伝統板・第二

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病は本来ない ③ - 伝統

2023/07/20 (Thu) 07:04:17


「病い無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ!

        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。
                     (『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。
                    (『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」
と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、
瓦を研いても鏡にならないとしたならば一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。
  肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、
自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを預言されたが、
間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。
  日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」と答えたとある。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「病は本来ない」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7176432

(2)伝統板・第二「病は本来ない ②」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7904503

            <感謝合掌 令和5年7月20日 頓首再拝>

病気本来無し - 伝統

2023/07/22 (Sat) 09:33:04


        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って■ねばその病気は治っている。
                      (『生命の實相』第八巻)】

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが
互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が■んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 令和5年7月22日 頓首再拝>

病は「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2023/10/04 (Wed) 10:55:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて
必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、
それは実在(ほんとにある)ではなくて
ただ光の波にすぎないと同じように、
病気も病菌も、それは多勢に見え、光学的に見えるけれども
実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という
「認識の形式」の上に投影されたる影である。

「認識の形式」というのは、
人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければ
そんな姿はあらわれない。

        <感謝合掌 令和5年10月4日 頓首再拝>

病気は心の影 - 伝統

2023/10/07 (Sat) 09:07:07


        *「光明法語(10月7日)」より

病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。

その病気を「自分の心の影」だと見よ。

神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる「心の影」として
不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。

そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 令和5年10月7日 頓首再拝>

病気”なし”、ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2023/10/23 (Mon) 12:10:48


    *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》)より 

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                    (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、結局その念の支持力によって
病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」と
ハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

            <感謝合掌 令和5年10月23日 頓首再拝>

霊は病まず - 伝統

2023/11/01 (Wed) 09:13:32


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

            <感謝合掌 令和5年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2023/11/02 (Thu) 10:43:32


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。

無いものは如何に見えてもない。

それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって
覚めて見れば何もない。

            <感謝合掌 令和5年11月2日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2023/11/13 (Mon) 11:21:07

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

         <感謝合掌 令和5年11月13日 頓首再拝>

心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知る - 伝統

2023/11/15 (Wed) 12:38:59


   *「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。
                     (『生命の實相』第一巻)】

南岳禅師、嘗て病気をしたときに、
自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。

以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、
生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
 業と云うものは何処から起る、
 妄(まよい)から起る。
 それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。

 其業を作る所から病気が起って来る。

 病気は元(も)と業だ。
 業は元(も)と妄(まよい)だ、
 妄の源(みなもと)は心だ。

 サア心と云うものは何だ。
 心は無生(むしょう)としてある。
 其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
 全体姿形のあるものでない。

 そんならば此病は何(いず)れの所より来る
 と観念する時、病は平癒したと云う事がある。
 病を根底から直した。
 それで自分の病気は心から妄となり、
 妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、
大安心に達したとき自然療能力で病気が治るのは
今更(いまさら)始まったことではない。

        <感謝合掌 令和5年11月15日 頓首再拝>

「病は本来ない」「悪は本来存在しない」 - 伝統

2024/01/22 (Mon) 11:47:06


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、
肉体は心の反映であるから、「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知ることである。

         <感謝合掌 令和6年1月22日 頓首再拝>

生命の純粋波動を現せ - 伝統

2024/03/19 (Tue) 12:46:25


           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである

        <感謝合掌 令和6年3月19日 頓首再拝>

「本当の人間」は決して病んではいない - 伝統

2024/04/10 (Wed) 10:40:58


           *「光明道中記」(4月10日)より抜粋
            ~幸福相(あい)踵(つ)いで来る日

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば
縦横厚みだけの三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、
それは無限次元が三次元に減ぜられただけであって、
不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、
平面的存在の如く写真に写されているからとて、
その写真には健康者は健康として写っていると同様である。


ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば
其処に映し出された写真に映像ムラが出来たり、
ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が
現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)された場合に
不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

       <感謝合掌 令和6年4月10日 頓首再拝>

心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》 - 伝統

2024/07/08 (Mon) 13:02:56

          *「光明道中記」(7月8日)より
           ~心の滞(とどこお)り消える日

【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。
                 (「生命の實相」第七巻)】 


心を滞らせた状態が「迷い」であるから、
心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。

自分で勝手に肩に力を入れて
「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。

肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。

病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。

二祖慧可は斯うして、
悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。

慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――

「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。
 病気の者は医者に行くが好い」

「身は病気でございましても、
 病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)はこう言ったので、
天分を認められて慧可の弟子となることが出来たのである。

併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。

            <感謝合掌 令和6年7月8日 頓首再拝>

病気本来無し - 伝統

2024/07/22 (Mon) 10:34:02


      *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死○ばその病気は治っている。
                     (『生命の實相』第八巻)】

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている
限りは、心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 令和6年7月22日 頓首再拝>

病は「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2024/10/04 (Fri) 10:59:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて
必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、
それは実在(ほんとにある)ではなくて
ただ光の波にすぎないと同じように、
病気も病菌も、それは多勢に見え、光学的に見えるけれども
実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という
「認識の形式」の上に投影されたる影である。

