伝統板・第二
谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑱ - 夕刻版
2023/06/06 (Tue) 12:39:50
ラジオ放送『幸福への出発』(その11)~谷口雅春先生
ラジオ放送『幸福への出発』(その11)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_011.mp3
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59
(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105
(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6458658
(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
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(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
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(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
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(7)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑥
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(8)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑦」
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(9)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑧」
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(10)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑨」
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(11)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑩」
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(12)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑪」
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(13)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑫」
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(14)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑬」
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(15)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑭
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(16)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑮
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(17)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑯
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(18)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑰
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(19)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
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(20)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
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(21)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎③」
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<感謝合掌 令和5年6月6日 頓首再拝>
悲しい時には泣きなさい―『いのちの道』~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/07 (Wed) 04:48:28
*『行』(昭和16年6月号)より
(昭和16年3月2日 大隈会館に於ける軍人遺家族慰安大講演会 より)
皆さん雨の降る中をわざわざ来て戴きまして有難うございます。
実は、白鳩会連合会で遺族の方を御慰問したいから、
そういう風な講演会を開きたいから、私にそう云う問題を
話して欲しいと言われたのでありますが、
私にはそれだけの力がない、と云って
最初お断り申上げたのであります。
何故私にそれだけの力がないかというと、
私は遺族ではないのであります。
本当に自分の夫が死んでいないし、自分の妻が死んでいないし、
自分の子が死んでいない。
従って極めて幸福に平安に住んでいる私に、
遺族の悲しみを和らげるために、私がどれだけの話が
出来るかというような、そういう自信がないのであります。
自信がないけれども、併し白鳩会でその種類の講演会を
開くに就いて、今までの遺族の慰問講演会というものは、
万歳(まんざい)のような、掛け合い話のようなものや、
或は音楽などでその場は好い気持にしているけれども、
併し後で本当に魂が根本的に救われたと考えるような
慰安会はなかったのだから、是非とも私に出て戴きたい、
そして魂の底から何か安心の出来るような話をして戴きたい
というような、そういう註文があったのであります。
そこでやむを得ず承諾いたしましたが、
どれだけのことが私に出来るか、私には分らない
のでありますけれども、皆さんに少し話して見たいと
思うのであります。
(中略)
・・・ 不幸にして私は自分の家族を戦場に於て失っていない。
だから皆さんを慰める資格がないのであります。
此の間も、遺族の一人の方が私の前に出て来て、
そして私の夫はなくなったのです。 と言われるかと思うと、
ハラハラと涙をお流しになったのです。
何とか私の心を平和にする言葉を言って下さい、
私は泣かずにはいられないのですと云われたのでありますが、
私は言う言葉を知らなかったのであります。
『悲しい時に泣かないのが悟りでありませんよ』 と私は言ったのです。
『大いにお泣きなさい、それが人間だ。 それが神の子なんだ。
親に別れ、子に別れ、妻に別れ、或は夫に別れ、
それで泣かずに知らぬ顔して悟り澄ましているなんていうのは、そ
れは嘘だ。
それで好いのだ、泣きなさい。
哭いて、哭いて、哭いたら、そこから泣かずにいられる
本当の生命が出て来るのですよ』 と申上げたのであります。
『その本当の生命は泣いてはいないのですよ。
陛下のために献げることが出来た生命を悦んでいられるのですよ』
と云いました。
その方は私の書いた 『生命の實相』 という本を
お読みになりまして、人間は生き通しということは
よく知っていると言われる。
「知っているのに私は悲しいのです」 斯う言われた。
私は言いました。
『そうです。 それはそれが当り前なんです。
いくら生き通しと知っておっても悲しいのです。
家族の一人が、何時も同じ家で寝ている家族が、
どこか1ヶ月でも旅行して、家の中に暫く
その人の寝床が敷いていない、そんな時に夜目をさます
と淋しい気がする。
実際その人は死んでいやしないで、旅行したという事を
ハッキリ知っている時にさえも人間は淋しいのです。
必ずしも死んだから淋しいのではない。
愛する者に別れる、是が淋しいのです。
その淋しさを淋しいとする ― それは人間の真情です。
あなたが悟を開いていないのじゃないのです。
それは肉体人間の当前の感情なんですよ。
あなたもそれでいいのですよ。
哭けるだけお哭きなさい。
悲しみというものは泣いて了ったならば、
そうしたらもう後はみんな消えてしまうものですよ。
それは空気中の水蒸気見たいに雨になって落ちてしまったら、
後はカラリ晴れて晴天白日になります。
悲しい時には泣けるだけ泣いたら、それでいいのです』
と私は話したことでありました。
朝鮮軍総司令官の中村大将は生長の家の熱心な方でありますが、
その方の夫人が自分の娘を喪ったといって、
悟の法話に来られたことがあります。
その方は生長の家の誌友でありますからよく読んでいらっしゃる。
よく悟っていらっしゃって、
「人間には霊魂のあるということもよく分る。
人間は生き通しであるということもよく分る、
それだのにどうしても悲しくて仕方がないのです。」
― 斯う言われまして、
「此の悲しみを無理に抑えようと思ったら余計悲しくなるのです」
と云われました。 是は本当です。
酒でも飲みたいのに無理に抑えて、
飲むまいと思うと余計飲みたくなるのです。
煙草でも廃(や)めようと思うと中々廃まらない。
悲しい時には泣けばいいのです。
大いに泣くことです。
泣いている内に次第に雲が晴れる。
そして明るい世界がそこから生れて来るのであります。
人間の‘いのち’は本来明るいのであります。
明るいから、自然と明るさが湧いて来るように出来ているのであります。
雨が降って来ても自然に雨が晴れて来るようになっているのであります。
空は雨が自然に晴れて来るように出来ている。
無理に雨を止めなくても自然に止まるように出来ている。
それがそのまま当前なのであります。
生長の家の生き方というものは無理の生活は一つもない。
はからいの生活は一つもない。
そのままなのですね。
そのままを生きた時に、
そのままそこから道がひらけて来るのであります。
悲しみを受けて悦びにかえる受け方は、
私にはそれ位のことしか分らないのです。
ただ生命は本来楽しいように出来ている。
雨が降っていても、雲の上は青空が本当にあるように、
人間は悲しんでおっても本当は幸福な生命であることを
知って頂きたいのであります。
こんな話をしたのであります。 ・・・・・
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/738cc23a91bd75a1de6faeb957956988
VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-01)
<感謝合掌 令和5年6月6日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その12)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/07 (Wed) 15:37:09
ラジオ放送『幸福への出発』(その12)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月7日 頓首再拝>
笑うものの運命は光のごとく輝(かがや)く~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/08 (Thu) 04:55:41
*『生命の實相』人生門答篇 より
人は笑うのも自由である。
しかめ面(つら)をするのも自由である。
しかし笑う者の運命は光のごとく輝き、
しかめ面をする者の運命は闇の中に沈衰(ちんすい)する。
光となって輝きたい者は笑うがよい。
闇の底に沈衰したい者は眉(まゆ)をしかめるがよい。
幸福でもないのに笑えないというな。
笑わないから幸福がこないのである。
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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-07)
<感謝合掌 令和5年6月7日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その13)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/08 (Thu) 12:45:47
