伝統板・第二
当たり前に功徳あり② - 伝統
2020/12/20 (Sun) 04:38:20
*伝統板・第二「当たり前に功徳あり」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7590773
【どれほど満たされているかに気づくこと】
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020年09月15日)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
悩みや苦しみは向こうから勝手にふってくるものだ、
と思っているかもしれませんが、
悩みや苦しみというのは、自分が足りないものをあげつらねて、
「足りないものをよこせ」と言っているだけのようです。
結婚している人は
「どうしてこんな人と結婚してしまったんだろう。
もっといい人がいたかもしれないのに」と言い、
結婚していない人は、
「自分にふさわしい結婚相手がほしい」と言います。
太っている人は「やせたい」と言い、
やせている人は「太りたい」と言います。
夢と希望とは、ないものをほしがること。
ないものをほしがるのではなく、
自分がもっているものをよろこぶと、
自分がどれほど恵まれているかに気がつきます。
「女性に生まれて損だった。女は男に比べて損ばかりだ」
と言っていた女性がいます。
それに対して、こう言った女性がいました。
「あら、私はそうは思わない。
女性は、ズボンを履いてもいいし、スカートを履いてもいい。
選択肢が二通りある。
女性は、イヤリングをしてもいいし、しなくてもいい。
これも選択肢が二通りある。
靴は平底の靴でもいいし、かかとの高い靴を履いてもいい。
これも選択肢が二通りある。
常に女性のほうが男性の二倍の選択肢がある。
それは自由度が二倍あるということ。
だから、女性に生まれてきてよかった」
考えてみれば、そのとおりです。
ないものをねだるのではなく、自分に与えられて、
すでに恵まれているものに目を向けたら、
人間はどれほど恵まれているかわかりません。
人間が「夢や希望」と言っていることは、
何か気に入らないことを宇宙に向かって言っているだけ
かもしれません。
どれほど満たされているか、ということに気がつくと、
来る日も来る日も感謝になります。
ありとあらゆるものに感謝をしていると、
面白いことに神さまや宇宙は味方をしてくれて、
「そんなによろこんでいるのだったら、もっとあげちゃおう」
ということになるようです。
<『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房
https://amzn.to/3bREk3P >
・・・
「今はないものについて考えるときではない。
今あるもので何ができるかを考えるときである。」
アーネスト・ヘミングウェイの言葉だ。
人は、ついつい、今無いものを求めてしまう。
このコロナ禍においては、
多くの飲食店やホテルなどで、お客さんが減ってしまった。
そんなとき、お客さんが来ないことを憂(うれ)えるのではなく、
こんなコロナ禍でも、今、来てくれているお客さんに
心から感謝し、大事にすること。
人は、「何かを失ってみて、初めてその大切さに気づく」、
という習性がある。
それは、肉親だったり、大切な人だったり、あるいは健康だったりする。
すると、いかにあたりまえの日常が大切だったのかに気づく。
「有り難う」の反対は「当たり前」だ。
「ありがとう」とは、有ることが難しい、奇跡のようなこと。
だから、その反対は「あたりまえ」。
コロナのないあたりまえの日常が、いかに有り難いことだったのか。
ハグできること、握手できること、
マスクなしに面と向かって話ができること、
皆でワイワイ騒げること、外国に旅することができること…
今、どれほど満たされているかに気づくと…
あらゆることに感謝の念がわいてくる。
<感謝合掌 令和2年12月20日 頓首再拝>
当り前のことに有難いと判るのが悟りである - 伝統
2021/01/03 (Sun) 02:26:06
*「光明道中記」(1月3日《そのまま素直な日》)より
【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
(「生命の實相」第十二巻)】
一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って
吾々を生かしてくれていると知るのが悟りである。
斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。
料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が
如何に鹹(から)く、如何に酸(す)っぱきかを思え。
既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。
既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。
犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。
足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。
到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。
到るところに大自然の恵満ちたり。
霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。
<感謝合掌 令和3年1月3日 頓首再拝>
当たり前のことが、楽しい、嬉しい - 伝統
2021/02/23 (Tue) 02:32:35
*「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より
【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。
(「生命の實相」第十九巻)】
朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。
当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。
朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、
その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。
異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。
それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。
それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を
見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じている
そのことによって支持されているのである。
其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。
太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くない
と云って昇らなくなったら――?
