伝統板・第二
神の創造 ③ - 伝統
2021/09/17 (Fri) 04:50:23
生命の純粋律動
*「光明法語」(9月17日)より
生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。
しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。
それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。
創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。
<関連>
(1)伝統板・第二「神の創造」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7538249
(2)伝統板・第二「神の創造 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7889480
<感謝合掌 令和3年9月17日 頓首再拝>
神は生命の歓喜によって、人間、自然を創造したのである - 伝統
2021/09/18 (Sat) 04:52:02
*「光明法語」(9月18日《神の生命の歓喜》)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、
桜の爛漫たる、梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
<感謝合掌 平成24年9月18日 頓首再拝>
歓喜の創造 - 伝統
2021/09/19 (Sun) 04:48:19
*「光明法語」(9月19日)より
歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。
喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。
イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。
<感謝合掌 令和3年9月19日 頓首再拝>
創造の最初に感情あり - 伝統
2021/09/20 (Mon) 04:44:18
*「光明法語」(9月20日)より
最初に感情が動いて、
軈(やが)てハッキリした行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。
たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。
即ちハッキリした形に思い浮び、それが行動を指導する
ことになるのである。
腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。
<感謝合掌 令和3年9月20日 頓首再拝>
「霊の振動」で、万物が生じた - 伝統
2022/01/05 (Wed) 02:23:24
*「光明道中記」(1月5日《万物皆霊を知る日》)より
【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
(「生命の實相」第十一巻)】
人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。
それを展開して引き出すのが教育である。
凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。
エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、ただの「無」ではなくして、
そこに動き始むる力があった。それが神の霊である。
「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
神光あれと言い給いければ光ありき」である。
エーテルの大海中に「霊の振動」が起る
―― 即ちコトバ起れば、宇宙電気となり、大火焔
の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、万物を生じ、
万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。
エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。
霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。
物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。
吾々は物質の力を使わないのではない。
物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。
<感謝合掌 令和4年1月5日 頓首再拝>
《霊は素材、想念は創造(つく)る力》 - 伝統
2022/02/21 (Mon) 04:44:38
*「眞理」第2巻基礎篇第8章(P218~219)より
神が宇宙を創造(つく)った際には、
それは物質を造(つく)る前であるから、物質的資材などは何もない。
神は霊であるから霊を素材として一切のものは造られた。
霊を素材として、それを一定の形に変形する力は
「心」即ち「霊の波動」である。
それは単なる物理的な盲目的波動ではなくて、
智的な波動(即ち想念)である。
「霊」は素材であり、
想念がそれを一定の形に凝固させる力である。
そのことが判れば、如何なる物質的治療法も、
想念を完全に健康の方に転向して置かなければ、
完全に治癒せしめ得(え)ないと云うことになる。
たとえば外科手術をして鼻茸(はなたけ)を切除しても、
鼻茸そのものは「想念」の結果であるから、
その人の想念を変化させなかったら再発するが如くである。
<感謝合掌 令和4年2月21日 頓首再拝>
神が心をもって万物を創造し給うた - 伝統
2022/03/01 (Tue) 03:53:16
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より
啓示 ――
人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。
神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。
第一の創造は神の「世界および人間創造」である。
神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。
「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。
しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」「創世記」第一章の神の宣言に
あらわれている。
神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。
人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。
人間に病気はない。
<感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>
天地の開くる音を聴く日 - 伝統
2022/04/01 (Fri) 06:42:58
*「光明道中記」(4月1日)より
【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
(生命の實相第十一巻)】
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、何かもう現在には何の関係もない、
たとい関係があるにしても、それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに
過ぎないので、今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。
創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。
一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、原始(はじめ)であり、
終末(おわり)であり、一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの
「一」である。
「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。
「物質」は《無い》 ―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。
併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、而(しか)も
アインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。
<感謝合掌 令和4年4月1日 頓首再拝>
「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統
2022/05/06 (Fri) 09:25:57
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より
眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。
第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。
曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。
第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。
思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。
<感謝合掌 令和4年5月6日 頓首再拝>
ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統
2022/05/14 (Sat) 07:24:17
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より
すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。
それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。
「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。
生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。
<感謝合掌 令和4年5月14日 頓首再拝>
宇宙は神が、観念によって具象化 - 伝統
2022/07/28 (Thu) 06:49:39
*「光明法語」(7月28日《観念と創造》)より
