伝統板・第二
内なる宝庫 ③ - 伝統
2021/11/24 (Wed) 04:56:25
自己内在の大通力を自覚せよ
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」を
みずから主張しないからであって、
それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に
坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とを
そなえていながらみずから進んでそれを自覚しないから、
自分の実相の完全さがあらわれないにすぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「内なる宝庫」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6909070
(2)伝統板・第二「内なる宝庫 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7759717
<感謝合掌 令和3年11月24日 頓首再拝>
《内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ》 - 伝統
2021/12/16 (Thu) 04:59:14
*『 生長の家 』(昭和25年5月11日の法語)より
吾々が救われるのは吾々の実相によって救われるのである。
神の子である所のすでに救われている実相を認めることが必要である。
神の子をくらます様な何事をも なすな。
自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては
自分自身は滅びるより仕方がないのである。
吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。
吾に宿る神の子は、
自己に宿るキリストであり、内在の仏性である。
それに目覚めることが第一である。
<感謝合掌 令和3年12月16日 頓首再拝>
内に力を見出す - 伝統
2022/01/09 (Sun) 02:38:49
*「光明道中記」(1月9日《無字透関の日》)より抜粋
【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】
宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。
「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。
人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。
併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。
所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。
<感謝合掌 令和4年1月9日 頓首再拝>
《神が汝(なんじ)の内に宿っている》 - 伝統
2022/02/03 (Thu) 04:57:41
*「生長の家」(昭和25年6月30日の法語)より
どんな悪しき形をも よき形に変化し得ない
という様な神の力はないのである。
神は 暗黒の中に光を放ち、悪と見ゆるものから善を放ち、
貧しさの中から富を生み出す所の力である。
その神を吾(わ)が内に見出す時には
吾は 如何(いか)なるものの中からも
よきものを生みだすことができるのである。
躓(つまず)きを恐るな。
躓いても すぐ立ち上がって光明に面するのが生長の家の生活である。
神が汝の内に宿っているではないか。
それを思いおこすことが必要である。
神は一切の不幸を幸福に変貌(へんぼう)する力である。
その力が自分の内に宿っているのである。
喜べ喜べ。神を信ぜよ。自己を信ぜよ。
<感謝合掌 令和4年2月3日 頓首再拝>
《あなたに宿る”生命”は”神” である》 - 伝統
2022/02/18 (Fri) 02:44:11
*「生長の家」(昭和51年6月17日の法語)より
それゆえに”行”が必要である。
行動が必要なのである。
その行動の必要と仕方とを説いたのが私の『人生を前進する』である。
毎日”光 ”をかかげて前進するものはついに、
”暗い過 去の影”を消して光明輝く世界に自分の住む世界を
光転してしまうことができるのである。
『人生を前進する』の本 には、幾たびも過去に地殻が変動し、
一度築かれたものが破壊されて地殻の中に埋没されても、
またその地殻の上に何かを築きあげずには置かなかった
大自然の生命力の 逞しさを説いて、
それと同じ生命力が自分の内に宿っていることを説き、
次の如く結論しているのである。
「諸君に宿っているところの生命力もおよそかくの如きものである。
生命がかくも執拗にたくましく、埋没されても、圧下されても、
滅びることを知らずに伸びることのみを知って退嬰しないのは
生命とは『神』であるからである」(『人生を前進する』 200頁)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363
<感謝合掌 令和4年2月18日 頓首再拝>
《汝の内なる神を自覚せよ》 - 伝統
2022/03/03 (Thu) 04:53:18
*『 生長の家 』(昭和26年6月18日の法語)より
あなたの内に神 住みたまう。
神はあなたの内に宿りたまいて、夜も昼も絶え間なく
あなたを護っていられるのである。
あなたの内には、あなた自身が自覚していられるよりも
尚(なお)一層偉大なる力が宿っているのである。
あなたは、今 到底自分には出来ないと思われるような
困難を打破する力を持っているのである。
その力は自覚の深まる程度に従ってあらわれて来るのである。
それを自覚するためには毎日、神想観をして
自分の「 実相 」が神の生命であることを諦視すること。
毎日、真理の書の一章を読むことである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 令和4年3月3日 頓首再拝>
わが内に宿る神 - 伝統
2022/03/22 (Tue) 06:46:33
*「光明法語」(3月22日)より
『マタイ伝』第六章六には
『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』
とイエスが教えている。
必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。
『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。
神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。
わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。
<感謝合掌 令和4年3月22日 頓首再拝>
神の真が自分の中に生きている - 伝統
2022/06/12 (Sun) 13:12:43
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より
信心とは《自分が》こう信ずるということではない。
神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。
<感謝合掌 令和4年6月12日 頓首再拝>
内外打成一片 - 伝統
2022/08/02 (Tue) 07:39:34
*「光明道中記」(8月2日《完徳成就の日》)より抜粋
【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】
神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。
神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、
そして外にあり、内にあり、中間にある。
それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。
<感謝合掌 令和4年8月2日 頓首再拝>
内なる神を通して、願いを諾(き)き給う - 伝統
2022/08/20 (Sat) 08:08:09
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月20日)より
求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。
しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。
あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。
そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。
宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。
