伝統板・第二
神と人 ④ - 伝統
2021/01/02 (Sat) 06:39:39
《神の人間創造の意義》
*「光明法語」(1月2日)より
自己が自己を知り、
自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。
換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との相対に
分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に
分化しなければならないのである。
眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に
「自己の影」を見なければならないようにである。
神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「神と人」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6979874
(2)伝統板・第二「神と人 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7686509
(3)伝統板・第二「神と人 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7901316
<感謝合掌 令和3年1月2日 頓首再拝>
人間の真実は、神の映像である - 伝統
2021/01/03 (Sun) 02:23:54
*「光明法語」(1月3日《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》)
かくて人間は神の映像であるから、
神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在する
と考え出したのである。
これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。
この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。
かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。
思いを変えよ。
<感謝合掌 令和3年1月3日 頓首再拝>
《神と人間と自然との関係》 - 伝統
2021/01/19 (Tue) 04:59:00
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P303~304)より
神は宇宙大生命として普遍的存在であり、
同時に自己の内に「個生命」として内在する。
「個生命」は内在普遍の大生命に直覚によって連絡して
日々の行動を導かれ、本能によって連絡して生理作用が営まれる。
その本源の力は宇宙大生命から来るのである。
この神を超越的内在神又は普遍的内在神と云う。
「普遍」が「個」の内に入り、「個」が「普遍」の内にあり、
「普遍」即「個」であり、「普遍」と「個生命」とが
相即相入していると知るのである。
これがただの汎神論(はんしんろん)と私たちの世界観と異なるのは、
神は超越内在の存在である原理的なものであると同時に
人格神であると見ることである。
そして「神そのもの」の現われを直(ただ)ちに
「物質界の万象」として見ないで、それら現象を
超越内在の神の「投影(かげ)」であると観ることである。
神は偉大なる光源として明煌々たる光の世界を投影するのであるが、
その中に吾々の想念が介在して不透明な暗影をつくるために、
光の世界に暗黒があらわれる。
<感謝合掌 令和3年1月19日 頓首再拝>
神という宇宙の意識は、あなたを忘れたことなど一瞬もありません。 - 伝統
2021/02/07 (Sun) 03:01:58
*Web:かんながら(2020.12.08)より
もし孤独を感じたら何度でも読んでください
たった一つの真実を信じるだけで、
あなたは根底から変わってしまうことでしょう。
それは世界中の宗教がいろんな言い方をしてきたものであり、
現代科学でも証明されていることです。
その真実とは、
あなたは宇宙の孤児ではなく、宇宙(全体)の一部だということ。
どこにも分離などなく、あなたが道に迷うとか、
孤独に苛まれることなどありえないということです。
このブログを読む人の多くは、このことを何度も耳にしてきたことでしょう。
もしあなたがこのことを心の底から信じることができれば、旅は終わりです。
初めて自分の人生を自由に生きることができます。
もし孤独を感じたら何度でも読んでください
さて今日は、もう一歩踏み込んで話をしてみます。
全体とは神と呼ばれる全体意識ですが、その意識(神)は、
あなたを忘れたことなど一瞬もありません。
いつだってあなたのことを、想像を超える愛で見守っています。
あなたの身に起きることすべてをご存じで、いつも気にかけています。
そして望んでいます。
あなたが神自身であることを思い出すことを。
その時、あなたという個性に与えられた目覚めの香りが全体に降り注ぎます。
目覚めの香りは人の数だけあり、
そのどれもが至高の素晴らしさを携えていますが、すべて違います。
それが宇宙の無限の豊かさなのです。
あなたがどんなに大きな間違いを犯しても、たとえ神を冒涜しようと、
神はあなたを深く深く愛しています。
もう一度言いますが、これは比喩ではなく事実です。
このことを一片の疑いもなく信じた時、あなたは根底から変化します。
このことは伝え続けてきましたが、これからも同じです。
あなたが嫌がっても追いかけて行って耳元で伝えましょう。
大丈夫。
心配ない。
https://abetoshiro.ti-da.net/e11760756.html
<感謝合掌 令和3年2月7日 頓首再拝>
《神は求むるに与え給う》 - 伝統
2021/02/16 (Tue) 06:35:19
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P308)より
自己の中心に「神」を見出し、
そこに生活の重心をしっかり落ち着かせている者には
恐怖はないのである。
必要な智慧は、必要な時にいつでも其の中心から出て来るのである。
そしてその中心にドッカリ坐っているならば、
其処に磁力的な力がおのずから備わって、
必要なときに必要な物が自然と引き寄せられて来るのである。
神を自己の中心に見出さない者には、此の力は湧き出て来ない。
神はあらゆる物の本質であり、自己に内在すると同時に
到る處に普遍するものであるから、
自己の内に強力な「神」の中心を自覚して呼びさえするならば、
神は四方八方に電波を張りめぐらしてある受信装置であるかのように、
必要なところへは何時でも必要なメッセージをお伝え下さるのである。
<感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>
《神と人の温かい関係》 - 伝統
2021/02/24 (Wed) 04:10:25
*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P23~24) より
神は吾々の親様であり給う。
神は”法則”として宇宙に充ち満ちてい給うけれども、
単に冷たい法則だと考えてはならないのである。
神は単に”法則”とののみ考えることは神を限定することになるのである。
