伝統板・第二
人間の実相 ② - 伝統
2021/04/18 (Sun) 04:52:00
*伝統板・第二「人間の実相」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7599613
神の子としての実相人間
*『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P77~78)より
「神の子」として、神の像イメージとして、創造つくられたる実相人間は、
神の生命を自己の生命とし、神の万徳円満完全なる状態を象徴化したものを
自己の形態とし、
神そのものとして生きることを歓喜とし、神を愛し、
神の子たちなる兄弟と協力し兄弟を愛することにのみ喜びを覚え、
兄弟を排斥したり、兄弟を押しのけて自分だけが勝利を得るというようなことには、
喜びを感じたりしないように造られているのであります。
ところがなぜ現象界の人間がその実相浄土の生活を送らず、
互いに相争った生活を送っているかと申しますると、
「浄土は毀れざるに、しかも衆は焼け尽きて憂怖諸々の苦悩ことごとく充満せりと見る」
と『法華経』の「寿量品」に書かれておりますように、
実相の天地はすでに造られ、山野の果樹野菜はすでに繁茂し、
すでに実相の人間は神の像(すがた)として完全に造られたるに、
(以上『創世記』第一章)国土にはなお植物生ぜず、人間造られず、
やがて人間は土の塵ちりにて不完全に造られ、蛇の知恵に騙され、
エデンの園を追い出され、労苦して、本来の土の塵に帰す
(『創世記』第二章以下)となすのであります。
これが「実相人間」から「仮相人間」への墜落、
「本物の人間」から「ニセ物の人間」への墜落であります。
この墜落がなぜおこったかと言いますと、
「実相人間」は決して墜落せざるに、墜落せりと見ているわけで、
「実相人間」は本来、壊えせず、毀(やぶ)れず、墜落せず、
今も実相常楽の国土に、悠々歓びの創造を続けているにもかかわらず、
夢のごとく、幻のごとく、物質の人間ありと観、
土の塵にて造られた人間ありと観ているのであります。
だから、『法華経』と『創世記』とは同じことが書いてある。
「実相の人間」は壊(え)せざるに、
「霊的実在の人間」は毀(やぶ)れざるに、
それを無きと見て、「物質の人間」ありと見ているので、
これが最初の迷いであります。
実相を覆い隠している最初の「包み」(罪)であります。
だから「罪」の最初の本源的単位は、
実相の「霊的実在人間」を見ず、
仮相の「物質的人間」を見て
その物質的現象人間を実在と見ていることにあるのです。
<感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>
『久遠の実在』としての実相人間を信ずる - 伝統
2021/05/03 (Mon) 02:45:40
*『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P85~88)より
肉体は何遍生まれ更わっても、
肉によって生まれるものは肉なのであります。
《現象によって生まれる者は現象なのであります》。
現象生活がすんでから実相世界へ移住するのではない。
人物写真でも写真の現像がすんでから実際の人間が誕生するのではなく、
《実際の人間がまず厳存していて、いろいろのポーズの写真》の
現像ができるのであります。
また、写真を幾枚現像したからといって、
実際の人間がその写真を出たり這入ったりするものではない。
そのごとくわれらの実相人間(霊的人間)が実在していて
現象人間が顕われる。
レンズを凹凸さまざまの歪んだレンズに換えればいろいろの現像ができる。
しかし、「実相の人間」は現象人間の歪んでいると否とにかかわらず、
依然として本来の人間の姿を失わないし、
一つの現象人間状態から次の現象人間状態へ、
または生きた現象界から死後の冥界へと、
転々として移住して行くものではないのであります。
「現世」も「死後の冥界」とともに現象世界であって、
実相世界を写したレンズと種板との異なる現像だとみれば
大体わかるのであります。
「写真が歪んで写っていても、実際の人間が歪んでいるとは思うな。
そのごとく現象人間が病気であっても、
実相人間を病気であるとは思うな。
実相人間は肉眼では見えないのだ。
お前には風がいずこからいずこへ吹くかその形が見えるか。
実相人間の肉眼に見えないことも、この風と同じことだ。
霊によって新たに生まれるとは、
現象人間から心の眼を一転して実相人間を見ることだ」
―― 解りやすく書けば、
これこそイエスがニコデモに語った真理であったのであります。
ところがニコデモにはその意味が解らない。
「いかでかかることのありうべき」と、彼は反駁しているのであります。
現代でも多くのニコデモがいて、わたしの主張に対して
「いかでかかることどものありうべき」と反駁するでありましょう。
そこでイエスはもどかしそうに
「なんじはイスラエルで先生といわれるほどの者であるのに、
なおこのくらいのことがわからぬのか。
誠に誠にわたしは念を押していうが、わたしのいうことは
わたしの直接体験で知っていることをいうのだ。
現象界の風の譬喩(たとえ)をもって話しても
お前には解らないならば、
実相世界のことをいってもお前には解るまい。
『天より降(くだ)りし者』すなわち
実相世界に誕生した者すなわち実相人間だけが実相世界に入(い)るのだ。
人の子はその肉体を十字架につけられて肉体が滅びる時が来ても、
『人の子』すなわち実相人間は『久遠の実在』であるということを
知るときが来るであろう。
それはすべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んがためなり」
と答えているのであります。(以上は『ヨハネ伝』第三章十六節までによる)
「すべて信ずる者の彼により永遠の生命(せいめい)を得んがためなり」
この一節は、今までキリスト教徒が、イエスを通さなければ
永遠の生命(せいめい)が得られないと主張する根拠となった一節であります。
しかし、何故(なにゆえ)、イエスご自身の言葉として、
「すべて信じるものの彼によりて永遠の生命を得んがためなり」
と三人称でいわれて、「われによりて」といわれなかったのでありましょうか。
イエスはここで特に「人の子」といったり
「彼」といったりしているのであります。
それは「人の子」というのはイエス自身が注釈して
「天より降(くだ)りし者をいう」といっている。
言い換えると実相世界に誕生した者 ―― 実相人間全体を
普通名詞としていっているのであります。
イエスは「われを信ぜよ」といったのではなく、
「人の子を信ぜよ、実相人間を信ぜよ、わたしはその一例だ、
『久遠の実在』としての実相人間を信ずる者には肉体は死んでも生きても、
永遠の生命(せいめい)が与えられるのだ」といったのであります。
<感謝合掌 令和3年5月3日 頓首再拝>
久遠神性にある救い - 伝統
2021/05/26 (Wed) 04:43:56
*『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P88~89)より
何人(なんぴと)の肉体的顕現を通さなくとも、
「久遠(くおん)の実在」としての実相人間を信ずる者には、
永遠の生命が与えられる、これが「生長の家」の発見した真理であります。
すべての人間が「久遠の実在」の顕現であり、
現象世界が善かろうと悪かろうとそんなことは
写真の映りが善いとか悪いとかの問題であって
「実際の人間((リーアル・マン)」は悪くはないのであります。
この事実を知らないから、人間は自己軽蔑する。
「自分などはとても駄目なものだ」と思って
「神性隠蔽」(罪)をするのであります。
神性隠蔽をしておいて現象界を映し出しても、
完全な神性が映(うつ)るはずはないのであります。
人間を風呂敷で包んでおいて写真をとってごらんなさい。
完全な人間の姿はうつりますまい。
それと同じく、自己の「神性」を包み隠しておいて、
「自分はとても駄目だ」などという念のレンズで
現象界を造り出したのでは、完全な現象界は出現するはずはないのです。
それで「自分は罪人だ」という観念は
すべての現象界の罪悪の母胎(ぼたい)であり、
自分は神の子だという観念は善き現象界を造る
母胎となるのであります。
<感謝合掌 令和3年5月26日 頓首再拝>
超時空的存在が人間である - 伝統
2021/07/19 (Mon) 03:09:27
*『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より
【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
(『生命の實相』第七巻)】
