伝統板・第二
新生 ④ - 伝統
2023/04/03 (Mon) 09:04:45
たえず新しくなること
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月3日)より
創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。
現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。
表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。
たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。
たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。
たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「新生・新天新地」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=983
(2)光明掲示板・伝統・第一「新生 (82)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=51
(3)伝統板・第二「新生」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6464496
(4)伝統板・第二「新生 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7699664
(5)伝統板・第二「新生 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8009752
<感謝合掌 令和5年4月3日 頓首再拝>
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生 - 伝統
2023/04/08 (Sat) 05:05:59
「真の人間」は日々に新たに生まれる
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より
釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。
生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。
「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。
・・・
《釈迦新生の日》
*「光明道中記」(4月8日)より
【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今
―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】
「お前は何を求めているのだ? 」
「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」
「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」
「《この》私が永遠か? 」
「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、
『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」
此の対話の示す真理を理会する者は幸である。
各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。
是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」と
イエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。
吾を新に発見し、彼を新に発見し、
此の世界を新に発見することが新生である。
<感謝合掌 令和5年4月8日 頓首再拝>
「新たに生れる」とは、我の脱落のことである。 - 伝統
2023/11/02 (Thu) 10:48:18
*「光明道中記」(11月2日《旧我の消える日》)より
【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】
「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。
道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、
仏法を知れりと言うにはあらずということを」
と言っていられる。
悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。
自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。
キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。
「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。
<感謝合掌 令和5年11月2日 頓首再拝>
《新たに生まれる》 - 伝統
2023/12/22 (Fri) 11:58:45
*「光明法語」(12月22日)より
知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。
人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。
『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。
だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。
物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。
これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。
<感謝合掌 令和5年12月22日 頓首再拝>
《キリストの復活》 - 伝統
2023/12/23 (Sat) 08:51:03
*「光明法語」(12月23日)より
ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表して
こう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、
再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。
彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。
キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。
かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。
<感謝合掌 令和5年12月23日 頓首再拝>
いのち立つ春 - 伝統
2024/01/01 (Mon) 09:37:24
<「光明道中記」1月・いのち立つ春~はじめの言葉 より>
我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前(さき)の天と前(さき)の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。
我また、聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく
準備(そなえ)して、神の許をいで、天より降るを見たり。
また大いなる声の御座(みくら)より出づるを聞けり。
曰く『視よ、神の幕屋人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、
神みづから人と倶に在して、かれらの日の涙をことごとく拭い去り給わん。
今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり』
斯(かく)て御座に坐し給うもの言いたまう。
『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたまう
『書き記せ、これらの言(ことば)は信ずべきなり、真(まこと)なり』
また我に言いたまう
『事すでに成れり、我はアルハなり、オメガなり、始なり、終なり、
渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。
勝を得る者は此等のものを嗣がん。我はその神となり。彼は我が子とならん・・・』
(「ヨハネ黙示録」第二十一章1―7)
<感謝合掌 令和6年1月1日 頓首再拝>
新天地開ける日 - 伝統
2024/01/15 (Mon) 10:37:46
*「光明道中記」(1月15日)より抜粋
【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、
自由な愛の世界に出ることである。(「生命の實相」第四巻)】
新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。
注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、
新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、
惰力に押し流されていたような自分を発見して悲しくなる人が多い。
併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。
<感謝合掌 令和6年1月15日 頓首再拝>
《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》 - 伝統
2024/01/17 (Wed) 11:00:15
*「光明法語」(1月17日)より
新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。
新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。
今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。
新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。
如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。
満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。
<感謝合掌 令和6年1月17日 頓首再拝>
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統
2024/02/16 (Fri) 11:09:31
