伝統板・第二

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病は本来ない ② - 伝統

2019/09/13 (Fri) 04:06:10


     *伝統板・第二「病は本来ない」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7176432


超人の自覚で、病気を超えることです

          *「真理」第9巻生活篇第6章(P146)より
           ~《あなたは既に超人(ちょうじん)です》

超人の自覚は、あなた自身の自覚の程度に従って、
時間・空間の制約を超えて自由になれるのです。

私を標準や手本だと考えてはおりません。
私は常に「自分は教祖ではない。私は喇叭である」と言っている通り、
私は教えられたところを伝え、聴いたところを取り次ぐだけです。

私の成績は真理の全体的効果の表現ではありません。
私を目標にしてはなりません。
真理を目標とするのです。

そうしてみずから超人になって頂くのです。

超人よ!!
あなたが《それ》です。

あなたは一切の制限を超えたのです。
最早あなたは病気や、失望や、失敗や、
悲観の虜(とりこ)となることはないのです。

「いや、まだ私の病気は治らぬ」 と被仰(おっしゃ)るのですか。

とんでもない、あなたは肉体ではないのです。
肉体でないから肉体の病気も《あなたのもの》ではないのです。

超えることです。

      <感謝合掌 令和元年9月13日 頓首再拝>

心に感謝の念を満たし、真理を行ずると、病は消えてしまう - 伝統

2019/09/30 (Mon) 04:15:06


         *『白鳩』(昭和47年4月号)より
          ~《『続々甘露の法雨』を詠む》~

   生長の家の経典の一つに『続々甘露の法雨』があります
   その一部から・・・

         天使(てんのつかい)つづいて説きたまふ。
         家庭の争ひ、
         嫉妬、
         憎悪、
         復讐、    
         憤怒の念(こころ)―
         全ての悪念は健康の快復を妨ぐるなり。
         若しかかる悪感情起こらば
         速やかに『神の子・人間』に本来かかる悪感情
         無しと観じて、
         かかる感情を断ち切るべし。
  
   『生命の實相』を読み、人間は《神の子》であって、
    本来完全圓萬であるから病気は無いという
   《實相哲学》が理解できたつもりでいるのに、
   どういうのか病気が治らないで悩んでいる人があります。


   こんな場合には、家庭の内部に人間関係で不調和がありはしないかを
   脚下照顧し、反省し、家庭内に暗黙のうちに争いの精神状態又は、嫉妬、
   憎悪、復讐、憤怒その他いろいろの反感や逆念やがもしあれば、
    
   それを解消するために、もし自分があやまった方がよいと思うならば、
   素直にあやまり、互に打ち融けて感謝し合い、調和の心境に、
   家族中がなることが出来れば、その病気は消えてしまうのであります。

   茲に、『家庭の争い、嫉妬、憎悪、復讐、憤怒の念
   ―全ての悪念は健康の快復を妨げるなり』
   と示されているのはそのためであります。


   何故これらの悪念が家庭にわだかまっていますと、
   『人間・神の子』の真理がわかっていながら、病気が治らないかと言いますと、

   本当に自分が《神の子》だと悟られているならば、
   嫉妬や、憎しみや、恨みや、怒りや、悲しみや、口惜しさなどの感情が
   起こる筈はないのであります。

   そんな不浄な悪感情や悪想念が起こるのは、《人間・神の子》の真理が、
   頭脳(あたま)の表面(うわつら)ではわかっていましても、潜在意識の底の底まで
   全身全霊をもって《人間・神の子》の真理を自覚し得ていないからであります。


   それに《人間・神の子》の真理を頭脳で理解していましても、
   憎しみや、争いや、恨み、悲しみ又は不平等の感情がありますと、

   現象世界というものは、心の所現でありますから、
   その心の通りの形が肉体や環境にあらわれて来るのは当然なのであります。

   だから心の中に、不平や怒りの《心の固まり》が出来ますと、
   その感情を長くもち続けますと、やがてそれが肉体に具象化して、
   肉体に癌とか腫瘍とかの固塊があらわれて来るのであります。

   だからそんな病気があらわれましたら、『生命の實相』をよく読んで
   『人間本来、病なし』の真理を尚一層よく知ると同時に、

   《本来ない》ところの病があらわれているのは、
   『自分の心の反映(かげ)』であると知り、
   心を一変して心に感謝の念を満たし、教えを真剣に行ずるようにすると、
   本来無い病なのだから、《無》の實相をあらわして消えてしまうのであります。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18655226.html より転写)

            <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>

病気は消えてしまう - 伝統

2019/10/07 (Mon) 04:19:07


        *「光明法語(10月7日)《病気は心の影》」より

病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。
その病気を「自分の心の影」だと見よ。

神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる
「心の影」として不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。
(これ懺悔である)。

そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 令和元年10月7日 頓首再拝>

本当の自分に出会えば、 病気は消えていく - 伝統

2019/10/20 (Sun) 02:13:00


     *「本当の自分に出会えば、 病気は消えていく」 梯谷幸司・著より
      ~「あなた自身の人生」を生きていないとき、人は弱く、不調になる!    
      (Web;書評「とにかく何かに書きたいのです」より)


◆「自分の人生」を生きていないとき、人は病気になる!

病気は「敵」ではありません。
「本当の自分」からズレていることを教えてくれる、大切なメッセージです。

「自分はダメな人間だ」「人生は苦労の連続」といった
ネガティブな思い込みや歪んだ人生の前提。

「病は気から」という言葉がありますが、
そんなマイナスの思いが、病気を起こしています。 

著者の梯谷氏は、
「言葉と心理技術」によってネガティブな思い込みを解放する方法を開発。

実際にがんや膠原病などの難病、うつなどの精神疾患を
劇的に改善することに成功しました。

●自分を縛る「こうあるべき」というルールを見直す
●「私は~のために、病気をやめる」という言い方をする
●「~したい」に力点をおく

封印してきた「本当の自分」と出会い、病気と無縁の人生をはじめよう!