<感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>
あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統
2021/03/15 (Mon) 03:59:24
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より
心をしっかりと持つこと。
上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。
腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。
あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。
<感謝合掌 令和3年3月15日 頓首再拝>
当り前の事が当り前に出来る日 - 伝統
2021/04/12 (Mon) 03:21:47
*「光明道中記」(4月12日)より抜粋
【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
(『百事如意』)】
何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。
「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。
またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2021-04-11 )
平和で退屈なことが最高だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/501cdb35f54aa9df05503181c3b5f829
<感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>
【面白さを見つけ、それを楽しむ】 - 伝統
2021/04/28 (Wed) 04:28:39
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.03.17)より
(心理学者、多湖輝(あきら)氏の心に響く言葉より…)
人は個性の強い人に憧れをもつ。
世の中を楽しそうにわたっているなと思う人は
みんなそれなりの個性を持っている。
それに比べ自分はと、わが身をふり返れば
「際立った個性はないな」とため息が出る、
そんな人が多いのではないだろうか。
周りの人たちから「いい人だね」と、
まるで十把一絡(じっぱひとから)げのように、
まとめていわれてしまうのを気にしているような人たちだ。
別に個性が強くなくても「いい人」にはなれる。
人畜無害というレッテルを張って
生きているようなものだと、自嘲気味にいう人もいる。
おもしろみがないといいたいのだろう。
でもほんとうはそんなことはない。
世の中をおもしろくしているのは、個性的な生き方をしている人ではない。
一握りのそういう人たちは、いってみれば
料理のスパイスのような存在だから、ただ目立っているだけなのだ。
世の中をおもしろくしているのは、
「いい人だね」と一まとめにされてしまうような、
ごくふつうの人たちなのである。
おそらくわたしもその中の一人だろう。
わたしは強烈な個性は天から授からなかったと諦めて、
肩肘張らずに生きてきた。
それで十分楽しんでいるのだからそれでいいと思う。
<『「ホンネが丸見え」60の心理術』新講社ワイド新書
https://amzn.to/3qPkxb5 >
。。。
小林正観さんの「主食は味が薄い」という話がある。
『質問をします。「日本の主食は何でしょう?」
日本の主食は“米”。
西洋の主食は“パン”。
「では、お米とパンに共通していることは何でしょう?」
それは“無味無臭”であるということ。
例えば、ステーキはいろいろなお店で、
シェフが独自の味付けをしています。
それは、それでおいしいものです。
スパゲティなら、トマトだったり、バジリコだったり、
キノコだったり、クリームソースだったり、というように
いろいろな味付けをすると、それなりにおいしくなります。
しかし、おいしいものが月に30日出てきて、
主食になりうるかと言うと、なりません。
なぜかというと、
主食の絶対的な条件は無味無臭であることだからです。
すなわち、主食の条件は“味が薄い”こと。
主食の味が薄いと、
まわりのおかずはどんな味でも引き立ちます。
そして、いい味のものがまわりにたくさん集まって、
全部が「おいしい」と言われるようになります。
このことから、人が集まるところで、
中心にいる人は、どのように生きればよいかが
見えてくるのではないでしょうか。
実は、中心にいる人は“いかに味が薄くなるか”
ということが重要らしいのです。
これがわかってくると、とても面白くなります。
たくさんの人に囲まれて、グループの中心に存在する人が、
すごく個性的で自己主張していることがあります。
このような自己主張の強い人の周りに
集まっている人は、味の薄い人が多くなってしまいます。
味の濃い人は、そばにいることが許されません。
あなたは味が濃すぎる、と中心にいる人から蹴られてしまうのです。
ところが、中心にいる人の味が薄ければ薄いほど、味が濃い人でも蹴られずに、
「いい味だよね」
「こういう味だよね」
「おいしい味だよね」
と言ってもらえるので、一人ひとりが、すごく楽しくて集まってきます。
そして、おいしい味の人同士が、
「あなたもいい味だよね」
「いいえ、あなたこそ」
とお互い褒めたたえ合う集団になります。
しかも主食は別の人なので、集まってくる人は、
自分が主食になろうとはしません。
だから、自分が志したわけではないのに、
たまたまグループの中心になってしまったというような人の周りには、
面白い人が集まってくるようです。
自分が淡々と生きるのはいいですが、
「こういう生き方をすべきだ」と大声で言い始めると、
周りが息苦しくなります。
情報は伝えても淡々と生きていくこと。
そうすると、周りに人が集まってくるようなのです。』
(神さまに好かれる話―悩みを解消する法則/五月書房)より
毎日の食事が、三つ星レストランの料理だとしたら、
最初は美味しくて感動しても、3日もすれば
飽(あ)きてしまい、さっぱりした食事が恋しくなる。
三つ星レストランの料理は、
たまに(一生に一度くらい)食べるから感動する。
ご飯やパンは長く食べても飽きないし、
かめばかむほどじっくり味わうことができる。
人生もこれと同じで、
毎日が波乱万丈で刺激のある日々なら、
多くの人はストレスにやられ、半年もしないうちに病気になる。
じつは、何事も起きない、平々凡々とした日々こそが、「有り難い」。
「有り難い」とは、有ることが難しこと、稀(まれ)なこと。
それが禅でいう「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」。
淡々とした毎日こそが、好(よ)き日である。
むしろ、強烈な個性がないことを楽しみ、そしてそれをじっくり味わう。
平々凡々と過ぎる毎日の中に…
面白さを見つけ、それを楽しむことができる人でありたい。
<感謝合掌 令和3年4月28日 頓首再拝>
「当たり前」は奇蹟以上にすばらしい! - 伝統
2021/06/13 (Sun) 04:53:17
*『生命が悦ぶ生活』谷口清超・著 より
「当たり前」のことが、とても嬉しく有難いことだ。
手が動き、足が動き、「あたり前に呼吸ができる」という、その
「当たり前のこと」が、とても有難くすばらしい。
‘奇蹟’を求めて、それが信仰の証しだというのは、
‘奇蹟’にとらわれた考えだ。
「当たり前」の中にこそ「神の子」の実体があるのだ。
「当たり前」は奇蹟以上にすばらしい。
http://michie-h.jugem.jp/?page=1&cid=80
<感謝合掌 令和3年6月13日 頓首再拝>
当たり前に有難さを感じるのが功徳である - 伝統
2021/07/01 (Thu) 04:58:48
*「光明道中記」(7月1日《ただ有り難い日》)より
【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
当り前の人間が神の子である。 (「生命の實相」第二巻)】
梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、
奇瑞があらわれて天から葩(はなびら)がサンサンと降り、
地が黄金に変じたといわれている位である。
その位の武帝であっても、
まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。
当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので
武帝は早速達磨大師を迎えて教を聴いたのであった。
「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して
供養したことは実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」
「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。
功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。
心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。
