伝統板・第二
母への感謝 - 伝統
2019/05/11 (Sat) 04:16:55
明日の日曜日(5月12日)は「母の日」です。
下記はアメリカの新聞に以前掲載された求人広告です。
「内容は主に危機管理、ほかに多種多様な業務
労働時間は1日19時間、週135時間程度 時間制限なし 休憩なし
立ちっぱなしの場合も多く、スタミナは必須
経済、薬、調理などのさまざまな知識が必要 しかも無給」
これを見た読者から、「法律違反では?」「クレイジーだ」との批判が寄せ
られたそうです。日本であれば「最悪のブラック企業」との非難を受けるのは
間違いありません
しかし、実際には大勢の人がやっており、やりがいがある仕事です。
答えは「母親」。
母親の偉大さを再認識してもらうための企画だったというわけです。
また、米人材情報会社は専業主婦の家事労働を以下の10種類に分類し、
主婦の家事労働の対価を試算しています。
※職種 (内容)
保育士 子供の世話
コック 料理・炊事
事務員 家計管理等
洗濯人 洗濯
清掃作業員 掃除
設備管理者 住宅のメンテナンス
CEO(経営者) 家族の中でリーダーシップを発揮している場合
運転手 子供の送迎
精神分析医 子供や家族の心のケア
ハウスキーパー 買い物や介護等、上記以外の家事労働
上記のような労働について、それぞれの作業を外注した場合の
時給と労働時間から賃金を積算し、さらに週40時間を超過した分や
休日・深夜について割増しの時間外手当を支給した場合、
主婦の家事労働の賃金(年収)換算額は優に1000万円を超えるそうです。
<参考 you tube 「World's Toughest Job - #worldstoughestjob -(日本語訳)」
→ https://www.youtube.com/watch?v=WcidfzfIWdE&feature=youtu.be >
・・・
<関連Web>
(1)“本流宣言”掲示板「母の大恩 (964)」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=224
(2)“本流宣言”掲示板「お母さんの偉大な力 (4535)」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=943
(3)“本流宣言”掲示板「いのちが響き合う (8809)」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2067
(4)光明掲示板・第一「母の日~「心に響く”いい話”」」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1546
(5)光明掲示板・第二「母 (8071)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1610 (消滅)
→ (再掲示)http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7864125
(6)光明掲示板・伝統・第一「母の愛」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=28
(7)伝統板・第二 「お母さん、ありがとう」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6487162
(8)伝統板・第二 「「お母さん」がこの世を救う 」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7745884
<感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>
母親の愛(ドイツ人のある母親) - 伝統
2019/05/11 (Sat) 13:48:02
*Web:今日も良いことがあるように(2019/01/12)より
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
お母さんが、
いつも、どんなときでも
神様といっしょに
おまえたちを守っているからね
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
ドイツ人のある母親
ドイツ人のある神父さんの子どもの頃の話です。
その神父さんは、7人兄弟でした。
皆、男の子、腕白で、いたずら好きな子どもたちばかりだったそうです。
あるとき、8人目の子どもをお母さんがお腹に宿したのですが、
大変な難産となりました。
「中絶すれば、母親は助かるが、生めば、母親の命は助からない」
そう医師から宣告されます。
子どもは、一番上が12歳、下の子に至っては1歳でした。
母親を必要とする小さな子どもたちばかりです。
彼女は、ずいぶん悩みました。
愛する夫と相談し、祈り、そして決断しました。
7人の子どもたち全員を病室の枕元に呼んで、こう言ったのです。
「お母さんにはね、いよいよ神様のお呼びがきた。
それが神様のお望みだから、お母さんはお応えしなくっちゃ。
でも、お母さんのことは、心配しなくていいんだよ。
もうすぐお母さんは、天国に行くのだから。
お母さんは、おまえたちのような子どもに恵まれて、とても幸せだった。
そして、天国でも幸せだからね。
さみしがってはいけないよ。
泣いてはいけないよ。
お母さんは、いつも、どんなときも、
神様といっしょにおまえたちのそばにいるからね。
お母さんが、いつも、どんなときでも
神様といっしょにおまえたちを守っているからね」
(そう言いながら、このお母さんはきっと陰で泣いていたと思います)
7人の子どもたちは、やがて立派な大人となりました。
戦争が始まると、兵隊として戦地に送られました。
しかし、戦後、奇跡的にも全員が無事に帰国できたそうです。
かの神父さんも、戦地で敵に捕まり、銃殺刑にかけられたことがあります。
目隠しをされ、仲間が一人ひとり銃声の後、次々と倒れていきます。
「いよいよ、自分の番か」
もはや最期とあきらめたとき、自分の直前で、なぜか刑の執行が中止され、
救われたのだそうです。
その後、彼は「神父になって日本に行きたい」という少年の頃の夢をついにかなえました。
その陰には、彼の母親の死後20年間、彼の夢がかなうように毎日欠かさず
祈り続けてくれている母親がわりのシスターの存在があったそうです。
言葉どおり、彼の生みの母親も、天国から、
このシスター以上に守り助けてくれていたのは、間違いがありません。
ちなみに、母親の命と引きかえに生まれてきた赤ちゃんは、女の子でした。
その女の子は、6人の子どもの母親となり、いまでは多くの孫に囲まれているそうです。
愛情深き一人の母親の命と思いは、幸福を携えて、
たくさんの人に受け継がれていくのです。
《 母の愛に感謝しよう。 》
( https://lucky.t-nakai.work/2019/01/12/story-13/ )
<感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>
御題詠進「母」(昭和五十三年) - 伝統
2019/05/12 (Sun) 04:24:37
*「生長の家五十年史」(P70~90)より
~御題詠進(雅春先生、輝子先生、清超先生、恵美子先生)
【 昭和五十三年 母 谷口雅春 先生 】
意識なく ただ息のみ 殘りたる 母の額に 手を按(お)きて祈る
何ひとつ 母に盡せる 憶ひ出も 今はなくして 冥福を祈る
【 昭和五十三年 母 谷口輝子 先生 】
いのちかぎり 父仰慕する しあはせを 與へし母を をろがみまつる
【 昭和五十三年 母 谷口清超 先生 】
母去り給ひ 年を重ねる たび毎に いたらざりしを いとど悲しむ
とこしなへに 安らぎませと 額(ぬか)づきぬ その墓石は 母の選びし
【 昭和五十三年 母 谷口恵美子 先生 】
乳足りて ねむるみどり児 眺めゐる 母となりし娘(こ) いともやさしき
(http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7776787)
<感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>
天孫降臨 - 伝統
2019/05/12 (Sun) 12:43:21
*「すべては今のためにあったこと」中山靖雄・著(P66~68)より
ある方に、「今日は母の日だね」と言ったら、
「お母さんはずっと昔に亡くなっていないから、私には関係ないんです」と、
そうおっしゃるのです。
ですので、
「お母さんの好きな食べ物を買ってきてお供えしてあげてくださいね。
そして、自分の子どもに『おばあちゃんはね、こういう食べ物が好きだったんだよ』って
言ってあげてね。それが天孫降臨だから」とお伝えしました。
その方は、
「お母さんは、幼い頃に死んでいないから、自分には母の日なんて関係ない」と
思っておられたんですね。
でも、「あなたのおばあちゃんは、こういう人だったんだよ」と、
子どもに語ってあげることは大事なことです。
それを聞いた子どもはすごく嬉しいものなのですね。
ある方のお父さんがお庭に咲いている白いアセビの花を見て、
「これはおじいちゃんが好きだった花だよ」と教えてくれたことがあったそうです。
そんなことは初めて聞いたし、花のことを言うような父ではなかったのだけど、
「これはおじいちゃんが好きだった花だ」と教えてくれて、
ものすごく心に響いたとおっしゃっていました。
お父さんがおじいちゃんを想っていた想いが、
自分にも伝わってきて、とても感動されたそうです。
今、ここにいても、いなくても、
私たちが生まれるために、その時いてくださったのです。
その時いてくださったからこそ、自分が今ここにこうして、生まれているわけです。
お供えをするとか、好きなものは何だったとか考えることで、
その人を想うということが大切です。
それが親を立てているということにもなってくるのですね。
どんな親だから尊敬できる、どんな親だから尊敬できない、ということではありません。
この親だったから、この親がいてくれたから、私がこの世に生まれてきた
ということをどうかわかってほしいのです。
「天は親なり」です。
親である天とつながるためには、自分をここに生んでくれた親に、
そして一度も途絶えることなくつなげてくれたご先祖様に、
心底「ありがとうございます」という思いを持つことです。
目に見えない世界の中に、親である天の喜ぶ生き方があります。
そのことがわかれば人生が大きく変わっていきます。
私たちの人生を喜び豊かに、すべてを「いいふうに」と生きていくことが
できる道が「見えない世界」にあるのです。
<感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>
「人生を変えた母の言葉」 - 伝統
2019/05/13 (Mon) 03:30:14
*『致知』2014年11月号 より
~ 北原照久(トーイズ社長)
放送回数1千回を超える長寿番組
『開運!なんでも鑑定団』の鑑定士として唯一、
初回から出演し続けている北原照久さん。
世界的なおもちゃコレクターとして知られ、
6つの博物館を経営する他、様々なテレビ、ラジオに出演し、
年間約150本の講演、累計71冊の著作と幅広く活躍。
横須賀・佐島の海辺の大豪邸に住むなど、
誰もが羨むような成功者となった北原さんですが、
実は少年時代は落ちこぼれだったといいます。
人生のどん底を救ってくれたお母様の言葉。
その体験から掴んだ「人生を変える魔法の言葉」とは??。
・・・
66年の人生を振り返ってみると、
私はこれまで思い描いた夢をすべて実現させることができている。
17歳の時に憧れの加山雄三さん、吉永小百合さんに会いたいという夢を持った。
その後、20歳の時にはフォードの高級車・サンダーバードが欲しい。
おもちゃの博物館をつくりたい。30代では豪邸に住みたい。
「そんなの無理だ」
ほとんどの人からこう言われた。
誇大妄想狂やほら吹き、狼少年と揶揄された。
ところが、37歳の時、横浜にブリキのおもちゃ博物館を設立し、
49歳の時に500坪の豪邸を、50歳の誕生日にサンダーバードを手に入れ、
52歳の時に加山さんと、還暦の年に吉永さんとお会いすることができた。
いまでは周囲から「世界的なおもちゃコレクター」と称されるようになり、
6つの博物館を経営し、年間約150本の講演、
累計71冊の著書を出すまでになったのである。
なぜこうも運よく夢を実現させることができたのか。
そう考えた時、私の中に一つの答えが浮かび上がった。
「すべては出逢いである」
人との出逢い、物との出逢い、そして言葉との出逢いが、
自分の人生をよい方向に導いてくれたと思わずにはいられない。
私は1948年、北原家4人兄弟の末っ子として生まれた。
上の3人は皆、近所でも評判になるほどの秀才だった。
それに対して私の成績は体育を除いてオール1。
親は寛容だったが、学校の先生からは常に兄たちと比較される。
このことが勉強嫌いに一層拍車をかけた。
中学に入ると、勉強ができないため授業をさぼるのが当たり前になり、
盛り場に入り浸って喧嘩をしたり、悪友と遊びに耽るようになっていった。
揚げ句の果てには、中学校3年生の2学期に、
ある事件をきっかけに退学処分を食らったのである。
この時が私の人生のどん底だったかもしれない。
退学になったその日、私はひどく落ち込み、
親に合わせる顔がないと思うと、なかなか家に帰ることができなかった。
ところが、打ちひしがれていた私を見るにつけ、母はこう言ったのである。
「おまえの人生はこれで終わったわけじゃない。
これから先の人生のほうがずっと長い。
だからめげることないよ。
人生はやり直しはできないけど、出直しはいつでもできる」
この母の言葉は、
そのままダメになってしまいそうだった私を救ってくれた。
その後は実家のスポーツ店を手伝うつもりだったが、
父の勧めもあって高校へ進学することになった。
1学年800名のうち、成績はどん尻の800番。
ここでも素晴らしい先生との出逢いが
劣等感の塊だった私の人生を変えてくれたのである。
入学して間もない頃、三択式のテストがあった。
全く答えが分からなかったが、たまたま直感が冴えていたのだろう。
そのテストで私は60点を取った。
すると、担任の沢辺利夫先生は我が事のように喜び、
思いもかけない言葉を掛けてくれた。
「北原、すごいな!