著者は梯谷幸司(はしがい・こうじ)さん。
言語心理学や催眠療法などの分野を学び、「脳の動かし方」を変化させる

独自の方法でクライアント(患者)が抱える
身体・精神面の悩みを改善している方です。
(お医者さんではありません。)

本書ではその独自の方法のうち、

「思い込み」「セルフイメージ」「言葉」「記憶の書き換え」等について触れています。
専門的な言葉はそれほど出てこないので、読みやすい内容です。

著者はセミナーや動画販売も積極的に展開しているからか、

人名検索すると「胡散臭い」「怪しい」と出てきて。。笑

確かに高額セミナーだったりすると怪しく感じてしまいますし、理解できます。
が、私はこの本から胡散臭さは感じませんでした。その内容を以下、一部紹介します。

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《病気は「本当の自分」からの大切なメッセージ》

社会生活を送るうえで、社会に自分をある程度でも合わせていくことが求められます。
それはしばしば、本当の自分を抑えつけられることもあります。

それが続くとやがて、抵抗や反乱が「人体の中でも」起きる。

それが、病気(メッセージ)である― と、著者は話されています。


《「思い」を、恐れずに言葉にして出していく》

病気になるということは
親やパートナー、会社など、今までで関わってきた人たち、

そして自分自身に対して
「言っていないことがある」
「我慢している、あきらめていることがある」
状態である。

著者も、若い頃これを実際に経験したそうです。

本気で病気をやめるのであれば、
自分の思いや気持ちを言葉で出していくのを恐れないこと。


《人の意識レベルは、17段階に分けられる。》

ここ、非常に興味深い項目でした。
もう、この項目を読むだけでも手ごたえあり!とメイプルな超合金になります。

アメリカの精神科医、デヴィット・R・ホーキンズ博士が取り組んだ

「筋肉反射テスト」。
人間の意識レベルは、体から出るエネルギー量によって、
17の段階を持っているとした。


この17の段階を2つに分類します。
「パワーの領域(1~8)」
「フォースの領域(9~17)」

この段階と領域が、
病気がつくられ、消えていくプロセスと合致するというのです。

似たような表がウェブで閲覧可能ですので、お借りします。
興味ある方はPRESIDENT Onlineもどうぞ。
https://president.jp/articles/-/18207

※注
「9・勇気」がパワーの領域とされていますが、
  (https://president.jp/articles/-/18207?page=4
本書ではフォースの領域に含まれています。

おそらく、肯定という感情は
ポジティブ/ネガティブの微妙なラインの領域なのでしょう。以上、個人の感想。

病気でいる人たちは、多くの場合、この意識レベルの

「フォースの領域」に住み慣れているということが言えるそうです。
なので、

意識レベルを上げていくと、病気(あるいは何かの現象)をやめる方向へ

スイッチを変えられるということですね。


《「これをやるために、病気をやめます」の「これ」は明確か?》

『何のために病気をやめますか?』
「元気になりたいからです」「病気は嫌だからです」

こういった<病気を回避したい>答えでは、

なかなか病気は消えないとのこと。
何故か?

「これのために、やめたい」の「これ」が、明確ではないから。
脳が働かないのです。

では、


どう考えると、脳が働くのか?
「これ」がわからない場合、私の病気は消えないのだろうか?

答えは本書で(^^)




(後編)より

《「危機回避モード」と「成長モード」》

危険を感じると(=危機回避モード)私たちは身を守るため
「逃げる」「闘う」等の反応を示し、体もその態勢に入ります。

そうすると、体内が興奮状態になります。
ストレスを例に考えてみると、わかりやすいですね。

一方、成長モードはその逆で、緊張が緩んだ状態。
全身に血液がまわり、体内の各機能が高まると。
よく、疲れやストレスにはリラックスが大事と言いますが

リラックスはここでいう成長モード、ということですね。


この「モード」の切り換え方にも本書では触れています。


《まわりに振り回される人ほど、病気になりやすい―「外的基準、内的基準」》

○内的基準(自分の中に判断基準があり、自分で物事を決めること)
○外的基準(自分以外の周囲の声などから物事を決めること)

外的基準になると、人は病気になりやすいと。

もう、私のことですか~~~??!私~~ですよね~~~!!!って叫ぶわ。


《結果が欲しいのなら、この言葉は使うな?!》

治す、やめる、がんばる・・・

病気をやっている時に限らず、日常でよく使われるこれらの言葉。

実は「現状維持」の指令になるんだそう。

脳は、私からの指令を守って動く。
ということは、これらの言葉は、

治す、やめる、がんばる・・・を、維持する

ことになる。

( ゚д゚)

では、これらの言葉は使っちゃいけないのか?どうしたらいいのか?
という解説がされています。


《つらいことは「過去形」と「◯◯」にしてしまえば、解放される》

深く傷付いたり、つらい出来事って、意外と

「過去のことに出来ていない」と思えませんか?
例えば10年前の出来事でも、最近起きたことのように語れてしまう…


だから、やめたいものは過去形にしていく。
違和感があっても、過去形にしていくのが良いそう。


過去系にする具体的な方法や、記憶との向き合い方も紹介されています。



《「変化していく自分をシミュレーション」》

急激な変化は、ダイエットのようにリバウンドのリスクがあるというわけで、
リバウンドを少なくしつつ、確実に変化させるためにはどうするか?に関する項目。
これも、前編で紹介した意識レベル表と同じく、参考になる項目でした。

避難訓練のような方法で、目標までの変化へのイメージを行う練習になります。
起きる状況にどう対応するのかを書き出していきます。


  (前編 https://ameblo.jp/oeo-oredaoredadore/entry-12423885395.html )
  (後編 https://ameblo.jp/oeo-oredaoredadore/entry-12423904762.html )

            <感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>

「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。さすれば、病は癒える - 伝統

2019/10/25 (Fri) 02:28:39


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より抜粋 

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                   (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、尚一層金剛不壊であり、
   真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。

            <感謝合掌 令和元年10月25日 頓首再拝>

霊は病まず - 伝統

2019/11/01 (Fri) 04:07:08


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

            <感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2019/11/02 (Sat) 04:50:31


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。
それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

            <感謝合掌 令和元年11月2日 頓首再拝>

病気を否定する事も要(い)らない。人間「神の子」を讃美すると好い - 伝統

2019/11/03 (Sun) 03:48:54


       *「光明法語」(11月3日の法語《神の子の美を讃美せよ》)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

            <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2019/11/13 (Wed) 04:40:57


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我(われ)はただ神の生活を生活するだけである。

            <感謝合掌 令和元年11月13日 頓首再拝>

心も無、病気も無 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 04:51:39


       *「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。(『生命の實相』第一巻)】


南岳禅師、嘗て病気をしたときに、自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。
以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。業と云うものは何処から起る、
妄(まよい)から起る。それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと
心から起る。其業を作る所から病気が起って来る。