<感謝合掌 令和3年7月1日 頓首再拝>
《自分の》功徳はない、当たり前に功徳が充満している - 伝統
2021/07/02 (Fri) 04:15:24
*「光明道中記」(7月2日《偽物(にせもの)を捨てる日》)より
【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】
寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施してその功徳いくばくなどと思うのは
凡(おそ)そこれに過ぎたる愚問はない。そういう問を発する心の中には、
「供養誇り」と云うホコリで醜く充満しているのである。
「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。
その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。
天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。
何か善いことをして、それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。
《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。
無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。
奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。
或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき
一切功徳を蒙(くら)ましているのである。
<感謝合掌 令和3年7月2日 頓首再拝>
《それって、本当に当たり前でしょうか?》 - 伝統
2021/07/30 (Fri) 04:39:22
*Web:今日も良いことがあるように(2019/02/26)より
感謝する習慣をもっている人は気づいています。
当たり前なことは、ほとんどの場合、実は当たり前でないと・・・
例えば、今日ご飯が食べられること。
これは日本では当たり前のように思われているかもしれません。
でも、実際は日本の子どもの貧困率は先進国では非常に高く、
ご飯を満足を食べられない子どもは大勢います。
ましてや、世界では全然当たり前ではありません。
アフリカやアジアの貧しい人びとは、
昨日も今日も食べるものがなくてお腹を空かしています。
餓死していく人もいます。
ですから、自分は日本に生まれてきて有り難いな、
こうしてご飯が食べられて有り難いな、と感謝できるのです。
また、おかずの一つに目を向けても感謝できます。
このおかずは、お母さん(あるいは奥さん)が作ってくれたんだ、
健康を考えて、栄養のバランスも考えてくれてるんだな、有り難いな。
他のことで疲れているのに、一生懸命に、
毎日おいしいご飯を作ってくれて有り難いな、と感謝できるのです。
さらに、食卓にのっているすべての食べ物が、
なぜ、いまここにあるかを考えると感謝できます。
これらは、自分が作ったものでもなく、自分が獲ったものでもありません。
誰かが作り、育て、獲り、運び、取引され、料理され、
食卓にのっていることを思い巡らします。
もしも牛や豚を自分で育てようとしたら、これはもう大変なことです。
米や野菜を作ることも簡単ではありません。
産地から店まで運ぶのも、手間隙がかかることです。
それらをすべて誰かが自分に代わってしてくれています。
そのおかげで、食事できることは、実に有り難いことなのです。
私たちは、考えることによって知ることができます。
目の前の当たり前のことは、
本当は、当たり前に起こっているのではありません。
多くの場合、目には見えない誰かの気配りや努力、
温かな愛情に支えられているのです。
病気になれば、健康の有り難さが分かるように、
当たり前のことは、それを失ったときに、その本当の価値に気づくものです。
でも、失われないうちにも、私たちは、自分の心の視野を広げることで、
自分がいかに多くの有り難いものに恵まれているか、
気づくことができるのではないでしょうか。
当たり前のことに「ありがとう」と感謝しよう。 (^.^)
https://lucky.t-nakai.work/2019/02/26/custom-30/
<感謝合掌 令和3年7月30日 頓首再拝>
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。 - 伝統
2021/10/26 (Tue) 06:35:40
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月26日)より要約抜粋
わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。
(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
鉱脈透視の霊能を得ており、
出資者が欲しいとのことでの来訪であった)
(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)
「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
この人なら君に協力してくれるという。」
(A氏は、自分は多くのことを知っており、上司の部長はつまらない男だ、と言う)
(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)
「君は能力もあるし、学問もある。
それでいて協力者がないというのは、
君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。
君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは
君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
そのために大事なところを見のがしてしまう。
そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」
(A氏は、部長は何を言っても信じない。
こんな部長を拝むことはできない、と言う)
(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)
「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
人間に内在する神性を礼拝する。
どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
それを拝むようにすれば、
部長も君を拝んで協力を求めてくるにちがいない」
「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。
これは否定できない真理なんだ。
君は協力者を求めているが協力者はすでにある。
君の地位をもっていて君の能力を持っていて協力者がないというのは、
ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」
(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。
ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。
奇跡に見とれている間に
大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。
<感謝合掌 令和3年10月26日 頓首再拝>
当たり前のことが、楽しい、嬉しい - 伝統
2022/02/23 (Wed) 08:01:35
*「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より
【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。
(「生命の實相」第十九巻)】
朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。
当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。
朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、
その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。
異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。
それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。
それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を
見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じている
そのことによって支持されているのである。
其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。
太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くない
と云って昇らなくなったら――?
