伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑳ - 夕刻版

2023/07/27 (Thu) 04:57:30


神想観の祈りと米国光明思想(2)~谷口雅春先生


本当の信仰は、神様に全部をまかす。
神様に全然『自分』という牙城(がじょう)を明け渡すのです。

すっかり神様に城を明け渡してしまって『今神様のみがここにまします』
と深くそれを思念する心境に達するのです。


『わが生くるはわが力ならず、
 天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)』

と云う、招神歌の第二首がそれであります。

この歌の心を深く繰返し念じます。
すると自分の生きているのが自分の力でないことが判(わか)る
のですから、わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、
自分の生活の一瞬一刻が、神様の生活の一瞬一刻でありますように、
斯(こ)う云う祈りの心が起ってまいります。

そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、
生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処(ここ)に
内からの催(もよお)しと外からの催しとで実現する境に達する
のであります。

尤(もっと)も神様は自由でありますから、
その生活はどんな形で現れるかも知れない。

それは吾々の予想しないような順序を以(も)って
外の境遇から推し進めて来られるかも知れない。

どんな風に現われて来ようとも、
至善なる神様からは悪いことが出てくる筈がない、

若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の
間違った生活又は心が転回する為の自壊作用として現れるのであって、
吾々は決して恐れることは要らないのです。

悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。
それは唯(ただ)真理が実現する為に出て来るのであります。

それは恰(あたか)も今まで間違った方向に歩いていた者が
壁に打衝(ぶつ)かって自ら向きが変わるようなものである。

悪いことは自然に消えてゆくのです。

出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、
神への全托であり、自分がなくなる事であります。

そうなると何でも有難く何でも美しく、何にも求めるものがなく、
任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。


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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-14)


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6458658


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6582228


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6691070

(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6819394

(7)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑥
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(8)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑦」
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(9)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑧」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7989007

(10)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8298091

(11)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑩」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8301267

(12)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑪」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8304221

(13)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑫」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8307975

(14)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑬」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8310829

(15)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑭
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8313692

(16)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑮
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8316682

(17)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑯
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8320065

(18)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑰
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8324394

(19)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑱
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8328228

(20)谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑲
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8331273




(21)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6620484

(22)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
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(23)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎③」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7912130

        <感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>

「無門關解釋」講義(その6)~:徳久克己 - 伝統

2023/07/27 (Thu) 13:10:46


「無門關解釋」講義(その6)~:徳久克己
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          <感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>

真理に触れさせ、そして ・・・~谷口雅春先生 - 伝統

2023/07/28 (Fri) 04:58:56


         *『生長の家』(昭和45年8月号)より

「この“真理”を知れば治る」 と確信して、
本当に真理を知るために 『生命の實相』 を読み、 
『聖経』 を読誦する気持にならせることが必要なのである。

病気だけを治して、その人が真に真理を知るために、
聖典を読誦する努力をつづける気持にならせることが出来なければ、
たとい病気が治ったとしても、その伝道は失敗だった
というほかはないのである。

聖書を見るとイエスに病気を治して貰った人は、
ただ治してもらっただけで、ひとりも伝道する使徒には
なっていないのである。  

この点は注意しなければならない。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p27.html
晴れときどき(2014 年 3 月 11 日)

          <感謝合掌 令和5年7月27日 頓首再拝>

「無門關解釋」講義(その7)~:徳久克己 - 伝統

2023/07/28 (Fri) 14:35:00


「無門關解釋」講義(その7)~:徳久克己
Web:黄金華咲く
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          <感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>

超宗教としての生長の家の御教を小さく受けとっていないか - 伝統

2023/07/29 (Sat) 04:54:44


       生長の家本部教化企画編輯局長  山 口  悌 治
       生長の家本部情報宣伝課長    佐 脇  嘉 久


[佐脇]
 一連の “秘められた神示” を拝読したのですが、私自身、これまで
実に生長の家の受けとり方が小さかったということを痛感したんです。 
何しろ読んでいる中に、脳みそがキューッとねじ曲げられて、
一斉に方向転換してゆくような感じでした。

 今まで 「生長の家はこうだ」 などといとも簡単に言っていたけれども、
こいつはまるで話が違うぞというような気がしてきたわけです。 
生長の家は一応宗教法人になっているけれども、俗に「宗教」と言われている
ものとは全く別のものだ、
全然違うものだという感じに強烈に打たれたわけですね。

 気易く「神様のみ心を生きる」などと言うが、本当にみ心を生きるとすれば、
この神示に示されたことを全面的に身に体して生きる時初めて言い得る
という感じでした。

 生長の家に来る人の中には生長の家に来てうまくいかなきゃ他の〇〇教へ行く、
というようなことを平気でするような、他の宗教と同じ次元で
生長の家を扱おうとする人があるが、
既成宗教、新興宗教と言われているものとは、教えの流れ出す次元がまるで違う。 
何とも大きい。


[山口]
 生長の家が大きいということは同時に、自分という人間がそれだけ大きい
と云うことなんですよ。 “神の子”というのはそれだけ大きい。 
簡単にチョコチョコ動いたり変ったりするのは人間じゃない。 
それは人間をとり違えている。

 人間とは、久遠の昔から久遠の未来に向って生き通しのもの、
天と地をつないでいるもので、自分において天と地が一つになるわけです。


[佐脇]
 宗教というものを、時代をリードするエネルギーとして考えずに、
救われるもの、相談するものとしてだけ受けとっている、自分自身が
神につながる‘いのち’として立つことを願いとしないで、
何かあったら相談するか、救ってほしいという信仰態度が
生長の家に入っていながら相変らず根強い。 
つまり大多数が前時代的な感覚で受けとっている。

 だから谷口雅春先生が目指されている超宗教としての生長の家の理想が、
100%生かされない結果を生ずるわけですね。 

 端的に言うと、生長の家を新興宗教としてしか受けとらない人が
随分多い感じがします。 折角の教えをその一部だけを局限して受け、
前時代的な感覚の中に押しこめてしまおうとする濃厚な精神態度が
あるような気がするんです。

 谷口先生はずーつと前進したものを説かれているのに、受ける方が
古くしよう古くしよう、安易にしよう安易にしようとして
生長の家を引きずりおろすような ・・・・・ 。

 つまり、生長の家の“国家的役割 〈国民総自覚運動〉”は
立教の使命に必然的に含まれている、神様の意図(みこころ)の延長、
具体化のわけだが、それが自分の信仰 = 神のみ心だと思っている内容 = が
そこ迄拡大し、一つに結びついたとき、運動に参加できる。

 ところがそうでないのは、“御心のままに”と口では言っているが
その実、神のみ心ではなく自分でワクを作った“我意のままに”
ということになる場合が多い。 ウソついていることになる。


[山口]
 それに関して力説せねばならぬのは、現在世間一般に言われている
国家なるものの概念が、国家とは理念的なものでなく、
“国家は一つの手段である 〈唯物史観では支配者の支配機構〉 
だから国民全体が希望すれば、国家の形態はどのように変えても構わない”
とする“機関”とみる危険な考え方が一般化しつつあるということですね。

 私たちが把握しているのは “人間を人間たらしめている原理と
日本の国を国たらしえている根本原理は神の御心であり、宇宙の真理である” 
というわけで、“国家とは一つの真理を地上に顕現していくための最高の形態” 
と信じているわけです。

 現実の国の姿はそうなっていないところに日本の実相顕現運動の必然があり、
神の子の自覚に立つものは、特にこの事を明確に自分のものにして日常生活を
生きていかなきゃならない。 そこから超宗教としての運動の立体的な体制も
生れるし、歴史的な大きな役割も果せると思います。


[佐脇]
 生長の家にふれた最初のキッカケは、救われたいということであれ、
病気が治りたいということであれ、何でもよい。 
それは機縁であって、今後それを深め拡大して神と一体の自覚に
ゆるぎなく立ち、日本の国に神意を実現する行動に全身をぶっつけて
いかなきゃならない。 

遠慮しないで神様との‘つながり’をもっと強いものに切りかえていく。 
その時、国民総自覚運動に毎日の生活の中で参加してゆける体勢が
できて来ると思う。



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          <感謝合掌 令和5年7月28日 頓首再拝>

「無門關解釋」講義(その8)~:徳久克己 - 伝統

2023/07/29 (Sat) 13:25:12


「無門關解釋」講義(その8)~:徳久克己
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          <感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>

