伝統板・第二

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徳③ - 伝統

2020/11/30 (Mon) 04:44:42

空の徳を生きる

    *「光明道中記」(11月30日《空の徳を生きる日》)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                   (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。

中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、
却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、
また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、
形のみを集めんとするものは、飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、
「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。


・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「徳」
   → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6510446

(2)伝統板・第二「徳②」
   → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7538428

           <感謝合掌 令和2年11月30日 頓首再拝>

慈愛の徳 - 伝統

2020/12/23 (Wed) 04:30:01


       *メルマガ「人間力」(2020.10.16)より

   農家に生まれ、1歳半の時に左手に大火傷を負い自由を失うも、
   学問に一路邁進し世界的な学者となった野口英世博士。

   黄熱病の研究に光をもたらした不屈の闘志は
   数多くの伝記でも描かれていますが、
   根底には「報恩」の心が絶えず湛えられていたことが、
   遺されたいくつもの手紙から浮かび上がってくるといいます。

   博士の人格が窺える言葉の数々を、
   野口英世記念館(福島県)の館長を務める
   八子弥寿男さんに教えていただきました。

───────────────────

(八子弥)

……野口博士は帰国時に、
「忍耐」という言葉をいくつかの場所に書き残しています。

貧困、そして左手が自由に使えないというハンディキャップ。

この2つを背負いながら勉学に励み、
自分に期待を寄せてくれる人たちの思いに応えて名を成すには、
相当な忍耐が必要だったのでしょう。

その博士は医学の研究を進めるとともに、
「人としての錬修」に努め、晩年には師である
小林先生に次のように書き送っています。

「此の世の中にて最も尊きものは慈愛の徳に御座候」

また、

「小生は如何(いか)なる任務を帯びて此世に出で来たりたるやは存ぜず候も、
 人道にさえ忠誠なればそれにて良きことゝ存候」

とも書いています。

博士はこの言葉どおり、慈愛の徳、人道への忠誠を第一として、
人々を苦しめる病原菌の研究に命を捧げました。

昭和2年、黄熱病の研究のため、アフリカに赴きます。その際、

「私は何ものも恐れない。
 私はこの世界に何事かをなさんが為に生まれてきたのだ。
 私はそれを完結したいと思うのである。
 私の死すべき時が来たら私はそれに往く外はないのだ」

という手紙を書き残しました。
そして翌年、黄熱病に感染し、51歳でその生涯を終えます。

           <感謝合掌 令和2年12月23日 頓首再拝>

言行贅なく累積して徳を成す - 伝統

2021/02/27 (Sat) 04:39:01


        *Web:道徳的つぶやき

「最高道徳の格言」(→ http://ecmoralogy.jp/product/163/
に書かれていたので、それを引用いたします。

~引用開始~

 「言行贅(ぜい)なく累積して徳を成す」

この格言は、平素の言葉づかいや行ないの重要性を述べたものです。
 
私たちの日々の言葉づかいや行ないには、以外に無駄なことが多いものです。
たとえば言わなくてもよいことを言ったり、しなくてもよいことを
行なったりして、互いに傷つけ会い、それが原因となって個人の苦悩や
社会の不安を生み出しています。

また、私たちは、人生に役立つ話や道徳の話を聞くように勧められても、
多忙を理由に断ることがしばしばあります。

しかし実際には、自分の好きなことや無益なことに
時間やお金や労力を費やしていることが少なくありません。

そこで、限りある人生を意味あるものにするには、
正しい人生観を持ち、一つ一つの言葉づかいや行ないにも
十分に意を尽くしていかなければなりません。

最高道徳では、人生の目標が自己の品性完成にあることを教えています。
品性こそ、すべてのものを正しく生かす根本です。

私たちは最高道徳を学び、すべての言葉づかいや行ないを
品性の向上に役立てるように心がけることが大切です。

そのためには、日常の小さな心づかいや行ないをおろそかにすることなく、
一言一行に真心を込めて生活することが必要です。

たとえば挨拶をしたり、会話を交わしたり、
あるいは来客にお茶を出す場合にも、
相手の幸せを祈り、満足していただこうという心づかいで行なうのです。

また物をつくったり、仕入れたり、あるいは売ったりするときでも、
つねに相手を思いやる心で行なうのです。
 
さらに私たちは、自分の時間や労力、金銭などの無駄を省き、
それを出来るだけ他人の幸せのために生かしていくのです。

このような道徳的行為を累積することによって、
私たちの品性は確実に高まっていきます。

(後省略)

 ~引用終わり~

余計なことを言わず、相手に対し、一言一行に心を込めて
相手の幸せを祈れる癖付けをしていきたいものです。

あの松下幸之助さんも

「お客様の後姿に感謝して、そのお客様の幸せを祈ることが大切だ」

とおっしゃっておりました。

https://blog.goo.ne.jp/tokihira1129/e/845b75135cd8cb19c110145399fd1bdd

           <感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>

万象具徳~二宮尊徳翁 - 伝統

2021/03/17 (Wed) 04:29:11

万象具徳(ばんしょうぐとく) ~二宮尊徳翁

尊徳は、「あらゆるものに徳がある」と考えました。
これを「万象具徳」といいます。

この「万象具徳」の内容について、小田原の報徳博物館元館長の
佐々井典比古さんは、次のような詩で表現しています。

      *Web:ウーヴル より

どんなものにも よさがある  
どんなひとにも よさがある  

よさがそれぞれ みなちがう  
よさがいっぱい かくれてる  

どこかとりえが あるものだ  
もののとりえを ひきだそう   

ひとのとりえを そだてよう   
じぶんのとりえを ささげよう  

とりえとりえが むすばれて  
このよは たのしい ふえせかい 

  (二宮尊徳資料館にある万象具徳の碑
           ~https://4travel.jp/travelogue/11178509 )