神は”法則”であると同時に”人格”であり給う。
神は人間にとって温かい愛情をもち給う”親様”でもあるのである。
従って”神”と”人間”との間には、
人間同士の親子関係のような愛情があるのである。
人間の”親”がその”子”からして”親”としてみとめられたいと同じように、
神も亦、人間から”親様”としてみとめられたいのであり、
人間が”子”として”親”に仕える如く神に仕えることを欲したまうのである。
神は「我は汝らの唯一の産みの親である。わがほかに本当の産みの親はない」
と仰せられているのである。
そして神を「親」として見るとき「汝らの兄弟のうち最も大なるものは
父母(ちちはは)である」ということになるのである。
そして神は「神の国のすべての富はわが子即ち汝ら人間のものである」
と仰せられるのである。
<感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>
《神と俱(とも)に生活して下さい》 - 伝統
2021/03/08 (Mon) 03:17:30
*「眞理」第2巻基礎篇第1章(P25~26)より
あなたが「神の子」として自覚を得られますと、
神なる親様からの無限の供給が自由自在に
あなたに対して流れ込むようになるのです。
あなたは「神の子」であることをみずから承認し、
神はあなたが自分の後嗣者(あとつぎ)であることを
認知して下さることになるのです。
今後はあなたの人生のあらゆる部面に於て、
神が資本家となり、神が相談相手となり、
神がすべての計画を授(さず)けて下さるのです。
毎朝、眼が覚めた瞬間、寝床のままでよろしいから
次のように瞑想して御覧なさい。
あらゆる方面において素晴らしい結果が得られます。
「わが命(いのち)はわが命ならず天地(あめつち)を
貫きて生くる祖親(みおや)の命(繰返し念ずる)
この命は私の命ではございません。貴方様の命です。
貴方が御計画下さいました通りに此の命をお使い下さいませ。
神の智慧われに流れ入りて私の生活のあらゆる場面を導き給う。」
これを20回ほど心に唱えてから起きるのです。
<参照Web>
伊勢ー白山 道(2021-02-25 )
「自分なんか」
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/eef074c9015c31c88fd58c7245b877d1
<感謝合掌 令和3年3月8日 頓首再拝>
《神は吾が重荷を軽からしめ給う》 - 伝統
2021/03/26 (Fri) 02:31:04
* 『 生長の家 』(昭和25年5月21日の法語)より
あなたにとってどんなに難しくそれが見える時にも、
神にとって難しいものは一つもないのである。
どんな病気も神なら治すことができるし、
どんな借金も神なら払うことができるのである。
自分の体を 神の体だと思え。
自分の仕事を 神の仕事だと思え。
神は 弱き体をも 力士の如(ごと)く 強くならしめ、
貧しきものを ソロモンの如く 富ましめることができるのである。
今日、一日を神の仕事の番頭であると思いて業務を励め。
重荷を自分で負うな。
重荷は神に委(ゆだ)ねよ。
然して平安であれ、心安かれ。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 令和3年3月26日 頓首再拝>
《人間の働きは 神への協力である》 - 伝統
2021/04/12 (Mon) 03:34:33
*『 生長の家 』(昭和25年2月25日の法語)より
あなたのすべての働きは 神にとっても 人類にとっても
なくてはならない尊い捧(ささ)げ物である。
何故(なぜ)なら あなたは神の自己顕現であり、
神の協力者であるからである。
自分の仕事をただ金銭を得るための手段であるなどと
考えて軽蔑(けいべつ)するな。
働きそのものが、神の創造への協力であり 参加であり
人間の協力なくしては 地上に天国は実現する事はできないのである。
自分を軽蔑してはならない。
自分を金銭の奴隷などと考えてはならない。
自分を神の子として神の み業に協力するもののみ
真に立派な仕事をなすことができるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
<感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>
人間は現象界の創造者である - 伝統
2021/04/30 (Fri) 03:46:45
*「女性の理想」(P24~25)より
神は神自身の想念とコトバによって
神の世界(実在界)をつくり給うたが、
その上に、人間は人間自身の想念とコトバによって
現象界を創造するのです。
神が実在界の創造者であるが如く、
人間は現象界の創造者であるのです。
若(も)し吾々が、神の創造(つく)り給える実在界(天国・浄土)の
豊かさと幸福さとのみを想念とコトバとを発しますならば、
現象界は、天国さながらの風光(ふうこう)を呈(てい)し来(き)たり、
此処に至福の世界は創造(そうぞう)され、
地上に天国が建設せられることになるのです。
(中略)
悪と不幸は、実在界には存在せず、
人間が想念とコトバにより創造せる仮象(かしょう)に過ぎず、
如何なる不幸や苦難があらわれて来(こ)ようとも
それらは単なる仮象(かしょう)に過ぎないと観ずるが故に、
それに心が捕捉せられて悩むことなく、
常に蒼空(あおぞら)が鳥の飛ぶ翼の跡を印(いん)せざるが如く、
心の悩みの影(かげ)を印(いん)せざるがゆえに、
心よく自由を得て再び至福の世界を現実界に創造することが出来るのです。
・・・
<参照~「女性の理想」目次>
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001092609-00
目次 〔女性の理想〕 / (0009.jp2)
はしがき / (0005.jp2)
第一篇 永遠の思慕 谷口雅春 / (0015.jp2)
第一章 原子力時代の新しき精神運動 / p5 (0016.jp2)
第二章 至福の世界の創造 / p19 (0023.jp2)
第三章 今ここに天國を生きる / p29 (0028.jp2)
第四章 あなたが若し祈るならば / p47 (0037.jp2)
第五章 女人極樂 / p63 (0045.jp2)
第六章 一粒の麥 / p86 (0057.jp2)
第七章 美しき生活の設計 / p91 (0059.jp2)
第八章 良縁は創造すべきもの / p96 (0062.jp2)
第九章 人生・何のために生を享けしや / p111 (0069.jp2)
第十章 美貌への新しき道 / p124 (0076.jp2)
第十一章 人間の食生活に就いて / p132 (0080.jp2)
第十二章 宗教の立場と受胎調節 / p143 (0085.jp2)
第十三章 兒童の劣等感に就いて / p152 (0090.jp2)
第十四章 兒童の惡癖を暗示で治すには / p172 (0100.jp2
第二篇 憧憬と囘想 谷口輝子 / (0106.jp2)
第一章 ほゝゑみ / p187 (0107.jp2)
第二章 「まんぢゆう食ひ」人形の話 / p192 (0110.jp2)
第三章 仕事を樂しむ心 / p197 (0112.jp2)
第四章 魂の種々相 / p201 (0114.jp2)
第五章 布施と云ふこと / p208 (0118.jp2)
第六章 かりそめの言葉 / p215 (0121.jp2)
