伝統板・第二
心の鏡 ④ - 伝統
2023/02/06 (Mon) 12:53:32
周囲の相が観世音菩薩の顕れ
*「光明道中記」(2月6日《一切に感謝謝する日》)より抜粋
観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、
三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。
自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「心の鏡」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6914324
(2)伝統板・第二「心の鏡 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7769926
(3)伝統板・第二「心の鏡 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8009554
<感謝合掌 令和5年2月6日 頓首再拝>
温かな心に人が集る - 伝統
2023/02/20 (Mon) 04:57:39
*「光明道中記」(2月20日《雪が融ける日》)より
【他が自分に対して薄情である場合は、
自分自身に何か暗い冷たさがある思え。(『生命の實相』第四巻)】
温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。
人を拝めば人が集る。
荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。
その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、
「私の懐は温かいのだ。生徒よ帰って来い。
私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」という意味の思念をせられたら、
脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来た
という話を聞いたことがある。
若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。
また内心に温かいものを持ちながらでも、
他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、それは相手を追い出す心になる。
如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。
だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、
「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。
<感謝合掌 令和5年2月20日 頓首再拝>
自分の「思い」の一つで、相手の「行為」となってあらわれる - 伝統
2023/06/16 (Fri) 05:00:04
*「光明法語」(6月16日《よき「思い」を種蒔くこと》)より
神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、
自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。
蒔かぬ種は生えぬし、
蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、
それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。
自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。
まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と
黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。
<感謝合掌 令和5年6月16日 頓首再拝>
全てが自分の心に映る影絵だった - 伝統
2023/09/28 (Thu) 12:31:59
全てが自分の心に映る影絵だった
伊勢ー白山 道(2023-09-28)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/435ed5c70968828eba5189e6584df9fe
<感謝合掌 令和5年9月28日 頓首再拝>
境遇は、自分の性格の反影 - 伝統
2023/09/29 (Fri) 10:16:56
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より
自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。
境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。
あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。
鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。
たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、
苛辣であって気が短く、人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、
まず自分自身を寛容にすればよい。
<感謝合掌 令和5年9月29日 頓首再拝>
自分自身が変化せよ! - 伝統
2023/09/30 (Sat) 11:41:25
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より
鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。
鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。
結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。
自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。
<感謝合掌 令和5年9月30日 頓首再拝>
悟りの心で観るのか、それとも鬼の心で見るのか - 伝統
2023/11/16 (Thu) 12:59:35
*「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より
【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】
秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が
赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。
「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の
下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、
日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。
私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と
小さい声で言って居った。
ナカナカそんな本など見て居れる時では無いが、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」
秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。
見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。
若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。
<感謝合掌 令和5年11月16日 頓首再拝>
境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服 - 伝統
2023/12/12 (Tue) 12:21:37
*「光明道中記」(12月12日《至誠神に通ずる日》)より
【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
(『生命の實相』第四巻)】
神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。
神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。
どんな貧しさもその人の心の寸法に合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、
神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、