神想観の祈りと米国光明思想(3)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/07/30 (Sun) 04:54:38


何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。
神は総(すべ)ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。

自分は幸福であるより仕方がない、
自分の周囲には有難いことしか起りようがない、
自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると
感じられる心境に達するのであります。


その心境を呼び出す歌が第三首の招神歌
『わが業(わざ)はわが為すに非ず、
 天地を貫きて生くる御親神(みおや)の権能(ちから)』であります。

自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。
神我一体です。


神我一体となるためには、『我』と云うものがあって、
『神』と対立していて、この二つが結びつくのでは駄目です。

自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、
進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまって
そのときに出て来る『我は全智全能で何でも出来る』と云う
大きな自覚こそ本当であり、

『我』が残っていて『我は全智全能だ、何でも出来る』と考えたら
増上慢(ぞうじょうまん)であります。


だから、吾らの祈りは

『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、
 吾に神の生命を、智慧(ちえ)を、愛を実現せしめ給え。
 私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』

と云うようでなければならない。


此の無我の祈りを繰返しているうちに、
『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業(わざ)を為さしめ給う』
と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。


神と対立している間は、神に対してまだ本当に和解していないのであります。

神への無条件降伏による神への全的和解の行事が神想観なのであります。


第四首目の

『天地(あめつち)のみ親の道を伝えんと生(あ)れましし、
 生長の家の大神護りませ』は、神想観実修の途中の心境中、
悪霊の憑依(ひょうい)などの障礙(しょうがい)の起らないように
生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。


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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-14)

          <感謝合掌 令和5年7月29日 頓首再拝>

「無門關解釋」講義(その9)~:徳久克己 - 伝統

2023/07/30 (Sun) 13:14:08


「無門關解釋」講義(その9)~:徳久克己
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          <感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>

あなたの幸福は約束される~谷口雅春先生 - 伝統

2023/07/31 (Mon) 04:53:59


        *『幸福をひらく鍵』 より

どんなに目鼻立が立派でも冷淡な愛のない表情では魅力はありません。 

言葉の力によって  

『私は愛深いのである。 すべての事に行き届くのである』  

と毎日一寸した暇の時間を利用して眼を瞑って心の中で
三分間位ずつ一日数回呪文のようにとなえなさい。 

言葉は神なのですから、 

「私は何々です」 

と言葉で念ずる通りにやがてなって来るのです。 

怠らず忍耐強く繰返すことが必要です。


人をゆたかに寛大に讃めうる人は、自分の心の窓が
実相の美に打ち開くことになり、自分自身の心が大きくなり、
美しくなるのです。 

だからそれは美貌の原因ともなるのです。 

人の欠点を見て攻撃したり、あらさがしばかりしている人は、
自分の心の窓が、 “醜しさ” や “悪” にのみ打ち開いて、
自分自身の心が狭くなり、醜しくなるのです。 

心の通りの人相が自分の容貌にあらわれるのであります。 

美しくなりたい人は人の 「醜」 や 「悪」 を見てはなりません。

常に善き言葉、明るい言葉、楽天的な言葉、人を賞める言葉、
人を勇気づける言葉、建設的な言葉のみを語りましょう。 

言葉はその語る内容である想念を具象化する
強力な力をもっているものなのです。 

悪しき言葉、暗い言葉、悲観的な言葉、人を貶す言葉、悪口、
人を傷つける言葉、破壊的な言葉を語ってはなりません。 

あなたの語る言葉は周囲に影響を与えると同時に、
自分自身にそれが撥ね返って来て自分を傷つけることになるのであります。

 
まず、朝起きたら、すぐに感謝することです。 

眠っている間、全然自己の意識で自分を防禦することができない間も
何者にも害されず、傷つけられず、生理作用も順潮に行われて、
再び意識の世界にかえることができたということは
何という悦びでありましょう。 

それを恩恵だと考えないのは、あまりにも恩恵に狎れ過ぎているからです。 
あらためて其の恩恵を思い出し、感謝し、悦び、神をたたえることに
致しましょう。 

其処から今日のあなたの祥福が約束されるのです。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p28.html
晴れときどき(2014 年 3 月 16 日)

          <感謝合掌 令和5年7月30日 頓首再拝>

「無門關解釋」講義(その10)~:徳久克己 - 伝統

2023/07/31 (Mon) 14:33:41


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          <感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>

堕胎と避妊~谷口清超先生 - 伝統

2023/08/01 (Tue) 04:53:28


       * 『白鳩』(昭和59年7月号) より

(昭和58年)8月1日号の『タイム』誌の日本特集欄には、
「3人に2人の日本婦人は堕胎をしていて、ごく普通のことである」
と書かれたものです。

おまけに、「それは歯を抜くようなものだ」 

とネギシ・エツコという女性歯科医が言ったと書いてありますが、
この歯科医さんは「私はそんな事言ったことがない」と、
タイム誌を相手取って訴訟に及んだということが報道されていました。

ネギシ先生についてはいざ知らず、日本婦人が堕胎をやりすぎていることは、
今や世界周知の事実であって、これはたとい「3人に2人」がやっていても、
皆さん方はおやりにならないで下さいませ。

それは丁度「3人に2人」が浮気しても、
そんなことをするとロクなことにはならないから、
おやめなさいと言う他はないようなものです。 

人には無責任にも、面白おかしく「楽な面」だけを吹聴しますが、
義理や人道に反する事をしていると、必ず不幸な結果を
収穫しなければならなくなるものです。

 
ことに堕胎というのは、すでに人の‘いのち’となって胎内に宿っている
「吾が子」を殺すことですから、それを「経済的理由」でなんか
やってはいけません。 

タイム誌には、日本婦人はピルなどで避妊しないから、
堕胎に走りたがるのだ、おくれている  ―  といった口調で
書いてありましたが、避妊の方が堕胎より悪質でないのは、これ又明白です。 

何故なら、避妊の段階ではまだ生命をやどしていない状態だからです。 
しかし堕胎となると 「殺人」 ですからね。


それに避妊の害の方が、堕胎手術の害よりも、実害が少ないし、
その「悪しき業の報い」を「子供を犠牲にせず、直接的にうけとる」
ことが多いのです。

つまりピルやらその他の薬を使うと、まだ未知の副作用で、
血液障害や発癌性をあらわすこともありますが、
それはそれで本人が直接うけとる打撃です。

ところが、人工流産児を作り出すと、その被害が、
堕ろされた子供とその兄弟たちにまで及び、

本人がやっとその間違いに気付いた時には、
相当の打撃が彼女の周辺に広く及んでいるということになるものです。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/25bf1b01b787a3942f1236831baf7e50
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-09-28)

          <感謝合掌 令和5年7月31日 頓首再拝>

神想観の祈りと米国光明思想(4)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/02 (Wed) 04:58:07


皆さんは本当に毎日神想観を実修していらっしゃいますか。
一日でも神想観を止めては可(い)けません。

誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、
或は神に就(つ)いての議論を戦わしたりするのは好きだけれども、
神想観をやるのは好きではないと云う人があります。

以(も)ってのほかです。


吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。
でなければ、何時(いつ)の間にか神様から離れた利己主義的な自分
と云うものが出来上ってしまうのであります。

吾々の日常生活と云うものは、『対立』と見え、『個我』と見え、
『物質』と見える世界に棲(す)んでいるのですから、
どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。


その誘惑と暗示を放(ほう)って置いてはいけないのです。

吾々は一日の中、少くとも一時間以上は(これを三十分ずつ
朝晩に分けても好い)神の方へすっかり心を振り向ける時間を
作らなければならないのです。

その為に神想観はどうしても必要なのです。


米国光明思想家グレーン・クラーク氏は、
『君は喜んで価を払うか』(Are you willinng to pay the price)と
云っておりますが、此の考え方が米国光明思想の考え方であります。


吾々は生長の家へ来てお陰(かげ)を得た人にも、
『価を払え』と云わなかった。
これが日本的謙遜(けんそん)であります。

それは美徳のようであるが、忘恩的に人間の魂を養成して、
お陰を得ると共に卒業者のように脱退する人が出来た。


この点では米国光明思想は『君は喜んで価を払うか』と云い、
富の無限供給を得んとするものは得たお陰の十分の一を
公けの事に捧げる、そこに無限供給が重ねて来ると云っています。


