伝統板・第二
観音 - 夕刻版
2015/07/09 (Thu) 17:46:40
明日(7月10日)は功徳日
観音様のご縁日は毎月「18日」と伝承されてきましたが、
これとは別に室町時代以降に「欲日(功徳日)」
と呼ばれる縁日が新たに加えられてきました。
それが下記のように1年を通じて「功徳日」とよばれました。
中でも7月9日、10日のどちらかの日に参拝すれば、
1日だけで4万6千日(127年間)日参したと同じ効果があるといわれ、
江戸時代から、とくにこの日のお参りが盛んになってきた。
4万6千日という数字の由来は不明だが、お米1升が4万6千粒あるとされ、
これを人間の一生にかけているとされる。
4万6千日を年数になおす126年に近い年数になり、
人間が心身に気をつけ、病気や事故にあわなければ、
このぐらい長生きでき、一生を無病息災で過ごせるようにと願った数字と伝えられている。
1月1日 100日 2月晦日 90日 3月4日 100日
4月18日 100日 5月18日 100日 6月18日 400日
7月10日 46000日 8月24日 4000日 9月20日 300日
10月19日 400日 11月7日 6000日 12月19日4000日
もとは「千日詣り」といい,本来はこの日に参詣すると 1000日参詣したのと
同じ功徳が得られるとされていたが,享保年間(1716~36)頃から 4万6000日
参詣したのと同じ功徳があるとされ,「四万六千日」と呼ぶようになった。
<参考>
浅草寺でほおずき市が催される今日あすは「四万六千日」の功徳日(くどくび)で、
この日参拝すると4万6千日分(約126年間)、つまり一生分のご利益がある
とされていることから毎年大勢の人でにぎわいます。
Web:浅草寺で46000日分の御利益をいただいてきました!(2014-07-12)
→ http://tamuraic.hatenablog.com/entry/2014/07/12/210343
<感謝合掌 平成27年7月9日 頓首再拝>
浅草観音 - 伝統
2015/07/10 (Fri) 19:31:07
(1)その昔、浅草は、東京湾の入り江の一漁村でしたが、
飛鳥時代・推古天皇36年(628年)3月、早朝、
檜前浜成(ひのくま・はまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、
江戸浦(隅田川)で、漁労中、網に人形の像がかかった。
兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知(はじのまつち)に相談した所、
これは観音像であると教えられ、川辺の槐(えんじゅ)の木の切株に安置された。
二人は毎日観音像に祈念するようになった。
社伝によれば、土師真中知は、その後、剃髪して僧となり、自宅を寺とした。
これが浅草寺の始まりである。
土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、
そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが
浅草寺の起源であるとしている。
(この辺のところについては、谷口雅春先生は、谷口雅春童話集5「幸福ものはだれ」
の中の観音霊異記<P114~115>で取り上げてあります)
(2)大化元年(645年)勝海上人が、観音堂を建立、このご本尊を秘仏と定め、
今日まで、伝法の掟と定められています。
平安初期には、自覚大師円仁(794年~864年)・浅草寺中興開山・
比叡山第三世天台座主が、来山、お前立ちの聖観世音菩薩を謹刻したといいます。
鎌倉時代には、将軍の篤い帰依を受け、江戸時代には、徳川家康により、
江戸幕府の祈願所に定められるなど、同寺の境内伽藍は、時と共に増え、
荘厳さを増して江戸文化の中心として、多勢の参詣客を集め、
全国的に有名になりました。
現在でも、年間、3000万人以上の参詣者が訪れ、民衆信仰のメッカになっています。
(http://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/a2f0fe596fa2ddc20338e328649b06b9)
(http://blogs.yahoo.co.jp/minako_aragami/70505038.html)
<感謝合掌 平成27年7月10日 頓首再拝>
観音信仰 - 伝統
2015/07/11 (Sat) 19:09:38
観音信仰は、飛鳥時代に伝来したと考えられています。
奈良時代には十一面観音や千手観音などの多面多臂(ためんたひ・面は顔、臂は腕のこと)の
変化観音像も造られ非常に盛んになりました。
当時の観音信仰は、鎮護国家から日常的な至福や除災など、
現世利益を求めたものが中心でした。
しかし、平安時代の10世紀頃から浄土信仰の発達を背景に
観音信仰も来的色彩を帯びていきました。
現世利益に加えて、
「来迎引摂(らいごういんじょう・浄土からのお迎え)」の利益も説かれました。
10世紀末以降には、京都や近畿内の観音像を安置する寺院への貴族や民衆の参詣が流行し、
ここから、観音霊場を巡礼して験力をみがく 経験者も現れていきました。
平安時代の後半には観音三十三身にちなんで
近畿周辺の代表的な観音霊場三十三所を巡る西国巡礼が確立します。
鎌倉時代には坂東三十三カ所、13世紀に秩父三十三カ所(後に三十四カ所に)が成立します。
巡礼の大衆化が進み、15世紀頃には
修験者だけではなく武士や、豪農も参加するようになりました。
これの過程を経て、札所の巡礼や服装・御詠歌など今日見られる
巡礼のスタイルの原型が定まっていきました。
現在は、全国各地に100以上の観音巡礼の霊場が形成されています。
観音信仰は、現世と来世の現当二世(げんとにせ)にわたる
幅広い利益をもたらすとされ大衆信仰の代表的存在となっています。
<感謝合掌 平成27年7月11日 頓首再拝>
観音精神 - 伝統
2015/07/12 (Sun) 17:36:45
*「百観音順礼記」橋本徹馬・著(序文)より
観音経は法華経の中にあるお経ですが、
それは正確には妙法蓮華経巻観世音菩薩普門品といいます。
普門とはあまねき門です。
観世音菩薩は人々の苦悩の声を聞いて、どちらから来る人々をも残らず救う
というのが、この普門品の意味です。
このようにすべての人を残らず救う観音精神は、世界中の政治家にも、
一切の世に立つ人にも、ありがたい心がけだと思います。
自国又は自分だけが利益をし栄えようとする所に、
多くの争いが生じ、病気も起こるのであります。
それを一転し、自他ともに利益氏、栄えようとするのが、観音精神です。
従来観音信仰といえば、自分の不幸をお観音さんに救って貰いたいための信仰でしたが、
本当の観音信仰は、すべての人と共に栄える方法によって、自分も栄えて幸福に
生きようという心構えを持つことです。
つまり自分も観音の精神を持って世に立つことです。
このような心構えを持てば、世界は平和になり、迷いも悩みもなくなって、
常に家庭が明るく、病者もいなくなって、
家も国も栄え、社会も豊かになるのであります。
<感謝合掌 平成27年7月12日 頓首再拝>
観世音菩薩 - 伝統
2015/07/13 (Mon) 17:55:54
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は十三仏の百ケ日導師。
三十日秘仏の十八日仏でもあります。
観音経などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。
また、般若心経の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。
単独で祀られることも多いが、勢至菩薩と同様、阿弥陀様の脇侍(きょうじ)として
阿弥陀三尊でまつられます。阿弥陀様の助手的な働きを担当します。
阿弥陀様の化身と考えられ、冠(頭)に阿弥陀様の化仏を付けているのが特徴です。
施無畏者(せむいしゃ)、救世菩薩(くせぼさつ)、救世浄聖(くせじょうしょう)、
蓮華手(れんげしゅ)、普門(ふもん)、大悲聖者(だいひしょうじゃ)など
様々な呼び名があります。
観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて
「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、三十三の姿に変身すると説かれているます。
基本的に一面二臂が聖観音(しょうかんのん)となります。
ご真言 おん あろりきゃ そわか。
(http://dictionary.kokorohenro.org/ka/index.html#kannon)
<感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>
観音霊場 - 伝統
2015/07/14 (Tue) 18:19:26
観音霊場の起源
三十三所巡礼の起源については、中山寺(二十四番札所)の縁起である『中山寺来由記』、
華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。
養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、
病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって
地獄へ送られる者があまりにも多いことから、
日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、
巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに
起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。
そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。
徳道上人は、この三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、
機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。
そして三十三所巡礼は忘れ去られていった。
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、
花山院(安和元年〈968年〉 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で参籠していた折、
熊野権現が姿を現し上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。
そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、
河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、
やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。
http://ameblo.jp/taishi6764/entry-11790289919.html
秩父三十四ケ所各霊場縁起
西国33ヶ所、坂東33ヶ所とともに、
日本百番観音に数えられる秩父34ヶ所の観音霊場である。
縁起によると、文暦元年(1234)に、
閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人(-しょうにん)・春日開山医王上人・白河法王
・長谷徳道上人・良忠僧都 (-そうず)・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現
・熊野権現の十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが始まりという。
秩父34札所に安置される御本尊は、聖観音・十一面観音・千手観音・如意輪観音
・准胝観音 (じゅんでい‐かんのん)・馬頭観音 の6観音様。
霊場の数は
観音様は33身に化身してこの世に応現すると云われていることから、
観音様を御本尊とする33ヶ所の霊場を巡拝し、観音様の功徳に与ることを願う
というということで33ヶ所となった 。
何故秩父は34ヶ所
元々は秩父札所も33ヶ所だった。
現存最古の資料は、法性寺蔵「長享(ちょうきょう)2年(1488)秩父観音札所番付」であり、
これによると現在の大棚観音が欠けた33ヶ所で、番付は定林寺から始まる。