ラジオ放送『幸福への出発』(その13)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月8日 頓首再拝>
恐怖とオドシの網から脱出せよ~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/09 (Fri) 04:55:32
*「女の浄土」(P8)より
正しい信仰は、恐怖から解放されたものでなければならない。
「この教えに入らないと不幸が来るぞ。
良人が半年ほどのうちに病気で死ぬぞ」 などと、
恐怖の起るようなことを繰返し言われて、
漁師が魚を網の中に追込んで漁獲するように、
恐怖の教団に入会させられる人も沢山あるらしいけれども、
おどかされて止むを得ずに入会するのは、
本当の信仰ではないから価値はないのである。
それは暗い信仰であり、心に明るい燈(ひ)がともらないで、
つねに 「折伏しなければ罰があたる」 と仏罰の鞭で
追い廻されている信仰であるからである。
みなさんは自分の信仰が、純粋の無条件信仰であるか、
おどかされて魚のように網の中へ追い込まれて
自由のきかぬ状態に置かれている信仰であるかを考えて、
もしそんな信仰なら、あなたの自由を奪っているその網から
脱出するようにしなければならない。
真理のみ、ただ真理のみが、あなたに自由を与えるのであって、
オドシはあなたの自由を奪うばかりである。
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晴れときどき(2014 年 1 月 7 日)
<感謝合掌 令和5年6月8日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その14)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/09 (Fri) 18:46:25
ラジオ放送『幸福への出発』(その14)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月9日 頓首再拝>
根の願い~金戸 榮 - 伝統
2023/06/10 (Sat) 04:53:19
*『光の泉』(昭和59年7月号)より
『飾りなき根の「願い」にて花が咲く』
何と深い感動的な響きある言葉でしょう。
姿形を人前に現さない根、自らを美しく飾ろうとしない。
しかも大きな「願い」をもって黙々と働き続けて下さっている。
その「願い」によって一切の生物は処を得て生かされています。
あるものは花と咲き人々に愛され讃えられ、
又或るものは樹木と呼ばれ鑚仰されています。
私達の住む世界は根との関わりなくして生きることも、
咲くこともありえないものだとしみじみ思われます。
自力の奥に否定することの出来ない絶対他力の世界があり、
神と讃え仏と称ばせていただいて、その加護と導きにより
魂の安住をえているようです。
一遍上人のお言葉に
―― 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、
善悪の境界をも捨て、貴賎高下の道理をも捨て、
地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、
又諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨て、申す念仏こそ、
弥陀超世の本願に最もかない候え ―― とあります。
信仰とはまさに全托の行であり、天地に充ち満ちている
無限の恩恵を素直に有難いと受ける没我の哲学でもあります。
求めずして既に整った世界に心の波を合わすことが誦行念仏で
心が澄み切り安らぎの極に達し、無限の力が湧き出てくる
と教えられております。
先日、仏教詩人坂村真民先生の次の句に出合いました。
今も心の中に感動の血が駆け巡っておりますので
謹んで紹介させていただきます。
『守られて生きる』
(1)
みんな眠っているが
家の上には
星々が光り輝き
家のまわりには
こおろぎたちが
一晩中鳴いている
(2)
守られて眠っていることを
知って下さい
こんなにも美しく
星々が光り輝き
こんなにも優しく
虫たちが鳴いているのです
私はこの句に出合ってからは夜が勿体なく、
今迄以上に手を合わす時も長くなりました。
又、朝の目覚めに御仏のお招きを感ずる日々とならせていただきました。
私の家の周囲は広々とした田園で、
去年は蛙たちが夜を通して鳴き続けておりました。
私の悟道の未熟から、蛙に暖かく見守られ、夜を徹して
吾がいのちを讃ええてくれる御仏の声とも識らず、
それを騒々しく、やかましいと感じて、“ボヤ”いていた恥かしい自分でした。
今年からは、吾を愛し給う御仏の声の洗礼として、
心から感謝して受けさせていただこうと楽しみにしております。
今は仏がいましても念仏がなく、
神が在しましても神想観を行ずる人がごく僅かのようです。
神、仏の愛と慈悲以外に本質に於いてない世界を
どうして自らを閉じて悪夢を見つづけているのでしょうか。
釈迦世尊が野を歩いておられると、
花が喜びパッパッと咲いたと言われております。
人間神の子、仏の子絶対の世界に、“いのち”が立つと、
天地はその人を中心に動き出すと教えられております。
満天の星々も私達を見護り讃えてくれています。
大地の草花も、すべての生物も御仏の声を奏でながら
生き生きと活動しております。
まさに皆喜、法悦の世界をここに見る思いです。
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VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-01)
<感謝合掌 令和5年6月9日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その15)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/10 (Sat) 15:49:29
ラジオ放送『幸福への出発』(その15)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月10日 頓首再拝>
全身全霊をもって、生命の実相に貫き入(い)れ~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/11 (Sun) 04:43:38
*『生命の實相』生命篇 より
生命の実相に貫(つらぬ)き入(い)るには、
この書(編注・『生命の實相』)を頭で読もうとせず、
全身全霊で読む、黙読する、朗読する。
目で読み、声で読み、声のリズムのなかに自分を溶かし込んで読む、
そして静かに端座(たんざ)して「神想観」を行(ぎょう)じ、
行じ終って動き出すとき神(愛)の生活を生きる、
かくする時、智慧(ちえ)と愛のそろった生活が実現する。
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/aad28f6213a2e475ac7db75e9040b291
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-08)
<感謝合掌 令和5年6月10日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その16)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/11 (Sun) 12:55:03
ラジオ放送『幸福への出発』(その16)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月11日 頓首再拝>
心に「私」なき聖者は常に長命である~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/12 (Mon) 04:39:55
*「光明道中記」より
神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を
精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。
そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。
ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。
それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは
一種の愛憎の念であるからである。
神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、
神の智慧と愛と生命との充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。
吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。
ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。
愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。
愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。
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晴れときどき(2014 年 1 月 9 日)
<感謝合掌 令和5年6月11日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その17)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/12 (Mon) 12:52:18
ラジオ放送『幸福への出発』(その17)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月12日 頓首再拝>
生長の家思想の淵源を把握するために ー 實相論への道~阪田 成一 - 伝統
2023/06/13 (Tue) 05:03:40
*『生長の家』(昭和59年新年号)より
「生長の家」と言えば、今では、多くの人が宗教だと思っているが、
生長の家は宗教として出発したのではない。
昭和5年3月1日に創刊された 『生長の家』誌 の裏表紙には
「生長の家の宣言」 〈のちに 「生長の家七つの光明宣言」 となる〉 が
掲げられているが、その第1条には、つぎのように唱われている。
《われらは宗派を超越し、生命を礼拝し、生命の法則に随順して生活せんことを期す》
この宣言にもあるように、生長の家は発祥当初から、
いっさいの宗派というものを超越し、われわれを生かしているところの
生命を礼拝し、生命の法則に随順してそれに調和して生活してゆく
という目的でもって出発したのであり、このことは今もなお貫かれているのである。
従っていまだかつて「生長の家」ほど宗派に対しても対立的態度をとったことがなく、
事実、生長の家誌友は、いずれも祖先の礼拝した本尊を尊び、
祖先の信仰した宗教のままで、修養をつづけており、「生長の家」によって
今まで信仰していた祖先の宗教の神髄が把握されたとさえ言われている。
◇ 宗門を開く“鍵”
それではなぜ「生長の家」によって
それぞれの宗教の神髄が明らかにされるのであろうか。
谷口雅春先生は、このことについてつぎのように言われている。
《生長の家は「家」であるということである。
すべての他の宗教は「宗門」である。
“門”であってその奥の院に入っていないのであります。
その門を開いて奥の院に入る“鍵”を与えるのが、生長の家である。
ですから、祖先の宗教を信じておっても、
皆、“門”の前に立っておって“門”の恰好がいいとか、
悪いとか言って宗派争いをしている。
けれどもわれわれ生長の家は“門”に立っていないんだから、
宗派争いはしないで、ずっと奥へ入る。
しかし、奥へ入ろうと思っても扉が閉っているのである。
その扉を開ける鍵 ― すなわち「生命の実相」という哲学の鍵をもって、
それで各宗の神髄の奥の院へ入って行くことを教える
― これが生長の家であるわけであります》
(『神の真義とその理解』)
“「生命の実相」という哲学の鍵”をもってすれば
各宗の神髄が明らかにされるといわれるのであるが、
それでは「生命の実相」哲学とはいかなる哲学をいうのであろうか。
「生命の実相」哲学とは、谷口雅春先生によって説かれたところの
生長の家の教義を総体的に呼称したものであり、
それは現在、 聖典『生命の實相』〈全40巻〉 をはじめとする
450余におよび著作となって表現されている。
またその教えの内容が、単なる唯心論でないことから
「唯神実相論」〈または唯神実相哲学〉とも呼ばれている。
〈なお、本稿では以後、「唯神実相論または哲学」の呼称を用いることにする〉
◇ 唯神実相哲学とは何か
さて、「唯神実相哲学とは何か」ということであるが、
これについては谷口雅春先生の「唯神実相哲学の神髄」に示されているが