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より
常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。
人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを
生物学上の実験によって確かめられたという。
人間の肉体が老いて衰え死するということは、
細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれないからであって、
必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。
人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。
老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、
ただ過去の惰力で生きており、過去の惰力でものを考え、
過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。
過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。
<感謝合掌 令和6年2月16日 頓首再拝>
新芽には力がある - 伝統
2024/02/17 (Sat) 09:49:24
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より
ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、
あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。
開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。
宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。
新しい酒を古き革袋に容れるときは破れる。
<感謝合掌 令和6年2月17日 頓首再拝>
【常に自己を新しく】 - 伝統
2024/04/02 (Tue) 09:24:16
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.3.28)より
(藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)
維新は革命とは違う。
革命は根本からやりかえること、
維新はだんだんに日々変化していくこと。
いわば革命は外科手術、維新は内服薬療法で徐々に治していくこと、
と伊與田覺著『大学を味読する』は説明している。
『大学』は、こう結ぶ。
「この故に、君子はその極を用いざるなし」
国を清新にするためにはリーダーが停滞せず、
常に最善の道、最上の力を用いなければならない、というのである。
現代にも不変のリーダーの心得であろう。
国や団体・組織を維新し、繁栄向上に導いていくのは大事だが、
さらに大事は自己を維新することだ、と安岡正篤師はいっている。
「宇宙人生は日々夜々(にちにちやや)創造変化、常に停滞することがない。
日に新たに日々に新たなりというのが自然の相であるから、
停滞固定は造化に反する。
我われは常に自己を新しくしてゆかねばならない」
<『小さな修養論 3』致知出版社>
・・・
安岡正篤師は、常に自己を新しくして、
絶えざる創造に生きるための四つの条件を示している。
第一は理想を持つこと・・・
「太陽の光に浴さなければ、物が育たないのと同じことで、
人間の理想精神というものは心の太陽なのだ。
理想に向かって、情熱を沸かすことは、日に向かう、太陽を仰ぐということだ。
これがないと人間のあらゆる徳が発達せず、したがって才智芸能も発達しない」
次は学ぶこと・・・
「正しい歴史伝統に従った深い哲理・真理を学び、それに根差さなければ、
葉や花と同じことで、四季に従って常に魅力のある生命のみずみずしさを
維持していくことはできない」
第三は自己陶冶(とうや)・・・
「最高の教育を受けた人も、
その後の自己陶治を欠いては立派な人間には成り得ない」
最後に、くさらないこと・・・
換言すれば、あらゆる艱難をはねのけていくバイタリティである。
◆《理想を持つ》
年を重ねただけでは人は老いない。 理想を失うとき初めて老いる。
( サミュエル・ウルマン )
理想を失うとは、挑戦しない、好奇心をなくす、
そして、冒険をしなくなることだ。
◆《学び》
「人は単に年をとるだけではいけない。どこまでも成長しなければならぬ」
(平澤興)
成長するとは、学び続けること。
◆《自己陶冶(とうや)》
《人生の晩年に近づいたならば、青壮年の時代以上に、はるかに心を引きしめて、
人生の晩年の修養に努めねばならぬであろう。》(森信三)
生涯にわたり、自己陶冶という自分を磨き続けることが必要だ。
しかも、晩年になればなるほど、
若い頃より何倍も精神を奮い立たせて努力することだ。
◆《くさらない》
思い通りにものごとが運ばないと、やる気をなくす人がいる。
ふて腐ったり、投げやりになったり、くさったり。
そのために必要なのが「発憤(はっぷん)」。
なにくそ、負けてたまるか、という「憤」の一字が必要だ。
<感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>
たえず新しくなること - 伝統
2024/04/03 (Wed) 12:30:21
*『生命の實相』幸福篇上(第37巻)(4月3日)より
創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。
現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。
表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。
たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。
たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。
たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。
<感謝合掌 令和6年4月3日 頓首再拝>
真の自分を発見し、此の世界を新に発見することが新生である - 伝統
2024/04/08 (Mon) 10:41:46
*「光明道中記」(4月8日《釈迦新生の日》)より
【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今
―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】
「お前は何を求めているのだ? 」
「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」
「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」
「《この》私が永遠か? 」
「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」
此の対話の示す真理を理会する者は幸である。
各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。
是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。
吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。
<感謝合掌 令和6年4月8日 頓首再拝>
「新たに生れる」とは、我の脱落のことである。 - 伝統
2024/11/02 (Sat) 11:46:34
*「光明道中記」(11月2日)より
【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】
「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。
道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、
仏法を知れりと言うにはあらずということを」と言っていられる。
悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは
旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」と
キリストは言ったが、その「新たに生れたる我」になってこそ、
自己即仏と言い得るのである。
自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。
キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。
「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。
<感謝合掌 令和6年11月2日 頓首再拝>
《新たに生まれる》 - 伝統
2024/12/22 (Sun) 12:27:04
*「光明法語」(12月22日)より
知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。
人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。
『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。
だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。
物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。
これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。
<感謝合掌 令和6年12月22日 頓首再拝>
《キリストの復活》 - 伝統
2024/12/23 (Mon) 12:10:55
*「光明法語」(12月23日)より
ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表して
こう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、
再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。
彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。
キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。
かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。
<感謝合掌 令和6年12月23日 頓首再拝>
【 新生のため準備整う日 】 - 伝統
2024/12/31 (Tue) 10:51:39
*「光明道中記」(12月31日)より