第七章 北陸に旅して / p220 (0124.jp2)
第八章 わが母の憶ひ出 / p229 (0128.jp2)
第九章 年暮に想ふ / p236 (0132.jp2)
第十章 新年によせて / p243 (0135.jp2)
第十一章 心の美容法 / p249 (0138.jp2)
第十二章 結婚への道 《若き女性への手紙》 / p257 (0142.jp2)
第十三章 母と子の愛情について 《その一》 / p268 (0148.jp2)
第十四章 母と子の愛情について 《その二》 / p276 (0152.jp2)
第十五章 愛は刑よりも強し / p292 (0160.jp2)
第十六章 生活を顧みて / p304 (0166.jp2)
<感謝合掌 令和3年4月30日 頓首再拝>
神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)として造った - 伝統
2021/05/07 (Fri) 04:50:38
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より抜粋
神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。
これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。
その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。
釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。
しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。
正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。
<感謝合掌 令和3年5月7日 頓首再拝>
普遍の大生命があなたに宿って「あなた」となっている - 伝統
2021/05/22 (Sat) 04:40:55
*「女性の幸福365章」(P58)より抜粋
~愛は尽きることなし
普遍の大生命があなたに宿って「あなた」となっているのである。
「あなた」は「個(こ)」にして「全(ぜん)」であるから、
本当はあなたは別に「他(た)」より何ものをも求めることは要らない
自全(じぜん)的存在である。
あなたは「個」の如くにして「全」であり、
「全」のうちには一切のものが宿っているから、
この真理を自覚するならば、
他(た)より何ものをも要求する必要はなくなるのである。
「全」は一切を其の中にもち、無限を包有するがゆえに
あなたは「与える」ことによってのみ内部生命の悦びを感ずるのである。
そして与えることによってのみ「無限」の循環が可能となり
生活の生き甲斐が感じられて来るのである。
<感謝合掌 令和3年5月22日 頓首再拝>
先ず神(親)を認めよ - 伝統
2021/06/05 (Sat) 04:40:42
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月5日)より
神が吾々神の子に求めていられる処のものは
先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、
先ず「親をみとめよ」と云うことである。
親の無視が即ち親不孝であり、
親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。
だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。
先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。
<感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝>
神は吾々の親様 - 伝統
2021/06/07 (Mon) 04:42:21
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月7日)より
~神は不幸を与え給わない
神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。
神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、
『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて
神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。
先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。
そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだ
と思わぬことである。
<感謝合掌 令和3年6月7日 頓首再拝>
神も神の子なる人間も、人格を備えている - 伝統
2021/06/08 (Tue) 04:27:24
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月8日)より
~神は人格であると同時に法則である
親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。
間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、
与えたる富はただ他を害する為のみに使う様な場合には
親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。
それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、
神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。
それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。
<感謝合掌 令和3年6月8日 頓首再拝>
《神と人の温かい関係》 - 伝統
2021/07/16 (Fri) 06:43:07
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第1篇(P23~24) より
神は吾々の親様であり給う。
神は”法則”として宇宙に充ち満ちてい給うけれども、
単に冷たい法則だと考えてはならないのである。
神は単に”法則”とののみ考えることは神を限定することになるのである。
神は”法則”であると同時に”人格”であり給う。
神は人間にとって温かい愛情をもち給う”親様”でもあるのである。
従って”神”と”人間”との間には、
人間同士の親子関係のような愛情があるのである。
人間の”親”がその”子”からして”親”としてみとめられたいと同じように、
神も亦、人間から”親様”としてみとめられたいのであり、
人間が”子”として”親”に仕える如く神に仕えることを欲したまうのである。
神は「我は汝らの唯一の産みの親である。わがほかに本当の産みの親はない」
と仰せられているのである。
そして神を「親」として見るとき「汝らの兄弟のうち最も大なるものは
父母(ちちはは)である」ということになるのである。