奈良時代に始まったとされる観音霊場巡りは江戸時代には全国的となり、
西国・坂東・秩父観音霊場をあわせて巡礼するようになった。
観音霊場の合計を百ヶ所とするため、現在の第2番札所真福寺を加え、
秩父観音霊場は 34ヶ所と改められた。
更に、札所番付を江戸から順番に巡礼しやすいように再番することにより、
我が国を代表する巡礼の一つになった。
(http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/fudasho/fudasho.htm)
<感謝合掌 平成27年7月14日 頓首再拝>
四国霊場と観音霊場 - 伝統
2015/07/15 (Wed) 18:46:44
*「百観音順礼記」橋本徹馬・著(P8~9)より
(1)違い
①四国八十八箇所の霊場の場合は、その寺のご本尊はまちまちです。
ただどこの寺にも別の大師堂があって、弘法大師を祀ってあります。
そして四国遍路の信仰の中心は、その寺々のご本尊よりも、
寧ろ弘法大師におかれています。
②西国、坂東、秩父の各霊場は、全寺お観音さんをご本尊としています。
(2)同行二人
①四国遍路で同行二人といえば、弘法大師と二人という意味です。
これは遍路する者は、必ずお大師さんが一緒に遍路して下さっているという、
信仰から来ています。
②西国、坂東、秩父の百観音霊場順礼で、同行二人といえば、
お観音さんと共に順礼しているという意味です。
義太夫にある阿波の鳴門、順礼歌の段に
「背(せな)にかけたる笈摺(おいずる)に、同行二人としるせしは、
一人は大悲のかげ頼む」とある、
その大悲のかげとは、お観音さんのことであります。
<感謝合掌 平成27年7月15日 頓首再拝>
六観音のおはなし - 夕刻版
2015/07/16 (Thu) 18:58:36
*「百観音順礼記」橋本徹馬・著(P5~6)より
お観音さんには、さまざまな名称のお観音さんがありますが、
百観音霊場でお祀りしているのは、次の六つのお観音さんのうちの
どれかのようです。
千手観音
聖観音
馬頭観音
十一面観音
准低観音
如意輪観音
そして上に挙げた六観音(ろっかんのん)は、六道に配せられるのであります。
千手観音が地獄道
聖観音が餓鬼道
馬頭観音が畜生道
十一面観音が修羅道
准低観音が人間道
如意輪観音が天人道
各霊場で最も多いのが聖観音、次は十一面観音と千手観音です。
もちろん、どのお観音さんでも、総て人間をお救い下さるのでありまして、
六道というのも人間が輪廻する所ですが、一応六観音を六道に配すると、
上の通りになるというのです。
<感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>
六観音のおはなし~その2 - 夕刻版
2015/07/17 (Fri) 19:21:02
*Web:六観音(観音信仰)より
(1)千手観音
千手観音は千臂千眼観世音、千臂観音、千光観音、
千眼千首千舌千足千臂観自在ともいい、
正しくは千手千眼観世音菩薩と呼びます。
ちなみに千とは無量円満を意味する。
全ての生き物と人々を救う事を象徴し「大悲観音」とよばれる。
曼陀羅で蓮華部の中で最高の威徳を有する事から「蓮華王」とも呼ばれる。
実際、千本の手がある仏像はまれで、だいたいは42本限られ、
各手には持物を持つことになっています。
また、十一面観音のように頭上に十一の顔があります。
眷属として二十八部衆がつきます。
・真言:オン ロケイジバラ キリク ソワカ
(2)聖観音
仏の慈悲の「非」をもって、現世の生活に悩む人の苦しみを救います。
阿弥陀如来の化身と考えられています。頭上には阿弥陀の化仏を付けています。
単独像のほかに勢至菩薩と一緒に阿弥陀如来像の脇侍となる場合もあります。
・真言:オン アロリキヤ ソワカ
(3)馬頭観音
馬頭観音の頭上に馬の頭があります。
普通は馬頭観音と呼ばれますが、梵名をそのまま訳して、
大持力明王または、馬頭明王とも呼ばれます。
忿怒の形相で表されるため、この形相で様々な苦悩や災難などの諸悪を粉砕します。
また、馬頭観音は家畜や荷物を運ぶ馬の守り神として路傍の石仏にも多く見られます。
・真言:オン アミリト ドハンバ ウン ハッタ
(4)十一面観音
十一面観音はヒンドゥー教の十一荒神が強化されたものと考えられている。
頭上に十一の顔があり全ての方向を見つめて人々を救済します。
普通、前3面は菩薩面(穏やかな顔、慈悲を現す)、
左3面は分怒面(悪人を戒める)、右3面は狗牙上出面(優しい顔、人々を励ます)、
後一面は大笑面(大笑いしている顔、悪行を笑い飛ばす)」、
頂上は仏面(仏道に入った人に教えを説く)。
各面は阿弥陀仏の宝冠を頂いている。
・真言:オン ロケイジバラ キリク ソワカ
(5)准胝観音
観音の女性神格の代表のひとつです。
准胝観音は水の女神という性格も強く持っており、
仏教的には水の浄化の働きにより清浄をもたらす女神ともいわれます。
・真言オン・シャレイ・シャレイ・ソンデイ・ソワカ
(6)如意輪観音
梵名:チンターマニチャクラ
梵名のチンタは『願望』を意味し、マニは『宝珠』を指し。
チャクラは『円』ので如意宝珠法輪を意味する。これを略して如意輪。
六本の手で右手は頬に当て、右膝を立て、両足裏を合わせる
輪王座という姿勢をとっています。
人々を苦悩から救い、その願いをかなえてくれると言う。
如意宝珠は思うがままに珍宝だし、苦しみを取り除くと言われる。
密教法具は煩悩を打ち砕き、法輪を持つことで役割を明らかにしています。
・真言:オン バラダ ハンドメイ ウン
・真言 オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ
(http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/rokukannonn.htm)
<感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>
観音霊験記 - 伝統
2015/07/18 (Sat) 17:49:35
*Web より
観音霊験記は西国・坂東・秩父の観音霊場(百観音)の札所本尊の由来を紹介した錦絵。
安政5年(1858)から各札所1枚の大判の錦絵として計100枚が順次発行された。
絵師は二代目広重(有名なのは初代)・三代目豊国(国貞)。
文戯作者の万亭応賀(まんていおうが)が文章を入れ、
各札所にちなむ霊験話をシリーズにまとめ、
巡礼ガイドブックとしての需要にも合いヒット作となったそうです。
錦絵の上部には各札所の景観を描き、
下部にはその札所の霊験談が歌舞伎の演目のごとく描かれています。
当時の観音巡礼のガイドブックの役割を果たしていたと思われます。
(http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/sub04020.html)
<感謝合掌 平成27年7月18日 頓首再拝>
西国三十三所観音巡礼~第一札所 - 伝統
2015/07/19 (Sun) 19:45:22
紀州那智山 青岸渡寺
http://www.uranus.dti.ne.jp/gomi-ka/s01seigantoji.html
《本尊》 如意輪観世音菩薩
《縁起》
仁徳天皇の御世、修禅の妙を得た裸形上人が、当那智山を神仙の霊場と定め、
飛瀑に苦行しつつあった時、滝壺の中に御たけ八寸の黄金仏あるを感得し、
ここに庵室を結んで安置したのが、今現に本堂がある地であった。
かくて後、280年を経た推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、
前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した
24cmの観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。
平安朝中期から鎌倉時代には、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、
この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして
近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番札所となりました。
(歴代の天皇の中、天武天皇の一度、平城天皇の五度、清和天皇の一度、宇多天皇の二度、
花山天皇の二度、堀川天皇の一度、鳥羽天皇の一度、後白河天皇の十五度、
後鳥羽天皇の二度、亀山天皇の一度の行幸があった)
《御詠歌》 補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
《観音霊験記》 (http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku01a.jpg)
解説文 和泉式部
「西國三十三番は御代々の天子も御崇敬ありて行幸もありし中に、
後白河院は三十三度御参詣遊ばさる。
此時、権現の御神歌に『うろよりもむろに入ぬる道なれば是ぞ佛の御国なるべき』と、
此外に一首の霊歌あり。
和泉式部参詣のおりふし、麓にて障のありたれば
『晴やらぬ身のうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき』
と詠じて伏たる其の夜の夢に
『もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりは何かくるしき』と権現の御返歌あるゆへに、
心よく参詣を遂ぐふしぎの霊験に文學をはじめ挙げてかぞえ難し。
委くは予が観世音略傳図繪に出せり。」万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年7月19日 頓首再拝>
坂東三十三所観音巡礼~第一札所 - 伝統
2015/07/20 (Mon) 18:12:41
大蔵山 杉本寺
《本尊》 十一面観世音菩薩
《縁起》
杉本寺は、鎌倉最古の名刹とされる。
創建は天平6年(734)。
行基菩薩が当地を巡錫した際、柏に十一面観音と二十八部衆を感得し、
この木をもって本尊を刻んで、二階堂観音院を創建した。
さらに仁寿元年(851)、慈覚大師が江ノ島に参詣した折に、
天竺から小動(こゆるぎ)の浜に流れついた香木で十一面観音を彫刻して安置。
寛和二年(986)には、北野天神の神託によって、恵心僧都も同じく奉安している。
その後、聖武天皇の后の光明皇后の夢枕に観音様が立ち、
『財宝を寄付し、東国の治安を正し、衆生を救え』と告げられ、
そのお告げ通りに皇后は天平6年にお堂を建てたと伝わります。
文治五年(1189)のこと、隣家の失火のため、全山が炎に包まれた。
時の住職浄台法師は、本尊を救い出すため、本堂に入ろうとしたところ、
呼び止める声が背後から聞こえた。振り返ってみると、
大杉の根元に三体の観音が光明を放って立っていた。
歓喜した法師は、後に堂宇を再建。それ以降、杉本の観音と呼ばれるようになったという。
源頼朝は深くここの観音に帰依し、『吾妻鏡』の建久二年(1191)の条に
「累年風霜侵し、甍破れ軒傾けり、殊に御燐愍有って修理を為す」とみえており、
寺運の再興につくし、そのうえ前立本尊も納めている。
建暦二年(1212)将軍実朝も参詣している。
この寺には信仰心のない者が寺の前を乗馬したままよぎると落馬するという伝えや、
のちに建長寺開山大覚禅師が袈裟で尊顔をおおったら、そのことは止んだので
下馬観音・覆面観音といわれたなど、いかにも当時の武士たちとつながりの深い話である。
《御詠歌》 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓ひは末の 世にもかはらじ
《観音霊験記》 (http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/bando/nishikie01.html)
北條相模守時頼
当山は元々は二階堂観音院と号し、行基菩薩、慈覚大師、恵心僧都の作である
十一面観音の霊像が三躯いらっしゃいます!
その霊験はあらたかで、源頼朝卿は殊に信じられ、香花料として田畑をご寄進されました・・・
昔、近所で起こった火事の折、この御三躯が庭の大杉の根元に飛んで光明を輝やかせられました・・・
この様な不思議な事があったので大蔵山杉本寺と改められました・・・
行基御作の十一面観音は、門前を通行する者を落馬させるという不思議な話があり、
北条時頼の命令で大覚禅師(蘭渓道隆)が袈裟で尊像の顔を覆うと、
その後は落馬する者がいなくなったとの事です・・・
それ故に覆面観音と尊ばれています!