<感謝合掌 令和4年8月20日 頓首再拝>
自己の中に一切世界が存在する - 伝統
2022/08/31 (Wed) 06:26:58
*「光明法語」(8月31日《拝む者のみ拝まれる》)より
****菩薩が維摩居士を訪ねたときに、
維摩は『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』と問うた。
****菩薩は答えて「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、身長(みのたけ)八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、
その獅子座は高さ八萬四千由旬で実に素晴しいものです」と言った。
維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。
維摩の方丈(一丈四方)の室中に八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の獅子座が
入る事が出来たのは、自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。
<感謝合掌 令和4年8月31日 頓首再拝>
わが内に宿る神 - 伝統
2023/03/22 (Wed) 05:04:57
*「光明法語」(3月22日)より
『マタイ伝』第六章六には
『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』
とイエスが教えている。
必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。
『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。
神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。
わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。
<感謝合掌 令和5年3月22日 頓首再拝>
自分の中にある宝物 - 伝統
2023/03/27 (Mon) 13:25:28
*Web:人の心に灯をともす(2012-09-29)より
(ルイス・ターターリャ氏の心に響く言葉より…)
自分の潜在力をアップさせる唯一の方法は、言い訳をしないで、
自分が持っている選択肢の中からベストなものを選び出すことだ。
自分にないものを嘆いていても仕方がない。
言い訳しても、手持ちの選択肢が増えていくわけではない。
むしろ、言い訳は選択肢を減らす働きをする。
私たちには無限の才能が溢れている。
その才能を伸ばせないのは誤った考えのせいであって、
能力がないからではない。
才能はどこにでも眠っている。
ただし、それを掘り起こすには努力が必要である。
人によっては、地表の近くに才能が眠っていて
簡単に掘り起こせることもあれば、
深いところに埋まっていて掘り起こしにくいこともある。
いずれにしても、どこかに才能が隠されていることは間違いない。
自分の才能を信じよう。
そうすれば、人生が活き活きとして、
自分の「いいところ」も必ず伸びてくる。
そういう人は、周囲に明るさをもたらしてくれるので、
見ていて、とても気持ちがいい。
自分に言い訳をしないことは、まず何よりも
自分自身が楽に生きるためのコツであるが、
周囲の人たちに好かれる方法でもあるのだ。
<『不思議なくらい心が強くなるヒント』三笠書房>
・・・
心の底では、「そうなったらいいな」という願望があったとしても、
たいていの人は行動を起こさない。
都合のいい理由を探し、言い訳を考えることで、
やらなくてもよいことを正当化する。
「今は忙しいから」
「もう少し若かったら」
「お金があったら」
「専門的な経験がないから」
明珠在掌 (めいじゅたなごころにあり) という禅語がある。
素晴らしい宝物が自分の手の平の上にある、ということだ。
多くの人は、アイデアや、才能、という宝物は自分以外のところにある、
と思っている。
新事業を立ち上げるときも、
全くやったことのない新事業をやろうとするより、
今までやってきた仕事の中や、その周辺から新たな芽を見つけたり、
組み合わせたりした方が成功する確率は格段に高くなる。
自分では気づかないが、
他から見るとうらやましいような宝が隠されているものだ。
自分の中にある宝物を掘り起こす人は、
今自分ができる目の前のことにベストを尽くしている人。
できない言い訳を考える人ではない。
自分の中にある宝物を見つけたい。
・・・
<参照>
どんな人にも崇高な存在が隠れて居ます
伊勢ー白山 道(2023-03-27)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/cb35762ea5cf04ea922816c22314b5a4
<感謝合掌 令和5年3月27日 頓首再拝>
《神は常に吾がうちにありて働き給う》 - 伝統
2023/06/11 (Sun) 04:56:50
*『光明法語』(6月11日)より
今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。
神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、
あらゆる君の求めに応ずべく、働いていたまうのである。
今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、
治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。
現象は唯の随伴物に過ぎない。
何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。
<感謝合掌 令和5年6月11日 頓首再拝>
真理なるキリストは、われらの内に宿ってい給う - 伝統
2023/07/10 (Mon) 07:08:37
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より
われを導くものは神である。
(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。
神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。
「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。
静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。
<感謝合掌 令和5年7月10日 頓首再拝>
自己の中に一切世界が存在する - 伝統
2023/08/31 (Thu) 12:33:11
*「光明法語」(8月31日 拝む者のみ拝まれる)より
****菩薩が維摩居士を訪ねたときに、
維摩は
『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』
と問うた。
****菩薩は答えて
「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、身長(みのたけ)
八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、その獅子座は高さ八萬四千由旬で
実に素晴しいものです」
と言った。
維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。
維摩の方丈(一丈四方)の室中に
八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の獅子座が入る事が
出来たのは、
自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。
<感謝合掌 令和5年8月31日 頓首再拝>
【自分の中にある宝物】 - 伝統
2023/09/28 (Thu) 10:08:07
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2012-09-29)より
(ルイス・ターターリャ氏の心に響く言葉より…)
自分の潜在力をアップさせる唯一の方法は、言い訳をしないで、
自分が持っている選択肢の中からベストなものを選び出すことだ。
自分にないものを嘆いていても仕方がない。
言い訳しても、手持ちの選択肢が増えていくわけではない。
むしろ、言い訳は選択肢を減らす働きをする。
私たちには無限の才能が溢れている。
その才能を伸ばせないのは 誤った考えのせいであって、
能力がないからではない。
才能はどこにでも眠っている。
ただし、それを掘り起こすには 努力が必要である。
人によっては、地表の近くに才能が眠っていて
簡単に掘り起こせることもあれば、
深いところに埋まっていて掘り起こしにくいこともある。
いずれにしても、どこかに
才能が隠されていることは間違いない。