又、吾々が神様から生命を頂いているとすれば、
ただ頂き切りでは可(い)かぬ。

一日のうちのある時間は、
必ず神様の方へ生命をお返ししなければならない。

それが即ち『価を払う』ことになるのだと云っています。


神様は常に吾々のことを思い、
吾々の幸福を念願せられて居りますから、
吾々も神様を純粋に念(おも)う時間を有(も)たなければならない。

これが神想観なのであって、神想観をすることが
神から生命を頂いた価を払うことだと説明しています。


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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-15)

          <感謝合掌 令和5年8月1日 頓首再拝>

人間は第二の創造者である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/03 (Thu) 04:59:16


       *『生長の家』(昭和40年2月号)より

この世の中には、「神がある」と思っている人もあるし、
「神なんてない」と思っている人もある。 

併しながら、無神論者で「神」という名称を使うことをきらう人でも、
何らかの名称で「神」を考え、神に一致した生活をしよう
としているのである。

 
唯物論者であり、社会主義者である人でさえも、
「社会的正義が行われなければならない」とか、
「富を公正に分配しなければならない」とかいう理想をもって、

その理想実現のためには身を挺し、生命の危険をも顧みず
奮闘している人があるのは、それは無形の存在ではあるけれども、
有形の存在(肉体の生命)を棄ててでも、

それに奉仕しなければならないところの尊貴な神的存在
(「正義」と称するようなもの)があることを信じている
からなのである。

 
或いはまた、
「この世界は神が造ったのではない、自然にあるのだと思う」
という人もある。 

その、「自然」と称する神秘不可思議なものが神であり、
自然界の法則が神なのである。

 
自然は、今もあり、過去にもあり、未来にもある。
過去・現在・未来を通じて永遠に、その法則によって
一切のものを造出しつつあるのが自然であり、神であるのである。

 
聖経『甘露の法雨』には、神を「宇宙を貫く法則」として示されている。
人間が創造せられるまでは、一切の鉱物・植物・動物ことごとく
法則の支配下にあって、自分自身の創意によってその運命を
切りひらくことはできなかったのである。

 
動物でも精神的要素をもっていて、巣を計画したり、
産卵の場所を定めたりするけれども、概ね、“本能”と称する
他動的な力によって動かされているのであって、
自己の精神の自発的自主的な計画や希望や理想によって動く
のではないのである。

 
併し、人間に於いて、神は自己のイメージを具体化して
単にその全相をあらわされたのであって、

人間は神のイメージとして、自然界の法則に随いながら、
単に法則に支配されるのではなく、自然界の法則を駆使して
希望を達するのみならず、更に“心の法則”を発見して、
自己の運命を“心の法則”によって変革することができる
のが人間なのである。

 
即ち人間に於いては、神が“真空”の世界から
“想念”の方法によって一切を創造したと同じように、

“想念”を駆使することによって万物を創造し、
自己の運命さえも変革することが出来、
まことに人間は“神の子”と称するにふさわしき
「第二の創造者」となったのである。



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晴れときどき(2014 年 3 月 23 日)

          <感謝合掌 令和5年8月3日 頓首再拝>

人間の生活する4つの面~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/04 (Fri) 04:56:53


         *『生長の家』(昭和26年10月号 巻頭言)より

人間は4つの世界に住んでいるのである。

それは概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
更に実相の世界に住んでいるのである。


物質の世界に於いては物質の法則が働く。 

吾々は空気を呼吸せずに生活することは出来ないのである。 
水を飲まないでは生きることは出来ないのである。 
この面では物質的法則が吾々に作用する。 

この方面を無視することは出来ないのである。 
だから吾々は自然科学の此の方面の研究を無視するものではない。

併しながら自然科学はまだ発達の途上にあるのである。 
昨日の良薬は今日の無効薬となりつつある。 
治療の方法も日進月歩しつつある。 

日進月歩すると言うことは昨日の是が今日の否となると言うことに過ぎない。 
吾々は科学的研究の成果を無視することは出来ないが、
全的にそれのみに頼ることは出来ないのである。 

科学者は清水の成分と科学的に全く同一の成分の塩水を造ることは
出来るけれども、此の精確な成分の塩水中では海水棲物は育たないのである。 

この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見し得ない
生命に必要な或る要素が存在するのであって、
科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素に於いて
異るのであって、これは臨床効果に於いても見られる処である。

 
更に人間の一面は精神的なものであって、如何に医療を加えても、
心の中に恐怖や心配や悲しみや、或る人に対する憤りや憎しみを
捨てないでいる限りに於いては、薬効があらわれないことが屡々あるのである。

それにも拘らず、現代の医学が人間の物質的面にのみに注目して
不用意にその病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、

かかる不用意なる医者の診断がなかったならば。
もっと長生きしたであろうと思われる患者を急速に死に導いて行く
実例も多いのである。

これなどは医者の言葉の暴力によって、
人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は人間の法律上では罰せられないかも知れないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度に従って、
「罪あり」と認めらるべきものである。


更に人間は霊的存在であって、霊の故障によって起る病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。

生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊〈祖先霊を含む〉の悟りの
向上による処が多いのである。

医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの
脊椎カリエスや、癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう
実例が多いのも、これらの病気が霊的障礙であるからである。 

顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に病源体を発見するに
吝かでない現代の医学が、何故肉眼で見えないと言う理由だけで
霊の障害による病源を研究することを迷信視しようとするのであろうか。

 
更に、人間は実相の世界に於いて、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界の一切の苦悩の上に超出出来るのであるが、
此の問題は須臾(しばら)く此処には省くことにする。



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VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-01)

          <感謝合掌 令和5年8月3日 頓首再拝>

神想観の祈りと米国光明思想(5)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/05 (Sat) 03:45:34


アメリカ式の物の考え方はハッキリしているのであります。

もう一つ『喜んで価を払う』べきは、
自分が教えを受けてお陰を受けたならば、
そのお陰を人に伝えて教えを弘(ひろ)め、
その喜びと教えとを人にも頒(わ)け与えると云うことが
『価を払う』ことだと云っています。


信仰の用語も、ビジネスの用語も、
『価(プライス)を払(ペイ)する』と云うので、
米人式な歯に衣(きぬ)着せぬ朗かな云い方で
直截簡明(ちょくせつかんめい)なあけっぱなしの
国民性をあらわしていて好いと思います。


生長の家では、神様は罰を当てないと云っている。
これはクリスチャン・サイエンスと同じことである。

併(しか)し罰は無いとしたらお陰を受けたら
お陰の取り徳にして置いた方が得ではないかと思う人が出来る。
そういう人に米国式光明思想は『価いを払え』とハッキリ云う。


吾々の生長の家では別に追求しない。
吾々の宗教は非常に自由で民主主義である。
強制や神罰によって威脅してその人が善を行じても、
それは道徳的人格自由の発現でないから『善』でない
と云うのであります。


この点ではアメリカの光明思想も類似のことを云っております。
ある光明思想家の本には、ホームズ氏もクラーク氏もそうですが、
どんな人にも強制的に善を行わしめようと思って祈ってはいかぬ、
彼に完全な自由を与えなければいかぬと書いております。


それでは何と祈るかと申しますと、
『彼に於いて、神様あなたの御心が成就致しますように』と祈れ
と書いてありました。

唯(ただ)それだけでいいと云うのであります。
人間が人間をその思念で強制してはならない。
神はその人をよくする道を知り給い方法を知り給う。


彼自身が本当の自由を得たならば、
彼の生命は本来神の子であるから
自然に完全になると云うのであります。
善でも強制することは、いけないと云うのです。

アメリカ式自由主義の信仰には仲々深い境地があると思います。

              【完】

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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-15)

          <感謝合掌 令和5年8月4日 頓首再拝>

字のクセ ― 潜在意識 ~ 徳久克己  - 伝統

2023/08/06 (Sun) 05:01:26


       *『精神科学』 より

その人の書いた字をみると、その人の性格がわかる、と昔からいわれています。 
ですから筆跡判断などもできるわけです。 

筆と墨で、『一』 の字を書かして、その人の運命判断をする人がある、
ということも聞いています。 それはたしかにあたるでしょう。

なぜ字にクセがあるのでしょうか。 
それは、その人の潜在意識のなかに積み重ねられた習慣が出るからです。 

私は自分の字のクセに不満を感じまして、
二回ばかり自分の字の書き方を根本的に変えるように努力したことがあります。 

大学時代にノートをとった時に、早く書いて、わかりやすい、
ということを常に心がけて書いていましたために、
字に妙なクセがつきましたので、それを努力して変えました。 