<感謝合掌 令和4年2月23日 頓首再拝>
あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統
2022/03/15 (Tue) 06:38:18
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より
心をしっかりと持つこと。
上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。
腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。
あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。
<感謝合掌 令和4年3月15日 頓首再拝>
当たり前の生活の中に、神恩仏徳が充満している - 伝統
2022/07/01 (Fri) 07:21:08
*「光明道中記」(7月1日《ただ有り難い日》)より
【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
当り前の人間が神の子である。 (「生命の實相」第二巻)】
梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて
天から葩(はなびら)がサンサンと降り、地が黄金に変じたといわれている位である。
その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。
当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は
早速達磨大師を迎えて教を聴いたのであった。
「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは
実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」
「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。
功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。
心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。
<感謝合掌 令和4年7月1日 頓首再拝>
【「あたりまえ」が「あたりまえでない」世の中】 - 伝統
2022/07/12 (Tue) 07:13:56
*メルマガ「島津マネジメントレター」(2022.07.08)より
私はシンガポールに拠点を移してから、
いろいろな国の方と接するようになり、
日本でのあたりまえが海外ではあたりまえでないことや、
人間にとってのあたりまえが、
あたりまえでなかったりすることを痛切に感じ、
今まで以上に「個性」とか「違い」とか言うものに
寛容になった気がします。
日本ではあたりまえのように整っている社会保険制度が、
あの先進国アメリカをはじめ海外ではあたりまえでなかったりします。
水道水が飲めるのがあたりまえの日本やシンガポールですが、
水道水が飲めないことがあたりまえの国の方が多いという現実。
我々は毎日のように普通にご飯を食べていますが、
毎日ご飯を食べることができないのがあたりまえの国もあったりします。
私の友人で、
アフリカのある国を訪問された時のことを聞いたのですが、
休暇を取るために、
「昨日は叔父が死んだ」
「今日は妻の親が死んだ」
と嘘ばかりいう、それを罪と思っていないとか、
人の持ってるものを
「くれくれ」いうのは恥ずかしいことではないとか。
国が変わればいろいろな文化があると驚きました。
あたりまえのように見ている日本中心の世界地図も
国が変わると全然変わります。
その国の人にとっては、
日本中心の地図がものすごく違和感を感じます。
イギリス中心の世界地図
https://leaders-ac.biz/Lb24968/513391
アルゼンチン中心の世界地図
https://leaders-ac.biz/Lb24968/613391
日本では時間や約束を守るのが当たり前ですが、
国によっては破るのが普通だったりします。
私もある国を訪れたときに
ツアーの観光バスを待っていたのですが、
30分以上遅れてきてたにもかかわらず、
添乗員の方が、
「日本のお客様相手なので、これでも随分ましな方で、
2時間くらい遅れるのは普通だ」
と聞いて、驚いた記憶があります。
以前、
小児ガンの子供と接する機会がありました。
その時、ある子供が、
「僕は大人になることが夢なんだ」
と言った一言が今でも忘れられません。
健康な子供にとっては
大人になっていくことがあたりまえかもしれませんが、
こうした子どもたちにとっては、
大人になることが夢だったりします。
また、病気で膀胱に尿がたまると
「おしっこがしたい」という信号を
脳に送る神経を切断してしまった方が、
「僕はもう二度と自分でおしっこをしたいと思えないんだ」
と言っていたことがありました。
我々にとっては
「おしっこをしたい」と思えることがあたりまえですが、
この方にとってはあたりまえではないのです。
また、腰の曲がったおばあちゃんが
「もう一度腰を伸ばして歩きたい」
と言っていたことがあります。
我々にとっては
腰を普通に伸ばして歩くのがあたりまでも、
このおばあちゃんにとってはあたりまえでないのです。
そう考えてみると、
我々があたりまえのように手に入れているものに
もっと感謝をして、もっと特別に思い、もっと大切に生きることができたら
人の幸せの価値観が変わってくるような気がしてなりません。
私は仕事をしていく上で信念があります。
それは、
「誰もができるようなあたりまえのことをことを、
誰もができないくらい徹底してやれること」
だと思っています。
だから、
あたりまえをあたりまえと思わないで
愚直にやることが大切なんです。
ですから、私のセミナーは
新しい刺激を求める経営者にはつまらないと思います。
でも、そのあたりまえを、
どう徹底して、どう実践していったらいいかを学びたい方には、
とても刺激的だと思います。
「聞いたことある」
「あたりまえのことなので・・・」
と言って、
今、目の前にある「あたりまえ」のことを新しい目で見ることができない人は
新しい情報を得ると上手くいくと勘違いしている人だと私は思っています。
私の好きな言葉で
「本当の発見の旅とは、新しい土地を探すことではなく、新しい目で見ることだ」
(フランスの哲学者 文学者マルセルプルースト)
があります。
経営や人のマネジメントで行き詰まっている方、
今、目の前にある「あたりまえ」のことを、新しい目で見てみてください。
きっと、今まで見たことがない、何か新しいことが見えると思います。
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2022-02-05 )
当たり前なことを、心から大切にすること
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/831316bf8c9fc03a420969b743de6154
<感謝合掌 令和4年7月12日 頓首再拝>
平々凡々が道 - 伝統
2022/07/14 (Thu) 07:23:51
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より抜粋
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。
至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。
天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。
或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、
或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、
机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むこと
の3つを実行するように教えて
それを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。