自分の才能を信じよう。
そうすれば、人生が活き活きとして、
自分の「いいところ」も必ず伸びてくる。
そういう人は、周囲に明るさをもたらしてくれるので、
見ていて、とても気持ちがいい。
自分に言い訳をしないことは、
まず何よりも自分自身が楽に生きるためのコツであるが、
周囲の人たちに好かれる方法でもあるのだ。
<『不思議なくらい心が強くなるヒント』三笠書房 >
・・・
心の底では、
「そうなったらいいな」という願望があったとしても、
たいていの人は行動を起こさない。
都合のいい理由を探し、言い訳を考えることで、
やらなくてもよいことを正当化する。
「今は忙しいから」
「もう少し若かったら」
「お金があったら」
「専門的な経験がないから」
明珠在掌 (めいじゅたなごころにあり) という禅語がある。
素晴らしい宝物が自分の手の平の上にある、ということだ。
多くの人は、アイデアや、才能、いう宝物は
自分以外のところにある、と思っている。
新事業を立ち上げるときも、全くやったことのない新事業をやろうとするより、
今までやってきた仕事の中や、その周辺から新たな芽を見つけたり、
組み合わせたりした方が成功する確率は格段に高くなる。
自分では気づかないが、
他から見るとうらやましいような宝が隠されているものだ。
自分の中にある宝物を掘り起こす人は、
今自分ができる目の前のことにベストを尽くしている人。
できない言い訳を考える人ではない。
自分の中にある宝物を見つけたい。
・・・
<参照>
自分の右胸が全てを観てくれています
伊勢ー白山 道(2023-09-27)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/be51655ecd2b1645a4a2e07e06a1fd9d
<感謝合掌 令和5年9月28日 頓首再拝>
自己の内には、無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されている - 伝統
2023/10/17 (Tue) 10:45:36
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月17日)より
ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。
自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。
自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。
目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。
ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。
人間もまたかくのごときものである。
表面にあらわれている力だけで満足する者は
自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、
今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。
何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。
今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。
なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。
<感謝合掌 令和5年10月17日 頓首再拝>
内なる大通力を自覚し、その実現を信じ邁進せよ - 伝統
2023/11/24 (Fri) 14:17:00
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より抜粋
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」を
みずから主張しないからであって、
それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に
坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とを
そなえていながらみずから進んでそれを自覚しないから、
自分の実相の完全さがあらわれないにすぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
<感謝合掌 令和5年11月24日 頓首再拝>
内に力を見出す - 伝統
2024/01/09 (Tue) 10:41:46
*「光明道中記」(1月9日《無字透関の日》)より抜粋
【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】
宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。
「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。
人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。
併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。
所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。
<感謝合掌 令和6年1月9日 頓首再拝>
わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統
2024/03/24 (Sun) 09:57:50
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より
わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。
わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。
わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。
わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。
この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。
<感謝合掌 令和6年3月24日 頓首再拝>
神は常に吾がうちにありて働き給う - 伝統
2024/06/11 (Tue) 10:42:44
*『光明法語』(6月11日)より
今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。
神の力が今其処に君の内に
一切を新たならしめるべく、
あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。
今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。
現象は唯の随伴物に過ぎない。
何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。
感謝するのだ。
<感謝合掌 令和6年6月11日 頓首再拝>
天国は汝の内にあり - 伝統
2024/06/27 (Thu) 10:03:48
*「光明法語」(6月27日)より
自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は
何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。
金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。
されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。
されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。
心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。
<感謝合掌 令和6年6月27日 頓首再拝>
神、われを導き給う - 伝統
2024/07/10 (Wed) 12:05:25
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より
われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。
神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。
「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。
静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。