〈※『人間そのものの発見とその自覚』114頁~ 参照〉
さらに理解を深めて頂くために谷口雅春先生の他の文章から、
唯神実相論について説かれた箇所をつぎに紹介しておきたい。
《すべて形あるものは、その存在の奥に理念又はアイディアがあって、
理念又はアイディアの表現する姿の顕現である。
形は“あらわれ”であって、本質でも実質でもない。
形をあらわしているものの本質は“物質”ではないのであって、
すべてのものの本質又は実相は“神の霊”なのである。
この存在を“唯神実相論”と呼ぶのである。
唯神実相論においては、
一切の真実存在は神が想念せられたアイディアの展開である、と観るのである。
「神が想念せられたアイディア」を“理念”というのである。
“理念”の展開せる世界が、イエスの“主の祈り”にある
「みこころの天に成る世界」であり、「実相世界」であり「神の国」であり、
それが「唯一の実在せる世界」であり、
そこは「一切の生物ところを得て、相食む者なく、争う者なく、病む者なく、
苦しむ者なく、乏しき者なき」円満完全な世界である。
「その円満完全な世界を、心の眼をひらいて見よ」と説くのが
「唯神実相論」なのである》
(「唯識の顕現としての世界及び人間」)
◇ 唯心論をさらに超えて
《今まで普通に説かれて来た唯心論を3種に大別することができるだろう。
主観的唯心論 (Subjective Idealism) と、
客観的唯心論 (Objective Idealism) と、
絶対唯心論 (Abusolute Idealism) とである。
第1の主観的唯心論は、この世界は唯、人間の主観が時間空間の
“認識の形式”に投影されて現れているものであって、
客観的にはそんなものは存在しないという極端な観念論である。
第2の客観的唯心論は、この世界は、神又は宇宙心の想念の展開であるから、
それは心の所現ではあるけれども、客観的に儼存する世界であり、
神の愛によって護られている世界であると説く。
汎神論はこの中に入るであろう。
第3の絶対唯心論は、神は主観・客観を超越せる絶対者であって
一切を包容し一切を支配するのは絶対者であるから、
個人の努力と見えるものも実は絶対者の顕現であり、
全宇宙が絶対者に支配されているから、
すべては機械的に自動的に動き進展して行くので、
個人の努力の余地など存在しないと見るのである。
生長の家の説く唯心論は、以上大別する3つの唯心論とは異なる世界観である。
唯神実相論と称しているのである。
以上3種の唯心論的世界観に於いては“この世界”は人間の心の表現であるとか、
神の心の表現であるとか、絶対者の表現であるとかいっても、
すべてこの“現象世界”のことを“この世界”といっているのである。
吾々の唯神実相哲学に於いては、
単なる絶対完全者の顕現である世界(実在界)と、
吾々の“心”を媒介として投映し仮現されたる現象世界とを説き、
実在界と仮現の世界との交錯するところに善悪混淆の現象があらわれるのであるが、
仮現はどこまでも仮現であって実在でないから、
現象界は想念の変化によって変化する。
ここに努力の甲斐があると説くのである。
そして実在するものは唯、神と神の創造になる実在界のみであって
それは常住不変の完全原型の世界である。
そして吾々の努力次第で、どの程度その完全原型を現象世界に具象させて
円満幸福な生活を送り得るかがきまるのだと説くのである》
(「宇宙の神秘を直観して」)
すなわち、「唯神実相論」とは、単に“心”でこの世界ができているといった
唯心論ではなく、神と神とによって創られた世界のみが実在であって、
それ以外のものは存在しないという哲学である。
と同時に神は、“善”であり、それ故に、悪とか罪とか病いとかいった
不完全なものは本来無く、このことを端的に表現して「現象無し」というのである。
もっとも現象には、
実相の展開として現れている‘真象’と、そうでない‘偽象’の2種類があり、
真象とは神と神の表現であるところの真実の世界であって、
偽象とはわれわれが普通物質的に見える世界
― 病気や不幸もあるという世界 ― のことであるが、
唯神実相哲学ではそのような現象世界は本来無い、と断ずるのである。
◇ 地上天国実現運動としての「生長の家」
さらに、この哲学は「一種の実証哲学」であるということである。
すなわち、その哲学の人生観をもつことによって実相の完全さが現象界に写象されて、
幸福の世界が実際にあらわれて来ると説くのである。
従って 「七つの光明宣言」 結章には、
《吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより
病苦其の他一切の人生苦を克服し、相愛協力の天国を
地上に建設せんが為に実際運動を起す》
と、宣言されており、生長の家は「唯神実相哲学」によって
地上天国を建設するための実際運動であることが、
これまた発祥当初からはっきり唱われているのである。
では生長の家の「唯神実相論」は、
どのような過程を経て結実されたのであろうか。
あらゆる存在は歴史的現実として、歴史を背景にして
今此処にその姿をあらわしており、歴史を切りはなして
「生長の家」を単独に理解することはできないのである。
それ故「唯神実相論」も、谷口雅春先生の生活の歴史を通して、
生まれるべくして生まれたということが言えるのである。
事実、谷口先生は 『生命の實相』 の “自伝篇” のなかで
「生長の家は一朝にして、ただの霊感だけで迷信的にヒョッコリと
生れ出たものではなく、私の長い間の生活体験を通しての思索体系の
クライマックスに達せる時、百尺竿頭、霊的飛躍が忽然花開いたものだ」
と言われている。
また先生はその著 『佛教の把握』 の“はしがき”でも、
「生長の家の思想を知って貰うためには、その思想の淵源を知らなければならぬ」
と書いておられるのである。
従って生長の家の思想即ち「唯神実相論」は、一朝一夕に成ったものではなく、
谷口先生が「視えるところのいのち」の矛盾に悩み、苦しまれ、
遂に「本物の、久遠の、本当のいのち」を掴むまでの厳しい求道の歴史を経て、
遂に時熟し、燦然たる成道の日を迎えられたのであった。
そこでわれわれも谷口雅春先生の「唯神実相哲学」に到る過程を辿ることによって、
その神髄に迫って行きたいと思うのである。
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/36949df923d0a607773b1fa833a8d003
VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-05)
<感謝合掌 令和5年6月12日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その18)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/13 (Tue) 15:21:48
ラジオ放送『幸福への出発』(その18)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_018.mp3
<感謝合掌 令和5年6月13日 頓首再拝>
児童をよくするには、その神性、仏性をまず拝むのです~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/14 (Wed) 04:47:56
児童をよくするには、その神性(しんせい)、仏性(ぶっしょう)をまず拝むのです
*『生命の實相』児童教育篇 より
いくら叱りつけて恐ろしい語調で道理(どうり)を説(と)いても、
それは相手のうちに宿る真理すなわち神なるものを拝んで説くのでありませんから、
子供のうちの道理、真理が出てこないのであります。
拝めば扉(とびら)が開(ひら)かれるのです。
「あなたは道理そのものである」とまず内部の神性を認めて拝んだら
必ずそれが表面に出て、その子供が良くなってくるのです。
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c7bba0e8ab5a20007b82baffd2d39aab
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-08)
<感謝合掌 令和5年6月13日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その19)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/14 (Wed) 13:32:12
ラジオ放送『幸福への出発』(その19)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_019.mp3
<感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>
”ぐずぐず”するな、今、行動せよ!~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/15 (Thu) 04:32:11
*『生命の實相』第37巻 幸福篇上 より
時間を大切にするということは、
《いのち》を大切にするということである。
現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。
しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。
時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。
「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。
時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、
それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えても
イライラして心が忙しいだけである。
時間を大切にする最も有効なる秘訣は
何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。
《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。
ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。
今を行かす生活、
その時その場をすぐ生かす生活、
具象的今を生かすこと
が超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。
「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p19.html
晴れときどき(2014 年 1 月 11 日)
<感謝合掌 令和5年6月14日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その20)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/15 (Thu) 13:26:30
ラジオ放送『幸福への出発』(その20)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_020.mp3
<感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>
聖癒の力は何処から来るか~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/16 (Fri) 04:53:16
* 『人生は心で支配せよ』 より
生命の實相哲学は萬教帰一の哲学である。
何宗の人であっても、それが読者の魂の栄養になる事は、
何人に対しても、御飯が栄養になると同じである。
吾々の哲学は神道や、佛教や、儒教を一つの神髄的真理に
帰一せしめた点においては、各々それぞれの典拠と流れに
汲んではいるが、
基督教を一つの神髄的真理に帰一せしめる方法や典拠においては
ニュー・ソートの流れを汲んでいるのである。
そしてそれが更に大乗日本化されていることに注目しなければならぬ。
吾々の哲学は、吾々は如何にすれば吾々の国家を、社会を、
肉体を、環境を、すべての者の運命を支配して
これを栄えあらしめる事が出来るかを明らかにするのである。
と云うのは、吾々の光明哲学は人間が小宇宙であること、
大宇宙において行われた創造の過程は小宇宙においても真であること、
― 換言すれば
想念は物に化(な)ると云うことを明らかにするからである。
そして宇宙を支配する法則を暁(さと)って、これと調和するならば、
人間は無限の自由を獲得し、あらゆる制約を超越して、
無礙無縛の状態となり得ることを明らかにするのである。
本書の論講が進んで行くに従って、
人間精神の創造作用と、宇宙精神の創造作用とが
決して二つではなくむしろ本質的に連関していることが
明らかになって来るだろう。
このことが了解されれば、吾等は、吾々自身が
自力で思い煩うことなくして、宇宙精神の創造力に委せ切って
自分の欲する事物をほしいままに得ることが出来るのである。
吾らは創造力を自分で造るのではない。