病気は元(も)と業だ。業は元(も)と妄(まよい)だ、妄の源(みなもと)は心だ。
サア心と云うものは何だ。心は無生(むしょう)としてある。
其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。全体姿形のあるものでない。

そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、病は平癒したと云う事がある。
病を根底から直した。
それで自分の病気は心から妄となり、妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、心も無と知り、
無いものから生じた病気も無と知り、大安心に達したとき
自然療能力で病気が治るのは今更(いまさら)始まったことではない。

          <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>

医源病は病気ではない - 伝統

2019/12/10 (Tue) 04:46:31


       *『白鳩』(昭和47年3月号)より

すべて、心の集中するところへ血液も集中するのである。

医師から肺結核の診断をされたりして、
自分の胸部に結核菌が巣食っているのだと思って、
常に胸部に心配の念を集中すると、

胸部に正常以上に血液が集中し、
そこに血液が停滞することになるのである。

運動する筋肉をみつめながら体操する場合には
筋肉が隆起したり伸展したり、緊張と弛緩とが
交替に繰返される光景をみつめての活発なる心の集中であるから、
それは血液の停滞となってはあらわれないけれども、

肺臓に結核菌が蝕っていると思いつめ、
その悲しい憂鬱な念(おもい)を肺臓に集中すると、
肺臓に集った血液が憂鬱にそこに停滞して、

そこが所謂、鬱血状態を呈することになり、
正常よりも血液が盛り上がった状態になるのである。

この時、レントゲン写真を撮るならば、
血液の中にはヘモグロビンという鉄を主成分とする血色素があり、
鉄は金属であるからX線を透過せしめないので、
血液の鉄分の停滞している部位が黒く写るのである。

そしてそのレントゲン写真を見た医師が、
「ここがこんなに結核菌に冒されていますよ」と説明する。

その説明は《レントゲン写真》という実証(?)を見せつけられての
説明であるから、患者はそれを深く信じ

「自分は結核菌に冒されているのだ。
肺結核も、もうこんなに冒されているから、もう第三期だ」

などと信じ込む。

そうして恐怖の念が肺臓に集中する結果、肺臓の鬱血はひどくなり、
血液はそこに停滞して、新しい酸素がゆたかに満ちた殺菌力の強い血液に、
肺臓のその部分は、恵まれないことになるので、
その部位の血液の中には結核菌が生育しやすくなり、
本当の肺結核になるのである。

これなどは医者が、不注意にもレントゲン写真を患者に見せて、
肺結核の観念をその人の潜在意識につぎ込んだ結果の災害であって、
所謂『医源病』の一種であるのである。


そのような患者が『生長の家』の《人間本来無病》の光明思想に触れて、
病念を肺臓部に鬱血させることを止めて、暫くしてレントゲン写真を撮ると、
この前には結核浸潤の黒い影があった肺臓が、何ら黒い影のない
健康な肺臓の姿が写真にあらわれて来りするのである。

結局始めから、その人は肺結核ではなくて
念の集中による肺臓の鬱血を「黒い影」として映し出し、
重症の肺結核と誤認されたのである。

以上は、ある結核患者を実例に引いて、
人間は単に物質的条件と《物質の法則》とに支配される
『肉体という物質』が『人間』そのものではなく、

人間は《心》によって具体的に支配される『精神的存在』である
ということを明らかにしたのである。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18763358.html より転写)

          <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>

人の病気を治すには  - 伝統

2020/03/07 (Sat) 04:56:34


           *「光明法語」(3月7日)より

人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。

観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。

病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。

此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。

          <感謝合掌 令和2年3月7日 頓首再拝>

無いものは無い - 伝統

2020/03/28 (Sat) 04:12:06


          *徳久 克己  医学博士

『生命の實相』 のなかに、聖経のなかに、いたるところに 
「病気は無い」 と書いてあるのを拝読していながら、
潜在意識のなかには 「病気はある」 と思っているような
中途ハンパな信仰だから、すべてのことがスッキリしないのだと反省しました。

生長の家が発祥した当時の大先輩である服部仁郎先生、吉田國太郎先生のお話は
ハッキリと 「病気は無い」 と宣言しておられたことを今でも思い出します。 

先生たちのお話を聞いていますと、理論的にはドウシテモ理解できないような、
飛躍したお話が多かったのですが、それでいてとても魅力があり、
先生たちのお話を追いかけまわして聞いた私でした。

「病気は無い」 ということは、谷口雅春先生がお悟りになられた真理で、
理屈がこうだから 「病気は無い」 のではなく、病気は無いから無いのだ、
ということをわからせていただいて、私は本当にスッキリしました。


 「なぜ無いのだ?」

という疑問が出るということは、「現象あり」 とみる 「迷い」 がある証拠で、
「病気がある」 と思っているからです。 

結局 「病気は無い」 と知るためには、谷口先生が神から最初に受けられた
啓示である 「物質はない」 という、生長の家の御教がはじまった最初の原点を、
よくみきわめることが大切であるとわかりました。


 「“無い”ものを“無い”としたところに、本当にアルモノが出て来るのだ」
                   (『生命の實相』 第20巻 135頁)


この「“無い”ものを“無い”とする」 これが最も大切なことで、
それによって本当にアルモノが出て来るのです。 

「病気は無い」 と知った時、本当にアルモノ、即ち 
「永遠の生命 〈健康そのもの〉」 が出て来るのです。

先生が 「人間は病気をしないのがアタリマエで、病気をするのは奇蹟だ」 
とお説きになられるのは、 「無いものを無い」 とハッキリ自覚された時に
出てくる真理であります。 

どうしても私たちは五感にたよって毎日の現象の生活をしていますので、
五感によって知る現象をあるかのように錯覚してしまうのです。

谷口先生は 「病気は無い」 と教えておられるのですから、
無い肉体の病気などあるはずがないのですが、
五官で感知するものを 「ある」 と思うと、
そこからイロイロの 「迷い」 があらわれてきます。

 
 「無明(まよい)はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。 
  真相を知らざるを迷いと云う」  と聖経 『甘露の法雨』 に説かれています。 

「無いものをあると想像する」 のが迷いでありますから、 
「病いの原因は “心” にあり。 しかも “迷いの心” にあり」 と
聖経 『続々甘露の法雨』 に説かれています。 