<感謝合掌 令和6年7月10日 頓首再拝>
一切が「我」が内にある - 伝統
2024/08/01 (Thu) 13:15:40
*「光明道中記」(8月1日《神想観に心浄まる日》)より
【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
(生命の實相第十一巻)】
多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。
しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。
「神の国は爾の内にあり」と云うことを「
華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。
「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。
「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。
「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。
吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。
神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの
「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。
否、虚空が「我(わ)」が内にある。
一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。
<感謝合掌 令和6年8月1日 頓首再拝>
内なる神を通して、願いを諾(き)き給う - 伝統
2024/08/20 (Tue) 11:48:33
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(8月20日)より
求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。
しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。
あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。
そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。
宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。
<感謝合掌 令和6年8月20日 頓首再拝>
自己の内には、無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されている - 伝統
2024/10/17 (Thu) 11:02:16
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月17日)より
ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。
自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。
自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。
目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。
ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。
人間もまたかくのごときものである。
表面にあらわれている力だけで満足する者は
自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、
今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。
何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。
今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。
なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。
<感謝合掌 令和6年10月17日 頓首再拝>
内に力を見出す - 伝統
2025/01/09 (Thu) 10:53:27
*「光明道中記」(1月9日《無字透関の日》)より抜粋
【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】
宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。
「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。
人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。
併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。
所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。
<感謝合掌 令和7年1月9日 頓首再拝>
わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統
2025/03/24 (Mon) 11:17:36
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より
わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。
わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。
わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。
わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。
この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。
<感謝合掌 令和7年3月24日 頓首再拝>
《内在の神の道具となれ》 - 伝統
2025/05/07 (Wed) 08:50:31
*「光明法語」(5月7日)より
金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。
その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。
されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。
自己の内に神が宿っているのであるから、常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)を
なくならせて、ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。
<感謝合掌 令和7年5月7日 頓首再拝>
神は常に吾がうちにありて働き給う - 伝統
2025/06/11 (Wed) 11:43:32
*『光明法語』(6月11日)より
今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。
神の力が今其処に君の内に
一切を新たならしめるべく、
あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。
今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。
現象は唯の随伴物に過ぎない。
何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。
感謝するのだ。
<感謝合掌 令和7年6月11日 頓首再拝>
天国は汝の内にあり - 伝統
2025/06/27 (Fri) 10:41:39
*「光明法語」(6月27日)より
自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は
何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。
金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。
されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。
されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。
心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。