《参考:坂東三十三観音霊場案内図
http://www.bandou.gr.jp/bandou1.htm》
<感謝合掌 平成27年7月20日 頓首再拝>
秩父三十四所観音巡礼~第一札所 - 伝統
2015/07/21 (Tue) 20:59:40
誦経山 四萬部寺
《本尊》 聖観世音菩薩
《縁起》
行基菩薩が当地に巡錫して、聖観音を安置したのが最初と伝えられる。
時を経て永延二年(988)、金色の翼の霊鳥によってもたらされた観音のお告げにより、
播磨国書写山円教寺の性空上人が、四万部の経典を読誦した。
上人が寛弘四年(1007)三月十三日に没した後、その遺命にしたがって、
弟子の幻通が当地に赴いて堂宇を建立し、供養塚を築いたという。
《御詠歌》 ありがたや 一巻ならぬ 法のはな 数は四萬部の 寺のいにしえ
《観音霊験記》 (http://www.antillia.com/chichibu/fudasho/fudasho_1.html)
幻通比丘
當寺の本尊聖観世音は、行基の作にて霊験ことにあらたかにましませり。
寛弘四年三月十三日 書写山にて性空上人弟子幻通比丘に告ていわく、
武蔵國秩父に行基開基の観音あれども、 東夷の應機はっせず、
怠転におよびしことを、薩埵霊鳥を使わしめて吾にしめせり、
然るに よって吾四万部の妙典を誦するといえども、今寂に望めば趣くこと能わず。
汝予遺命をたがへず、 秩父に趣きて諸人を化度し霊跡の再発を勤めよとあれば、
其後幻通比丘當所に来りて四万部の 供養塚を建て諸人を勧化したれば、
佛恩を蒙る者あまたなれば今に参詣の者絶ず、
寺号は供養 塚をかたどりて四万部寺といへり。
<感謝合掌 平成27年7月21日 頓首再拝>
観音霊場巡礼の十徳 - 伝統
2015/07/22 (Wed) 19:32:48
*Webより
(1)三悪道(さんあくどう)に迷わず。
(三悪道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道のことを言う。)
(2)臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)なるべし。
(3)順礼する人の家には諸仏影向(ようごう)あるべし。
(4)六観音の梵字、額にすわるべし。
(5)福智円満なるべし。
(6)子孫繁栄すべし。
(7)一生のあいだ僧供養にあたるなり。
(8)補陀落世界に生ず。
(9)必ず浄土に往生す。
(10)諸願成就するなり。
閻魔大王は徳道上人に「巡礼した者は地獄に堕ちない」と誓願したことから、
観音巡礼の目的の第一は地獄に堕ちないことであり、(8)(9)の補陀落浄土に往生することである。
(http://park.geocities.jp/keimiz50520/hajimari.html)
<感謝合掌 平成27年7月22日 頓首再拝>
観音霊験記~その2 - 伝統
2015/07/23 (Thu) 20:38:18
観音霊験記(かんのんれいけんき)は江戸時代の安政5年(1858)から
順次刊行された大判錦絵による人気の高かったガイドブックです。
この観音霊験記は、西国・秩父・坂東の三観音霊場(百観音)について
各一枚とした都合百枚があったと考えられます。
しかし残念ながら、坂東の18カ所については現存しておらず、
いまだ発見もされておりません。
その特色は、紙面の上部に名所旧跡の景観を配し、
下2/3には札所寺院の霊験談が、歌舞伎の演目のごとく描かれています。
さらに、戯作者の万亭応賀(まんていおうが/本名・服部孝三郎)による
文章を収載しています。
浮世絵は絵師二代広重・三代豊国・国貞の共同作業によって描かれています。
まさに現代のガイドブックのような構成です。
人気の秘密は、きわめて具体的な霊験を紹介しながら、
札所本尊の由来を説いていることです。
現代人から見れば、いかにもにわかに信じがたい話が多いのですが、
観音信仰と重ね合わせ、当時の人々が観音の霊地に思いをめぐらせたことが
容易に想像できます。
秩父の札所には観音霊験記の大額が各札所に奉られております。
<感謝合掌 平成27年7月23日 頓首再拝>
御詠歌と花山(かざん)法皇 - 伝統
2015/07/24 (Fri) 21:00:56
《「御詠歌」の起源》
「御詠歌」の起源は花山院が西国三十三所の各札所で詠まれた御製の和歌を
後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として歌ったものであるとされている。
西国三十三所の御詠歌は、宗派にもよるが近畿地方一円で死者を弔うために
葬儀から四十九日法要まで親族によって毎夜唱えられたり、
お盆の仏事において参加者全員で合唱する習慣などがある。
<参考Web:ご詠歌の歴史 http://www.goeika.com/>
《花山天皇・法皇 (968~1008年)》
安和元年(968年)、冷泉天皇と藤原懐子(摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘)との
第一皇子として生まれ、安和2年(969年)、生後10ヶ月足らずで、
叔父円融天皇の即位とともに皇太子となり、
永観2年(984年)17歳で円融天皇から帝位を譲られ即位した。(第65代天皇)
しかし、摂政であった母方の父伊尹は、即位時にはすでに他界しており、
内外に有力な人脈を持っていなかったことが、2年足らずの短い在位という結果を
招いたと云われている。
寛和2年(989年)19歳で宮中を出て、元慶寺において仏門に入り退位した。
この突然の出家については、寵愛した女御藤原忯子(し子)が妊娠中に死亡したことに
起因するという説が一般的であるが、書物「大鏡」では、さらに、
円融天皇の第一皇子懐人(やすひと)親王(後の一条天皇)を即位させるために、
母方の祖父である藤原兼家が、
「道兼(兼家の三男)は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家する」とそそのかし、
元慶寺に連れ出したという陰謀説をも伝えている。
その後、書写山の性空上人と結縁し、比叡山や那智山で修行、
徳道上人が修めた三十三ヶ所観音霊場の宝印を摂津国中山寺で探し出し、
性空上人、仏眼上人らとともに三十三ヶ所を巡礼、三十三ヶ所観音霊場の巡礼を復興した。
各霊場のご詠歌はこの時に法皇が詠んだ和歌である。
晩年、帰京するまでの十数年間は、巡礼の途中に気に入った摂津国花山院で隠棲し、
寛弘5年(1008年)2月8日、41歳の生涯を終えた。
(http://park.geocities.jp/keimiz50520/hajimari.html)
補足(花山法皇) - 伝統
2015/07/24 (Fri) 21:11:11
<参考>
(1)花山法皇のことをさらに詳しく知るには、次のWebが役立つかも知れません。
Web:花山院のこと
→ http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/kazanin/kazanin-1.htm
Web:花山法皇の熊野御幸
→ http://www.mikumano.net/setsuwa/kazann.html
(2)花山法皇については、
”山ちゃん1952 さま”のブログ(2014年01月01日)に紹介があります。
先日花山天皇の菩提寺に参拝してきました。
花山天皇陵は京都のマンションに囲まれた京都衣笠にあります。
しかし亡くなられたのは質素として自然の豊かな山に囲まれた兵庫県の三田にあります。
西国三十三箇所の巡礼の番外としてこの菩提寺があります。
(http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1988991.html)
<感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その1、2 - 伝統
2015/07/25 (Sat) 18:18:09
第1番札所・那智山青岸渡寺
(御詠歌) 「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」
(ふだらくや きしうつなみは みくまのの なちのおやまに ひびくたきつせ)
( http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1201.html)
・・・
第2番札所・紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)
(御詠歌) 「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」
(ふるさとを はるばるここに きみいでら はなのみやこも ちかくなるらん)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1202.html)
・・・
(以下は、Web:紀三井寺より http://www.kimiidera.com/ )
紀三井寺のご詠歌は、花山法皇様がご自身の
「ふるさとである京の都を後にして、幾千里の山河を越え、熊野・那智山から
はるばるここ紀三井寺にやっとの思いで到着してみると、
折から水ぬるむ春近き季節で、わがふるさと、京の都も近づいたこともあって、
ほっと安堵することよ」
とのご心境をお詠みになったものでしょう。
しかし、もう一つ仏の道からの解釈によりますと、
「迷いの多い娑婆世界を後にして、観音信仰ただ一筋におすがりし、一足一足に
「南無観世音菩薩」とお称えしつつこの紀三井寺まで参りましたところ、
迷いに閉ざされていた心の眼も次第に開かれて、
花の都、仏様のお浄土も間近なように思えます」
とのお心にも受け取ることが出来ようかと思われます。
《参考:紀三井寺縁起》~Web:紀三井寺より http://www.kimiidera.com/
紀三井寺は、今からおよそ1230年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、
唐僧・為光上人によって開基された霊刹です。
為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、
波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。
そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、
人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。
行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山山頂あたりに霊光を観じられて翌日登山され、
そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。
上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、
十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三札のもとに刻み、一字を建立して安置されました。
それが紀三井寺の起こりとされています。
その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後
隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられています。
江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山され、
「紀州祈祷大道場」として尊這崇されました。
《参考:為光上人の龍神伝説》~「百観音順礼記」橋本徹馬・著(P131)より
ある時、為光上人は龍神の招きを受けて龍宮へ赴き、説法教化すること3年に及んだが、
いよいよ帰るその日になって、鈴・五鈷・錫杖・梵鐘・ほら貝・七本桜・応同樹の七つの
寄進をうけた。
その中の、鈴・五鈷・錫杖・応同樹だけが現存し、就中応同樹は、その葉を水に浸して
のむと、如何なる病気も癒るといわれ、今も枝葉茂っている。
《参考:観音霊験記》
解説文
唐僧 威光上人
「紀三井寺は三弧の霊水なるがゆえ名とせり。
上人大般若経を書写したまふかたはらへ忽然と美女来りたるに驚きて、
何方のものと尋ねたれば清浄水の滝のうちにかくれしが、
其後三年へてかの美女又来りて、法螺貝、如意香炉、加葉の錫杖、横道木の櫻等を献じて、
我は龍女なり上人の法徳を永代信仰せんと去りたるゆへ、その品々當寺の宝物となって
いまもそんせり。
それのみならず其時よりして毎年七月七日には龍灯を献ずることふしぎの霊験なり。」
万亭應賀記
(http://www.azuma-geijutsu.com/essay_kannonreigen.html)
<感謝合掌 平成27年7月25日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その3 - 伝統
2015/07/26 (Sun) 19:16:01
第3番札所・風猛山粉河寺
(御詠歌) 「父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や」
(ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1203.html)
《参考:風猛山粉河寺》http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku03a.html
西国三十三所観音霊場第三番目の札所である粉河寺。
正式名は、風猛山粉河寺(ふうもうざんこかわでら)
宝亀元年(770年)のある日、猟師の大伴孔子古(くじこ)が山中で霊光を発する場所を見た。
霊光を見た孔子古はこの地が霊地に違いないと考え、ここに小堂を建立したと伝えられている。
この小堂に童男大士が訪れ、七日間、堂に籠もって仏像を刻み、
これを本尊にするようにと孔子古に与えたといわれており、翌日、童男大士が去ると、
その仏像は金色に輝く観世音菩薩(千手観世音菩薩)になったという。
孔子古は童男大士こそ観世音の化身と考え、以後、殺生をやめ供養礼拝したといわれ、
これが粉河寺の創始と伝えられている。
また、国宝『粉河寺縁起絵巻』には、次の霊験説話も記述されている。
河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。
そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、
娘の病は全快した。
喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、
娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、
「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、
観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であった
ことを知ってその場で出家し、粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである
《参考:観音霊験記》(http://www.azuma-geijutsu.com/essay_kannonreigen.html)
解説文
澁川佐太夫
「佐太夫は河内の者にて、獨の子大病にうちふし医薬百計に手を尽くせども驗なく、
父母かなしみにたえがたく大悲の施無畏を一心に信じたれば、不圖十四五の童来たりて
子の病を 尋ねたるゆえ、加持を頼みたれば童とりあえず千手陀羅尼を読おしえけると
俄に苦痛を免れしゆゑ、父歓びて童に財宝を布施したれども更に受ず。
唯、病人の箸紙を取て予は紀州粉 河寺の者といひて去れり。
其後本腹したれば父子を連れて其所をさまざま尋ねたれども知れず。
人もなき草庵に休らひて終夜案じたるところ、不思議と仏間に光明輝きしに驚き
近寄 て見れば千手の御手に子の箸筒居たれば、扨は以前の童は此御佛に在せしかと
深く尊びとく参詣するを四方にひろまり、終に伊都郡の女大信者となりて
住宅を御寺とせしより霊験弥 あらたなり。」万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年7月26日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その4 - 夕刻版
2015/07/28 (Tue) 18:06:15
第4番札所・槇尾山施福寺(槇尾寺)
(御詠歌) 「深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる」
(みやまじや ひばらまつばら わけゆけば まきのおてらに こまぞいさめる)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1204.html)
《参考:槇尾山施福寺(槇尾寺)》
南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』(正平15年・1360年書写)によると、
施福寺は欽明天皇の時代、播磨国加古郡の行満上人が創建したものであるという。
次のような説話が伝承されている。