【植物の種子と等しく人間の事業の発芽にも時間を要する。急ぐな。
(『生命の實相』(第一巻)】
愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
終わると思うと、名残り惜しいような気もする。
振返ってみると、どれだけ私の魂はこの1年間に進歩したことだろう。
色々の失敗もあったであろう。色々の躓きもあったであろう。
併しその時には魔誤ついた如く見えた失敗も躓きも、今から振り返って見ると、
悉く私の魂の生長に必要欠くべからざる要素をなしていることを発見するのである。
要するに、本当の意味に於て失敗と云うことはなかったのである。
躓きと云うものはあり得ないのである。
今から見ればすべてのものが拝まれる。
振返って見て拝まれるだけでは尚心細いと思う。
どんなときにも拝めるようになっていなければならない筈である。
その時その場で拝めるようでなければならないのである。
まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。
愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。
この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。
私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。
<感謝合掌 令和6年12月31日 頓首再拝>
新生地球の世界 - 伝統
2025/01/01 (Wed) 06:54:48
新生地球の世界
May it be(Enya)Lyrics/和訳(祈りの歌)新生地球の世界by Shaylee Mary
ShayleeMary ch(2023/05/11)
https://www.youtube.com/watch?v=rfcpc9OJr6Y
カタカムナの響き〜ミスマルノタマ
Hiroki Okano(2024/12/05)
https://www.youtube.com/watch?v=a1ZDsBwH_-o
<感謝合掌 令和7年1月1日 頓首再拝>
《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》 - 伝統
2025/01/17 (Fri) 12:08:26
*「光明法語」(1月17日)より
新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。
新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。
今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。
新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。
如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。
満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。
<感謝合掌 令和7年1月17日 頓首再拝>
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統
2025/02/16 (Sun) 10:40:35
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より
常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。
人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを
生物学上の実験によって確かめられたという。
人間の肉体が老いて衰え死するということは、
細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれないからであって、
必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。
人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。
老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、
ただ過去の惰力で生きており、過去の惰力でものを考え、
過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。
過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。
<感謝合掌 令和7年2月16日 頓首再拝>
新芽には力がある - 伝統
2025/02/17 (Mon) 10:48:41
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より
ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、
あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。
開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。
宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。
新しい酒を古き革袋に容れるときは破れる。
<感謝合掌 令和7年2月17日 頓首再拝>
たえず新しくなること - 伝統
2025/04/03 (Thu) 11:12:45
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月3日)より
創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。
現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。
表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。
たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。
たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。
たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。
<感謝合掌 令和7年4月3日 頓首再拝>
新たに生まれる - 伝統
2025/04/08 (Tue) 10:31:38
「真の人間」は日々に新たに生まれる
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より
釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。
生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。
「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。
・・・
《釈迦新生の日》
*「光明道中記」(4月8日)より
【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今
―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】
「お前は何を求めているのだ? 」
「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」
「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」
「《この》私が永遠か? 」
「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、
『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」
此の対話の示す真理を理会する者は幸である。
各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。
是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」と
イエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。
吾を新に発見し、彼を新に発見し、
此の世界を新に発見することが新生である。
・・・
仏教行事「花まつり」にあわせて稚児行列(2025年4月6日)
佐賀新聞[SagaShimbun](2025/04/07)
https://www.youtube.com/watch?v=XGAsdrxL3nI
お釈迦様の誕生日を祝う「花まつり」稚児行列 仙台・青葉区
<仙台> ( 2025/04/06)
https://www.youtube.com/watch?v=Va1B9sVfSo0
<感謝合掌 令和7年4月8日 頓首再拝>
「新たに生れる」とは、我の脱落のことである。 - 伝統
2025/11/02 (Sun) 10:18:09
*「光明道中記」(11月2日)より
【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】
「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。
道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、
仏法を知れりと言うにはあらずということを」と言っていられる。
悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは
旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」と
キリストは言ったが、その「新たに生れたる我」になってこそ、
自己即仏と言い得るのである。
自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。
キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。
「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。
<感謝合掌 令和7年11月2日 頓首再拝>
《新たに生まれる》 - 伝統
2025/12/22 (Mon) 11:40:26
*「光明法語」(12月22日)より
知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。
人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。
『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。
だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。
物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。
これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。
<感謝合掌 令和7年12月22日 頓首再拝>
《キリストの復活》 - 伝統
2025/12/23 (Tue) 12:01:55
*「光明法語」(12月23日)より
ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表して
こう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、
再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。
彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。
キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。
かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。
<感謝合掌 令和7年12月23日 頓首再拝>
”神の子”があなたに新たに降臨する日 - 伝統
2025/12/26 (Fri) 10:05:11
*谷口雅春先生・著「神と偕に生きる真理365章」(P-339)より
クリスマスに臨んで、私は諸君に宿る”神の子”を祝福し、
その健康と幸福の源泉に燃燈(ともしび)を点ぜんことを願うのである。
今日、この日”神の子”は新たにあなたの内に自覚され、あなたは新生したのである。
神はこの日あなたを祝福して
”神の子よ、われは汝に完全なる健康を送る。われは汝の健康の本源である”
と宣言したのである。
”神の子よ、われ汝に平安を送る。われは汝の平和の基(もと)である”
”神の子よ、われは汝に、なくてはならぬすべてのものを裕(ゆた)かに送る。
われは汝のあらゆる供給の本源である”
”神の子よ、われは汝のいだく希望の本源である。
それゆえにわれは汝を祝福して必ず希望を成就せしめるのである”
”神の子よ、われは汝の生活の光であり、生活を導く燈台である。
その燈台の光に照らされ汝は今より後迷うことも躓くこともなし”
と宣言したまうのである。
まさにこれこそ、真のキリストの降誕である。
しずかに坐して神想観してこれらの神の宣言のことばを、繰り返し、繰り返し、
心の内に深く強く念ずるならば、
この神が”神の子”祝福して宣言せられた言葉の通りに、
あなたは健康となり、魂は平安を得、生活は無限供給を得て裕(ゆた)かとなり、
希望は成就し、今より後迷うことも躓くこともなくなるのである。
既にキリストは諸君の中に降誕したまえり!!
<感謝合掌 令和7年12月26日 頓首再拝>
新たに生まれる - 伝統
2026/01/01 (Thu) 11:09:45
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より
われわれを生かすのは明るい思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。
生命は暗黒の中にも光を見る。
暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
光の方へ光の方へと向いていく。
そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
生命には光が必要なのである。
光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。
再び言う。生命には光が必要なのである。
新しい年には新しい心が生まれる。
元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。
他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。
元旦からまず始めよう。
それは明るい心を持つということである。
一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。
ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
ただそれだけ一つのことである。
これだけのことならばわたしにもできると思う。
明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
何事が起こっても悲しまぬということである。
何事が起こっても失望せぬということである。
何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。
去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。
天地一新。
悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
それはすべて一新していく姿である。
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【動画で送る年賀状】2026年午年・素晴らしいお年になりますように
https://www.youtube.com/watch?v=9wZGaD7My4k
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【謹賀新年】〜日の出&音靈による浄靈浄化〜
神人 -kamihito- 公式チャンネル(2026.1.1)
https://www.youtube.com/watch?v=4lFJv18YvhY
<感謝合掌 令和7年1月1日 頓首再拝>
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり - 伝統
2026/01/03 (Sat) 11:11:24
*「光明道中記」(1月3日《そのまま素直な日》)より
【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
(「生命の實相」第十二巻)】
一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って
吾々を生かしてくれていると知るのが悟りである。
斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。
料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が
如何に鹹(から)く、如何に酸(す)っぱきかを思え。
既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。
既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。
犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。
足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。
到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。
到るところに大自然の恵満ちたり。
霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。
心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。
<感謝合掌 令和8年1月3日 頓首再拝>
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統
2026/02/16 (Mon) 11:37:26
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より
常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。
人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを
生物学上の実験によって確かめられたという。
人間の肉体が老いて衰え死するということは、
細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれないからであって、
必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。
人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。
老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、
ただ過去の惰力で生きており、過去の惰力でものを考え、
過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。
過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。
<感謝合掌 令和8年2月16日 頓首再拝>
新芽には力がある - 伝統
2026/02/17 (Tue) 10:46:07
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より
ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、
あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。
開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。
宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。
新しい酒を古き革袋に容れるときは破れる。
<感謝合掌 令和8年2月17日 頓首再拝>
たえず新しくなること - 伝統
2026/04/03 (Fri) 09:57:45
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月3日)より
創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。
現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。
表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。
たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。
たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。
たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。
<感謝合掌 令和8年4月3日 頓首再拝>