まことに平々凡々が道なのである。
<感謝合掌 令和4年7月14日 頓首再拝>
当り前が道なのである - 伝統
2022/07/15 (Fri) 07:37:00
*「光明道中記」(7月15日《道が生活に生きる日》)より
【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。
(『生命の實相』第八巻)】
手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないと
その人に道が生きていないのである。
人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。
飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。
「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と
「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても
道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。
それは茶道に一致する。
吾等の生活は行住坐臥
「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。
大調和である。
清和である。
清(せい)は整(せい)であり、整えるである。
無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに
一切の行持(ぎょうじ)が、茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。
<感謝合掌 令和4年7月15日 頓首再拝>
当たり前という手近なところに道がある - 伝統
2022/07/16 (Sat) 07:32:55
*「光明道中記」(7月16日《道を歩む日》)より
【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】
趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。
ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。
「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)
と趙州は答えた。
「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。
人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。
「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」
と趙州は答えた。
道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。
人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。
手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。
至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌うとはよく言ったものである。
<感謝合掌 令和4年7月16日 頓首再拝>
【すべてのことは「当たり前」ではない】 - 伝統
2022/09/05 (Mon) 04:53:03
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.03)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
この世で人生の成功者になるには、ただ一点、感謝です。
逆をいうと、「当たり前」といった瞬間から、不幸が始まる。
だから、夫婦だって、旦那さんがお給料をもってきてくれたら、
「ありがとう」 なんです。
なのに......。
「夫は働いてお給料を家に入れるのが当たり前だわ」という
奥さんもいます。
旦那さんのほうも、奥さんが料理を出すのを
「当たり前だ」と思って黙って食べ、
「ごちそうさま」 もいわない。
「それが夫婦ってものですよ」 というけれど、
そんなことをしていると、どうなるか。
間違いなく、血みどろの戦いになります(笑)。
「お互いわかっているから、
『ありがとう』『感謝してます』っていわなくてもいいんだ」
ではないのです。
お互いわかっているのに、
いいあわないから、血みどろの戦いになるのです。
もっと、しあわせになりたかったら、お互い感謝してください。
会社へ行っても、そうですよ。
給料日に、当然という顔をして給料をもらっている人もいるけれど、
社長さんに、 「ありがとうございます」 「感謝してます」って、
いってごらん。
この一言をいえるか否かで、人生、えらく違ってきますよ。
<『運命は変えられる』KKロングセラーズhttps://amzn.to/3KAQijH>
・・・
自分の体だって、健康でいるのが「当たり前」と、
体をいたわらなかったら、病気になります。
体をいたわらないとは、
日頃、健康でいることに、感謝を忘れてしまうことです。
また、たとえば、
我々は日本に生まれたことを「当たり前」だと思っています。
しかし、世界には貧困や飢餓で苦しんでいたり、
戦争状態にある地域などが多くあります。
そんな中、我々は、
日本に生まれたことへの感謝を忘れてはいないかです。
また、今回のコロナ禍での様々な行動制限がありました。
海外旅行に行けること、普通に外食できること、
大人数で宴会ができること、ハグしたり、握手したりすること、
そんな当たり前だと思っていた日々がコロナ禍で一変しました。
普通に今までのように、マスクしないこと、
大声でしゃべることや、密になることが、
如何にありがたいことだったのかと気づかされました。
まさに、すべてのことは「当たり前」ではありません。
我々のまわりにある「当たり前」に気づき…
おかげさまと、感謝の念で暮らしていきたいと思います。
<感謝合掌 令和4年9月5日 頓首再拝>
【「当たり前」病】 - 伝統
2022/11/07 (Mon) 08:01:38
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.21)より
(諏訪中央病院名誉医院長、鎌田實(みのる)氏の心に響く言葉より…)
兵庫県の中東部、丹波市と隣の篠山(ささやま)市からなる
丹波地域の人口は、約11万6千人。
3つの基幹病院があり、7人の小児科医が働いていた。
3病院で小児科輪番制をしき、夜間救急外来を分担していた。
医師不足と経費削減のあおりを受け、1つの病院の小児科がつぶれた。
もう1つの病院も、小児科医が1人になった。
輪番制は機能しなくなった。
丹波市にある県立柏原(かいばら)病院でも、
小児科医が3人から2人に減っていた。
さらに、県の人事で、うち1人が院長に就任することになった。
小児科医が実質、自分1人になると聞いたとき、
和久祥三は、もう限界だと絶望したという。
当時すでに、月に7日以上も宿直や地域の輪番があり、睡眠不足が続いていた。
心身ともに疲れ切っていた。
このうえ、現場で働く人間がまた減ったら、
丹波地域の小児1万8千人の命を、自分と別の病院の医師、2人だけで
あずかることになる。
こんな体制で勤務を続けていたら、医療事故を起こしてしまう。
続けるほうが無責任じゃないか…。
悩んだ末に、和久は辞職を宣言する。
和久医師が辞職をすると耳にし、
丹波新聞の記者、足立智和が、医療キャンペーンをはった。
子育て中の女性たちの声も記事にしようと、座談会を開いた。
その座談会に軽い気持ちで参加した
お母さんたちは、足立記者の話を聞いて驚いた。
お医者さんは、そんなに追いつめられているのか。
このままでは地域から小児科がなくなってしまうかもしれない…。
座談会の翌日、出席者のうちの7人が立ち上がる。
「県立柏原病院の小児科を守る会」を発足。
県知事に小児科医派遣を求める署名活動をスタートしたのだ。
署名は2か月足らずで丹波地域の人口の約半分、5万5千人に達した。
しかし、「医師不足は丹波地域だけではない。