観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和4年7月28日 頓首再拝>
創造は分化と綜合 - 伝統
2022/08/12 (Fri) 11:28:41
*「光明法語」(8月12日)より)
神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。
陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。
画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。
摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。
しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する
<感謝合掌 令和4年8月12日 頓首再拝>
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する - 伝統
2022/08/13 (Sat) 10:46:55
*「光明法語」(8月12日《霊と物質との関係》)より
物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。
物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。
併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。
人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。
<感謝合掌 令和4年8月13日 頓首再拝>
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ず - 伝統
2022/08/18 (Thu) 11:05:40
*「光明法語」(8月18日《人間性の無限の味》)より
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。
「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・
かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか概括して言うことは出来ない。
愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。
<感謝合掌 令和4年8月18日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2022/09/09 (Fri) 08:59:14
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に喜びを感ずる
のと同様である。
大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。
<感謝合掌 令和4年9月9日 頓首再拝>
大生命の創造は、つきることのない歓喜の爆発である - 伝統
2022/09/10 (Sat) 07:48:02
*「光明法語」(9月10日《無限の生長と前進》)より
かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、
その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。
それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの
全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。
大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。
<感謝合掌 令和4年9月10日 頓首再拝>
新しきものの創造 - 伝統
2022/09/11 (Sun) 08:00:38
*「光明法語」(9月11日)より
汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。
大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。
吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。
<感謝合掌 令和4年9月11日 頓首再拝>
創造は感情によって行なわれる - 伝統
2022/09/17 (Sat) 07:50:48
*「光明法語」(9月17日《生命の純粋律動》)より
生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。
しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。
それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。
創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。
<感謝合掌 令和4年9月17日 頓首再拝>
神は生命の歓喜によって、人間を自然を創造したのである - 伝統
2022/09/18 (Sun) 09:44:42
*「光明法語」(9月18日《神の生命の歓喜》)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、
桜の爛漫たる、梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
<感謝合掌 令和4年9月18日 頓首再拝>
喜びは創造する力 - 伝統
2022/09/19 (Mon) 04:35:05
*「光明法語」(9月19日《歓喜の創造》)より
歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。
喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。
イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と
歓喜して世界を創造したのである。
喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。
<感謝合掌 令和4年9月19日 頓首再拝>
創造の最初に感情あり - 伝統
2022/09/20 (Tue) 05:09:31
*「光明法語」(9月20日)より
最初に感情が動いて、
軈(やが)てハッキリした行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。
たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。即ちハッキリした形に思い浮び、
それが行動を指導することになるのである。
腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。
<感謝合掌 令和4年9月20日 頓首再拝>
真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる - 伝統
2022/09/21 (Wed) 05:00:16
*「光明法語」(9月21日《良き芸術、良き科学》)より
愛は生命の純粋感情であるから、真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。
真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、
如何なる知的な作業も可能ならしめる。
想念も実は愛の産物であり、愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。
愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。
<感謝合掌 令和4年9月21日 頓首再拝>
天地の開くる音を聴く日 - 伝統
2023/04/01 (Sat) 05:08:57
*「光明道中記」(4月1日)より
【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
(生命の實相第十一巻)】
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、たとい関係があるにしても、
それは既に「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに過ぎないので、
今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。
創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。
一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。
「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。
何によって。
それは言(ことば)によって、
言(ことば)は神であり、それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。
「物質」は《無い》
―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。
併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、
而(しか)もアインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。
<感謝合掌 令和5年4月1日 頓首再拝>
「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統
2023/05/06 (Sat) 08:42:50
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より
眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。
第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。
曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。
第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。
思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。
<感謝合掌 令和5年5月6日 頓首再拝>
観念と創造 - 伝統
2023/07/28 (Fri) 05:07:35
*「光明法語」(7月28日)より)
観念法門と云うのがある。