その時には字を書くのがとても遅くなりました。 
なぜかといいますと、一字一字、考えて書くからです。 

このような字を書こうという意志に従って、
一字一字、とても注意して現在意識を働かして書くのです。 

字を書くのに、いちいち考えながら習字の練習のような書き方をするのですから、
おそくなるのは当り前です。 

私は自分の書く字のクセを変えようという努力をしてみて、
潜在意識というものが、どんなに強力な力をもっているのかを
改めてしみじみ知りました。

それまで何も考えずにどんどん書いていた時には、
この字を書こうと思うだけで、どんな形に書こうと考えずに、
無意識に書いていました。 

つまり潜在意識でかいていたわけです。 
自分の長い間の習慣に従って、自分なりのクセに従って書いていたのです。

ところが、その字の形を変えようとしますと、
一字一字、有意識で、考え考え書かねばなりません。 

新しい形の字を書こうと努力しても、いつの間にか前のクセが出て、
それを変えるのに私はとても苦労しました。 

私は自分の字のクセを変えようと努力してみて、
人間が心を入れかえて新しい生活に入るということは、
なみなみならぬ努力がいるものだということもわかりました。

字のクセを変えるだけでも、こんなに努力がいるものなら、
生活全体のクセを変えるためには、
自分を絶えず精進する必要のあることを感じました。 

字のクセを変えるのでも、私のようにその日からムリヤリに変えようとしますと、
ひどく努力が必要なのですが、
習字といって、手本を習って、手本どおりに書く練習を長く続けますと、
ひどい努力をして苦しまなくても、いつの間にか字が変ってきます。

それは手本をみて、自分のクセを捨てて、
スナオに手本のとおりに書く練習をすることによって、
古いクセを捨てようという努力でなく、新しい字の形を繰返し書くことによって、
潜在意識のなかに入れてしまうことなのです。


この習字によって自分のクセのある字を変え、
新しい自分の希望する字にする方法を、人間の日常生活に応用しますと、
生活を楽にいつの間にか変えることができます。 

今までの古いクセを気にせず、
新しいよい習慣を繰返し繰返し練習すればよいのです。 
古い悪いクセを気にして、それを直そうとするのではなく、
新しい良い習慣を一つでも多くつけようという努力をすることです。

毎日、無意識に書いていて、私の字はこんなクセの字だと思っている人でも、
習字によって新しいクセを潜在意識に入れれば、その人の書く字が変るのです。 

繰返し新しい習慣をつけて、潜在意識を変えれば、性格でも運命でも変ります。 
小さいことでも、繰返しと、積み重ねで、潜在意識をかえ、
自分をより良い方向にむけましょう。 

自分の性格や運命は自分のことですから、
自分で努力して良い方向にむけることです。


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晴れときどき(2014 年 3 月 27 日)

          <感謝合掌 令和5年8月5日 頓首再拝>

「もし私が書いたものなら、私は毎日『甘露の法雨』を読誦しないでしょう」~ 徳久克己 - 伝統

2023/08/07 (Mon) 04:50:14


         *徳久克己著 『心の持ち方一つ』 下 心と病気 より

「ところがやはりキリストはちゃんと『我が国はこの世の国にあらず』
 ―  自分の国はこの国ではない、この物質の世ではないということを
 聖書中で言っているのであります。 

 キリストは決して、自分の父なる神がこの物質の世をこしらえた
 とは言っていないのであります。 

 それで、この『物質は無い』という生長の家の発見したる尺度によって、
 キリスト教を解いてゆき、仏教を解いてゆくという時に初めて、
 この神なるものと仏なるものとが一つであるということがわかるのであります」  
     (『生命の實相』 頭注版 第21巻 13頁)


このように教えられまして、生長の家で説く万教帰一ということも、
「物質は無い」という真理によって、仏教、キリスト教をほどいてゆく時に、
はじめて実現するのである、ということがわかります。 

ですから、「物質は無い」という、真理をさとらないで、
万教帰一ということは実現しないわけであります。

 特に、この御文章のなかで、

 「この『物質は無い』という《生長の家が発見した》 ・・・ 」

と書いておられますが、これは谷口先生が啓示を受けて発見された真理
でありますから、《生長の家が発見した》 というところを、
《私が発見した》 と、お書きになられて当然のことでありますが、
それを 《生長の家が発見した》 と書かれて、
御自分のお名前を出しておられません。 

このような書き方をされた所が、
『生命の實相』 のいたるところに出てきます。

 
谷口先生の随行として、各地の講習会をまわっておりました時、
先生は 『甘露の法雨』 をお出しになり、


「この 『甘露の法雨』 は、観世音菩薩が私を万年筆として書かれたものです。 
 もし私が書いたものなら、私が毎日 『甘露の法雨』 を読誦しないでしょう」

と言われました。 

先生は神の啓示によって、『生命の實相』 その他の御本をお書きになった、
ということを 『生命の實相』 にもお書きになっておられます。

     

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VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-02)

          <感謝合掌 令和5年8月6日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(1)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/08 (Tue) 03:58:58


           *『生長の家』(昭和34年8月号)より

生長の家の誌友は是非とも神想観を怠(おこた)ってはなりません。

スター・デーリーは斯(こ)う言っています。

「禅定(ぜんじょう)的神想観(Meditation)は
 若(も)しきわめて完全に行われたならば、
 それは一種の芸術と謂(い)い得るであろう。

 それは音楽や絵画の如く必ずしも特殊の形式に執(とら)われる
 必要はないのであるが、すべて美が形として表現されるときには、
 それぞれの根本的法則があるように、

 メディテーションを行うにも一定の法則があり、
 その法則が完全に行われるときには、
 意識の高揚を体験することができるのである。」

このようにスター・デーリーは言って、
その根本法則を次の7つの段階に分けて示しています ー

(1)決意。

(2)心身を放下すること。(緊張を解くこと)

(3)精神を本尊に集中すること。

  (デーリーはCentralizationという語をつかって次の“精神統一”と区別している。
   彼は瞑目(めいもく)中の眼球を上目附(うわめつき)に額(ひたい)の上方を
   視(み)つめるつもりでキリストの姿を描いて、
   それに精神を一点に集中するのである)

(4)精神統一。

  (Concentrationである。精神集中が一層強力となり純化されて、
   一切の雑念が消える状態である。
   目の裏が蒼空(あおぞら)のような感じとなる)

(5)祈りの言葉の黙念。

   (本尊に対して欲する事物を念ずる)

(6)欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。

(7)既に成就せりとの強烈な自覚。

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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-15)

          <感謝合掌 令和5年8月7日 頓首再拝>

心に“繁栄”を描け~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/09 (Wed) 05:02:15


       *『進歩的産業人の生き方』より

いつも自分の携わっている事業又は仕事が旨く行かないと呟いている人間で
成功したという事実を私は未だ聞いたことはないのである。

あなたの心の事物の暗い面に引っかかっらせて
グズグズ思い煩うようなことは決してするな。 

市場の不景気の話や、金融逼迫の話などを断じて語るな。

 
“言葉の力”を駆使して繁栄のみを語るようにし
衰退のことを決して語るな。

多くの産業人は慢性的に不平不満のコボシ屋になったり
欠陥ばかりのサガシ屋になっているのである。 

このような人たちにとっては、
運命は常にきびしきものとなるのである。 

また彼らは常習悲観論者になっていて事物の
光明面や成功面を決して見ないのである。 
こんな人たちには繁栄は決して訪れて来られないのである。

“成功の樹”はデリケートな樹であって、
それを育てるには心に太陽の明るさが要るのであり、
それを育てる肥料としては、鼓舞激励を要するのである。

 
わたしたちは、自分が常に心に描き、心に宿し、間断なく
わが思いを馳せているところのものを段々成就し、
層一層それを増長せしめる傾向をもっているのであり、

また自分が憎み、軽蔑し、習慣的に否定しているところのものを
剥落せしめて、それと異なるものとなる傾向をもつのである。

わたしたちが今当面しているところの困難を心で否定するならば、
それが今まで吾々を縛っていた縄を解き、
やがてそれは消えてしまうのである。


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晴れときどき(2014 年 3 月 28 日)