もっと困っている地域があるから、あなたがたのところは来年以降になる」と
県から告げられた。
お母さんたちはあきらめなかった。
行政は頼りにならないと痛感したことで、逆に覚悟が決まった。
また、集まって知恵を絞り、スローガンを決めた。
「コンビニ受診を控えよう」
「かかりつけ医をもとう」
「お医者さんに感謝の気持ちを伝えよう」の3つだ。
「コンビニ受診」とは、軽症なのに
コンビニに行くような感覚で夜間や休日に救急外来を利用すること。
全国的に見て、診療時間外に小児救急を訪れる患者の9割が、
緊急度の低い軽症者だといわれている。
そのことを足立記者から聞き、
ここから変えていかなければと思ったという。
守る会のメンバーに和久医師が会ったのは、
会の発足から4ヶ月ほどが過ぎてから。
「辞めないでください」と一方的に懇願されると思っていたら、そうじゃなかった。
ただただ和久の体のことを心配し、
「今まで診てくれてありがとう」と言ってくれた。
病院の中に“ありがとうポスト”を設置させてほしいと申し出てもくれた。
診察を受けに来た子供や、そのお母さんたちからのメッセージで、
ポストはたちまちいっぱいになった。
なかには、こんな手紙もあった。
「診てもらって当たり前と思っていた自分が恥ずかしい。
今まで子供の命を守っていただき、ありがとうございました」
子供を外科医や内科医ではなく、小児科医に診てもらうのは、
自分たちの権利だと思っていた。
たとえ、それが夜中でも、診てもらえて当たり前と思っていた。
日本じゅうが、この「当たり前」に空気感染していた。
土俵際で柏原病院の崩壊を食い止めたのは、「ありがとう」のひと言だった。
和久医師は、「何度泣いたかわからない」と言う。
そして、辞職を思いとどまった。
患者さんの感謝が、消耗の極みにあった医師の心を支えた。
過酷な勤務を続けていく力を与えてくれた。
<『空気は読まない』集英社>
・・・
今、多くの人は、「当たり前」病、におかされている。
病院の先生は、
「診てくれて当たり前」
「治してくれるのが当たり前」
「夜中に診てくれるのが当たり前」と。
救急車は、
「呼んだらすぐに来てくれるのが当たり前」
「夜中でも来てくれるのが当たり前」と。
学校の先生は、
「子供にちゃんと教えるのが当たり前」
「我が子をしっかり見てくれるのが当たり前」
「しつけ教育をしてくれるのが当たり前」と。
そして、あげくの果てには…
病院では「モンスターペイシェント」という理不尽な要求やクレームをつけ、
暴言や暴力、迷惑行為をはたらく患者やその家族が生まれ、
学校では「モンスターペアレント」が発生する。
昨今では「モンスタークレーマー」という、
飲食店やコンビニや店舗などで、大声で怒鳴ったり、脅したり、不当に責めたりする
顧客も増えている。
モンスターの特徴は、
「自己中心的」
「メンタルが不安定」
「承認欲求が強すぎる」
「過剰な要求」
「理不尽」
「依存体質」等々。
そのすべてのタイプにおいて、「感謝の気持ち」がないということ。
「当たり前」の反対は「ありがとう」だと言われる。
どんなときも…
感謝の気持ちを忘れない人でありたい。
<感謝合掌 令和4年11月7日 頓首再拝>
【「当たり前」の水準】 - 伝統
2022/12/03 (Sat) 07:40:25
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2011.11.23)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
人生が楽になる方法・幸せになる方法として、
次のような考え方もあります。
「当たり前の思想」というものです。
仮に、「晴れるのが当たり前だ」というように考えている人が、
毎日天気予報を見るとすると、
曇りだと「つまらない、いやだ」と思い、
雨が降ったら「もっといやだ、とってもいやだ」
というレベルになると思います。
逆に、「雨が当たり前」だと思っていると、
曇りのときはちょっとうれしく、
晴れのときはとてもうれしい、
ということになります。
すべて自分の目の前のことが思いどおりにならなければいやだと
思っている人は、「いやだ」か「当たり前だ」しか来ないわけです。
実現することが当たり前であり、
実現しないことがいやなわけですから、
「当たり前」か「いやだ」の二つしかありません。
逆に、思いどおりにならなくて当たり前と思っている人は、
思いどおりにならなくて当たり前なのですから、それでゼロです。
そして、少しでも自分の思いどおりになったり
思いがかなったりしたときには、
それが
「うれしい、楽しい、ありがたい」ということにな ります。
ですから、「思いどおりにならなくて当たり前。
だけど、かなってくれたらうれしいな」と思っている人には、
ゼロか「うれしい、楽しい、幸せ」しかやってきません。
そういう構造になっています。
自分の思ったことがかなうことが当たり前なのではなく、
かなわないことのほうが当たり前であり、
かなったときにはありがたいし、感謝できる、
という心の置きようが実現できたときには、
人生がとても楽しく明るいものになります。
何が当たり前で何がうれしくて、何がありがたいのか。
この3つの心の置きどころというのをよく考えてみてください。
晴れることが当たり前であったならば、
曇りや雨はつらいものになり、
雨が当たり前ならば、
曇りや晴れることはとてもうれしいことであり、感謝になる。
自分の心の原点・水準ラインによって、
それほど私たちのとらえるものが一つひとつ変わっていくのです。
<『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』イースト・プレス>
・・・
子どもの頃、家が非常に貧しかった人が、
大人になって大成功するという例は多くある。
子どもの頃貧しくて、1日1回の食事をすることさえままなかったというような
「貧乏が当たり前」になっていた人は、
大人になって三食を食べることができるだけでありがたいと思う。
働く場所があること、洋服を買えること、
雨漏りしない家に住めることだけで、幸せを感じる。
反対に、豊かな家庭に生まれ、何不自由なく育った人は、
「豊かな生活が当たり前」となっている。
だから、ちょっとでも生活の水準が下がると
不平や不満が多くなり、感謝がなくなる。
当たり前の水準が違うのだ。
どんなにお金や資産があろうと、
毎日を不平不満で暮らしている人は不幸な人だ。
《「当たり前」の水準が幸・不幸を生み出す》
どんなことにも感謝できる人でありたい。
<感謝合掌 令和4年12月3日 頓首再拝>
「当り前」の味に嬉しい - 伝統
2023/02/23 (Thu) 07:32:47
*「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より
【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。
(「生命の實相」第十九巻)】
朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。
当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。
朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ
達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。
異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。
それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる
心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。
それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に
「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって
支持されているのである。
其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。
太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?