宝亀2年(771年)のこと、当時槇尾山寺に住していた摂津国の僧・法海のもとに、
一人のみすぼらしい格好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間を
この寺で過ごさせてくれと頼んだ。
この修行僧は客僧として槇尾山寺に置いてもらえることとなり、
夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。
予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、
寺僧たちはそれを拒んだ。
すると、客僧は怒り出し、「何ということだ。この寺は、見かけは立派だが、
真の出家者などはいないではないか。このような寺はいずれ滅び去り、
悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで、出て行ってしまった。
驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。
これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、
千手観音の像を刻んで祀ったという。
《参考:観音霊験記》(http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku04a.jpg)
解説文
光明皇后
「當国いつみ郡浦田に智海上人といふあり。
宮里の滝山に仏乗を信じ住けるとき、めじか来って上人の尿を嘗て孕み終に女子を産り。
上人見すてがたく隣家の姥に養育をさせたりしに、元来貧しき農家なれば、
かの女子七才の五月姥とかたらひて田の苗を植付居たりしに、
都より藤原不比等勅願の御使としてこの巻尾寺に参詣ありしところ、
観世音の霊瑞を蒙り帰路に及びくだんの女子を見るに、白玉の身より光明を放つがゆえ
俄に貴び姥に乞うけて連れ立ち玉ひ、帝の御傍に侍せしめしところ、御寵愛あつかりしかば、
天平元年八月后宮に立て玉ふ、すなはち是光明皇后にましまして、
御身仏縁ふかきがゆゑことさら佛法を信じ玉ひ、
数多精舎を建立し玉ひしこと不思議の霊験なり。」 万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年7月28日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その5 - 伝統
2015/07/31 (Fri) 19:26:34
第5番札所・紫雲山葛井寺
(御詠歌) 「参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲」
(まいるより たのみをかくる ふじいでら はなのうてなに むらさきのくも)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1205.html)
《参考:紫雲山葛井寺》
河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も
百済(くだら)王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が
当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。
永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による二Km四方の
七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた
薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)
の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて
十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため
藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。
(本尊 国宝 十一面千手千眼観世音菩薩像 → http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku_fujiidera.htm)
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku05a.jpg
解説文
藤井安基
「安基は大和国賀留の里の人で、傍若無人な生活をしている者である。
ある時、河内国平石の辺りで鹿を捕り、その山のお堂に入って仏具をまな板や薪にして、
鹿肉を煮て食べていたところ、すぐに死んでしまい、火車に乗せられ、地獄におちた。
童子が一人現われて、安基を地獄から救おうとしたが、
獄卒どもが彼は仏道を穢した逆罪の者であるから救うべきではないと言った。
しかし、童子が再び「安基が罪を犯した人であっても、彼は一度、私の住んでいる
長谷寺を再建するための材木を引いた善根がありますから、速かに現世に返してください」
と頼んだところ、すぐに生き返った。
その後、安基は改心して南都に登り、行基菩薩の弟子となり、
長谷観音を刻んだ霊木の余りを使ってこの尊像を造ったのであった。
その話を、聖武天皇がお聞きになって、行基を以てこの寺の開山とした。
安基の因縁で藤井寺といっても実は金剛寺という。
本当に不思議な霊験を思い見ることである」万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年7月31日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その6 - 伝統
2015/08/02 (Sun) 17:53:01
第6番札所・壷阪山南法華寺(壷阪寺)
(御詠歌) 「岩をたて 水をたたえて 壺阪の 庭にいさごも 浄土なるらん」
(いわをたて みずをたたえて つぼさかの にわのいさごも じょうどなるらん)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1206.html)
《参考:壷阪山南法華寺(壷阪寺)》
大宝三(七〇三)年に元興寺の弁基上人がこの山で修行していたところ、
愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んでまつったのが始まりという。
養老元(七十七)年に元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。
礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。
胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。
平安期には、長谷寺とともに定額寺に列せられ承和14年(847)
平安貴族達の参拝も盛んになり、ことに「清少納言」は「枕草子」のなかで
「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺として、筆頭に挙げている。
寺の本尊は眼病に霊験のある仏として昔から信仰され、
「元正天皇」「一条天皇」「桓武天皇」をはじめ眼病平癒を祈願する人は多かった
とされているが、
特に、近年当寺が眼病患者を救う観音を祀る寺として有名になったのは、
明治時代に失明回復祈願にまつわるお里沢市の夫婦愛を描いた浄瑠璃の
「壺阪霊験記」が世間に共感をよんだことによるといわれている。
《参考:浄瑠璃 「 壷坂霊験記 」》
物語はこうです。
壷坂寺の近くに、目の不自由な沢市という男がおりました。
その妻のお里は大変な美人でした。
お里は、沢市を深く愛しておりました。
ですから、お里はなんとかして、夫沢市の眼病を治そうと
壷坂寺の観音に夜毎お参りするのでした。
それを知らぬ沢市は、夜な夜なお里が家を離れるので、
自分をさしおいて不倫でもしているに違いないと邪推します。
ある夜、沢市はお里の後をつけていきます。
すると不倫どころか、お里は沢市のために壷坂まいりをしているではありませんか。
なんという愚かな邪推をしてしまったのかと沢市はわび、
それが恥ずかしくて沢市は近くの谷に身を投げてしまうのです。
お里も悲しんで後を追って身を投げます。
この夫婦愛に感じた観音が二人の命を助け、沢市の目も開く・・。というものです。
(http://www.tsubosaka1300.or.jp/report.html)
《参考:もう一つの霊験記~さよ姫伝説》
壷坂の村に住む姫君が、尊い聖の説法にでかけ、
親孝行する者には仏神が感応すると聞いた。
貧しくて父親の十三回忌に何もできないのを悲しんでいると、
たまたま陸奥国の商人が15~16歳の女性を買いに来たので、
進んで我が身を売り、そのお金で父親の菩提をとむらうことができた。
母を残し、遠い陸奥国まで来た姫君は、
15~16歳の女性が必要とされた理由を知る。
ここでは毎年、大蛇に人のを供えなければならず、
ある親が娘の身代わりを求めていたのである。
決められた池の中嶋で待つと、やがて長さ10丈(30メートル)もある大蛇が現れた。
しかし姫君が御経を読むと、経典読誦と親孝行の功徳により、
大蛇は成仏を確信して歓喜し、姫君を乗せて天に昇る。
姫君は実は弁財天、大蛇は実は壷坂の観音菩薩であり、
末世においても信心があれば二世安楽うたがいなしと結んでいる。
(http://www.tsubosaka1300.or.jp/report_other1.html)
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku06a.jpg
解説文
栖軽
雄略天皇二十三年、天皇が大安殿にいらっしゃる時、
にわかに風雨と雷が激しくなってきたので、随身である小子部栖軽に詔を下した。
「急いで雷神を生捕って来い」という勅命を受けた栖軽は、
すぐに馬を走らせて阿部山の方に追って行き、雷が鳴りわたる空を睨んで、
「この空は、我が朝廷の空である。勅命を知らないのか」
と大声で罵ってみたが雷鳴は止まなかった。
そこで栖軽は壺阪寺の方に向かって、
「観音よ、王土をなぜ拗護なさらないのか」と言いながら、
この『観音経』の妙文「雲雷鼓掣電 降雹大雨 念彼観音力 応時得消散」を念じた。
すると、御寺の方より異光が放たれるのが見え、
ちょうど激しい雷が豊浦と飯岡の間へ落ちたので、それを生け捕って、朝廷へ献じたところ、
殿上人で誉めない者はいなかった。これにより、神取栖軽と号したのであった」万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月2日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その7 - 伝統
2015/08/04 (Tue) 19:11:40
第7番札所・東光山岡寺(龍蓋寺)
(御詠歌) 「けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり」
(けさみれば つゆおかでらの にわのこけ さながらるりの ひかりなりけり)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1207.html)
《参考:東光山岡寺(龍蓋寺)》
創建は天智天皇2年(663)に
義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立したのがはじまりと伝えられている。
義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれているが、その出生は謎である。
寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、
家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。
観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、
それを聞いた天智天皇が引き取り、岡の宮で養育された。
後に義淵僧正は岡宮を譲り受けた。
龍蓋寺の名前の由来になった伝説も残っている。
大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍をその法力をもって池に封じ込め、そ
こに大きな石で蓋をしたという。その時の池が本堂前にある龍蓋池である。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku07a.jpg
解説文
長門国の少女
本尊は、弘法大師が入唐された時、風波を鎮め大難を免れた霊仏である。
貞享の始めに長門国青野という所の某の娘が西国順礼を深く志して、
ひそかに家を出て、男女三十人余りと共に乗合船に乗った。
海上で暴風に遭い、船を砕かれ、乗合船の人はほとんど残らず溺死したのであるが、
この少女のみ不思議とその浦近くの伊崎という所に上がって、漁師に助けられ、
親の家まで送ってもらうことができた。
少女の両親は喜んで、その一部始終を尋ねた。
娘が答えるには、
「暴風に船を砕かれ、死ぬのを覚悟して、心に浮かぶまま
『今朝見れば露岡寺』と念じながら、帆柱にしがみついていた」という。
娘を家まで送った漁師が言うには、
「私がその日の明け方寝ていたときに、戸をたたく者があり、誰かわからないが、
魚がたくさん集まっているので、急ぎ磯へ行けというので、行ってみたところ、
大風で魚はなく、この娘を見つけたのです」と語った。
そこで、その仏力を尊んで、その漁師にお礼の品物を差し上げて帰した。
本当に観音の霊験は著しく、
『観音経』に、「若為大水所漂称 其名号即得浅処」
とあるのに少しも違うところはない。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月4日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その8 - 伝統
2015/08/06 (Thu) 18:14:36
第8番札所・豊山長谷寺
(御詠歌) 「いくたびも 参る心は はつせ寺 山もちかいも 深き谷川」
(いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1208.html)
《参考:豊山長谷寺》
朱鳥元年(686)道明上人は、皇室のおん為に銅板法華説相図を西の岡に安置され、
のち神亀四年(727)徳道上人は聖武天皇の勅を奉じて、民衆のために
東の岡(現在の場所)に十一面観世音菩薩をおまつりになりました。
徳道上人は観音信仰に徹したお方で西国三十三所巡拝の開祖となられた大徳であり、
当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku08a.jpg
解説文
春日の社司・中臣信近
後一条院の時代に、信近[信清の長男]が蛇眼瘡を病って、
様々に手をつくしても回復の兆しがなく、元来業病であるので、
神仏を祈る以外ないと、この長谷寺の観音を一心に念じていたところ、
御寺の方から烏が飛んで来て、瘡の中から小さい蛇を喰い出す夢を見た。
すると、すぐに苦痛を忘れ、ほどなくして病が治ったので、
大悲の利益を報じようと思い、長大な回廊を建立した。
それ以外にも未来男の霊験、中将姫の霊験、唐馬頭夫人の霊験、
新羅国照明王の后の利生、吉備大臣が大唐にて野馬台の詩をよんだ霊験、
源氏物語玉葛の尋ね人に逢ったという霊験、
住吉物語にも長谷寺の観音は恋路を祈る際によく叶えてくれるという話があり、
謡曲にも、足曳の大和路や大唐までも聞ゆなる初瀬寺に詣つつ(大和への路は
中国の唐まで聞こえるほどである、初瀬寺に詣でながら)と
あるのももっともなことである。
古今の霊験は枚挙にいとまがないほどである。
ただ頼んで、信じるべきである。 万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月6日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その9 - 伝統
2015/08/09 (Sun) 19:40:01
第9番札所・興福寺南円堂
(御詠歌) 「春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲」
(はるのひは なんえんどうに かがやきて みかさのやまに はるるうすぐも)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1209.html)
《参考:興福寺南円堂》http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku09a.html
南円堂は、弘仁4年(813年)に興福寺の一堂として、
藤原冬嗣が父、内麻呂の追善のために建てたといわれています。
寺の縁起によると、白銀をもって千体の観音像を作り、これを深く土中に埋めて
地鎮とし、この上に堂宇を建て、本尊(不空羂索観音菩薩像)をここに奉安した、とある。
この時の伝説として残っているものに、春日明神が老翁の姿となって化現し、
建立に力を添え、建立なるや、「ふだらくや南の峰に堂建てて今ぞ栄えん北の藤波」の