彼の心が誂(あつら)えたものなのである。
それは無意識に誂えたのかも知れないが、
兎も角彼の心が誂えたものなのである。
自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で
吾等は善処しなければならない。
今労働服を着ている人は、
その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。
<感謝合掌 令和5年12月12日 頓首再拝>
《心の反映が環境である》 - 伝統
2024/01/05 (Fri) 10:53:34
*「光明法語」(1月5日)より
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、
明朗になり、落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を
変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
<感謝合掌 令和6年1月5日 頓首再拝>
我が住む世界はわが心の反影である - 伝統
2024/01/17 (Wed) 10:57:03
*「光明道中記」(1月17日《環境浄まる日》)より
【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】
我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。
自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。
他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。
あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。
苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。
何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。
<感謝合掌 令和6年1月17日 頓首再拝>
家族や富は、おのれの心の鏡 - 伝統
2024/01/21 (Sun) 11:41:55
*「光明道中記」(1月21日笑門福来七宝充満の日)より
【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】
凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、
夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。
それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。
妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、
儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。
善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。
<感謝合掌 令和6年1月21日 頓首再拝>
周囲の相が観世音菩薩の顕れ - 伝統
2024/02/06 (Tue) 10:16:52
*「光明道中記」(2月6日《一切に感謝謝する日》)より抜粋
観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、
三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。
自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。
<感謝合掌 令和6年2月6日 頓首再拝>
吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である - 伝統
2024/02/07 (Wed) 11:22:50
*「光明道中記」(2月7日《深切を与える日》)より抜粋
蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、
「深切」の少きを嘆いてはならない。
「深切」を沢山欲しい人は、
自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。
こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。
吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。
人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。
自分だけの幸福を護り育てていたい者には、
その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。
<感謝合掌 令和6年2月7日 頓首再拝>
【人生の現実は私達の心の中を映し出す鏡である】 - 伝統
2024/02/15 (Thu) 11:33:47
*メルマガ「成功への道しるべ(2023年5月31日)>
「心理学」 + 「量子力学」
《現実に起きる出来事は、一つの「結果」です。
「結果」には、必ず「原因」があり、その原因は、あなたの心の中にあるのです。
つまり、あなたの人生は、
あなたの心を映し出した鏡だと思ってもらっていいと思います。・・・・・・・》
上記は、かなり昔ですが、
大変話題になり100万部をこえるベストセラーになった「鏡の法則」
野口嘉則著の冒頭の一文です。
主人公の栄子さん(41歳)の息子優太(小五)が
学校でいじめにあったり仲間外れにされて辛い思いをしているらしいが、
自分には一切心を開いてくれません。
それに対しなんの手助けできないことが母親として耐えられません。
藁にもすがる思いで電話をした心理カウンセラーとのやり取りの中で、
「この人だけは “許せない!” と思っている人はいませんか?」と
尋ねられます。
こう尋ねられ、ハッとした思いで、
自分は父親のことを許していないことに気付きます。
子供の時に受けた言動を思い出すと、とても許す気持ちになれません。
またそれは優太のこととは何の関係もないことだと思います。
ところが、そのカンセラーは
「父親に感謝できること」、「父親に謝りたいこと」を
紙に書き出し、読むだけでいいからお父さんに電話をして下さい。
読み終えたらすぐ電話を切ってもいいですから。
勇気がいるかもしれませんが
、やるか、やらないかは、あなたが決めることです。
実行されたらご連絡ください。
と言って電話は切られてしまいます。
栄子は、悪いのは父親で、私が誤るのは筋違いだとも思うのです。
ただ最初に解決できるのなら母親として何だってやりますと
言った手前もあり、
また書き留めた文章を読むだけでいいのならと思い切って電話をするのです。
そして信じられない展開が起こり、問題は解決するのです。
著者は、この話は登場人物の名前や職業などは変えていますが実話です。
と前置きし、
栄子さんの個人的な状況を判断して、大切なステップを省略しています。
この事例からは、私達の人生の現実は私達の心の中の映し出す鏡であること、
「原因」は私の心にあることを理解していただきたいための事例です。
実際には、まず次の大切なステップを十分実践することを提案しています。
大切なステップとは、
「○○さん、ありがとうございます」
を繰り返し唱えることです。
声を出して唱えてください。
自分にしか聞こえない小さな声で結構です。
気持ちは、まだ「ゆるせない」でも構いません。
言葉から入るのです。
このステップを徹底してやり
「感謝の気持を伝えたい」 という思いが湧いてきてから
次の行動に移ることを薦めています。
◆「鏡の法則」は90頁もない冊子に近い本ですが、
読者の9割が、感動し「泣けた」「涙が滲んだ」と云われます。
具体的な事例を通して、
「原因」は、私達の心の中にあることがよくわかり
納得も出来ます。(一読をお薦めします)
同書が出版されたのは20年近く昔です。
その頃「量子力学」は特別な学者の間だけの学問でしたが、
今は私達にとっても身近な存在になってきています。
この「鏡の法則」に、
「量子力学」の知識が加わると、
この実践は「科学」であると理解できます。
いわば、「心理学」+「量子力学」 となるのです。
「量子力学」の知識が加わると、
このステップ
「○○さん、ありがとうございます」を「確信」をもって実践できます。
更に○○さんを許したいとは
思っていても、それが出来ない自分にも
「ありがとう」を反復することの効果にも気づきます。
許せない「相手」にも「私自身」にも「ありがとう」と言うだけなら、
心理カウンセラーのサポートがなくても、また一大決心をしなくても、
一人で簡単に出来ます。
そしてこのステップの実践するだけで、
大半の問題が解決出来てしまうことも期待できます。
編集後記
◆「人を呪わば、穴二つ」 という諺がありますが、
逆に「人を祈るば穴二つ」ともいわれるそうです。
「人を祈らば…」のところは
「○○さん、ありがとう」と反復する
と考えたらいいのではないでしょうか?