このように教えられますと、私たちは 「病気は無いんですよ」 と
ハッキリどんな時でも言えるようになります。


生長の家が発祥した当時、私たちの先輩が 「病気は無いのですよ」 と宣言して、
いたるところで奇蹟が起ったということは、それが真理であるからです。

私たちは先輩のあとをついで、生長の家の根本真理をハッキリと宣言して、
多くの人びとを悪夢からさましてあげる必要があります。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html
08/26/13

          <感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>

「病無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:25:36


        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より抜粋

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを
預言されたが、間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」

と答えたとある。

          <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

病的観念を投影すれば、病体となり、健康の観念を投影すれば健康体となる - 伝統

2020/08/09 (Sun) 03:29:08


        *『 生長の家 』(昭和26年6月2日の法語)より
          ~ 物質は観念の影である

人間を物質的存在だと思っている限りにおいて、
人間は恐怖心を捨てることは出来ない。

人間の物質的有限観がまた争いを起す原因となる。

そこで不調和を心から投げ捨ててしまうためには、
人間の有限観をすてなければならない。

人間を「 霊的実在 」だと知らなければならないのである。


病気と云うのは真に「 病気 」( 心の不調和 )であって「 病体 」ではないのである。

「 体 」と見えているもの、「 物質 」と見えているもの悉(ことごと)く、

「 空間に投影されたる観念の綾(あや)、これを称して物質と云う 」(「甘露の法雨」)


であるから、病的観念を投影すれば、病体となってあらわれ、
健康の観念を投影すれば健康体となってあらわれるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

          <感謝合掌 令和2年8月9日 頓首再拝>

症状は生命の活動、症状に感謝せよ! - 伝統

2020/08/22 (Sat) 04:30:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月22日)より

症状が生命の活動であって死の活動でないのは、死んだら症状が無くなるので明らかである。
発熱や喀血や下痢や咳嗽(せき)を病気の活動だと思うのは明らかに錯覚である。

いわゆるわれわれが「病気」だと思っているこれらのごとき症状は、生活環境に抵抗または
対応せんとする内部生命の活動の顕われであって、「病気」そのものではないのである。

されば賢者は症状に感謝し、発熱や喀血や下痢や咳嗽が起こるごとに、内部生命の、
かほどまでにして自分を生かそうとしている努力に感謝するのである。

      <感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>

霊は病まず - 伝統

2020/11/01 (Sun) 04:25:53


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

      <感謝合掌 令和2年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2020/11/02 (Mon) 04:39:53


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。
それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

      <感謝合掌 令和2年11月2日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2020/11/13 (Fri) 04:56:34


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

      <感謝合掌 令和2年11月13日 頓首再拝>

無い心から生じた病気も無と知る - 伝統

2020/11/15 (Sun) 04:46:45


     *「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。
                       (『生命の實相』第一巻)】


南岳禅師、嘗て病気をしたときに、
自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。

以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
 業と云うものは何処から起る、妄(まよい)から起る。

 それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。
 其業を作る所から病気が起って来る。

 病気は元(も)と業だ。業は元(も)と妄(まよい)だ、
 妄の源(みなもと)は心だ。

 サア心と云うものは何だ。心は無生(むしょう)としてある。
 其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
 全体姿形のあるものでない。

 そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、
 病は平癒したと云う事がある。
 病を根底から直した。

 それで自分の病気は心から妄となり、
 妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、心も無と知り、
無いものから生じた病気も無と知り、大安心に達したとき
自然療能力で病気が治るのは今更(いまさら)始まったことではない。

          <感謝合掌 令和2年11月15日 頓首再拝>

現象は“呼声の響”の如し、病気は「呼声の響」 - 伝統

2020/11/26 (Thu) 04:48:22


        *「精神科学」(昭和45年7月号)
          ~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部

《現象は“呼声の響”の如し》

それを『呼声の響』というように、維摩経では譬えています。
(『維摩経解釈』二八四頁参照)

“呼声”とあるのは、“呼”というのは“呼ぶ”こと、“声”は声です。

呼声の響が、恰も第三者として向うにあるが如く、こう返って来る。
併し向うには人は居ないのです。

山の一角に立って、谷を越えて彼方へ対して「オーイ」というと、
「オーイ」とまた返って来る。

それは、自分が呼んでその呼び声が返って来ているに過ぎないのに、
向こうに人が居ってそして此方へ「オーイ」と呼んでるのかと、
逆さまに思うのが迷いである。

それと同じように、自分の歪んだ念や曇った影が映って、
そしてその歪んだ姿の曇った影が病気として現れているのを、
自分の心が映って現われているんだと思わないで、

本当にそれが、病気があるんだと、
こう言うように逆さまに思っているのが、
「呼声の響」であるんです。
                  

《水の飛沫の如く、水上の泡の如く》   

そのことを『維摩経解釈』二八四頁三行目以下には
次のように説明されています。

「それは呼ぶ聲の反響(こだま)みたいなものなのです。
こちらの心で念を起すから、その念のひびきの反響がきこえると、
それはこちらの聲の反映でしかないのに、それを客観的實在だなどと思う。

すべて不完全なものはないのであって、それは空中の雲の如く、
水の飛沫のかたまりのやうに、水上の泡のやうに一時的なあらはれであって
實在ではない。

實在でないから消えるのであって、消えるものに執着して
自分の心の惱みで病氣を起してゐるなんて實に氣の毒なものなのです。

病氣なんて、そんなものは實在しない。
人間は本来本法性(もとほっしょう)であって、
法性は金剛不壊であります。


《本来本法性ということ》     

“法性”というのは“実相”と同じような意味です。
法は真理、“真理の本性”が法性です。

人間は本来”真理そのもの”である――というのが“本来本法性”であって、
法性は金剛不壊、真理は金剛不壊であって、
人間の本来の実相たる法性は壞けるものでもなければ、
どんなものにも制約されたり、束縛されたりするものではない。

時間空間を絶した本当の自由自在の世界に
吾々の実相は生きているのであります。

その自由自在のものが”顛倒妄想”即ち“逆さまの夢”によって
自由自在を失って時間空間に縛られた肉体人間が此処にあるある
と思っている、

それが既に”心の病気“であり、それが時間空間面に映って
肉体の病気としてあらわれる訳であります。

http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7973672 )

      <感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝>

“迷い”で病気にかかっている - 伝統

2020/12/10 (Thu) 02:51:17


        *「精神科学」(昭和45年7月号)
          ~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部

