伝統板・第二
ひかりの一日一言100~ひかりの語録(7月) - 伝統
2023/07/01 (Sat) 04:57:13
ひかりの一日一言《1日》
神はなんじの善(よ)き行(おこ)ないの中(なか)にある。
愛の中(なか)にある。
善(よ)き生活の中(なか)にある。
それは形(かたち)なき形(かたち)である。
真理(しんり)である。
道(みち)である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P47)より
<感謝合掌 令和5年7月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2023/07/02 (Sun) 05:00:17
神は人間を罰しない。
ただ罪を罰するのである。
罰するとは肉のうちに快楽のないこと、
生命(せいめい)のない事、ただ虚(きょ)なることを示し、
迷いの正体を暴露することである。
罪を罰せられるとき罪は本来の《虚無》虚無
―― 非実在の正体をあらわして消滅する。
罪が罰せられて消滅するとき、
人間は浄められて《本来の神性》を露呈する。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P47)より
<感謝合掌 令和5年7月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2023/07/03 (Mon) 04:31:02
ひとの物を自分のもののように
取り扱うほどの心でないと神心(かみごころ)ではない。
どんなものにも神の生命(せいめい)が
その背後に宿っているのであるから
一枚の紙でも、一個の茶碗でも大切にしないものは
神を愛しないものである。
台所の茶碗が欠けているようなことでは、
それを取り扱う人の愛の浅さがわかるのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P47)より
<感謝合掌 令和5年7月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2023/07/04 (Tue) 04:58:05
神を愛すると云うことは
万物を敬虔(けいけん)に愛すると云うことである。
神の被造物を粗末にする者は神を敬(けい)するものではない。
神みずから万物を造ってそれを「甚(はなは)だ善(よ)し」
と賞め給うたものを、人間よ、粗末にするな。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P48)より
<感謝合掌 令和5年7月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2023/07/05 (Wed) 01:19:20
最近アメリカでラジオ・フィーヴァー・マシーン(Radio fever machine)
というのが発明された。
電波の感応で体温を上昇せしめ、身体に熱を出して
かえって病気の快癒を促進せしめる装置である。
熱が出たら病気が重くなったと思うのは間違いだ。
自然療能が熱を出して病気を治しつつあるのだ。
自然療能は最も精巧なラジオ・フィーヴァー・マシーンである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P48)より
<感謝合掌 令和5年7月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2023/07/06 (Thu) 04:55:47
洟(はなみず)が出ても病気になったのではない。
病気を《出し》て治しつつあるのである。
病気は《入った》時は多くは自覺されない。
病気は《入って》潜伏し、《出て》去って治る。
病気が出て行きつつある時に病気にかかったとは思うな。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P48)より
<感謝合掌 令和5年7月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2023/07/07 (Fri) 04:41:32
常に他(ひと)に与えたいと思っているものは他(ひと)から愛され、
常に他(ひと)から与えられたいと思っている者は他(ひと)から嫌われる。
依頼心をもっている者は、
側(そば)にいる人から何かを奪おうと常に思っているわけであるから、
側(そば)にいる人は何となしにそれを感じて嫌うのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P48)より
<感謝合掌 令和5年7月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2023/07/08 (Sat) 04:57:37
自発的になら、他(ひと)に深切を喜んでする人でも、
他(ひと)から指図(さしず)されるとちょっと反抗したくなる。
そういう人の深切は、
まだ自分の「我(が)」で深切にしているに過ぎない。
他(ひと)から「これをこうしてくれ」と頼まれたとき、
少しも「我(が)」を出さずに、そのままにできるような人でなければ
本当の深切ではない。
深切とは相手を生かすことであって
自分の「我(が)」を生すことではない。
「我(が)」を殺したとき 本当の自分が生きる。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P48,49)より
<感謝合掌 令和5年7月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2023/07/09 (Sun) 04:56:36
愛は与えたとき力を増し、
言葉は口に出した時に力を増し、
思想は発表した時に力を増す。
愛を与える事を吝(おし)み、
善き言葉を出す事を吝(おし)み、
善き思想を出すことを吝(おし)む者は
ついに自己を小さくするものである。
道で人に出遇(であ)ったときでも
まず頭を下げて挨拶したものが勝ったのである。
勝つとは一歩先にその人の生命(せいめい)が生長した事である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P49)より
<感謝合掌 令和5年7月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2023/07/10 (Mon) 05:02:24
恐(おそ)れる代(か)わりに働く者はついに勝ち、
呟(つぶや)く代(か)わりに働く者はついに勝つ。
生長する人には
恐(おそ)れる時間と呟(つぶや)く時間はないものである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P49)より
<感謝合掌 令和5年7月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2023/07/11 (Tue) 06:18:33