・・・
<参照>
鏡の法則とは? プロが内容とあらすじを解説!
https://biz-shinri.com/the-mirror-rule-7091
動画:鏡の法則:野口嘉則・著より
https://www.youtube.com/watch?v=0swQL1pn2c4
<感謝合掌 令和6年2月15日 頓首再拝>
温かいところには人が集まり、冷淡なところからは逃げ出す - 伝統
2024/02/20 (Tue) 12:09:06
*「光明道中記」(2月20日《雪が融ける日》)より
【他が自分に対して薄情である場合は、
自分自身に何か暗い冷たさがある思え。(『生命の實相』第四巻)】
温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。
人を拝めば人が集る。
荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。
その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、
「私の懐は温かいのだ。生徒よ帰って来い。
私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」という意味の思念をせられたら、
脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来た
という話を聞いたことがある。
若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。
また内心に温かいものを持ちながらでも、
他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、それは相手を追い出す心になる。
如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。
だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、
「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。
<感謝合掌 令和6年2月20日 頓首再拝>
観る世界は観られる世界である - 伝統
2024/04/01 (Mon) 10:41:34
*光明道中記(四月「相倚りたすける」【燦爛輝く桜花】)より
観る世界は観られる世界である。
能観(のうかん<あるもの>)の中に所観(しょかん<みられる>)の世界があり、
所観の世界の中に観る人の心がある。
観る者と観られるものとは本来一体であるのである。
これを吾々は心の影と言っている。
日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、
執拗でなく淡白であるからである。
本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』
と云う歌は日本精神を詠んだものとしてその内容に就て色々と解釈せられているが、
『朝日に映(は)えている爛漫たる相(すがた)』が日本精神だとか、
散りぎわの潔い相(すがた)が日本精神だとか、互に言い争って、
その解釈の優劣を決定する必要はないのである。
観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば、
日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を
現していないものはひとつもないのである。
風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、
人間も生命であり、心の表現であるから、
日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、
桜の中に日本人があるのである。
差し昇る朝日に映える桜花を鑑賞する日本人の心には、
差し昇る朝日に映える桜花の心があるのである。
<感謝合掌 令和6年4月1日 頓首再拝>
害心を持つものは、わが心の害心の反映であり、本来は無い - 伝統
2024/05/22 (Wed) 11:26:25
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より
すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。
一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。
もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。
<感謝合掌 令和6年5月22日 頓首再拝>
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ - 伝統
2024/06/16 (Sun) 08:45:24
*「光明法語」(6月16日)より
神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。
蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。
自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。
まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。
<感謝合掌 令和6年6月16日 頓首再拝>
[メンタリズム] - 伝統
2024/07/23 (Tue) 10:40:57
[メンタリズム]
感謝してください(2024/07/13)
https://www.youtube.com/watch?v=rJ5p9RYbpV4
<感謝合掌 令和6年7月23日 頓首再拝>
目はその人を表す - 伝統
2024/07/29 (Mon) 11:31:09
「目はその人を表す」は真実です
伊勢ー白山 道(2023-07-16)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/807634f9ee3d852f33f5bd83e5f7a094
<感謝合掌 令和6年7月28日 頓首再拝>
境遇は、自分の性格の反影 - 伝統
2024/09/29 (Sun) 11:18:14
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より
自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。
境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。
あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。
鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。
たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、
苛辣であって気が短く、人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、
まず自分自身を寛容にすればよい。
<感謝合掌 令和6年9月29日 頓首再拝>