歌を詠んだとのことで、堂の名はこれに因んだものである。
( *「百観音順礼記」橋本徹馬・著(P139)より)
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku09a.jpg
解説文
閑院左大臣冬嗣公
大織冠藤原鎌足より五代の子孫、長岡右大臣藤原内麻呂は、
同族の繁栄を弘法大師に御尋ねしてみたところ、
真言秘密蔵のうち不空羂索観音像をお選びになった。
しかるべき所に御堂が建たないうちにお亡くなりになり、
その子、冬嗣公は先功を継ぎ、弘仁四年にその地へ一千躰の小観音の像を地中に納められた。
その時に、春日大明神が雇い人の中に交わって土石をお運びになり、
藤原氏の繁栄をお祝いになった。
御神歌に、補陀落の南の岸に堂建て今ぞ栄えん北の藤波
(補陀落山の南の岸にお堂を建て、今や栄えんとする藤原北家) 万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その10 - 伝統
2015/08/10 (Mon) 17:44:22
第10番札所・明星山三室戸寺
(御詠歌) 「夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波」
(よもすがら つきをみむろど わけゆけば うじのかわせに たつはしらなみ)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1210.html)
《参考:明星山三室戸寺》http://www.mimurotoji.com/article.php?id=157
天智天皇の皇孫白壁皇子(後の光仁天皇)は、
宇治山の奥の岩渕の滝から出現した金銅の千手観音を崇敬していた。
皇子が即位した時、奈良大安寺の行表禅師を開山として、
宇治の離宮(御室)にこの尊像を祀り、御室戸寺と号したとされる。
その後も皇室の尊崇が篤く、この地が光仁、花山、白河の三帝の離宮となったので、
御の字が三に改められ、三室戸寺となった。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku10a.jpg
解説文
山州綺田村農女
昔、綺田村の農夫は、常に仏道を信じ、彼には一人の娘がいた。
この娘、幼い頃から『観音経』を読誦して、
三室戸寺の観音を信じていたので、全く殺生をしなかった。
ある日村人が蟹を取って殺そうとするのを見て、
娘は家の乾物と取りかえてその蟹を放した。
娘の父は、耕作に出て蛇が蟇を呑むのを見つけ、
蛇から蟇を放してやろうとするけれども蛇は放さなかった。
そこで、戯れに「その蟇を放せば私の娘を与えよう」と言ったところ、
蛇は呑みかけた蟇を放して藪の中へ去っていった。
その夜、蛇が人に化けてやってきて「約束通りに来た」と言う。
父は驚いて、とっさに「二、三日経ってから来てください」と答えたので、
蛇はその夜は去っていったが、また三日後にやって来た。
その時娘は、一部屋にこもって一心に『観音経』を読誦し、
日頃信じている三室戸寺を念じていた。
蛇の変化は、尾で部屋の戸を破り入った。
そして、いよいよ危なくなった時、突然たくさんの蟹が現れ、
その蛇をはさみで斬り殺して去っていった。
これによってその地を寺とした。
すなわち蟹満寺がこれである。 万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月10日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その11 - 夕刻版
2015/08/12 (Wed) 20:02:21
第11番札所・深雪山上醍醐寺・准胝堂
(御詠歌) 「逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂は たのもしきかな」
(ぎゃくえんも もらさですくう がんなれば じゅんていどうは たのもしきかな)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1211.html)
《参考:深雪山上醍醐寺・准胝堂》http://www.saikoku33.gr.jp/11/
弘法大師の孫弟子、理源大師が都の東南の方に五色の雲がたなびいている山を見て、
霊地とすべく登ったところ、醍醐山の神、横尾明神の化身である老人が現れた。
老人はそこに湧き出ている水を飲み、『ああ醍醐味なるかな』と言ったという。
これが醍醐寺の名の由来になった伝えられている。
醍醐水を感得した理源大師は貞観16年(874年)に山頂に草庵を造り、
柏の木に准胝、如意輪の両観音像を刻み安置したといわれており、
これが上醍醐寺の創始とされている。
2年後には准胝堂、如意輪堂が造られ、更に延喜7年(907年)には醍醐天皇の勅願寺となり、
薬師堂が建立されたと伝えられている。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku11a.jpg
解説文
聖宝僧正
当山の開基である聖宝僧正は、中興の諸山の路を開き、川々に橋を渡し、
また舟を浮かべて往来を助けるなど、数多くのことを行った。
昔、役小角が熊野より大峯に入り吉野に出るという、山伏の峯入りを始めた。
その後大蛇が出て人を悩ますので、峯入りすることが困難になった。
そこで、聖宝僧正は、鉞でその大蛇を退治して大峯より熊野へ出た。
これを逆の峯入りという。
ところが、聖宝僧正は、蛇の毒に触れて悪瘡にかかり、苦痛に耐え難い状態となった。
そこで、准胝陀羅尼を読誦したところ、観音の霊夢で
「宇治郡笠取山に霊水がある。これは三世の諸仏の影向があり、
醍醐経を加持しているので急いで行って沐浴せよ」
というお告げがあった。
聖宝僧正は歓喜して、教えの通りに沐浴したところ、すぐに悪瘡が治った。
この霊験によってこの場所に御寺を建立した。
醍醐というのは、その霊水に由来する号であるということである。 万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その12 - 伝統
2015/08/17 (Mon) 19:52:18
第12番札所・岩間山正法寺
(御詠歌) 「水上は いづくなるらん 岩間寺 岸打つ波は 松風の音」
(みなかみは いづくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1212.html)
《参考:岩間山正法寺》http://www.iwama-dera.or.jp/engi
養老六年(722年)、加賀白山を開いた泰澄大師が元正天皇の33歳の大厄の病を
法力により治した褒美として建立したことに始まる元正天皇の勅願寺院である。
往昔は、後白河(ごしらかわ)・後宇多(ごうだ)・正親町(おおぎまち)天皇等
歴代天皇の尊崇厚く熊野、吉野に並ぶ、日本三大霊場の一として隆盛していた。
養老六年元正天皇の病気平癒祈願を成満した泰澄は、同年、加賀白山を開く途上、
霊地を求め岩間山を訪れた折、桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、
その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその胎内に納め祀りご本尊とした。
ご本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、
苦しむひとびとを悉く救済し、日の出頃、岩間山へ戻られた時には汗びっしょりに
なられているので、そのお姿から「汗かき観音」さんと呼ばれている。
また、泰澄大師が当地に伽藍建立の際、たびたび落ちる雷に困り果て、
ご自分の法力で雷を封じ込め、落ちる訳を尋ねられたところ、
雷は大師の弟子になりたいのだと申し出た。
大師は快く雷を弟子にし、その代わりに岩間寺に参詣の善男善女には、
雷の災いを及ぼさないことを約束させた。
これが「雷除け観音」とよばれる由縁で、毎年四月十七日には、
雷除け法要(雷神祭)が奉修され、多くの参詣者で賑わう。
この雷は、水の乏しい寺のために、自らの爪で井戸を掘ったという。
この"雷神爪堀湧泉"と呼ばれる霊泉には元正天皇御製の、
「沸きいづる 岩間の水はいつまでも つきせぬ法の み仏の影」という歌が伝えられている。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku12a.jpg
解説文
芭蕉翁桃青
芭蕉翁は常に『観音経』を信じ、中でもこの岩間寺の観音を念じて
閑素幽棲の風流を志していたところ、ついにその霊験を受け、
末代まで名を天下に知らしめることとなった。
紫式部はこの辺りの石山寺の観音堂にこもって念じ、『源氏物語』の秀作があり、
芭蕉翁はこの山つづきの国分山に3年間住んで『幻住庵の記』を書かれ、
一夏の間に『法華経』二十八品を一石に一字づつ書こうと思って里の童たちに小石を拾わせ、
持ってきた者には、そのお駄賃として菓子などを与えた。
童たちは翁を慕って集まり、早々にその仕事が終わった。そ
して『幻住庵の記』の奥書に次の一句がある。
「先たのむ椎の木もあり夏木立」はせを
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その13 - 伝統
2015/08/19 (Wed) 19:46:38
第13番札所・石光山石山寺
(御詠歌) 「後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山」
(のちのよを ねがうこころは かろくとも ほとけのちかい おもきいしやま)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1213.html)
《参考:石光山石山寺》http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/saigoku/reijo13.html
聖武天皇が東大寺の大仏を造立するため、諸国に黄金を求めた。
当時、大和の国金峰山が全山黄金とされたので、良弁僧正に祈らせると、
これは弥勒仏がこの世に現れる時、大地に敷く金のため、
近江の南端にある観音の霊地で祈れ、というお告げがあった。
そこで良弁が当山に来ると、老人に化した比良明神から、山上の巨岩を教えられる。
ここに如意輪漢音を安置して祈願したところ、陸奥国から黄金を献上してきた。
その後、観音は岩から離れなくなったので、堂を建てて祀ったという。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku13a.jpg
解説文
良弁僧正
聖武天皇の勅命により、良弁僧正は、金峯山の黄金を掘ることを蔵王権現に念じていた。
すると、蔵王権現が霊夢に出てきてお告げになるには、
「この山の黄金は、弥勒がこの世に現れた時に用いるものであるので、
勝手に取ることは許されない。他の場所を教えよう。
江州勢田郡に一つの山があり、これは如意輪観音の霊地であるので、そこへ赴き祈念しなさい」
そこで、良弁僧正は、教えの通りに勢田に行った。
石の上で釣りをしている翁がいたので、「あなたはどなたですか」と尋ねてみたところ、
「私はこの山の主で比良の神である。いかにもここは観音の地である」と教えて去っていった。
良弁僧正は喜んで、そのほとりに庵を建て、如意輪観音の尊像をつくった。
それからほどなくして、奥州から黄金の献上があったのは、不思議な霊験である。
この時大伴家持が祝って詠んだ。
「すべらぎの御代栄えんと東なる 陸奥山に金花咲」
(聖武天皇の時代が栄えよと東国陸奥の山に金の花が咲いている)
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その14 - 伝統
2015/08/21 (Fri) 18:28:51
第14番札所・長等山三井寺
(御詠歌) 「いで入るや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖」
(いでいるや なみまのつきを みいでらの かねのひびきに あくるみずうみ)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1214.html)
《参考:長等山三井寺》http://shiga-miidera.or.jp/about/index.htm
三井寺(みいでら)は 正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。
667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。
672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と
大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。
壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために
「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、
天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。
俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、
「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来します。
西国十四番札所である「観音堂」は園城寺の寺域最南部に位置しております。
堂内に安置されている本尊「如意輪観世音菩薩」は平安時代の作とされ、
三十三年毎に開扉される秘仏であります。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku14a.jpg
解説文
大津町杉女
杉女は、当町裕福な家の下女である。
どのような因縁によるものか、観音を幼い頃から深く信仰し、
三井寺の全ての観音に毎月御縁日には、風雨の夜でも欠かすことなく参詣していた。
それを主人をはじめ下人たちも皆陰で笑っていた。
その頃、大津中に瘧が流行し、一人もこの病にかからない者はいないほどであった。
すでに家の者も三、四十人、皆この病にかかったのであるが、この杉女だけは、
全く床に伏せることがなかった。
このことがあって以来、皆、仏力の尊いことを感じて、信心をおこしたのであった。
また、ある時、杉女が天井の上にある薪をおろそうと梯子を登っていたところ、
はるか上の方から、二、三十束の大薪が崩れ落ち、梯子が倒れた。
杉女はまっさかさまに石臼の上へ落ち、杉女の上へたくさんの薪が落ちてきたが、
少しの怪我もなく助かった。
この不思議な出来事に、杉女は懐を改めて見たところ、
入れた覚えのない如意輪観音の尊像が出てきて、ますます信心を深くしたのであった。
『観音経』の偈に「堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛」とあるのは
本当に有難いことである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その15 - 伝統
2015/08/23 (Sun) 19:21:43
第15番札所・新那智山観音寺
(御詠歌) 「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」
(むかしより たつともしらぬ いまぐまの ほとけのちかい あらたなりけり)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1215.html)
《参考:新那智山観音寺》http://www.saikoku33.gr.jp/15/
観音寺は八二五年頃(平安時代)嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創されました。
西国三十三所第十五番霊場、
古くからの霊験記にも記されている通り「頭の観音さん」として広く人々の信仰をあつめ、
毎日多くの善男善女の祈願の参拝者が絶えません。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku15a.jpg
解説文
後白河院
後白河院は、いつも頭痛に悩まされていた。
熊野へ御幸になり祈願されたところ、権現のお告げに、
「洛陽因幡堂の薬師如来は、天竺から伝来した尊像であるので、この像に祈りなさい」
と言われた。
それゆえ、永暦二年二月二十二日、
因幡堂に御参詣になり、お祈りされたところ、夢の中に貴僧が現れて、
「後白河院の前世は、熊野の蓮花坊という者で、六十六部の経典を日本廻国して
奉納した功徳によって天皇に生れた。
しかし、前世の髑髏が岩田川の水底に沈んでおり、その目穴から柳が生え、
今は大木となっており、風が吹くと動くので、今の後白河院の身に頭痛がおこるのです。
急いで取りあげれば、頭痛は治ります」
と告げられたので、水底をお探しになったところ、お告げの通りであったので、
その柳の大木で観音の像をつくり、その中へ髑髏をお納めになった。
得長寿院を改め、頭痛山平癒寺蓮花王院となされたのは不思議な霊験である。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月23日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その16 - 伝統
