伝統板・第二

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罪本来なしの自覚 ② - 伝統

2020/07/17 (Fri) 06:28:24

      *伝統板・第二「罪本来なしの自覚」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7194237


本来清浄

        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。(『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 と言った。

千人の弟子のなかでは神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


  身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
   時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、神秀上座をひそかに招(よ)んで、
尚その本来塵埃なく、本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


   菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
       本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。
師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、汝こそ第六代の祖師となる資格が
あると、法衣を譲って、夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

           <感謝合掌 令和2年7月17日 頓首再拝>

《罪を消すのは愛行にある》 - 伝統

2020/08/26 (Wed) 04:48:09


       *『 生長の家 』(昭和25年1月30日の法語)より 

   罪はないということは、易(たやす)く いい得るけれども、
   真に罪のない世界に飛躍するには 余程の修行がいるのであって、
   ほんの一冊 本を読んで「 罪はない 」 と知っただけで、
   罪なき世界に出られたと思ったら思い上りだ。

   原因は 必ず結果を生む、結果なしに終るということはない。
   無論 原因を消してしまうことにすれば 結果も消える。

   人を憎んだ業をつんだものは、人を愛することによって消える。

   然(しか)し愛さずに、
   憎んでいながら 「 罪はない 」 と考えるだけでは
   観念の空廻(からまわ)りにすぎない。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/39f9e5321379ad5554b19395f7e7b125

           <感謝合掌 令和2年8月26日 頓首再拝>

罪なし、との人間観に転ずる - 伝統

2020/10/14 (Wed) 05:00:29


    *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)」より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは

「人間は罪を犯すように出来ていない。
 善いことしか出来ないように出来ている」と、

人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

           <感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝>

罪本来無きが故に、罪はおのずから捨離せられる - 伝統

2021/02/04 (Thu) 04:56:27


          *「光明道中記」(2月4日《腹の立たぬ日》)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、
その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、
罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 令和3年2月4日 頓首再拝>

罪の消える原理 - 伝統

2021/02/23 (Tue) 02:35:25


        *「生命の實相」第25巻教育実践編上(P229)より

キリストは「汝の罪ゆるされたり、起ちて床をとりて歩め」といわれた。
罪がゆるされた、もう罪はないと知った時、
すべての不幸はこの地上から姿を消してしまうのであります。

この「罪を消す」ということは、
お前は罪悪があるけれどもまあ赦してやるぞ、ということではないのであります。

罪それ自身を消してしまうこと、これが罪をユルスということなのだ。

罪をユルスの「ユルス」は釈放の「釈(しゃく)」の字であって、
「釈(と)く」ということである。

つまり、われわれの実相(じっそう)のキリストの完全な姿を
罪という「包(つつ)み」でつつんでしまっている。
その風呂敷《包み》を釈(と)きほどいてしまうことであるのだ。

そうするとこれまで中につつみ匿(かく)されていた
ダイヤモンドのごとく光り輝くわれわれの神性(しんせい)、内在のキリスト、
または仏性(ぶっしょう)が自然と現われてくる

―― これが罪の釈(ゆる)された状態なのであります。

罪を釈(ゆる)すとは、罪があるけれども勘弁してやるということではない。

罪があるがごとく心を迷いで縛っていたから、その迷いの《縛り》を
言葉の響きによって釈(と)いてしまって本来の自由自在の姿を現わすということ、
包みを釈(と)くということ、包みを解脱せしめるということなのです。

ここに到ってキリスト教の罪の釈(ゆる)しということと、
仏教における解脱ということとはまったく同じことになるのであります。

           <感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>

罪の消える原理 - 伝統

2021/03/16 (Tue) 02:05:07


      *「生命の實相」第25巻教育実践編上(P227~231)より

真理は真理を呼ぶ。
仏性は仏性を呼ぶ、
一人よくなれば家庭全体がよくなってくるのです。

真理を知ることによって、内に現われてきた極楽を他(た)の人に話すと、
その人にも極楽世界が現われてくるというふうに、
極楽の状態を言葉によって表現してゆくとたやすく
われわれの世界に地上天国をきたらせることができるのであります。

しかし直接講演や対談によって人々を光明化するのではしれている。
いくら人を集めたところで、今日(きょう)のように千五百人とか二千人とか
いうふうに人数を制限されてしまいますから、
それだけではなかなか全人類の光明化をきたすことができません。

印刷を応用して真理の言葉を文字にして、
書物という速射砲の弾丸にし一度にたくさんの真理の言葉を連発して
人に読ませるということにしたならば、

読む人はたちまちにして無限の力を得て、
自分の内に宿る天国浄土が現われ、家庭が極楽になり、病人は治り、
磔刑にされていたキリストが十字架から降りて自由を得、
死んだ人ばかりを救っていた阿弥陀仏が各人の生きた魂の中に現われ出る。

この時すべての人々が成仏して、
ここに地上天国、指方立相の浄土が湧き出でるのであります。

浄土湧出、キリスト再臨とは
各人の心の内に地上天国をきたらせることでありまして、

一人のキリストが空中高く現われて、善人のみを救いとって、
悪人をゲヘナの火に投げ込んで焼き滅ぼしてしまうという、
ホーリネス教会の信仰みたいなものではないのであります。

世の中の人類一人一人の中にキリストが生き
人類全部が生けるキリストになることこそ、
ほんとのキリスト再臨なのであります。

皆さん、わたしの申しましたこと、
また本に書いてあることを取り次いでそのまま、
人に伝えてくだされば、杵屋さんや、服部先生のように
人の病気を治すことができるようになるのであります。

聖書に書いてあるようなキリストの奇跡のまねが
皆さんにもできるようになるのです。

いえ、まねではありません。
皆さん自身の中に十字架に磔はりつけられていたキリストが復活して来るから、
皆様自身がキリストになれるのであります。

キリストは「汝の罪ゆるされたり、起ちて床をとりて歩め」といわれた。
罪がゆるされた、もう罪はないと知った時、
すべての不幸はこの地上から姿を消してしまうのであります。