大生命に委せ切って宇宙の創造力に働いて頂くのである。
吾らの委せ切りの心が深まれば深まるほど、
その程度に従って宇宙の自浄力(いやすちから)が
吾らのために無限にはたらいてくれるのである。
すべて癒す力は宇宙の自浄力(いやすちから)であるから、神聖である。
「それは求むるに従って与えて下さるのである」。
それは賜であって、自己の力がなすのではない。
人の心は自分の欲するものの観念を描く、
すると聖なる力がそこに顕現し、描かれた事物を創造してくれるのである。
この場合人は決して本源ではない。
宇宙の力を通す管(くだ)である。
光ではない、窓である。
電流ではない、線である。
それゆえ、實相哲学の聖癒力は ― 人は神の子であり、
既に完全であるのだが、その肉体及びその運命は
心に描かれた通りに顕れるのだ ― と云う法則から描き出される。
心は神の子なる「人間」の像(すがた)を描くとき
運命をきずきあげ、
反対に罪の子なる「人間」を像を描くとき自己の運命を打摧く。
しかし現象世界を創造(つく)り出す力は
想念(コトバ)によってその行く道を定められる。
イエスは最大なる哲学者であったと言うべきである。
何故なら彼は権威ある言葉(コトバ)を人の心に実に積極的に与え得た
― 彼が「起きよ、しかして寝床をあげよ」と言えば、
全身不随の病者がたちまちその命(めい)に従った。
彼は神の子なる人間の完全なる實相(ほんとうのすがた)のみを見て、
それを心に描いたのである。
そして、十余年間不随の病人の像を心に描かなかったから
この奇蹟を生じたのである。
イエスは決して彼だけに許された法則を使用したのではない。
彼はあきらかに何人にも許されている法則を使用したのである。
またイエスの人間としての構成や本質が異(ちが)っていた訳ではない。
それ故にこそ吾々の団体においては現に幾多の人々が
この力を実証しつつあるのである。
誠にも吾らの光明思想は現下人類の注目を惹(ひ)きつつある
人類最大の業績であって、それは単に病気の治癒のみではない。
必要に応じて無くてならぬものを得るための知識の進歩と言うべきである。
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e032def6ddc9d85e453a62c4d3c46f71
VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-07)
<感謝合掌 令和5年6月15日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その21)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/16 (Fri) 14:44:33
ラジオ放送『幸福への出発』(その21)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_021.mp3
<感謝合掌 令和5年6月16日 頓首再拝>
光明(こうみょう)の霊波(れいは)には不幸は決して近付(ちかづ)けない - 伝統
2023/06/17 (Sat) 04:47:50
*『生命の實相』光明篇 より
暗(やみ)は決して光明に打突(ぶっつ)かれるものではない。
だから不幸になりたくない人は
光明の霊波を自分から出すようにするが好(よ)い。
そうすると、暗黒な運命は波長が合わないから自分の方へやって来ない。
もしやって来るなれば、
自分に近づいて来たときには既に光明の姿に化(か)して
近づいて来るのですから世話はないのであります。
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ebdd52749911a955999a07efce56b736
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-09)
<感謝合掌 令和5年6月16日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その22)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/17 (Sat) 13:03:43
ラジオ放送『幸福への出発』(その22)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>
他が悪い時、善い人が毒を飲むな~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/18 (Sun) 04:55:14
*『人生讀本』より
「そんなことを言っても、あいつが悪いから腹が立ってしかたがない」
と言う人があります。
あいつが悪いのなら、その悪いやつが自分で腹立てて、
自分の身体の血の中に毒をこしらえていればよいのです。
それだのに、悪くない者が腹を立てて、
毒を自分の血の中にこしらえるのは間違っています。
ですから、これから自分が善いと思ったら、
自分の血の中に毒をこしらえないことです。
腹を立てないようにすることです。
そして自分が悪いと思ったときこそ、うんと自分自身に腹を立てて、
自分の血の中に毒をつくってやることです。
それを逆さまに、普通の人は「他人が悪い、自分が善い」と
思っているときに腹をたてて、
自分の血の中に毒を飲ましているのですから、間違っています。
これからはそんなばかなことはいたしますまい。
これからは決して腹を立てたりいたしますまい。
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晴れときどき(2014 年 1 月 13 日)
<感謝合掌 令和5年6月17日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その23)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/18 (Sun) 16:28:16
ラジオ放送『幸福への出発』(その23)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月18日 頓首再拝>
大信心は神想観より来たる~吉田 國太郎 - 伝統
2023/06/19 (Mon) 04:50:29
『已成の佛 今此處に生く』
大信心は仏性也とは、大信心は仏性より起るものである、と云うことである。
大信心を成就するものは、仏性自らである、と云うことである。
それは自然法爾に相即相入する自他一体の全機に成るものである。
大信心とは、申すまでもなく、絶対の信心である。
火にも焼けず、水にも溺れない信心である。
金剛不壊の信心である。
清浄汚穢に掟されない信心である。
それ故に、現象の状態によって仮縛されない信心である。
仮縛されないとは、妨げられないと云うことであり、
同時に又、支えられないと云うことであり、
現象は、其の儘本来無なる信心である。
老幼男女を問わず、民族の種別を問わず、現象状態の如何にかかわらず、
人々各自の今此処にあって久遠常在永遠不滅に末通りたる信心である。
此の信心は求むるに先立って与えられている信心である。
此の信心よりの信心を、己の信心として生くるのが、神の子の信心である。
絶対性に裏付けされないものは、有るかの如く見えても本来無いものであり、
それは、空無陰影の仮存在に過ぎない。
信念も亦、大信心よりの信念でないならば、
それは、本当には無い信念である。
信念の如く仮相した本来無い心の影である。
観念の念(こころ)である。
大信心は仏性より来たるのである。
本来性より来たるのである。
神の子の其の儘に宿り、神の子が神を拝して誕生するのである。
神の子が神の生命を、其の儘の一体不二に礼拝祈念するのが、神想観である。
大信心は、神想観より来たるのである。
初発心の信心である。
神の子の目覚めである。
肉体人間が、迷いの心が、信ずべきものを先ず信じ、
其の信の力によって、神の生命にいだかれるのであると考え、
或いは又、其の信の力によって、救われた状態を此処に実現するのである
と考えるのは、其の考え方自身が既に迷いである。
迷いの心より発心したのでは、其の信念も迷いの信念であり、
信念の如く見える迷いの心の思い煩いである。
先ず信ぜよ、と云う其の信心は、
迷いの心が救われる為に信心するのではなく、
既に救われている神の子が信心して、自己を現成するのである。
迷った心に神を信ずる力は無いのであり、
先ず信ぜよの先ずは、肉体の心を超えて、初発心である。
初発心とは、ハジメなきハジメ、本当のハジメの発心である。
此のハジメは、「太初に言あり、言は神と偕にあり」 (ヨハネ伝)
のハジメである。
此の太初の発心が、即ち、大信心の音声(おんじょう)である。
此の心が発心して、時空の形式に発展されては、一番先に、何を置いても
先ず先に、と現れ出でて初めて其処に生命が生きるのである。
太初とは実相であり本来性であり、
此の生命が生きなければ、信念の力をたて、
時に、現象がととのっても、現象流転の生活である。
知らないことを信念とすることは出来無いのである。
実相を知らない心が、実相を信念とすることは出来無いのである。
そして又、内に無いものを知ることは出来無いのである。
内にある其の心が自分で出て来て信ずるものでなければ、
其の信念は影法師である。
神の生命を信ずれば、汝の信ずる如くなって、
今此処に、神の生命が生きるのであるが、
神の子でなければ、神の生命を信ずることは出来無いのである。
夢を描け、と云うことは、御教に説かれている大切なことではあるが、
若しも、本来無い心で描いていたならば、生命は顕現しない。
本来無い心には、本当の力が無いからである。
本当に有る心が描いた夢が、生命がこもり、信念となり、
現実に実現するのである。
夢に描くと云うことと、夢想の状態は違うのである。
信念がなければ、夢に描いても、根も葉もない夢想の状態である。
信念が強いとは肉体人間の相対観念が強く思うと云うことではない、
信念とは実相より来る今の心のことであり、
大信心の今の心が、大信心の音声が、信念なのである。
大信心は仏性であり、神の子の心よりの発心が信念なのである。
此の信念でなければ生命が無いから、現象に相が現れても、
本当の絶対の生きがいは無い。
実相の生活ではなく現象流転の生活である。
実相を観ずる至極の今に端坐し、
其処より発心して来るのが、人間神の子の心である。
十界互具の全大宇宙の救いを、今の極微の一念、一念も無い
至極の今に成就するのが、生長の家の救いである。
大乗無礙至心廻向の光明であり、不来にして来る一念の発心である。
神想観の至心至極の端坐である。 神想観に夢を描き、夢を描いて、
今を生かし、今を生かして、神想観に住し、此の至心の今の円融道環に
感謝合掌礼拝の日々が人間神の子の生活である。
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/64f67965f392aa52274f301f226b095d
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<感謝合掌 令和5年6月18日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その24)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/19 (Mon) 12:48:08
ラジオ放送『幸福への出発』(その24)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_024.mp3
<感謝合掌 令和5年6月19日 頓首再拝>
無限のアイディアを得る神想観メディテーション (1)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/20 (Tue) 04:53:04
*『 精神科学 』昭和56年2月号より
お早うございます。
今回もテキスト『人生の秘訣365章』のつづきです。
九十六頁をお開き下さい。
「“希望”はこれを妨げない限り法則が成就する』と、
こう書いてありますが、ここから始めます。
希望は人為的に妨げぬ限り実現する
ここに“希望する”っていうことが書かれてありますが、
希望するということはどういうことか、
どうして“希望”っていうものが出てくるのかというと、
それは、希望は成就するという前提が、
われわれの潜在意識すなわち奥底の心の中にあるからであります。
希望するものは必ず実現するという前提があって、
それを潜在意識が知っているからなのであります。
ですから、“自分が希望するものは神がそれを希望し給うのである”という、
そういう深い信念をまず持つことが必要なんであります。
それには“必ずこの希望は成就するのである、間違いないのである!”という、
その確信を深めるために、希望する事柄を紙に書いて貼りつけるといいですねえ。
そして、それを毎日見て「すでに実現しました。有難うございます」と
感謝することが必要なわけなんです。
そうしておけば、現象をあらわすところの“現象顕現の法則”が働いて
自然に周囲がそういうように動き出すわけです。
周囲ばかりじゃなく、自分の行動も動き出すのです。
そういう状態になった時に、その動き出すってことを妨げたら駄目なんです。