※「ふえせかい」とは、増え世界、限りあるものから、
 限りあるものが生み出されるという意味。


ふえせかいとは、
人が勤労(二宮尊徳さんはとても大切にされた)によって、
社会・経済が増える・・・ことを指していると、別の訳もありました。

自然や、自分のまわりすべてのあらゆる人々の恩徳に感謝し、
その恩徳に報いるために、今の最善を尽くしたら、
それはおのずと、豊かな社会になる!という意味でしょうか。

素晴らしい!に気づくこと。
それは、豊かな社会をつくることなのですね。

https://blog.goo.ne.jp/tokihira1129/e/163b8486b648d5e0edb6201f83e91b79?fm=entry_awp_sleep

           <感謝合掌 令和3年3月17日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2021/08/31 (Tue) 04:56:47


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 令和3年8月31日 頓首再拝>

玄徳 - 伝統

2021/09/24 (Fri) 04:51:43


         *メルマガ「致知BOOK」(2021.09.23)より
          ~「徳」には2つの面がある(玄徳と明徳)

「小学」のところでも申し上げましたが、
人間個人として生まれながらにして誰にでも与えられているものは
「徳性」であり、「知能・技能」である。

これをいかにして育てるかということが根本であります。

教育というのは「教える、育てる」と書いてあります。

「教える」ということは大切ですけれども、
それ以上にその人の持っておるものを「育てる」、
これが教育のもとですね。

人間として生まれながらにして持っている「徳」は、
「徳は得なり」といって、
損得の「得」と同じ意味だというふうにもいわれております。

この「徳」には二つの面があるんです。

植物は種のときに既に根になる部分と
幹や枝や葉になる部分は
はっきり分かれているんです。

だから、無作為に種を蒔いたとしても、
根になるほうは地中を向いているし、
幹や枝になるほうは空を向いて行く。

一つひとつ種を選定して植えているのではない。

もう種ができたときに、その働きというものは潜在しているわけです。

人間の徳の中にも、このような二面がある。

その一つは、外には見えないけれども
内にあって大きな働きを持っておるもの。
これを「玄」「玄徳」と申します。

「玄」という字は「黒い」という意味ですけれども、
「黒い」というだけでは「玄」の本当の意味はわかりません。
「玄人・くろうと」という言葉がありますね。

玄人と素人はどこが違うか。

知識がすぐれておっても必ずしも玄人とはいえない。
長い間仕事をしている間に、仕事の本当のコツというものをわきまえておる。

コツというのを説明せよというたってわからん。

しかし、仕事をさせてみれば
コツを身につけているかどうかは直ぐわかる。

「あいつは玄人だ」
「あいつはいろんなことをよう知ってるけども、まだ素人や」。

そのコツにあたるものが「玄」であります。

「玄徳」は見えないが、大きな働きを持っている。
植物でいえば根にあたる徳です。

(伊與田覺・著『論語』)

      <感謝合掌 令和3年9月24日 頓首再拝>

明徳 - 伝統

2021/09/25 (Sat) 04:32:59


         *メルマガ「致知BOOK」(2021.09.24)より
          ~「徳」には2つの面がある(玄徳と明徳)

もう一つの徳は外に表れる。

幹とか枝とか葉とか花とかいうものは、その木の徳が外に表れているんです。

そういう徳を「明徳」という。

だから、人間をつくるという点で考えますと、
植物を栽培するのと同じで、まず根にあたるところの玄徳を養うんです。

そして、芽が出て段々成長するにあたって、
これをよく世話をして、その徳を十分発揮させてやる。

これを「明らかにする」という。

皆さんの中には菊作りを趣味としておられる方があるかもわかりません。

菊を作るのには、まず土を作らないけませんね。

そこへ苗を植えて、
それから毎日我が子を育てるように一枚の葉っぱにも気をつけ、
虫がつかないよう、病気にならないようにと、いろいろ世話をしていく。

そうして秋になってはじめて、
あのふくよかな香りのある美しい花を咲かせるんですね。

これを「菊の明徳を明らかにする」というのであります。

中国において、玄徳を養うほうに
重点を置いた教えが「老子の教え」であります。

一方、明徳を明らかにするほうに
重点を置いた教えが「孔子の教え」であります。

両方は別個のものではなく、一つのものですけれども
「玄徳」「明徳」というふうに分けて考えています。

『大学』という書物は孔子の流れを汲むものでありますから、
明徳を明らかにするほうに重点を置いています。

これは決して玄徳をおろそかにするという意味ではありません。

明徳を本当に知ろうと思ったら、
玄徳というものをよく究めることが大切です。

(伊與田覺・著『論語』)

      <感謝合掌 令和3年9月25日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2021/09/27 (Mon) 03:44:25


    *「光明法語」(9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事はすべての善を悉く覆して
反対効果に変じてしまう程の力をもっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、
大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。

心が暗いと云う事は、
大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない
自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年9月27日 頓首再拝>

