伝統板・第二
神への全托⑥ - 伝統
2023/07/15 (Sat) 11:31:29
神は遍満し給う、我(が)を捨て神に全托
*「光明法語」(7月15日《神は遍満し給う》) より
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、
神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」
と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「神に全托」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562
(2)光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50
(3)伝統板・第二「神への全托①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6460526
(4)伝統板・第二「神への全托②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6945881
(5)伝統板・第二「神への全托 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7731682
(6)伝統板・第二「神への全托④」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7932506
(7)伝統板・第二「神への全托⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8188685
<感謝合掌 令和5年7月15日 頓首再拝>
神に対して戸を開け - 伝統
2023/07/16 (Sun) 07:04:20
*「光明法語」(7月16日) より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和5年7月16日 頓首再拝>
「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2023/08/06 (Sun) 08:01:32
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、
そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、
「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、
全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、
活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和5年8月6日 頓首再拝>
本願の絶対力に触れよ - 伝統
2023/08/13 (Sun) 12:44:36
*「光明道中記」(8月13日《弥陀の本願ありがたき日》)より抜粋
【光明念波は「類に非ざる念波」を反撥して災害から逃れる。
(『生命の実相』第十三巻)】
弥陀の救いの本願は、大実在の御意志であるが故に、
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪は存在し得ないのである。
弥陀の本願力の前には「肉体」の滅不滅は何らの障礙にはなり得ない。
そこに生長の家の説く阿弥陀仏に至心廻向すれば
「肉体そのまますくわれている、此処がこのまま極楽浄土になる」
と云う真理が裏付けられるのである。
宇宙大実在の我を救いたまわんとの本願の絶対力の前には
何物も礙(さ)えぎることが出来ないと云うのは真理である。
そこに『歎異鈔』の
「他の善も要にもあらず」「悪をもおそるべからず」の根拠がある。
本願の絶対力に触れるとき、無限燭光の光に触れて暗黒が消え去るように、
「他力の善」がおのずから自然に行われて悪が自然に消え去る意味である。
<感謝合掌 令和5年8月13日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2023/09/14 (Thu) 11:57:37
*「光明法語」(9月14日)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和5年9月14日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2023/11/13 (Mon) 11:14:02
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈って
その最後の決定を神にゆだねられたのである。
数日後全然予想しないところから2枚の小為替を受け取った。
合計8ドル85セントであって、
8ドル70セントのラジオを買うと15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 令和5年11月13日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2023/11/14 (Tue) 09:38:43
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 令和5年11月14日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2023/11/29 (Wed) 09:57:04
*「光明法語」(11月29日の法語)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和5年11月29日 頓首再拝>
神に子供の生命をお返しする - 伝統
2023/11/30 (Thu) 09:36:44
*「光明法語」(11月30日の法語)より
~与えよさらば与えられん
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和5年11月30日 頓首再拝>
「光明」と「全托」 - 伝統
2023/12/10 (Sun) 09:31:13
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より
「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。
「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。
<感謝合掌 令和5年12月10日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2024/01/19 (Fri) 10:55:20
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから
神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、
謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和6年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2024/01/25 (Thu) 11:06:50
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 令和6年1月25日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2024/03/28 (Thu) 11:39:22
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、
ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。
「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 令和6年3月28日 頓首再拝>
神の御心のままに - 伝統
2024/04/15 (Mon) 09:08:26
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より
「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。
「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。
こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。
<感謝合掌 令和6年4月15日 頓首再拝>
《喜びの青空に出る道》 - 伝統
2024/05/11 (Sat) 09:25:35
*「光明法語」(5月11日)より
海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。
墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。
今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。
かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。
神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。
<感謝合掌 令和6年5月11日 頓首再拝>
《神が汝をつかんでいる》 - 伝統
2024/05/12 (Sun) 12:01:03
*「光明法語」(5月12日)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和6年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2024/05/20 (Mon) 11:29:39
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 令和6年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2024/05/21 (Tue) 10:53:31
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和6年5月21日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2024/06/14 (Fri) 10:51:11
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 令和6年6月14日 頓首再拝>
神に全托する日 - 伝統
2024/06/25 (Tue) 10:25:58
*「光明道中記」(6月25日)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 令和6年6月25日 頓首再拝>
全托である - 伝統
2024/07/15 (Mon) 11:47:42
*「光明法語」(7月15日《神は遍満し給う》)より
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)を
流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」
と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 令和6年7月15日 頓首再拝>
神に対して戸を開け - 伝統
2024/07/16 (Tue) 12:06:37
*「光明法語」(7月16日)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和6年7月16日 頓首再拝>
「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2024/08/06 (Tue) 10:27:28
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、
そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、
「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、
全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、
活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和6年8月6日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2024/09/14 (Sat) 13:02:08
*「光明法語」(9月14日)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和6年9月14日 頓首再拝>
最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統
2024/11/13 (Wed) 11:03:26
*「光明法語」(11月13日の法語)より
グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈って
その最後の決定を神にゆだねられたのである。
数日後全然予想しないところから2枚の小為替を受け取った。
合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。
ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。
その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。
<感謝合掌 令和6年11月13日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2024/11/14 (Thu) 11:45:10
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 令和6年11月14日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2024/11/29 (Fri) 11:34:10