また「祈れば、それは必ず成就するんだ」と言っても、
ただ祈るだけで何もしないで動き出さないでいたらいけないのです。
動き出すと言っても、これは自然に内部から催して来る動きなのです、
自分の内部から・・・・・・。
例えば、このまえお話したと思いますが、
「神様!どういう問題が出ますか教えて下さい」と祈って
百科辞典をパッと開いたら“文化”という文字が出てきた
という話がありましたねぇ。
それを“そんなこと馬鹿らしい”“百科辞典開くなんて面倒臭い”とか
“そんなことは迷信だ”と考えて、そういうことを自然としたくなって
催して来ても、それをやめちゃったら、出てこなくなるのです。
だから、祈った後は、自然に動き出すことを行動化して実行する、
ということが
ー 希望を実現するための方法である、というわけなんであります。
次回に続く・・・
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/479bdd4183b1444eb1994a12b5b5390d
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-12)
<感謝合掌 令和5年6月19日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その25)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/20 (Tue) 13:07:58
ラジオ放送『幸福への出発』(その25)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月20日 頓首再拝>
実相の善き言葉で、人類の言葉を浄める~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/21 (Wed) 04:37:16
*『生命の實相』教育実践篇上 より
ヨハネが福音書を書いた時分には
「言葉は神なりき」であって、もうすでに言葉は神ではなかった。
それはどういう意味であるかといいますと、
言葉は、實相の言葉 と 嘘の言葉(つまり迷いの言葉) との
二種類があるのであります。
「言葉は神である」というのは、實相の言葉、
すなわち善き言葉が神であって、善き言葉を使う時、
この善き言葉の力によって創造られるものは
すべて善きものであるということであります。
それが反対に、本来の善き言葉が汚され歪められて、
われわれが神の言葉、實相の言葉を使わなくなり、
悪しき言葉を使う時、その言葉の力によってこの世は乱れ、
汚れ、天災地変、その他家庭争議などと、災い多き、悪しき現象
となって現れてくるのであります。
この時、もう「言葉は神なり」ではなく、
「言葉は悪魔」なりになっているのであります。
それで生長の家の人類光明化運動とは、
人類の言葉を浄(きよ)めて、ほんとうに神の言葉にする
ということであって、人々の言葉を、本来の神より発する言葉、
実相より発し実相を讃える言葉にしてしまおうというのが目的で、
これこそわれらの人類光明化運動の究極の目的なのであります。
本来われわれは神の子であり、その実相は神であります。
この実相より発する言葉は必ず善ならざるを得ないのであります。
すべての人みな神の子でありますから、
すべてこれ善人なるべきはずであります。
ところがこの世の中には必ずしもことごとく
善人の姿をした人間ばかりはいない。
またそのことごとくが神の子らしい幸福さを備えていないというのは、
とりもなおさず実相から出た言葉がこの世界を形造っていないからであります。
実相ならざる言葉、罪とか、病とか、死とか、
本来ないものを、あるかのごとく装っている言葉が
この世の中を占領しているからであります。
そこでわれわれの使う言葉を実相の言葉
―― 神より出でた浄(きよ)まった本来の善き言葉のみに還元したならば、
実相の言葉によって、すべてのものが実相の姿をこの世の中に現わしてきて
たちどころに地上に天国浄土が湧出するというわけであります。
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p20.html
晴れときどき(2014 年 1 月 15 日)
<感謝合掌 令和5年6月20日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その26)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/21 (Wed) 14:36:50
ラジオ放送『幸福への出発』(その26)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_026.mp3
<感謝合掌 令和5年6月21日 頓首再拝>
一葉の宣伝紙が私の運命を変貌せしめた~清都 理門 - 伝統
2023/06/22 (Thu) 04:53:18
それは深き神の摂理と申しましょうか、
私がこれこそ人生の目的であり、ここにこそ人生の意義がある
と考えていた生活の目標が、途中から全然思いもかけぬ方向へ
置き換えられることになったのであります。
それは私の功利的な立身出世の夢の中に、
いつしかこれを拒否せんとする宗教的な憧憬が芽生えて来た
ことによるものでありまして、私の外からともなく、内からともなく、
何か執拗に私に向って囁きつづけるところの或る何者かの声に
知らず知らずひかれて行くようになったのであります。
当時、吾々の青年時代の宗教はどうであったかと申しますと、
私も仏教王国と称せられる北陸の地に生れ、
而も家が代々熱心な門徒宗であった関係で、
幼少の時から毎日仏前に合掌し、礼拝する習慣を身につけていた者
でありますが、
当時の仏教は、あたかも個々の家に於ける紋所と言ったような、
夫々に宗派的な行事信仰でありまして、
家人の代々踏襲している宗教的な行事を切離して見ますと、
後に残るものは単に老人が後生の安楽を願うための、
気休め的な手すさびに過ぎないもののように考えられていた
ものであります。
また当時の職業宗教家の説くところも、吾々に向って、
常に人間は罪人であるとか、或は、罪悪深重の凡夫であるとか申しまして、
兎に角現在のお前は悪いのだ、而もお前は前世からして、
既に数々の罪業を背負って生れて来ている身だ、
その悪い罪深いお前が釈迦によって、或は、キリストによって
救済されるのだ、と言ったような具合に、ただ徒に人間罪の子を
強調することでありました。
そしてそれ故にこそ、彼らが過去数千年にわたって
彼らの釈迦、キリストを説きながら、
而も結局は人間を現実に救済することができずに、
単に死後の救いを約束することによって、
お茶を濁すに止まっていたのでありましょう。
今にして思えば斯くの如く、徒に人間罪の子の教義を強調して、
人類に罪悪感、劣等感を強化せしめることは、
寧ろ暗黒思想と申すべきでありまして、「お前は悪い」と
云うことを強調された人類は、これによって益々己が罪の意識を
深め益々恐怖と不安に駆り立てられる結果となるに過ぎないのであります。
それ故にこそ、会って釈迦を、キリストをして、
天地の真理を説かせ給うた、み祖神の教えが、
結局は個人の救いともならず、社会の救済ともならず、
人類は今や、2次にわたる世界大戦の惨禍を蒙りながらも、
尚且つ2大陣営の対立を続けて、
第3次世界大戦もまた避け難しとばかりに、
やがて恐るべき水爆や原爆の跳梁下に、
吾々人類の運命を委ねんとしているのであります。
◇ 大本教入信
併し青年の頃の私でありましたから、勿論未だ光明思想に触れる
に至らず、従って当時の宗教のあり方に斯かる暗黒思想を
発見する程の眼は開かれていなかったわけであります。
それは大正6年の頃のことでありました。 私は或る日、
ふとした機会から、霊媒をやると云う日蓮宗の行者と知り合いになりました。
その行者は、当時既に相当の高齢にある、白髪の老婆でありました。
その頃のことでありますから、私も霊媒現象と云うものについては、
殆ど何らの予備知識をも持合せていなかったのでありますが、
その老婆が既に故人となった人の死霊を呼び出して、
その霊を己が身に乗り移らせ、自ら故人の言動をそのままに演じて、
故人の意思を表示して見せるとの噂さに、少なからず興味を覚えました。
それで私も試みに、その行者にたのんで、最近故人になったばかりの
私の知人の霊魂を呼んで貰うことになりました。
その時の老婆の憑依現象と云うものが私にとって、
実に驚くべきものでありました。
霊媒の身は白髪の老女でありながら、その発する言語は
全く招霊された故人の音声そのままであり、
その動作にも、故人の習癖と全くそのままの姿が歴然と
復元されているではありませんか。
而も私が故人の酒好きであったことから思いついて、
試みに盃を献じてみましたところ、
日頃一滴の酒もたしまないことで評判の彼女が、
故人そのままの手振りでうまそうに盃を重ねまして、
一合ばかりの酒をかたむけました。
而もそれでいて些かの酔った気配もなく、
また酒くさい匂いを発するでもありません。
私はこの老婆に、故人の声を聞き、故人の動作を見、
そして自ら故人と意思を通じ合った時、
人間に死後の霊界の生活のあることを如実に知って、
人間の生命はいずこより来り、いずへ去るか?
現象界に於ける人生の真の意義、真の目的は果して何であろう?
と云う宗教上の疑問に到達せざるを得なかったのであります。
丁度その頃でありました。 私のところへ、誰からともなく、
『綾部新聞』 と云う大本教の宣伝新聞が郵送されて参りました。
それは明治25年丹後に出現した大本教が、
教主出口王仁三郎以下有為の幹部による陣容を整備し、
いよいよ全国的に布教宣伝を開始した時代でありまして
、近くこの地上に神意による一大変異が起り、
この世の建替え建直しが行われるぞよ、との預言を真向に振りかざし、
特異性ある宗教として世人の注目を浴びていた頃のことであります。
そして、私のところへ送られて来た、発信人不明の
『綾部新聞』と云うのが、その頃の大本教の宣伝紙であった
わけであります。
その新聞の発信者は只何心なく、単なる宣伝として
私にこれを送ってきたのかも知れません。
併し結果に於いては、その軽い意味で送られた一葉の新聞紙が、
私の魂を根底から揺り動かして、私の生活方向を一変せしめ、
私の爾後の運命をさえ、決定づけることになったのであります。
その新聞には、大本教の教祖である出口直と云う老婆で
はじめて艮の金神、國常立尊が神懸りして来られた時の、
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたるぞ」に始まる、
あの有名なお筆先なるものによって、
人類社会の改変の必然性が預言され、人智、即ち唯物思想によって
構成された国家社会形態は崩壊し、神智、即ち唯神思想によって
形成される神の国が現成されるであろうことが宣言せられ、
人間が今のうちに心を入れ替えて、
直ちにこの世界建替え、建直しの神業に参加協力するに非ずんば、
ここ数年ならずして地上に大戦争が勃発し、その戦禍によって
人類は現在の人口の3分の1に減ってしまうぞよ、
と云う恐るべき警告が発せられていたのであります。
それは私にとって正に大いなる警鐘の乱打でありました。
そして私は、この神業参加を要請する宣伝の内容を、
文字通りに天来の声として聞きとったのであります。
私は直ちに、取るものも取りあえぬ気持ちで、
大本教へ馳せ参じたのであります。
さて、私が馳せ参じた大本教の実態はどうであったか?
またその後の大本教に如何なる変遷があったか?
と云うことにつきましては、丁度私と時同じうして、
やはり大本教入りを遊ばれた、 谷口尊師が
『生命の實相』 第10巻 に於いて詳しくお述べになっている
通りでありますが、
只違うところは、尊師が社会人類の救済と言ったような
大いなる理想のもとに、または神なるものを肯定する為の
深刻なる苦悩を抱いて大本教に入られたのに対し
、私の方は、折角私のうちに芽生えかけた宗教的な興味が、
いきなり人類社会崩壊の預言によって叩きのめされたことの恐怖と、
また若き日に描いた立身出世の夢を、神國経綸の参画によって
成就せしめんとする稚気の、相半ばする気持ちで、
急いで綾部にはせ参じたと云うのでありまして、
誠にお恥ずかしい動機によったのであります。
併しそれでも私は大本教に入って、当時の教主
出口王仁三郎氏をはじめ、浅野和三郎氏、今井梅軒氏と
言ったような幹部の人々と数年間の交渉をもったおかげで、
いろいろ不思議な現象に際会しましておぼろ気ながら、
神界とか霊界とかの消息の一端を知らせていただくことができた
のであります。
◇ 生長の家の青年に与う
皆さん、ここに御注意願いたいことは、
この私を大本教へ呼び寄せたものが 『綾部新聞』 と云う
一葉の宣伝紙であり、而もそれは発信者不明のまま郵送を
受けたものでありましたから、
その発信者が私自身に対してどれ程の愛念をこめ、
また私のその後の運命に何程の関心を持って、
これを送ってくれたのかは、もとより知る由もないことでありますが、
而も私がこれに心ひかれて急遽綾部へはせ参じたと云う点であります。
この単なる一葉の宣伝紙が、私の生活と運命を根底から変貌せしめ、
私をして、人生の意義、目的なるものを、これまでと全然違った方向に
置き換えさせたのであります。