おまえはできないんじゃなくて、
やらなかっただけだ。やればできるぞ」
本心から褒めてくれた先生のこの言葉が私の心に火をつけた。
また先生に喜んでもらいたい、褒めてもらいたいとの一心で、
アルファベットもろくに書けない状態から猛勉強を積み重ねていった。
努力する、成績が上がる、褒められる、また努力する……。
その繰り返しの果てに、学年最下位だった私は799人をごぼう抜きし、
学年トップで卒業式を迎え、総代として謝辞を述べるまでになったのである。
この3年間で私は「やればできる」という自信を身につけることができた。
これは私の原点であり、この時に、真の人生のスタート地点に立つことができたと思う。
ゆえに、両親と沢辺先生には感謝しても感謝しきれないし、
言葉のもつ力の大きさを実感するようになった。
自分が口にした言葉を最初に聞くのは誰か。
それは話し相手ではなく、自分なのだ。
だから、いつも不平不満や愚痴、悪口、恨み、妬みを発している人は、
それを相手にぶつけているつもりでも、実は自分自身にダメージを与えている。
私は20歳の時に、オーストリアに留学した。
そこで古い物を大事にする文化に感銘を受け、
柱時計を皮切りに明治から昭和にかけてのおもちゃやポスター、
雑誌、小説、レコード、文具等々……
自分がときめく物をただひたすら収集するようになった。
これまで46年間で集めたコレクションの数は
実に4トントラック100台以上にも上る。
その間、私が心掛けてきたのは
「絶対に人の悪口を言わない」ということだ。
私一人では到底これだけのコレクションを集めることは不可能だった。
無数の人たちとのご縁があってこその産物なのである。
悪口を言う人のところに人は集まらないし、
運も離れていってしまう。
だから私は、どんな不条理なことをされても
決して悪口や負の言葉を発しないようにしてきた。
人生はよいことばかりではないし、かといって悪いことばかりでもない。
バイオリズムがある。
だからこそ、よい時には「感謝」をし、
悪い時には難が有るから「有り難う」と言う。
いつも「感謝と有り難う」を口ずさんでいると、
運命はよくなり、人生は好転していく。
これは私の心からの実感である。
<感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>
野口英世の母 - 伝統
2019/05/15 (Wed) 03:49:40
*Web:今日も良いことがあるように(2019/04/09)より
黄熱病の治療のために献身した世界的な医師、野口英世博士の
母親野口シカ(1853~1918)の手紙をご紹介します。
野口英世(幼名、清作)は、1876年に福島県猪苗代町に生まれました。
1歳半の時、炉に転げ落ち、左手に焼けどを負い、
親指が手首に、中指は手のひらについて離れないなどの障害が残ります。
母シカは不憫な息子の将来を案じて、自分を責めました。
自分がもっと注意していれば、こんなことにはならなかったのにと、
幼い息子に泣きながらわび決意します。
「どんなことがあっても、この子を一生養っていく」と。
シカは百姓になれない清作を学問で身を立たせようと考えました。
しかし父親は大酒飲みで、家は貧乏でした。
当時は、小学校といっても裕福な家庭の子どもでなければ通うことができず、
これまで以上の収入が必要です。
シカは、昼は畑仕事をし、夜は二人の子どもたちを寝かしつけた後、
近くの川でエビを採り、翌朝それを売りに歩いていきました。
重い荷物を背負い、20㎞の山道を運ぶ男まさりの仕事もしました。
こうして入学はできても、清作は手のことでいじめられました。
学校に行かなくなった清作はシカに怒られると思っていましたが、違いました。
「ゆるしておくれ。やけどをさせてしまったのはお母ちゃんのせいだ。
つらいだろうが勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。
おまえの勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。がまんしておくれ」と、
シカは涙ながらにわびるのでした。
幼い清作の心は激しく動かされ、
このことがあってから清作は学校に行くだけではなく、
家に帰っても猛勉強を始めるのです。
やがて清作は、左手の手術を受けることになりました。
そこで医学の素晴らしさを知り、小学校卒業後に、
手術をしてくれた医師に弟子入りするのです。
19歳の時に医師免許を取得するために上京し、
わずか20歳の若さで医師免許を取得します。
その後、清作は、北里柴三朗が所長を務める伝染病研究所の助手となり、
ペスト菌を発見するなどの功績を上げます。
1904年、ニューヨークのロックフェラー研究所に迎えられ、
英世と改名した清作は、蛇毒や****、黄熱病の研究に没頭します。
その熱中ぶりは猛烈で、同僚から
「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていたそうです。
渡米後12年。ちょうど、その頃でした。
その研究で世界的に認められ始めた息子に、
会津の母シカから1通の手紙が届いたのです。
シカは貧しさのため小学校に行ったことはありません。
しかし、息子に一目会いたさに、
囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、この手紙を書いたのです。
おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。
よこもり(夜籠り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。
わたしも。こころぼそくありまする。
ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
いしよの(一生の)たのみて。ありまする
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてわおかみおります。
みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
おかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く)
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
ねてもねむられません。
1912年、母シカが英世に宛てた手紙
シカは、幼い息子に一生消えないやけどを負わせたことで、
生涯自分を責めながら、息子の無事だけを願って生きてきた人です。
長年会えない息子への手紙、そのたどたどしい言葉から、
息子への愛情が痛いほど伝わってきます。
英世は、母シカの手紙とその後、友人から届いた母の老いた写真に心動かされ、
忙しい研究の合間をぬって、一時帰国をしました。
そして、万感の想いで待っていた母シカとの再会を果たしました。
郷里に戻った英世は、せめてもの親孝行として東京や関西を一緒に旅行したのでした。
立派になった英世を見てシカは、
「立派なお前の姿を見られたし、龍宮城に行った浦島太郎のようで大変幸せだよ。
心残すことはねえー」と、感謝したのでした。
シカは、その3年後に66歳で病のために亡くなりました。
英世が黄熱病の研究で大きな成果を上げて、
南米のエクアドルからアメリカのニューヨークのある駅に到着したとき、
英世はシカの死を知らされました。
悲しみのあまりホームにひざまずいた英世は、
シカから、「世のため、人のためにつくしなさい」
といわれた言葉をじっとかみしめていました。
その後、英世は、南米やアフリカで、
病に倒れるまで献身的な黄熱病の研究を続けました。
ニューヨークにある英世の墓石には、
「日本の猪苗代に生まれ、アフリカのゴールドコーストで死亡。
科学に献身して、人類のために生き、人類のために死す」と刻まれています。
母親というものは、いくつになっても、子どもを忘れません。
元気でいてほしい。顔を見たい。声を聞きたい。
いくつになっても、私たちは子どものままで、いくつになっても、母親は母親です。
あなたを産んで、あなたを育て、あなたを守り、あなたをいまも愛している。
ただあなたの幸せを願いながら・・・
【出典】
『伝えたいふるさとの100話』財団法人地域活性化センター編集・発行
シカの手紙原文は、野口記念館収蔵。
手紙内の注釈は、財団法人野口英世記念会が付したものによります。
( https://lucky.t-nakai.work/2019/04/09/story-51/ )
<感謝合掌 令和元年5月15日 頓首再拝>
岩崎弥太郎の母美和について - 伝統
2019/05/17 (Fri) 04:09:39
*Web:三菱グループホームページ より
美和は医者の娘でしたが貧しい夫を支え、
子供が泣いても決して甘やかさなかったそうです。
しかし、情には厚く、細やかな気配りが出来る人だったそうです。
弥太郎や妻の喜勢、弟の弥之助などに生涯にわたって慕われた
三菱の「ゴットマザー」でした。
そして、素晴しい家訓を残しています。
(1)人は天の道にそむかないこと。
(2)子に苦労をかけないこと。
(3)他人の中傷で心を動かさないこと。
(4)一家を大切に守ること。
(5)無病の時に油断しないこと。
(6)貧しい時のことを忘れないこと。
(7)常に忍耐の心を失わないこと。
<参考Web:岩崎弥太郎の母である美和は、どんな人だったのか?
→ https://www.iwasaki-yataro.com/info/post-107 >
<感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>
どんな修羅場があっても人の責任にしないのは、女としての潔さ - 伝統
2019/05/18 (Sat) 03:52:22
*「一切なりゆき」樹木希林・著(P172~173)より
原作に ”母親とは無欲なものである” という言葉が出てくるけど、
本当は無欲じゃないの。
オカンだって、ちゃんと自分の中で人生を選んできた。
でね、結果的に、あの人の中からは愚痴が聞こえてこない。
そこがやっぱりいいんじゃないでしょうかすかね。
いろんな修羅場があっても人の責任にしないのは、
女としての潔さっていうのかな、
母親とはそういうものじゃないかと思うんですよね。
<感謝合掌 令和元年5月18日 頓首再拝>
お母さんからの愛、お母さんへの親孝行 - 伝統
2019/05/19 (Sun) 03:47:37
*Web:今日も良いことがあるように(2019/03/12)より
今日は、「母親」「お母さん」に関することがテーマです。
お母さんとのことを赤裸々に綴った、感動的な本といえば、
「2006年 本屋大賞」にも輝いた、リリー・フランキー著
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』があります。
この本を読んで100万人の人が泣いたそうですが、私もその一人です。
この本自体も良かったのですが、
この本に引用されている葉祥明さんの「母親というものは」という詩、
これがまた良かったです。
短い詩ですが、何度読んでも、ジーンと来ます。
全文を引用してご紹介したいところですが、
著作権がありますので、それはできません。
最後に少しだけ紹介しますが、是非、全文を読んでみてください。
葉祥明著『母親というものは』という詩集に原文が載っています。
どうか図書館などで見つけて、味わってみてください。
学校や家庭で子どもに読んであげるのもよいと思いますよ。
ところで、教師時代の学級通信を読んでいましたら、
5月に小学1年生に「親孝行」について指導している記述がありました。
ご紹介します。
◇今月のモットーは、「親孝行」です。
「お家の人に感謝を表わそう」というクラスモットーを1年生には掲げています。
◇そういえば、昔、中学3年生が卒業する前に、
一枚紙を配って、こんなことを言い、書かせたことがありました。
「入学してから、ご両親からどんなことをしてもらった?あるだけ書きなさい」
生徒たちは書き始めましたが、
そのうち「あまりにも多くて書き切れない」と言い出しました。
◇しばらくして指示したのは次のようなことです。
「今まで、ご両親にどんなことをしてあげた?あるだけ書きなさい」
同じように生徒たちは書き始めましたが、何人かは一向に筆が進みません。
そのうち一人が呟きました。
「俺、考えてみれば、なあんにもしてやってないなあ」
◇この生徒が本当に何もしてやらなかったわけとは考えられません。
この生徒は、それまで親がしてくださった一つひとつのことを、
それこそ無数の思い浮かべ、それに比べて自分のしてあげたことが、
あまりにも少なかったことに気づいたのです。
◇親からしていただいものの大きさに比べて、
子どもができることはいつも小さなことです。
それでも子どもなりに「親に感謝しよう。それを言葉と行ないに表わそう」
というのがモットーの趣旨です。
◇いま、1年生には、終わりの会のモットーの反省などの時に、
お家の人への感謝として、どんなことができたかを発表してもらっています。
「お祈りができました」「お手伝いをしました」「肩もみをしました」などが
よく出てきます。
手はよく挙がりますが、時間的に1日3人ぐらいの発表としているので、
それ以外の子がどうしているのかは、よく分かりません。
つきましては、これからの指導の参考といたしますので、ご家庭の方で
「この頃、こういうことをしてくれるようになったなあ」という
お気づきがありましたら、別紙アンケートにご一筆の上、月曜日にお持たせください。
提出は自由です。
1年1組学級通信「ホセマリア・アルバロ20」NO.27(5月16日発行)
月曜日に、ほとんどの家庭から、アンケートが返ってきました。
それを2回に分けて、学級通信で紹介しています。
そのうち3つをご紹介します。
◇自分がしてもらう事に感謝するようになりました。
そして、お手伝いを頼むと、とても喜んでくれるようになりました。
たとえば、洗濯物を畳んでくれたり、料理の手伝いをしてくれたり、
お使いに行ってくれたりします。
また、「パパ、お仕事がんばってね」と言ってくれる様になりました。
◇「何かお手伝いすることない?」
これが最近の〇〇の口ぐせです。
5月に入ってから彼は本当によくお手伝いをしてくれるようになりました。
以前ならイヤがってしてくれなかった事でも「いいよ」と
明るい返事で手伝ってくれます。
犬の世話、ゴミ捨て等小さなお手伝いなのですが、
仕事に追われて忙しい私には大助かりです。
それから、もう一つ!私が仕事からくたくたになって帰ってくると
「お疲れ様」と言って肩をもんでくれます。毎日です。
その一言で疲れもふっとんで「よし、明日も頑張ろう」という気持ちになります。
◇お手伝いしてもらい「ありがとう。助かったー」とお礼を言うと、
「だって親孝行!お家の人に感謝を表わそうだもーん」と
うれしそうに胸をはります。(中略)
PS.先日つくづく感心したのは、私が風邪が長引いて咳で苦しんでいた
ところ「ママの病気がはやく治りますようーに」と
私の為にお祈りをしてくれてしました。うれしいものですね。
1年1組学級通信「ホセマリア・アルバロ20」NO.29.30より
こんなふうに小学1年生も、素直に親に感謝し、親孝行に取り組むことができます。
さて、読者の皆さんにも、考えていただきたいと思いました。
★これまでどんなことをしてもらったのでしょうか?お母さんに・・・
はい、わたしも自分なりに考えています。
すると、恥ずかしながら、わたしも中学生や小学生と同じだなあと気づかされます。
考えれば考えるほど・・・思い出せば思い出すほど・・・
あまりにも多くのことをしてもらいながら、その万分の一もお返しできていない、
と気づかされるのです。
わたしの場合、母に何かお返しをするどころか、
いまだにしてもらうことが多いように思います。
むしろ母は、してやれることに生きがいを感じているかのようです。
母親というものは、そういうものなのでしょうか?