“敵は本来ない“ということ

病気の人は、その肉体を治そうとするより先に、
『無い』ものをハッキリ『無い』と知って執着を外す事なのです。

『敵がある』『あいつがこんな事をしやがった』と思って腹を立てたり
しているけれども、そんな”敵”と見える者は、
神さまのお造りになった世界にはないのです。

“ない”のに“ある”ように見えるのは“心”という妖術師が、
感覚という手品の種を使ってあらわしている“幻の人間”に過ぎないのです。  

 
維摩経には、現象は、外見には堅固な事実のように見えていても、
本当は、中はカラッポだということを芭蕉に譬えて説明しているのであります。

芭蕉の木は、一見堅く立っているところの大樹のように見えているけれども、
幹の中は空っぽで、大風でも来たら直ちに折れてしまうのが芭蕉であります。

 
或いはまた、現象の非存在で常住性のない事を、
維摩経では稲妻に譬えています。
稲妻はパッと煌いたと思ったら、すぐ消えてしまうのである。


人間界の現象的存在も、そんなものは瞬時にして消えてしまうのであって、
それを”永遠の存在”だと思ってこう掴んでいるのが、
病気のもとであるのであります。

(中略)

《衆生病むが故にわれ病む》

ところで、維摩居士のように悟りをひらいた聖者が何故病気に
かかったりするのであるかと****菩薩が維摩にたずねると、
「菩薩の病は大悲より生ず。衆生病むが故に我れ病む」と答えている。

維摩のような覚者になると、自分の心の迷いで病気になるのではない。

わが身体を世界の鏡として、衆生即ちすべての人類の心の病を
維摩自身の体に振替えてあらわして見せて、病気見舞いに来る人たちに
病気の原理を説明するために病気を仮りに顕わしているというのであります。

これが、維摩が「衆生病むが故にわれ病む」の意義であります。

http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7973672

      <感謝合掌 令和2年12月10日 頓首再拝>

霊的尊厳の自覚の欠乏が、あらゆる病気の原因となっている - 伝統

2021/01/08 (Fri) 04:23:03


        *「人間無病の原理」(P10~13)より
          『生命の實相』新修版第一巻より再録

神の「智慧」、神の「生命力」、神の「癒す力」以外のものに
頼ろうとする心は、それは宗教的ではないのである。

(無論医療を行っても神の智慧に導かれてその医療が行われるならば
宗教的である)精神療法も、心霊療法も、それが、人間神の子の
自主独立の自覚を失わしめ、神以外の他人又は他物に頼らねば
生きることが出来ないと思わしめられるような姿で行われるとき、

それらの療法で一時病気が治ると云うことは、
自己内在の神の自覚を進める上からはマイナスだと
云わなければならないのである。

人間は肉体が一時なおってもやがて肉体は死すべきものであるから、
一時的の功利で、自主独立の人間神の子の自覚を失わしめるようなこと
になると、大変な損失になるのである。

物質的方法や、いかがわしい呪術的施法によって病気が治るなどの事は、
人間尊厳の自覚を、物質と暗示のまえに降伏せしめてしまったことになる。

 
キリストは「我を信ずるものは永遠に死なず」と云ったのである。
この「我」と云うのは二千年前ユダヤ人として生まれた
肉体イエスのことではないのである。

「自覚されたる我」すなわち「内在神性」の無限性を信ずる者は
永遠に死なないと云う意味である。

宗教の目的とするところは、
やがて死ぬ肉体を一時的のみに癒すと云うことではない。
「永遠不死の自己」を再発見せしめることであらねばならない。

この「永遠不死の自己」の再発見に伴う附随現象として、
肉体の病気も治るのである。

大体、宗教家のところへ来て「肉体の病気を治してくれ」
と云うのも間違いであるし、
又、宗教家が「それではお前の病気を治してやろう」と云うのも変な話である。

キリストは「汝の生命について思い煩うことなかれ」と教えているのである。

「肉体のことについて思い煩うな。」
「何を食らい、何を飲まんと思い煩うことなかれ」
これが宗教であらねばならない。

「地上の生命(いのち)のことについて思い煩うな。」
このイエスの教えをそのままに受け入れたとき、念が解放されるのである。

念の解放によって「念の凝り固まり」によって起こっていた病気が消える。
治そうと思うものは、却って治らず、治そうと云う心さえも放ち去って
心が自在になったとき病気が《ない》のである。

人間は単なる「物質的存在」だと考えたり、
物質の中に心と霊とが宿っていると云う考え方は
人間の霊性の絶対尊厳を自覚しないことを暴露しているのである。

その霊的尊厳の自覚の欠乏が、あらゆる病気の原因となっているのである。

      <感謝合掌 令和3年1月8日 頓首再拝>

「病は本来ない」「悪は本来存在しない」 - 伝統

2021/01/22 (Fri) 03:11:10


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知ることである。

         <感謝合掌 令和3年1月22日 頓首再拝>

心朗かなれば病はない。 - 伝統

2021/01/29 (Fri) 03:35:59


       *「光明道中記」(1月29日《心朗かなる日》)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
                    (『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

          <感謝合掌 令和3年1月29日 頓首再拝>

「病気がある」という観念が「病気」を作る - 伝統

2021/02/18 (Thu) 05:01:12


       *「人間無病の原理」(P45~47)より

科学が進歩して、薬剤が進歩すればする程病気は増えてくるのである。

それは何故であるかと云うと、
「病気がアル、アル、アル、アル」と思って研究を重ねて行ったら、
薬剤も出来るけれど、

「病気がアル、アル、アル」という念も矢張り積み重ねられて行くから、
プラス、マイナス同じ事になります。

心で病気をつくりながら薬剤でそれを消す。
病気と薬剤とが競争しているのであります。

そうして結局インフルエンザでも今までA型B型のヴィールスと
いうようなものが発見されて居ったが、
今年流行(はや)る奴はA型でもB型でもない、
新種が出来たと云う訳であって、