「認識の形式」というのは、
人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければ
そんな姿はあらわれない。

        <感謝合掌 令和6年10月4日 頓首再拝>

病気は心の影 - 伝統

2024/10/07 (Mon) 11:50:23


        *「光明法語(10月7日)」より

病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。

その病気を「自分の心の影」だと見よ。

神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる「心の影」として
不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。

そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 令和6年10月7日 頓首再拝>

ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2024/10/23 (Wed) 10:50:01


       *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》)より

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                     (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、
結局その念の支持力によって病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」とハッキリ「無し」と「有り」とを
裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

      <感謝合掌 令和6年10月23日 頓首再拝>


霊は病まず - 伝統

2024/11/01 (Fri) 11:48:55


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは
想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、
病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

      <感謝合掌 令和6年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2024/11/02 (Sat) 11:43:46


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。

無いものは如何に見えてもない。

それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって
覚めて見れば何もない。

            <感謝合掌 令和6年11月2日 頓首再拝>

病気の念を捨て、神の子であることを讃美せよ - 伝統

2024/11/03 (Sun) 10:57:16


   *「光明法語」(11月3日の法語《神の子の美を讃美せよ》)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

      <感謝合掌 令和6年11月3日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2024/11/13 (Wed) 10:57:44


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

         <感謝合掌 令和6年11月13日 頓首再拝>

心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知る - 伝統

2024/11/15 (Fri) 11:14:04


   *「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。
                     (『生命の實相』第一巻)】

南岳禅師、嘗て病気をしたときに、
自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。

以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、
生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
 業と云うものは何処から起る、
 妄(まよい)から起る。
 それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。

 其業を作る所から病気が起って来る。

 病気は元(も)と業だ。
 業は元(も)と妄(まよい)だ、
 妄の源(みなもと)は心だ。

 サア心と云うものは何だ。
 心は無生(むしょう)としてある。
 其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
 全体姿形のあるものでない。

 そんならば此病は何(いず)れの所より来る
 と観念する時、病は平癒したと云う事がある。
 病を根底から直した。
 それで自分の病気は心から妄となり、
 妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、
大安心に達したとき自然療能力で病気が治るのは
今更(いまさら)始まったことではない。

        <感謝合掌 令和6年11月15日 頓首再拝>

「病は本来ない」 - 伝統

2025/01/22 (Wed) 12:54:01


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、
不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、

肉体は心の反映であるから、
「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知る
ことである。

         <感謝合掌 令和7年1月22日 頓首再拝>

病はない - 伝統

2025/01/29 (Wed) 11:41:36


      *「光明道中記」(1月29日《心朗かなる日》)より

【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
                   (『生命の實相』第五巻)】

心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。

物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。

不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。

病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。

隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。

心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。

人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。

心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。

         <感謝合掌 令和7年1月29日 頓首再拝>

生命の純粋波動を現せ - 伝統

2025/03/19 (Wed) 10:12:33


           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである

        <感謝合掌 令和7年3月19日 頓首再拝>

すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て - 伝統

2025/04/10 (Thu) 11:06:28


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より

ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。

この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。


「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
 そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
 そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。

 あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
 そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
 そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。

 撲り合いはなさらないでしょう。
 しかし、本当に満足していますか。
 このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
 家族に感謝していられますか。

 そうではないでしょう。
 『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
 『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。

 そんな心そのものが病気なのです。
 病気は肉体にあるのではありません。
 その心にあるのです。

 右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
 ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。

 そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか? 
 とおっしゃるのですか。

 やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、
 心の生まれ更わりができていませぬ。

 不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
 それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。

 すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。

 もう病気はないのである。」

           <感謝合掌 令和7年4月10日 頓首再拝>

心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》 - 伝統

2025/07/08 (Tue) 10:56:19


          *「光明道中記」(7月8日)より
           ~心の滞(とどこお)り消える日

【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。
                 (「生命の實相」第七巻)】 


心を滞らせた状態が「迷い」であるから、
心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。

自分で勝手に肩に力を入れて
「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。

肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。

病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。

二祖慧可は斯うして、
悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。

慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――

「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。
 病気の者は医者に行くが好い」

「身は病気でございましても、
 病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)はこう言ったので、
天分を認められて慧可の弟子となることが出来たのである。

併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。

            <感謝合掌 令和7年7月8日 頓首再拝>

病無し、日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ - 伝統

2025/07/21 (Mon) 11:43:37


        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より抜粋

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して
禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、
自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを預言されたが、
間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」

と答えたとある。

         <感謝合掌 令和7年7月21日 頓首再拝>

病気本来無し - 伝統

2025/07/22 (Tue) 11:13:48


      *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って死○ばその病気は治っている。
                     (『生命の實相』第八巻)】

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている
限りは、心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が死んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 令和7年7月22日 頓首再拝>