自分自身が変化せよ! - 伝統
2024/09/30 (Mon) 11:08:06
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より
鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。
鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。
結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。
自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。
<感謝合掌 令和6年9月30日 頓首再拝>
外界は心の世界のあらわれ - 伝統
2024/10/06 (Sun) 08:51:24
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月6日)より
外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。
内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。
さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。
現象界の処理の仕方(外界)も、
内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から
自然に催してくる「現象界の処理の仕方」を実行することによって、
正しい処置が自然ととれて、不幸や、不完全や、病気が
おのずから消えてしまうのである。
<感謝合掌 令和6年10月6日 頓首再拝>
【自分にちょうどいい人に囲まれる】 - 伝統
2024/10/11 (Fri) 10:44:12
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2024-07-11)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
講演会の後などに、
「姑(しゅうとめ)はイヤな人なんです」と相談に来る人がいます。
このように、自分のすぐそばにいる人の愚痴や悪口を言うことは、
自分の価値を低めているということに気がついたほうがいいかもしれません。
夫、子ども、会社の人、友人まわりの人
すべてが素晴らしい人に囲まれている、と言ったとしましょう。
聞いている人はその人のことを、
その素晴らしい人たちに見合った人だと思うのではないでしょうか。
愚痴や泣き言を言ったり、まわりの人の悪口を言うことで、
いちばん損をしているのは自分。
なぜなら、悪口を言ったその相手と自分は、
同じレベルだと公言していることになるからです。
夫、子ども、会社の人、友人...
私のまわりにいる人は、みんな素晴らしいと褒めれば褒めるほど、
その素晴らしい人たちと同じように、
あなたも素晴らしい人なんだと繋がっていく。
人の悪口を言わない人には、悪口を言わない友人が集まってきますし、
人の悪口ばかりを言ってる人には、悪口ばかりを言う友人が集まります。
毎日が嬉しくて楽しい、と思っている人は、
そう思って過ごしている幸せな友人に囲まれるということ。
私たちは、自分にちょうどいい人に囲まれています。
<『「今」という生きかた』廣済堂文庫>
・・・
お釈迦さまの言葉に、つぎのようなものがある。
(宇宙を貫く幸せの法則/致知出版社)より
すべてがあなたにちょうどいい。
今のあなたに今の夫がちょうどいい。
今のあなたに今の妻がちょうどいい。
今のあなたに今の子供がちょうどいい。
今のあなたに今の親がちょうどいい。
今のあなたに今の兄弟がちょうどいい。
今のあなたに今の友人がちょうどいい。
今のあなたに今の仕事がちょうどいい。
死ぬ日もあなたにちょうどいい。
すべてがあなたにちょうどいい。
友人の悪口をいえばいうほど、
そのひどい友人にふさわしいあなたがいる、ということ。
自分の妻(夫)も、子どもも、兄弟も、会社も、学校も、
みんな今のあなたにちょうどいい。
毎日が嬉しくて楽しい、と思っている人は、
そう思って過ごしている幸せな友人に囲まれる…
「自分にちょうどいい人に囲まれる」という言葉を胸に刻みたい。
・・・
<参照>
書評~小林正観『「今」という生き方』
https://jun-ohsugi.com/column/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%AD%A3%E8%A6%B3-%E3%80%8E%E3%80%8C%E4%BB%8A%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%80%8F-%EF%BC%88%E5%BB%A3%E6%B8%88%E5%A0%82%E6%96%87%E5%BA%AB%EF%BC%89/
<感謝合掌 令和6年10月11日 頓首再拝>
悟りの心で観るのか、それとも鬼の心で見るのか - 伝統
2024/11/16 (Sat) 11:21:08
*「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より
【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】
秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が
赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。
「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の
下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、
日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。
私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と
小さい声で言って居った。
ナカナカそんな本など見て居れる時では無いが、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」
秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。
見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。
若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。
<感謝合掌 令和6年11月16日 頓首再拝>
《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》 - 伝統
2025/01/03 (Fri) 09:16:22
*「光明法語」(1月3日)より
かくて人間は神の映像であるから、
神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると
考え出したのである。
これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。
この「悪」も存在すると云う考えが具象化して