          <感謝合掌 令和5年8月8日 頓首再拝>

ケチを附ける心は卑怯な心~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/10 (Thu) 03:50:21


          * 『人生読本』 より

この自他一体の観念の少ない人は利己主義になるのでありますが、
利己主義になって参りますと、自分が偉くなる為には人を貶さなければ
偉くなれないと云う気持がしてくるのであります。

 
自分が80点ならば人を70点にし、60点にしなければ
自分が偉く感じられない事になって人を嫉妬するようになります。 

 
金持を見れば癪に触るし、自分より点数の多い学生は憎らしいし、
自分より収入の多い社員には腹が立つ。 そう云う嫉妬を起す心になると、
自分の心が苦しい上に自分が立身出世出来ないのです。

他が80点なら自分は90点になろうと努力する人なら偉くなるけれども、
そんな気持でなしに相手の点数にケチをつけてやろうと思って
悪口を言うようになったら、人間はもう駄目であります。

自分を偉く見せる為には人を貶さなければ偉く見えない
と云うようなことでは実に浅間しいことであって、
争いは其処から起って来るのであります。

 
生長の家の生き方では決して何ものをも貶さない、
何方の悪口も言わないと云う事が生長の家の生き方になっているのであります。 

それどころか誰に対しても其の美点を見つけ出して賞めるのであります。


人の魂の傷口にナイフを刺込むような、そう云う風な皮肉を浴びせる
わるい習慣のある人が往々ありますが、
斯う云う心の人は出世できないのであります。 

こんな人は織田信長のように明智光秀のように
どちらも滅びて了わなければならないのです。

 
何か良い噂をすると、『併しあの人はこうですよ』と
何かケチを附ける人がありますが、まことに浅間しいことであります。

そう云う人は自分では自分の性質に気がつかないかも知れませんけれども、
そう云う人は往々にして切開手術を要するような病気にかかる事があります。 


それは『類は類を招ぶ』と云う心の法則によりまして、
人の奥底を切り開いてそうして汚いものを掘り出したいと云う気持がある。 

その心は類は類を招んで自分の身体に具象化(かたちにあらわ)るのです。 
これを生長の家では 『肉体は心の影』 と申しております。



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          <感謝合掌 令和5年8月9日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(2)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/11 (Fri) 04:54:39


           *『生長の家』(昭和34年8月号)より


最初の「決意」と言うのは、

「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」

と云う決意をなすことが必要なのである。

聖書にイエスが“神の子”の悟りに入(い)り給うたときに、

「四十日、四十夜、断食して、後に飢えたもう。
 試(こころ)むる者きたりて言う、

『なんじ若(も)し神の子ならば命じて此等の石をパンと為らしめよ』

 答えて言い給う

『人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、
 神の口より出(い)づる凡(すべ)ての言(ことば)に由る』
 と録(しる)されたり」

とあるのは、

イエスが徹底的に神想観をなそうと云う決意の示しがあらわれているのだ
と言わなければならないのであります。

「四十日四十夜断食して後に飢えたもう」と云うのは
四十日四十夜断食して神想観をした後に、
飢餓感が甚(はなは)だしくなったという意味であります。

「飢えたもう」と云うのは必ずしも“腹が減った”
と云うような軽い意味ではありますまい。

たんに腹が減るだけなら、一二日断食しても腹は減っているのです。

だからこの場合の「飢え給う」は、
たまらないほど飢餓感が激しくなったことであります。

その時にサタンが出て来て、

「お前はそんなに神の子だったら、
 此(こ)の石をパンとして食べたらどうですか」

と言ったというのである。

併(しか)しイエスは「唯今(ただいま)、神想観中」と言うわけで、
「神の口より出づる言葉を今受けつつあるのである」とて、
そのような肉体的飢餓感の誘惑を退けて、
「神の言葉」を念じつづけたのであります。


次回に続く・・・

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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-15)

          <感謝合掌 令和5年8月10日 頓首再拝>

あなたの事業が繁栄するために~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/12 (Sat) 04:53:37


      *『生長の家』(昭和45年4月号)より

愛をもって人々を赦し、
愛をもって人々の繁栄をはかり、
愛をもって仕事に従事し、

笑顔をもって人に接し、
愛語をもって人に語り、

明るさをもって自分の心を照らし、仕事を照らし、
研究室も執筆室も事務室も、明るい自信とよろこびの雰囲気をもって
満たすようにするならば、
あなたの事業又は仕事は繁栄するほかはないのである。

 
このような自信と愛と調和と明朗さの中に於て、
神の叡智と波長が合い、神の叡智の導きを受けることが
できるようになるのである。

愛と調和と明朗の雰囲気が家庭の中に漂うことになり、
更に 『病気本来無し』 の哲学を知って、
健康が人間の本来の姿であるという自信を得て恐怖心を去るならば、
殆どすべての病気は癒えるといっても差支えないのである。

 
『愛と調和と明朗と、』 抽
象的にそれが分ったつもりでは効果はないのである。 

あなたは真に愛しなければならないし、
真に愛するならば、無限に赦さなければならないし、
現実的にすべての人々と形の上にも、心の中にも、
少しの摩擦もなく調和した心境にならなければならないのである。



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晴れときどき(2014 年 4 月 5 日)

          <感謝合掌 令和5年8月11日 頓首再拝>

常に微笑せよ、常に感謝せよ~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/13 (Sun) 05:03:37


          * 『人生読本』 より

黒住教の宗教(おしえ)を開いた黒住宗忠と云う人は、
1週間ほどの間に両親が相継いで死んだものですから、
悲しみの末、胸がふさがり、陰気な暗い暗い心になったものですから、
肺病にかかりましたが、

人間は死んでも魂は生き通しであることを悟って
心がクラリと一転しまして、毎日にこにこ笑うようになられましてから
病気が治って了ったのです。

 
そんな話は、生長の家の誌友の中にはザラにあります。

日本ばかりではない、マーデン博士の本の中にも
米国アラバマ州の一人の肺結核患者の農夫が或る日野良へ出て
鍬をもって田を耕しているときに多量の喀血したが、
助かったという話が書いてあります。

慌てて招ばれて来た医者は余り多量の喀血なので、
その農夫に「貴方はもう助からぬ」と申しました。 

その農夫は「まだ死ぬのは早い」とだけ申しました。 
併し起き上がる力もなく唯じっとしておりました。 

家族が出て自宅へ舁ぎ込みます。 
そのうちにやっと物にもたれて坐ることが出来るようになりました。 
その農夫はこの時はじめて気が附きました。

『もう自分は世の中の全ての物にお別れする時が近づいたのだ。 
 色々の物のお世話になって私は今迄生きて来た。 
 併し自分はそれらの物に一度も礼を言ったことがない。 

 いつも自分はすべての物にシカメ面ばかり見せて来た。 
 これから何分間生きるかは知らないが、その間じゅう私は、
 すべてのものに感謝して微笑み掛けよう』

こう決心して、天井にも、机にも、敷物にも、水にも、
そのあたりに見えている全てのものに常に間断なく心で 

『君たち有りがとう。 君たち有り難う』 と感
謝して微笑みかけることにしました。

間もなく、病人は見違えるように元気になり、
喀血のために減っていた血も暫くのうちに殖えて来て、
前よりも一層健康な愉快な男になって来た
  ―  とマーデン博士は書いております。


明るい微笑と感謝の心こそ、浄い健康な血液の造血者(つくりて)なのです。 

ヘマトパンをいくら服んでも暗い心で血を涜していては何にもなりません。 
多くの病人が治らないのはそのためです。

心が腐れば肉体が腐るのです、 
心が腐れば事業が腐るのです。 

『笑う門に福来る』です。 
明るく笑う人の前には、常に健康と幸福との門が開いているのです。 
微笑にまさる健康法も幸福法もありません。


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          <感謝合掌 令和5年8月12日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(3)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/14 (Mon) 04:41:33

メディテーションにとって次に必要な根本的法則は、
肉体的及び感情の緊張を脱落させることであって、
これを道元禅師は「身心(しんじん)脱落・脱落身心」
と云う語で表現されたのであります。

