伝統板・第二
神の生命 ② - 伝統
2021/07/18 (Sun) 04:50:47
*伝統板・第二「神の生命」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7176434
すべては霊である
*「光明法語」(7月18日)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 令和3年7月18日 頓首再拝>
霊は物質を支配す - 伝統
2021/07/19 (Mon) 02:57:36
*「光明法語」(7月19日)より
生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。
ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。
実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。
<感謝合掌 令和3年7月19日 頓首再拝>
黴菌の使命 - 伝統
2021/07/20 (Tue) 02:35:56
*「光明法語」(7月20日)より
黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。
だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。
それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。
<感謝合掌 令和3年7月20日 頓首再拝>
争闘の世界観を捨てよ - 伝統
2021/07/21 (Wed) 04:51:33
*「光明法語」(7月21日)より
かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。
人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。
<感謝合掌 令和3年7月21日 頓首再拝>
智慧と愛と美 - 伝統
2021/09/01 (Wed) 04:40:03
*「光明法語」(9月1日)より
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。
智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。
生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。
アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。
アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。
<感謝合掌 令和3年9月1日 頓首再拝>
生命は自己の「心の波」を道具として、自己の理念の姿を表現する - 伝統
2021/11/24 (Wed) 04:54:20
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
生命(せいめい)なき物質と、生命ある有機体との間には
けざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、
それに生命(いのち)が宿らない間は、その分解・結合の状態は
いつまでも無機物的な方向において行なわれる。
いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、
全然異なる分子の分解・結合が行なわれ、
一定の「理念」(または精神的原型)にしたがってあるいは
絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。
イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。
すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。
「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、
自己の「理念」または「精神的模型」の秩序にしたがって、
新しく再配置する力をもっていることである。
それは物質それ自身の性質を利用しつつ、
新たに自己の理念または精神的模型を造形しゆくこと、
あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。
宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、宇宙精神の高次にして
優位なるあらわれなるいわゆる「生命(せいめい)」に対してはただ素材を
提供するのみであって、物質が生命(せいめい)
を左右することはできないのである。
逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。
野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して
自己の理念の姿を表現することができているのに、
人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。
<感謝合掌 令和3年11月24日 頓首再拝>
【人はなぜ生まれ、死ぬのでしょうか?】 - 伝統
2022/06/07 (Tue) 07:06:11
*Web:大空からのメッセージ(2021年06月14日)より
わたしはなぜ生まれ、死ぬのでしょうか?
わたしは実は生まれてもせず、死にもしません。
わたしは実は宇宙全体を常に満たしている光です。
宇宙全体を常に満たしている光であるわたしが
肉体を生み出し、肉体を死なせています。
生まれて死ぬのは肉体だけです。
肉体を生み出して肉体という現象を体験しているわたしは
宇宙全体を常に満たしている光なので
生まれもせず、死にもしません。
肉体を生み出して肉体という現象を体験しているあなたは
宇宙全体を常に満たしている光なので
生まれもせず、死にもしません。
肉体を生み出して肉体という現象を体験しているみんなは
宇宙全体を常に満たしている光なので
生まれもせず、死にもしません。
宇宙全体を常に満たしている光は
古来から現在に至るまで多くの人が実感してきて
永遠の光、無限の光、神の光、仏の光、如来の光、
愛の光、命の光、至福の光、魂の光、心の光と呼ばれています。
宇宙全体を常に満たしている光が宇宙の実相であり、生命の実相です。
宇宙全体を常に満たしている光との一体感は大いなる安心感です。
https://ooinarukuu.ti-da.net/e11953917.html
<感謝合掌 令和4年6月7日 頓首再拝>
自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ - 伝統
2022/07/07 (Thu) 07:35:43
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月7日)より
健康を得んと欲するならば、
自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。
神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、
「神の生命」が自己の生命であると観じられるかぎりにおいて
健康を失うことはありえないのである。
瞑目合掌して自己の全身が
「神の生命」に満たされて光明燦然と輝いている有様を瞑視して、
それに精神を統一せよ。
漠然と「健康」と観ずるよりも、
具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。
自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。
次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、
「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この眼は神の眼であって、
神はこの眼を通して自己の創造の美しさを鑑賞したまうのであるから、
毎日いっそうわが眼の視力は増大するのである。
神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく
『耳よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この耳は神の耳であって、
神はこの耳を通して大自然および神の子たる人間の音楽のいかに美しきかを
鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが耳の聴力は微妙であって
いかなるデリケートな音調でも聴き分けることができるのである。
神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜にプラナを流れ入らしめたまいて、
これらを祝福して言い給う『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。
わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として
具象化したまいしものであるから霊的実在であるのである。
だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものではないのである。
自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を
今かなぐり捨てたのである。
神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。
神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う
『心臓よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。
わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとく
われもまたすべての人々を愛したのである。
神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」
このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して
現実的に一つひとつの身体各部を健全化して視るのである。
「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、
神のプラナを吸い込むような気持ちで呼吸をそれに合致せしめると
いっそうよいのである。
<感謝合掌 令和4年7月7日 頓首再拝>
生命の本源は神 - 伝統
2022/07/13 (Wed) 07:41:15
*「光明法語」(7月13日)より)
吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。
先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。
されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。
<感謝合掌 令和4年7月13日 頓首再拝>
すべては霊である - 伝統
2022/07/18 (Mon) 07:48:27
*「光明法語」(7月18日)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 令和4年7月18日 頓首再拝>
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である - 伝統
2022/09/01 (Thu) 05:04:32
*「光明法語」(9月1日《智慧と愛と美》)より
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。
智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。
生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。
アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。
アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。
<感謝合掌 令和4年9月1日 頓首再拝>
神の生命に、大もなく小もない。 - 伝統
2023/01/11 (Wed) 07:18:30
*「光明道中記」(1月11日天地の法輪を聴く日)より抜粋
【全世界は如来の転ずる法輪である。****輪が実在の宇宙である。
(『驀進日本の心と刀』)】
生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。
恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、
また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、
空間的広がりがないのであるから
その微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。
その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。
「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。
大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。
<感謝合掌 令和5年1月11日 頓首再拝>
《わが生命は神の生命の歓喜》 - 伝統
2023/04/03 (Mon) 05:03:42
*「光明法語」(4月3日)より
われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。
神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。
われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。
生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。
<感謝合掌 令和5年4月3日 頓首再拝>
自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ - 伝統
2023/07/07 (Fri) 04:46:44
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月7日)より
健康を得んと欲するならば、
自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。
神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、
「神の生命」が自己の生命であると観じられるかぎりにおいて
健康を失うことはありえないのである。
瞑目合掌して自己の全身が
「神の生命」に満たされて光明燦然と輝いている有様を瞑視して、
それに精神を統一せよ。
漠然と「健康」と観ずるよりも、
具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。
自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。
次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、
「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この眼は神の眼であって、
神はこの眼を通して自己の創造の美しさを鑑賞したまうのであるから、
毎日いっそうわが眼の視力は増大するのである。
神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく
『耳よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この耳は神の耳であって、
神はこの耳を通して大自然および神の子たる人間の音楽のいかに美しきかを
鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが耳の聴力は微妙であって
いかなるデリケートな音調でも聴き分けることができるのである。
神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜にプラナを流れ入らしめたまいて、
これらを祝福して言い給う『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。
わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として
具象化したまいしものであるから霊的実在であるのである。
だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものではないのである。
自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を
今かなぐり捨てたのである。
神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。
神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う
『心臓よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。
わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとく
われもまたすべての人々を愛したのである。
神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」
このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して
現実的に一つひとつの身体各部を健全化して視るのである。
「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、
神のプラナを吸い込むような気持ちで呼吸をそれに合致せしめると
いっそうよいのである。
<感謝合掌 令和5年7月7日 頓首再拝>
すべては霊である - 伝統
2023/07/18 (Tue) 05:05:00
*「光明法語」(7月18日)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である - 伝統
2023/09/01 (Fri) 05:01:00
*「光明法語」(9月1日《智慧と愛と美》)より
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。
智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。
生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。
アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。
アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。
<感謝合掌 令和5年9月1日 頓首再拝>
神の生命に、大もなく小もない。 - 伝統
2024/01/11 (Thu) 10:16:31
*「光明道中記」(1月11日天地の法輪を聴く日)より抜粋
【全世界は如来の転ずる法輪である。****輪が実在の宇宙である。
(『驀進日本の心と刀』)】
生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。
恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、
また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、
空間的広がりがないのであるから
その微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。
その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。
「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。