『綾部新聞』 をもってしてさえ、かくの如しであります。
皆さんが、生長の家の大神の御神示のまにまに、
この偉大なる生長の家のみ教えを、一人でも多くの世の人に
伝え広めんとの菩薩行に挺身なさるにあたり、
皆さんの知人或は未知人の方々に贈られる1冊の機関誌、
一葉の聖使命紙、または 『危機に立つ日本』等の救国叢書が、
人・時・処の3相応を得て、その人の手に渡ったとき、
而もこれに皆さんの深い愛念がこめられてあったとき、
必ずや皆さんの愛行がその人の生活に変貌を来たさしめずには置かないであろう、
と云うことを、私はこの体験によって確信いたすものであります。
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/72a1cd337b57b0dac81286dbd09b8fd9
VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-09)
<感謝合掌 令和5年6月21日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その27)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/22 (Thu) 13:10:44
ラジオ放送『幸福への出発』(その27)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_027.mp3
<感謝合掌 令和5年6月22日 頓首再拝>
神想観は坐禅観法(1)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/23 (Fri) 04:50:18
*『精神科学』誌(昭和三十年八月号)より
吾々の団体では神想観と云う精神統一法を実修していますが、
これは一種の坐禅観法であって、各自が
「神の生命吾に流れ入りてわが生命遍(あまね)く法界(ほっかい)に満つ」
底の念を持(じ)して精神統一に入るのであって、
誰も互いに相手に術を施(ほどこ)すのではありません。
それは「唯倶に打座して心身脱落し、三昧(さんまい)に入り、
遍法界尽虚空ことごとくさとりとならしめる」
道元禅師の「正法眼蔵」にある底の坐禅観法であります。
無論「心」は波動であるが故に、古来、坐禅に於いても、
先輩悟入せる師について倶(とも)に座するときは心の波動的影響により、
言詮不及(ごんせんふきゅう)、不立文字(ふりゅうもんじ)の悟りを
直指単伝(じきしたんでん)することが出来易(できやす)いので、
先輩と倶に一室に端坐してその雰囲気的指導も受ける事が行われたので、
神想観の指導も、それと同じ意味に於いて何十人でも何百人でも
一堂に座し、
特定の修行室に入り得ざるときは、宇宙を一つの堂と観じ、
同時刻に坐して、相互修養の同志又は先輩と共に一同に参ずる思いをなし、
「神の生命吾れに流れ入りて、吾が生命遍法界に満つ」底の観念を為して
共に倶に精神統一に入ることは悟を進める上に偉大なる効果がある
のであります。
次回に続く
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2448f6ac44ec473445f25971d099f7f6
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-13)
<感謝合掌 令和5年6月22日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その28)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/23 (Fri) 15:07:49
ラジオ放送『幸福への出発』(その28)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_028.mp3
<感謝合掌 令和5年6月23日 頓首再拝>
花びらの降るような褒め言葉~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/24 (Sat) 04:54:16
*「人生読本」より
人の悪口(あっこう)を言う暇があれば、良き言葉を発すると、
自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。
善き言葉は空から花びらが降るような、
音楽が聞えてくるような美しい感じがしますが、
悪しき言葉は雷のように吾々の心を真黒にするのであります。
空から花びらが降るように讃嘆(ほめたたえる)語(ことば)をもって
雨降らすのが生長の家の生き方であります。
この世の中を住みよくするのも住み難(にく)くするのも、
皆さん自身の言葉一つできまります。
必ずしも金があるから、
それで人間は幸福(しあわせ)だというものではない。
金が幾らあっても、その家の中が針の筵(むしろ)のように
苦しい世界であって、奥様がヒステリーになったり、
子どもが疳虫(かんむし)になったりしていてはなんにもなりません。
それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、
いつも善き言葉を雨降らそうではありませんか。
皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、
どんな狭い裏長屋におりましても、
そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。
たいてい会社や、工場商店などの勤め先へ行っても
やはり能率がはっきり上がらないで、
そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。
その結果、昇給もしないという事になります。
事業の発達しないのも、元はと言うと、皆家庭が悪いのであります。
家庭の中で讃(ほ)め合わず、暗い心持で、責め合っている時には、
事業は失敗し、工場や鉱山では故障が起こり、
子供の健康も成績も悪くなります。
何事も家が元になるのでありまして、
生長の家へ来れば病気が治るという事も、
要するに人間の身体の病気を治すのではなく、
心の持ち方をかえさせて家の病気を治すのであります。
家の病気を治すと言っても家に何かあるのではない、
それは家の家族の互いの調和という事ができていないことです。
家族と家族とが調和していなければ、喧嘩しながら
互いに争って熱心に 『生命の實相』 を読んでも、
病気も治らないことがあり、成績がよくならない場合が多いのです。
だから何よりもます家族同士仲よくして互いに褒め合う生活をして
『生命の實相』 を読む事であります。
褒める言葉ぐらい結構な言葉はないのであります。
ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。
というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、
目前(めのまえ)の姿に執われて、
人間の実相(ほんとうのすがた)を見失ってしまって、
人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土である
ということを忘れてしまって、ちょっと何か外に現れた失敗があると、
それに執われてしまって、1分間あった失敗を1時間ぐらい怒鳴りつける。
その上、そのことをいつまでも心に持続けるというような事を
しているような人たちの集まっている家庭は、
いつも面白くないのであります。
そして「自家(うち)の親爺は一日中叱言(こごと)ばかり言ってる」
と言う奥さんもありますけれど、必ずしもそうではないので、
本当はその御主人が偶(たま)に10分間ぐらい怒鳴った事を、
一日中叱言言うと誇張して奥さんが考えている場合が多いのです。
それは、心の中にその叱言を常に持続けているから、
10分間位ちょっと叱言を言った事が一日中言った様に思えるのです。
どんな悪い主人でも、どんな疳癪持ちのお父さんでも、
一日中叱言をいう主人はいないのであります。
ときたま叱言がある場合でも、
それは一日のうちの何分の一に過ぎない叱言であります。
ところが「自家(うち)のおやじは一日中叱言(こごと)言う」とか
「1年中叱言を言っている」とか考えているのは、
そう考える奥様や子供の心の中に「叱言」がいつまでも忘れられずに
貯えられているからです。
そういう場合にはどうもその家庭は面白くないから、
良人の方でもあんな家内に話しかけても面白くないと思って
奥様の部屋に行かないで、夫婦一つ屋根の下で同棲していながら、
黙って10日も20日も物も言わずに暮らしているような状態になる
事もあります。
そんな状態はなぜ起るかと申しますと、
それは「悪いこと」をいつまでも心に持っているからであります。
「悪い事」をするのは悪いには相違ありませんが、
「悪いこと」を心に持っているのは尚(なお)いけないのです。
なぜなら悪いことを実行するだけなら、
やってしまったあとはもう無いのですけれども、
心の中に持っている時は、その悪いことを何時(いつ)までも
何時までも持っているからであります。
悪い事はなんでも忘れる事が、生長の家の生き方でありまして、
たまには腹が立ってもよろしい。
しかし5分間もしたらその腹立ちが心の中ですっかり
帳消しになって忘れてしまうようでないといけません。
それを生長の家では自壊作用と申しまして、
業が解消する作用の一つとして叱言が出たり夫婦喧嘩をしたり、
時には攫(つか)み合いをするという事がありましても、
それは決して悪い事ではないのでありまして、
過去に溜まっておった自分の念(おもい)
――― その念(おもい)の鬱積(うっせき)というものが
形になったのであって、形に現れた時、内部の心のもつれは消える時
なのであります。
たまたま主人ががんがん言っても、
「これはありがたい、これで二人の間の蟠(わだかまり)が
今夕立のようにあらわれて明日は晴れるのだ、
これで二人の中が晴天になるのだ」と思うと本当に晴天になって、
よけい仲が良くなる事になります。
会社、工場で上役や同僚(なかま)の者とイザコザが起こるのも同じこと、
業が消えてなお一層よくなる。
「これはありがたい! 」と感謝の心で受ければ、
その後は一層よくなるのです。
そういうふうに致しますと、私達の生活が本当に生長の家となり、
栄える家の生活になるのであります。
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p20.html
晴れときどき(2014 年 1 月 17 日)
<感謝合掌 令和5年6月23日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その29)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/24 (Sat) 13:11:23
ラジオ放送『幸福への出発』(その29)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_029.mp3
<感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>
御陵参拝~山口 悌治 - 伝統
2023/06/25 (Sun) 04:21:47
奈良の古い寺々を巡り歩いて、
古塔や金堂のこの世ならぬ美しさに魂を奪われたり、
「永遠なるもの」をまざまざとこの肉の眼に見得る思いに、
凝然と古仏の前に立ちつくして時の流れを忘れたり、
そういうことはしばしばであるが、
それらにまさるとも劣らぬ感動を、
私は成務天皇(第13代)の御陵で味った。
それは全く予期しない、
天から降って来たような不意打ちの感動であった。
暮もおしつまった12月21日、
私は秋篠寺の伎藝天の前に額づいた帰り路、
かねてからの念願であった奈良北郊の佐紀丘陵の古墳群、
神功皇后陵、成務天皇陵、日葉酢姫皇后陵(第11代垂仁天皇皇后)、
磐姫皇后陵(第16代仁徳天皇皇后)等への参拝を果そうと思い、
秋篠川を渡ると、平城宮跡を右前方に眺めながら、道を北へ向った。
12月とはいっても、風もなく暖かな日和で、
大和国原は‘あいたい’と霞んでいた。
地図をたよりに、途中孝謙天皇(聖武天皇皇女、母は光明皇后)の
御陵の参拝をすますと、そのまま真直ぐに北上して山陵のを通り抜け、
奈良電鉄の軌道をこえると左手には秋篠川をはさんで
開けた田圃を隔てて秋篠のが望まれ、右側はこんもり繁った小山。
その小山に添った道を暫く行くと、神功皇后陵への登り口があった。
ゆるいだらだら坂を右へ辿ると、南面して御陵があった。
どこの御陵でもそうであるが、お参りする人の影は全くない。
ただ森閑と神鎮まり給うて在しますばかりである。
美しい。
どうしてこうも美しいのであろうか ― と
気を遠くなるばかりの美しさである。
これまでに私が参拝した御陵は、飛鳥奈良周辺の、
年代的には奈良朝以前の20ヶ所あまりの御陵にすぎないが、
明らかに御墓の感じの強い聖徳太子の御陵を除いては、
いずれもみな溜息が出るほどの静かな美しさを湛えていた。
選ばれた地形の美しさもあるかも知れないが、
地形だけの美しさならば、他にいくらでも
明媚を誇る景勝の地があるであろう。