観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>
超個人的精神上の観念 - 伝統
2023/07/29 (Sat) 05:06:59
*「光明法語」(7月29日)より)
バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。
併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。
そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。
<感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>
創造は分化と綜合 - 伝統
2023/08/12 (Sat) 05:00:38
*「光明法語」(8月12日)より)
神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。
陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。
画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして何もそれ妨げるものがなければ、
「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あってはじめて絵をかき得るのである。
摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。
しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する
<感謝合掌 令和5年8月12日 頓首再拝>
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する - 伝統
2023/08/13 (Sun) 07:25:18
*「光明法語」(8月12日《霊と物質との関係》)より
物質は、霊が自己表現の道具として、
自己を制約する「自己限定」のものとして創造したところのものである。
物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。
併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。
人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。
<感謝合掌 令和5年8月13日 頓首再拝>
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ず - 伝統
2023/08/18 (Fri) 05:04:08
*「光明法語」(8月18日《人間性の無限の味》)より
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に
「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。
「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・
かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか
概括して言うことは出来ない。
愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。
<感謝合掌 令和5年8月18日 頓首再拝>
無限の生長と前進 - 伝統
2023/09/10 (Sun) 11:43:35
*「光明法語」(9月10日)より
かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、
その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。
それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの
全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。
大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。
<感謝合掌 令和5年9月10日 頓首再拝>
新しきものの創造 - 伝統
2023/09/11 (Mon) 11:50:56
*「光明法語」(9月11日)より
汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。
大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。
吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。
<感謝合掌 令和5年9月11日 頓首再拝>
創造は感情によって行なわれる - 伝統
2023/09/17 (Sun) 12:53:15
*「光明法語」(9月17日《生命の純粋律動》)より
生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。
しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。
それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。
創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。
<感謝合掌 令和5年9月17日 頓首再拝>
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現である - 伝統
2023/09/18 (Mon) 09:37:33
*「光明法語」(9月18日《神の生命の歓喜》)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、
白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
<感謝合掌 令和5年9月18日 頓首再拝>
創造の最初に感情あり - 伝統
2023/09/20 (Wed) 12:05:56
*「光明法語」(9月20日)より
最初に感情が動いて、軈(やが)て
ハッキリした行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。
たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。
即ちハッキリした形に思い浮び、
それが行動を指導することになるのである。
腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。
<感謝合掌 令和5年9月20日 頓首再拝>
第一の創造は神の「世界および人間創造」 - 伝統
2024/03/01 (Fri) 08:56:13
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より
啓示 ――
人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。
神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって
万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。
第一の創造は神の「世界および人間創造」である。
神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。
「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。
しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」
「創世記」第一章の神の宣言にあらわれている。
神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。
人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。
人間に病気はない。
<感謝合掌 令和6年3月1日 頓首再拝>
天地の開くる音を聴く日 - 伝統
2024/04/01 (Mon) 13:39:41
*「光明道中記」(4月1日)より
【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
(生命の實相第十一巻)】
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、
たとい関係があるにしても、それは既に
「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに過ぎないので、
今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。
創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。
一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。
「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。
何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、
それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。
「物質」は《無い》
―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。
併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、
而(しか)もアインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。
<感謝合掌 令和6年4月1日 頓首再拝>
「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統
2024/05/06 (Mon) 11:58:02
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より
眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。
第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。
曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。
第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。
思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。