あのヴイールスみたいな簡単な生物は、
人間の精神波動によって新種がつくり出されるのであります。

濾過性病源体たるヴィールスなんていうものは、
鉱物と植物との合(あい)の子みたいなもので、
その純粋結晶さえ作られている。

そういうものでさえも、あれには個性がある。
A型とB型とは違う。

それが徐々に変化してC型というようなものが出来るのかと云うと、
そうではないのであって、「特殊の型」が突然出て来るのであって、
「突然変異」であります。

環境に適応するために徐々に変化するという
昔の進化論などは間違いであって、
突発的に新種がつくられるのです。

あれが徐々にに進化して、A型B型のヴィールスが
新種のヴィールスに進化したのなら、
A型B型のヴィールスの予防のヴィールスの豫坊接種をしたら、
今度の新種のヴィールスにも、それが効く筈なのだけれど、

そうではないのであって、全然新型が出来ている。

即ち精神波動によって新しい「精神原型」がつくられて、
その「精神原型」にしたがって新らしき分子構造のヴィールスが
出来るのであります。


それと同じように人間が人間として生れて来るのも、
「猿」が徐々に進歩して『猿』となり、
ついに人間に進化して来たのではないのであって、

「人間」というのは新型の「理念」(精神原型)が天降って来て
人間が出来たのであります。

そう云う訳で「人間は人間である」決して猿の延長ではないのであります。

だから人間は、「猿」の肉を食っても、牛の肉を食っても
みんな「人間」になってしまうのであります。

ところで、病気というのは、
そういう「人類意識」が催眠術家になって、
吾々人間に催眠術をかけて

「お前は病気になるぞ」と暗示が感応して、
吾々は時々病気をあらわすのであります。


だから決して神様が病気を作るのではないのである
ということを知らなければならないのであります。

          <感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>

病気は非実在 - 伝統

2021/03/06 (Sat) 04:53:06


       *「生命の實相」第3巻生命篇上(P190~193)より

神のみ実在であり給い、神は生命でありますから生命のみ実在であり、
「生命の虚」は換言すれば非実在でなけれぱならない、
したがって生命の虚なるところの病気は非実在でなければならないのであります。

実在するということはそこに神があるということであります。
神がなければそこになに物も存在しえない。

いやしくもわれわれ自身が存在するならば、その存在するものは神である、
その存在するわれわれは神である。

神以外になに物かが存在するという二元論は、
神に対する一大不敬の論であります。

キリスト教でも、神に対立する悪魔の存在をみとめれば、
神に対する一大不敬を冒(おか)しているのであります。

本当の正しい信仰は神以外になに物も存在しない
というー大信念でなければならないのであります。

このようにわれわれは「人間は神である」という。
人間が神であるといっても、
心霊学者のいうような明神(みょうじん)であるとか、
水神(すいじん)であるとかそういう個別的な神霊
―したがって相対的な存在であるところの
個々別々の霊のことをいうのではない、


神と交通するといえば、そういう個々別々な霊魂と交通することだ
と思うようにして、人間は宇宙最高の神、絶対的な円満完全な神とは
感応交通できるものでないと誤解されやすいようにしたのは、
霊媒を使って研究する近代心霊学のー大蹉跌(さてつ)であります。

絶対的な、唯一完全なる神は、それが絶対的であるがゆえに、
われわれの内に遍満し、われわれはその神の内に存在を有し、
われわれはこの神に対して心を開くと神の生命の流れが、
現実世界に流れ込んで来るこの心を開くというのはどうするかといいますと、

念のフイルムを陰のないものにする、
明るい像のフィルムをかけて映写機械を回転すれば、
舞台のスクリーンに明るい活動写真が映るのと同じように、

心に思い浮かべる念を明るいものとすれば、
この現実世界が明るくなるのは、前にも述べたとおりであります。

それでは心が明るくなるにはどうしたらよいか、
それはつとめて笑うようにするだけでも心が明るくなる。

けれども本当に根本的に心が明るくなるには、
人間本来、神の子なりという真理を知ることと、
人間本来「神の子」なる事実を生きる

―すなわち愛を実際の生活にあらわすこととが第ーであって。

感覚的方面から明るくたもってゆこうとする方法は、
時には効果を現わすこともあれば、時には失敗することもあります。


笑うということでも、踊るということでも、
心が本当にわれ神の子なりとの自覚にはいって笑えてくる、
ひとりでに手の舞い足の踏むところを知らなくなってくる
というような笑いであり踊りでなければ本当ではないのであります。


しかし、人間本来神の子の真理をきいたけれども、
形の世界で固くるしく表情が固まっている習慣があるような人には
まず笑うと効果があるのであります。


笑ったために病気の治ったという「生長の家」家族は随分多いのであります。


前章に述べました大阪支部の中畑さんヘ紹介されて来た六十四、五歳の
お婆さんのことを申しますと、このお婆さんは子宮筋腫で下腹に塊りができて
それがだんだん大きくなってきた。

医者に見てもらえば、不治であるというのであります。
われわれにいわせれば不治ではない、
腹の中に塊りができているのは陰気が凝っているのであるから
笑うようにしなさいといって、

毎日つとめて笑わわすようにしたところが、
だんだんその筋腫が小さくなって治ってしまったという話は
かって書いたとおりであります。


われわれの本来相といおうか、実在相といおうか、それはすでに救われている。

すでに健康ある、すでに幸福である―はじめから救われているのですから、
救われるも救われぬもない、はじめから円満完全自由実在な神の子であり、
神そのものである。

だからわれわれはその本来相をどうするとか、
どうせぬとかいうことは問題にはならない。

われわれにとって問題となるのは、その本来相がいかにして
現象世界に映ってくるかということであります。

しかし、それも別にむずかしい問題ではない、
円満完全なる親なる神と自分が繋っている、
無限生命なる神と自分が結ばれている、
無限知恵なる神とわれわれ自身が一体である、

無限力量の神とわれわれ自身がー体であるということを
自覚した程度にしたがって現象世界のわれわれに与えられる
―すなわち顕われてくる生命と知恵と力量とがいろいろ相異してくるのであります。

          <感謝合掌 令和3年3月6日 頓首再拝>

実相人間は物質や黴菌に害されぬ - 伝統

2021/03/12 (Fri) 02:16:37


      *『幸福を招く365章』(P251)より

真に健康を得ようとするならば、物質が人間を支配し得る、
徽菌が人間を支配し得ると云うような考えを
絶対的に克服しなければならないのである。

実相に於ては、人間は霊的存在であるから
物質に支配されることはないのである。
 
実相に於ては人間は万物の霊長であるから
黴菌に支配されると云うことはないのである。

実相に珍ては『甘露の法雨』にあるように
「一切の生物処を得て争うものなく相食むものなく」
互に害する状態は存在しないが故に黴菌に冒されると云うこともないのである。