2015/08/25 (Tue) 18:21:47
第16番札所・音羽山清水寺
(御詠歌) 「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん」
(まつかぜや おとわのたきの きよみずを むすぶこころは すずしかるらん)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1216.html)
《参考:音羽山清水寺》http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku16a.html
大和の国(今の奈良県)、子島寺の僧延鎮上人が夢に見た観音のお告げにより、
音羽の滝を探し当て、宝亀9年(778年)にここに庵を結んだのが清水寺の創始と伝えられている。
延暦17年(798年)のある日、延鎮は猟をしていた坂上田村麻呂に出会うが、
その時延鎮は彼に殺生を戒めた。これを契機として坂上田村麻呂は延鎮に帰依したという。
延暦24年(805年)に勅により坂上田村麻呂は寺地を賜り、
私費で仏殿を建立し、寺域を整えたとされている。
弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅願を得て、国家鎮護の道場になったといわれている。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku16a.jpg
解説文
主馬判官盛久
盛久は平家譜代の侍である。
屋島壇ノ浦の合戦で負け、義経に生け捕られ、鎌倉に連れられて、土屋三郎に預けられた。
ついに由比浜で斬首されることが決定し、
すでに敷革の上に座って『法華経』を一心に念じていたところ、太刀取の剱が次々と折れた。
そこで、この一件を御所へ訴えた。
頼朝公も不思議な霊夢を見たので、急いで盛久をお呼びになって尋ねてみたところ、
「私は、常に『観音経』を信じ、清水の観音を念じている以外ありません」と答えたので、
頼朝公は仏力を尊んで、一命を助けられただけではなく、所領もお与えになった。
この「念彼観音力 刀尋段々壊」の経文によくかなった霊験である。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月25日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その17 - 伝統
2015/08/27 (Thu) 18:29:33
第17番札所・補陀洛山六波羅蜜寺
(御詠歌) 「重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば」
(おもくとも いつつのつみは よもあらじ ろくはらどうへ まいるみなれば)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1217.html)
《参考:補陀洛山六波羅蜜寺》http://rokuhara.or.jp/history/
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により
開創された西国第17番の札所である。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、
御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、
中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、
歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。
(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、
金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って
諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku17a.jpg
解説文
空也上人
天暦五年の春、洛中で疫病が非常に流行し、たくさんの死体が巷にあふれ、
多くの人々の悲しみは言うに及ばないものであった。
このことを空也上人は深くお歎きになり、自ら十一面観音の像を刻み、
心をこめて祈り、尊像を車に乗せて市中を引きまわり、信心をすすめていた。
すると、一度まわった町の人々の疫病がすぐに治ったので、
他の人々も観音の妙智力を深く尊んで、ついに当寺を開き、
その尊像を本尊とした。
疫病流行の時、観音へ供えた典薬を病人に飲ませたところ、一人として治らない者はいなかった。
そのことを村上天皇がお聞きになり、篤く信仰されて、その典薬を吉例として
毎年正月三ヶ日にお飲みになった。
それ以来、人々もこの例にならって王服と号し用いたのは、
1年の間、疫病にかからないためということである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月27日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その18 - 伝統
2015/08/29 (Sat) 17:27:05
第18番札所・紫雲山頂法寺
(御詠歌) 「わが思う 心のうちは 六の角 ただ円かれと 祈るなりけり」
(わがおもう こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1218.html)
《参考:紫雲山頂法寺》http://www.saikoku33.gr.jp/18/
「六角さん」の名称で、京の町の人々に昔から親しまれてきた六角堂は、寺号が紫雲山頂法寺。
西暦587年、聖徳太子を開基として創建されたと伝えられています。
本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、
平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多い。
平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて
今少し南北どちらかに御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂が
にわかに5丈(約15m)ばかり北へ退いた話は有名です。
境内東北隅には聖徳太子を祀った太子堂があり、2才の頃の南無仏像が安置されています。
この地は、太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊が
あったところから「池坊」と呼ばれ、この池坊代々の執行によっていけばなが完成されました。
つまり、六角堂はわが国のいけばな発祥の地なのです。
六角堂は西国巡礼三十三所の第十八番札所でもあります。
花山法皇が996年正月、六角堂へ行幸されたのが巡礼の始めと伝えられ、
観音信仰が盛んになるにつれて霊場として庶民の信仰を集めるようになりました。
また親鸞上人が毎夜比叡山から六角堂に百日間参籠りをされ、
夢中のお告げによって浄土真宗を開かれたといわれています。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku18a.jpg
解説文
聖徳太子
この尊像は篋に入って淡路の海上に漂ってきたのを、聖徳太子が取り上げられ、
肌身離さずお持ちになっていたものである。その後、四天王寺を建立されるための
良材をお探しになっていた時、この地においでになった。
この尊像を槲の木の枝に掛け、沐浴なさり、再び取りあげようとしたところ、
磐石のように重くなって持ち上がらなかった。
しばらくご祈念されたところ、夢うつつのうちのお告げに、
「私とあなたは七世の宿縁で結ばれている。この地も縁があるので、ここを離れない」
ということであったので、聖徳太子は、ますます尊んで、この尊像をこの地に安置しようと
近所の老女にこのことをお話になった。
すると老女は、「ちょうどよいところにおいでになりました。この辺りに杉の大樹があり、
不思議とこの木は、朝ごとに紫の雲がたなびいて覆われる霊木です。
急いでこれを用いてお造り下さい」と教えた。
聖徳太子はお歓びになり、六角堂をその木でお造りになったのだが、
ただ一本の杉の木でお造りになったのは、大変珍しいことである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その19 - 伝統
2015/08/31 (Mon) 17:55:27
第19番札所・霊鹿山革堂行願寺
(御詠歌) 「花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん」
(はなをみて いまはのぞみも こうどうの にわのちぐさも さかりなるらん)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1219.html)
《参考:霊鹿山革堂行願寺》http://www.saikoku33.gr.jp/19/
革堂行願寺の開祖は行円上人です。
上人はさまざまに人を助け仏の道を説いてまわりました。
密教行者のしるしである宝冠をかぶり、いつも革の衣をまとっていたので、
いつしか「革聖(かわひじり)」と呼ばれ親しまれるようになりました。
革堂行願寺は、行円上人が1004年(寛永元)年に、
「一条北辺堂(いちじょうほくへんどう)」を復興して
「行願寺(ぎょうがんじ)」と名づけたことにはじまります。
いっさいの人々の成仏を「ねがい、行(ぎょう)じる」思いが込められています。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku19a.jpg
解説文
東山大工某
京都東山あたりの岡崎という所に住む大工は、
常に革堂の観音を信じて崇拝し、朝夕よく参詣していた。
丹波の亀山に住むおばの危篤の知らせがきたので、すぐに旅立ちの用意をしていたところ、
大工の女房は浮気相手と相談し、焼飯の中に毒を入れ夫を殺そうとたくらんでいた。
このことを夢にも思わない大工はまず革堂へ参詣して、
おばの病気平癒と道中の安全を念じて、丹波路へ向かった。
樫原で日が暮れ、老ノ坂を越えようとした時、山の陰から山賊が二人現れて、
大工の身につけているものを残らず剥ぎ取ってしまった。
大工は裸で亀山にたどり着き、その一部始終を語ったところ、
おばの子供に亀山音右衛門という相撲取りがいて、これを聞きすぐにその衣類を取り返しに、
大工と連れ立って行った。
すると、その二人の山賊は、先ほどの毒飯を食べてその辺に血を吐いて死んでいたので、
奪われた衣類などは残らず取り返すことができた。
『観音経』に「咒詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人」
とあるのはこれらのことである。
大工の女房も浮気相手も、共に悪瘡にかかり、ほどなくして亡くなったという。
おそるべきことである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その20 - 伝統
2015/09/02 (Wed) 18:01:37
第20番札所・西山善峰寺
(御詠歌) 「野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立」
(のをもすぎ やまじにむかう あめのそら よしみねよりも はるるゆうだち)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1220.html)
《参考:西山善峰寺》http://www.saikoku33.gr.jp/20/
長元2年(1029)源算上人の開山である。
源算上人は、恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ、横川(比叡山)の恵心僧都に従い、
顕蜜の蘊奥を極め47歳の時、当山に入られ小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、
仏法を興隆された。
長元7年9月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ良峯寺の寺号及び聖詠を賜わった。
“野をもすぎ 山路に向う、 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立”
以来歴朝の御崇敬篤く、長久3年、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より本尊仁弘法師作、
十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku20a.jpg
解説文
開山源算上人
源算上人は因幡国の人で、母の胎内にいる頃、母を苦しめた縁起の悪い子である
ということで、山中に捨てられた。
しかし、鳥獣も源算上人を害することなく、三日間乳をのまなくても死ななかった。
その後、村人に拾われ、養育された。
源算上人は十五才の時、比叡山に登り、剃髪したのであるが、母の死を聞いて当山に来た。
源算上人の修行は言葉に言い表せないほどであった。
少しも名利を好まず、ただ観音を信ずるだけであったので、
この山の主、阿知坂神が木こりとなって現れ、また、数万の猪や鹿が来て岩窟を砕き、
でこぼこの地を平地とした。
その奇異なる有様が天皇のお耳に入り、ついに仏閣を御建立された。
源算上人は山に七十四年間住み、承徳三年三月に定印を結んで百十七才で寂した。
さらにその遺体は腐敗することがなかったので、人々はますます崇拝した。
体の腐らない者は越後の弘智法印のように、ありがたい聖であるということを疑うべきでない。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月2日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その21 - 伝統
2015/09/05 (Sat) 18:47:11
第21番札所・菩提山穴太寺
(御詠歌) 「かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと 思はで頼め 十声一声」
(かかるよに うまれあうみの あなうやと おもわでたのめ とこえひとこえ)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1221.html)
《参考:菩提山穴太寺》http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku21a.html
この寺は慶雲年間(704~708年)に大伴古麿によって開創されたと伝えられており、
当初の本尊は薬師如来だったという。
応和2年(962年)、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成が京都の仏師感世に聖観世音菩薩像の制作を依頼、
造立したと伝えられているが、観世音菩薩像の造立は寛弘7年(1010年)であるという説もある。
聖観世音菩薩像完成後、宮成が感世に礼(礼物は馬であったともいわれている)を渡したが、
宮成はその礼物を渡すのが惜しくなり、京都に帰る仏師を待ち伏せして矢を射た。
翌日、仏師感世が生きているのを知り、自分の放った矢が
観世音菩薩像の胸に突き刺さっているのを見た宇治宮成は、
自分の行いを悔い、仏門に入りその観世音菩薩像を本尊として祀ったという。
これは、観音の功徳を説く説話と思われるが、
以後、この寺は「身代わり観音」の寺として信仰を集めてきたのである。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku21a.jpg
解説文
辰女
亀山の城下町に住む金谷某の下女の辰は、常に穴太寺の仏を深く信じていた。
御寺まで一里半も離れているにもかかわらず毎月の御縁日には、参詣を欠かさず、
乞食や犬、猫にもよく食べ物を与えるという、慈悲深い者であった。
しかし辰は、その頃世間でもっとも流行した疫病ににかかり、死の瀬戸際であった。
そんなある夜、主人が家の中を見廻っていた時、辰の寝ている部屋を見ると
光明が輝いていたので、不思議なことと思い、急いで辰を起こした。
辰は驚いて目を覚まし、主人に向かって、「なんと有難いことでしょう。
今、夢に穴太寺の者が、私の口へ柳の枝を用いて鉢の水を注いだところ、
苦痛がすぐに治まったのです」と語った。
その翌日から辰は食事ができるようになり、間もなく全快したのであった。
そのためにますます信心し、祈ったところ、ついに安楽の身になったのは、
本当に有り難い御利益である。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月5日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その22 - 伝統
2015/09/07 (Mon) 19:02:26
第22番札所・補陀洛山総持寺
(御詠歌) 「おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし」
