伝統板・第二

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和 ④ - 伝統

2022/04/04 (Mon) 14:56:32

《平和と調和の神》

        *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちてすべてのものを調和と平和に導き給うことを
われは知るがゆえに、わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「「和」 (8455)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1588 

(2)伝統板・第二「和」
   → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6612800

(3)伝統板・第二「和 ②」
   → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7537246

(4)伝統板・第二「和 ③」
   → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7808075

         <感謝合掌 令和4年4月4日 頓首再拝>

《世界と人とに和解すれば神経衰弱は治る》 - 伝統

2022/04/23 (Sat) 05:03:48


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P99)より

ここに神経衰弱の患者があるとする。
それは頭を使い過ぎたのだから、成るべく頭を使わぬように、
頭を休めるようにしなければならぬと医者は言う。

しかし詰らない事をクヨクヨ考えるなと言われるほど、
詰らない事が頭に湧き上がって来るのが
神経衰弱そのものの病状なのである。

其処でこんな患者に「クヨクヨ物を考えるな」と
教えたところが何の役にも立たないのである。

クヨクヨ物を考えるのは神を信じていないからである。
神の愛が常に護っていられることを信じないからである。

人間がすべて神の子であって相互に愛をもって親しみ合っているのが
実相であることを知らないからである。

そして自分自身が世界と人類とに和解していないからである。

         <感謝合掌 令和4年4月22日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2022/05/23 (Mon) 18:56:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。

           <感謝合掌 令和4年5月23日 頓首再拝>

調和から万事が生れ、万物が育つ。そしてその調和には弾ね返す力が必要。 - 伝統

2022/06/06 (Mon) 18:49:16

調和から万事が生れ、調和から万物育つ。調和には弾ね返す力が必要。

        *「光明道中記」(6月6日《心やわらかになる日》)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。
弾ね返す力がなければならない。

           <感謝合掌 令和4年6月6日 頓首再拝>

宇宙的な意味で言うと、怒った瞬間、その人は100%間違っています。 - 伝統

2022/07/17 (Sun) 15:58:12


       *『たくさんの「奇跡」が舞い込む感謝の法則』小林正観・著、宝島社  
          (P7、メッセージ02)

「怒りたくないとは思っても、会社における自分の立場上、
そうでざるを得ないこともある」と言われる方がいます。

人間、怒っているときな怒鳴っているときというのは、
自分が100%正しいと思うものです。

しかし、宇宙的な意味で言うと、怒った瞬間に、
その人は100%間違っていると思います。

どんな理由であっても、どんなに自分が正しいと思っていても、
「争うこと、戦うこと、怒鳴ること、いばること」がすでに不正義なのです。


特に社長など「権力」の頂点にいる人は、
いばったり、怒ったり、怒鳴ったりしてはいけません。

その下の部長や課長など中間管理職にある人たちに
「部下にやさしく」と指導・教育ができるのは、社長だけなのです。

立場によって腹を立てたり、怒ったりしない人を人格者といいますが、
社長が人格者であれば、その社長に対してちょうどいい、
よく仕事をしてくれる社員がいてくれるはずです。

           <感謝合掌 令和4年7月17日 頓首再拝>

一切調和の世界観をもつ - 伝統

2022/07/21 (Thu) 05:02:14


          *「光明法語」(7月19日~21日)より

七月十九日の法語 霊は物質を支配す

生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。

ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。

実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。

・・・

七月ニ十日の法語 黴菌の使命

黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。

だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。

それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。

・・・

七月ニ十一日の法語 争闘の世界観を捨てよ

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

           <感謝合掌 令和4年7月20日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2022/08/22 (Mon) 04:59:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
 ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいる
 ことがある」と

ルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
****軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、戦場にいてさえも
「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

      <感謝合掌 令和4年8月21日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2022/10/22 (Sat) 12:31:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、
きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは
天地一切のものが、すべて覚体であるという前提があってのことである。

覚体でなければ、和解のしようがない。

ただその機械的暴力に従うか、それを利用するか、
征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 令和4年10月22日 頓首再拝>

争いのように見えていて、本当は争っているのではないことを知る - 伝統

2022/12/10 (Sat) 04:44:10


     *「光明道中記」(12月9日《近くに深切を尽す日》)より抜粋

【我(が)を立て通して
 他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。
                    (『生命の實相』第四巻)】

兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、
兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。

毎日の宗教新聞を読んでいると、
大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。

まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、
これがやはり本当は互に親しいからなのである。

同級生のなかでも、
首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。

仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。
争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。