<感謝合掌 令和5年2月23日 頓首再拝>
あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統
2023/03/15 (Wed) 05:01:31
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より
心をしっかりと持つこと。
上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。
腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。
あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。
<感謝合掌 令和5年3月15日 頓首再拝>
当り前のことを当たり前に感謝する - 伝統
2023/04/12 (Wed) 05:07:01
*「光明道中記」(4月12日)より
~当り前の事が当り前に出来る日
【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。
心が固定すれば、自然に物も固定する。(『百事如意』)】
何かを紛失したときに、
イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして
当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、
紛失した品物に出会すことが度々ある。
「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、
どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と
気が着くことは随分とあり勝である。
またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても
思い出せないことが試験場その他で随分ある。
そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、
突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることもあり勝である。
「幸福」と云うものも同じようなものである。
「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、
ただ当り前のことを当たり前に感謝して行なっている人には
「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。
<感謝合掌 令和5年4月12日 頓首再拝>
当たり前の中に、功徳が充満してゐる - 伝統
2023/07/01 (Sat) 05:05:49
*「光明道中記」(7月1日《ただ有り難い日》)より
【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
当り前の人間が神の子である。 (「生命の實相」第二巻)】
梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、
奇瑞があらわれて天から葩(はなびら)がサンサンと降り、
地が黄金に変じたといわれている位である。
その位の武帝であっても、
まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。
当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので
武帝は早速達磨大師を迎えて教を聴いたのであった。
「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して
供養したことは実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」
「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。
功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに
到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、
地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。
心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。
<感謝合掌 令和5年7月1日 頓首再拝>
平々凡々が道 - 伝統
2023/07/14 (Fri) 08:04:02
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より抜粋
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。
至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。
天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。
或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、
或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、
机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むこと
の3つを実行するように教えて
それを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。
まことに平々凡々が道なのである。
<感謝合掌 令和5年7月14日 頓首再拝>
当り前が道なのである - 伝統
2023/07/15 (Sat) 05:08:05
*「光明道中記」(7月15日《道が生活に生きる日》)より
【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。
(『生命の實相』第八巻)】
手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないと
その人に道が生きていないのである。
人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。
飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。
「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と
「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても
道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。
それは茶道に一致する。
吾等の生活は行住坐臥
「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。
大調和である。
清和である。
清(せい)は整(せい)であり、整えるである。
無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに
一切の行持(ぎょうじ)が、茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。
<感謝合掌 令和5年7月15日 頓首再拝>
当たり前の生活に道がある - 伝統
2023/07/16 (Sun) 07:06:30
*「光明道中記」(7月16日《道を歩む日》)より
【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】
趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。
ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。
「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)
と趙州は答えた。
「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。
人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。
「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」
と趙州は答えた。
道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。
人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。
手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、
廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。
至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う
とはよく言ったものである。
<感謝合掌 令和5年7月16日 頓首再拝>
当たり前のことを楽しく行ずる - 伝統
2024/02/23 (Fri) 13:35:00
*「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より
【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。
(「生命の實相」第十九巻)】
朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。
当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。
朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。
異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。
それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。
それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。
其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。
太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?
<感謝合掌 令和6年2月23日 頓首再拝>
空想で自分の心を持て遊ばず、当たり前に喜べるようになる - 伝統
2024/02/27 (Tue) 12:00:02
*「光明道中記」(2月27日 人を疑わぬ日)より
【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。
(『百事如意』)】
私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、
若し先生に関西へ移転せられたら、私の熱心が足らぬからであるから、
自殺すると言って手紙を寄越した人があった。
私はその手紙を見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、
その人のことを男性であると思っていた。
この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、押し花を封じ込んだりして
無名の「一誌友」として手紙を寄越す人なのである。
暫くすると、同じ筆蹟で
「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念であったのに、
それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外であるから、
この手紙を以て生長の家との訣別の辞とする」と云う手紙が来たのである。
今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。
どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。
時として女性と云うものは、空想の世界で、自殺や、恨みや、憤(いか)りを
創作して楽しむものでのである。
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。
当り前のことが当り前に喜べるようになる迄その人の病気は癒えないのである。
<感謝合掌 令和6年2月27日 頓首再拝>
あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統
2024/03/15 (Fri) 09:32:50
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より
心をしっかりと持つこと。
上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。
腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。
あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。
<感謝合掌 令和6年3月15日 頓首再拝>
当り前の事が当り前に出来る日 - 伝統
2024/04/12 (Fri) 09:07:47
*「光明道中記」(4月12日)より
【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
(『百事如意』)】
何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。
「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。
またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。
「幸福」と云うものも同じようなものである。
「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。
<感謝合掌 令和6年4月12日 頓首再拝>
ただ有り難い日 - 伝統
2024/07/01 (Mon) 11:47:41
*「光明道中記」(7月1日)より
【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
当り前の人間が神の子である。 (「生命の實相」第二巻)】
梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて
天から葩(はなびら)がサンサンと降り、地が黄金に変じたといわれている位である。
その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。
当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は早速達磨大師を迎えて
教を聴いたのであった。
「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは
実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」
「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。
功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。
心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。
<感謝合掌 令和6年7月1日 頓首再拝>
当り前が道なのである - 伝統
2024/07/15 (Mon) 11:42:43
*「光明道中記」(7月15日《道が生活に生きる日》)より
【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。
(『生命の實相』第八巻)】
手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないと
その人に道が生きていないのである。
人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。
飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。
「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と
「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても
道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。
それは茶道に一致する。
吾等の生活は行住坐臥
「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。
大調和である。
清和である。
清(せい)は整(せい)であり、整えるである。
無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに
一切の行持(ぎょうじ)が、茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。
<感謝合掌 令和6年7月15日 頓首再拝>
当たり前のことを、其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。 - 伝統
2025/02/23 (Sun) 11:30:26
*「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より
【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。
(「生命の實相」第十九巻)】
朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。
当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。
朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。
異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。
それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。
それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。
其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。
太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?