大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。
<感謝合掌 令和6年1月11日 頓首再拝>
人間は神の生命の顕れである。 - 伝統
2024/03/01 (Fri) 09:04:57
「光明道中記」(3月1日《栄光を見る日》)より
【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
(『生命の實相』第七巻)】
人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。
「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、ただ神により生まれしなり。
言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)
その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを****によりて生れたる者と観ず、
われをただ神によりて生れたと観るのである。
単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。
そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。
観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、
観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して
栄光を見る心になるのが悔(くい)改めである。
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」
(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。
人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。
<感謝合掌 令和6年3月1日 頓首再拝>
生命荘厳の美 - 伝統
2024/07/02 (Tue) 10:18:19
*「光明法語」(7月2日)より
世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。
困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。
山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。
困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。
<感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>
すべては「生命(いのち)」である - 伝統
2024/07/18 (Thu) 11:13:18
*「光明法語」(7月18日)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 令和6年7月18日 頓首再拝>
霊は物質を支配す - 伝統
2024/07/19 (Fri) 11:40:08
*「光明法語」(7月19日)より
生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。
ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。
実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。
<感謝合掌 令和6年7月19日 頓首再拝>
黴菌の使命 - 伝統
2024/07/20 (Sat) 10:21:36
*「光明法語」(7月20日)より
黴菌にまけると思う人があるが、
黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、
その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。
だいたい黴菌は植物であるが、
植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)かわりに、
播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。
それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。
<感謝合掌 令和6年7月20日 頓首再拝>
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である - 伝統
2024/09/01 (Sun) 10:41:18
*「光明法語」(9月1日《智慧と愛と美》)より
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。
智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。
生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。
アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。
アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。
<感謝合掌 令和6年9月1日 頓首再拝>
すべては「生命(いのち)」である - 伝統
2025/07/18 (Fri) 11:20:58
*「光明法語」(7月18日《神は霊である》)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 令和7年7月18日 頓首再拝>
霊は物質を支配す - 伝統
2025/07/19 (Sat) 11:49:51
*「光明法語」(7月19日)より
生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。
ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。
実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。
<感謝合掌 令和7年7月19日 頓首再拝>
黴菌の使命 - 伝統
2025/07/20 (Sun) 10:49:18
*「光明法語」(7月20日)より
黴菌にまけると思う人があるが、
黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、
その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。
だいたい黴菌は植物であるが、
植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)かわりに、
播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。
それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。
<感謝合掌 令和7年7月20日 頓首再拝>
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である - 伝統
2025/09/01 (Mon) 11:12:19
*「光明法語」(9月1日《智慧と愛と美》)より
生命の本源は智慧であり、愛であり、美である。
智慧と愛と美との表現が生命の根本的衝動であるのである。
雪の一片一片の結晶にも、名もない小草(おぐさ)の一枚の葉にも
不思議なる智慧と愛と美とが表現されているのである。
生命は普遍である。
普遍とは何処にも行きわたっている「一」つの存在であると云う事である。
アメリカに生じた禾本科(かほんか)の植物も
アジアに生じたる禾本科の植物も同様の構造をもっている。
アメリカ人も日本人も其の生理的構成は等しい。
全て兄弟である。
<感謝合掌 令和7年9月1日 頓首再拝>
人間は神の生命の顕れである。 - 伝統
2026/03/01 (Sun) 11:28:52
「光明道中記」(3月1日《栄光を見る日》)より
【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
(『生命の實相』第七巻)】
人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。
「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、ただ神により生まれしなり。
言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)
その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを****によりて生れたる者と観ず、
われをただ神によりて生れたと観るのである。
単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。
そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。
観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、
観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して
栄光を見る心になるのが悔(くい)改めである。
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」
(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。
人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。
<感謝合掌 令和8年3月1日 頓首再拝>
すべては「生命(いのち)」である - 伝統
2026/07/18 (Sat) 11:51:04
*「光明法語」(7月18日《神は霊である》)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 令和8年7月18日 頓首再拝>