「絶対そんなことは《ない》。《ない》。《ない》。神の子の勝利だ」

と三万遍繰返して思念せよ。 

          <感謝合掌 令和3年3月12日 頓首再拝>

「本当の人間」は決して病んではいない - 伝統

2021/04/10 (Sat) 04:58:10


           *「光明道中記」(4月10日)より
            ~幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。(『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。
併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを
物質的に、三次元的に翻訳して視ているのであるが、
半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、平面的存在の如く写真に写されて
いるからとて、その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば其処に映し出された写真に
映像ムラが出来たり、ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)
された場合に不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

          <感謝合掌 令和3年4月10日 頓首再拝>

「ケガ」はあるが「病気」はない! - 伝統

2021/05/02 (Sun) 04:39:47

医師も知らない驚愕の真実「ケガ」はあるが「病気」はない!
よしりんとチョーさんの人生健康サロン(2021/03/13)

https://www.youtube.com/watch?v=UYcw4Tc53qE

(1)病気とかはない。
   ケガはある。

(2)健康な状態~免疫力が高い状態の人には、
   日常的な生活では、如何なる病気もうつらない。

(3)病気になるのは何故か?

  ①人間(生命体)がいて、免疫と病原体がいて、
   免疫と病原体でどちらが勝ったか?
   だけではなくて、

   真ん中にテコになる”リスク因子”がある。

  ②このリスク因子は今で言うならば、
   食品添加物、農薬、代用甘味料、とかがある。

   元々のリスク因子は月の引力。太陽の黒点とか
   気温が高いか低いかなど。

  ③気温や太陽な月とかは、
   自分でコントロールできない。

   自分でコントロールできるのは、唯一感情。

  ④全ての病気で最初に影響するのは感情。

   メタトロンで調べると、感情がどのぐらい影響を
   しているかがわかる。

   月の引力・太陽の黒点・木星の位置がどれくらいに
   影響をしているかがわかる。

  ⑤次にくるのが”ホルモン系”なのです。
   なぜかと言うと月の引力などは全て
   ”量子物理学的エネルギー”

   月の引力による磁場、太陽の黒点による磁場がかかっている。

   月の引力や太陽の黒点の磁場によって、
   我々の心が変わったり病気になったりする。

   これは量子物理学的エネルギーは避けようがない。

   ところがそれをいとも簡単に変えてしまうのが”感情”。

   ”感情を整える事”が病気にならないという事。

  ⑥だから抗生物質を使う、抗ウイルス薬を使う、
   ワクチンを使う なんて大間違い。

  ⑦われわれは、免疫力を持っている。
   これを下げる物が食品添加物だったり、喧嘩、電子レンジ、
   P-FOS、砂糖。

  ⑧結局は、その人の考えや意志で病気になっている。

          <感謝合掌 令和3年5月2日 頓首再拝>

心が自由になったとき、その人にとって病気は《ない》 - 伝統

2021/07/08 (Thu) 05:06:21


          *「光明道中記」(7月8日)より
           ~心の滞(とどこお)り消える日

【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。(「生命の實相」第七巻)】 


心を滞らせた状態が「迷い」であるから、
心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。

自分で勝手に肩に力を入れて
「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。
肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。

病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。

二祖慧可は斯うして、悩む心もない、迷う心もない
という第一義的真理を悟ったのであるが、

三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、
僧璨(そうさん)は風疾(ふうしつ)を患っていた。
風疾とはリュウマチのことである。

慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――

「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。
 病気の者は医者に行くが好い」

「身は病気でございましても、
 病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)はこう言ったので、
天分を認められて慧可の弟子となることが出来たのである。

併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。

・・・

<参照>第三祖~僧璨

谷口雅春先生に帰りましょう・第二
『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」
   http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=41
    2016年01月11日~2016年01月13日

            <感謝合掌 令和3年7月8日 頓首再拝>

罪業無の自覚で病は癒える - 伝統

2021/07/09 (Fri) 06:31:00


          *「光明道中記」(7月9日)より
           ~病人に真理を語れば病い消ゆる日

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは清浄心のこと、本心のこと、
仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気がある
としか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、
「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。
 滅罪の法をして進ぜよう」
と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。
「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

            <感謝合掌 令和3年7月9日 頓首再拝>

「病い無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! - 伝統

2021/07/21 (Wed) 04:56:34


        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、瓦を研いても鏡にならないとしたならば
一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを
預言されたが、間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」と答えたとある。

            <感謝合掌 令和3年7月21日 頓首再拝>

症状は生命の活動の顕われ - 伝統

2021/08/22 (Sun) 05:02:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月22日)より

症状が生命の活動であって死の活動でないのは、
死んだら症状が無くなるので明らかである。

発熱や喀血や下痢や咳嗽(せき)を病気の活動だ
と思うのは明らかに錯覚である。

いわゆるわれわれが「病気」だと思っているこれらのごとき症状は、
生活環境に抵抗または対応せんとする内部生命の活動の顕われであって、
「病気」そのものではないのである。

されば賢者は症状に感謝し、発熱や喀血や下痢や咳嗽が起こるごとに、
内部生命の、かほどまでにして自分を生かそうとしている努力に感謝するのである。

      <感謝合掌 令和3年8月22日 頓首再拝>

ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2021/10/23 (Sat) 04:57:42


       *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》)より

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                     (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、
結局その念の支持力によって病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」とハッキリ「無し」と「有り」とを
裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

      <感謝合掌 令和3年10月23日 頓首再拝>

霊は病まず - 伝統

2021/11/01 (Mon) 04:22:12


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

      <感謝合掌 令和3年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2021/11/02 (Tue) 04:35:38


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。
それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

      <感謝合掌 令和3年11月2日 頓首再拝>

病気の形を思い浮かべるな - 伝統

2021/11/04 (Thu) 04:59:01


       *「光明法語」(11月4日の法語)より

ヘンリー・ヴィクトリー・モルガン氏が指摘したように、
或る夫人は自分の少数の白髪(しらが)が出来かかったのを
「白髪は無くなる、白髪は無くなる」と毎日思念し続けた結果、
1ヵ月後には全頭が真白(まっしろ)になって
「思念の力もクソもあるか」と大いに憤慨したそうであるが、