この「罪を消す」ということは、
お前は罪悪があるけれどもまあ赦してやるぞ、
ということではないのであります。

罪それ自身を消してしまうこと、これが罪をユルスということなのだ。
罪をユルスの「ユルス」は釈放の「釈(しゃく)」の字であって、
「釈(と)く」ということである。

つまり、われわれの実相のキリストの完全な姿を
罪という「包み」でつつんでしまっている。
その風呂敷《包み》を釈(と)きほどいてしまうことであるのだ。

そうするとこれまで中につつみ匿(かく)されていた
ダイヤモンドのごとく光り輝くわれわれの神性、内在のキリスト、
または仏性が自然と現われてくる

―― これが罪の釈(ゆる)された状態なのであります。

罪を釈(ゆる)すとは、罪があるけれども勘弁してやるということではない。
罪があるがごとく心を迷いで縛っていたから、その迷いの《縛り》を
言葉の響きによって釈(と)いてしまって本来の自由自在の姿を現わすということ、
包みを釈(と)くということ、包みを解脱せしめるということなのです。

ここに到ってキリスト教の罪の釈(ゆる)しということと、
仏教における解脱ということとはまったく同じことになるのであります。


さて終わりに、先刻も話しました杵屋さんの話でありますが、
この杵屋さんのお母さんは十八の時に何か神様に願がけをして、柿だちをされた。

つまり「柿を一生涯たべません」と言って願をかけられたのでありました。

ところが杵屋さんが「生長の家」に入られて
『生命の實相』などを読んでいられるうちに

「神様は人間に食べさせるために
 すべての食物をこの世に顕わしたまうたのであって、
 それを人間が勝手に願がけなどして、断つということはかえって
 神様の恵みを受けないことになる」

と思いつかれまして、ある日、
無理矢理にいやがるお母さんに柿を食べさせてしまわれたそうです。

するとその翌朝いくらたってもお母さんが起きてこられないので
杵屋さんがいって見られると、お母さんはお腹が痛むし、胸は悪いし、
そればかりか、全身痛くてとても起きられないのです。

「これはわたしが十八の時から願がけして断ってきた柿を
 おまえが無理にわたしに食べさしたからきっと神さまの罰が当たったのだ」

といってお母さんはうんうん呻っておられるのです。

そこで、杵屋さんが
「お母さん、そんな馬鹿なことがあるものですか、
 神様はほんとに愛の深い方ですから、人に罰を当てるなんてことを
 なさりっこはありません。

 それなのにあなたが自分で勝手に罰が当たると迷信しているから、
 そのあなた自身の迷信があなたの体を縛って体中を痛くしているのです。
 神様のお作りになったものに人間の毒になるようなものはありません。
 今わたしがその迷いをとってあげますから、さあお起きなさい」

といって、手をとってひき起こしてしまわれたら、
そのまま、お母さんの体の痛みは治ってしまったということであります。

これはじっさいの話でありますが、神様は罰(ばち)を当てない。
自分自身の迷信が自分を縛って自分自身に罰(ばち)を当てているのであります。

神は完全なるものであります。
その神が地上の生物を創りたまうて、
すべてのもの甚だ善しといって賞められた。

この真実がわかりますならば罰(ばち)もなければ
罰(ばち)を与えられるような罪もないことがわかるのであります。

杵屋さんのお母さんは十八の時から何十年間も柿が食べられなかった。
柿を食べたら罰(ばち)があたると思っていたために
禁を犯して柿を食べたら身体中が痛んで動けなくなってきた。

これは神罰(しんばつ)ではなく、罪の自縛であります。

それを杵屋さんの言葉で、神は罰を与えられるような残忍な方でもなければ、
神の造りたまうた柿を食べることは罪でないと悟った時、

罪の自縛が解き放されて、しぜんと汚れた風呂敷が《ほどけて》、
中から本来罪なくケガレなきダイヤモンドが輝き出たのであります。

こういうふうに自分で自分を縛っていた罪がとれてしまった時には、
人間本来の《神なるもの》《仏なるもの》が姿を現わして、
この世が天国浄土となり、

そこに住む人類の環境ことごとくが
『無量寿経』にあるような無限供給自由自在な状態になって現われてき、
天国浄土がこの地上に湧出するのであります。

キリストも神の国は汝らの心の中に在りと申しました。

心の中に、罪や罪人を罰する鬼があるあいだはその人の国土は地獄であります。

心の中に神様や仏様ばかりで罪がなく罪人がなくなったとき、
その人の国土は、三界は唯心の所現である理によって、
形の世界までも天国浄土として顕われてくるのであります 。

           <感謝合掌 令和3年3月16日 頓首再拝>

人の罪をゆるせ - 伝統

2021/03/23 (Tue) 03:53:37


           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

           <感謝合掌 令和3年3月23日 頓首再拝>

最初の「包み」(罪) - 伝統

2021/04/18 (Sun) 05:04:28

       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P80~81)より

『創世記』の第一章に説かれたる完全なる実相の霊的人間は毀れていないのに、
その第二章では人間をば、土の塵で造られた不完全なものと見ている、
これが最初の「迷い」、最初の「包み」(罪)なのであります。

なぜまよいであるかといいますと「実相」を悟らないからであります。
なぜ「罪」かといいますと、実相の上を「迷い」をもって
《ツツミ》隠しているからであります。

要するに、第一の最初の罪というのはなんであるかといいますと、
霊的実在を包み隠して、物質的存在と観、
霊的人間の実相を包み隠して物質的人間と観、
あるいは神の国を現世の次に来たる世界だと観、

吾人(ごじん)の物質的存在が終わらなければ
「神の国」へ誕生できないと観るがごとく、
「神の国」を今すでに《ある》永遠無変の世界だと悟らず、
「神なる人間」を久遠常住の存在だと悟らないことこそ
第一の最初の罪、キリスト教でいうならば「アダムの原罪」なのであります。

この原罪(第一の神性隠蔽)によって、人間をば「土の塵」 ――
すなわち「物質的肉体だ」と観じ、世界をば物質的存在だと観じ、
自己を物質的存在だと見る限り肉体は各人互いに隔(はな)れ隔(ばな)れ
のものでありますから、

そこに利己主義の萌芽(ほうが)を顕(あら)わし、
物質は一見有限のものでありますから、与えれば減るの観念を増長せしめ、
争闘、劫掠(ごうりゃく)、奪い合いを現出するにいたったのであります。