これも最初から完全に行われるにはきまっていないのであります。
それは坐禅をやってみた人々の経験によって明らかであります。


スター・デーリーは次のように謂(い)う ー

「メディテーションは易々加減(いいかげん)に出来る
 ものではないのである。それは世界中の芸術中の最大の芸術である。
 だから、それを実修する人に極度のきびしい鍛錬(たんれん)が
 課せられるのである。


 仮借(かしゃく)なき自己の性格に対する自己批判と
 懺悔(ざんげ)が必要なのは言うまでもないが、
 この芸術を完成せずには置かないと云う決意と、

 忍耐と失敗につぐ失敗や、もうどうしたら好(よ)いかわからない
 杜惑(とまど)いにも屈せずに、どこどこまでもやり遂げる
 “精進努力”と謂(い)う価いを払うということなしには、
 その“手ほどき”さえも得られないのである。


 メディテーションの深い境地に於いては、
 人は“自分自身”に直接対面するのである。

 安光(やすびか)りの安価なニセ物の自分が露呈せられる。

 善良なクリスチャンにありがちな極内密(ごくないみつ)の
 虚栄心のニセモノがニセモノ中の最も恐ろしいニセモノとして
 浮び上って来る。

 今まで平気で語ったゴシップが恰(あたか)も
 殺人罪の如く思われて来る。

 今まで思わず口をついて出た人の悪口がガラガラ蛇のように
 恐ろしいものに思われてくる。

 告げ口することが恰(あたか)もジャーコール狼の
 出現のように見えて来る。

 そして人を審判(さば)くことは恰(あたか)も
 夜襲うて来るハイエナのように見えて来る。」

と言っている。


こうして自己批判が徹底して今までの自分の行為や心境に直接対面して
それらが徹底的に否定され懺悔(ざんげ)されて来るので
なければならないのであります。

つまり神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、
私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように
心を静めて自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置く
ことが必要であるのであります。



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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-15)

          <感謝合掌 令和5年8月13日 頓首再拝>

本当の祈りは『訓への実践』である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/08/15 (Tue) 04:54:05


       *『生長の家』(昭和33年12月号)より

神は、人間が傲慢になることをきらい給うのである。 

だから、イエスは “山上の垂訓” の冒頭に、 

「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり。 
 幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん。 
 幸福なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣がん」 

と教えられているのである。

 
“心の貧しき者” とは、
所謂る進歩的文化人のように頭脳的知識だけで、傲慢不遜に 
“自分の考え” だけが正しいと思い上っている人とは概そ反対の人である。

 
生長の家では 「喜べ、明るく笑え」 と言うけれども、
その 「喜びと明るさ」 とは一度 「肉体人間」 としての弱さに気付いて、
それを悲しみ歎き、神を求めて 「悲しみの奥にある聖地」 に達した 
「喜びと明るさ」 でなければならない。 

むしろ私達は 

“神の祝福を受け得るに足る 「謙遜な心」 「柔和な心」 を与えたまえ” 

と祈るべきである。

 
“謙遜な心” とは “そのまま受ける心” である。 
“そのまま受ける心” なくしては、既にある 「神の恵み」 も
其のまま受けることができない。 

神の恵みは無限であるが自分が受けた程度だけ “自分のもの” となる。 
“無限の可能性” をもちながら、しかも有限なのはその理由である。 

私たちは 「人間・神の子・無限力・何でも出来る」 と傲慢になるまでに、
神の訓えを素直に実践するよう努力しなければならない。 

「神よ、神よと言う者、必ずしも天国に入るに非ず」 と
イエスは教えられたが、更にまた 「汝らわれを愛せば、わが誡めを守るべきなり」 
とも教えていられる。 

神の教えを守ろうとする努力こそ 「神への愛」 の表現であり、
それこそが本当の祈りである。

 
“山上の垂訓” は私達が 「柔和である」 ことの次に 
「義(ただしき)に飢え渇く者」 であることを訓えていられる。 

“義しい” と思うことには飢え渇くが如く勇敢に実行すべきである。 

釈尊は彼岸に達する六つの聖道 〈六波羅蜜〉 として 
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若 を訓えられたが、

イエスは 

「幸福なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり。 
 我がために、人なんじを罵り、また責め、詐りて各様の悪しきことを
 言うときは汝らの幸福なり。 喜べ喜べ、天にて汝らの報いは大なり」 

と訓えていられるのである。

これは、仏教で謂えば 「忍辱」 と 「精進」 の誡めである。 
どんなに罵られても、様々な悪評をたてられても憤慨したり、
腹を立てたりしないで、義しいと思うことを勇猛に精進努力して、
いくら責められても喜び喜んで、勇敢に義しいと思うことを実践する 
―― これが “本当の祈り” なのである。

 
口先だけで、神様にオベッカを言うような祈りをしても
神の誡えを実行しないようなものは、口先だけが神と波長が合っても、
実際に全生命が神と波長が合わないから、祈りが実現しないことになるのである。 

常に努力して慈愛の心を起してそれを実践せよ。 
心と行いとが潔くなる事を心懸けよ。 

人類の危機に際して人類を救うために、光明思想を宣布することは、
人類を愛し、憐憫を実践する者である。

未だ一人も光明思想に導いて救ったことのない者が、 
「神よ、われを憐れみたまえ。 この何々を成就せしめ給え」 と祈っても、
恐らくその人は、神の慈愛を受けることができないであろう。

何故ならその人は、自分が隣人に対して慈愛を実践していないから、 
「神の慈愛の波長」 と、 「神の心の波長」 とが合わないからである。 

だからイエスは “山上の垂訓” に於いて 
「幸福なるかな、憐憫ある者、その人は憐憫を得ん」 と教えている。 
憐憫と云う語は多少変な感じの語であるが、人類愛又は慈愛の心のことである。



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晴れときどき(2014 年 4 月 6 日)

          <感謝合掌 令和5年8月14日 頓首再拝>

信仰のない人は動物と一緒 ~ 藤原 敏之 - 伝統

2023/08/17 (Thu) 04:59:20


           *『救われ済みの人生』 より

環境に支配されるうちは不自由なんですよ。

環境というのは、周囲の条件です。 

この 『生命の實相』 を読めば、環境を支配できるようになるのですよ。 
ここが、信仰のあるものとないものとの違いですね。 

 
信仰のない人は、動物と一緒で、動物というのは自由がない。 
なぜかというと、動物は本能しかない、

人間と動物と違うものは、人間は笑うということです。 
笑わない人は動物並みということになるよ。 


それと祈りがあるということです。 
祈りというと神様か仏様にお願いすることだと
思う人があるかもしれないが、そうではない。 

祈りというのは、いのちをのべると言って、
自分の中に理想があるということです。

内部理想と言いましてね、
だれにも外から教えてもらわないのに、自分の中から出てくる理想がある。 
それが動物にはない、人間だけにある。 

その内部理想というものをみんな持っておりまして、
これを神性とか仏性とととかいう。 
そういうものが人間にはある。 
その内部理想に向かって生きていこうということになる。

そうすると、環境に支配されなくなる。 
動物にはそれが出来ませんので、動物は環境のままになる。 
それから一歩も出られない。

 
生長の家は絶対の自信を持つことです。 
我が神だから、なんにも頼ることはないということです。 

人間は神の子だ、これが生長の家です。 
そうしたら完全な自由が得られるから、病気なんかなくなるです。 
それ以外で、救われる道理はないのです。



https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ad37d73aeba6da16e4bc84173e1e4b08
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-13)

          <感謝合掌 令和5年8月16日 頓首再拝>

谷口雅春先生 黴菌は自分の心でどうにでもなる - 伝統

2023/08/18 (Fri) 04:57:14

谷口雅春先生 黴菌は自分の心でどうにでもなる
seimeinojissoh(2021/09/01)
https://www.youtube.com/watch?v=oW-PScQdAU4

          <感謝合掌 令和5年8月17日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(4)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/07 (Sat) 13:23:14


           *『生長の家』(昭和34年8月号)より

この自己の徹底的批判は神想観又は祈りを繰返しているうちに
益々峻厳(しゅんげん)になって来るのが普通で、

私が『聖道(しょうどう)へ』の中で書いておいたように、
一切の肉食が残忍な行為に見えて来、
呼吸するさえも多くの微生物を殺している
と云う反省にまで発展して来るのであります。