<感謝合掌 令和7年6月27日 頓首再拝>
一切が「我」が内にある - 伝統
2025/08/01 (Fri) 11:13:41
*「光明道中記」(8月1日《神想観に心浄まる日》)より
【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
(生命の實相第十一巻)】
多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。
しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。
「神の国は爾の内にあり」と云うことを「
華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。
「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。
「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。
「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。
吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。
神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの
「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。
否、虚空が「我(わ)」が内にある。
一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。
<感謝合掌 令和7年8月1日 頓首再拝>
内なる神を通して、願いを諾(き)き給う - 伝統
2025/08/20 (Wed) 12:04:53
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(8月20日)より
求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。
しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。
あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。
そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。
宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。
<感謝合掌 令和7年8月20日 頓首再拝>
他を羨むな! 自己の内に宿る無限の価値を掘り出せ! - 伝統
2025/08/26 (Tue) 11:06:39
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より
もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。
他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。
他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。
25年前(ぜん)無一物のフォードがその20年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。
羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。
あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。
掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。
<感謝合掌 令和7年8月26日 頓首再拝>
自己の中に一切世界が存在する - 伝統
2025/08/31 (Sun) 12:20:12
*「光明法語」(8月31日 拝む者のみ拝まれる)より
****菩薩が維摩居士を訪ねたときに、
維摩は
『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は
何処(どこ)ですか』
と問うた。
****菩薩は答えて
「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、身長(みのたけ)
八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、その獅子座は高さ八萬四千由旬で
実に素晴しいものです」
と言った。
維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。
維摩の方丈(一丈四方)の室中に
八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の獅子座が入る事が
出来たのは、
自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。
<感謝合掌 令和7年8月31日 頓首再拝>
自己の内には、無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されている - 伝統
2025/10/17 (Fri) 11:48:04
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月17日)より
ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。
自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。
自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。
目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。
ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。
人間もまたかくのごときものである。
表面にあらわれている力だけで満足する者は
自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、
今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。
何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。
今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。
なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。
<感謝合掌 令和7年10月17日 頓首再拝>
内に力を見出す - 伝統
2026/01/09 (Fri) 09:12:59
*「光明道中記」(1月9日《無字透関の日》)より抜粋
【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】
宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。
「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。
人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。
併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。
所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。
<感謝合掌 令和8年1月9日 頓首再拝>
わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統
2026/03/24 (Tue) 11:09:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より
わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。
わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。
わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。
わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。
この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。
<感謝合掌 令和8年3月24日 頓首再拝>