ここに

「実相の『神の子・人間』は争闘、劫掠(ごうりゃく)、
奪い合いを現にしていないのに、

現象人間は争闘、劫掠(ごうりゃく)、奪い合いを
なせる有様(ありさま)を現わしている」

というふうになってきているのであります。

           <感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>

アダムの原罪 - 伝統

2021/05/02 (Sun) 05:00:30


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P81~82)より

げに、霊なる「神の子」を肉体と見るところの
第一の神性隠蔽が「アダムの原罪」なのでありますが、

現代の滔々たる《キリスト教徒はこの「アダムの原罪」を犯しているのであります》。
キリストを肉体イエスにのみ見い出して、
「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在るなり」とイエス自身いわれた
「永遠の神性キリスト」を見ることができず、

「肉体イエス」を通さなければ人間は救われないなどと、
《「肉体」を持って「神性」に代え》、
「迷い」をもって「実相(じっそう)」に代えている
キリスト教徒のいかに多いことでありましょうぞ。

「アブラハムの生まれぬ前(さき)より、われは在(あ)るなり」と
イエス自身のいわれた「永遠の神性」をもって
われらの救いの本尊だとするとき、

その「永遠の神性」は誰にも皆自己の内面に宿っているのでありますから、
いなその「永遠の神性」のみが本当の存在であり
「本物の自分」なのでありますから、

「救い」はすでに自己の内に備わっているのでありますのに、
外にあるキリスト ―― 「肉体イエス」を通じて
初めて人間は救われると信ずるなどは誠に愚かしい考えであります。

キリスト教では形あるものを崇拝することを偶像崇拝といって、
非常に軽蔑して忌み嫌うのでありますが、

「永遠の神性」を礼拝の対象にせず、二千年前ユダヤに生まれた
肉体イエスを通さねば救われないなどと、
肉体を礼拝の対象にしているなどは、みずから忌み嫌う
偶像崇拝に陥っていることになるのであります。

こうして「永遠神性かみそのもの」に背を向け顔をそむけて、
ある《特定の肉体》を崇拝の的にすることは神の実相を見ざるもの、
本当の神を「自己の迷い」をもってつつみ隠せるはなはだしき罪なのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月2日 頓首再拝>

罪悪観念の起源~その1 - 伝統

2021/05/28 (Fri) 05:06:48


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P89~90)より

アダムの原罪(第一の神性隠蔽)以来、罪悪の観念は、
すべての肉体人間の心の奥底に横たわっている観念であります。

「われはそのまま罪なき者だ」との自覚に入った人間が
古来今に到るまでただ二人だけあったのであります。

それは生まれるとすぐ「天上天下唯我独尊」とみずから称して
七歩歩いたと伝えられる釈迦牟尼如来と、
みずから「神のひとり子」だと称した耶蘇キリストであります。

ところがわたしは今、自己を罪なき者だと悟ると同時に、
「すべての人間が罪なき者だ」ということを悟り、
その悟りを全人類に宣べ伝えることを、
人類を救う唯一の正しき道だとしているのであります。

罪なき者 ―― 本来無罪清浄なる人間に、
なぜ、罪の観念が起こるかといいますと、
われらは本来「無罪」なればこそ罪の感じが起こるのであります。

生まれつき光を見たことのない盲人は暗黒の中にいても、
暗黒の感じが起こらないでありましょう。

生まれつき狭い井戸の中で育って自由を知らない蛙は、
広い自由な湖水に出されなくとも不自由を知らないでしょう。

江戸川乱歩の『孤島の鬼』という探偵小説には、
幼児から幽閉されてふつうの人間の世界に触れさせず、
二人を一人のごとく背中において縫合手術された、
四足四手の人間の生活が描かれていますが、

彼らは人間というものはこういう四足四手の不自由な姿が
本来の姿であると思っていたのでありましたが、
ふつうの人間の二足二手の自由な姿を見てから、
初めて四足四手の姿は人間の本来ではないということを悟って
苦しみ始めたのであります。

この「本来の相(すがた)」でないという自覚が、
「罪」の観念であります。

それは本来の完全な相(すがた)を、本来の自由な相(すがた)を、
表出せんと喘(あえ)ぎもとめている心の呻(うめ)きなのであります。

われわれの本来相を炭火にたとえますならば、
炭火の上をいろいろの塵埃(ごもく<じんあい>)で覆いますと、
その塵埃(ごもく)から煙が立ちのぼるでありましょう。

《この煙が罪の意識に譬うべきものであります》。

本来「火」がなかったら煙は立ちのぼらない、
また火を蔽う塵埃(じんあい)がなかったら煙は立ちのぼらない。

といって「火」そのものは「煙」であるかと申しますと、
「火」そのものは「煙」ではありません。

塵埃(じんあい)そのものが「煙」であるかと申しますと、
塵埃(じんあい)そのものも「煙」ではありません。

塵埃(じんあい)が滅して
「火」そのものになろうとする働きが「煙」であります。

           <感謝合掌 令和3年5月28日 頓首再拝>

罪悪観念の起源~その2 - 伝統

2021/05/29 (Sat) 04:56:54


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P90~91)より

そのように、われわれの「完全なる実相(じっそう)」
そのものは罪なきもの迷いなきものでありますから、
《罪の意識はわれわれ自身の本性にはないものであります》。

それは「炭火」そのものからは
本来煙が立ちのぼらないようなものであります。

ところが「完全なるわが実相」が「迷い」に蔽われると、
その迷いを焼き尽くすために「罪の意識」というものが
立ちのぼってくるのであります。

それは炭火の火力のあらわれであり、塵埃を焼き尽くして、
炎となそうとする働きであります。

あまり炭火の火力が弱かったならば、塵埃(じんあい)に
覆われていましても煙は立ちのぼらないでありましょう。

それと同じく「わが生命(せいめい)の実相(じっそう)」が
あまり深く眠ってしまっていては罪の意識は起こらないでありましょう。

また炭火の火力が強かったら、
煙も見ずにその塵埃(じんあい)は炎となってしまうでしょう。

それと同じく、「わが生命(せいめい)の実相(じっそう)」が
あまりにもハッキリ目覚めていましたならば、
罪の意識はなしに「迷い」は一瞬にして焼尽(しょうじん)せられ、
全生活が光明化されてしまうでありましょう。