*「光明法語」(11月29日の法語)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和6年11月29日 頓首再拝>
神に委ねる - 伝統
2024/11/30 (Sat) 11:59:43
*「光明法語」(11月30日の法語)より
~与えよさらば与えられん
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和6年11月30日 頓首再拝>
「光明」と「全托」 - 伝統
2024/12/10 (Tue) 11:47:47
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より
「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、
「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。
「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。
<感謝合掌 令和6年12月10日 頓首再拝>
頑張るのではなく、全て宇宙のお仕事に全てを任せる - 伝統
2025/01/11 (Sat) 11:52:26
【並木良和さん】頑張らないで下さい。全て宇宙のお仕事に全てを任せてください。
天界からの声(2025/01/09 )
https://www.youtube.com/watch?v=05ALuJtetSE
<感謝合掌 令和7年1月11日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2025/01/19 (Sun) 11:12:59
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから
神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、
謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和7年1月19日 頓首再拝>
《一切を神ゆだねよ》 - 伝統
2025/01/25 (Sat) 11:51:11
*「光明法語」(1月25日)より
あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。
種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。
やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。
人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。
<感謝合掌 令和7年1月25日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2025/03/28 (Fri) 11:22:05
*「光明法語」(3月28日)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、
ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。
「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 令和7年3月28日 頓首再拝>
神の御心のままに - 伝統
2025/04/15 (Tue) 11:28:26
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より
「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。
「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。
こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。
<感謝合掌 令和7年4月15日 頓首再拝>
《喜びの青空に出る道》 - 伝統
2025/05/11 (Sun) 10:34:11
*「光明法語」(5月11日)より
海中に墜落したならば、
墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。
墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。
今有(も)てる何物かを失った時には、
それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、
喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。
かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。
神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。
<感謝合掌 令和7年5月11日 頓首再拝>
《神が汝をつかんでいる》 - 伝統
2025/05/12 (Mon) 10:46:17
*「光明法語」(5月12日)より
神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。
神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。
しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。
つかむも放つも人間の自由である。
しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。
<感謝合掌 令和7年5月12日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2025/05/20 (Tue) 10:26:24
*「光明法語」(5月20日)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、
そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、
すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいない
と確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 令和7年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2025/05/21 (Wed) 10:47:06
*「光明法語」(5月21日)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 令和7年5月21日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2025/06/14 (Sat) 10:11:37
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 令和7年6月14日 頓首再拝>
神に全托する日 - 伝統
2025/06/25 (Wed) 11:58:21
*「光明道中記」(6月25日)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 令和7年6月25日 頓首再拝>
神に全托 - 伝統
2025/07/15 (Tue) 11:34:51
*「光明法語」(7月15日)より
~ 神は遍満し給う
神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。
謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。
「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」
と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。
全托である。
<感謝合掌 令和7年7月15日 頓首再拝>
神に対して戸を開け - 伝統
2025/07/16 (Wed) 12:02:48
*「光明法語」(7月16日)より
神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。
与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。
神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。
神に与え切りにする人こそ癒されるのである。
<感謝合掌 令和7年7月16日 頓首再拝>
「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2025/08/06 (Wed) 11:37:05
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、
そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、
「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、
全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、
活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和7年8月6日 頓首再拝>
大生命の指導にゆだねよ - 伝統
2025/09/14 (Sun) 11:31:12
*「光明法語」(9月14日)より
大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。
大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。
吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。
況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。
<感謝合掌 令和7年9月14日 頓首再拝>
本当の廻心とはまかせる心になること - 伝統
2025/09/23 (Tue) 11:20:39
*「光明道中記」(9月23日《空をも捨てて自由を得る日》)より抜粋
【空にして一切を破(は)しおわらば空も応(まさ)に待つべし。智度論。
(『仏教の把握』)】
信心する人は、自然腹を立てたり、悪いことを犯したり、
念仏の同信者たち互いに口論することがあったりしたら
よく廻心(くいあらため)して二度とそんな罪を犯さないようにしなければ
救われないと言う人があるが、
それは自力で悪を断じ善を修して、救われの原因とするのであるから
本当の他力信心ではないのである。
本当の廻心とは心が三百六十度転回して、
自力を捨てて、仏の本願にたのみ切って、
そのまま私のはからいをせず、まかせる心になることなのである。
<感謝合掌 令和7年9月23日 頓首再拝>
自然の彫刻にまかせよ - 伝統
2025/11/14 (Fri) 09:37:36
*「光明法語」(11月14日の法語)より
常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。
力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。
この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。
雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。
<感謝合掌 令和7年11月14日 頓首再拝>
無条件降伏 - 伝統
2025/11/29 (Sat) 09:09:29
*「光明法語」(11月29日の法語)より
神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。
それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。
これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。
与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。
<感謝合掌 令和7年11月29日 頓首再拝>
神に委ねる - 伝統
2025/11/30 (Sun) 11:24:26
*「光明法語」(11月30日の法語)より
~与えよさらば与えられん
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和7年11月30日 頓首再拝>
「光明」と「全托」 - 伝統
2025/12/10 (Wed) 10:51:04
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より
「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、
「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。
「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。
<感謝合掌 令和7年12月10日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2026/01/19 (Mon) 09:18:08
*「光明法語」(1月19日)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから
神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、
謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 令和8年1月19日 頓首再拝>