葉祥明さんは、こう言われています。
どんなに高価な贈り物より
我が子の優しいひとことで
十分過ぎるほど幸せになれる
母親というものは
実に本当に無欲なものです
葉祥明 著『母親というものは』より
お母さん、ありがとう。
【お母さんに優しいひとことを、元気な姿を・・・】
たとえお母さんが遠くにいても、天国にいても・・・ (^.^)
出典参考:葉祥明 著『母親というものは』(学習研究社)
リリー・フランキー著『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社)
映画にもなり、第31回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞(2008年2月15日発表)
最優秀作品賞:「東京タワー ?オカンとボクと、時々、オトン?」
最優秀主演女優賞:樹木希林
優秀主演男優賞:オダギリジョーなど受賞
( https://lucky.t-nakai.work/2019/03/12/book-11/ )
<参考:葉祥明【母親というものは】>
https://xfd.jp/secureuser/cua/as/news/view.php?id=78&m=cel&k=A01uFiuS1L
<感謝合掌 令和元年5月19日 頓首再拝>
お弁当をつくる母親のCM - 伝統
2019/05/20 (Mon) 04:18:37
2011 東京ガス お弁当をつくる母親のCM
http://www.youtube.com/watch?v=XuiwAk7cNqQ&feature=related
地上波でたった一回のみ放送された 感動cm
<感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>
子は母から生まれくる ~ 母親にしかできない神秘的な体験 - 伝統
2019/09/05 (Thu) 03:49:03
*「致知・別冊『母』」(P1~2)より抜粋
母親は、お腹に子どもを授かり、十月十日(とつきとおか)、
子どもと一心同体の日々を過ごす。
初めて心拍が確認できる頃、赤ちゃんの大きさは僅か1、2ミリ。
こんな小さな体で、一所懸命に心臓を動かしている。
母にとって初めて赤ちゃんを愛おしく感じる瞬間だ。
それから数か月をかけて、母親のお腹の中で
赤ちゃんは次第に人間の姿へ育っていく。
そして、男性が体験したら死んでしまうと言われるほどの
苦難を経て、子どもを産む。
赤ちゃんも、わずか四センチほどの産道を、
少しずつ進んでくる。
そして、外の世界へと生まれてくる。
生まれた赤ちゃんは、母親の胸の上に乗せられ、まだ出ないお乳を吸う。
それが母親としての遺伝子のスイッチをオンにする。
産んですぐは「もうしばらく動けない」というくらいに消耗しているのに、
不思議と3時間おきにお乳をあげるエネルギーが湧いてくる。
すると、数時間前までは出なかった母乳が、自然と少しずつ出てくる。
数日経つと、3時間を待たずにパンパンにお乳が張るようになる。
母の身体が変化して、産んだ赤ん坊を生かそうとしていく。
自分の意思とは関係なく、潜在的に持っていた
生命のエネルギーが赤ん坊を生かそうとしている。
そんな体験を通して、
(母親としての)自分自身も天から生かされていることを実感する・・・。
この体験は、母親にしかできない神秘的な体験だ。
<感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>
ガッツ石松さんを支えた母の言葉 - 伝統
2019/09/17 (Tue) 04:29:37
*「人間力メルマガ」(2019.9.4)より
俺だって本当は高校に行きたかったけど、
そんな余裕がある家庭じゃないからね。
じゃあ、何も持たない自分が這い上がるにはどうすればいいか。
体一つで戦えるボクシングしかないと思った。
とりあえず近所の人の紹介で東京の会社に就職しました。
入社してすぐ、会社のみんなで
元フライ&バンダム級で世界チャンピオンの
ファイティング原田さんの試合中継を見ていた。
その時、俺は社長さんに
「俺もボクサーになりたいから、
ボクシングジムに通わせてください」
と申し出た。すると社長さんは、
「おまえみたいな人間が、あんな偉い人間になれるわけがない」
と言ったね。
まだ十五だよ。ショックだったね。
ああ、東京も田舎も一緒だ。
俺みたいなやつにチャンスはないんだ、
と思って、すぐに会社を辞めて田舎に戻った。
村の人たちに見つかると
「あそこの息子、もう仕事をやめて帰ってきた」
と噂されるから、真夜中にひっそりと帰って、
昼間、誰にも見られないようにふるさとを歩いたんだ。
山、川、田んぼ、畑……。
ふるさとの自然に抱かれているうち、
「よし、俺はやっぱり東京へ行く」
という思いが湧いてきた。
もう一回上京する日、おふくろは
いつも通り朝早くに土方仕事へ出て行った。
帰ってきた数日間も、忙しくて、ろくに話もできなかったから、
駅に向かう途中に仕事場に立ち寄ってみたんだね。
「もう一回東京へ行ってくるぞ」
と言うと、おふくろは泥だらけの手で
前掛けのポケットをゴソゴソやって、1枚の千円札をくれたんだ。
俺がいつも悪さばかりしていたから、
「サツ(札)はサツでも、警察のサツは使えねえぞ」
と言ってね。
そして、ハラハラと涙をこぼしたかと思うと、
「偉い人間になんかならなくていい。 立派な人間になれ」
と言った。
うちのおふくろさんは学歴はないけど、
やっぱり苦労を重ねて生きてきた人だから
言葉に力があったよね。
すっと心に沁みて、それはいまも忘れない。
結局、その時もらった泥のついた千円札は
ずっと使えなくて、いまでも大切に持っていますよ。
『致知』2005年5月号より
<感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>
「お母さん」という言葉の由来 - 伝統
2019/11/11 (Mon) 04:37:58
*メルマガ「人間力」(2019.11.09)より
僕が小学校の1年のときのある日、
「ただいま」って家に帰ると、
お母さんがいないときがありました。
お父さんに、「お母さんどうしたの?」と聞くと、
「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」と言う。
そして、
「きょうはお母さんがいないから、
おれが温かいうどんをつくってやる」
と言って、親父がうどんをつくってくれました。
ところが、温かいうどんのはずなのに、
お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。
一方、「ただいま」と家に帰って
お母さんがいるときは僕はいつでも
「お母さん、何かないの?」と聞きました。
すると、母は
「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
食いしん坊だね。そこに、ほら、芋があるよ」
って言う。
そういうときは決まって、
きのうふかしたさつま芋が
目ざるの中に入っていました。
かかっているふきんを取ると、
芋はいつもひゃーッと冷たいんです。
だけれども、お母さんのそばで食う芋は
不思議に温かかった。
これは、もしかすると
女性には理解できないかもしれないけれども、
男性にはわかってもらえると思います。
お母さんが家にいると
黙っていても明るいのです。
あたたかいのです。
それで、わたくしたち男は自分の妻に対して、
「日身(カミ)」に「さん」をつけて
「日身(カミ))さん」と言ったんです。
丁寧なところでは、これに「お」をつけて
「お日身(カミ)さん」といったんですよ。
何でしょうか。
この「日身(カミ)」という意味は?
「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
もっと古い言葉では「カアカア」といった。
さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。
「カカ」「カアカア」「カッカッ」
これが「カ」となるんですね。
「ミ」というのは、
わたくしたちの身体という意味です。
ですから、「日身(カミ)」とは、
わたくしたちの身体は
「カカ」の身体である、
「カアカア」の身体である、
「カッカッ」の身体であるという意味なんです。
では、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
古代では一体何を意味したのでしょうか。
「カッカッ」というのは、
太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。
「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。
「カアカア」「カカ」という音も同様です。
つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は
太陽の命の身体であるということを、
「日身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。
「カミ」の「カ」に「日」という漢字が
当てられているのを見れば、
「カ」が太陽のことを意味している
ということがわかるでしょう。
「日身(カミ)」とは、
太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。
お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたくしたちの生命を育ててくださいます。
わたくしたちの身体を産んでくださいます。
母親というのはわたくしたちを産み、
その上私たちを育ててくれます。
母親は太陽さんのような恵みの力によって
わたくしたちを世話してくれる。
母親はまさに太陽さんそのものだということから、
母親のことをむかしは
「お日身(カミ)さん」といったのです。
………………………………………………
『日本のこころの教育』には、このほかにも、
・「さようなら」の意味
・「君が代」は誰がつくったのか
・日の丸の国旗の意味
・お父さんは「尊い人」という意味
など、たくさんの心に残るお話が収録されています。
日本人としてぜひ一度は読んでおきたい一冊です。
・・・
<関連Web:光明掲示板・伝統・第一「母の愛」
お母さんを「太陽」と呼んできたのが日本人(日時:2015年01月29日)
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=28 >
<感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>
「母の日」に当たって考えたいこと - 伝統
2020/05/10 (Sun) 13:28:57
*メルマガ「心の糧・きっとよくなる!いい言葉」(2020.05.11)より
この世か天国かは別にして、誰にもお母さんがいるはずです。
今日は、「母の日」ですね。
お母さんというのは、誰にとっても特別な存在です。
お母さんが出産の苦しみを耐えてくれなければ、
私たちはこの世に生まれてきませんでした。
生まれてもほうっておかれたら、
飢えで衰弱し病気にかかって死んでいたかもしれません。
食事を与え、様々な世話をしてくれ、心配をしてくれました。
毎日、毎日、休むことなく・・・。
感謝されなくても・・・。
そんなお母さんの存在についてじっくり考えるために、
母親に関する記事をお届けします。
★お母さんからの愛、お母さんへの親孝行
https://lucky.t-nakai.work/2019/03/12/book-11/
どんなに高価な贈り物より
我が子の優しいひとことで
十分過ぎるほど幸せになれる
母親というものは
実に本当に無欲なものです
葉祥明 著『母親というものは』より
★親あってこそ自分がある(野口英世の母、野口シカの物語)
https://lucky.t-nakai.work/2019/04/09/story-51/
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ
はやくきてくたされ。
はやくきてくたされ。
いしよの(一生の)たのみて。ありまする
息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、
母は手紙を書きました。
★母親の愛(ドイツ人のある母親)
https://lucky.t-nakai.work/2019/01/12/story-13/
8人目の子どもをお腹に宿した母親が大変な難産となりました。
「中絶すれば母親は助かるが、生めば母親の命は助からない」
そう医師から宣告されたとき、母親が子どもたちに言った言葉は、
子どもたちの胸にいつまでも刻まれました。
★きっとよくなるヒント★
お母さんへの感謝は、子どもにしかできません。 (^.^)
<感謝合掌 令和2年5月10日 頓首再拝>
「母からの手紙」 - 伝統
2020/05/29 (Fri) 04:03:53
*メルマガ「人間力」(2020.05.27)
~『自選 藤川幸之助詩集
支えられる側が支えられ生かされて行く』より
母に会えない週末には
認知症の母への手紙を書いた
お元気ですかで始まり
寂しくないかと付け加え
元気でねと母へ手紙を書いた
言葉のない母はその手紙を
口にくわえてしゃぶると聞いた
手紙は読むものと思っていたが
そんな味わい方もあるものだと
いつもよだれを流しながら
私を見つめる母を思い浮かべた
やっと時間ができて
熊本の老人ホームに母を訪ね
その手紙を母に読んであげる
これじゃ手紙の意味がないじゃないか
言葉のない老人と
ろくでもない者が向き合って
その足りない部分を埋め合って生きている
一人の静かな夜
母からの手紙が届く
文字のない無言の
紙も字もない手紙が届く
いつものようにお元気ですかも
寂しくないかの付け加えもなく
元気でねとどこにも書いていない
母からの手紙が届く
「その自分を生き抜け」と
私の心の中に届く
私の心に響く
――
★藤川氏による「母からの手紙」朗読動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=sbDermRZe1Y&feature=youtu.be
<感謝合掌 令和2年5月29日 頓首再拝>
「誕生日は、産んでくれた母に感謝をする日」 - 伝統
2020/06/30 (Tue) 04:31:21
*メルマガ「人間力」(2020.6.25)より
───────────────────
長年、夜間中学校の教師として勤務し、
山田洋次監督作品の映画『学校』のモデルにもなった
松崎運之助先生。
『致知』2004年3月号にご登場くださった際の
心に染みるお話をご紹介します。
……………………………………………………
「誕生日は、産んでくれた母に感謝をする日」
松崎運之助(夜間中学校教諭)
『致知』2004年3月号より
……………………………………………………
夜間学校に通う生徒たちに、
「父」と「母」という漢字を教えて差し上げた時のことです。
「父」は斜めに線を引っ張って下にバッテンを書くだけだけど、
「母」は「く」と「く」のさかさまを組み合わせ、
不安定に傾いていて、中に点々まである。
父は簡単だけど母は難しいというのが
皆さんの一致した意見でした。
「先生、点々は略しちゃいけないの?