そして神は「神の国のすべての富はわが子即ち汝ら人間のものである」
と仰せられるのである。
<感謝合掌 令和3年7月16日 頓首再拝>
《神は人間を不幸にしない》 - 伝統
2021/07/30 (Fri) 04:54:17
*「眞理」第2巻基礎篇第13章(P351~352)より
自分を失敗に陥(おとしい)れ、
病気に罹(かか)らせ、逆境や災禍に追い込む者は、
結局、自分自身にほかならないのである。
聖書にある放蕩息子は、自分から父の御許(みもと)を離れて行って
放浪生活を送った結果貧しくなったのである。
父は決して放蕩息子を貧しき生活に追放したのではない。
だから、その放蕩息子も、父の御許へ帰ってくれば、
無条件に富める父の後嗣(あとつぎ)息子となるのである。
父とは「神」の譬えであり、
放蕩息子とは「神の子」たる人間の譬えである。
自分自身が誰の息子か知らないで、身の程をもわきまえず、
神らしくない想念をもっているのが放蕩息子である。
人間、神の子と自覚して、
神らしい想念感情を持てば直ちに人間は救われるのである。
<感謝合掌 令和3年7月30日 頓首再拝>
神(宇宙的な大いなる力)が、あなたを其処へ置いた - 伝統
2021/08/14 (Sat) 04:56:31
*「眞理」第2巻基礎篇第13章(P355)より
~《人生の意義を自覚して生活せよ》
あなたは神の子である。
自分で生れようと思って生れたのではない。
神が、宇宙的な大いなる力が、あなたを其処へ置いたのである。
あなたは神に対し、宇宙に対し、孤立しているものではないのである。
あなたが生きていると云うことは
神が生きていると云うことである。
あなたが生きていると云うことは
宇宙が其処に生きていると云うことである。
何人(なんぴと)もこの真理から免(のが)れることは出来ない。
何人もこの事実を否定することは出来ない。
神が貴方を必要とし給うのである。
この事実にあなたは感激しなければならない。
神は愛である。
神の愛があなたを取り巻き、導き、護っていられるのである。
あなたが如何に幸福を求めても、神と共に生活するのでなければ、
真の幸福感は得られないのである。
<感謝合掌 令和3年8月14日 頓首再拝>
人間は神の自己実現 - 伝統
2021/08/20 (Fri) 04:21:25
*「光明法語」(8月20日)より
人間が神の自己実現であることは、
直覚認識によって知ることが出来るのである。
『法華経』にある
「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。
天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、
われ神の自己実現なりとわかるのである。
これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。
<感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>
《人体は神の宮である》 - 伝統
2021/09/02 (Thu) 04:51:33
*『 生長の家 』(昭和25年8月1日の法語)より
神は外にも内にも到(いた)る処(ところ)にましますのである。
何よりも必要なのは、自己の内に神がましますと云う自覚である。
人間の身体は神の鎮座(ちんざ)まします 「 肉の宮 」 であるから、
自分の内に神をみとめ
「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力 湧(わ)き出(い)でよ 」 と、
時々瞑目して黙念する事は良き祈りである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16
<感謝合掌 令和3年9月2日 頓首再拝>
人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したもの - 伝統
2021/09/03 (Fri) 04:49:14
*「光明法語」(9月2日~3日)より
《普遍とその個體化》
普遍にして無限なる「一」の生命は如何にして自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと
云えば、普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。
表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。
普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。
《有限にして無限》
人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。
果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。
人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。
人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。
<感謝合掌 令和3年9月3日 頓首再拝>
神が人として表現される意義 - 伝統
2021/09/04 (Sat) 04:58:55
*「光明法語」(9月4日)より
~個は如何にして表現されるか
普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。
牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。
普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。
<感謝合掌 令和3年9月4日 頓首再拝>
個別者の相互関係 - 伝統
2021/09/05 (Sun) 04:51:02
*「光明法語」(9月5日)より
個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。
個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、
折角、個別化されたものも表現を完うする事が出来ない。
個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。
個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。
<感謝合掌 令和3年9月5日 頓首再拝>
人間には大宇宙の生命が宿る - 伝統
2021/09/12 (Sun) 04:54:41
*『 生長の家 』(昭和25年8月9日の法語)より
人間は宇宙大生命の一部である。
宇宙大生命が人間に宿っているのである。
単にその一滴が宿っているばかりでなく、
宇宙大生命が貫流しているのである。
それが三十ワットの光を放とうと百燭光、千燭光の光を放とうとは、
自分自身のうちに流れる無限の力を
どれだけ顕わし得るかの問題なのである。
流れる力は無限であるが、
顕わし得る力は 自分がそれを見出した程度によるのである。
憎みや、争いや、暗い心や、悲観などによって、
折角(せっかく)宇宙大生命から流入る生命の流れに
堰(せき)をしてはならないのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16