<感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>
ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統
2024/05/14 (Tue) 11:41:17
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より
すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。
それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。
「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。
生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。
<感謝合掌 令和6年5月13日 頓首再拝>
「観る」ことは「創造(つく)る」こと - 伝統
2024/07/28 (Sun) 11:52:02
*「光明法語」(7月28日《観念と創造》)より
観念法門と云うのがある。観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和6年7月28日 頓首再拝>
創造は分化と綜合 - 伝統
2024/08/12 (Mon) 11:37:49
*「光明法語」(8月12日)より)
神の創造は分化と綜合との弁証法的方法によって行われる。
陰陽への分化は、絶対なる神の「自己限定」である。
自己限定によってのみ「表現」は遂げられるのである。
画家は筆を揮(ふる)うこと自由自在にして
何もそれ妨げるものがなければ、「表現」は出来ないのである。
画筆の運行に摩擦するところの画板(カンパス)あって
はじめて絵をかき得るのである。
摩擦は抵抗であり、制約である。
体は霊に対して抵抗であり、制約である。
しかしその抵抗と制約とを通して霊は自己を表現する。
<感謝合掌 令和6年8月12日 頓首再拝>
大生命の創造は、つきることのない歓喜の爆発である - 伝統
2024/09/10 (Tue) 11:20:04
*「光明法語」(9月10日《無限の生長と前進》)より
かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、
その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。
それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの
全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。
大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。
<感謝合掌 令和6年9月10日 頓首再拝>
新しきものの創造 - 伝統
2024/09/11 (Wed) 11:16:00
*「光明法語」(9月11日)より
汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。
大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。
吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。
<感謝合掌 令和6年9月11日 頓首再拝>
生命の純粋律動 - 伝統
2024/09/17 (Tue) 11:25:44
*「光明法語」(9月17日)より
生命の純粋なる律動は感情である。
感情は音楽とひとしく、知的な、又は理論的な根拠は伴わない。
それは理窟なしにただ動く生命の純粋なる波動である。
しかしそれが既に波動的にあらわれた結果を理解すれば、
それは知的な理論的な構成をもっているであろう。
それは純粋感情の創造せる結果を知的に分解したに過ぎないのであって、
「知」の創造ではないのである。
「知」は創造の結果を分析して体系づけるに過ぎない。
創造は感情によって行なわれる。
愛は感情である。
<感謝合掌 令和6年9月17日 頓首再拝>
創造の最初に感情あり - 伝統
2024/09/20 (Fri) 11:49:26
*「光明法語」(9月20日)より
最初に感情が動いて、軈(やが)て
ハッキリした行動又は構図の設計的なものが心に浮ぶ、
それが想念である。
たとえば或る人が腹が立つ。腹が立つのは感情である。
まだハッキリした形は心に浮ばない。
軈(やが)てそれが握り拳となる。
即ちハッキリした形に思い浮び、
それが行動を指導することになるのである。
腹が立つのは悪い方の引例であるが、
善い方の例を引けば「可愛い」と云う感情が起る。
それは最初は明確な形を豫想しないが、
軈(やが)てそれは愛撫の形をもって顕れる。
<感謝合掌 令和6年9月20日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2025/02/04 (Tue) 12:24:29
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 令和7年2月4日 頓首再拝>
第一の創造は神の「世界および人間創造」 - 伝統
2025/03/01 (Sat) 11:22:19
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より
啓示 ――
人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。
神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、人間も言葉をもって
万物を創造(つく)り出すのである。
人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。
第一の創造は神の「世界および人間創造」である。
神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)
そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。このことは否定できない。
「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。
しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。
これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」
「創世記」第一章の神の宣言にあらわれている。
神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。
人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。
人間に病気はない。
<感謝合掌 令和7年3月1日 頓首再拝>
天地の開くる音を聴く日 - 伝統
2025/04/01 (Tue) 10:49:59
*「光明道中記」(4月1日)より
【父の愛と母の愛、天の生気と地の生気と両々そろって万物は育成する。
(生命の實相第十一巻)】
「一(はじめ)に神天地を創造(つく)り給えり」と云う言葉を、
何か遠い昔に神様が天地を創造し給うたのであって、
何かもう現在には何の関係もない、
たとい関係があるにしても、それは既に
「創造り終え給うた創造」の惰力のようなものに過ぎないので、
今からどうにでも出来ないものであると考えるのは誤りである。
創造は「今」行なわれているのである。
「一に神天地を創造り給えり」と云うのは
「今」が一(はじめ)であり、「今」が終(おわり)である。
一は、一、ニ、三、四・・・の現象的相対的一ではなく、
原始(はじめ)であり、終末(おわり)であり、
一(アルファ)であり、一(オメガ)であるところの「一」である。
「今」わが運命は、わが健康は、創造られつつあるのである。
何によって。
それは言(ことば)によって、言(ことば)は神であり、
それに生命(いのち)あり、
すべてのもの言(ことば)によって創造られつつあるのである。
「物質」は《無い》
―― 《無い》と云うことがよく理解し得ないものは、
一旦は「物質」は《ある》 ―― と思っても好い。
併し「物質」は如何なるものであるか、それはエーテル波動であり、
エーテル中の結紐(むすぼれ)であり、旋渦(うずまき)であり、
而(しか)もアインシュタインの相対性原理出でて以来、
エーテルは「無」を仮に名附けたものであることが判明した。
<感謝合掌 令和7年4月1日 頓首再拝>
「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統
2025/05/06 (Tue) 11:20:44
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より
眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。
第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。
曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。
第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、
われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。
思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。
<感謝合掌 令和7年5月6日 頓首再拝>
観念と創造 - 伝統
2025/07/28 (Mon) 12:24:46
*「光明法語」(7月28日)より)
観念法門と云うのがある。
観仏、念仏の宗教であり、浄土宗や真宗がそれである。
仏を観ずる事によって自己が仏となり、
仏を念ずる事によって自己が仏と同体になるという宗教である。
「観る」ことは「創造(つく)る」ことであり、
念ずることは又創造(つく)る事である。
心にある形を観、心にある相(すがた)を念ずる、
これを「観念」又は「コトバ」と云う。
宇宙は神が、自己の心にある形を観、ある相を念ずることによって
それが具象化したのである。
されば一切のものは観念の創造であると云える。
<感謝合掌 令和7年7月28日 頓首再拝>
超個人的精神上の観念 - 伝統
2025/07/29 (Tue) 11:17:16
*「光明法語」(7月29日)より)
バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。
併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。
そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。
<感謝合掌 令和7年7月29日 頓首再拝>