六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。
なかにも最もすぐれて、後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と青原の行思(ぎょうし)禅師とである。
南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。
南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、
「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。
「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。
「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。
印加された。
説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。
「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると****菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。
超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。
人間とは形なき霊なる、
「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。
<感謝合掌 令和3年7月19日 頓首再拝>
《人間の実相は完全である》 - 伝統
2022/07/19 (Tue) 07:32:06
*「眞理」第2巻基礎篇第3章(P65~66)より
すべての人間には、「毛虫」のような面と、
「蝶」のような美しい面とがあるのです。
人間の肉体の醜い本能的な生理的な面は、
人間の「毛虫」的な面です。
それは、殺生しなければ生きられないような、
****を満足しなければ耐えられないような、
唯(ただ)一時期だけの外見である。
その外見の奥に
「必ず蝶になる本性(ほんせい)」が既に宿っているように、
人間の此の糞雑穢(ふんぞうえ)を入れた皮袋(ひたい)にすぎない
肉体の奥に、本来「仏」なるもの、本来「神」なるものが
宿っているのである。
その本来「神」なるもの、「仏」なるものを見て、
常に敬礼(きょうらい)の誠を捧げて、どんな人間をも軽蔑しないのを、
「実相を拝む」と生長の家では言っている。
実相の完全さは、その完全さを心に描いて
拝む心で観ずれば顕われて来るのである。
<感謝合掌 令和4年7月19日 頓首再拝>
「妙有の人間(真の人間)」は、具体的な仏身であり、金剛不壊身である - 伝統
2022/10/24 (Mon) 07:23:32
*「光明道中記」(10月24日《本当に明るくなる日》)より
【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。
(『生命の實相』第八巻)】
「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに
生長の家の新しき真空妙有の説き方があり、
それが驚くべき奇蹟をあらわし、
キリストの言ったところの
「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。
「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。
妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き
頼りなき存在の意ではない。
妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。
妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。
それは五官に触れ得ない故に
非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして
人間の真実性を補足するにくるしませる結果となったのである。
「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き
表現法(いいかた)でも尚足りない。
「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。
<感謝合掌 令和4年10月24日 頓首再拝>
真実の人間 - 伝統
2024/03/02 (Sat) 12:35:41
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より
啓示の第二 ――
人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。
人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ――
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。
エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。
かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。
しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。
神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。
エデンの楽園のほかに国土はない。
このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。
実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。
そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。
もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。
では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。
そしたら
「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の
「どこへ?」逐い出されたのであるか。
誰が? どこへ?
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。
神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。
<感謝合掌 令和6年3月2日 頓首再拝>
本来、人間はそのまま神の子 - 伝統
2024/04/07 (Sun) 10:29:43
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より
本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。
本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。
本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。
<感謝合掌 令和6年4月7日 頓首再拝>
「妙有の人間(真の人間)」は、具体的な仏身であり、金剛不壊身である - 伝統
2024/10/24 (Thu) 11:46:36
*「光明道中記」(10月24日《本当に明るくなる日》)より
【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。
(『生命の實相』第八巻)】
「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに
生長の家の新しき真空妙有の説き方があり、
それが驚くべき奇蹟をあらわし、
キリストの言ったところの
「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。
「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。
妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き
頼りなき存在の意ではない。
妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。
妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。
それは五官に触れ得ない故に
非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして
人間の真実性を補足するにくるしませる結果となったのである。
「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き
表現法(いいかた)でも尚足りない。
「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。
<感謝合掌 令和6年10月24日 頓首再拝>
真実の人間 - 伝統
2025/03/02 (Sun) 15:00:57
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より
啓示の第二 ――
人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。
人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ――
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。
エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。
かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。
しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。
神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。
エデンの楽園のほかに国土はない。
このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。
実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。
そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。
もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。
では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。
そしたら
「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の
「どこへ?」逐い出されたのであるか。
誰が? どこへ?
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。
神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。
<感謝合掌 令和7年3月2日 頓首再拝>
本来、人間はそのまま神の子 - 伝統
2025/04/07 (Mon) 10:16:33
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より
本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。
本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。
本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。
<感謝合掌 令和7年4月7日 頓首再拝>
「妙有の人間(真の人間)」は、具体的な仏身であり、金剛不壊身である - 伝統
2025/10/24 (Fri) 11:45:42
*「光明道中記」(10月24日《本当に明るくなる日》)より
【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。
(『生命の實相』第八巻)】
「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに
生長の家の新しき真空妙有の説き方があり、
それが驚くべき奇蹟をあらわし、
キリストの言ったところの
「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。
「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。
妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き
頼りなき存在の意ではない。
妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。
妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。
それは五官に触れ得ない故に
非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして
人間の真実性を補足するにくるしませる結果となったのである。
「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き
表現法(いいかた)でも尚足りない。
「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。
<感謝合掌 令和7年10月24日 頓首再拝>
真実の人間 - 伝統
2026/03/02 (Mon) 10:36:07
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より
啓示の第二 ――
人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。
人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ――
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。
エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。
かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。
しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。
神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。
エデンの楽園のほかに国土はない。
このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。
実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。
そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。
もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。
では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。
そしたら
「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の
「どこへ?」逐い出されたのであるか。
誰が? どこへ?
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。
神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。
<感謝合掌 令和8年3月2日 頓首再拝>
本来、人間はそのまま神の子 - 伝統
2026/04/07 (Tue) 11:35:06
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より
本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。
本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。
本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。
<感謝合掌 令和8年4月7日 頓首再拝>