一本の線でいいじゃない」
「点々はお母さんのおっぱいを表しているから、
簡単には変えられません」
と答えると、
「ええ!? おっぱい出していいの?」
「やっぱり棒線で消したほうがいい」
と大騒ぎ。
そうこうしているうち、ある生徒さんが
「先生、悪いけど私には
あれがお母さんのおっぱいには見えません」
と言い出しました。困ったなと思っていると、その方は、
「私にはお母さんの涙に見える」
とおっしゃいました。
すると他の生徒たちも、
「そうだ。あれはお母さんの涙だ。
お母さんの涙は大事にしなくちゃな……」
と頷き、それぞれが苦労の多かったお母さんの話を始めました。
若い頃、母の心など知らずどれだけ反抗したか。
逆らったか。
溢れ出る涙をそのままに皆さんが語り出しました。
年が違おうと国籍が違おうと、
父がいて母がいて、今日まで多くの方々に
支えられて生きてきたことは変わらない。
それは私も同じです。
私もクラスの仲間として、皆さんに母の話をしました。
私は両親が満州から引き揚げてくる混乱のなかで生まれました。
小さかった兄は、私が母のお腹にいる時、
逃避行を続ける最中で息絶えたといいます。
失意のどん底に叩きつけられた母は、泣き明かした後、
「いま息づいているこの命だけは何があっても産み出そう」
と誓い、私を産んでくれたのです。
私は誕生日が来る度に、母からこの話を聞かせられました。
「あんたが生まれたのはこういうところで、
その時、小さな子どもたちがたくさん死んでいった。
その子たちはおやつも口にしたことがない、
おもちゃを手にしたこともないんだよ。
あんたはその子たちのお余りをもらって、
やっと生き延びられたんだ。
あんたの命の後ろには、
無念の思いで死んでいった人たちの
たくさんの命が繋がっている。
そのことは決して忘れちゃいけないのよ」
私は生まれてこのかた、
母に誕生日プレゼントをもらったことはなかったし、
欲しいと思ったこともありません。
私にとって誕生日は、産んでくれた母に感謝をする日でした。
<感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>
【母の愛】 - 伝統
2020/10/02 (Fri) 03:36:55
*Web:ハートリンクスのブログ(2020年06月01日)より
◎~母は、私の最高の教師でした。
思いやりや愛、恐れずに立ち向かうことを
教えてくれたのです。
愛が花のように香しいのならば、
母こそ、その香しい愛の花でした。~
(スティーヴィー・ワンダー)
北陸地方随一の冠婚葬祭チェーンを育て上げたオークスグループの創業者、
奥野博さんは1922年、富山県に生まれました。
(2012(平成24)年11月5日逝去)
戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、兄弟親類に資金を出してもらい、
事業を興したのは30歳の時でした。室内設計の会社でした。
しかし、40歳の時に会社は倒産します。
奥野さんは、迷惑をかけた方たちに顔向けができず、
妻が経営する美容院の二階に閉じこもり、なぜこういうことになったのか、
考え続けました。
浮かんでくるのは、あいつがもう少し金を貸してくれたら、
あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、あの部長がヘマをしなければ、
あの下請けが不渡りを出していなかったら、といった恨みつらみばかり。
後になって思えば、その時はすべてを他人のせいにして、
自分で引き受けようとしない生き方をしていた、と語っています。
そんな時、早く亡くなった父親の三十三回忌法要の案内が来ました。
倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、
法事に行かないわけにいかないと思って行くことにしました。
実家に行くと、案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。
無理もありません。そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じて金を用立て、
迷惑を被った人ばかりなのですから。
まさに、針の莚(むしろ)です。
視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。
84歳の母が「いまどうしているのか」と声をかけます。
「これから絶対失敗しないように、なんで失敗したのか
徹底的に考えているところなんだ」と答えました。
すると、母親が口を開きました。
「そんなこと、考えんでもわかる」
「何がわかるんだ」と、奥野さんは聞き返しました。
(母)
「そんなこと、考えんでもわかる。聞きたいか」
(奥野さん)
「聞きたい」
(母)
「なら、正座しなさい」威厳に満ちた迫力のある声でした。
お母さんは、続けてこう言いました。
「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」
奥野さんは、心外でした。
自分のつくった会社です。
誰よりも愛情を持っていたつもりです。
「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、やすやすと会社をつくった。
やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。
母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。
だから、子どもが可愛いのだ。
あんたは逆子で、私を一番苦しめた。
だから、あんたが一番可愛い」
お母さんの目には涙があふれていました。
「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。だから、あんたが一番可愛い」
奥野さんはこの母の言葉が胸に響きました。
この時のことを奥野さんは次のように語っています。
『母は私の失態を自分のことのように引き受けて、
私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。
このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた自分の姿が、
浮き彫りになってくるようでした』
奥野さんは「わかった。お袋、俺が悪かった」と言い、両手をつきました。
ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。
この涙で、奥野さんは再起して、地元でも大きなオークスグループの経営者
となっていきました。
(奥野さんには著書『恩の経営』『恩の人生語録』があります。
ともに致知出版社から出ています。)
母なる愛を、忘れることなく思いやりのある人になりたいと思います。
(by ハートリンクス)
・・・
<参照>
オークス株式会社
http://www.oarks.co.jp/
「恩の人生語録」 オークスグループ創業者 奥野博 著
http://www.oarks.co.jp/company/message/goroku.html
倒産のどん底から私を救った母の言葉(オークスグループ創業者・奥野博)
致知(2020年09月20日)
https://www.chichi.co.jp/web/10795/
<感謝合掌 令和2年10月2日 頓首再拝>
バレー世界一へ導いた母の教え - 伝統
2021/01/30 (Sat) 04:42:55
*メルマガ致知BOOK(2021年01月28日)より
…………………………………………………………
【1月28日】
「世界一の監督になれたバックボーン」
松平康隆(全日本バレーボール協会名誉会長)
…………………………………………………………
父は小さいながらも事業を営んでいましたが、
父にもしものことがあれば、
目の見えない自分と小さな息子が路頭に迷ってしまう。
あの頃は社会保障なんてない時代でしたから、
物乞いになるか、死ぬかどちらかしかないわけです。
そこで一念発起した母は、
女性が仕事を持つことが考えられない時代に
骨瓶を焼く会社を設立したんです。
鹿児島の女性でしたし、強い女性だったことは確かです。
また、なんとしても生きていかなければという
気概がそうさせたのでしょう。
その母が私に繰り返し教えたことが三つありまして、
まず一つが、
「負けてたまるかと静かに自分に言いなさい」。
簡単に言えば克己心ですよね。
人間はどんなに強そうに見える人にも弱い部分がある。
その弱さとはナヨナヨしているということよりも、
怠惰であったり、妥協でしたり、
みんな己に対する甘さを持っているわけです。
だから常に自分白身を叱咤激励し、己に打ち克かつことが
人生では大切なことだと、そういう実感が障害と
共に生きた母にはあったのでしょう。
この「負けてたまるか」は、
監督になって世界一を目指す私にとって
一番大切な言葉であり教えとなりました。
昔の人でしたから、母はとにかく
「男とは」「男とは」と
いつも私に言っていましたが、
二つ目の教えは、
「男は語尾をはっきりしろ」
です。
母は目が見えませんでしたから、
言葉ではっきり伝えるということが実生活でも非常に大切なことでした。
そして結局これが、男としての出処進退に繋がっていくんですね。
欲しいのか、欲しくないのか。
するのか、しないのかをはっきりと宣言する。
そして男は一度口にしたら、絶対にブレてはいけないと。
チームを率いる監督も、二言があったら選手は絶対についてきません。
もちろん試合の作戦なんかは
状況に応じてどんどん変えていくわけですが、
チームの目指すべき方向性や指導方針などに
ブレがあったら絶対にダメです。
それから三つ目の教えは、言ってみれば、
「卑怯なことをするな」
ということ。
具体的に言うと、私はおふくろが目の見えないことを利用して
騙したことがあったんです。
「康隆! おまえは目明きだ。
目が見える者が見えない者の弱みにつけ込んで
騙すとは、男として、人間として最低だ!
