もない。
人の期待に応える必要もなく、いつもいまの感応を生きればいいだけです。
いちいち起こることに対して、
これは違う
これはこうあるべきだ
などと言う必要もありません。
だってそのように起きているのだから。
このことを理解した時、人は起きることに対して自分を主張しなくなります。
ただ信頼し、全体とともに流れ出します。
これがサレンダー。
繰り返し伝えてきた「降参のススメ」です。
この先何が起きるかは誰にもわかりません。
そんな不確実な未来に対して気楽に生きる方法があるとしたら、
特定の目的地を持たないということ。
ひとたびそれを持てば、起きることを
自分の目的に合った形に修正したいと思うことでしょう。
でも目的地を持たなければ、この旅全体が気楽なものに変わります。
全体を自分に合わせようとせずに、自分が全体に合わせていくのです。
さらに理解が進めば、合わせることさえ不要になります。
なぜなら全体と自分は一つだから。
https://abetoshiro.ti-da.net/e12054349.html
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2022-01-15)
「任運自在」(流れに任せ切ること)の良し悪し
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/444110c953d988bd0ef4a7d73da70d9c
<感謝合掌 令和4年1月16日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2022/01/19 (Wed) 04:25:34
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和4年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2022/01/25 (Tue) 04:53:33
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 令和4年1月25日 頓首再拝>
《神にのみ頼れ》 - 伝統
2022/01/29 (Sat) 05:00:07
*「光明法語」(1月29日)より
吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。
吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。
だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。
唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。
<感謝合掌 令和4年1月29日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2022/03/28 (Mon) 06:58:42
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 令和4年3月28日 頓首再拝>
御心のままに - 伝統
2022/04/15 (Fri) 07:35:31
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より
「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。
「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。
こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。
<感謝合掌 令和4年4月15日 頓首再拝>
悲しみの底につかまるな。神に委(まか)せておれば上がるしかない。 - 伝統
2022/05/11 (Wed) 12:09:53
*「光明法語」(5月11日《喜びの青空に出る道》)より
海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。
墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。
今有(も)てる何物かを失った時には、
それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、
喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。
かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。
神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。
<感謝合掌 令和4年5月11日 頓首再拝>
《神が汝をつかんでいる》 - 伝統
2022/05/12 (Thu) 09:45:39
*「光明法語」(5月12日)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和4年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2022/05/20 (Fri) 08:49:46
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 令和4年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2022/05/21 (Sat) 09:45:57
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和4年5月21日 頓首再拝>
生きることに力を入れなくてもいい - 伝統
2022/05/26 (Thu) 07:14:26
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2021-11-28)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
作詞家のなかにし礼さんが、『恋のハレルヤ』という曲の中に、
このような歌詞を書いています。
ハレルヤ 花が散っても
ハレルヤ 風のせいじゃない
桜の季節になると、天気予報でこのような話をすることがあります。
「桜の花が満開で見ごろになっています。
しかし、今晩から雨がふり、散ってしまうかもしれません」
このことから、桜が散るのは雨や風のせいと
思い込んでいるかもしれませんが、雨が降ったり、風が吹かなかったら、
この桜は散らなかったのでしょうか。
桜は、風が吹こうが、雨が降ろうが関係なく、必ず自分の意思で散っています。
散る桜 残る桜も 散る桜
これは、良寛和尚が残した句です。
良寛和尚となかにし礼さんが到達した結論は、
桜が自分の意思で散っているということ。
桜の花が夏まで咲いていることはありません。
風や雨がなくとも、自分の意思で散ります。
それがいつかを桜が決めているだけ。
病気に立ち向かって克服をしたら長生きする、
立ち向かわなければ早死にをすると西洋医学で教えられています。
しかし、治療をすること、しないこと、死ぬことさえも、
すべてが生まれる前に自分が書いてきたシナリオ通りらしいのです。
人間の一生は、自分で決めているようですが、
実は生まれる前に決まっているようなのです。
そうすると、生きることに力を入れなくてもいいということに気がつきます。
お任せをして、委ねて生きていくと、それだけで面白そうです。
達成目標、努力目標を立て、そこに向かっていく人は、目標が見えています。
2、3年後、努力した結果として、その状態になるかもしれないし、
ならないときはイライラするかもしれません。
到達目標に向かっているというのは、その状態しか認めていないということ。
一切の目標設定をせず、頼まれごとだけをして生きていくと、
2、3年後、自分がどこに連れていかれるか解りません。
そのほうがより人生を楽しめるのではないでしょうか。
<『笑顔で光って輝いて (じっぴコンパクト文庫)』>
・・・
山川紘矢氏は「生まれ変わり」についてこう語っている。
『「この世に偶然はありません」
精神世界のことを勉強し始めると、必ずこの言葉に出会います。
僕はこの言葉が大好きです。
「君とこうして出会ったのは、偶然ではないんだよね」というように使えますから。
偶然でないのなら、必然、それは運命ということになります。
すると運命は決まっているのだろうかと、考えてしまいませんか?
日本人はそのことを「ご縁があって、お会いした」とか
「袖振り合うも他生の縁」という言葉で表してきました。
「ご縁を大切に」という言葉は、本当に意味深い、いい言葉だな、と思います。
昔の人は、知っていたのです。
人は決して偶然に出会うのではないことを…。
私たちは皆、必ず何か目的があって出会っているのです。
では、生まれる前から運命は決まっているのでしょうか?