そして、「争いではない」と知ったときに、
形の上での争いは消えて了うのである。

            <感謝合掌 令和4年12月9日 頓首再拝> 

人・時・処、三相応して調和 - 伝統

2023/02/07 (Tue) 09:34:06


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても
人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで
不平に思ってはならない。

唯物論の人は物質的働きしか見えないから
無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。
そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、
周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことを
おべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、
下の人には深切であるが上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の
三相応が備わらなければならない。

人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、
それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、
落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、
すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

            <感謝合掌 令和5年2月7日 頓首再拝>

《平和と調和の神》 - 伝統

2023/04/04 (Tue) 04:49:19


        *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。
神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、
神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、
調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちて
すべてのものを調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、
わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

       <感謝合掌 令和5年4月4日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2023/05/22 (Mon) 08:49:48


《害心を持つものは本来無い》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

                ・・・

《「和」のあるところに害はない》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、
胃腸病になるのである。

            <感謝合掌 令和5年5月22日 頓首再拝>

心やわらかになる日 - 伝統

2023/06/06 (Tue) 09:47:27


       *「光明道中記」(6月6日)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。

           <感謝合掌 令和5年6月6日 頓首再拝>

一切調和の世界観をもつ - 伝統

2023/07/19 (Wed) 05:06:20


          *「光明法語」(7月19日~21日)より

七月十九日の法語 霊は物質を支配す

生命の高い段階のあらわれである霊が生命の低い段階のあらわれである
物質及び肉体を支配し得るのは当然である。霊が肉体に宿るとき、
それはただの物質の物理化学変化以上に、有目的に変形しはじめる。

ただ食品を積み重ねて置いても、それは腐敗分解の化学的変化を来たすばかりだが、
それに霊が宿るとき、その物質は「生命体」と変化して動き出すのである。

実は腐敗と見える現象も、
バクテリヤや蛆虫などの霊が物質を支配しつつあるのである。

・・・

七月ニ十日の法語 黴菌の使命

黴菌にまけると思う人があるが、黴菌は人間を害するものではないのである。
神の「一」なる生命より分派せる一切の生物は、その本来の相(すがた)に於いては
すべて生かし合いであり、殺し合いではないのである。

だいたい黴菌は植物であるが、植物は動物に捕食される(或る分量を提供する)
かわりに、播種移動等を動物にさせて貰うところの生命の一群である。

それはかくの如くつくられているのであって、
捕食されることは苦痛ではなくてその使命である。

・・・

七月ニ十一日の法語 争闘の世界観を捨てよ

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

           <感謝合掌 令和5年7月19日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2023/08/21 (Mon) 12:48:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
 ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいる
 ことがある」とルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は

「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
 伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」

と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
****軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、戦場にいてさえも
「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は

同教授の調和の念と、
無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境に

あったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

      <感謝合掌 令和5年8月21日 頓首再拝>

協力の美しさ - 伝統

2023/09/30 (Sat) 11:46:24


    *「光明法語」(9月30日)より

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが
互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。

天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、
しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが
互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

           <感謝合掌 令和5年9月30日 頓首再拝>

【異なる者の渾一調和】 - 伝統

2023/10/01 (Sun) 10:03:29


        *「光明法語(10月1日)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 令和5年10月1日 頓首再拝>

生かし合いがあるばかり - 伝統

2023/10/03 (Tue) 11:48:09


    *「光明道中記」(10月3日《却下(あしもと)を見る日》)より抜粋

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。
                (『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。
人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

(中略)

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、
自然そのままの、換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には
殺し合いはないのである。

そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 令和5年10月3日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2023/10/22 (Sun) 12:24:26


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、
きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは
天地一切のものが、すべて覚体であるという前提があってのことである。

覚体でなければ、和解のしようがない。

ただその機械的暴力に従うか、それを利用するか、
征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 令和5年10月22日 頓首再拝>

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる - 伝統

2023/11/11 (Sat) 08:22:38


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。

ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。

なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

      <感謝合掌 令和5年11月11日 頓首再拝>

人・時・処、三相応して調和 - 伝統

2024/02/07 (Wed) 11:25:12


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても
人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで
不平に思ってはならない。

唯物論の人は物質的働きしか見えないから
無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。
そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、
周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことを
おべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、
下の人には深切であるが上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の
三相応が備わらなければならない。

人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、
それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、
落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、
すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

            <感謝合掌 令和6年2月7日 頓首再拝>

《平和と調和の神》 - 伝統

2024/04/04 (Thu) 10:57:18


        *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、
わが生活も神の智慧に導かれて、完全に自由でありながら、
調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちて
すべてのものを調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、
わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