男は卑怯なことをするな!」
これには参りました。
自分としては全然悪気のない嘘だったのですが、
確かに目の見えない母を騙していたんだなと思って、
金輪際、人の弱みにつけ込むような卑怯なことはしまいと心に誓いました。
後にスポーツの道に進んでも
「卑怯なことをして勝つことは絶対にしない」
と決めていたし、
それは選手にも幾度となく言ってきたことです。
だから、私が世界一の監督になれたバックボーンは、
盲目の母の三つの教えによってつくられたといっていいでしょう。
<感謝合掌 令和3年1月30日 頓首再拝>
「人生逃げ場なし」 - 伝統
2021/02/12 (Fri) 04:39:30
*メルマガ「致知BOOK」(2021.02.07)より
本日は、托鉢者・石川洋(よう)さんのお話をご紹介します。
………………………………
「人生逃げ場なし」
石川 洋(托鉢者)
………………………………
「人生逃げ場なし」という言葉は、
自分を正すために心に刻んできた言葉の一つなんですが、
私はそんなに強い人間ではございませんので、
逃げたくなる時もある。
どこかに逃げ場がないかと追い求めてきた一人の人間でもあります。
私は十七歳の時に一燈園の西田天香さんとのご縁をいただいて、
最後の弟子としてお仕えをさせていただき、
生涯を下坐行に捧げることにいたしました。
ところが七、八年たって原因の分からない病気にかかりまして、
ものを食べてもほとんど喉を通らなくなったんです。
最後には流動食も入らなくなり、
先輩のお許しをいただいて実家の母の元に帰ったのです。
天香さんは、講演で実家の近くまで来られた時に、
お見舞いに立ち寄ってくださいました。
寝ている私のそばにお座りになって、母親に
「洋(よう)さんの容態はいかがですか」
と聞いてくださいました。
母はきっと、疲れて帰ってきましたなどと、
私に対する慰めの思いを込めて、天香さんに報告してくれるだろう
と思って聞いておりました。
ところが、母の口から出た言葉は全然違ったんですね。
「私の息子は神経衰弱でございます」
と答えたんです。
耳を疑いました。
私は神経衰弱などではないのに、どうして母はそんなことを言うのか。
師匠の前で問いただすこともできずに、私は黙って横になっていました。
天香さんはそれを聞くと、
「早く元気になって戻ってきなさいよ」
と言って帰っていかれました。
私は天香さんが帰られてから母に、
「なぜ私を神経衰弱だと言ったのですか」
と聞きました。
しかし、いくら聞いても答えてくれません。
でも、とうとう重い口を開いて言うことには、
「私はあなたを産んで、
体は育てることができたけれど、
心を育てることはできなかった。
そのあなたの心を育ててくださっている師匠は私の師匠。
そのお師匠の前で、息子は疲れて帰ってきたと言えますか」
と。
私は、布団をかぶって涙がかれるくらい泣きました。
悲しい涙でもなけりゃ、辛い涙でもない。
母親の心情を思うと、涙が止まらなかったんです。
天香さんは、この子はこれからどうするかと、見にきているわけです。
園に戻るのか、母親の情にほだされて実家に落ち着くのか、
真剣勝負で私を見ている。
その厳しい空気を察して、神経衰弱だと
一刀両断のもとに叩き切った母のすごさ。
私は病気が治るかどうかも関係なしに一燈園に帰らせていただきました。
すごい母だと思いました。
でも、私を叩き出しながら、その後ろで母はきっと泣いていたんですね。
その涙が分かるようになったのは、私に子どもができてからですけれども。
だから人生逃げ場なし、
逃げたらあかんというのは、
私にとってはギリギリの言葉なんです。
天香さんとの師と弟子の心の闘いです。
実家に落ち着いてダメになるか、
親を捨てて下坐に生きるという志を貫けるか。
その迷いを断ち切ってくれたのは母でした。
<感謝合掌 令和3年2月12日 頓首再拝>
【念ずれば花ひらく】 - 伝統
2021/03/04 (Thu) 06:34:45
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年05月07日)より
(臨済宗円覚寺派管長、横田南嶺氏の心に響く言葉より…)
坂村真民先生は生涯を通じて、母の恩に報いようとされた方です。
私たちがよく知っている「念ずれば花ひらく」というこの言葉も、
真民先生の詩に記されていたものです。
「念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった」
《念ずれば花ひらく》
真民先生の母親はまだ36歳の若さで、小学校の校長だった夫を亡くしました。
それまで裕福だった一家の暮らしは激変します。
11歳の姉を頭に8歳の真民先生、6歳、3歳、生後11ヶ月の5人の子どもを抱えて、
若いお母さんは途方にくれたことでしょう。
それでも真民先生の母親はわが子を一人も手放しませんでした。
大変愛情深く、意思の強い方だったことがうかがえます。
父親が亡くなってまもなくのこと、母親の実家から祖母がやってきます。
11歳の長女と8歳の真民先生、6歳の妹の3人を養子か奉公に出し、
幼い子二人をつれて実家に戻るように説得しに来たのです。
今の人たちが聞くと、ひどい話に思えますが、あの時代ではそれが当然でした。
むしろ良識的な判断だったと思います。
しかし、真民先生の母親は説得に応じませんでした。
狭い家でしたから、真民先生はじっと息をひそめてそれを聞いていたというのです。
説得は昼間から始まり、夜になっても続きました。
それでも母親は首をたてに振りません。
時計の針がとうとう深夜零時になっても、母親は説得に応じない。
午前1時になっても、8歳の真民先生は一睡もできずに、
隣の部屋で耳をそばだてていたのです。
母親は最後の最後まで説得に応じませんでした。
祖母はあきらめて帰って行きました。
もし説得に応じていたら、その明くる日から
子どもたちはバラバラになっていたでしょう。
どんな一生になっていたかわかりません。
母が頑張ってくれたおかげで、自分たちはひとつ屋根の下にとどまることができた。
8歳の真民先生は母の愛を全身で感じたといいます。
これが真民先生の原点となりました。
それから母親の苦労は筆舌に尽くしがたいものでした。
貧乏のどん底の暮らしが続きます。
その中で母親が口ぐせのように言っていたのが
「念ずれば花ひらく」という言葉でした。
自分はどんなに苦労をしてでも、
5人の子どもたちに決して寂しい思いをさせないのだという、
その願い、母の強い思いが「念」という強い言葉にこめられているのです。
今の若い方は「念」というと、念力のようなものを連想して、
念力で花がひらくのかと誤解する人もいるようです。
しかしこの詩の意味はまったく違います。
母の愛、母の強い思いのことを「念」という言葉で表しているのです。
5人の子どもたちは誰一人として戦争や病気で死ぬ者がいませんでした。
それはひとえに母の強い愛、強い思いのおかげです。
その母の思いを少しでも人々に伝えていきたいという願いがほとばしって、
結晶になったのが『念ずれば花ひらく』という詩だったと、
真民先生は語っています。
<『二度とない人生だから今日一日は笑顔でいよう』PHP研究所>
・・・
今どんなに偉くなっている人であろうと、若い人も年配者も、男も女も、
誰一人として自分の母親の世話になっていない人はいない。
お乳を飲ませてもらった
オシメをかえてもらった
着替えさせてもらった
ご飯を食べさせてもらった
病気のとき看病してもらった
抱っこしてもらった
もし、母親がいなければ、この世に生まれ、生きていくことができなかったのに、
我々はそのことを忘れている。
それは、見かえりを求めない、ただ与えるだけの無償の愛…
「念ずれば花ひらく」
恩を感じ、感謝の気持ちを忘れずにいたい。
<感謝合掌 令和3年3月4日 頓首再拝>
心につき刺さる感動のCM - 伝統
2021/03/31 (Wed) 04:35:42
東京ガスの心につき刺さるCMリアルすぎて放送中止!?
https://www.youtube.com/watch?v=b7p12qOiz9Y
<感謝合掌 令和3年月31日 頓首再拝>
「母の日」(令和3年) - 伝統
2021/05/07 (Fri) 04:38:35
明後日の日曜日(5月9日)は「母の日」です。
「母の日」発祥のアメリカと同様、日本でも関連消費は活発で、
小売り各社は競い合うように関連商品やサービスを提供していますが、
「花」を添えて母へ感謝の気持ちを伝えるのが定番です。
母の日の花は「純粋な愛情」などの花言葉を持つカーネーションが一般的で、
母が健在な人は赤、亡き母には白いカーネーションを贈りますが、
最近では「幸せを願う青い花」としてサントリーが開発した
青いカーネション「ムーンダスト」(花言葉は「永遠の幸福」)も
よく見かけるようになりました。
(なぜ母の日にカーネーションを贈るの?カーネーションの色の意味と由来
→ https://www.hibiyakadan.com/lifestyle/m_0009/ )
なお、母の日が近づくとカレーのルーがよく売れるそうです。
日頃の感謝の気持ちを込めて、この日はママにゆっくり過ごしてほしい
との思いから母の日にお父さんと子供たちでカレーをつくる習慣(母の日カレー)
が定着しているようです。
(母の日における「カレー」~https://www.walkerplus.com/article/5662/)
(母の日 カレー のレシピ~https://housefoods.jp/recipe/mother/index.html)
<感謝合掌 令和3年5月7日 頓首再拝>
ありがとう おかあさん - 伝統
2021/05/08 (Sat) 02:04:49
明日、5月9日(日曜日)は、【母の日】。
お母さんに、カーネーションとともに、感謝の言葉を伝えましょう!
霊界のお母さんには、感謝の想いを送りましょう!
You Tube
ありがとう おかあさん
http://www.youtube.com/watch?v=DwpJx4z0Xhg
<感謝合掌 令和3年5月8日 頓首再拝>
お母さん、お母さん、ありがとう - 伝統
2021/05/09 (Sun) 04:43:56
今日(5月9日)は「母の日」。
島津亜矢 【感謝状】 ~母へのメッセージ~
https://www.youtube.com/watch?v=uj5ZfCLwbLg
ひとりだけの とき
誰もいない とき
そっと小声で 呼ぶのです
お母さん お母さん
呼んでいる内に 口の中が
甘く切なく なるのです
お母さん お母さん
あとになり さきになり
歩いた 砂山
あとになり さきになり
さがした しあわせの星
お母さん お母さん
あのときも 言えなかった
あなたに贈る ありがとう
旅に泣いた とき
とても寒い とき
窓に名前を 書くのです
お母さん お母さん
書いている内に 胸は晴れて
生きる希望を みつけます
お母さん お母さん
あとになり さきになり
連れとぶ かもめは
あとになり さきになり
あなたと さがした倖せ
お母さん お母さん
あのときも 言えなかった
あなたに贈る ありがとう
お母さん お母さん
あのときも 言えなかった
あなたに贈る ありがとう
あなたに贈る 感謝状
・・・
(令和2年「母の日」に佐賀新聞に掲載されたメッセージの紹介です)
(1)目の前では恥ずかしくて言えないけど…、お母さん、いつもありがとう。
(2)母さん元気ですか?
会えない日が続きますが今はじっと我慢して、
私の元気の元である母さんの笑顔に早く会えるように祈っています。
(3)ずっと会えてなくて寂しい。
でも、必ず会えるから、コロナが終息したら会えるから。
それまで元気でいてね、お母ちゃん。
(4)元気で、弱音を吐かないお母さん。
妻になり、母になって、お母さんの大変さ、偉大さがわかりました。
尊敬しています。
(5)亡くなって10年過ぎたけど、
私の手本は、お母さんです一つ一つのことを思いだしながら、
お母さんのようになりたいと思います。
(https://www.saga-s.co.jp/articles/-/662470)
<感謝合掌 令和3年5月9日 頓首再拝>
母の日の歌 - 伝統
2021/05/10 (Mon) 02:30:08
(動画)
母の日の歌
https://www.youtube.com/watch?v=STPfXNWAsdQ
《歌詞》
歌詞
お母さん 僕を産んでくれて
本当に本当にありがとう
お母さん あなたがいる事も
全部全部ありがとう
お母さん あなたが買ってくれた
服やお菓子やわがまま言ったおもちゃも
今では思い出せないくらい
過去の話になったね
ストレスのかかる夜中の泣き声
学校に通うお金さえ
全部全部あなたが僕を
愛してくれた証だね
お母さん 僕を包んでくれて
本当にありがとう
お母さん あなたが見せないようにしていた
たくさんの涙も
僕が大きくなった日に
いつか抱きしめてあげるね
あなたを悲しませる事もあったよね
たくさん心配かけたよね
でも僕は強く生きるから
長生きして見守っててね
お母さん 僕を包んでくれて
本当にありがとう
お母さん 僕を愛してくれて
本当にありがとう
<感謝合掌 令和3年5月10日 頓首再拝>
かあさんへ - 伝統
2022/05/08 (Sun) 09:45:10
かあさんへ
4,197,906 回視聴(2012/06/06)
https://www.youtube.com/watch?v=JqF3UZgr-5w
歌:吉幾三
作詞:吉幾三
作曲:吉幾三
あなたの背中で… かあさん
あなたの腕で… かあさん
あなたの笑顔で… かあさん
あなたへ愛しさ… 知った
寒くはないかい… かあさん
つらくはないかい… かあさん
この歳になって… かあさん
あなたの強さを知りました
旅先の町で 降り立った駅で
あなたに似た背中 あなたに似た女(ひと)が
幸せでしたか… かあさん
心配かけたね… かあさん
淋しくないかい… かあさん
あなたの尊さ知った
何かにつけては… かあさん
泪が出ますね… かあさん
泣く暇なかった… かあさん
あなたに昔を… 学びます
電話では言えぬ 手紙では遅い
ふるさとに残る 母への書いた詞(うた)
時々手紙を… かあさん
気遣い 泣き言… かあさん
分かるヨそうだネ… かあさん
あなたの弱さも知った
そのうち近々… かあさん
仕事もほどほど… かあさん
必ず帰るよ… かあさん
あなたは独りじゃありません
夜空見て都会 住みついた街で
老いてゆく母に 泣き泣き書く手紙
<感謝合掌 令和4年5月8日 頓首再拝>
【斎藤一人】※母から教えてもらった不思議な成功法則※ - 伝統
2022/05/10 (Tue) 07:39:54
【斎藤一人】※母から教えてもらった不思議な成功法則※
一人さんが尊敬する偉大な人たちの話
【小林正観 船井幸雄 立花大敬】
まるかんアプリ【斎藤一人さんのお話し音質改良版】(2022/05/07)
https://www.youtube.com/watch?v=-mXQqkOk6rw
<感謝合掌 令和4年5月10日 頓首再拝>
「父を一瞬で制した母のひと言」 - 伝統
2023/04/02 (Sun) 06:58:31
*メルマガ「人間力」(2023.4.1)より
~ 星野精助(星野物産会長)(『致知』1995年1月号)
母の教えで、子供心にいまも強い印象で残っていることがあるんですよ。
当時、家には三、四十人ほどの従業員がおりました。
普通なら、風呂などは、まず家族の者が先に入り、
その後で雇人が入るものです。
それを母は、
「働いてくれている人がいるから
生活できるんですよ」
と言って、私たち母子は一番最後に風呂に入ることになっていました。
風呂には垢がいっぱい浮いていて、
子供ですから、汚いなあと思っていましたよ。
それを母は、
「この垢が、きょう一日働いた宝だよ」
と私に言って、垢を取り除き、感謝しながら入るんです。
もう一つ、私が経営者として、
大きな転機を迎えた事件でも、母は私に深い愛情を示してくれました。
昭和二十八年、私は当時のお金で
千二百万円の不渡り手形を掴んでしまいました。
いまのお金にすれば優に十億円は超えるでしょう。(※1995年当時)
どんなに怒られるかと思いましたよ。
ところが、母は怒る父を制しまして、
「今度、千二百万円ほど損するそうだね。
お父さんと私のせいで、お前を大学に行かせてやれず、
常々すまないと思っていた。
一千二百万円の損は一生忘れないだろうし、
この体験を生かすことは、
社会大学を卒業したようなものだから、
お赤飯でも炊いてお祝いしましょう」
と。さらに父には、
「向こう一年間、精助に、決して小言を言ってくださるな」
と言い、私の家内にも、
「あなたも亭主の前で、このことについて愚痴を言ってはいけませんよ」
と言い含めてくれたのです。
さすがに赤飯は炊きませんでしたが、
父も怒るに怒れず、妻も愚痴を言うことができなくなってしまったのでした。
経営の実際は、貧すれば鈍するでしてね。
翌年には脱税で重加算税を受け、
経営の危機に瀕し、銀行・仕入先などの信用も失墜してしまいました。
結局、金銭的には家産を処分して切り抜けるしかなかったのですが、
経営不安から次々と労働組合が誕生、
近代経営の脱皮にさらに苦しむことになります。
それだけに、この時期、1年間、
小言を言わないというお墨付きをもらったことが、
どんなに私を勇気付けたことか、言葉に言い尽くせません。
<感謝合掌 令和5年4月2日 頓首再拝>
明後日の日曜日(5月14日)は「母の日」 - 伝統
2023/05/12 (Fri) 08:58:30
母の日まで2日
明後日の日曜日(5月14日)は「母の日」です。
誰にでもある、命の元である「母」への
「思い」と「恩」を感じる大切な日です。
5月14日(日曜日)は、
お母さんに、カーネーションとともに、感謝の言葉を伝えましょう!