はい、ぼくはそう思っています。
そう思うと、抵抗しないで、すべてを受け入れられるようになります。
「抵抗しない」というのは、
スピリチュアルな本によく出てくるsurrenderのこと。
「ゆだねる」とも訳されます。
抵抗をやめると、
「起こったことは、起こることになっていたのだから、
すべてそのまま、ありがたく受け入れよう」
ということになり、生きやすくなります。
「抵抗」しなければ、軋轢(あつれき)も起こりませんし、
エネルギーを無駄に使う必要がありません。』
(輪廻転生を信じると人生が変わる/ダイヤモンド社)より
小林正観さんは「生きることに力を入れなくてもいい」と言っている。
それを、山川紘矢氏は「抵抗しないで、すべてを受け入れる」「ゆだねる」という。
つまり、淡々と生きるということだ。
何か困難なことが起こったり、試練がやってきたら、
「ああ、なるほど、そうきましたか」と淡々と受け入れる。
「人生は冥土(めいど)までの暇つぶし」(今東光)
力をいれず、淡々と生きることができたら最高だ。
<感謝合掌 令和4年5月26日 頓首再拝>
神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せること - 伝統
2022/06/12 (Sun) 13:14:49
*「光明道中記」(6月12日《今すぐ行う日》)より
【恐怖心は神の全能の愛を信じない為に起る。(『生命の實相』第ニ巻)】
すべてを神のみこころに委(まか)せること。
併しこれだけでは恐怖心は絶滅されるものではないのである。
神のみこころの中には不幸は無いと云うことを知らなければ、
人は神を恐怖するに到るであろう。
神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せることなのである。
《此処に》《今》幸福があることを知ることである。
幸福か不幸かわからないけれども、兎も角神に委せようと云うことではない。
神はわが憩いの家であり、愛の家であり、わが砦であることを知ることである。
単に「思い煩うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、
恐怖を先に延長しているようなものであって、
本当は「思い煩っている」のである。
吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好いのである。
「今」恐れなく受けるのである。
「今」目の前に《ある》ものが決して自分を害するものでないと知ることである。
避けるのではない。捉えるのである。
幽霊の正体見たり枯尾花。
正体を捉えて見たら、恐怖すべきものは一つもないのである。
<感謝合掌 令和4年6月12日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2022/06/14 (Tue) 07:04:27
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 令和4年6月14日 頓首再拝>
神に全托する日 - 伝統
2022/06/25 (Sat) 07:24:05
*「光明道中記」(6月25日)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 令和4年6月25日 頓首再拝>
宇宙に遍満している神に全托する - 伝統
2022/07/15 (Fri) 07:31:31
*「光明法語」(7月15日《神は遍満し給う》)より
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、私は私の生命(いのち)を神様にすっかり
もたれかけました」と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 令和4年7月15日 頓首再拝>
神に対して戸を開け - 伝統
2022/07/16 (Sat) 07:22:08
*「光明法語」(7月16日)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和4年7月16日 頓首再拝>
「静(せい)」の力にあずける - 伝統
2022/08/06 (Sat) 10:31:26
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、
そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、
「聖(せい)」であり、生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、
活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和4年8月6日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2022/09/14 (Wed) 07:29:20
*「光明法語」(9月14日)より)
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和4年9月14日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2022/11/13 (Sun) 07:50:28
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。
合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2022/11/14 (Mon) 06:25:29
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 令和4年11月14日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2022/11/29 (Tue) 07:13:33
*「光明法語」(11月29日の法語)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和4年11月29日 頓首再拝>
与えよさらば与えられん - 伝統
2022/11/30 (Wed) 07:13:30
*「光明法語」(11月30日の法語)より
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和4年11月30日 頓首再拝>
「光明」と「全托」 - 伝統
2022/12/10 (Sat) 07:19:25
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より
「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。
「光明」に転向せずして、
「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、
自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも与えられないであろう。
<感謝合掌 令和4年12月10日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2023/01/19 (Thu) 07:38:38
*「光明法語」(1月19日)
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和5年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2023/01/25 (Wed) 07:51:25
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 令和5年1月25日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2023/03/28 (Tue) 04:55:02
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、
ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 令和5年3月28日 頓首再拝>
《神の導きには時間の要素がある》 - 伝統
2023/05/05 (Fri) 09:15:37
*「光明法語」(5月5日)より
神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。
神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には
一段一段と階段を昇って行くが如きものがあるのである。
最初の頃は階段は低くして、
到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための
踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。
<感謝合掌 令和5年5月5日 頓首再拝>
《内在の神の道具となれ》 - 伝統
2023/05/07 (Sun) 07:36:25
*「光明法語」(5月7日)より
金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」
と祈った。
その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。
されば神に祈ると云うことは
「自己内在の神」に祈ると云うことである。
自己の内に神が宿っているのであるから、
常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)をなくならせて、
ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。
<感謝合掌 令和5年5月7日 頓首再拝>
《神が汝をつかんでいる》 - 伝統
2023/05/12 (Fri) 09:37:28
*「光明法語」(5月12日)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和5年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2023/05/20 (Sat) 07:40:25
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、
そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、
すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいない
と確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 令和5年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2023/05/21 (Sun) 09:08:05
*「光明法語」(5月21日)
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、
それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和5年5月21日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2023/06/14 (Wed) 04:59:02
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>
主はみこころを必ず成し給わん - 伝統
2023/06/25 (Sun) 05:06:19
*「光明道中記」(6月25日《神に全托する日》)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、
自分が公けな心を持っているかどうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、
神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども
主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 令和5年6月25日 頓首再拝>