「白髪がなくなる」と念ずる事は
「白髪は今ある」と念ずる事を言換えたもので、
毎日「白髪」を思い起こさせる事になるのである。

総(すべ)て、病気の形や状態について、それを論議し、
思い浮かべる必要はないのである。

      <感謝合掌 令和3年11月4日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2021/11/13 (Sat) 03:12:18


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

      <感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>

心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知る - 伝統

2021/11/15 (Mon) 04:50:31


   *「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。
                     (『生命の實相』第一巻)】

南岳禅師、嘗て病気をしたときに、
自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。

以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、
生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
 業と云うものは何処から起る、
 妄(まよい)から起る。
 それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。

 其業を作る所から病気が起って来る。

 病気は元(も)と業だ。
 業は元(も)と妄(まよい)だ、
 妄の源(みなもと)は心だ。

 サア心と云うものは何だ。
 心は無生(むしょう)としてある。
 其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
 全体姿形のあるものでない。

 そんならば此病は何(いず)れの所より来る
 と観念する時、病は平癒したと云う事がある。
 病を根底から直した。
 それで自分の病気は心から妄となり、
 妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、
大安心に達したとき自然療能力で病気が治るのは
今更(いまさら)始まったことではない。

        <感謝合掌 令和3年11月15日 頓首再拝>

「病は本来ない」「悪は本来存在しない」 - 伝統

2022/01/22 (Sat) 04:49:12


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知ることである。

         <感謝合掌 令和4年1月22日 頓首再拝>

”変化“の中に“不変”なるものがある - 伝統

2022/02/26 (Sat) 04:57:58


       *「人生の秘訣を語る」より
        ~昭和45年3月2日午後、
         『人生を見つめて』をテキストとしての講義

「それは陳(ふる)きものを謝(さ)らしめて新しきものをもってそれに代らしめる。
 陳きものに固執してはならないのである。肉体の細胞も常に変わる。

 代謝の激しい皮膚の如きは数日にして新しくなり、普通の部分は
 三、四年にして完全に新しきものと取り替わる。・・・・・・」

これは、肉体の細胞の事であります。
大体、人体の細胞は殆どもう十五年もすると、
殆ど全部かわってしまうのであります。

骨や歯のような硬いものはいつまでも陶器や磁器のようにガッチリしとって
かわらないかというと、それでさえも、常に古い細胞が送り出されて
新しいものとかわりつつあるのが実相であります。


それをテキストは、こう書いている。――

「十数年のうちにはその内部成分は(骨や歯でも悉く)
 完全に新しきものと置きかわるのである。置きかわりながら
 外見は同じ形態又は容貌をあらわしているのである」

変化しながら不変のものがある。
”変化”と”不変”とが不二なのであります。

指紋のあるこの指先の皮膚でも、常に摩擦してちびているんです。

穿いている手袋だったら、必ず手袋は孔があくんですけれども、
この、手の皮膚は、孔があかないで、摩擦でちびるだけ、
中から、始終新しいものが出て来る。

新しいものが出て来るから別の指紋になるかというと、元のままの指紋である。
常に変化しながら同じである。
変化しながら不動である。

それは何故であるかというと、その内部に“不動の理念”がある。

『人生を見つめて』には、そのことを
「内部理念が常住にあるからである」と説明されています。

私の肉体でも段々、年老いて白髪が殖え皴が殖える。

常住の変化でありながら、変らない「谷口」が此処にある。

変化しながら不変なのであります。
”変化”即”不変”であります。

肉体は始終こうして変っておりますから却って有難いのであります。


今病気をしておってもその病気の細胞を、いつでもこれを変化せしめて、
健康の細胞に転ぜしめることが自由にできるのであります。

常にかわっている吾々の肉体はちょうど壁を塗り替えるようなものなのです。

壁がボロボロになったとて、新しい壁土を持って来てズーッと塗れば
たちまち新しい壁になってしまう。

それを塗り替える力が吾々の生命の中にある。

生命というものは、常住であって、動かないようだけれども、
常に動いている。

谷口には谷口という“不動の理念”があって、
常に健全な谷口の姿に還元するようになっているんです。

皆さんも矢張りそうであります。

 で、古い指紋の皮膚が摩擦して消えてしまっても、
やがてまた谷口の指紋そのものがでてくるというのは、
その奥に、谷口独特の指紋が描く“理念”があるからであります。


http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7993594
道産子さま投稿記事
2020/08/20 (Thu) 07:49:27
~2020/08/22 (Sat) 08:36:07

          <感謝合掌 令和4年2月26日 頓首再拝>

病気本来無し - 伝統

2022/07/22 (Fri) 07:39:58

        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死〇ばその病気は治っている。
                       (『生命の實相』第八巻)】

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 令和4年7月22日 頓首再拝>

病気は心の影 - 伝統

2022/10/07 (Fri) 08:29:10


        *「光明法語(10月7日)」より

病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。

その病気を「自分の心の影」だと見よ。
神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる「心の影」として
不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。

そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 令和4年10月7日 頓首再拝>

霊は病まず - 伝統

2022/11/01 (Tue) 08:38:09


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは
想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。

それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、
病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

       <感謝合掌 令和4年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2022/11/02 (Wed) 08:09:52


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。

それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって
覚めて見れば何もない。

       <感謝合掌 令和4年11月2日 頓首再拝>

病気の念を捨て、神の子であることを讃美せよ - 伝統

2022/11/03 (Thu) 07:22:27


   *「光明法語」(11月3日の法語《神の子の美を讃美せよ》)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

      <感謝合掌 令和4年11月3日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2022/11/13 (Sun) 07:52:36


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

      <感謝合掌 令和4年11月13日 頓首再拝>

「病は本来ない」 - 伝統

2023/01/22 (Sun) 07:26:55


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、
不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、

肉体は心の反映であるから、
「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知る
ことである。

         <感謝合掌 令和5年1月22日 頓首再拝>

心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》 - 伝統

2023/07/08 (Sat) 05:06:59


          *「光明道中記」(7月8日)より
           ~心の滞(とどこお)り消える日

【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。
                 (「生命の實相」第七巻)】 


心を滞らせた状態が「迷い」であるから、
心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。

自分で勝手に肩に力を入れて
「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。

肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。

病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。

二祖慧可は斯うして、
悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。

慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――

「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。
 病気の者は医者に行くが好い」

「身は病気でございましても、
 病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)はこう言ったので、
天分を認められて慧可の弟子となることが出来たのである。

併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。

            <感謝合掌 令和5年7月8日 頓首再拝>

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