先祖の徳を受ける - 伝統

2021/11/08 (Mon) 04:25:01


     *「霊ナァンテコワクナイヨー」美輪明弘・著(P54~55)より

このエネルギー体(魂)が地球を転生するのは、
自分で学びながら徳を積むためなのです。

両親をはじめとする先祖霊や守護霊の助けや
指導霊や守護神の助けもありますが、
結局努力して身につけるのは自分自身なのです。

苦労して貯めた徳は、銀行に預金するように積んで置くのです。

その徳は、自分でも使えますし、
また、使いきれなかった分の徳は、子孫のために
積んで残して置いてあげることができるのです。

これを先祖の徳を受けるといいます。

お金を稼ぐため働くということは、
人々のために尽くして善い行いをするということです。

つまりそれを徳といいます。

我々日常生活の中でいつでもできることなのです。

           <感謝合掌 令和3年11月8日 頓首再拝>

空の徳を生きる - 伝統

2021/11/30 (Tue) 04:50:53


    *「光明道中記」(11月30日《空の徳を生きる日》)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                   (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。

中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、
却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、
また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、
形のみを集めんとするものは、飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、
「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

           <感謝合掌 令和3年11月30日 頓首再拝>

徳(とく) - 伝統

2021/12/28 (Tue) 04:15:14


    *Web:講老箚記 – 東洋思想・哲学・文化の研究 より


立派な人のことを、「徳がある」と表現することがある。
義務教育にある「道徳」という科目は古臭いとか、
偽善的だと感じる人もいるかもしれない。

悪徳業者というと、
詐欺的な取り引きを繰り返しているようなイメージを抱くだろうだろう。

「徳」という概念は東洋に限った概念ではなく、西洋にも見られるし、
東洋でも仏教思想と中華思想ではそれぞれに用いられ、
その意味では東洋思想というわけではない。

しかし、中華思想において
「徳」が重要な位置にあるということは間違いないので、
ここでは中華思想に焦点を当てつつ、
徳とは何か、ということを考えてみたい。


《道と徳》

「道徳」という表現があることからも推察されるように、
道と徳は何かしらの関係があると考えられる。

天徳に対して天道、人徳に対して人道という表現があることから、
両者は関係はあるが、何かしらの内容の違いも有している。
(ここで「道徳」と呼んでいるものはあくまで
 古代の中華思想を源流としたそれを指しており、
 例えばアダム・スミスの『道徳情操論』にて議論されている道徳など、
 様々な体系で語られるそれとは切り分けて考える)




「道徳」について、僕が個人的に理解しやすいと感じた説明は
安岡正篤による以下の一節である。

   とにかく「徳」とは「宇宙生命より得たるもの」をいうので、
   人間はもちろん一切のものは「徳」のためにある。

   「徳」は「得」であります。
   それには種々あって、欲もあれば良心もある。

   すべてを含んで「徳」というのであるが、
   その得た本質なるものを特に「徳」という。

   そして、我々の「徳」の発生する本源、
   己れを包容し超越している大生命を「道」という。

   だから要するに「道」とは、
   これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以のもの、
   これなくして宇宙も人生も存在することができない、
   その本質的なものが「道」で、それが人間に発して「徳」となる。

   これを結んで「道徳」という。

   (中略)

   道徳というものは、非常に誤解されておりますが、
   その本義は、単なる動物的生活ではなくて、
   意識・精神・霊魂を持った高級な人間の生命活動をいうのであって、
   道徳によって初めて人間は存在し、生活し、発達することができる。

   肉体で言うならば、飲食や呼吸と同じことであります。

   したがって生命を抑圧したり、一つの型にはめたりするのは
   決して道徳ではない。

            (安岡正篤 『人物を創る』より抜粋)

「高級な」という件は、やや時代を感じる表現だとは感じるが、
概ねの骨子については納得しやすい説明だと思う。

世界には、自ずから法則がある。
人間に限らず、あらゆる存在はこの宇宙においては
その法則によって存在している。

これは理念的な意味に留まらず、宇宙論や天文学、
惑星科学の観点からも現在の宇宙はそれが有する法則に依存しており、
例えば異なる物理法則を持つ宇宙は我々の宇宙のような形では
存在しないと考えられる。



我々はその法則、すなわち「道」によって存在しているが、
一方で個々の存在が道自体であるかというとそうではない。

道によって存在しているが、
我々においてはそれが徳という形で発現している。

この考え方は、むしろ近代の進化論的な道徳論に近い側面もある。

道から獲得され、発現している性質が徳なのだから、
僕たちが普通には好ましいと感じる性質も、
好ましくないと感じる性質も「徳」ということになる。


《玄徳と明徳》

自然にいろいろな性質を見出せるように、
人間にもいろいろな性質を見出せると思う。

自然であれば創造もあれば破壊もあるし、
人間であれば誠実さもあれば狡猾さもある。よ

りそのままの自然、無為な道を至上とするのが、
「玄徳」という考え方だと思う。

誠実さも有為であるから、玄徳では特に上位としては置かれない。
玄徳という表現は『老子』に見られる。

   生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳、

   生じて有せず、為して恃まず、長となりて宰たらざる、是れを玄徳と謂う。

    (老子 第五十一章)

「生而不有(生み出しても、それが自分のものだと主張しない)」
という言葉は、玄徳が考える道の性質の1つだろう。

良いものも悪いものもなく、ただそれである自然、
それと同一になることを理想とするのが玄徳の考え方だと思う。



一方、道が人間に発した徳の中でも、素晴らしい性質に着目し、
さらにその輝きを増していこうとする考え方が「明徳」だと思う。

明徳という考え方は『大学』(後に特に重要な内容として、
朱熹が四書の1つとして抜粋するが、元は『礼記』の一篇)に見られる。

   大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善、

   大学の道は、明徳を明らかにするに在り。
   民を親しましむるに在り。
   至善に止まるに在り。

          (大学)

明るく、すぐれた性質を明らかにしていく、
ということを基本姿勢とするのが儒教的な考え方で、
我々が「道徳」という表現で連想するのはどちらかというと明徳だろう。

「明」という字は「冏」(ケイ、窓の形)と「月」を組み合わせたもので、
窓から差し込んだ月明かりが夜の闇を照らす明るさが原義とされ、
明徳の「明」は賢明や聡明という言葉で使われる明の意味に近い。