           <感謝合掌 令和3年5月29日 頓首再拝>

罪悪観念の起源~その3 - 伝統

2021/05/30 (Sun) 04:45:10


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P91~92)より

宗教というものは、この「生命(せいめい)の実相(じっそう)」の
内に眠っている炭火の火力を熾盛(しじょう)ならしめる働きをする
ものであります。

火力が強くなれば塵埃(じんあい)から
煙がいっそう盛んに立ちのぼります。

多くの宗教が「罪の意識」を掻き立てようとするのは
当然のことであります。

しかしこの「罪の意識」というものは煙のようなものでありますから、
煙そのものをたくさんに立ちのぼらしたら、
その中に熾(おこ)っている炭火はどうなってもよいか
というふうになれば、本末を転倒したことになるのであります。

煙や炭酸ガスは一種の毒ガスでありますから、
密閉した中で煙や炭酸ガスをたくさんこしらえすぎると、
炭火そのものも消えてしまうのであります。

それと同じことが人間の「罪の意識」においてもあるのであります。

ある宗教で「お前はとうてい神から許されない罪人(ざいにん)だ」
と宣告されると、それきり、その人は「罪の意識」に圧倒されて
気が狂ったという話があります。

これは「罪の意識」という煙の毒ガスで「生命(せいめい)の火」が
窒息してしまったわけであります。

だから「生命(せいめい)の実相(じっそう)」のさとりが少なくて
罪の意識だけを増長させますと、あたかも火力が少なくて
煙ばかり多くするようなもので、
生命(せいめい)の更生する火力がなくなってしまうのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月30日 頓首再拝>

罪悪観念の起源~その4 - 伝統

2021/05/31 (Mon) 05:00:38


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P92~93)より

多くの宗教家は、人間を凡夫であるとか、罪人であるとか、
罪悪深重であるとかいって、「罪の意識」――すなわち「煙」――ばかりを
立ちのぼらせれば「生命(せいめい)の火」がさかんに燃えるであろう
というような考えでいるのでありますが、

「煙」というものは、そんなに煙の方を掻き立てないでも、
火力を盛んにすれば煙もさかんに立ちのぼり、
さらにいっさいの塵埃(ほこり)が一度にパッと炎上して
光明輝く炎になってしまうのであります。

この心の塵埃(ほこり) ―― すなわち「迷い」を一度炎上せしめて、
光明輝く火炎にしてしまうには、どうしても「心の風通し」を
盛んにしなければならないのであります。

「心の風通し」というとなんであるかというと、
炭酸ガスやいろいろの毒ガスを含んだ煙を溜めておかないで、
それを吹き飛ばして新しい酸素を供給する通風のことであります。


「罪の意識」という煙がだんだん高まってきますと、
その煙全体が火炎と化すか、「生命(せいめい)の火」が
そのまま窒息してしまうかの危機に到達してしまうのであります。

この時「心の風通し」が悪かったならば、
「生命(せいめい)の火」はそのまま窒息してしまうし、

「心の風通し」が善かったら、いっさいの心の塵埃(ほこり)が、
そのまま光明輝き世を照すところの一大火炎になってしまうのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月31日 頓首再拝>

罪悪観念の起源~その5 - 伝統

2021/06/02 (Wed) 02:57:53

       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P93)より

では、「罪の意識」という煙を吹き飛ばしてしまう
「心の風通し」とは何であるかと申しますと、
「生命(せいめい)の実相(じっそう)」の悟りであります。

今まで暗黒な煙を自分の正体だと思っていたが、

《煙は煙であって、それは火ではない》。
《罪は罪であってそれは自分ではない》。

煙をして煙の去るままに去らしめよ ―― という悟りであります。

今まで「罪の意識」という煙が自分の周囲から去らなかったのは、
「罪というものは自分のもの」だという念の柵(しがらみ)を設けて、
罪を自分に引きつけておき、罪の意識が自浄して外界に飛散し去るのを
邪魔していたからであります。


ところが「《人間》本来神である」
「《火》は本来《火》であって煙でない」という真理に目覚めますと、

今まで、罪の方へばかり向いて罪を自分に結び付けていた
念の柵(しがらみ)が解き放され、
心が「われ神なる実相(じっそう)」の方へばかり向いて来て、
常に心は明るく朗らかに風通しがよくなってくるのであります。

魂が「罪」とか「迷い」とかの方へ向かっていたのが、
クラリと一転して「われ神なる自己生命(せいめい)の実相(じっそう)」
の方を見る ―― これを「魂の転向(コンバーション)」というのであります。

           <感謝合掌 令和3年6月2日 頓首再拝>

罪悪観念の起源~その6 - 伝統

2021/06/03 (Thu) 04:57:38


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P94~95)より

しかし「われ神なる自己生命(せいめい)の実相(じっそう)」の方へ
心が転向するには、《罪の嫌悪》ということが必要であります。

「罪」を取り違えて「神の相(すがた)」だと思ったり、
痘痕あばたを《えくぼ》だと思ったり、
「罪そのままで、これでよい!」と思って、

安価な自己免許でみずから慰めているようなことでは、
どうしても「本当の自己」を「ニセ物の自己」と取り違えている
ことになるのであります。

煙が立ちのぼるのは火のある証拠ではありますが、
煙をもって「火」だと取り違えてはならないのであります。

煙をもって「本物の火だ」と思ってはならない。
罪の姿をもって神の姿だと思い上がってはならないのです。

火をいよいよ明らかにするには、
煙の嫌悪ということがなければならないのです。

煙がきらいで嫌いで耐(たま)らないので、
その煙を追い払おうと大きな団扇(うちわ)をもって来てあおぐと、
煙はたちまち光明輝く大火炎になってしまうのであります。

それと同じように罪の意識がさかんになって来ますと、
一方には罪の意識に圧倒されて再び立ちあがれない人もできますが、
内部の生命(せいめい)の神の子の自覚の火種がさかんに燃えていますと、