霊界のお母さんには、感謝の想いを送りましょう!
・・・
母の日の由来や歴史とは?
https://www.hibiyakadan.com/mother/column/about/
母の日ギフト・プレゼント特集2023!本当に喜ばれるものとは?
https://bestpresent.jp/mothersday/
・・・
<参照動画>
(1)【求人面接】世界一過酷な職業の実態
https://www.youtube.com/watch?v=7CLvpdSufR0
(2)母に謝りたい 【母の夢】 泣ける話
https://www.youtube.com/watch?v=QVpYQ377KaM
(3)笹山太陽『手紙 〜お母さんへ〜』
https://www.youtube.com/watch?v=xLBKkbTM2E0
(4)【泣ける歌。お母さんへ】ROYALcomfort/手紙。【実話】
https://www.youtube.com/watch?v=9KcjxFVSzzM
(5)感動CM 母の日
https://www.youtube.com/watch?v=_5YEsRZ2Ngk
(6)「あなたを守るために。〜母の歌〜」
https://www.youtube.com/watch?v=a66txxyMan0
<感謝合掌 令和5年5月12日 頓首再拝>
おふくろさん~森進一 - 伝統
2023/05/13 (Sat) 07:43:15
森進一 - おふくろさん
https://www.uta-net.com/movie/1051/
森進一さんの名曲「おふくろさん」
*メルマガ「人間力」(2022.6.30)より
───────────────────
森進一さんの名曲「おふくろさん」。
この歌を歌う時、森さんの心には、
亡き母親の思い出が去来するといいます。
苦労をして子供たちを育てた森さんの母親は
ある日突然自ら命を絶ってしまいます。
森さんは、この現実をどのように受け止め
人生を切り開いていったのでしょうか。
───────────────────
(森)
幸運は思わぬところからやってくるもので、
新人作曲家の猪俣公章さんの曲を
売り込むためのそのデモテープが、
私のレコードデビューにもつながることになったのです。
ビクターに持ち込まれたそのテープが流れると、
「曲もいいが、
これを唄っているやつもおもしろいじゃないか」
となったわけです。
私は18歳でした──。
デビュー曲「女のためいき」は、
おかげさまで大ヒットになりました。
NHKの紅白歌合戦に出場できたのは
デビュー3年目でした。
本当にうれしかった。
これでなんとか自分のポジションを
つかむことができたと思いました。
家族を東京に呼んで、一緒に暮らせるかもしれない。
やっとそんな気持ちになれたのは、あのときでした。
翌年、念願かなって母と妹弟を呼び寄せ、
借家ながらも東京での一家そろっての生活を
スタートさせることができました。
母にはこれまで苦労した分を取り返してもらおう。
私たち家族の本当の生活はこれから始まる──
そんな喜びでいっぱいでした。
しかし、その生活が母の大きな負担になるなどとは、
夢にも思わないことでした。
母は長い苦労のせいでリウマチを患い、
東京の水にも慣れにくかったのか、
精神的にも不安定になっていました。
私と恋愛関係にあり
結婚も約束していたという女性が現れ、裁判になったことも、
母の心をさらに不安定にさせたようでした。
もちろん、私自身にはまったく身に覚えのない訴えで、
裁判でも正当な決着がつけられたのですが、
その間のマスコミ騒動が母には耐えられなかったのかもしれません。
母が自らの命を絶ったのは、
一緒に暮らせるようになって、わずか2年後のことでした。
私はその知らせを公演先の長崎で聞きました。
底無しの沼にどこまでも沈み込んでいくような、
頭の芯がしんしんと冷え込んでいくような、
それでいて胸をかきむしって叫びたいような、
あのときの気持ちを、どう表現すればいいのか分かりません。
けれど、東京に戻るわけにはいきません。
私の歌を待っていてくださるお客様がいます。
その日のコンサートで泣きながら唄った「おふくろさん」は、
それ以来、母の命、そして私の命を込めた「おふくろさん」になりました。
もっともっと親孝行したいと思っていた矢先に
母を失った衝撃は、
私にとって例えようもなく大きなものでした。
悲しさ、悔しさ、無念さが入りまじり、無気力な日々が続きました。
けれど私には妹と弟がいました。
妹には幸せな結婚をさせて、弟は医者にする。
それが母の望みでした。
弟は病身の母を見ながら育ち、
「人さまのお役に立つ人になるんだよ」
と口癖のように言っていた
母の言葉を聞き、医師を志望するようになったのです。
ここで私がだめになってしまうわけにはいかない。
妹と弟の存在がようやく私を支えてくれたのでした。
※『致知』1998年4月号/特集インタビューより
<感謝合掌 令和5年5月13日 頓首再拝>
母が回答! 「母の日」のプレゼントでうれしかったもの - 伝統
2023/05/14 (Sun) 07:03:28
母が回答! 「母の日」のプレゼントでうれしかったもの
Web:オトナンサー(2023.5.12)
https://news.yahoo.co.jp/articles/596e48c49108cb328ecde128065558dbfb83c843
(https://otonanswer.jp/post/163143/)
<感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>
「母の日」を迎えて - 伝統
2023/05/14 (Sun) 12:16:06
谷口雅春先生に帰りましょう・第二
2021年05月10日 (月) 17時02分by破邪顕正さま より抜粋
(1)詩人・三好達治の言葉
〈海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある〉
①海という漢字には、母という言葉が入っている。
②フランス語では、母(la mere)の中に海(la mer)が入っている。
③「母なる海」という表現もありますように、海はすべての生命の源です。
(2)日本語の母という漢字
「母」という漢字の成り立ちは、「女」という文字に、
****を表す2つの点(ヽ)を加えた象形文字でできています。
(3)母の〝子宮〟(子の宮と書くところがまた素晴らしい)で、
十月十日を過ごし、〝産道〟(子の宮ですから〝参道〟でもあるわけです)
を通って、神の子が生まれてくる…。
で、生まれてからはその****で神の子は大きく育っていく…。
それへの感謝の思いを現すのが「母の日」なのだと思います。
(谷口雅春先生に帰りましょう・第二
「母の日」を迎えて、改めて「住吉大神」を脇神に押しやったことの間違いを思う…
で検索)
<感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>
二人の母 - 伝統
2023/05/14 (Sun) 14:36:15
*光明掲示板・第一 (8336)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1546
日時:2013年05月12日 (日) 08時39分by童子 さま
安藤 治子 (東大阪市)
『光の泉』誌 63年5月号 所載
私には二人の母がありました。
一人は私を産んで下さった人、
一人は私を育てて下さった人。
私は育ての母を不足に思い
何をされても感謝が起らず
心は暗くつらかった。
近頃、『白鳩』誌で、
こんな言葉を読みました
最初の母は、去年の水仙
育ての母は、今年の水仙
同じ球根から生まれたものです
去年の水仙が美しくて
今年の水仙は美しくない筈がない
育てて下さった方がなくて
どうして私はここまで大きくなる事が出来たであろう
冷たく見えた態度も
口やかましく叱られた事も
皆、私の魂を向上させる為に
現れた観世音菩薩様、
苦しみをのりこえた時
悲しみをふりかえった時
人への思いやりがうまれ
現在の幸福をより強く感じる
お母様
ありがとうございました
お母様
ほんとにありがとうございました
<感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>
母を拝む歌 - 伝統
2023/05/14 (Sun) 18:00:25
*谷口雅春先生・著「拝み合う心 第1篇 父母を拝む歌」(P3~8)より
《母仰慕》
☆ 七十七(ななそなな) 老いて優しくなりし母は
入歯さはると遅く食(は)みたまふ
☆ 二歳のときの私を抱きて硝子(がらす)の寫眞(しゃしん)に
うつりゐたまへる若き母かも
☆ 老いて深く皺(しわ)める皺のひとつひとつに
わが掛けし苦勞の刻まれてあるか
☆ 母よく來(き)ませりと思へども待遇(もてなし)もせず
原稿を書く公けの此の身なるかな
☆ 庭の紅葉(もみぢ)美しく日に映(は)ゆるさま
此の母に見せばやと思ふに日は照りもせず
☆ 捨てて捨てて捨て切りし頃のわれを見て
乞食(こつじき)になるらむと悲しみし母
☆ 母喜べば生ける甲斐あり 庭の石をつみてよろしかりしなど思ふ
☆ 池の金魚 みな浮(うか)びあがり 鰭(ひれ)ふろて
母をたたへよ赤き背見せよ
https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7864125
<感謝合掌 令和5年5月14日 頓首再拝>
「おかあさん」 - 伝統
2023/05/15 (Mon) 10:27:29
*Web:ジャパンナレッジ (2015年05月04日)より
(1)母親の呼称は「母(はは)」が古く、
『万葉集』などにもその例が見られる。
(2)12世紀頃から「ハハ」ではなく
「ハワ」という表記も見られることから、
「ハワ」と言っていた時代もあったようだ。
(3)「おかあさん」はかなり新しい。
『日本国語大辞典』によれば、近世に生まれた日常語で、
「オカカサマ→オカアサマ(またはオカカサン)→オカアサン」と
変化してできたのだという。
(4)「おかあさん」は江戸時代後期に上方で
使われるようになった語のようです。
(5)「おかあさん」が急激に広まったのは1903(明治36)年の
第一期国定読本「尋常小学読本-二」に書かれた、
「タロー ハ、イマ、アサ ノ アイサツ ヲ シテヰマス。
(略) オカアサン オハヤウゴザイマス。」
による。
この教科書に「おかあさん」が採用されたことが契機となり、
以後急速に普及し、母親の呼称の標準語形として
定着していくのである。
https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=277
<感謝合掌 令和5年5月15日 頓首再拝>
極限状態で起きた愛の奇跡に見る、母の偉大さ - 伝統
2025/05/04 (Sun) 11:23:55
*メルマガ「致知BOOK」(2023.7.12)より
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
いつの時代も変わらず、母から子に注がれる愛。
それは時に不思議な力を呼び起こします。
極限状態で起きた愛の奇跡に見る、母の偉大さ。
先生の名著『自分を育てるのは自分』に
収録されているお話をご紹介します。
……………………………………………………
長崎に、原子爆弾が落ちました時、
当時、十歳であった荻野美智子ちゃんという
女の子の作文をちょっと聞いて下さい。
「雲もなく、からりと晴れたその日であった。
私たち兄弟は、家の二階で、
ままごとをして遊んでいた。
お母さんは畠へなすをもぎに行った。
出かけに、十一時になったら、
ひちりんに火をおこしなさいよ、
といいつけて行った。
けれども、私たちは遊びが面白いので、
時計が十一時になったのに、一人も腰を上げず、
やっぱりままごとに夢中になっていた。
その時、ピカリと稲妻が走った。
あっというた時はもう家の下敷になって、
身動き一つできなかった。