併し大自然の景勝の地は、明媚なる風光の美しさにとどまるが、
御陵には、年輪に年輪を重ねて来た精神の香気のようなものが
地形の美しさを一層深いものにしているのである。
人間にたとえて言えば、その道の蘊奥を極めて高年に達した
一流の達人が、日常、それとなく湛えている人柄の深さの美
― とでも言ったら、凡その想像がつくであろうか。
いずれにしても、応神天皇の壮大な御陵に比すれば、
母君である神功皇后の御陵は、
その2分の1にもみたないつつましさであった。
後円部の盛り上がりもさして高くはなく、
濠をめぐらした様子もみえず、
ひっそりと冬の日をあびたたたずまいからは、
男装して新羅の国を征せられた剛気な皇后の姿は浮んで来ない。
寧ろ、仲哀天皇崩御後の社稷を、ひたすら神を祭り神に祈り、
神に導かれて護持せられ給うた篤信の御心映えが、
ほうふつと浮ぶのであった。
殊に、内玉垣を鍵型にかこむ、白い玉砂利の箒目の跡も
すがすがしい前庭の左側に、一列に並んだ大小6基の灯篭が
かもし出している雰囲気は、この皇后の篤信を象徴するかと
偲ばれてまことに印象深かった。
御軍をいよいよ新羅に進められるに際して、
群臣に賜った御言葉が、自然に思い合わされて来るのであった。
『それ師を興し衆を動かすは、国の大事なり。
安さも危さも成るも敗るるもかならずここにあり。
今征伐つ所あり、事を群臣に付く。
もし事成らずば、罪群臣にあらむ。
こは甚く傷まし。
吾れ婦女にして不肖し。
然はあれども、暫く男の貌を仮りて強ちに雄しき略を起しつ。
上は神祇の霊を蒙ふり、下は群臣の助けを籍りて、兵甲を振ひ、
嶮しき浪を度り、艫船を整えて財の土を求めむに、
もし事成らば、群臣共に功あり。
事就らずば、吾れ独罪あらむ。
既にこの意あり、それ共に議らへ』 と宣り給ひき。 (「日本書紀」)
「 ―― もし事成らば、群臣共に功あり。
事就らずば、吾れ独罪あらむ」
皇后もまた一切を自己の責任とする日嗣の皇子の道を、
身をもってきびしく歩まれたのである。
―― 私はお別れを告げた。
もと来た道を引き返して、山陵ので左へ曲がり、
暫く行って右手の坂を丘陵深くのぼって行くと、
右手にそれとわかる御陵の境界が見えて来た。
後からわかったことであるが、
私は背面の方から陵域に入ったのであった。
右手が成務天皇、左手が日葉酢姫皇后陵。
その中央の参道を私は逆に進んで行った。
真直ぐにとおったこの中央参道は、幅1間半位であったろうか。
1町あまりもあるこの参道の両袖は、高さ1尺あまり、幅2尺あまりの、
芝を植え込んだ低い土手で、芝は12月の事とて刈り込まれたままに
す枯れていたが、ところどころに姿のよい松の古木が、
風趣のある枝振りを見せ、手入れのよく行き届いたすがすがしさに、
「ああ、来てよかった ― 」 と、なにやら瑞々しいものが
体内にしみて来るのを覚えた。
注意を右にくばり左にくばりながら進むうちに、
不意に、名状し難い感動に襲われ思わず
私は息をのんで立ちつくしてしまった。
〔2〕 へ続きます。
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/6d99806060a3381b083dc9f87c632356
VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-11)
<感謝合掌 令和5年6月24日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その30)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/25 (Sun) 13:11:53
ラジオ放送『幸福への出発』(その30)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月25日 頓首再拝>
神想観についての心得書き(1)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/26 (Mon) 04:38:35
*『光の泉』昭和三十五年十二月号より
セオソフィー(霊智学「れいちがく」と訳す)と云(い)う
ブラバッキー夫人と云うヒマラヤに住んでおった
非常に霊能のある人が始めた宗教があります。
それとの医学的の関係を書いた本を私が最近(昭和三十四年)
『靈智醫学(れいちいがく)と治病』と云う翻訳書で出しましたけれども、
あのセオソフィーの一派の教祖さんでアメリカに居りました
アリス・A・ベーリー夫人と云うのがあります。
この人は一昨年死にましたけれども、この人は大変霊能の高い人でした。
それがこの“精神集中のために、必要なる練習の仕方としてあげた所の方法”は、
これが神想観の時にも非常に参考になるので、紹介いたします。
神想観の時にも斯(こ)う云うような気持で
おやりになるが良いと思うのであります。
それで次に引用したわけであります。
(一)肉体を安らかにどこにも凝(こ)りのないように統制する
「凝りがない」と云うことは、「だらしない」と云うことではありません。
生長の家では、一番正しい坐り方にあることが、
どこにも凝りのない姿勢であるとして、尻を後方に引き、
前方にある膝(ひざ)と尻とで背骨を載せる三角の台たらしめ、
其(そ)の上にちゃんと柱である背骨が立って、
重心が一定の処(ところ)へ落ち着いて一番楽で長時間疲れない姿勢
と云うのが、あの生長の家の神想観の正しい姿勢であります。
次回に続く・・・
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a57a97f50834ecdf2c7098c2bca67f21
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-13)
<感謝合掌 令和5年6月25日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その31)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/26 (Mon) 13:19:48
ラジオ放送『幸福への出発』(その31)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
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<感謝合掌 令和5年6月26日 頓首再拝>
如何に言葉を駆使すべきか~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/27 (Tue) 04:56:21
*『人生は心で支配せよ』より
吾等の言葉は、創造の原動力を有する。
そしてそれは吾らの境遇、吾らの世界、吾らの肉体の上に作用して
これらを善にも悪にも変改し得るのである。
されば、吾等は発する言葉を如何程選択しても選択しすぎる
と云うことはないのである。
宇宙は、感覚鋭き耳である。
吾等はこの鋭き耳に対して、
いやしくも人を傷つける言葉を聞かしてはならい。、
卑陋の思想を人に印象する如き言葉を聞かしてはならない。
そして人を引落す如き言葉を聴かしてはならない。
然るに、自己の家庭を呪い、職業を呪い、境遇を呪い、
自己自身を呪う如き徒(いたずら)なる言葉を発する人々が
如何にこの世に多くあることだろう。
悲観的思想を発表することは
これに相応する雰囲気を醸し出すことである。
それはやがて自己の恐るる事物を
吾等の周囲に作り出さずにはいないのである。
冷酷なる言葉を発することを休(や)めよ。
冷酷なる言葉はその人に冷酷なる境遇をつくるからである。
人を審判(さば)くことを休(や)めよ。
その審判(さばき)の言葉は不快な境遇を
造らずにはいないのである。
聖書には
「人の口より発する徒らなる言葉は、
すべて審判(さばき)の日に数え上げるべし」 と
云うように書いてある。
審判(さばき)の日と云うのは未来ではなく、常に各人の今である。
低劣なる霊魂(ひとびと)が常に自他の運命を破壊する言葉を
発しているに反して、
尊き霊魂(ひとびと)は常に自他の運命を建設する言葉
―― 愉快なる言葉、善意の言葉、自他を勇気付ける言葉を
発しているのである。
かかる人々は人類に対する祝福の与え手である。
しかもかかる祝福の与え手になることは
誰でも欲しさえすれば出来ることなのである。
彼は人類を祝福する。
その代りに全人類は彼を祝福されたる者と仰ぐのである。
かように他を押し上げることは自己を押し上げることである。
しかも善き霊魂は自己を押し上げようと思っていない。
彼が優しき言葉を投げかけるのは、
それが幾日かのちに自己に返って来ることを
預期してではないのである。
彼がそれを為すのは彼が彼の同胞 ―― 人類を愛するからである。
聖書には、言葉は足を照らす燈台となり、道を照らす光となれり
と録(しる)されている。
もし諸君が時代の救済者となろうと思われるならば
自己の思想感情に最上のものを以って充たせ。
努め励みて己が心情に最も善きものを保つように心掛けよ。
ここからのみ生命の泉は湧いて来るのである。
吾等が思想感情に美と優雅とを貯えて置くならば
吾等の言葉は美と優雅とを備えて流れ出て来るであろう。
ある詩人は歌って言う。
さらば汝の内奥の思想を明るいものたらしめよ
思想は生ける力をもって働きかけ
言葉とあらわれて運命を形造る
神の描きたまいし構図の如何に荘厳霊妙なることよ
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晴れときどき(2014 年 1 月 19 日)
<感謝合掌 令和5年6月26日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その32)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/27 (Tue) 12:45:12
ラジオ放送『幸福への出発』(その32)~谷口雅春先生
Web:黄金華咲く
http://dainihon.sakura.ne.jp/koufuku/audio/kouhuku_032.mp3
<感謝合掌 令和5年6月27日 頓首再拝>
安保騒動下の谷口雅春先生と光明化運動 - 伝統
2023/06/28 (Wed) 04:55:17
『安保改定に就いての私の考え』
平和をモットーとしなければならぬ宗教家が
何故日米安保条約に賛成するかと言いますと、
現在の日本人の最大公約数的精神は、平和精神ではなく、
闘争精神でありますから、仏教的三界唯心の原理によりまして、
その闘争精神は必ず、同波長でよって戦争を引寄せる可能性がある。
だから、そのように「心」によって戦争を起らせないようにする
ことのできない場合には、第2善として「力のバランス」によって、
日本を侵略不可能ならしめなければなりませぬ。
軍備も安保も不要だと言う論は理想論であって、
現実には調和しないのであります。
生長の家では人時処の三相応がなければ、
どんな「善」も善にはならないと申しております。
軍備不要も、安保不要も、現代と言う「時」に於いて、
米ソ間対立の中間にある日本の戦略的重要地点である
と言う「処」に於いて、まだ弱国に対する侵略を止めそうにない
ソ連や****と言う隣国を控えている現在に於いては、
どうしても日本はアメリカと手をつないで自国を護るより仕方がない
と私は考えるのであります。
『聖使命』紙 昭和34年12月1日号
◇ ◇
『諸君は「赤旗」に組するか、「日の丸」に組するか』
日本には既に革命が来つつあるのである。
これを単に国会闘争だと考えることは甘い見方である
と言わなければならないのである。
日米新安保条約についての是非は、一方に於いて賛成する者もあり、
他方に於いて反対するものもあり、
それは左右両論に分かれているのであって、
議会に安保反対の千二百万通の請願書がもち込まれた
と称されてもその実数はともかく、仮にその数を認めたとしても、
その残りの人口の大多数は新安保賛成であるかも知れないのである。
殊に最近のマスコミは、「反対デモ」や「反対集会」のみを
大きくとり上げて、賛成の運動に対しては、それを黙殺してしまうか、
極めて小さく目立たないように取扱って、
世論ぜんたいが安保反対であるかのような外観を殊に呈せしめて、
更に世論を左傾の方へ引きずって行こうとするのであり
実際左傾の方へ引きずって行きつつあるのである。 ・・・・・
安保新条約反対者側も、「日本が戦争に巻き込まれないために」
「日本を愛するが故に」 安保新条約に反対するのだと言うならば、
彼らは何故、議会を取巻く数万の示威行進に日章旗をひるがえさずして、
「赤旗」をひるがえして示威運動をするのであるか。
労働者がその地位の向上や待遇改善の要求に際してひるがえす「赤旗」は
「万国の労働者の団結」を象徴する旗印であるから、
労働争議に際して「赤旗」をひるがえすのは、
それはそれなりに合理的であるであろうが、
政治運動に際して、ソ連を中心にする共産革命の国際運動を
象徴する「赤旗」をひるがえして議会を取巻いて大衆の示威行進をする
ということは、「日の丸」に対して「赤旗の下に降伏せよ!」と
呼びかける示威運動だと言うほかはないのである。
殊に注目すべき事実は、日米新安保条約反対の人たちは
「天皇制はどうでもよい」と言う「天皇制反対」の陣営の人たちが