病気は心の影 - 伝統

2025/10/07 (Tue) 11:38:00


        *「光明法語(10月7日)」より

病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。

その病気を「自分の心の影」だと見よ。

神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる「心の影」として
不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。

そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 令和7年10月7日 頓首再拝>

霊は病まず - 伝統

2025/11/01 (Sat) 10:58:39


       *「光明法語」(11月1日の法語)より 

人間は霊である。
霊は病む事は出来ない。

しかも病気が現れて存在するが如く見えるのは
想念の中に病気があるのである。
感情の中に病気があるのである。
それは歪められた想念であり、歪められた感情である。

其の感情と想念との《ゆがみ》を取り去ったならば、
病気が消えてしまうのである。

宇宙には「唯一の神」と「唯一の神の創造」とのみがある。
全く存在するものは「唯一の神」から創造されたものである。

それゆえ病気と云う醜き存在は無いのである。

      <感謝合掌 令和7年11月1日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2025/11/02 (Sun) 10:13:21


       *「光明法語」(11月2日の法語)より 

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。

無いものは如何に見えてもない。

それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって
覚めて見れば何もない。

            <感謝合掌 令和7年11月2日 頓首再拝>

病気の念を捨て、神の子であることを讃美せよ - 伝統

2025/11/03 (Mon) 11:48:44


   *「光明法語」(11月3日の法語《神の子の美を讃美せよ》)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

      <感謝合掌 令和7年11月3日 頓首再拝>

病気などは無い - 伝統

2025/11/13 (Thu) 11:26:58


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月13日)より

神の創造(つく)らざるものを創造(つく)ったとする傲慢。
神は人間の病気を創造(つく)らないのに、
人間が病気を創造(つく)りえたとする傲慢。

病気などは無いではないか。
病気などは勝手に消えろ。

我はただ神の生活を生活するだけである。

         <感謝合掌 令和7年11月13日 頓首再拝>

心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知る - 伝統

2025/11/15 (Sat) 11:22:06


   *「光明道中記」(11月15日《恐怖心が全然なくなる日》)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。
                     (『生命の實相』第一巻)】

南岳禅師、嘗て病気をしたときに、
自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。

以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、
生長の家が主張するのではないが、
生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。
 業と云うものは何処から起る、
 妄(まよい)から起る。
 それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。

 其業を作る所から病気が起って来る。

 病気は元(も)と業だ。
 業は元(も)と妄(まよい)だ、
 妄の源(みなもと)は心だ。

 サア心と云うものは何だ。
 心は無生(むしょう)としてある。
 其(その)一番源となる心と云うものは無生なものだ。
 全体姿形のあるものでない。

 そんならば此病は何(いず)れの所より来る
 と観念する時、病は平癒したと云う事がある。
 病を根底から直した。
 それで自分の病気は心から妄となり、
 妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、
病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、
大安心に達したとき自然療能力で病気が治るのは
今更(いまさら)始まったことではない。

        <感謝合掌 令和7年11月15日 頓首再拝>

「病は本来ない」 - 伝統

2026/01/22 (Thu) 12:01:11


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月22日)より

病は本来ない ―― と知っても病気の治らないと訴える人の多くは、
病気を治そう治そうと思って病気を跳び超えない人である。

病気を跳び超えない人は病気に躓く。
躓いて脚下(あしもと)に病気あると気づいて
「病気はまだある」と訴えるのである。

換言すれば「病は本来ない」とまだ本当には知らなかったのである。

病は本来ない ―― と知ってなお病気の治らない人は、
病気の症状(かたち)に相応(ふさ)わしい心を持っているのである。

腹を立てれば眼は三角に角立ち、
不平なれば面(かお)おのずから膨れるがごとく、

肉体は心の反映であるから、
「病はある」という病気そのものの直接観念がなくとも、
《病的な心の状態》が頻繁にその人の生活に継続するときには
それは具象化(かたちにあらわれ)て病気となるのである。

《病的な心の状態》とはすべて正常を失った心的状態である。
恐れる心、怒りの心(その圧抑されたものが不平である)、感謝の足らぬ心
 ―― は病的な心の最大なるものである。

この3つの最大の病的な心を取り去る道は
「悪」は《ある》ように見えてもなんら存在しないものであって、
「この世に存在するものはただ感謝すべきもののみである」ことを知る
ことである。

         <感謝合掌 令和8年1月22日 頓首再拝>

すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て - 伝統

2026/04/10 (Fri) 11:04:30



       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より

ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。

この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。


「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
 そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
 そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。

 あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
 そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
 そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。

 撲り合いはなさらないでしょう。
 しかし、本当に満足していますか。
 このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
 家族に感謝していられますか。

 そうではないでしょう。
 『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
 『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。

 そんな心そのものが病気なのです。
 病気は肉体にあるのではありません。
 その心にあるのです。

 右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
 ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。

 そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか? 
 とおっしゃるのですか。

 やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、
 心の生まれ更わりができていませぬ。

 不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
 それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。

 すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。

 もう病気はないのである。」

           <感謝合掌 令和8年4月10日 頓首再拝>

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