何とかして出ようとすればするほど苦しくなる。
じっと外の様子をうかがうより仕方がなかった。
二人の姉の姿が外に見えた。
大喜びで『助けて、助けて』とわめいた。
姉たちは、すぐ走り寄って来て、私を助け出そうとした。
しかし土壁の木舞いの組んだのが間をさえぎっていて、
押しても引いてものけられなかった。
大きい姉が、
『我慢しろ。ねえ、もうじきお母ちゃんもお父ちゃんも
帰ってくるけんね。姉ちゃんは誰か呼んでくるけんね』
と励ましておいて、向こうへ走って行った。
私は、縦横に組んだ木舞いの隙間から、
わずかばかり見えてる外を、必死に見つめて、
お母ちゃんが来るかお父ちゃんが来るかとまっていた。
やがて、大きい姉ちゃんが、水兵さんを四、五人連れて走って来た。
その人々の力で、私は助け出された。
フラフラよろめき、防空壕の方へ行こうとした。
家の下から、助けてえ助けてえと叫ぶ声が洩れてきた。
弟の声であった。
大きい姉ちゃんが一番先に気付いて、
沢山の瓦を取りのけて、弟を引き出した。
その時、また向こうのほうで、小さな子の泣き声が洩れてきた。
それは二つになる妹が、家の下敷になっているのであった。
急いで行ってみると、妹は大きな梁に足を挟まれて、泣き狂っている。
四、五人の水兵さんが、みんな力を合わせて、
それを取りのけようとしたが、
梁は四本つづきの大きなもので、びくともしない。
挟まれている足が痛いので、妹が両手をばたつかせて泣きもがいている。
水兵さんたちは、もうこれはダメだといい出した。
よその人が水兵さんたちの加勢を頼みに来たので、
水兵さんたちは向こうへ走って行ってしまった。
お母さんは、何をまごまごしてるんだろう、早く早く帰ってください。
妹の足がちぎれてしまうのに。
私はすっかり困ってしまい、ただ背伸びして、
あたりを見まわしているばっかりだった。
その時、向こうから、矢のように走って来る人が目についた。
頭の髪の毛が乱れている。
女の人だ。
裸らしい。
むらさきの体。
大きな声を掛けて、私たちに呼びかけた。
ああ、それがお母さんでした。
『お母ちゃん。』
私たちも大声で呼んだ。
あちこちで火の手があがり始めた。
隣りのおじさんがどこからか現われて、
妹の足を挟んでいる梁を取りのけようと、
うんうん力んでみたけど、梁はやっぱり動かない。
おじさんはがっかりしたように大きい溜息をついて
『あきらめんばしかたのなか』
いかにも申し訳なさそうにいって、
おじぎをしてから向こうへ行ってしまった。
火がすぐ近くで燃えあがった。
お母さんの顔が真青に変わった。
お母さんは小さい妹を見下ろしている。
妹の小さい目が下から見上げている。
お母さんは、ずっと目を動かして、梁の重なり方をみまわした。
やがて、わずかな隙間に身を入れ、
一ヶ所を右肩にあて、下くちびるをうんとかみしめると、
うううーと全身に力を込めた。
パリパリと音がして、梁が浮きあがった。
妹の足がはずれた。
大きい姉さんが妹をすぐ引き出した。
お母さんも飛びあがって来た。
そして、妹を胸にかたく抱き締めた。
しばらくしてから思い出したように、私たちは、大声をあげて泣き始めた。
お母さんはその声を聞くと、
気がぬけたのか、そのままそこへ、へなへなと腰をおろしてしまった。
お母さんは、なすをもいでいる時、爆弾にやられたのだ。
上着ももんぺも焼き切れちぎれ飛び、ほとんど裸になっていた。
髪の毛はパーマネントウエーブをかけすぎたように赤く縮れていた。
体中の皮は大火傷で、じゅるじゅるになっていた。
さっき梁を担いで押し上げた
右肩のところだけ皮がペロリと剥げて、
肉が現われ、赤い血がしきりににじみ出ていた。
お母さんはぐったりとなって倒れた。
お母さんは苦しみはじめ、悶え悶えてその晩死にました」
これは、特別力持ちのお母さんだったでしょうか。
四人も五人もの水兵さんが、力を合わせても、
びくともしないものを動かす、力持ちのお母さんだったでしょうか。
皆さんのお母さんも皆さんがこのようになったらこうせずにおれない。
しかも、この力が出てくださるのがお母さんという方なんです。
<感謝合掌 令和7年5月4日 頓首再拝>
お母ちゃんの宝物 - 伝統
2025/05/05 (Mon) 09:35:53
*メルマガ「致知BOOK」(2025.5.3)より
~東井義雄/教育者
皆さんは、この夏休みに、
いろいろな宿題をいただいていると思いますが、
私の近くの中学3年生の宿題は、毎年決まっているんです。
それは、お母さんから、
生まれた時のことを、ずっとお聞きして、
「おいたちの記」を書くというのが、
その中学3年生の宿題になってるんです。
ある年の中学3年の背の高い体格のいい、
いうことを聞かん、やんちゃ者がいたそうです。
夏休みになった晩、
「お母さん、おいたちの記を書いていかんならんのや、
僕の生まれた時のことから話しとくれ」
お母さんは黙ってお仏壇のほうへ行ったという。
包みを持ってきました。黙って渡しました。
「何包んでんのや」
開いてみたら、まだ包んである。
次のを開いてもまだ包んである。
「何をたいそうに包んで、包んでしとんやろうか」
開いて、開いて、開いて、開いていきましたら、
最後に出てきたのが、爪だったといいます。
「何だバカらしい。爪なんか」
と言い返した時に、お母さんが、
「あんたが生まれてくれた時、
どんな子が生まれても、
文句をいうてくとこなかったのに、
両手にちゃんと十本の指が揃っていてくれた。
お母さんはうれしうてうれしうて、
あんたの最初の十本の爪を、
お母ちゃんの宝物にして、大事にしてきたんやで」
とおっしゃった時、その中学3年の、大柄の、いうこと聞かんやつが、
「お母ちゃん……」
いうて、お母さんの首たまにくっついて、
お膝の上にぽとぽとと涙を落としたところから、
そのおいたちの記がはじまっているんだと、
校長先生からお聞きしたことがあります。
いい夏休みをすごしたもんですね。
宿題のおかげで、このいうこと聞かん、
やんちゃ者が、このお母さんによって育てられてここまできた。
大柄な体でありながら、
小さい自分が大きなものに祈られている、願われている、
その中の自分であったということに目覚めたということでしょうね。
<感謝合掌 令和7年5月5日 頓首再拝>
見返りを求めぬ母の愛 - 伝統
2025/05/06 (Tue) 09:51:26
*メルマガ「人間力」(2025.2.24)より
─────────────────
事故で手足の自由を失うも、
口に筆をくわえて絵画や詩の創作活動を続けた
詩画作家の星野富弘さん。
『致知』1988年2月号の
インタビュー時にご紹介いただいた
心に沁みるお話をお届けいたします。
……………………………………………
神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れる
ぺんぺん草の実を見ていたら
そんな日が
本当に来るような気がした
(なずな)
母がいなければ、いまの私はなかったと思うのです。
特に九年間の病院生活は、母なしでは考えられません。
こんなことがありました。
食事は三度三度、口に入れてもらっていたんですが、
たまたま母の手元が震えてスプーンの汁を
私の顔にこぼしてしまったのです。
このわずかなことで積もり積もっていた
私のいらいらが爆発してしまった。
口の中のご飯粒を母の顔に向け、吐き出し、
「チクショウ。もう食わねえ、くそばばあ。
おれなんかどうなったっていいんだ、
産んでくれなけりゃよかったんだ」
とやってしまった。
母は泣いていましたよ。
よほど悔しかったのか、しばらく口をききませんでした。
ところが、ハエがうるさく顔の上を
飛び回り、いくら顔を振っても、離れてはすぐに私の顔にたかる。
だまりこくっていた母もたまりかね、
私の顔にたかっているハエをたたこうとしたんです。
そして、たたくというより押さえた。
ハエは逃げてしまいましたが、
母のしめった手のぬくもり、ざらついてはいましたが、
柔らかな手の感触を感じたのです。
この時ですね、母親の愛を知ったのは。
母はどんなに私を憎んでいても、
私の顔につきまとうハエを見過ごすことができなかった。
母親は誰にとっても共通のものがありますね。
やっぱり母親、父親もそうだと思うんですが、
子供に対して見返りを求めない愛情があります。
だから私たちはやすらぎを感じるのではないですか。
私が入院する前の母は、
昼は畑に四つんばいになって土をかきまわし、
夜は薄暗い電灯の下で金がないと、泣き言をいいながら内職をしていた、
私にとってあまり魅力のない母でした。
もし私がけがをしなければ、
この愛に満ちた母に気づくことはなかったでしょう。
母を薄汚れた一人の百姓の女としてしかみられないままに、
一生を高慢な気持ちで過ごしてしまう、
不幸な人間になっていたかもしれません。
・・・
<参照>
【生き方の教科書】4月27日 見返りを求めぬ母の愛
Web:noteどや@格闘塾(2025年4月28日)
https://note.com/kakutojuku/n/nb7fe12c584ea
<感謝合掌 令和7年5月6日 頓首再拝>
「おかあさん」 - 伝統
2025/05/07 (Wed) 08:25:45
「おかあさん」
Web:日本語、どうでしょう?(2015年05月04日)
https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=277
(以下は抜粋です)
母親の呼称は「母(はは)」が古く、
『万葉集』などにもその例が見られる。
ただ、時代はやや下るが、12世紀頃から「ハハ」ではなく
「ハワ」という表記も見られることから、
「ハワ」と言っていた時代もあったと考えられている。
これに対して「おかあさん」はかなり新しい。
『日本国語大辞典』によれば、近世に生まれた日常語で、
「オカカサマ→オカアサマ(またはオカカサン)→オカアサン」と
変化してできたのだという。
最初の「オカカサマ」の「カカ」は時代劇などでもよく聞かれるが、
文献での使用例は16世紀後半までさかのぼれる。
ちょうど豊臣秀吉の時代に当たる。
ただ、なぜ母親のことを「カカ」と言うかはよくわかっていない。
女房詞(にょうぼうことば=室町初期頃から、宮中に仕える女房が
用いた一種の隠語)に母親をいう「か文字」という語があることから、
やはり母親をいう「かみさま(上様)」と何らかの関連があるのではないか
と考えている人もいる。
「おかあさん」は江戸時代後期に上方で使われるようになった語のようで、
その辺の事情は『守貞漫稿』(1837~53)という
その当時に書かれた随筆がわかりやすく伝えている。
*守貞漫稿
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00915/
「京坂ともに男女児より父を称して中以上は御爺様(おとっさん)
母を呼で御かあさんと云、
小民(=庶民)の子は『ととさん』『かかさん』と云」
一方、江戸では「おかあさん」はあまり広まらず、
時代が明治に変わり20世紀になる頃からようやく
良家の子女の間で使われるようになったのだという。
それまではどう呼んでいたのかというと、
やはり『守貞漫稿』に「おっかさん」、
あるいは小民(=庶民)の子は「おっかあ」と呼んでいたとある。
「おかあさん」が急激に広まったのは1903(明治36)年の
第一期国定読本「尋常小学読本-二」に書かれた、
「タロー ハ、イマ、アサ ノ アイサツ ヲ シテヰマス。
(略)
オカアサン オハヤウゴザイマス。」
による。
「読本」とは、第二次世界大戦前まで
小学校で主に国語の授業で使われた教科書のことをいう。
現在の検定教科書とは違い、
当時はすべての小学生がこの教科書で学習したわけである。
この教科書に「おかあさん」が採用されたことが契機となり、
以後急速に普及し、母親の呼称の標準語形として定着していくのである。
<感謝合掌 令和7年5月7日 頓首再拝>
昔の人は「はは(母)」をどう発音したか? - 伝統
2025/05/08 (Thu) 08:31:20
昔の人は「はは(母)」をどう発音したか?