この世界を照らすような徳、
暗がりの中で物事を明らかにするような徳が明徳だろう。



これは多分に政治・教育の歴史によるところだが、
本来の道徳は明徳のみを指しているわけではない。

また、儒教的な考え方の中でも、
朱熹(朱子学)と王陽明(陽明学)ではスタンスが異なる。

陽明学は革命思想の色合いも強いため、
我々がいわゆる「道徳」で連想するのは朱子学の影響を受けた考え方
であることが多いと思う。

しかし、「徳」という概念を有用に捉えるためには、
いくつかの観方を知っていた方が便利だと思う。

安岡正篤の『王陽明研究』では、
中国思想における二大潮流を「真」と「善」と考え、
以下のような例えも引いている。

   かりに今周茂叔がその幽潜なる心を以て窓前の草に対してゐるとする。
   しばらく手をいれなかった庭に草が萋々(せいせい)として生えてゐる。
   何といふ瑞々しく健やかな、自然の力に溢れた相(すがた)であらう。

   彼の心境は全く融会して、人と草とここに一である。
   彼はただ現前の草を通じて宇宙無限の生意を感得する。

   この時彼において、ああ草が生えて困るとか、
   こんなに生えては花に悪からう。
   むしらねばならぬとか、この草をとって鶏にやらうとか、
   そんな一切の意思は動かない。

   草は何等彼の目的の俎上に供せられた手段ではなく、
   真に目的それ自身である。

   (中略)

   これに対して薛侃が花間の雑草をむしってゐる場合を想像する。
   彼はみづから花を栽培して、暇があれば雑草をかりとるのであるが、
   またしてもまたしても何時の間にか草が蔓ってならない。

   或日も彼は例の草むしりしながら、思はず舌打ちして呟いた。
   「人間の悪もこの通りだ。」

   この場合明らかに彼は草と背反してゐる。

   彼の心はすべて花の成長に注がれて、
   草それ自身とは何等内面的契合がない。

   否それに留まらずして草は常に花の成長といふ目的に対する
   手段として視られてゐる。

   そこで同じく雑草の繁茂ではあるが、薛侃にとっては「悪」であり、
   これに反して周茂叔においてはそのことに善もなければ悪もない。
   一に「真」である。

   すなはち善悪は我々の目的と手段との交渉する相対的境地であって、
   真はかかる境地を超脱した絶対的風光である。

   善悪の境地は厳粛で峻しいが、真の風光は無碍自由である。

         (安岡正篤 『王陽明研究』より抜粋)

「真」は玄徳的であり、「善」は明徳的だと思う。


《徳を積む、もしくは無為を為す》

玄徳にしても、明徳にしても、それはある性質に向かっていくことだと思う。

玄徳ではより自然なものへ向かっていくし、
明徳ではより明らかなものへ向かっていく。

玄徳においては積むという有為も否定されると思うので、
「無為を為す」という表現があるが、
ある態度であり続けることが大切だという点は
玄徳にも明徳にも共通していると思う。

これは自然についても同様だけれど、
個々にとって何が自然なのか、
何が調和的なのかというのはそれぞれに異なると思う。

ものすごく単純にいうと、自然も人も多様だし、
むしろそうであることによって成立していたりする。

自分にとっての徳を見つけて、
それを積んでいくということができると良いなと思う。

その上でなるべくなら、身近な人とはある程度は調和的であれると
理想的なのではないかと思う。

https://kourousakki.com/concept/toku/

           <感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>

「徳」を「いきおい」と読むのはなぜか - 伝統

2022/01/26 (Wed) 04:46:18


      *メルマガ「致知BOOK」(2022.01.21)より

「徳」というものを考えてみるとき、もう一つ面白い解釈があります。

奈良朝までの日本では、
「徳」という字に「いきおい」というルビをふっていました。

実はこれは天皇しか使ってはいけない言葉だったのです。

そしてこの字は、飢饉が襲ってくるというような
最悪な状況で天皇が発した詔の中でよく使われました。

「朕の不徳の致すところによって」

という意味合いの使われ方です。

自分に「いきおい」がなかったから、
このような事態を招いてしまったというわけです。

「徳」を「いきおい」と読むというのは、素晴らしい解釈です。

普通、「いきおい」と聞くと
「エイエイオー!」という「勢い」を思い浮かべますが、

この「徳」を「いきおい」と言うのは、
天の加護つまり天の助けを加えた行動だから、
それは「いきおい=徳」があると言っているわけです。

したがって、奈良朝までの日本のリーダーは、
この徳の本義である天と自分が密接な関係にあることを
自覚していて、

天の期待あるいは
宇宙の道理・道義に応えて自分が生きていくことによって
民にも豊かで幸せな生活をもたらすことができると考えていたのです。

この日本的な徳の解釈は素晴らしいものです。

これゆえ、聖徳太子の冠位十二階の一番上の冠位は

「徳」になっているのです。

「徳」という字はもともと中国から来た漢字ですが、
むしろ日本のほうがそれを深く読んで
実践に活用してきたと言っていいと思います。


では、「明徳を明らかにする」とはどういうことなのでしょうか。

たとえて言えば、こういうことです。

夜間に電気を消すと、真っ暗闇になって何にも見えません。

しかし、スイッチを入れた瞬間に、パッと明るくなってすべてが見えます。

これを「明明徳」と言います。

このように、一点の曇りもなく、
「徳をいただいた」と相手が思う。
それを「明徳を明らかにする」と言うのです。

この世の中にはいろいろな決まり事や教えがあります。

しかし、人生の根幹においては、
いつ何時でも自己の最善を他者に尽くし切る、
つまり徳を明らかにしていくことが重要なのです。

………………………………………………
『書経講義録』
 田口佳史・著
………………………………………………

           <感謝合掌 令和4年1月26日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2022/08/31 (Wed) 06:31:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 令和4年8月31日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2022/09/27 (Tue) 05:08:34