<感謝合掌 令和3年9月12日 頓首再拝>
神の人間創造の目的 - 伝統
2021/09/16 (Thu) 04:50:00
*「光明法語」(9月16日)より
神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。
外から創造したのではなく、神は「内在の生命」として内から創造したのである。
演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、或は美しき波模様をなして
自然に配列されるが如く、
女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。
<感謝合掌 令和3年9月16日 頓首再拝>
人間は神の創造の中心 - 伝統
2021/09/25 (Sat) 04:43:51
*「光明法語」(9月25日)より
人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。
神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。
パイプの小なることを見て、
そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。
大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。
<感謝合掌 令和3年9月25日 頓首再拝>
個性を通じての表現 - 伝統
2021/09/28 (Tue) 04:19:04
*「光明法語」(9月28日)より
神は自己を表現するのに、普遍であるばかりでは自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、それは何らの表現をもなし得ない。
表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。
桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。
人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。
他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。
<感謝合掌 令和3年9月28日 頓首再拝>
神に一致する個性 - 伝統
2021/09/29 (Wed) 04:52:46
*「光明法語」(9月29日)より
神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。
神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。
神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。
七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。
<感謝合掌 令和3年9月29日 頓首再拝>
神と共に静かに語れ - 伝統
2021/10/08 (Fri) 04:43:04
*「光明法語(10月8日)」より
人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、親子が静かに語る時間を持つと云う事
であって是非とも必要なる当然の行事である。
祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。
神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。
また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。
<感謝合掌 令和3年10月8日 頓首再拝>
《人間は神の自己完成である》 - 伝統
2021/10/31 (Sun) 03:39:19
*「眞理」第2巻基礎篇第3章(P83)より
人間と神とは互に協同運動しなければならないのである。
人間は神にとってなくてはならない高貴なる存在なのである。
人間がなかったら、
神はその「人格的な愛情」を表現することは出来ないのである。
また人間がなかったら
神は「科学的な創造」をつくることは出来なかったのである。
人間がなかったならば「意識的な自然改造」は出来なかった。
神の潜在的な意識が、自覚的に顕われたのが人間であるのである。
人間は神の希望の実現であり、神の創造力の完成である。
<感謝合掌 令和3年10月31日 頓首再拝>
人間の身体は「神の宮」である - 伝統
2021/11/07 (Sun) 04:54:18
*「光明法語」(11月7日の法語《黴菌も寄生虫も無い》)より
人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。
宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。
人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。
―― 斯く念ぜよ。
<感謝合掌 令和3年11月7日 頓首再拝>
《人生は何のためにあるか》 - 伝統
2022/01/01 (Sat) 04:41:09
*「光明法語」(1月1日)より
人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。
これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。
凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。
しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
<感謝合掌 令和4年1月1日 頓首再拝>
《神の人間創造の意義》 - 伝統
2022/01/02 (Sun) 05:00:21
*「光明法語」(1月2日)より
自己が自己を知り、自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。
換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に分化しなければならないのである。
眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。
神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。
<感謝合掌 令和4年1月2日 頓首再拝>
われは神の子として、神の完全さを顕わし来(きた)るのである - 伝統
2022/01/08 (Sat) 04:47:35
*「光明法語」(1月8日《吾は日に日に完全円満である》)より
神の完全なる実相が、
吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。
われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来(きた)るのである。
肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無礙であり、