<感謝合掌 令和7年2月23日 頓首再拝>
空想で自分の心を持て遊ばず、当たり前に喜べるようになる - 伝統
2025/02/27 (Thu) 11:40:25
*「光明道中記」(2月27日 人を疑わぬ日)より
【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。
(『百事如意』)】
私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、
若し先生に関西へ移転せられたら、私の熱心が足らぬからであるから、
自殺すると言って手紙を寄越した人があった。
私はその手紙を見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、
その人のことを男性であると思っていた。
この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、押し花を封じ込んだりして
無名の「一誌友」として手紙を寄越す人なのである。
暫くすると、同じ筆蹟で
「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念であったのに、
それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外であるから、
この手紙を以て生長の家との訣別の辞とする」と云う手紙が来たのである。
今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。
どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。
時として女性と云うものは、空想の世界で、自殺や、恨みや、憤(いか)りを
創作して楽しむものでのである。
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。
当り前のことが当り前に喜べるようになる迄その人の病気は癒えないのである。
<感謝合掌 令和7年2月27日 頓首再拝>
あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統
2025/03/15 (Sat) 09:46:43
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より
心をしっかりと持つこと。
上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。
腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。
あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。
<感謝合掌 令和7年3月15日 頓首再拝>
当り前の事が当り前に出来る日 - 伝統
2025/04/12 (Sat) 08:46:50
*「光明道中記」(4月12日)より
【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
(『百事如意』)】
何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。
「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。
またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。
「幸福」と云うものも同じようなものである。
「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。
<感謝合掌 令和7年4月12日 頓首再拝>
ただ有り難い日 - 伝統
2025/07/01 (Tue) 10:27:13
*「光明道中記」(7月1日)より
【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
当り前の人間が神の子である。 (「生命の實相」第二巻)】
梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの
信仰深い皇帝であって、「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて
天から葩(はなびら)がサンサンと降り、地が黄金に変じたといわれている位である。
その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。
当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は早速達磨大師を迎えて
教を聴いたのであった。
「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは
実に夥(おびただ)しいものがございます。
斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」
「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。
功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。
心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。
<感謝合掌 令和7年7月1日 頓首再拝>
平凡淡々が道なのである - 伝統
2025/07/14 (Mon) 09:44:04
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。
至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。
天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。
或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、
或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むことの3つを
実行するように教えてそれを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。
まことに平々凡々が道なのである。
ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。
道は病気になるものではないから、吾々の生活が
平々凡々何の変哲もないところに無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。
<感謝合掌 令和7年7月14日 頓首再拝>
当り前が道なのである - 伝統
2025/07/15 (Tue) 11:30:28
*「光明道中記」(7月15日《道が生活に生きる日》)より
【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。
(『生命の實相』第八巻)】
手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないと
その人に道が生きていないのである。
人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。
飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。
「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と
「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても
道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。
それは茶道に一致する。
吾等の生活は行住坐臥
「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。
大調和である。
清和である。
清(せい)は整(せい)であり、整えるである。
無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに
一切の行持(ぎょうじ)が、茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。
<感謝合掌 令和7年7月15日 頓首再拝>
当たり前のことを楽しく行ずる - 伝統
2026/02/23 (Mon) 10:33:49
*「光明道中記」(2月23日《淡々妙味の日》)より
【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。
(「生命の實相」第十九巻)】
朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。
当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。
朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。
異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、
肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。
それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。
それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。
其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。
太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?
<感謝合掌 令和8年2月23日 頓首再拝>
空想で自分の心を持て遊ばず、当たり前に喜べるようになる - 伝統
2026/02/27 (Fri) 10:22:52
*「光明道中記」(2月27日 人を疑わぬ日)より
【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。
(『百事如意』)】
私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、
若し先生に関西へ移転せられたら、私の熱心が足らぬからであるから、
自殺すると言って手紙を寄越した人があった。
私はその手紙を見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、
その人のことを男性であると思っていた。
この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、押し花を封じ込んだりして
無名の「一誌友」として手紙を寄越す人なのである。
暫くすると、同じ筆蹟で
「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念であったのに、
それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外であるから、
この手紙を以て生長の家との訣別の辞とする」と云う手紙が来たのである。
今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。
どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。
時として女性と云うものは、空想の世界で、自殺や、恨みや、憤(いか)りを
創作して楽しむものでのである。
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。
当り前のことが当り前に喜べるようになる迄その人の病気は癒えないのである。
<感謝合掌 令和8年2月27日 頓首再拝>
あたりまえのことができるものが大賢人 - 伝統
2026/03/15 (Sun) 10:24:01
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より
心をしっかりと持つこと。
上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。
腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。
あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。
<感謝合掌 令和8年3月15日 頓首再拝>