         <感謝合掌 令和6年4月4日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2024/05/23 (Thu) 11:47:36


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、
胃腸病になるのである。

           <感謝合掌 令和6年5月23日 頓首再拝>

柔かくなること。調和ある心を為すこと。調和ある動作をすること。 - 伝統

2024/06/06 (Thu) 10:29:43


       *「光明道中記」(6月6日《心やわらかになる日》)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。

弾ね返す力がなければならない。

       <感謝合掌 令和6年6月6日 頓首再拝>

争闘の世界観を捨てよ - 伝統

2024/07/21 (Sun) 11:39:52


         *「光明法語」(7月21日)より

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

            <感謝合掌 令和6年7月21日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2024/08/21 (Wed) 13:06:58


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
 ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいる
 ことがある」と

ルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
****軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、戦場にいてさえも
「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

      <感謝合掌 令和6年8月21日 頓首再拝>

【異なる者の渾一調和】 - 伝統

2024/10/01 (Tue) 11:05:35


        *「光明法語(10月1日)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 令和6年10月1日 頓首再拝>

生かし合いがあるばかり - 伝統

2024/10/03 (Thu) 11:54:23


    *「光明道中記」(10月3日《却下(あしもと)を見る日》)より抜粋

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。
                (『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。
人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

(中略)

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、
自然そのままの、換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には
殺し合いはないのである。

そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 令和6年10月3日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2024/10/30 (Wed) 10:57:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 令和6年10月30日 頓首再拝>

争いのように見えていて、本当は争っているのではないことを知る - 伝統

2024/12/09 (Mon) 10:54:10


     *「光明道中記」(12月9日《近くに深切を尽す日》)より抜粋

【我(が)を立て通して
 他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。
                    (『生命の實相』第四巻)】

兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、
兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。

毎日の宗教新聞を読んでいると、
大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。

まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、
これがやはり本当は互に親しいからなのである。

同級生のなかでも、
首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。

仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。
争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。

そして、「争いではない」と知ったときに、
形の上での争いは消えて了うのである。

            <感謝合掌 令和6年12月9日 頓首再拝> 

神と調和すること - 伝統

2024/12/23 (Mon) 12:18:33


      *「光明道中記」(12月23日《明朗歓喜の日》)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。
                   (『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても
精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで
肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて
新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、
調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、
吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、
押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

         <感謝合掌 令和6年12月23日 頓首再拝>

人・時・処、三相応して調和 - 伝統

2025/02/07 (Fri) 11:34:51


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても
人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで
不平に思ってはならない。

唯物論の人は物質的働きしか見えないから
無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。
そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、
周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことを
おべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、
下の人には深切であるが上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の
三相応が備わらなければならない。

人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、
それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、
落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、
すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

            <感謝合掌 令和7年2月7日 頓首再拝>

《平和と調和の神》 - 伝統

2025/04/04 (Fri) 12:55:28


        *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。
神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、
神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、

わが生活も神の智慧に導かれて、
完全に自由でありながら、調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちて
すべてのものを調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、
わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

            <感謝合掌 令和7年4月4日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2025/05/23 (Fri) 11:39:50


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、
胃腸病になるのである。

           <感謝合掌 令和7年5月23日 頓首再拝>

心やわらかになる日 - 伝統

2025/06/06 (Fri) 12:17:32


       *「光明道中記」(6月6日)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。

           <感謝合掌 令和7年6月6日 頓首再拝>

争闘の世界観を捨てよ - 伝統

2025/07/21 (Mon) 11:38:58


         *「光明法語」(7月21日)より

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

            <感謝合掌 令和7年7月21日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2025/08/21 (Thu) 11:36:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
 ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいる
 ことがある」と

ルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
****軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために、
味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、戦場にいてさえも
「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、
心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

      <感謝合掌 令和7年8月21日 頓首再拝>

念仏を申す教えで、攻撃し合うなどは浅猿(あさま)しいこと - 伝統

2025/08/22 (Fri) 10:11:35


   *「光明道中記」(8月22日 争い悉く解くる日)より

【宗教とは教祖が計画的に拵えたものではない。(『生命の實相』第十四巻)】

(歎異抄第六条)

   専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、
   もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、
   わがはからひにて、ひとに念仏をもうさせさふらばこそ、弟子にてもさふらはめ、
   ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて、念仏まうしさふらふひとを、
   わが弟子とまうすこと、きはめて荒涼のことなり。

専修念仏すなわち専ら念仏を修めて救われるようと云う教の宗派にいながら、
あれは親鸞の教派、あれは××の教派が異(ちが)うから救われないなど
と言う者があるが以ての外である。