「今」の時間を尊ばねば、
生涯その人に尊ぶべき時間は来ないのである。
何事も成就しない人は必ず時間を浪費した人である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P49)より
<感謝合掌 令和5年7月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2023/07/12 (Wed) 04:46:46
今あるこの仕事は必ず次のいっそう大(だい)なる仕事の準備である。
それ自身に無意味らしい仕事も
必ず次のいっそう大(だい)なる仕事に対して意義があるのである。
小さな下らぬ仕事だと思ってなまけるな。
天は必ず大(だい)なる仕事を与え給うまでに
小なる仕事を与え給うのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P49)より
<感謝合掌 令和5年7月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2023/07/13 (Thu) 04:56:38
神は光明無限である。
明るい広きゆたかなる心のみがこの光明を透過するレンズとなる。
事物に興味を感ずると否とは
主としてその事物を透過する心のレンズによる。
天国的な心の者のみ天国を愛することができるのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P49、50)より
<感謝合掌 令和5年7月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2023/07/14 (Fri) 06:47:10
ことを成すのは結果の顕(あら)われんがためではない。
生命(せいめい)が鍛えられ、強くなり、いろいろの経験を得、
豊富になり、多くの人々のそれぞれの立場を理解し、
すべての人に対する理解を深めて、
本当の意味に於ける愛を成就し、
本当の意味に於ける自己の生活を成就せんがためである。
苦労したものでないと人を本当に愛することができないのは、
いろいろの立場におけるそれぞれの人間を
本当に理解できないからである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P50)より
<感謝合掌 令和5年7月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2023/07/15 (Sat) 04:58:38
沙翁(さおう)には戯曲を作らせよ。
沙翁(さおう)を封筒書きに使うのは愚か者である。
パデレフスキーにはピアノを弾奏せしめよ。
パデレフスキーを停車場の呼売(よびう)りに使うのは愚か者である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P50)より
・・・
<参照>
沙翁
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%99%E7%BF%81-508804
パデレフスキー
https://enc.piano.or.jp/persons/236
<感謝合掌 令和5年7月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2023/07/16 (Sun) 05:05:51
あらゆる言葉、あらゆる行動
ことごとく未来に果(み)を結ぶ種子(たね)となる。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P50)より
<感謝合掌 令和5年7月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2023/07/17 (Mon) 05:00:25
殻(から)に傷をつけられた あこや貝 は
その傷を玉成(ぎょくせい)して
完全円満光輝燦然たる真珠をつくり上げる。
人間は病苦や家庭苦で傷つけられるのがかえって
魂(たましい)を玉成(ぎょくせい)する基(もとい)になるのである。
苦しみが魂の生長に必要だというのはそのためだ。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P50)より
<感謝合掌 令和5年7月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2023/07/18 (Tue) 04:59:21
睡眠や食事は肉体に必要であるが、仕事は魂に必要な糧(かて)である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P50)より
<感謝合掌 令和5年7月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2023/07/19 (Wed) 04:57:00
幸運がないというな。
一瞬々々が幸福である。
一瞬を完全に生き切るとき
なんじは永遠に生きるのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P50)より
<感謝合掌 令和5年7月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2023/07/20 (Thu) 05:09:07
一瞬をゆるがせにするものは生涯を浪費するものである。
一滴を浪費する蜜蜂(みつばち)は
生涯蜜(みつ)を 貯えることはできない。
多くの琥珀(こはく)色の甘い蜂蜜(はちみつ)がつくられたのは
眼にもとまらぬほどに少量の花蜜(かみつ)を
機会ごとにゆるがせにしなかったからである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P51)より
<感謝合掌 令和5年7月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2023/07/21 (Fri) 04:12:57
心の眼をひらけば幸運はいたるところに手を伸ばして待っている。
地球の引力を発見したニュートンにとっては
リンゴの落ちることが運であった。
空間の電波を発見したフランクリンにとっては
雷鳴(らいめい)を聞くことが運であった。
誰でも見逃がすところに心の眼の開いた人には運がある。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P51)より
<感謝合掌 令和5年7月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2023/07/22 (Sat) 07:12:49
苦しみに崩折(くずお)れるような弱虫になるな。
苦しみは人間に色々のことを教えるのだ。
なんじの生命の実相(ほんとうのすがた)を見よ。
人間の「生命(せいめい)」は
苦しみにへこたれるような弱いものではない。