        *「光明法語」(9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事は
すべての善を悉く覆して反対効果に変じてしまう程の力を
もっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、
大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。

心が暗いと云う事は、
大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない
自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

       <感謝合掌 令和4年9月27日 頓首再拝>

【神様のポケット】に「徳」をためる人 - 伝統

2022/09/30 (Fri) 07:34:06


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.22)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   修道服についている大きなポケットを私は「神様のポケット」と呼んでいます。

   あいさつや笑顔を、たとえ返してもらえなくても、
   傷ついたり腹を立てたりするのではなく、

   自分からあいさつやほほ笑みをするたびに、
   神様へお渡しできるものがポケットに貯まっていくと考えるのです。

   神様へお渡しできるものをポケットに
   貯めておいて、一番いい時に一番いい人に
   使ってくださるようにと、神様と約束するのです。


   私も年齢的にあちこちに出かけていける機会が少なくなっていますが、
   そんな時にも

   「今、さみしい思いをしていらっしゃる、
    おじいちゃま、おばあちゃまがいらしたら、
    神様、私の代わりにその方を慰めてください。
    誰かをよこし て、そして言葉をかけてください」

   とお願いするのです。


   そのためにも、「神様のポケット」にたくさん貯めておかなければいけません。

   マザー・テレサは、笑顔の尊さ、
   一人ひとりをたいせつにすることを教えてくださいました。

   嫌な方とすれちがっても笑顔を見せる。
   その笑顔は、見た目 には相手の方に対してでありながら
   「それも神様に差し上げます」という思いで実行するのです。

   すると不思議なことに、ちっとも損した気がしなくなります。

      <『どんな時でも人は笑顔になれる』PHP研究所>

           ・・・

渡辺和子さんにはマザーテレサと会ったときの
忘れられないエピソードがあるそうだ。

(二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう/PHP研究所)より

『そのエピソードとは、笑顔についてです。

 マザーは渡辺さんに
 「私はどんな時でも笑顔で写真に写るようにしています」と話しました。

 それはマザーと神さまとの約束だからだそうです。

 カメラマンの中にはぶしつけな人もいます。

 目の前でいきなりフラッシュをたいたり、了解もなく、
 パシャパシャ写真を撮る人もいます。

 しかしマザーはいやな顔ひとつせず、
 どのカメラマンにも必ず笑顔で応えるのです。

 なぜなら、マザーは神さまに、あるお願いをしていたからです。

「本当はシャッターを押されるたびに、私は不愉快な気持ちになります。

 でもその気持ちを表さず、必ず笑顔で写るようにしてます。

 その代わり、私が笑顔をつくるたびに、
 神さまのお近くにいる誰か貧しい人をひとり救ってあげてください、
 と私は神さまとそういう約束をしているのです」

 いつも笑顔でいる理由はこれだったのか。

 渡辺さんは誰もいないところで、
 マザー・テレサからこの話を打ち明けられて感動した、と言っていました。』


良いことをしたはずなのに悪く言われたとか、
挨拶したのに無視されたということがある。

しかし、逆にいうならそれは、「徳」を積んでいるということ。

悪く言われる度合いが強ければ、その「徳」は多い。


しかし、それに対して、言い返したり、文句を言ったりしたら、
「徳」はなくなるばかりか、かえってマイナスとなる。


徳が一番高まるのは、それに対して「感謝」すること。


徳を積むことを「天の蔵に徳を積む」という。

まさに、神様のポケットにためることだ。


笑顔も、感謝も…

神様のポケットに「徳」をためる人でありたい。

       <感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝>

寛容、雅量の徳 - 伝統

2022/11/26 (Sat) 06:55:19


      *「光明道中記」(11月26日寛容の精神湧き出ずる日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖に徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

       <感謝合掌 令和4年11月26日 頓首再拝>

空の徳を生きる日 - 伝統

2022/11/30 (Wed) 07:19:39


          *「光明道中記」(11月30日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                    (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、
飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

          <感謝合掌 令和4年11月30日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2023/08/31 (Thu) 12:35:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 令和5年8月31日 頓首再拝>

徳を積む生活 - 伝統

2023/09/25 (Mon) 09:39:46

今の自分の生活が、来生の環境を細かく決めている最中です
伊勢ー白山 道(2023-09-24 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/cd424563dab71dd5a68d09e957920897

         <感謝合掌 令和5年9月25日 頓首再拝>

寛容、雅量の徳 - 伝統

2023/11/26 (Sun) 09:08:51


      *「光明道中記」(11月26日寛容の精神湧き出ずる日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖に徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

       <感謝合掌 令和5年11月26日 頓首再拝>

空の徳を生きる - 伝統

2023/11/30 (Thu) 09:42:39


    *「光明道中記」(11月30日《空の徳を生きる日》)より抜粋

中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。

中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、
却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、
また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、
形のみを集めんとするものは、飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

       <感謝合掌 令和5年11月30日 頓首再拝>

天の倉に貯える - 伝統

2024/02/22 (Thu) 10:13:14


     *「光明道中記」(2月22日《天の倉に貯える日》)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。
                   (「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、
天の倉に貯えられたる善行である。

すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを
先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と
言われるほどの不幸不運な人ならば、その人は天の倉に貯えられたる
自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、
その人が自己の運命を改善しようと思うならば、
先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が資本を積むが如く、
福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、
少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、
その貧しき運命の中にいて、善念を貯え、愛念を蓄え、
善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

         <感謝合掌 令和6年2月22日 頓首再拝>

正しい徳の積み方 - 伝統

2024/03/23 (Sat) 12:13:23

【必見】神様が喜ぶ ”正しい徳の積み方” と ”逆に徳が減るNG行為”。
知れば今日から人生が好転します♪
よつば ⌇ 波動×潜在意識で現実を変える方法(2023/08/26)
https://www.youtube.com/watch?v=ZQa3AEuSQ1g


【目次】
00:00 あなたも徳を積もう
00:59 正しく徳を積める5つの方法

(1)言葉遣いを変える。
(2)笑顔で過ごす。
(3)物を大切に扱う。

(4)困っている人を助ける。
(5)汚れている場所の掃除をする。

02:43 3つの間違った徳の積み方
12:18 徳を積んだら起こる良い事

<関連>

人生変わる!正しい徳の積み方と悪い行いからの出方
https://glarity.app/ja/youtube-summary/education/mustsee-the-correct-way-to-accumulate-14898447_204825

           <感謝合掌 令和6年3月23日 頓首再拝>

晩年に人生好転する人の“7つの徳” - 伝統

2024/05/10 (Fri) 12:19:10

【50代60代70代から】【余裕がでる】
晩年に人生好転する人は、こんな“7つの徳”を積んでいます。
高次元案内人 いけだ法弘(2024/04/27)
https://www.youtube.com/watch?v=gDJDOtHScr4

(1)感謝する。

(2)信じる。

(3)「称名」神霊の御名を心に唱える

(4)人に手土産を持って行って喜ばれる「物施」

(5)できるかぎり笑顔でいる「顔施」

(6)人の世の幸せを念じて祈る「念施」

(7)人に何かおしえてあげる「法施」

           <感謝合掌 令和6年5月10日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2024/08/31 (Sat) 13:42:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 令和6年8月31日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2024/09/27 (Fri) 07:10:01


        *「光明法語」(9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事は
すべての善を悉く覆して反対効果に変じてしまう程の力を
もっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、
大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。

心が暗いと云う事は、
大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない
自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

       <感謝合掌 令和6年9月27日 頓首再拝>

【ともに喜び、祝福すること】 - 伝統

2024/10/20 (Sun) 09:50:46

    *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年07月22日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より… )

   「強い立場」になればなるほど、
   大きく育ってくるエネルギーが、3つあります。

   「強い立場」とは、
   「ある組織の中で上位にいる」とか、
   自分のすることが「評価されたり」「賞賛されたり」、 
   「それなりの数字を達成した」などの場合です。
 
   「物質社会での成功者」と言ってもよいでしょう。

   その3つとは、「嫉妬心」「自己顕示欲」「復讐心」です。

   私は、「この3つは、心の中から完全に追い出すことはできず、
   抑え込むことはできるが、
   機会があればいつでも芽吹こうとしている根強いエネルギー。
   だから、いつも意識をして、
   大きく育てないように監視をし続ける必要がある」

   と思ってきました。


   そんな「嫉妬心」の対極に位置する言葉が、
   お釈迦様が残した「随喜功徳(ずいきくどく)」という言葉かもしれません。

   「随喜」とは「心の底から喜ぶ」「心の底からうれしいと思う」こと。

   「随喜功徳」とは、
   「人が喜んでいるときに同じ気持ちになって心の底から喜んであげること」が
   「功徳」(徳を積むこと、徳積み)になる、というものです。

   ずいぶん簡単な「徳積み」のように思えますが、

   人が幸せであることを「嫉妬」する心からしたら、その「嫉妬心」の対極にある、

   「我がことのように喜ぶ」ことは、意外に難しいことなのかもしれません。

   祝ってあげる、喜んであげる、

   そいうことを意識して積極的に表現するだけで「徳を積む」ことになる
   というのですから、ありがたく楽しい話ではありませんか。

       <『この世の悩みがゼロになる』大和書房>

           ・・・

「嫉妬心」「自己顕示欲」「復讐心」などが出てくるのは、
何も「強い立場」になったときだけではない。

例えば、お金や、地位、モノ、才能、順位、肩書、等々を、
誰かと比較したときにも、嫉妬心は出てくる。


人は、誉められたり、祭り上げられたとき、
舞い上がったり、有頂天になってしまいやすい。

そして、それが続くと、偉そうになったり、
得意になって人前で話をしたりするようになる。

逆に、他の人が成功したりすると、それを嫉妬したり、恨んだりする。

ドイツの大学でfacebookを利用している600人に対して調査したところ、
3人に1人は、閲覧後に嫉妬心や孤独感を感じて、落ち込んだことがあるという。

その原因の多くは、友人たちの
楽しそうにしている食事のシーンや、旅行の写真だったそうだ。


人の成功や、喜びをともに喜ぶこと、祝福することは、意外に難しい。

「随喜功徳」

ともに喜び、祝福することは、徳を積むこと。

・・・

<参照>

【簡単】3秒ですべての悩みが解決!実は、負ける訓練だけで潜在能力を発揮できる!
「この世の悩みがゼロになる」小林正観
YouTube図書館(2023/01/13)
https://www.youtube.com/watch?v=yjmIxPRAt58