親鸞の開いた教派などと云うものは一つもないし、
親鸞の弟子などと云うものも一人もない。

念仏を申すようになるも、念仏宗を開くのも
自力でそう云うことが出来るのではなく、
仏の本願力(他力)が廻向(まわりまわ)って
自分の中に催(もよお)して来たのであるから、

自分が開山ではなく、
また自分の教に共鳴して念仏を申すようになった人も自分の弟子ではない。

それに何ぞや、自分自身を開山のように思い、
一緒に念仏する人を自分の弟子のように思い、
他の教には仏の慈悲が催しているのだとは考えないで攻撃し合うなどは
浅猿(あさま)しいことだと親鸞聖人は仰せられたのである。

       <感謝合掌 令和7年8月22日 頓首再拝>

親鸞の大調和な心 - 伝統

2025/09/03 (Wed) 11:02:57


       *「光明道中記」(9月3日《争いの自然に消ゆる日》)より

【雑念は心を澄み切らす働き、雲は空気を澄み切らす働き。
                       (生命の實相第八巻)】

(歎異抄十二条)

   学問をむねとするは聖道門(しょうどうもん)なり、難行となづく。
   あやまて学問して名聞利養(みょうもんりよう)のおもひに住するひと、
   順次の往生いかがあらんずらんといふ証文(しょうもん)もさふらふべきや。

   当時、専修念仏のひとと聖道門のひとと、諍論(じょうろん)をくはだてて、
   わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、法敵も出できたり、
   謗法(ぼうほう)も起こる。
   
   是併(これしか)しながら、
   自(みずか)らわが法を破謗(はぼう)するにあらずや。


親鸞聖人が易行門を立てられたのは、聖道門よりもわが宗旨まさっているとして
それを誇るためではなかったのである。

自分が下根の凡夫である、一文不通のものであって、
一切の蔵経を調べあげ研究しあげたすえに救われるのであったならば、
到底そんな智慧学問は無いところの吾らであるから、
救われようがないからこその易行門の信仰なのである。

聖道門を相手にまわして易行門の優越性(すぐれているところ)を説いて、
ひとの宗教は劣っているなどと説くから法敵も出で来たり、
法を謗(そし)る人も出来て来るのである。

だから他宗を攻撃するのは、天に対(むか)って唾するようなもので、
自宗に対して傷つけることになるのである。――

こう言って親鸞は当時日蓮の「念仏無間(むげん)・禅天魔」の批評をも
黙殺してかかられた。

誠に大調和のお心であった。

           <感謝合掌 令和7年9月3日 頓首再拝>

諍(あらそ)うこころを捨てせしめよ - 伝統

2025/09/05 (Fri) 09:50:40


        *「光明道中記」(9月5日《神の慈手に抱かれる日》)

【汝の悩みは神に語れ。人に語らずして神に語れ(生命の實相第十一巻)】

(歎異抄十二条)

   故聖人(親鸞)のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、
   そしる衆生もあるべしと、仏説き置かせたまひたることなれば、
   われはすでに信じたてまつる。

   またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられさふらふ。
   しかれば往生はいよいよ一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。
 
   あやまつてそしるひとのさふらはざらんにこそ、
   いかに信ずるひとはあれども、
   そしるひとのなきやらんともおぼえさふひぬべけれ。
   かくまうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。

   仏のかねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねを知ろしめして、
   ひとの疑ひをあらせじと、説きをかせたまふことをまうすなり
   とこそさふらひしか。いまの世には、学問してひとのそしりをやめ、
   ひとへに論議問答むねとせんと、かまへられさふらふにや。


更に茲には親鸞聖人の法を謗(そし)る法敵さえも仏の予言の中に、
従って仏の摂理(おはからい)の中にある事を示して、
諍(あらそ)うこころを捨てせしめようと云う用意が見られるのである。

学問して他に論(い)い勝とう議(い)い勝とうと思うこころは
余りにも脳髄智識によって人が救われるならば諸々の智者学者は救われた
であろうが、救いは貧しきもの愚かなものに示されるのである。

           <感謝合掌 令和7年9月5日 頓首再拝>

生かし合いがあるばかり - 伝統

2025/10/03 (Fri) 11:46:07


    *「光明道中記」(10月3日《却下(あしもと)を見る日》)より抜粋

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。
                (『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。
人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

(中略)

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、
自然そのままの、換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には
殺し合いはないのである。

そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 令和7年10月3日 頓首再拝>

争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである - 伝統

2025/10/24 (Fri) 11:41:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月24日)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれは真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 令和7年10月24日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2025/10/30 (Thu) 10:09:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月30日)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 令和7年10月30日 頓首再拝>

「秋雨(あきさめ)を聴く」 - 伝統

2025/11/01 (Sat) 10:52:23


        *「光明道中記」(十一月 もみじ輝く~はじめの言葉)より

   しみじみと味えばふかし
   雨の音轟々(ごうごう)とも聞え淙々(そうそう)とも聴ゆ

夜明に豪雨が物凄いばかり降った。
その音を聴いていると何だか懐かしい気がするのであった。

瀑(たき)のようにも聴えるし、谿川(たにがわ)の流れのようにも聴える。
呟くようにも聴えれば、千万(ちよろず)の唇でさんざめいているようにも聴える。
尚一層激しく降り灑(そそ)ぐときには豪宕(ごうとう)な感じがする。

秋だとひとしお思うのだ。

学生時代に国木田独歩の小品集『武蔵野』を抱きながら、
秋の戸山ヶ原を逍遥(しょうよう)して楢の梢(こずえ)に
囁いている秋の音に耳を傾けたことや、秋風に特有な地を
這(は)う息吹(いぶき)に、冬が近づくかと戦(そよ)いでいる
小草に見入っていた頃などを想い出した。

自然に対する眼(まなこ)をもう一度開こう。
其処には無限の宝庫がある。

自然は生きている。素直に生きている。
争ったり、凋落(ちょうらく)しているように見るのは
僻目(ひがめ)である。

生かし合い、讃美し合い、献げ合い、譲り合って、悦びの涙と
共に生きているのだ。

落葉樹の生命はかすかに眼立たなくなったときに最も深く生きている。

争っているように見えても皆生かし合っているのだ。

           <感謝合掌 令和7年11月1日 頓首再拝>

争いのように見えていて、本当は争っているのではないことを知る - 伝統

2025/12/09 (Tue) 10:48:55


     *「光明道中記」(12月9日《近くに深切を尽す日》)より抜粋

【我(が)を立て通して
 他(ひと)に喜んで貰えなかった時の魂の淋しさを想像せよ。
                    (『生命の實相』第四巻)】

兄弟と云うものはよく喧嘩をするものである。
尤も他人とでも喧嘩をする人間はあるが、
兄弟喧嘩ほど頻繁にやるものではない。
親しい筈の夫婦などよく喧嘩する。

毎日の宗教新聞を読んでいると、
大抵宗教界の内紛が載せられていないことがない。

まことに一見鼻もちならぬ気持ちがするのであるが、
これがやはり本当は互に親しいからなのである。

同級生のなかでも、
首席になる者とピリ滓(かす)になるものとは互に争わないが、
同一点数位の者同士は大いに競い、大いに争うのである。

仲が好い者、同点数に近い者、そうした人たちが争うのである。
争いのように見えていて、本当は争っているのではない。
近似を自覚しての動きだと云うことを知らねばならない。

そして、「争いではない」と知ったときに、
形の上での争いは消えて了うのである。

            <感謝合掌 令和7年12月9日 頓首再拝> 

神と調和すること - 伝統

2025/12/23 (Tue) 12:05:48


      *「光明道中記」(12月23日《明朗歓喜の日》)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。
                   (『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても
精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで
肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて
新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、
調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、
吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、
押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

         <感謝合掌 令和7年12月23日 頓首再拝>

人・時・処、三相応して調和 - 伝統

2026/02/07 (Sat) 11:30:13


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても
人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで
不平に思ってはならない。

唯物論の人は物質的働きしか見えないから
無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。
そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、
周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことを
おべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、
下の人には深切であるが上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の
三相応が備わらなければならない。

人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、
それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、
落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、
すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

            <感謝合掌 令和8年2月7日 頓首再拝>

《平和と調和の神》 - 伝統

2026/04/04 (Sat) 11:06:53


        *「光明法語」(4月4日)より

ああわれを取巻くものは神の平和なるかな。
神は平和にして調和の智慧なるかな。

空間にかかるすべての星々が、
神の調和の智慧に導かれて自由でありながら、
衝突する事なく、調和して平和に運行するが如く、

わが生活も神の智慧に導かれて、
完全に自由でありながら、調和して運行するかな。

神の調和の智慧は宇宙至る処に充ち満ちて
すべてのものを調和と平和に導き給うことをわれは知るがゆえに、
わが行く限り、見渡す限り、何処にも調和満ちて
不調和と云うことはないのである。

            <感謝合掌 令和8年4月4日 頓首再拝>

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