バイロンが有名な詩人となったのは
彼の脚(あし)が不具(ふぐ)であって
湾曲(わんきょく)していたためである。
バンヤンが「天路歴程(てんろれきてい)」を書いたのは
十二年間獄中にあって苦しみの中に、
神を発見し神に到る道を書き綴ったのだ。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P51)より
<感謝合掌 令和5年7月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2023/07/23 (Sun) 04:58:57
人間の悩みのもとはみんな欲から来(く)るのである。
欲は迷いから来るのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P51)より
<感謝合掌 令和5年7月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2023/07/24 (Mon) 04:52:08
人間は悲しめばどれだけでも悲しめるが、
また歓(よろこ)べばどれだけでも喜べるのである。
悲しみを呼べば悲しみが来(き)て合奏(がっそう)し、
歓べば歓びが来て合奏する。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P51)より
<感謝合掌 令和5年7月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2023/07/25 (Tue) 04:59:02
人間は金(かね)があったら貧乏でないように思っているが、
金(かね)があって始めて富(と)んだ気がするのは
その人の魂が貧乏だからである。
人間の生命(せいめい)は金(かね)やその他(た)、
いかなる外物(がいぶつ)によって付加されなくとも
本来富(と)んでいると云うことを知らねばならぬ。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P51、52)より
<感謝合掌 令和5年7月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2023/07/26 (Wed) 04:56:07
「生命(せいめい)」は「神」より出ず。
「神」は「愛」である。
一つの「愛」の行いはヘマトパンを五百グラム飲むよりも
自己の生命(せいめい)を生かすのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P52)より
<感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2023/07/27 (Thu) 05:02:09
病気は悪くなる行程(こうてい)ではない。
浄化の行程である。
家庭の不和も魂の浄化の行程である。
家庭の不和を苦しむよりも、ありがたくそれを受けて、
その不和を調和した相(すがた)になるように
切り捌(さば)いて行(ゆ)くところに不断の鍛(きた)えがあり、
浄化があるのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P52)より
<感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2023/07/28 (Fri) 05:03:09
魂の扉(とびら)をとじている人の側(そば)へ行くときは
自分もまた魂がとじたくなる。
愛しようと思って近づき、許しを乞(こ)おうと思って
近づいて往っても相手がジッと魂の扉を閉じていると、
それを押し切って許しを乞い、
それを押し切って愛するのには勇気を要する。
しかしこれを押し切って自分から魂の扉をひらいて
相手に近づきうるものは、
ついに相手の魂の扉をひらきうるのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P52)より
<感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2023/07/29 (Sat) 04:59:45
家庭の不和をとり去るには、
夫婦が、親子が、姑嫁が、互いに
相手の身になって考えてやることが必要である。
「妻の身になれば、自身がどんなに不確な良人に見える
ことだろう、すまない」と良人(おっと)は思うがよい。
「良人の身になれば自身がどんなに行き届かない妻に見える
ことであろう。すまない」と妻は思うがよい。
そして魂の扉(とにた)をこちらから開いて詫(わ)びるのだ。
人間の尊さは詫びたからとて減るようなものではない。
詫びると負けるように思うのは、真理を知らないからだ。
詫びるということは旧我(ニセ物の自分)を否定し、
真我(神の子としての本当の自分)を新生さすことになる。
かかる時彼は本当に強くなったのである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P52、53)より
<感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2023/07/30 (Sun) 04:59:30
芸術とは霊(れい)が形象(けいしょう)に顕現したものである。
霊ばかりでも芸術ではないし、形象ばかりでも芸術ではない。
わが国の芸術は「個」が大自然の中へ溶(と)け込むようになっている。
それは日本古来の建築芸術を見れば最もよくわかる。
大自然の中(なか)へ溶け込む道が
「惟神(かんながら)の道(みち)」である。
「我(が)」を出さずに生命(せいめい)を生かす芸術的生き方である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P53)より
<感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《31日》 - 伝統
2023/07/31 (Mon) 05:00:05
愛とは全体を生かす働きである。
恋は種族を生かす本能から芽生えたものであるから
本来「全体を生かす働き」である。
それが周囲と衝突し、全体と調和しなるなるのは、
ニセモノであるからである。
恋を愛(周囲と調和した全体を生かす働き)にまで生長せしめる努力に、
恋の美しさが生まれるのである。
ただ男女相(あい)曳(ひ)き結び合うだけでは
犬猫の****と同じである。
犬猫にはその努力がないから美しく感じられない。
近松の描(えが)いた人情に美があるのは、
恋を愛にまで生長せしめんとの人類的努力が
描かれているからである。
―― たといその努力が失敗に帰したにしても、
その努力の発現せるところに生命(せいめい)が発現し美が発現する。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P53)より
<感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>