「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。
かくて人間は自からの心が描いた映像をみて
怯え、悲しみ、心配をし、みずから不快になり、
痛み、悲しむことになったのである。
思いを変えよ。
<感謝合掌 令和7年1月3日 頓首再拝>
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映である - 伝統
2025/01/04 (Sat) 11:32:47
*「光明法語」(1月4日《先ず想いを変えよ》)より
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。
若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。
危険を予感するものには危険が来るのである。
自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。
<感謝合掌 令和7年1月4日 頓首再拝>
《心の反映が環境である》 - 伝統
2025/01/05 (Sun) 10:03:58
*「光明法語」(1月5日)より
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、
明朗になり、落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を
変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
<感謝合掌 令和7年1月5日 頓首再拝>
環境浄まる日 - 伝統
2025/01/17 (Fri) 12:01:34
*「光明道中記」(1月17日)より
【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】
我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。
自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。
他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。
あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。
苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。
何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。
<感謝合掌 令和7年1月17日 頓首再拝>
家族や富は、おのれの心の鏡 - 伝統
2025/01/21 (Tue) 11:32:54
*「光明道中記」(1月21日笑門福来七宝充満の日)より
【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】
凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、
夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。
それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。
妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、
儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。
善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。
<感謝合掌 令和7年1月21日 頓首再拝>
周囲の相(すがた)が観世音菩薩の顕れ - 伝統
2025/02/06 (Thu) 10:47:13
*「光明道中記」(2月6日《一切に感謝謝する日》)より抜粋
観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、
三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。
自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。
<感謝合掌 令和7年2月6日 頓首再拝>
《無意識の心的影響》 - 伝統
2025/02/19 (Wed) 12:41:36
*「光明法語」(2月19日)より
吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。
意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして
一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、心の中に反感や、嫌悪の念や、
けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。
世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、
姑からいじめられている嫁の如きはそれである。
<感謝合掌 令和7年2月19日 頓首再拝>
温かいところには人が集まり、冷淡なところからは逃げ出す - 伝統
2025/02/20 (Thu) 11:38:31
*「光明道中記」(2月20日《雪が融ける日》)より
【他が自分に対して薄情である場合は、
自分自身に何か暗い冷たさがある思え。(『生命の實相』第四巻)】
温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。
人を拝めば人が集る。
荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。
その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、
「私の懐は温かいのだ。生徒よ帰って来い。
私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」という意味の思念をせられたら、
脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来た
という話を聞いたことがある。
若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。
また内心に温かいものを持ちながらでも、
他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、それは相手を追い出す心になる。
如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。
だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、
「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。
<感謝合掌 令和7年2月20日 頓首再拝>
害心を持つものは、わが心の害心の反映であり、本来は無い - 伝統
2025/05/22 (Thu) 10:49:22