交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。
若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。
念を感謝に転ぜば一切は変化する。
<感謝合掌 令和4年1月8日 頓首再拝>
《神は親であり吾は神の子である》 - 伝統
2022/01/12 (Wed) 03:34:01
*「光明法語」(1月12日)より
神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。
神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、
自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。
<感謝合掌 令和4年1月12日 頓首再拝>
《天地に遍満する神の恩恵を知れ》 - 伝統
2022/01/24 (Mon) 04:38:59
*「光明法語」(1月24日)より
人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものに
とりまかれているのである。
神の恵みはあらゆるものに、
空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。
神の恵みは吾々をとりまいていて
一分一厘の逃れる隙間もないのである。
昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、
神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、
心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。
「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」
<感謝合掌 令和4年1月24日 頓首再拝>
神が養う - 伝統
2022/02/06 (Sun) 04:51:00
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より
世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。
わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。
親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。
親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て
母親の衣物(きもの)を濡らして困ったというほどであった。
これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。
親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。
人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。
このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。
働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には
豊かに必需物(なくてはならぬもの)を
与えたまうのが神であるからである。
ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。
ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。
<感謝合掌 令和42年2月6日 頓首再拝>
《心の波長を合わせるのは人間の役目》 - 伝統
2022/02/24 (Thu) 04:55:09
*「光明法語」(2月24日)より
「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。
世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。
実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。
自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。
<感謝合掌 令和4年2月24日 頓首再拝>
人はすべて神の子である。神性受胎である。 - 伝統
2022/03/01 (Tue) 04:00:42
「光明道中記」(3月1日《栄光を見る日》)より
【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
(『生命の實相』第七巻)】
人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。
「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、
ただ神により生まれしなり。言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)
その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを****によりて生れたる者と観ず、われをただ神によりて生れたと観るのである。
単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。
そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。
観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して栄光を見る心になるのが
悔(くい)改めである。
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。
人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。
<感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>
《人間は神的実現》 - 伝統
2022/05/10 (Tue) 09:37:55
*「光明法語」(5月10日)より
人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。
最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。
****食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。
仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。
その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。
<感謝合掌 令和4年5月10日 頓首再拝>
万人の”うち”に真理なるキリスト(Chrisut Ideal)が宿る - 伝統
2022/07/10 (Sun) 07:30:26