00:00 オープニング
01:00 相手をまるごと認める
01:48 負ける訓練をする
03:17 二つの特別な日
04:48 この世に「雑用」という仕事はない
05:58 投げかけたものが現在をつくる
07:18 人生には成功も失敗もない
09:42 99%の人と1%の人
11:09 人間の喜び
12:52 「幸」と「不幸」はオセロゲーム
14:01 人間関係を解決する2つの方法
15:20 お金が無限に入ってくる方法

       ・・・

この世の悩みがゼロになる(大和書房)
SKP( 2021/06/17)
https://www.youtube.com/watch?v=nsIhpUqrv_c

       <感謝合掌 令和6年10月20日 頓首再拝>

【“ちいさな徳”を積む】 - 伝統

2024/11/23 (Sat) 09:48:47


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.9.25)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   私たち人間が心楽しく豊かに生きていくために、
   必要なものがいくつもあります。

   たとえばお金がそう、仕事もそう、友だちもそうでしょう。

   幸せに、豊かに生きていくには、いろんなものが必要なんだ、って、
   みなさん言いますよね。


   ところが、意外と、うっかり忘れてしまいがちなものがあります。

   それは何かというと、“ちいさな徳”なんです。


   まずは“徳”とは何か、ということなんですけれど。

   簡単に言うと、“徳”とは、人の幸せに貢献することです。

   ただし、私が言う“徳”とは、
   日本からはるか遠くにある国々の幸せに貢献しようとする前に、
   まず今ここ、目の前なのです。

   今、自分の目の前にいる人の心の重荷を軽くしたり、
   人の心が明るくなることをする。

   これが、私が考える社会貢献であり、“ちいさな徳の積み立て”なんです。


   “ちいさな徳の積み立て”とは逆に、
   徳がマイナスになるようなことは何かというと、以下の三つになります。

   ・不機嫌そうな顔(真顔)で人に接する

   ・人の悪口や文句を言う

   ・心配や恐怖をあおるようなことを言う、など。


   簡単に言うと、人の心を暗くしたり、重くしたりすることが
   徳をなくす、というわけです。

   “ちいさな徳”を積む、つまり人の幸せに貢献する、というと、
   相手ばかりが得をするような気がするでしょう。

   ところが、実際にやってみると、貢献されている人よりも、
   貢献しているほうがうんと幸せで豊かになっちゃうの。


   どうして貢献したほうが幸せなのかというと、
   人は他人に喜ばれたときに最高に幸せで豊かになるように
   神さまが創ったからだと私は思っています。

   「あなたのおかげで助かりました」
   なんて言われたら、もうたまらないよ。

   生まれてきてよかった、最高に幸せだなって、思えてくるからね。

   そういう豊かな気持ちで日常を過ごそうと心がけていると、
   自然と天に守られて、 想像した以上にウマくいく人生になっちゃうんですよ。

        <『お金に好かれる働き方』内外出版社>

        ・・・

斎藤一人さんは“ちいさな徳の積み立て”について、こう語っている。


『 “ちいさな徳の積み立て”をすると
 人生は豊かになる、ということはわかった、と。

 では、具体的にどんなことをすればいいんですか、
 というと 「自分が持っているもので、なおかつ、
 人にあげても減らないもの」

 これを、会う人会う人たちに配るのがいいんです。

 「自分が持っているもので、人にあげても減らないもの」とは何か。

 たとえば、笑顔がそうです。

 会う人会う人に笑顔で接していて、笑顔がなくなってしまいました、
 という人に、私は会ったことがありません。

 言葉もそうです。

 やさしい言葉、人の肩の荷を下ろすような言葉を、周りの人たちに、
 かけても、かけても、なくなることはありえないですよね。

 それから、自分が得意なことのなかにも
 「人にあげても減らないもの」があるかもしれないですよね。

 たとえば、自分が人と比べて
 仕事の手が早くて同僚より早く仕事が終わるのだとしたら、
 「手伝ってあげるよ」って声をかけることだって、できますよね。

 それと、もうひとつ、一番大切なことがあります。

 それは何かと言いますと、
 自分で自分の機嫌をとることなんです。』



「“ちいさな徳”を積む」とは、
人の心を明るくすること、人に喜んでもらうこと。

たとえば、知り合いや友達が「成功」したり、
仲間に「ラッキーなこと」があったとき、それを祝福すること。

それを仏教では「随喜功徳(ずいきくどく)」という。

一緒になって、喜び、「よかったね」ということ。

逆に、それを、ねたんだり、くさしたり、冷やかしたりすると徳はなくなる。


人の心を明るくすること・・・

いつも、笑顔で、機嫌よく、あたたかい愛ある言葉を投げかけること。


日々、“ちいさな徳”を積むことができる人でありたい。

      <感謝合掌 令和6年11月23日 頓首再拝>

寛容、雅量の徳 - 伝統

2024/11/26 (Tue) 10:45:20


      *「光明道中記」(11月26日寛容の精神湧き出ずる日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖に徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

       <感謝合掌 令和6年11月26日 頓首再拝>

空の徳を生きる日 - 伝統

2024/11/30 (Sat) 12:05:19


          *「光明道中記」(11月30日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                    (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、
飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