Web:日本語、どうでしょう?(2015年05月11日)
https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=281
(以下は抜粋です)
前回は「ハハ」が古くは「ハワ」と発音されていたということには
触れたのだが、主題は「おかあさん」という語についてだったので、
「fafa」という発音については触れなかった。
だが、それはそれで結構面白い話なので、蛇足を述べておこうと思う。
英語塾の先生が紹介したというなぞなぞは、室町時代に成立した
『後奈良院御撰何曾(ごならいんぎょせんなぞ)』(1516年)という
書物に出てくる。
「母には二たびあひたれども父には一度もあはず くちびる」というものである。
後奈良院は後奈良天皇のことで、在位した大永6年(1526)~弘治3年(1557)は、
まさに戦国時代の真っただ中である。
『後奈良院御撰何曾』は古くから伝わるなぞなぞを集めたものだと言われている。
だが、この「母には二たびあひたれども……」のなぞなぞの答えが
なぜ「くちびる」になるのか、長い間理由がわからなかったらしい。
江戸時代後期の国学者で、紀州侯に仕えた本居内遠(もとおりうちとお)は、
このなぞなぞを、
「母は歯々の意、父は乳の意にて上唇と下歯、下唇と上歯とあふは二度なり。
我乳はわが唇のとどかぬ物なれば、一度もあはぬ意にて唇と解たるなり。
是ら変じたる体の何曾(なぞ)にていとおもしろし」
(『後奈良院御撰何曾之解』)と解いている。
つまり「母」は「歯歯」で、
上歯と下唇、下歯と上唇はそれぞれ2度接すると考えたのである。
「父」の方が傑作で、「父」は「乳」で、
自分の体の乳には自分の唇は届かないというのである。
他人の乳だと唇を触れさせることができるが、
自分の乳だとそれは無理だなどとまじめに考えている姿を想像すると
ちょっとおかしい。もちろんかなり強引な解ではあるのだが。
このなぞなぞを音韻史と結びつけて考察したのが、
『広辞苑』の編者として著名な新村出(しんむらいずる)である
(『波行軽唇音沿革考』1928年)。
その根拠となったのは、たとえば『日本国語大辞典』(『日国』)にも、
「ハ行子音は、語頭ではp→Φ→h、語中ではp→Φ→wと音韻変化したとされる
(Φは両唇摩擦音。Fとも書く)。」という説である。
つまり、「はは」はpapa →ΦaΦa(fafa)→Φawa (fawa) →hawa と
変化したというのである。
上下の唇を接触させて発音される両唇摩擦音が重なるΦaΦa(fafa)なら
唇は確かに二度会うことになり、
「チチ(父)」という語の発音では唇が一度も接することはないので、
なぞなぞの答えは「唇」ということになる。
ただし、後奈良天皇の時代にはΦawa (fawa)という発音も広まっていたので、
その場合唇が二度出会うと言えるのかどうか疑問だとする立場もなくはない。
このなぞなぞは大学の日本語史の講義の中で、
日本語の発音の変遷について言及するときにしばしば紹介されるものである。
おもしろい内容なので、一般の方が知っていても損はない話だと思う。
<感謝合掌 令和7年5月8日 頓首再拝>
「お母さん」という言葉の由来 - 伝統
2025/05/09 (Fri) 11:04:15
*メルマガ「致知BOOK」(2024.10.19)より
~境野勝悟・著『日本のこころの教育』
僕が小学校の一年のときのある日、
「ただいま」って家に帰ると、
お母さんがいないときがありました。
お父さんに、「お母さんどうしたの?」と聞くと、
「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」と言う。
そして、
「きょうはお母さんがいないから、
おれが温かいうどんをつくってやる」
と言って、親父がうどんをつくってくれました。
ところが、温かいうどんのはずなのに、
お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。
一方、「ただいま」と家に帰って
お母さんがいるときは僕はいつでも
「お母さん、何かないの?」と聞きました。
すると、母は
「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
食いしん坊だね。そこに、ほら、芋があるよ」
って言う。
そういうときは決まって、
きのうふかしたさつま芋が目ざるの中に入っていました。
かかっているふきんを取ると、芋はいつもひゃーッと冷たいんです。
だけれども、お母さんのそばで食う芋は不思議に温かかった。
これは、もしかすると
女性には理解できないかもしれないけれども、
男性にはわかってもらえると思います。
お母さんが家にいると黙っていても明るいのです。
あたたかいのです。
それで、わたくしたち男は自分の妻に対して、
「日身(カミ)」に「さん」をつけて
「日身(カミ))さん」と言ったんです。
丁寧なところでは、これに「お」をつけて
「お日身(カミ)さん」といったんですよ。
何でしょうか。
この「日身(カミ)」という意味は?
「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
もっと古い言葉では「カアカア」といった。
さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。
「カカ」「カアカア」「カッカッ」
これが「カ」となるんですね。
「ミ」というのは、
わたくしたちの身体という意味です。
ですから、「日身(カミ)」とは、
わたくしたちの身体は
「カカ」の身体である、
「カアカア」の身体である、
「カッカッ」の身体であるという意味なんです。
では、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
古代では一体何を意味したのでしょうか。
「カッカッ」というのは、
太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。
「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。
「カアカア」「カカ」という音も同様です。
つまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は
太陽の命の身体であるということを、
「日身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。
「カミ」の「カ」に「日」という漢字が当てられているのを見れば、
「カ」が太陽のことを意味しているということがわかるでしょう。
「日身(カミ)」とは、
太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。
お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたくしたちの生命を育ててくださいます。
わたくしたちの身体を産んでくださいます。
母親というのはわたくしたちを産み、
その上私たちを育ててくれます。
母親は太陽さんのような恵みの力によって
わたくしたちを世話してくれる。
母親はまさに太陽さんそのものだということから、
母親のことをむかしは、「お日身(カミ)さん」といったのです。
<感謝合掌 令和7年5月9日 頓首再拝>
「母の日」にお母さんに感謝したくなる動画!!(CM) - 伝統
2025/05/10 (Sat) 11:18:36
「母の日」にお母さんに感謝したくなる動画!!(CM)
https://www.youtube.com/watch?v=RMdg0K8IXlI
<感謝合掌 令和7年5月10日 頓首再拝>
「母の日」 - 伝統
2025/05/11 (Sun) 09:13:42
きょう、5月11日(5月第2日曜日)は、「母の日」。
これを見たら号泣してしまう お母さんに会いたくなる(タイ感動CM)
https://www.youtube.com/watch?v=S0fZgzyhqmI
・・・
母親というものは
葉祥明 著『母親というものは』より
あなたのお母さんは、どんな人ですか?
あなたは、自分の母親のことを、どう思っていますか?
お母さん、あなたは、自分がどんな母親だと思っていますか?
そして、自分の子どもが、母親である自分をどう思っているか、
ご存知ですか?
母と子は、人間関係の元型で、互いに特別な絆で結ばれています。
母親の人生に於ける影響力は、計り知れません。
そういう意味では、母親に感謝できる人は、幸いです。
どんな人生の困難にも耐え、そして乗り越えられる「力」を
十分与えられているからです。
その「力」こそが、母親だけが与えることのできる「無償の愛」なのです。
・・・
母親というのは無欲なものです。
我が子がどんなに偉くなるよりも
どんなにお金持ちになるよりも
毎日元気でいてくれることを心のそこから願います。
どんなに高価な贈り物より我が子の優しいひとことで
十分過ぎるほど幸せになれる。
母親というものは
実に本当に無欲なものです。
だから母親を泣かすのは
この世で一番いけないことなのです。
https://cototama.com/yohshomei/
<感謝合掌 令和7年5月11日 頓首再拝>
母の切なる願い - 伝統
2025/05/11 (Sun) 12:46:28
(2人子どもの)母の切なる願い
*メルマガ「人間力」(2025.5.11)より
─────────────────
「十億の人に十億の母あらむも わが母にまさるははありなむや」
暁烏敏(あけがらす・はや)
この詩の通り、自分を生み育ててくれた母の存在は、
この世に生まれ落ちた一人ひとりにとってかけがえのないもの。
そして、5月の「母の日」は、
自分と母の関係をあらためて振り返り、
感謝の気持ちを深めることができる大切な機会です。
そんな特別な日にぜひ身近な人と読んでほしい、
子を思うお母さんの愛の深さが胸に響く
実話をお届けいたします。
語り手は諏訪中央病院名誉院長・鎌田 實さんです。
─────────────────
〈鎌田〉
僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。
余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。
ある日、病室のベランダでお茶を
飲みながら話していると、彼女がこう言ったんです。
「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」
彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。
すると彼女が、
「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
卒業式を母親として見てあげたい」
と言うんです。9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。
でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。
子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。
奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。
こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。
おそらく彼女の場合も、
希望が体の中にある見えない3つのシステム、
内分泌、自律神経、免疫を活性化させたのではないかと思います。
さらに不思議なことが起きました。
彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。
せめて上の子の卒業式までは
生かしてあげたいと僕たちは思っていました。
でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。
そして、1か月ほどして亡くなりました。
彼女が亡くなった後、
娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。
僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。
「母は家に帰ってくるたびに、
私たちにお弁当を作ってくれました」
と娘さんは言いました。
彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。
病院の皆が引き留めたんだけど、
どうしても行きたいと。そこで僕は、
「じゃあ家に布団を敷いて、
家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」
と言って送り出しました。
ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が
最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。
「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
そのおむすびを持って、学校に行きました。
久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。
昼の時間になって、
お弁当を広げて食べようと思ったら、
切なくて、切なくて、
なかなか手に取ることができませんでした」
お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。
でも、命は長さじゃないんですね。
お母さんはお母さんなりに精いっぱい、
必死に生きて、大切なことを
子供たちにちゃんとバトンタッチした。
人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、
その希望を持つことによって免疫力が高まり、
生きる力が湧いてくるのではないかと思います。
(本記事は月刊『致知』2012年7月号
掲載「致知読者の集い」の講演録から一部抜粋・編集したものです)
★「母の日」に贈る致知の言葉、
壁紙ダウンロード(無料)はこちら
https://www.chichi.co.jp/specials/wallpaper-2025-5/?utm_source=willmail&utm_medium=email&utm_campaign=ningen_20250511-2
<感謝合掌 令和7年5月11日 頓首再拝>
「母の背中」 - 伝統
2026/03/13 (Fri) 10:20:48
「母の背中」
Neg Music Entertainment(2025/01/29 )
https://www.youtube.com/watch?v=VkrHk-8OikU
母の背中が見えた
遠くの道に立つ影
時の流れに逆らい
強さと愛を抱いて
手のひらのしわに
刻まれた苦労の跡
微笑むその顔に
浮かぶ涙のあと
母の背中に感じた
無限の愛と強さ
その手に包まれて
心は安らぐ
風に揺れる髪が
語る過去の記憶
いつも守ってくれた
何も言わずにそばで
※
あの時の祈りが
私を支え続け
母の背中を追う
道を歩いていく
母の背中に感じた
無限の愛と強さ
その手に包まれて
心は安らぐ
※くりかえし
<感謝合掌 令和8年3月13日 頓首再拝>