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より
すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。
一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。
もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。
<感謝合掌 令和7年5月22日 頓首再拝>
闇を映す鏡——私たちの内なる影と投影の真実 - 伝統
2025/05/23 (Fri) 09:40:39
宇宙の兄弟たちへ(2025年5月22日)
闇を映す鏡——私たちの内なる影と投影の真実
https://www.spacebrothers.jp/2025/05/blog-post_22.html
(以下は抜粋です)
(1)心理学では「投影」という言葉があります。
それは、自分のなかに認めたくない「影(シャドウ)」を、
他者に映し出してしまう心の作用です。
(2)私たちは、自分の中にある否定的な感情や未熟な部分を
見たくないとき、それを他人に投影してしまいます。
そして、その相手を激しく非難したり、
コントロールしようとしたりします。
(3)投影は、もっと身近な人間関係、特に親子の間にも現れます。
たとえば、親が子供に対して「なんでいつも怠けているの!」
と叱るとき、それは実は親自身の怠け心を無意識に
投影している場合があります。
あるいは、親が「この子はクヨクヨしていてだめだ」と
感じるとき、親自身が抑圧してきた感情
―― 本当は傷つきやすく、繊細な自分自身の側面——を、
子供に映して見ているのかもしれません。
(4)こうした影の投影は、子供に心の歪みやコンプレックスを
生じさせ、さらにその子が親になったとき、
同じように自分の子供へと影を投影してしまう
―― —という負の連鎖を生み出していきます。
この連鎖を断ち切るには、自分のなかにある影と向き合い、
それを受け入れる勇気が必要です。
(5)私たちは誰もが「光と闇」の両面を持って
この世に生まれてきます。
闇を見ないようにしている限り、他者に投影され、
関係は歪み、誤解や争いを生み出してしまいます。
けれども、自らの内にある影を静かに見つめ、
受け入れていくことができたなら、
そこから新たな調和と目覚めが始まります。
<感謝合掌 令和7年5月23日 頓首再拝>
蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は穫(か)りとらなければならない - 伝統
2025/06/16 (Mon) 11:40:43
*「光明法語」(6月16日《よき「思い」を種蒔くこと》)より
神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。
蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。
自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。
まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。
<感謝合掌 令和7年6月16日 頓首再拝>
あなたが世界に見るもの - 伝統
2025/07/17 (Thu) 10:36:13
あなたが世界に見るもの
宇宙の兄弟たちへ(2025年7月16日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/07/blog-post_16.html
(以下は抜粋です)
「鏡のメッセージ」
わたしは鏡。
曇りなき水面のように、
ただ静かに、そこに在るだけ。
あなたがこの鏡を覗き込むとき、
もしも澄んだ光――
聖なるもの――を見出すなら、
それはあなたの奥底に、
はじめから輝いていたもの。
わたしは何ひとつ足さず、
何ひとつ引かず、
ただ、そのままを映すのみ。
あなたの視線に、影が差すとき、
そこに醜悪や、怒り、
ささやかな嫉妬や憎しみを映すとき、
わたしは嘘をつかずに、
あなたの隠したがる部分をそっと見せる。
その姿に気づいたあなたは、
しばし戸惑い、
わたしを責めるかもしれない。
けれど、わたしはあなたの姿。
この世で見るもの、感じるものすべて、
あなたの内側から現れた、
もうひとつのあなた。
もしも世界に美しさを見るなら、
それは、あなたが美しい証。
もしも世界に闇を見るなら、
その闇の根源もまた、
あなたの心の奥底にあるかもしれない。
わたしは境界を持たぬ鏡。
あなたが近づけば、
あなたを写し、
あなたが遠ざかれば、
ただ、静かな空となる。
どれほど見つめても、
わたしは何も語らず、
ただ、あなたの本質を返すのみ。
あなたの内に眠る“聖性”も、
癒されぬ“影”も、
すべてを等しく映し出す。
わたしは鏡。
あなたが聖なるものを見出せる日まで、
静かにそこに在り続けよう。
すべては、あなたの内なる輝き――
それを映し出すために。
<感謝合掌 令和7年7月17日 頓首再拝>
顔は心の鏡である - 伝統
2025/08/24 (Sun) 11:14:46
*「光明法語」(8月24日《心に化粧せよ》)より
誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。
顔は吾々の心の鏡である。
****(おしろい)でいくら塗っても、
その精神の下劣さは隠すことは出来ない。
「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。人間の顔には、
その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、愚かさや、感情や、
最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」
とカレル博士は更に言っている。
誰も隠すことは出来ないのである。
天知る、地知る、自分知るである。
<感謝合掌 令和7年8月24日 頓首再拝>
境遇は、自分の性格の反影 - 伝統
2025/09/29 (Mon) 11:10:03
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より
自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。
境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。
あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。
鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。
たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、
苛辣であって気が短く、人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、
まず自分自身を寛容にすればよい。
<感謝合掌 令和7年9月29日 頓首再拝>
自分自身が変化せよ! - 伝統
2025/09/30 (Tue) 11:16:58
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より
鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。
鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。
結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。
自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。
<感謝合掌 令和7年9月30日 頓首再拝>
外界は心の世界のあらわれ - 伝統
2025/10/06 (Mon) 11:28:10
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月6日)より
外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。
内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。
さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。
現象界の処理の仕方(外界)も、
内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から
自然に催してくる「現象界の処理の仕方」を実行することによって、
正しい処置が自然ととれて、不幸や、不完全や、病気が
おのずから消えてしまうのである。
<感謝合掌 令和7年10月6日 頓首再拝>
悟りの心で観るのか、それとも鬼の心で見るのか - 伝統
2025/11/16 (Sun) 11:52:59
*「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より
【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】
秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が
赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。
「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の
下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、
日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。
私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と
小さい声で言って居った。
ナカナカそんな本など見て居れる時では無いが、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」
秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。
見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。
若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。
<感謝合掌 令和7年11月16日 頓首再拝>
SNSは心の影を拡大する鏡 - 伝統
2025/11/28 (Fri) 09:08:46
SNSは心の影を拡大する鏡 ─ 現実は私たちの内側を映している
宇宙の兄弟たちへ(2025年11月27日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/11/sns.html
(以下は抜粋です)
(1)この世界は、まるで一枚の巨大な鏡のようなものです。
私たちは外側の現実を見ているつもりでいて、
実は世界こそが心の内側を映し出しているスクリーンだ
とも言えます。
(2)私たちが世界を冷たく見れば世界は冷たく返し、
優しく見れば優しさを返す。
その意味で現実は一方通行の事実ではなく、
心の状態によって姿を変える「反射の現象」です。
(3)現代、私たちはもうひとつの鏡を持ち歩くようになりました。
それが SNSです。
スマートフォンに映る画面はただの情報の並びではなく、
心の在り方を拡大し、可視化し、時に増幅して返す
巨大なレンズのような働きをしています。
(4)SNSで見える世界は中立ではありません。
喜びに満ちた時には祝福の光景がタイムラインに流れ込み、
不安が強い時には不安を刺激する投稿ばかりが目に入ります。
まるで宇宙がこうささやいているかのようです。
「あなたの心の状態が、今ここに映っていますよ」と。
(5)それはまるで心の癖を肥大化させる小宇宙のようです。
知らず知らずのうちに、私たちは情報を見ているのではなく
自分のもつ心の影を見せられているのです。
つまりSNSは、世界という鏡をさらに強く映し出す拡大レンズであり、
魂の学びを外側に投影してくれる教材でもあります。
(6)私たちは他者に気づかされ、世界に映され、
自分の内側と向き合う旅の途上にいます。
もし世界を優しくしたいと思うなら、
まず一人の心を優しくすることが最も確かな一歩です。
(7)争いを減らしたいなら、まず胸の中の小さな戦いを鎮めること。
理解を深めたいなら、異なる意見に耳を澄ませてみること。
世界は私たちの意識によって色を変え、
SNSはその変化を驚くほど鮮明に写し返します。
鏡の前で笑顔を作れば、映し返す像もまた微笑みます。
現実も、SNSも、そしてこの世界も。
それらはすべて私たちの心が作り出した光と影の映写フィルムなのです。
私たちがどんな認識で世界を見つめるか。
その選択こそが、これからの未来の色を決めてゆくのです。
<感謝合掌 令和7年11月28日 頓首再拝>
「環境」という鏡を磨き、運命を好転させる - 伝統
2025/12/11 (Thu) 09:07:51
心が世界を創り出す ——「環境」という鏡を磨き、運命を好転させる魂の法則
宇宙の兄弟たちへ(2025.12.10)
https://www.spacebrothers.jp/2025/12/blog-post_10.html
(以下は抜粋です)
(1)「波長同通」の法則を知る
①あなたの心が発する「思い」という目に見えない振動(バイブレーション)
が、それにふさわしい現実、物質、そして人々を引き寄せているのです。
②「心が現実を創った」のなら、「心を変えれば現実も作り変えられる」
(2)究極の自由 —— ヴィクトール・フランクルの選択
①環境のせいにし、社会のせいにし、
「自分は被害者だ」と嘆くことは簡単です。
しかし、その瞬間に私たちは自らの人生の主導権(パワー)を
放棄してしまいます。
②「人間からすべてを奪うことはできても、
たった一つだけ奪えないものがある。
それは、どのような状況に置かれても、
自分の態度を選ぶ自由である」(ヴィクトール・フランクル)
③環境を変える第一歩は、「今の現実は、すべて自分の魂の
修練のために用意されたものである」と、
全責任を引き受ける覚悟を持つことから始まります。
(3)現実化への「タイムラグ」を信じて待つ
①農夫が種を蒔いてすぐに収穫できないように、
心の変化が現象界に現れるにはタイムラグがあります。
今まで怠惰に過ごし、お酒やギャンブル、刹那的な快楽に
逃避していた時間が長ければ長いほど、その「負の遺産」を
清算するのには相応の努力と時間が必要です。
②松下幸之助は、置かれた環境すべてを「プラスの解釈」という