その罪の嫌悪の極、「魂の転向(コンバーション)」が始まって、
その人の魂が宗教的大火炎となって、
一度にどっと燃え上がることになるのであります。

この同じ「罪の意識」からも罪に圧倒されて起き上がることのできない人と、
逆にかえってその人の魂が歓喜の大火炎となって燃え上がる人が
できてきますのは、何によってこの相違ができるかといいますと、

内部に「わが実相(じっそう)は神の子である」との
大きな信念が消えない埋火(うずみび)になっている人では、
その魂が大火炎となって燃え上がりますし、

その信念の埋火(うずみび)の火力の弱い人は、罪の意識という煙に、
生命(せいめい)の火種さえも押し消されて、
絶望のうちに再び起き上がることができなくなるのであります。

だから人の魂を救う宗教家というものは、
この「罪の意識」の取り扱い方に賢い知恵を必要とするのであります。

(「罪悪観念の起源」の謹写を終了します)

           <感謝合掌 令和3年6月3日 頓首再拝>

本来清浄 - 伝統

2021/07/17 (Sat) 02:20:48


        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
                     (『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、

「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
 吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 

と言った。

千人の弟子のなかでは神秀上座(じんしゅうじょうざ)が
押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


  身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
   時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、尚その本来塵埃なく、
本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと神秀上座の句をもじって、
次の如く落首した。――


   菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
       本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。
師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

           <感謝合掌 令和3年7月17日 頓首再拝>

《人間を罪人だと考えてはならない》 - 伝統

2021/07/27 (Tue) 02:21:22


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P52~53)より

宗教とは人間を解放するものでなければならないのである。

人間の解放とは凡ゆる人間の不自由及び束縛
~釈尊の言われた生老病死の苦しみ、一切の争闘、
不安、恐怖、貧乏、不調和から
解放するものでなければならないのである。

最近或るラジオ放送の宗教の時間にスイッチを捻(ひね)って見ると、
突如として「人間はみな罪人だ!」と大きな鋭い声が出て来て、
暫(しばら)く軽い音楽がつづいてそれから
人間が罪人である説明があって、

人間に罪があると云うのは、
一つや二つの罪を犯したというようなことではなく、
人間の本質に罪があるということだ。

それを神が憐れみ給うて・・・云々(うんぬん)と云う説明であった。

突如として大声で云われる「人間に罪あり」と云う言葉は
人間を「前科者」だと暗示することになるのであって、
これによって人間は善良になったり健康になったりは決してしないのである。

キリストは「汝の罪はゆるされたり」と言って、
「罪の無」を宣言することによって人を救ったのである。

キリスト教と云うレッテルを貼(は)っている教会で
非キリスト教的教義を宣伝しているのが多いのは困ったものです。

           <感謝合掌 令和3年7月27日 頓首再拝>

【 神罰の観念を捨てよ 】 - 伝統

2021/09/14 (Tue) 05:01:40


       *『生長の家』(昭和25年8月14日の法語)より

人間が健康や幸福を欲するのは、
健康や幸福が人間の本来の相(すがた)であるからである。

本来の相が病気であるならば、病気に対して何の矛盾をも感ぜず、
病気から免れようとは思わないであろう。

本来の相とは、神がつくった其の儘の相を指すのである。

本来の相が健康だと云うことは、神の造った本当の相が健康なのであって、
神の意志は人間が健康であると云うことなのである。

然(しか)らば、神が人の罪に対して罰を与えて
病気にしたり不幸にしたりするなどと云うことも
あり得ない筈(はず)なのである。

神罰の観念を捨てよ。

汝(なんじ)が病気であったり不幸であるのは神罰ではないのである。

           <感謝合掌 令和3年9月14日 頓首再拝>

罪なし、との人間観に転ずる - 伝統

2021/10/14 (Thu) 04:53:38


    *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)」より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは

「人間は罪を犯すように出来ていない。
 善いことしか出来ないように出来ている」と、

人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

           <感謝合掌 令和3年10月14日 頓首再拝>

真に「罪無し」と云う自覚に立つ - 伝統

2022/02/04 (Fri) 04:59:14


      *「光明道中記」(2月4日《腹の立たぬ日》)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。
               (『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。

罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、
その罪に何らかの値打ありと考え、その罪を犯すことに
何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、
罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 令和4年2月4日 頓首再拝>

罪業無の自覚で自在を得る - 伝統

2022/07/09 (Sat) 07:33:03


          *「光明道中記」(7月9日)より
            ~病人に真理を語れば病い消ゆる日

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気がある
としか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、

「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
 どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 

と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。
 滅罪の法をして進ぜよう」

と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。

「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

         <感謝合掌 令和4年7月9日 頓首再拝>

不完全な姿を否定せよ! - 伝統

2023/02/04 (Sat) 07:24:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月3日)より

業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。

人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、
それを実在のごとく見るのは

ちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと
同じことである。

かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを
実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。

われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。

         <感謝合掌 令和5年2月4日 頓首再拝>

最初の魂の非難にきけ - 伝統

2023/06/20 (Tue) 05:08:57


       *「光明法語」(6月20日)より

最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。

習慣と云うものは、恐ろしいものである。

先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり
行為(おこない)である。

それが実相そのものでないと云うことは、
魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。

最初に、第一印象で、
魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。

第一念で良いと思うことは善いことが多い。

        <感謝合掌 令和5年6月20日 頓首再拝>

罪業無の自覚で病は癒える - 伝統

2023/07/09 (Sun) 05:06:44


          *「光明道中記」(7月9日)より
            ~病人に真理を語れば病い消ゆる日

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気がある
としか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、

「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
 どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 

と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。
 滅罪の法をして進ぜよう」

と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。

「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

         <感謝合掌 令和5年7月9日 頓首再拝>

罪は、有るように見えても本来無いものである - 伝統

2023/09/08 (Fri) 12:33:59


      *「光明道中記」(9月8日《流れつつ流れを超える日》)より抜粋

【仏教の無常観は、実は生々流転の教である。(『生命の實相』第十三巻)】

(歎異抄十三条)に親鸞聖人の「業観(ごうかん)」があらわれている。
業が現象世界のすべてを流転せしむる原動力であって、よき心が起るも、
悪き心が起るも皆業が流転して催して来るのであって、それは宿命であり、
機械的であって、自由意志の計らい得る部分はひとつだにないと言うのである。

「兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも、
 ”つくるつみ”の宿業にあらずといふことなし」であるとするならば、

その「つくるつみ」なるものは、
誰が最初に「つくった」のであるかの問題が生ずるのである。

誰かが最初に造ったのであるならば、
宿業ならざる自由意志的業の問題が生ずる。

また誰も未だ「つくるつみ」を造ったことが無いとするならば、
その「つくる罪の宿業」なるものも、
有るように見えても本来無いものであると云うことに帰着するのである。

真宗では「つくるつみ」の存在を認めて罪悪深重の凡夫と言い

生長の家では「つくるつみ」は存在せずしてと罪本来無いと言う。

         <感謝合掌 令和5年9月8日 頓首再拝>

罪が消えるのは、神の約束(仏の本願)による - 伝統

2023/09/16 (Sat) 12:32:06


     *「光明道中記」(9月16日《価(あたい)なくして受ける日》)より

 【汝のニセ物の仮面を剥げ、ニセ物の罪状をあらわにせよ。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

   念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、
   往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。

   もし然(しか)らば一生のあひだ思ひと思ふこと皆生死(しょうじ)のきづなに
   あらざることなければ、生命(いのち)尽きんまで念仏退転せずして、往生すべし。


念仏を申すごとに、「これで罪が消える」と信じて念仏するが如きは
「念仏申す」と云う自己の行為の力で罪を消すと思っている力みである。

「これで罪が消える」とと云う自力の行(ぎょう)も悪いことはないが、
それならば言いたいことがある。

一生のあいだ常に吾々の思い思うこと、生死超越の障(さわ)りとなる
執着煩悩に関係しないことは一つだってないのであるから、
毎日毎日その執着煩悩の数だけずつ念仏を称えなければ
救われないと云うことになるだろう。

聖書(バイブル)の中にもイエスは
譬(たとえ)をもってこのことを説いている。

或る葡萄園の主人が、朝雇い入れた園丁も、昼雇い入れた園丁も、
夕方もう仕事の終りころに雇い入れた園丁も、同一の給料を支払った。
そして葡萄園の主人は神であり、働き人は人間の譬えである。

この実話によってイエスは、
人の救われるのは、その働いた分量によるのではなく
神の約束(仏の本願)による事を示し給うたのである。

           <感謝合掌 令和5年9月16日 頓首再拝>

如来の本願の中には罪はない - 伝統

2023/09/17 (Sun) 12:55:15


     *「光明道中記」(9月17日《このまま救われていることを悟る日》)より抜粋

【肉体は人間ではない。人間の心の痕跡である。(『生命の實相』第二巻)】


人には各々業報と云うものがあって催して来るのであるから
たとい毎日一刻も欠かさずに念仏しておろうと思っても、
念仏できないことがある。

また「臨終の一念申して救われよう」と思っても、
臨終と云うときに病気の悩み苦しくて、
精神朦朧として正念を失って了って念仏を称えることが出来ない
人もあろう。

自分の力と云うものはそのように儚いものであるから、
自分の力で称える念仏では中断されることがあるのは止むを得ない。

では、その中断された間の罪をどうして消すか。
罪が消えなければどうして救われるか、救われる道はただ一つ。
如来の本願に乗托(のる)ことである。

どんな思わぬことから罪を犯そうとも如来の本願の中には罪はないのだから、

”念仏申さずとも救われているのだ”

―― この最後の一句こそ生長の家の常に説くところだ。

           <感謝合掌 令和5年9月17日 頓首再拝>

罪なし、との人間観に転ずる - 伝統

2023/10/14 (Sat) 09:12:00


    *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)」より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは

「人間は罪を犯すように出来ていない。
 善いことしか出来ないように出来ている」と、

人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

           <感謝合掌 令和5年10月14日 頓首再拝>

真に「罪無し」と云う自覚に立つ - 伝統

2024/02/04 (Sun) 10:41:18


      *「光明道中記」(2月4日《腹の立たぬ日》)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。
               (『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。

罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、
その罪に何らかの値打ありと考え、その罪を犯すことに
何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、
罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

         <感謝合掌 令和6年2月4日 頓首再拝>

人の神性を観よ! ~ 人の過失を見る心も實相の隠蔽 - 伝統

2024/03/23 (Sat) 12:21:49


        *「光明法語」(3月23日の法語 人の罪をゆるせ)

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。
そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、

イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、
 汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、

人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

           <感謝合掌 令和6年3月23日 頓首再拝>

罪業無の自覚で病は癒える - 伝統

2024/07/09 (Tue) 10:56:18


          *「光明道中記」(7月9日)より
            ~病人に真理を語れば病い消ゆる日

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気がある
としか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、

「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
 どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 

と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。
 滅罪の法をして進ぜよう」

と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。

「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

         <感謝合掌 令和6年7月9日 頓首再拝>

《すべての人の罪はゆるされている》 - 伝統

2024/07/17 (Wed) 11:22:07


        *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P53~54)より

「汝の罪ゆるされたり起(た)ちて歩め」

と言って病人を癒したイエスは、

「人もし我(わ)が言(ことば)を守らば、
 永遠(とこしえ)に死を見ざるべし」

と教えているのである。

吾々が若しイエスの言葉を素直に受入れて
「汝の罪ゆるされたり」の言葉を素直に自分自身に受け入れたとき
人間は永遠(えいえん)に死を見ざるようになるべきである。

イエスが「汝の罪ゆるされたり」と言われたのは、
或る其人(そのひと)が自分の力で善行を行なった功績によって
と云うのではなく、
これは他力(たりき)からの賜物(たまもの)の救いであるから、
平等にイエスは「汝の罪ゆるされたり」と云っていられるのである。

ただその言葉を素直に受けて「もう罪はないのだ。自分は神の子である」
と自己の潔白を信じたときに、救われが完了するのである。

或るキリスト教会では聖書を曲解して、イエスのみが「神の子」であって、
その他(た)の人間は「罪の子」だと説いているが、

イエスは主の祈りにおいて、
「天にまします吾らの父よ」と祈れと教えていられるのであって、
神はイエスのみの父ではなく、「吾らの父」であるから
吾らは当然「神の子」である。