(おしなべて おいもわかきも そうじじの ほとけのちかい たのまぬはなし)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1222.html)
《参考:補陀洛山総持寺》http://www.saikoku33.gr.jp/22/index.htm
亀に乗った観音様として有名な総持寺は平安時代、中納言藤原山蔭卿により開かれました。
亀の恩返しにより開かれた総持寺の御話は、今昔物語や源平盛衰記等にも紹介されています。
山蔭卿の父である高房卿は大宰府に赴任の途中、猟師たちが一匹の大亀を捕らえていました。
高房卿は、自分の着物と交換し、大亀を河に放しました。
翌朝、河に落ちた山蔭は、昨日の大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れたのです。
観音様の御恩に感謝した高房卿は観音様の造像を発願します。
その後、高房卿は亡くなり山蔭卿が、
父高房卿の遺志を継いで千手観音を像立し、総持寺を創建されました。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku22a.jpg
解説文
山蔭中納言
中納言が6歳の時に父高房公と共に西国へ下向している途中、
淀の渡り穂積の橋で大きい亀をつかまえて殺そうとする者がいた。
高房公は常に観音を信じ、慈悲深い方でいらっしゃったので、
この亀を買い取って放しておやりになった。
その翌朝、乳母が高房公の子を海中へ落とした際、
風が烈しく吹いて、ついに見失ってしまった。
高房公は悲しみのあまり長谷寺の方を拝んで、
「我が子に再び会うことができれば、千手観音の尊像を彫って、永く信仰いたします」
と祈ったところ、不思議なことに昨日放してやった大亀が子供を甲に乗せて助けてくれた。
高房公は、観音の利益に深く感悦し、急いで尊像を造ろうとされたが、
志半ばにしてお亡くなりになられたので、その子供の中納言が父の志を継いで、
唐から栴檀香の霊木を取り寄せて、観音の化身の童子が彫られた尊像がこれである。
よって霊験は格別にあらたかである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月7日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その23 - 夕刻版
2015/09/09 (Wed) 18:46:46
第23番札所・応頂山勝尾寺
(御詠歌) 「重くとも 罪には法の 勝尾寺 ほとけを頼む 身こそやすけれ」
(おもくとも つみにはのりの かちおでら ほとけをたのむ みこそやすけれ)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1223.html)
《参考:応頂山勝尾寺》http://www.saikoku33.gr.jp/23/index.htm
双子の兄弟、藤原善仲と善算が神亀4年(727年)に庵を結び修行しているとき、
一人の修行者に出会う。
この修行者は光仁天皇の皇子、開成(かいじょう)皇子であった。
兄弟は般若経の書写を開成皇子に託し、相次いで世を去る。
開成皇子は宝亀6年(775年)に書写を完成し、堂を建てて経を納め、
十一面千手観世音菩薩を安置し、この寺を『弥勒寺』と命名したとされている。
その後、行巡上人の代に、清和天皇の病気治癒の祈祷を行い、
天皇の病が癒えたことから、寺の法力が王に勝ったということで、
天皇が『弥勒寺』を『勝王寺』に改名したという。
しかし、寺側はあまりにも畏れ多いとして、
『王』を『尾』に変え『勝尾寺』としたと伝えられている。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku23a.jpg
解説文
百済国王后
百済国王の后は、世に名高い美人で国王に寵愛されたのだが、
どういったわけか、まだ若い年齢であるのに白髪になり、
いろいろと良薬を用いたが、いっこうに効き目があらわれなかった。
ある夜、「日本国摂津国勝尾寺の観世音は霊験あらたかである」ということを夢に見た。
夢から覚めると、すぐに日本の方角を聞いて一心に祈られたところ、
その夜のうちに雪のように真っ白だった頭が瑠璃のような艶となった。
国王はじめ百官も喜び、そのお礼として、閼伽器、金鼓、金鐘の三種を
周文徳、楊仁紹という両人の商人に渡して日本へ送った。
その品々が当山に納められて今なお宝物となっている事は、不思議な霊験である。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その24 - 夕刻版
2015/09/11 (Fri) 19:59:59
第24番札所・紫雲山中山寺
(御詠歌) 「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」
(のをもすぎ さとをもゆきて なかやまの てらへまいるは のちのよのため)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1224.html)
《参考:紫雲山中山寺》http://www.saikoku33.gr.jp/24/index.htm
北摂の地に、紫の雲がたなびくといわれる中山寺は、
聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。
御本尊は十一面観音菩薩で、インド勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を
うつした尊像と伝えられています。
中古、日本霊跡三十三所観音巡拝がとなえられると『極楽中心仲山寺』と称されて、
中山寺は第一番札所ときまり、のち花山法皇のおんとき巡礼の道順にしたがい、
第二十四番札所となり、今日に及んでいます。
(中山寺の「鐘の緒」は、女性の大役である出産の無事安泰を祈る「安産の腹帯」として、
本邦随一の霊跡と、 古来よりその伝統をもち、深く信仰されてきました、
ことに幕末には、中山一位局が当山の鐘の緒を受け明治天皇を御平産されてより、
明治天皇勅願所として霊徳をたかめ、「安産の寺」としても名高く、
安産を祈る人々が全国から腹帯を戴きにまいられます。)
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku24a.jpg
解説文
多田美丈丸
多田満仲公は当山を祈願所として堂舎、田園をご寄付された折、
子供の美丈丸を中の坊で学問させた。
美丈丸はすでに出家すべきところ承諾しなかった。
家臣の仲光に美丈丸を殺させようとした時、仲光が自分の子の幸寿を殺して、
その代わりとしたことを美丈丸は深く悲しんで、ついに出家して源賢僧都と号し、
多田院の住職となり、深く『観音経』を信じ、一族の後世を弔われた。
また、当山の本尊は聖徳太子の前世、舎衛国にいらっしゃった時に
作られた十一面観音であるので、これは、日本での観音の始めである。
また一度巡礼する者は重罪を滅し、地獄に堕ちないという
閻魔王の印文が寺中の窟の中に納められている。
そのほかの霊験ますますあらたかである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その25 - 伝統
2015/09/13 (Sun) 20:36:25
第25番札所・御嶽山清水寺
(御詠歌) 「あはれみや 普き門の 品々に なにをかなみの ここに清水」
(あはれみや あまねきかどの しなじなに なにをかなみの ここにきよみず)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1225.html)
《参考:御嶽山清水寺》http://www.saikoku33.gr.jp/25/index.htm
インドから渡来した伝説的な僧、法道仙人が約1800年前にこの地を訪れ、
鎮護国家豊作を祈願したのが始まりで、推古天皇35年(627年)に勅願により、
根本中堂を建立したと伝えられており、これが、清水寺の創始とされている。
この地はもともと水に乏しかったが、仙人は水神に祈りを捧げたところ、霊泉が湧き出したという。
清水寺の名はこれに由来しているといわれている。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku25a.jpg
解説文
赤松氏範
当山は法道仙人の開基であり、堅固な霊場である。
金堂は推古天皇、講堂は聖武天皇、薬師堂は池の二位殿、
大塔は祇園女御、阿弥陀堂は頼朝公の御建立である。
すなわち金輪聖王が天下安全の御祈願をした所であるので、昼夜の勤行を怠ることがなかった。
また霊験もあらたかである。
赤松氏範は前の関白師基に吉野で打ち負け、身に数ヶ所の傷を受け、
当国に帰り、義詮の元へ下ったが、その後清水で戦って、ついに自害してしまった。
五十七歳であった。
家臣の伊藤民部と今村五郎は、乙若丸を助けて薩摩へ逃れる時、
深くこの尊像に祈って敵からの危機を免れたということである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月13日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その26 - 伝統
2015/09/15 (Tue) 19:17:25
第26番札所・法華山一乗寺
(御詠歌) 「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる 法の華山」
(はるははな なつはたちばな あきはきく いつもたえせぬ のりのはなやま)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1226.html)
《参考:法華山一乗寺》http://www.saikoku33.gr.jp/26/index.htm
この寺を開いたとされる法道仙人は念持仏、仏舎利と宝鉢だけを持って
インドから雲に乗って渡来したとされている伝説的な僧である。
法道仙人は食べ物が欲しくなれば、宝鉢をとばして供養を受けたといわれている。
この神通力が都にも聞こえ、孝徳天皇の病気治癒祈願を行ったが、
治癒の功績が認められ、勅願により白雉元年(650年)に創建したのがこの寺と伝えられている。
ただ、創建年については大化5年(649年)とも白雉2年(651年)ともいわれており、
明確ではないようである。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku26a.jpg
解説文
法道仙人 一名空鉢
当山の千手観音は、法道仙人が天竺から請来した尊像で、その霊験は特にあらたかである。
法道仙人は、常に観音の宝鉢を飛ばして人から供養を受けていた。
大化元年八月、藤井某が宮中の米を船に積み、播磨灘を進んだ。
この時、法道仙人の鉢が飛んで来て、供米を乞うた。
藤井某が言うには、「これは宮中の米であって、勝手に施すことはできない。
それでもこの米を取ろうとするならば、法道仙人は妖人で天下の邪敵である」と断ったところ、
鉢が山へ帰るのに従って、千石の米俵も雁金が渡るかのように皆山へ飛んでいってしまった。
藤井某は驚いて山に登り、謝ったところ、
また残らず船に米が戻り、ただ一俵だけが南の川上に落ちた。
それで、この場所を今、米堕村という。
孝徳天皇は特に空鉢の法術を感心されて、伽藍の大施主になった。
それ以来、ますます堅固なる道場となった。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月15日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その27 - 伝統
2015/09/17 (Thu) 19:51:12
第27番札所・書写山圓教寺
(御詠歌) 「はるばると のぼれば書寫の 山おろし 松のひびきも 御法なるらん」
(はるばると のぼればしよしやの やまおろし まつのひびきも みのりなるらん)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1227.html)
《参考:書写山圓教寺》http://www.saikoku33.gr.jp/27/index.htm
書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)は、
康保3年(966年)性空上人(しょうくうしょうにん)によって開かれた。
この山に登る者は六根を浄められるという****菩薩(もんじゅぼさつ)のお告げがあり、
上人は白山でこの六根清浄のさとりを得られた。
その後、御利益を得ようと多くの人々がこの山に登った。
花山法皇は二度も御来駕にり上人の教えを受けられた。
後白河法皇も七日間、御参籠になり、後醍醐天皇は隠岐の島より御還幸の際、一泊された。
以来、多くの信仰を集め、善男善女の参詣や多くの僧侶の修行の道場として栄え、
西の比叡山とも呼ばれるようになった。
性空上人のご生涯(http://www.shosha.or.jp/history.cgi)
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku27a.jpg
解説文
仲太小三郎 法名性空上人
仲太小三郎は、本院左大臣時平公の孫の時朝大納言の侍である。
この家にある、すばらしい硯は、御昇進の時にしか取り出さないのであるが、
このたび大納言におなりになったお喜びに、硯を取り出して置いていた。
参内されている御留守の時に仲太小三郎は、非常に硯を見てみたいと思って、
十歳になられた若君に頼んでこの硯を開き、拝見していた時、
「お帰りでございます」と告げる声にあわてて硯を落とし、割れてしまったので、
ますますあわてて驚いてしまった。
若君はその様子をごらんになって「悲しまなくてもよい。もしお叱りがあったならば、
私のしたことだと言えば、そんなにお叱りもないだろう」となぐさめたので、
仲太小三郎は、ひたすら若君にお願いしたのであった。
その後、大納言は、硯が割れたのを誰の仕業か取り調べていたところ、
若君のしたことと聞き、大変お怒りになり、
「この硯は、住吉明神から大職冠鎌足公へ与えていただいた家宝であるので、
それを割った罪は許すことはできない」と、十才の若君を殺してしまわれた。
この時、仲太小三郎は、悲しみに耐えられず、世を離れて書写山に登り、性空上人と号し、
若君を弔い、『法華経』を読誦した。
この観音の霊験を受けて、ついに当山を開いたことは、不思議な因縁である。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月17日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その28 - 伝統
2015/09/20 (Sun) 19:55:51
第28番札所・成相山成相寺
(御詠歌) 「波の音 松のひびきも 成相の 風ふきわたす 天の橋立」
(なみのおと まつのひびきも なりあいの かぜふきわたす あまのはしだて)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1228.html)
《参考:成相山成相寺》http://www.saikoku33.gr.jp/28/index.htm
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、
里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。
死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。
すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。
僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、
決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。
やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると
本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。
それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、
木屑を拾って腿につけると元の通りになった。
此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku28a.jpg
解説文
開山斎遠禅師
斎遠禅師は、とりわけ観音を信じていた。
ある大雪の日、『法華経』を読誦していたところ、一鉢の蓄えもなくなって、
飢え死にしそうになっていた時、不思議なことに庭の前に鹿の足が落ちていた。
これは三種浄肉(食べても罪にならない肉)であると煮て食べた。
なお怠らずに経を一心に読誦していたところへ里人が食物を背負ってやってきて、
「この大雪で御坊はさぞ食べ物がなくなって困っていらっしゃったことでしょう」と言ったので、
「こういったことがあって、飢えなくてすんだのだ」と語った。
里人は不思議なことだと思い、その鍋の中を見てみたところ、