心の錬金術で黄金に変えていきました。
(4)仕事を「祈り」に変えるとき、世界は変わる
①もし今、あなたが職場環境に不満を持っているなら、
まずはその場所で発する「念(思い)」を変えてみてください。
「上司が嫌だ」「仕事がつまらない」「給料が安い」
そう思いながら働くことは、
自分の生命時間を呪いながら過ごしているのと同じです。
その負のエネルギーは、さらなるトラブルや叱責を引き寄せます。
②あなたが内側から放つ周波数が「不平不満」から
「感謝・貢献・愛」に変わったとき、奇跡は起こります。
周囲の人の態度が軟化したり、予想外の抜擢を受けたり、
あるいは、あなたの成長した魂にふさわしい
「新しいステージ(転職や独立)」が自然と用意されることでしょう。
(5)あなたは創造主である
①外の世界を変えようと必死になる前に、
内なる世界を変革してください。
②「悪い環境」とは、あなたの心がまだ成長の余地を
残していることを教えてくれる、天からのメッセージです。
そのメッセージを受け取り、自らの心を変え、行動を変え、
忍耐強く光の方角へ歩み続けたとき、
気がつけばあなたの周りの景色は、
天国のように美しく変わっているはずです。
③未来は、今のあなたの心が創ります。
<感謝合掌 令和7年12月11日 頓首再拝>
今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである - 伝統
2025/12/12 (Fri) 10:17:34
*「光明道中記」(12月12日)より
【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
(『生命の實相』第四巻)】
神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。
神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。
どんな貧しさもその人の心の寸法合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、彼の心が誂(あつら)えたものなのである。
それは無意識に誂えたのかも知れないが、兎も角彼の心が誂えたものなのである。
自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で吾等は善処しなければならない。
今労働服を着ている人は、その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。
<感謝合掌 令和7年12月12日 頓首再拝>
《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》 - 伝統
2026/01/03 (Sat) 11:06:45
*「光明法語」(1月3日)より
かくて人間は神の映像であるから、
神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると
考え出したのである。
これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。
この「悪」も存在すると云う考えが具象化して
「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。
かくて人間は自からの心が描いた映像をみて
怯え、悲しみ、心配をし、みずから不快になり、
痛み、悲しむことになったのである。
思いを変えよ。
<感謝合掌 令和8年1月3日 頓首再拝>
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映である - 伝統
2026/01/04 (Sun) 09:39:52
*「光明法語」(1月4日《先ず想いを変えよ》)より
自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。
若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。
危険を予感するものには危険が来るのである。
自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。
<感謝合掌 令和8年1月4日 頓首再拝>
《心の反映が環境である》 - 伝統
2026/01/05 (Mon) 09:45:47
*「光明法語」(1月5日)より
自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。
環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、
明朗になり、落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を
変化したことの証明である。
神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。
人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。
<感謝合掌 令和8年1月5日 頓首再拝>
我が住む世界はわが心の反影である - 伝統
2026/01/17 (Sat) 10:56:48
*「光明道中記」(1月17日《環境浄まる日》)より
【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】
我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。
自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。
他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。
あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。
苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。
何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。
<感謝合掌 令和8年1月17日 頓首再拝>
家族は、己の心の鏡 - 伝統
2026/01/21 (Wed) 10:48:02
*「光明道中記」(1月21日笑門福来七宝充満の日)より抜粋
【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】
凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、
夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。
それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。
妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、
儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。
善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。
<感謝合掌 令和8年1月21日 頓首再拝>