         <感謝合掌 令和6年7月17日 頓首再拝>

《罪は贖(あがな)わねばならぬ借財ではない》 - 伝統

2024/07/31 (Wed) 10:40:07


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P84)より

精神分析の方で云う語(ことば)に
罪悪妄想(Guilt Complex)と云うのがある。

自分は深い罪人だと信じ
迚(とて)も赦され難きものであると信じているのである。

西洋の諺(ことわざ)に
『聖者とは常に贖罪(しょくざい)の苦行をつづけている罪人である』
と云うのがあるが、

凡(すべ)ての不幸や貧乏や病気で苦しめられている人達は、
意識的にか潜在意識的にか、必ずや、罪を贖(あがな)いたい希望から、
みずから苦行のために貧乏や病気や災難をよびよせて苦しんでいるのである。

罪は過去から堆積(たいせき)されていて、
一つ一つ運び出さなければ無くならないような
塊(かたまり)ではないのである。

それは一種の「実相隠蔽」であるから
隠蔽せる実相を見出したときに消えるのである。

人間の「実相」は「「神の子」であるから、
自己が神の子であり本来罪なしとさとったとき
その隠蔽(つみ)は消えるのである。

       <感謝合掌 令和6年7月31日 頓首再拝>

罪なし、との人間観に転ずる - 伝統

2024/10/14 (Mon) 11:56:46


    *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)」より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている
 ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは

「人間は罪を犯すように出来ていない。
 善いことしか出来ないように出来ている」と、

人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

        <感謝合掌 令和6年10月14日 頓首再拝>

罪本来なしの自覚 - 伝統

2025/02/04 (Tue) 12:28:37


       *「光明道中記」(2月4日《腹の立たぬ日》)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、
その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 令和7年2月4日 頓首再拝>

罪業無の自覚で病は癒える - 伝統

2025/07/09 (Wed) 11:40:32


          *「光明道中記」(7月9日)より
            ~病人に真理を語れば病い消ゆる日

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気がある
としか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、

「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
 どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 

と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。
 滅罪の法をして進ぜよう」

と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。

「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

         <感謝合掌 令和7年7月9日 頓首再拝>

罪は、有るように見えても本来無いものである - 伝統

2025/09/08 (Mon) 11:21:31


      *「光明道中記」(9月8日《流れつつ流れを超える日》)より抜粋

【仏教の無常観は、実は生々流転の教である。(『生命の實相』第十三巻)】

(歎異抄十三条)に親鸞聖人の「業観(ごうかん)」があらわれている。
業が現象世界のすべてを流転せしむる原動力であって、よき心が起るも、
悪き心が起るも皆業が流転して催して来るのであって、それは宿命であり、
機械的であって、自由意志の計らい得る部分はひとつだにないと言うのである。

「兎毛羊毛(ともうようもう)のさきにいる塵(ちり)ばかりも、
 ”つくるつみ”の宿業にあらずといふことなし」であるとするならば、

その「つくるつみ」なるものは、
誰が最初に「つくった」のであるかの問題が生ずるのである。

誰かが最初に造ったのであるならば、
宿業ならざる自由意志的業の問題が生ずる。

また誰も未だ「つくるつみ」を造ったことが無いとするならば、
その「つくる罪の宿業」なるものも、
有るように見えても本来無いものであると云うことに帰着するのである。

真宗では「つくるつみ」の存在を認めて罪悪深重の凡夫と言い

生長の家では「つくるつみ」は存在せずしてと罪本来無いと言う。

         <感謝合掌 令和7年9月8日 頓首再拝>

滅罪 - 伝統

2025/09/14 (Sun) 11:26:37


     *「光明道中記」(9月14日《清富(せいふう)集る日》)より

 【清貧に凝り固まらず、自由無碍の働きを尊ぶ。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

    一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
    この条(くだり)は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、
    命終(みょうじゅう)のときはじめて
    善知識のをしへにて一念申うせば八十億劫の罪を滅し、
    十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。

    これは十悪五逆の軽重(きょうじゅう)をしらせんがために、
    一念十念といへるか。滅罪の利益(りやく)なり。
    いまだわれらが信ずるところにおよばず。


「観無量寿経」のなかに、十悪五逆の罪人で常日念仏を申さなかった人が
臨終(いまわのきわ)に善智識(おしえのせんぱい)に教えられて

一声(ひとこえ)の念仏を申すならば
八十億劫の間まよわねばならぬ十悪罪がほろび、
十声(とこえ)の念仏をとなえたならば五逆の罪が滅びると書いてあるが、

それは十悪と五逆の罪との軽重(けいちょう)を比較するために
滅罪の利益を引合に出したのであって、決して念仏の功徳を一念よりも十念、
十念よりも百念と比較してその軽重を言わんがためではないのである。

一念よりも十念が一層よく訊くなどと言うことなれば、
それは如来の本願に救われるのではなくして、
唇や心で誦(とな)える自分の行の多寡(うういすくない)によって
救われると云う自力的救われ方となるのである。

            <感謝合掌 令和7年9月14日 頓首再拝>

罪が消えるのは、神の約束(仏の本願)による - 伝統

2025/09/16 (Tue) 11:28:53


     *「光明道中記」(9月16日《価(あたい)なくして受ける日》)より

 【汝のニセ物の仮面を剥げ、ニセ物の罪状をあらわにせよ。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄十四条)

   念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、
   往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。

   もし然(しか)らば一生のあひだ思ひと思ふこと皆生死(しょうじ)のきづなに
   あらざることなければ、生命(いのち)尽きんまで念仏退転せずして、往生すべし。


念仏を申すごとに、「これで罪が消える」と信じて念仏するが如きは
「念仏申す」と云う自己の行為の力で罪を消すと思っている力みである。

「これで罪が消える」とと云う自力の行(ぎょう)も悪いことはないが、
それならば言いたいことがある。

一生のあいだ常に吾々の思い思うこと、生死超越の障(さわ)りとなる
執着煩悩に関係しないことは一つだってないのであるから、
毎日毎日その執着煩悩の数だけずつ念仏を称えなければ
救われないと云うことになるだろう。