殆ど全てであると言うことである。
私は社会党が、このような「赤旗」をかかげる大衆運動の首謀者
となって活動していることを遺憾に思うのであり、
如何に彼らが「国を愛するが故に、戦争に日本が巻き込まれないために
安保新条約に反対する」と自称するにしても、
「赤旗」をもって、その運動の旗印とする限り、
それは「階級闘争」による革命運動の一環として行う運動だ
と認めざるを得ないのである。 ・・・・・
安保新条約にも色々欠点はあり、日本に不利な所もあるであろうが、
日本の国力としては、あの程度に改定するほかはないのであって、
改定版の安保新条約を批准しないで否決してしまったら、
もっと悪いところの「旧来の安保条約」がそのまま残り、
一層日本にとっては悪いのである。
社会党はこの残るべき「旧来の安保条約」を如何に処置すべきかについて、
国民の納得し得るような建設的意見は何一つなく、
ただ赤旗を先頭にして反対するのであるから「反対のための反対」
「国内を騒擾に導いて革命をあおるための反対」だと
みとめられても致し方がないのである。
この際、日本国民は新聞やテレビに出て来る「赤旗」を先頭とする
示威運動が、それがマスコミに取上げられる回数の多さに、
それをもって日本国民大多数の世論だと鵜呑みにしてしまうことなく、
現時日本の置かれたる国際的位置、国内の騒擾による革命の危険などを
静かに観察して、
「赤旗」のはんらんに味方すべきか、
「日の丸」に味方すべきか、
静慮せられんことを私は切実に希わずにはいられないのである。
「祖国日本の危機に涙しつつ、5月24日夜記す」
『聖使命』紙 昭和35年6月1日号
◇ ◇
『声なき声よ 手をつなげ』
****を平和勢力だと見ている人もあるが、
実相は兎も角、現象は平和勢力だとは言い得ないのである。
日本もチベットのようにならねば幸いである。
日本国民は目覚めなければならない。
日本国民よ、東西ドイツのように、左と右とに分れないで、
祖国一つを一丸となって護ろうではないか。
その護るための中心の標号となるべきものが「日の丸」である。
私は爰に善良なる愛国者たる国民があらゆる政党政派及び宗教宗派を
超越して「日の丸」を中心として総評におとらぬ連絡ある組織を結成し、
これを「日の丸擁護会」と称して総評左翼学者文化人グループ等が
30万人を動員して赤旗行列で赤い方の国民の意思表示をなすならば、
良識ある偏らぬ国民は、その翌日には40万人が日の丸を掲げて
秩序整然たる街頭行進して愛国者の意思表示をなし得るようにしたいと思う。
こいねがわくは多数国民の御賛同を得たく思う。
日本の実情は真に緊急を要するのである。
『聖使命』紙 昭和35年7月1日号
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VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-13)
<感謝合掌 令和5年6月27日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その33)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/28 (Wed) 13:31:37
ラジオ放送『幸福への出発』(その33)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月28日 頓首再拝>
悟りと神想観(1)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/29 (Thu) 04:48:59
本稿は『理想世界』誌、昭和三十二年十月号に掲載された
「青年哲学講座」で、谷口雅春先生が神想観に関連した質問に
答えたものです。
断食修行について
司会
断食修行というものと、霊能の発達とか、
悟りとかというものの関係を、もう少し詳(くわし)く
お教え下さいませんか。
谷口
断食その他肉体を苦しめる修行が霊的方面の発達に寄与する
というのは、肉体の否定、物質の否定というものが、
生活の上に実際に行われるから霊的覚(さと)りというものが
得られ易(やす)くなるのであります。
このことは実際の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の
生活行蹟からみて、そういえるわけなんです。
****をサンザ満足させながら霊能が発達する
ということはあり得ません。
今でも山へこもって断食をしたり、
水行をしたり滝に打たれたりする人もあり、
それによって何らかの覚(さと)りに到達する
というような人もあります。
私も断食したことがあるけれども、
私は断食したから覚ったというわけでもないけれども、
ある覚りが得やすくなるということは事実です。
しかし皆さんに断食をせよというのではありません。
生長の家は「苦行は悟りの因(たね)にあらず」というので、
徒(いたず)らに肉体を苦しめるということが修行にいいのだ
とはいわれないんだが、
物質を否定する上からいうと、
肉体というものを余り楽しませていると、肉体的欲望という方へ
心の天秤(てんびん)が重くおりて来て
霊的比重の方が軽んぜられて来るということになりますから、
霊的悟りというものは得がたくなるのです。
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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-14)
<感謝合掌 令和5年6月28日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その34)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/29 (Thu) 13:16:04
ラジオ放送『幸福への出発』(その34)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月29日 頓首再拝>
神の叡智につながる三種の神想観~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/30 (Fri) 04:54:56
*「光明道中記」より
【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
『生命の實相』十一巻 】
魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を素直に全心(まこと)を
もって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、
行ずる意志力を招び出し、その行じ得させて頂くその事実に
感謝するところの行事である。
ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向って行じているのでは
却って逆効果を呈することになる。
1. そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって
導いて頂くのが、 「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」
と観ずる神想観である。
2. 実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」
と観ずる神想観である。
3. 「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。
吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。
行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。
叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。
みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。
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晴れときどき(2014 年 1 月 20 日)
<感謝合掌 令和5年6月29日 頓首再拝>
ラジオ放送『幸福への出発』(その35)~谷口雅春先生 - 伝統
2023/06/30 (Fri) 12:25:52
ラジオ放送『幸福への出発』(その35)~谷口雅春先生
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<感謝合掌 令和5年6月30日 頓首再拝>
日本国実相顕現のための生政連運動である~谷口雅春先生 - 伝統
2023/07/01 (Sat) 04:52:04
転法輪のはたらきが、日本国実相顕現のための生政連運動である~谷口雅春先生
*『碧巖録解釋』第十四則 雲門對一説 より
〔本則〕
擧す。 僧雲門に問ふ。 如何なるか是れ一代時教。 雲門云く、對一説。
〔頌〕
頌に云く。 對一説、太孤絶。 無孔の鐡鎚重ねて楔を下す。
閻浮樹下笑呵々。 昨夜驪龍角を拗折す。 別々。
韶陽老人一橛(けつ)を得たり。
橛(けつ)
https://kotobank.jp/word/%E6%A9%9B-2034230
〔解釈〕
この則には垂示が欠けていて直に本則に入っている。
さて、或る僧が雲門和尚に「如何なるか是れ一代時教」と訊いた。
雲門はすかさず「對一説」と答えたというのである。
一代時教というのは釈迦尊一代84年間、35歳で成道せられた。
その間に360余会の大説法があったということであるが、
その一代360余会の説法をひっくるめて一代時教というのである。
これを細かく分ければ、五時八教と謂うことになる。
ひとくるめに釈尊一代の説法全部を茲で一言で言って見よ
と或る僧が雲門和尚に食ってかかったのである。
大体、五時八教に釈尊の教を分ったにしても、
釈迦はそんなに幾種類もの異る教をお説きになったのではない。
だから一言にして言って見よと言って言えない筈はないのである。
併しながら、一つ同じ真理でも対機説法ということがあり、
人と場所と時とによって千変万化しなければならい。
そこで五時八教と分かれて来たのであるが、
さて然らば果して釈迦は、真理を誰に説いて来られたものであろうか。
釈迦が悟を開いたとき知った真理は
『有情非情同時成道、山川国土草木悉皆成仏』 ということであった。
有情(いきとしいけるもの)、非情(ありとしあるもの)、
同時にことごとく仏になっている、一人の迷える者もない
というのが釈尊の悟であるならば、
釈迦は誰を悟らすために説法したのであろうか。
対機説法というのは、相手にいろいろ心境の差別があり、
悟の程度が異るからこその対機説法なのである。
若し、有情非情同時に成道してすべて仏になっていたならば
対機説法などということは不要なのではあるまいか。
釈迦が対機説法の必要を果して感じたのであるなら、
釈尊はすべての有情非情が既に仏になっていると
見なかった事になり、相手に『迷い』の存在をみとめていたことになる。
そして『観られる世界は観る人の心の世界である』という真理を
標準として結論して行くならば、釈迦がその観たる相手に
『迷』の存在を見たのあったならば、
釈尊自身の心の中に尚『迷』が存在したのだということになる。
そして釈迦自身の心の中に尚『迷』が存在したならば、
釈迦自身がまだ悟っていなかったということになる。
そこで釈尊が果して悟っていたならば、
対機説法などということも五時八教などということも
あり得ないのではあるまいか。
一体釈迦は誰のために五時八教を説法したのであろうか。
生長の家でも、時々これに類した質問が起ることがある。
門者曰く ―
『生長の家では迷は無いと説くが、迷いが果してないならば
説教の必要はないではないか』 と。
なかなか鋭い質問である。
釈迦一代時教は誰のために何を説いたかという難問と同巧異曲である。
答えて曰く ―
説法は相手の『迷』を見て説法してはならないのである。
相手の『迷』を見て説法しても本人の仏性は開顕するものではない。
『迷』を見れば『迷』が出て来るだけである。
『対機説法』などというものはあり得ないのである。
真理の充満せる世界に、
真理の体験者が、真理の法輪を転ずるだけである。
説法とは斯くの如く荘厳極りなきものである。
『迷』なんて何処にもない。
ただ太陽は照る。
それが色々の夕映の色彩の変化に見えようとも、
それは‘こちら’からそう見えるだけであって、
太陽はただ照っているのである。
説法というものは
真理がそれみずからを実現するために、
ただひたすらに進軍しているに過ぎないのである。
真理は真理の世界に於て、ただ真理の法輪を転じているのみなのだ。
その転法輪のはたらきが、
日本国の実相顕現のための生政連の運動となってあらわれているのである。
真理が真理のために真理を真理する ― これが『対一説』である。
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VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-15)
<感謝合掌 令和5年6月30日 頓首再拝>