その過程に於いては私たちの潜在意識の底にひそむ
傲慢(ごうまん)な虚栄心と、肉体の自我心とが、
今や謙遜(けんそん)に懺悔(ざんげ)せんとする自分に
挑戦して来ることがあります。


「誰でも肉食しているのに、どうして肉食しては悪いか」とか、
「獣肉を食するのは残酷だと言うが、お前だって魚をくっているではないか。
 米粒だって生きているじゃないか。」

とか云う風に肉体の自我心が言って
魂の向上を妨(さまた)げようとするのであります。


また時には内密にただ心のうちに空想で犯していた罪が
想(おも)い出されて来て、自分を“不浄の者”として
叩(たた)きつけて再び起ち上がれないほどの魂の苦渋を
味(あじわ)わすこともあります。

自分の不信仰の根の深さがわかって人間的なプライドや自尊心が
崩れてしまう時もあります。


こうしてメディテーションを続けている最初の或(あ)る段階に於いては
自己の無価値が痛感されて信念が滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にあらされて
もう困憊(こんぱい)し切って、血塗(ちまみ)れのたたかいに、
もうどうすることも出来ないような心境になることもあるのであります。


若(も)し私たちが、内に潜(ひそ)む「自我の正体」を
神が見給う如く見詰め、更にそれを見詰めつつ押し進むならば、
私たちは迷いの深さに、とても実相を顕現する見込などはない
と感ずるようにさえなるのであります。


しかし優れたる修行者はその中から勇敢に立上ります。
「自我の正体」をまざまざと精視(せいし)して、それに対して
「サタンよ、去れ」とイエスが言ったように肉体的自我を否定する
ことができます。


併(しか)し、「自我の正体」に対面したとき、
それから抜け出すことをしないで、「それほど悪いことでもないや」と、
帰って来てくれることを待っている古い肉体我の誘惑の温い腕に
いだかれたくなって元の黙阿弥(もくあみ)になってしまう人たちも
随分あるのであります。


だから

「“どんな事があっても精進努力をつづけて退転しないと云う決意”
 と云うものが最初に是非必要だ」

とスター・デーリーは神想観の過程のトップ事項に
“決意”を挙げたのであります。

https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8ee3c2037c329d1ccc9d7ef944a55a45
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-16)

          <感謝合掌 令和5年10月7日 頓首再拝>

善意、深切、愛念 ~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/08 (Sun) 18:40:37


       *『生長の家』(昭和47年2月号)より

善意も深切も愛念も、それは人生に咲いた美しい花である。 

しかしそれは凋み易い可憐な花である。 

それは実行に移さなかったら、
果(み)を結ばないで散ってしまう花である。

 
しかも、それを実行に移しても
善き果を結ばないで却って誤解を招くことがある。 

歴史を繙いてみても、善意の人間が逆遇せられ、
困難に遭遇し倒れてしまった実例は沢山ある。 

それは、何処で何を如何に誰になすべきかの
四相応が得られなかった結果である。 
この四つの適行が出来るためには神の叡智を頂かねばならぬのである。 

そのためには 『神想観』 を怠らぬことである。

善意をもって、その実行中に倒れてしまった人と、
善意をもたずに利己一点張りで、大いに栄えた人との
魂の価値はどちらが高いであろうか。 

現実的世界に於ける評価は後者の方が時には高いことがある。 

併しその人が現象世界を去って、魂が霊界に往った後の評価は、
現象界とは異る霊界に於ける価値判断の基準がある。 

そこは “霊” の世界であるから、


物質的成功は、評価の基準にならないのである。

彼が如何に善意をもち、彼が如何に人間及び生物を愛し、
彼が如何にそれを実践しようとして
忍耐づよく意志の努力をつくしたかが基準になるのである。


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晴れときどき(2014 年 4 月 15 日)

           <感謝合掌 令和5年10月8日 頓首再拝>

軍備は国家の威厳である~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/09 (Mon) 18:51:32


         *『真理』第9巻 生活篇 より

「予想する」と云うことは一種の「祈り」である。

不幸や災厄や戦争や病気を予想することは、
それらの不祥事を起るように祈っているのと同じことである。

「軍備は戦争を予想するから却って戦争を招く」 
と主張する者もあるけれども、

「国家の威厳」 として軍備をととのえるとき、
「その威厳によって、決して他国は自国に侵略などしてくるものではない」 
と云う信念が湧いて来るならば、
軍備は決して戦争を予想することにはならないのである。

 
軍備と云うものを、ただ戦うためのものだと考えることは間違いである。

軍備は女郎蜘蛛や毛虫が毒々しい色をしているために
鳥類からの捕獲をまぬがれるのに似ている。

鳥類が昆虫をとろうと思えば、
毒々しい色彩などは何ら防禦の実力はないのであるが、

それあるがために一種の威厳を備えていて、
小鳥は此らの蜘蛛や毛虫には近寄ることを敢てしないのである。



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VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-13)

          <感謝合掌 令和5年10月9日 頓首再拝>

呼べば應へる~谷口恵美子先生 - 伝統

2023/10/10 (Tue) 12:05:50


恵美子の誕生日

        *「光明法語(10月10日)」より

今日は自分の娘恵美子の誕生日である。

彼女は関東大震災に震災直後の無一物の吾々の家庭に生まれたが
一度も生活に不自由した事がない。

震災で吾々が避難する時にも、彼女のお産に要する一切の用品、
及び生まれてから着る為の一襲(ひとかさね)の縮緬(ちりめん)の布団、着物
《こどてら》などは、私が担いで出たので彼女のみは何の不自由もなかったのである。

それから後にも彼女は一度も不自由をした事がなかった。
何でも欲するものは与えられ、「お菓子来い」と空中に向かって叫べばお菓子が出た。

・・・

谷口恵美子先生は、大正12年10月10日に富山県高岡市で御誕生されました。
大正12年は、9月1日に関東大震災のあった年です。

・・・

以下は、昭和四十八年「白鳩」誌 四月號「呼べば應へる~谷口恵美子先生」
https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251156
道産子さま投稿2022/03/13 (Sun) 08:48:32~2022/03/21 (Mon) 08:27:51
からの言葉です。

神樣は愛し合ひ、生かし合ふことのよろこびを
私たちに経験させようとしてゐられるのです。

人間の生命のみならず、すべての物の生命をもつと尊び、
目新しさ便利さ、恰好の良さに惑はされずに、神に生かされてゐる感謝を、
すべての物を生かす愛行へと轉じてゆかなければ、
幸福な世界は現はれて來ないでせう。


愛するものは愛され、與へるものは與へられ、奪ふものは奪はれる。

これが眞理なのです。

        <感謝合掌 令和5年10月10日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(5)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/10 (Tue) 14:42:50


           *『生長の家』(昭和34年8月号)より

次に必要な課程は「身心を放下すること」である。
「緊張緩和」と言う方が現代人にはピンと来るでありましょう。

「放つ」心境になろうとあまりも努力するがために、
却って緊張を増すことにもなるのであります。


私が発見した有効な方法は、全託の気持になり、
呼吸を調(ととの)え、呼吸に合わせて「平和であれ、静かであれ」
と念ずることであります。


或(あるい)は「われ神の生命の洗礼を受く、われ神の生命の洗礼を受く
」と念じながら息を静かに静かに吸い、「われ神の生命に浄められたり、われ、
新らしき者なりたり」と念ずると不思議に全心身が浄まって最早、
罪なき者と云う自覚とともに、「脱落身心、身心脱落」の境地に入るのであります。


肉体だけを力を抜く練習をしましても、
心に罪の観念や、力(りき)みや緊張が残っていましては、
本当の緊張緩和になり得ないのであります。

https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8ee3c2037c329d1ccc9d7ef944a55a45
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-09-16)

          <感謝合掌 令和5年10月10日 頓首再拝>

自己表現としての世界~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/11 (Wed) 13:07:54