鹿の肉ではなく、桧の削り屑のみがあった。
驚いてそれを見れば斎遠禅師もあっけにとられて、
本尊を拝み見れば尊体の腰から下に削り痕があった。
「さては、この観音が私の食べ物となって飢え死にするところを救ってくださったのだ。
なんと有難いことだろう」と祈念して、その削り屑を尊体の疵に押しあててみると、
疵痕が元通りになった(成相)ので、このことから、成相寺と号し、今も霊験あらたかである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月20日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その29 - 伝統
2015/09/22 (Tue) 19:06:45
第29番札所・青葉山松尾寺
(御詠歌) そのかみは 幾世経ぬらん 便りをば 千歳もここに まつのおのでら
(そのかみは いくよへぬらん たよりをば ちとせもここに まつのをのてら)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1229.html)
(松尾寺の沿革
http://www.matsunoodera.com/enkaku.html)
《参考:青葉山松尾寺》http://www.saikoku33.gr.jp/29/index.htm
中国から渡来した威光上人が青葉山中の松の大木の下で修行中に馬頭観音像を感得し、
和銅元年(708年)にこの松の木の下に草庵を造り、観音像を安置したのが松尾寺の創始とされている。
一方、10世紀末に海難に遭った漁師が馬頭観音の化身といわれた流木にすがって救われ、
この木で馬頭観音を刻んだという説もあるらしい。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku29a.jpg
解説文
結城宗太夫
鴻の浦の漁夫結城宗太夫は、常に観音を信じ、特に慈悲深く、村民をいつくしんでいた。
ある時、十七艘の夜船が突然の大風で破損し、全員の行方がわからなくなり、
結城宗太夫のみが羅刹国へ流された。
一時の命は助かったけれども、鬼女に捕らえられて、また命が危うくなったので、
一心に観音を祈念したところ、夢の中の出来事のように白馬が現れて、
結城宗太夫を乗せて空を走って、当所に至った。
はじめて夢が覚めた心地がして白馬のゆくえを尋ねたところ、当山に登った足跡があり、
さては観音が命を助けてくれたのだと知り、馬頭観音を刻んで当山に祀っていた。
このことを一条院がお聞きになり、勅命があって、堂舎を御建立になった上、
それを結城宗太夫に下賜された。これ以来、宗太夫の子孫が代々、この堂の主となった。
その妻子たちが百ヶ日の弔いをしている日に宗太夫が無事に家へ帰ったことは、
不思議な霊験である。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月22日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その30 - 伝統
2015/09/24 (Thu) 20:08:53
第30番札所・竹生島宝厳寺
(御詠歌) 「月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積むここちして」
(つきもひも なみまにうかぶ ちくぶしま ふねにたからを つむここちして)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1230.html)
《参考:竹生島宝厳寺》http://www.saikoku33.gr.jp/30/index.htm
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇が、
夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。
その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。
そうすれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、
僧行基を勅使にとしてつかわし、 堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。
翌年には、観音堂を建立し、 千手観音像を安置しました。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku30a.jpg
解説文
松室 仲算上人の児
仲算上人にお仕えしている稚児某はその容貌麗しく、
『法華経』をよく読誦していたが、あるとき急にいなくなってしまった。
捜したけれども稚児の行方はわからなかった。
ある時、下部山に入って薪を採っていたところ、
稚児が遠くの梢で『法華経』を読誦していたので、
「あなたは仲算上人のところの稚児ではないですか」と尋ねてみると、
「そうです。私はすでに仙人となりました。あなたはこのことを仲算上人に告げてください」
と言うので、急いで戻ってこのことを仲算上人に告げた。
仲算上人はその場所へ行き、稚児と対面することができ、お互いに大変喜んだ。
稚児は仲算上人に向って「どうか御坊の琵琶をお与えください。毎年三月十八日に竹生島で、
仙人の集まりがあるので、それに持っていきたいのです」と言うので、
仲算上人はその琵琶を樹にかけて帰った。
その翌年の其日に、仲算上人は懐しさのあまり船で竹生島を巡るうち、
虚空から琵琶の音が聞こえ、船の中に落ちてきた物がある。
これを見ればその琵琶だったので、深く尊んで、ついにこの島へ納めた。
今、これは宝物となっている。
この稚児は観音の化身であるので、霊験他にもまして今もあらたかである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月24日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その31 - 伝統
2015/09/26 (Sat) 19:06:36
第31番札所・姨綺耶山長命寺
(御詠歌) 「八千年や 柳に長き 命寺 運ぶ歩みの かざしなるらん」
(やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1231.html)
《参考:姨綺耶山長命寺》http://www.saikoku33.gr.jp/31/index.htm
長命寺は西国三十一番札所の霊場で、その歴史は古く人皇十二代景行(けいこう)天皇二十年
長寿の大臣武内宿彌(たけのうちすくね)当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、
長寿を祈り三百歳以上も長寿を保ち、六代の天皇に仕えられたのであります。
その後聖徳太子が諸国歴訪の折り、此の山に来臨され、柳の巨木に
「寿命長遠諸願成就(じゅみょうちょうおんしょがんじょうじゅ)」の文字と
観世音菩薩の御影を拝され感歎されていると、
忽ち巌の影より白髪の老翁現われ、
「此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、
諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう」と告げ失せられました。
早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、
武内宿彌長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付け給うたのであります。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku31a.jpg
解説文
佐原藤十郎
佐原藤十郎は越前の者で、父母を亡くして後、家財を売り払って旅費として、
都へ行く途中、近江国志賀の里で盗賊にあった。衣類等を剥ぎ取られて水中へ捨てられたが、
肌着の中にこの長命寺の守仏があり、不思議に光を放っていたので、
漁夫の夜網にかかって引き上げられ、生き返った。
佐原藤十郎は、仏力を尊び、ついに長命寺の住僧の弟子となって『観音経』を怠らず読誦した。
後に堅田村に堂を建て、命を助けてくださった守仏を安置して、ますます不思議な霊験を受けた
ということである。また、
当山の観音は疱瘡よけの利益があって、信じる者にはさらに怪我なしという。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その32 - 伝統
2015/09/28 (Mon) 20:07:14
第32番札所・繖山観音正寺
(御詠歌) 「あなとうと 導きたまえ 観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを」
(あなとうと みちびきたまえ かんのんじ とおきくにより はこぶあゆみを)
(http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kawase/saigoku1232.html)
《参考:繖山観音正寺》http://www.saikoku33.gr.jp/32/index.htm
聖徳太子が琵琶湖のほとりで人魚に呼び止められた。
人魚は『私の前世は漁師で、殺生を重ねてきたので、こんな姿にされてしまい、
今では魚たちに苦しめられています。どうか成仏させて下さい』といって頼んだという。
聖徳太子はこの願いを聞き入れ、千手観音像を刻み、推古13年(605年)に堂を建立し、
観音像を祀ったのが寺の創始とされている。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku32a.jpg
解説文
人魚
聖徳太子は、この石寺村を日暮れにお通りになったところ、
芦原の中から、上半身は人で下半身が魚というものが出て、
「私は前世で、殺生を好んだ業によってこのような身となりました。
どうか聖徳太子様、慈しみの念を抱かれて、当所に千手観音を安置し、
伽藍を建てていただけませんか。そうしてくだされば、すぐに苦しみを免れて
天上に行くことができます」
と言うので、聖徳太子はすぐに堂を建て、千手観音の像を彫り、彼の菩提を七日間弔われた。
七日目に天人が降りてきて聖徳太子に会い、「我生天中受勝妙薬」と唱えて
「私は、聖徳太子の慈悲の力により、すでに利天に生まれかわりました。ありがとうございます」
と言って飛び去ったということである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月28日 頓首再拝>
(花山法皇 御製)西国三十三霊場 御詠歌~その33 - 伝統
2015/09/30 (Wed) 19:01:23
第33番札所・谷汲山華厳寺
(御詠歌)
(過去) 万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲
(よろずよの ねがいをここに おさめおく みずはこけより いずるたにぐみ)
<参考>
(御詠歌)(現在) 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり
(未来) 今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲
《参考:谷汲山華厳寺》http://www.saikoku33.gr.jp/33/index.htm
寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。
奥州会津の出身の大領はつねづねより十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、
奥州の****堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、
七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四,五の童子(****大士と呼ばれる)の御告げにより
霊木を手に入れる事が出来ました。
霊木を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させました。
そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って
御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました。
途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり、
「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」
と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました。
そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、
突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、
この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が住んでいた
ので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。
すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、
それより後は燈明に困ることが無かったといいます。
《参考:観音霊験記》http://book.geocities.jp/yabayousuke/junrei/04020/saigoku33a.jpg
解説文
金商人 大倉信満
信満は奥州の者で、毎年都へ商売に行くたびに熊野へ参詣し、それは三十三度に及ぶ。
「その供養として観音の像を造りたい」と念じたところ、奥州永井の****菩薩が童子に化現し、
神木の榎を用いて十一面観音の像を造って与えられた。
信満は歓喜のあまり、奥州から三百金を取りよせて御室の辺で供養した。
そして故郷へ持ち帰る途中、美濃国垂井の庄(今の谷汲)で仏像が重くなり、
盤石のようになって動かすことができなくなった。
「ひょっとするとここが仏縁の地なのではないだろうか」と、
そこで当所に御堂を建立したところ、実に霊験は日々にあらたかで、
そこが三十三番の結願所となった。
西国順礼は、花山法皇が長徳元年三月十五日に熊野に至り、
六月朔日にこの谷汲へおいでになった。
この七十五日間を、人々は順礼のはじめとしたのであり、その功徳は広大である。
いずれの仏にも慈悲のないものはないが、観音は大慈大悲の菩薩でいらっしゃるので、
深く信心をするべきである。本当に畏れ多いことである。
万亭應賀誌
<感謝合掌 平成27年9月30日 頓首再拝>
アンドロイド観音「マインダー」 - 伝統
2019/02/25 (Mon) 19:08:22
世界初、アンドロイド観音「マインダー」
*Web:日本経済新聞(2019/2/23)より
豊臣秀吉の正室、北政所ねねが建立した高台寺(京都市東山区)が、
説法を行うアンドロイド観音「マインダー」を23日、報道陣に披露した。
多くの人に仏教への興味を持ってもらおうと、
ロボット研究で知られる大阪大の石黒浩教授の研究室などと製作した。
高台寺の後藤典生執事長が、石黒教授と対談したことがきっかけ。
マインダーは寺のホールに設置され、プロジェクションマッピングを使った
幻想的な映像や音に合わせて合掌したり、語りかけたりした。
見た目にもこだわり、表情やしぐさなどを人間らしくした一方、
胴体はあえて機械部分をむき出しにした。
https://www.nikkei.com/news/image-article/?R_FLG=0&ad=DSXMZO4167973023022019AC8001&ng=DGXMZO41679750T20C19A2AC8Z00&z=20190223
後藤執事長は「参観者が観音様の姿を想像できる余地を残した」と説明している。
今後は、目に内蔵されたカメラが人の顔や動きを認識し、
相手に合わせて動けるよう機能を進化させるという。
3月8日から5月6日まで一般公開される。〔共同〕
(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41679750T20C19A2AC8Z00/?n_cid=NMAIL007)
動画:
(1)アンドロイド観音「マインダー」が「般若心経」解説
→ https://www.youtube.com/watch?v=shGELW-VmtQ
(2)京都の高台寺にアンドロイド観音マインダー 開発費1億円
→ https://www.youtube.com/watch?v=wr32JoO31u0
<感謝合掌 平成31年2月25日 頓首再拝>
Re: 観音
- rnyeoxtdlp
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2020/08/29 (Sat) 16:11:34
伝統板・第二
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