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より
われを導くものは神である。
(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。
神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。
「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。
静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。
<感謝合掌 令和4年7月10日 頓首再拝>
神と人間との関係は父と子との関係である - 伝統
2022/07/16 (Sat) 07:27:03
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より抜粋
神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。
人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。
神は「無限の赦し」であるから、
神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。
しかし、神と人間との関係は父と子との関係であるから、
神をただ「無限供給の源泉」として視るものは、
神から最も少なくを得るものなのである。
<感謝合掌 令和4年7月16日 頓首再拝>
神は常に訪れている - 伝統
2022/07/26 (Tue) 07:14:28
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。
わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。
わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。
<感謝合掌 令和4年7月26日 頓首再拝>
宇宙の知性と人間との関係 - 伝統
2022/08/11 (Thu) 09:09:13
*「光明法語」(8月11日)より
兎も角、宇宙すべての物の背後に
宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。
では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、
人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。
そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、
何故、現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。
そんな筈がない。
それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。
<感謝合掌 令和4年8月11日 頓首再拝>
人間は神の自己実現 - 伝統
2022/08/20 (Sat) 08:03:38
*「光明法語」(8月20日)より
人間が神の自己実現であることは、
直覚認識によって知ることが出来るのである。
『法華経』にある
「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。
天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、
われ神の自己実現なりとわかるのである。
これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。
<感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝>
神は五感も六感も超越せり - 伝統
2022/08/21 (Sun) 09:23:36
*「光明法語」(8月21日)より
「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。
感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。
感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。
六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。
<感謝合掌 令和4年8月21日 頓首再拝>
無相にして無限相 - 伝統
2022/08/22 (Mon) 08:53:37
*「光明法語」(8月22日)より
霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。
神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。
これを無相にして無限相と呼ぶ。
吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。
無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。
<感謝合掌 令和4年8月22日 頓首再拝>
普遍とその個體化 - 伝統
2022/09/02 (Fri) 09:11:01
*「光明法語」(9月2日)より
普遍にして無限なる「一」の生命は如何にして
自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと云えば、
普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。
表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。
普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。
<感謝合掌 令和4年9月2日 頓首再拝>
有限にして無限 - 伝統
2022/09/03 (Sat) 10:03:44
*「光明法語」(9月3日)より
人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。
果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。
人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。
人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。
<感謝合掌 令和4年9月3日 頓首再拝>
個は如何にして表現されるか - 伝統
2022/09/04 (Sun) 07:12:04
*「光明法語」(9月4日)より
普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。
牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。
普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。
<感謝合掌 令和4年9月4日 頓首再拝>