聖書(バイブル)の中にもイエスは
譬(たとえ)をもってこのことを説いている。

或る葡萄園の主人が、朝雇い入れた園丁も、昼雇い入れた園丁も、
夕方もう仕事の終りころに雇い入れた園丁も、同一の給料を支払った。
そして葡萄園の主人は神であり、働き人は人間の譬えである。

この実話によってイエスは、
人の救われるのは、その働いた分量によるのではなく
神の約束(仏の本願)による事を示し給うたのである。

           <感謝合掌 令和7年9月16日 頓首再拝>

如来の本願の中には罪はない - 伝統

2025/09/17 (Wed) 11:16:51


   *「光明道中記」(9月17日《このまま救われていることを悟る日》)より

 【肉体は人間ではない。人間の心の痕跡である。(『生命の實相』第二巻)】

(歎異抄十四条)

   ただし業報かぎりあることなれば、如何なる不思議のことにも逢ひ、
   また病悩苦痛をせめて、正念に住せずしてをはらんに、念仏まうすこと難し。
   その間(あひだ)の罪は如何(いかが)して滅すべきや。

   罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。
   摂取不捨の願を依(たの)みたてまつらば、如何なる不思議ありて、
   罪業をおかし、念仏申さずしてをはるとも速やかに往生をとぐべし。


人には各々業報と云うものがあって催して来るのであるから
たとい毎日一刻も欠かさずに念仏しておろうと思っても、念仏できないことがある。

また「臨終の一念申して救われよう」と思っても、
臨終と云うときに病気の悩み苦しくて、
精神朦朧として正念を失って了って
念仏を称えることが出来ない人もあろう。

自分の力と云うものはそのように儚いものであるから、
自分の力で称える念仏では中断されることがあるのは止むを得ない。

では、その中断された間の罪をどうして消すか。
罪が消えなければどうして救われるか、救われる道はただ一つ。
如来の本願に乗托(のる)ことである。

どんな思わぬことから罪を犯そうとも如来の本願の中には罪はないのだから、

”念仏申さずとも救われているのだ”

―― この最後の一句こそ生長の家の常に説くところだ。

            <感謝合掌 令和7年9月17日 頓首再拝>

罪なし、との人間観に転ずる - 伝統

2025/10/14 (Tue) 11:38:12


    *「光明道中記」(10月14日《悪癖自然に去る日》)」より

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。

持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、
人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬ
と云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、
殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒などと呼んでいるのを見ても、
「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、
破戒の僧や、破戒の信者が現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている
 ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに
自然に飲酒癖が治って行く実例が多いのは何故であるか。

それは

「人間は罪を犯すように出来ていない。
 善いことしか出来ないように出来ている」と、

人間観をグラリと転ぜしめる結果、
彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

        <感謝合掌 令和7年10月14日 頓首再拝>

《あなたの実相は”無原罪の受胎”である》 - 伝統

2025/12/22 (Mon) 11:44:28


      *「神と偕に生きる真理365章」(P-343)より

   今あなたは自己に宿る”神の子”を自覚したのである。
   ”神の子”は”既に贖(あがな)われたる者”であり、
   ”無原罪の受胎”である。

   土の塵によって造られたるアダムがあなたの祖先ではないのである。
   エロヒムの神があなたの生みの親であり、
   ”光の神”があなたの真の父なのである。

   あなたは”光の子”であるから、あなたの住む処、行く処、向かう処、
   悉く明るくして暗い影はないのである。

   すべての過去の罪はあなたの心の中に描かれたる妄想の影であるから、
   心の中に真理の光が射し来(きた)ると共に消えてしまったのである。

   あなたは本来”神の子”であるから、実相に於いて未だ嘗て
   罪を犯したことはなかったのであり、
   これからもまた罪を犯すことはないのである。

   罪は”包み”であり、本来の”光の姿”に対して”
   心の瞼(まぶた)”を垂れ”包み”て、
   光を見なかった状態である。

   ひとたび”心の瞼”をひらいて、人間自身の実相を堂々と露呈するとき、
   ”包みの状態”即ち”罪”はもう何処(どこ)にもなく、
   光ばかりの”神の子”の実相があらわれるのである。

       <感謝合掌 令和7年12月22日 頓首再拝>

罪本来なしの自覚 - 伝統

2026/02/04 (Wed) 11:47:47


       *「光明道中記」(2月4日《腹の立たぬ日》)より

【小善を軽蔑するな。小善を積むことが却って難しい。
 小善の出来るようなものでないと本当の大善は出来ない。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

罪本来なしと云う生長の家の教えを聴いて小善を軽蔑する者は
却って地獄へ堕ちるであろう。

「罪本来無し」と云う言葉は、
自己が罪悪を行うための詭弁的弁解に使ってはならないのである。

罪本来無きが故に、そしてそれは何等積極的価値なきが故に、
そんな積極的価値なきものに執着して何時迄もそれを行う必要なきが故に、
罪はおのずから捨離せられるのである。

罪を隠すものは、罪ありと思えばこそ隠すのである。
罪を犯す者は、罪ありと思えばこそ、その罪に魅力を感じ、
その罪に何らかの値打ありと考え、
その罪を犯すことに何らかの喜びを感じついに罪を実行するに到るのである。

本当に「罪無し」と云う自覚に立ったならば、罪を行う魅力が消えて了うが故に、
おのずから罪を行うことが無くなるものである。

従ってその人が罪を行う限り、
その人には「罪なし」と云うことが本当に解っていないのである。

罪本来無しとは腹立つ姿でも神の子だと云う意味ではない。
腹立つ姿は本来《ない》。
神の姿はもっと立派な姿だと知って自然に腹立たなくなることである。

           <感謝合掌 令和8年2月4日 頓首再拝>

罪業無の自覚で病は癒える - 伝統

2026/07/09 (Thu) 11:57:21


          *「光明道中記」(7月9日)より
            ~病人に真理を語れば病い消ゆる日

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)が斯う言ったのは
清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、
本来の清浄心(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。

罪業があるので、その罪業のあらわれとしての病気がある
としか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、

「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
 どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 

と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。
 滅罪の法をして進ぜよう」

と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。

「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

         <感謝合掌 令和8年7月9日 頓首再拝>

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