          <感謝合掌 令和6年11月30日 頓首再拝>

徳を高め、品格を高める - 伝統

2025/01/17 (Fri) 14:35:43


       *メルマガ「勝ち神からの手紙」(2025.1.17)より抜粋

新年には毎年恒例の京都参拝を行います。
参拝の後は、行きつけの料理屋さんで、新年の宴会です。
宴会場は座敷で、高足膳で料理を出してもらうことにこだわっています。

日本の正月料理を頂くには、 
日本人の作法でなければよい運気がめぐってこないからです。

品格を高めるためには、自らの修養が必要です。
修養の場として食事はとても大切です。

食事には作法があります。
その作法を守ることは、食事を作って出してくれている
料理屋さんに対する敬意を持つということです。

もちろん食材に対する「命を頂く」という敬意も大切です。
食べる前には「頂きます」とあいさつします。

これも作法のひとつですが、何に対して挨拶をしているかと言えば、
食材の命を頂く事と、お店のおもてなしの心を頂くということに対してです。

料理を食べる時に使う道具は「箸」です。
箸は「はし」という言葉ですが、
「あるもの」と「あるもの」をつなぐものという意味があります。

橋はこちらの岸と向こうの岸をつなぐものですから、「はし」と言います。

食事の場合は、私の命と食材の命をつなぐもの、
私の心と料理屋の心をつなぐものという意味になります。

ですから、日本の料理は「箸」の使い方にもキチンとした作法があります。
この作法を守らないと、下品な食べ方になってしまいます。
そうすると、私たちの体の中に良い運気が入ってきません。

作法を守って食事をすることを心がければ、品格が高まってくるのです。

仕事の場においても、接待は食事が伴います。
上品に食事をすれば、相手から信頼を得ることになり、仕事も順調にいくのです。

そもそも接待の目的は、
相手を見極めることであり、お互いの関係を近づけることです。
相手が信頼できる人物であるかどうかを見るために、食事の場があるのです。

先日の宴会では、高足膳に箸袋に入った箸が置いてありました。
新年ですから、お祝いの意味でお店が箸袋を用意してくれました。

京都では新年に料亭に行くと、
祝い膳の上に、箸袋に入った柳の木で作った箸が入っています。
そして、箸袋には「柴田御旦那様」と書かれています。

箸の長さは24cm、八寸です。末広がりの意味があります。
高足膳で食事をするからこそ、箸袋に入った箸が運を呼び込む道具になるのです。

品格を高めることが、仕事も人生も豊かになっていくことは確かです。
そして、品格を高めるためには「徳を積む」ことが大切だともいわれます。

よく「徳を積むには何をしたらいいのでしょうか」という質問をされます。
なかなか難しい質問です。


松下幸之助さんは、運や徳を重んじていた人ですが、
徳について残っている話がありますので紹介します。

「君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、
 もうそのことが徳の道に入っていると言えます。

 「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」
 「なら、そうします」というようなものとは違う。

 もっとむずかしい複雑なものです。
 自分で悟るしかない。
 その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。

 「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」
 「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。

 人間として一番尊いものは徳である。
 だから、徳を高めなくてはいかん、と。

 技術は教えることができるし、習うこともできる。
 けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。」

徳を高め、品格を高めることを目指していきたいものです。

           <感謝合掌 令和7年1月17日 頓首再拝>

善徳貯金の重要性 - 伝統

2025/03/18 (Tue) 12:57:44

善徳貯金の重要性
伊勢ー白山 道(2025-03-18)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/64c0aa5f1e680001ade66d37282093ed

           <感謝合掌 令和7年3月18日 頓首再拝>

実は徳を積んでいる人の特徴8選 - 伝統

2025/04/25 (Fri) 08:43:52

実は徳を積んでいる人の特徴8選
えらせん(2025.4.24)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/68b6e642f72649b926e37a74b6fb7056be8380c4

(以下は抜粋です)

(1)見返りを求めずに善行をする。

(2)誠実で約束を守る。

(3)人の悪口や陰口を言わない。

(4)人を許す寛容さがある。

(5)感謝を忘れない。

(6)人を励まし、希望を与える。

(7)他人の幸せを願い、行動する。

(8)困難な状況でも善を貫く。

           <感謝合掌 令和7年4月25日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2025/08/31 (Sun) 12:09:54


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 令和7年8月31日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2025/09/27 (Sat) 10:19:27


        *「光明法語」(9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事は
すべての善を悉く覆して反対効果に変じてしまう程の力を
もっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、
大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。

心が暗いと云う事は、
大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない
自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

       <感謝合掌 令和7年9月27日 頓首再拝>

寛容、雅量の徳 - 伝統

2025/11/26 (Wed) 11:49:06


      *「光明道中記」(11月26日寛容の精神湧き出ずる日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖に徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉く
もっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、
冬には葉を枯らし、風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

       <感謝合掌 令和7年11月26日 頓首再拝>

空の徳を生きる日 - 伝統

2025/11/30 (Sun) 11:26:43


          *「光明道中記」(11月30日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。
                    (『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、
飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、
物質が波に還元する時電波となるが如きである。

          <感謝合掌 令和7年11月30日 頓首再拝>

孤独の徳、和楽の徳 - 伝統

2026/01/27 (Tue) 09:50:09


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より
《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

            <感謝合掌 令和8年1月27日 頓首再拝>

何物をも包容しつつ、強く大きく生きることは美徳のひとつ - 伝統

2026/01/30 (Fri) 10:00:34


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月30日)より抜粋

明るく生きることは人生の一つの美徳である。

強く生きることも一つの美徳である。

大きく生きることはさらにまたもう一つの美徳である。

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと
生命(せいめい)の大地を踏みしめて行くことは常によい。

外面(がいめん)の虚栄や五官の快楽には
強さがなく、大いさがなく、広さがなく、包容性がなく、
それが常に狭く個人的なものになりたがるから低卑なのである。

孤独ということも、それが個人的なかぎりにおいては
人の生長を害(そこな)うものである。

        <感謝合掌 令和8年1月30日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと - 伝統

2026/08/31 (Mon) 11:48:44


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月31日)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 令和8年8月31日 頓首再拝>

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