       *『生長の家』(昭和33年8月号)より

この世界は自己表現の世界である。 
自己の内部に播かれたる普遍的にして個性的な天分を表現したとき、
その人は悦びを感ずるのである。
 
 
母親は子供に対する愛情を完全に表現し得たとき、
母親としての普遍的な悦びを感ずる。 

しかしその表現の仕方は個性的であって、
ひとりひとりの母親によって異るのである。 
だからこれを 「普遍的にして個性的な天分の表現」 と言うのである。

 
良人は妻を愛し得たとき良人としての普遍的な悦びを感ずる。 
しかしその愛し方は個性的である。  

宗教家は信仰をその体験と説教とを通じて表現し得たとき、
宗教家としての普遍的な悦びを感ずる。 
しかしその体験と信仰とは、その人に独特の個性的なものである。  

美術家は美を表現し得たとき普遍的な悦びを感ずる。 
併しその美の表現の仕方は個性的なものである。  

この世界はまことに普遍的にして個性的な表現の世界である。

 
この世界は自己表現の世界ではあるけれども、
自己表現を遂げるがために、他の人の自己表現を妨げたり、
他の人に苦痛や不幸を与えるようなことをしてはならないのである。 

何故なら、此の世界を表現している 「奥なる生命」 は
すべてのものが一体であり、互に侵し合うことなく調和した
生かし合いの世界であるからである。 

これが 「実相の世界」 の秩序である。

 
だから此の 「実相の世界」 にある善きものを
現象界に調和してあらわすには、他の幸福を侵すような形で
それを求めてはならないのである。 

他を侵すような形に於いて求めるならば、
それは実相の秩序と相反することになるから、
実相の世界の秩序と波長が合わず、

求むる事物が得られないことになるばかりではなく、
若し、それが得られたら、実相の秩序が崩れて
不調和な状態に苦しむようになるのである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p33.html
晴れときどき(2014 年 4 月 16 日)

           <感謝合掌 令和5年10月11日 頓首再拝>

偉大なり言葉の力 ― 「ありがとうございます」の葉書 ~吉田 武利 - 伝統

2023/10/12 (Thu) 18:50:29


            * 吉田武利・著『今日がいちばん好い日』より

手紙を出すのも言葉の力です。 

 
かつて谷川吉次郎先生と御一緒に数日間出張した事があります。 
見ていると、谷川先生毎日必ず葉書を1枚ずつ書いておられます。

 「一体どなたに書いているのですか?」  とおたずねすると、

 「女房にですよ」  

当時、谷川先生はもう相当なお年でした。

 「へえー、よく続くものですね」  

 と半ば冷かし半分に申しますと、先生はニコニコして、

 「吉田さん、毎日1枚の葉書で、
  女房のサービスが良くなると思えば安いものですよ」

 と冗談めかしくおっしゃいました。 

私は “谷川先生は真理を実践されておられるなあー” と感銘したことです。


宇治に居った時のことです。 
類は類を呼ぶと言うか、ある練成で親不孝の青年がワンサとやって来ました。

「親に感謝せよ」 という話を聞いてくれたら良いのですが、
そういう話をするとゾロゾロ講堂から出てゆくのです。 

「どうしようか」と思った時、徳久先生から 
「どんなに親不孝に見えてもその実相は神の子である。 
 われわれ道場員の役目は、あくまでその実相を拝み切ることである」 

と常に教えられていることと、

「言葉の力」ということを思い出し急遽 
“故郷に感謝の便りを書く時間” を設けて練成会の皆さんに呼びかけました。


「今日で練成会も半ば、これからいよいよ練成の醍醐味の出る後半に
 入るわけですが、これまで感謝できなかった人に感謝できた方も沢山いる
 と思います。 
 
 しかし、心で思うだけでなく、言葉で表現することが大切です。 

 それで、これから故郷に感謝の便りを書く時間を設けますから 
 “今日で練成の◎日目、今まで一番感じたことは
 お父さん、お母さんありがとうございますということです” 

 とか 

 “貴方は世界一の夫です。 ありがとうございます” という風に
 感謝の便りを書いて出しましょう。 

 まだ感謝の心がわかない人でも、勇気を出して “ありがとうございます” 
 と書くと、素晴しい事になりますよ」

便りを書く時間が終ったら、大阪からきたS君という青年が私のところに来て

「先生に言われて、初めて親父に葉書を出しました」

と言います。 

この青年は、お母さんは死んで父一人、子一人の家庭なのですが、
1年ほど前に恋愛をお父さんに反対されて駄目になり、
それからお父さんを怨んでヤケになって、飲む、打つ、買うで
1年間で財産を半分も使ってしまったという青年でした。

「ほう、何と言って書いたの?」  と聞くと、ニヤニヤして、

「嘘でも“ありがとうございます” と書いたら良いということで
 はじめ “ありがとうございます” と書いたけど、
 あと書くことが無いので “ありがとうございます” “ありがとうございます” 
 と7つ書いたら、葉書が一杯になったもんで、
 最後に “ハイ、それまでよ” と書いて出したよ」  と言うのです。

ところが、この「ありがとうございます」の7つの1枚の葉書が
偉大な働きをしました。 

1日置いて翌々日、大阪から当のお父さんが息子を訪ねて、
宇治の道場にやって来ました。

見れば、半分白髪で腰の少し曲った方です。 
丁度、私達は山崩しの献労をしていましたが、
「せがれ、いないか」とキョロキョロさがしても見当りません。 

彼は献労をサボって、陽当りの良い道場で昼寝をしていたのです。 
それをようやくお父さんが見つけて、息子の名前を呼びます。 
目を覚まして見るとお父さんがのぞいている。 

半分夢心地でぼんやりしていると、お父さんが、

「昨日良くあの葉書をくれた。 今まで長い人生で、
 嬉しい事も悲しい事もあったが、あんなに嬉しかったことはなかったよ。 
 お前のくれた葉書を、神棚に捧げ、仏壇に供え、何回読み返したか分らない。 

 それで、お前の帰って来るのが待てなくて、
 小遣いと、お前の好きなバッテラ寿司をもって来たよ」  

と目に涙を浮かべて言うのです。

 
息子は、最初は 

“お父さんはバカだな。 
 おれは何も本当にありがたいと思って葉書を出したのじゃない。 
 吉田講師に言われて、面白半分で出したのに” 

と思っていたのですが、その気持を打ち破るように 

“こんな頑固親父を持って損をしたと思っていたのに、
 あんな面白半分の葉書で、こんなに喜んでくれるお父さんだったのか、
 すまなかった ―― ” 

という想いが腹の底からぐぐーっとこみあげて来て、思わず、

 「お父さん!」

と、まるで幼な児のようにすがり、お父さんも息子を抱いて、二人で泣き合い、
私達は、献労終ってその美しい憧憬を目のあたりにして
共に涙を流し祈らせて頂きました。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ac9722aab45bde1680d1a33d822cb736
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          <感謝合掌 令和5年10月12日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(6) - 伝統

2023/10/14 (Sat) 13:21:13


こうして身心脱落の心境に入った次には、
本尊への精神集注(しゅうちゅう)を行うのであります。

スター・デーリーは、キリストの姿を心に描いて、
それに精神集注をするのでありますが、
生長の家は万教帰一でありますから、
キリスト教徒はそのようにして宜(よろ)しいですが、


浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀仏(あみだぶつ)の尊像を
心に描いてそれに精神集注を行うのもよろしいし、
真言宗ならば、大日如来(だいにちにょらい)の尊像又は
「阿字(あじ)」を心に描いて、その本尊に精神集注を行うのが宜しい。


日蓮宗の人ならば、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の
お曼荼羅(まんだら)を心に描いて精神集注すればよろしいし、


今まで信仰なくして最初から純粋に生長の家だけの信仰に入った人や、
「実相」の中に一切の本尊が存在すると云うことが理解された人ならば、
「実相」の大文字を本尊として心に描いて、
それに精神を集注するがよいのであります。


要するに本尊への心の集注によって、
本尊の御遺徳によって、一切の雑念妄想が消え去るのであります。



https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/43e5b9e73135db3a6806d52341888a12
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          <感謝合掌 令和5年10月14日 頓首再拝>

”神嘗祭”の意義~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/15 (Sun) 05:00:48


       *白鳩箴言~神と人間との交渉(昭和48年3月)
        【21日の箴言】 ~ 神は「物質」の食物を食し給はない

宇宙普遍の神に對して、物質的食物等をお供へすることは不必要である。

神は”靈”であるから物質の食物をお喫りにならないからである。

だから神御自身の方から言へば
「われは供へ物は要らぬ」と仰せられるのは當然のことである。

しかし日本には、「収穫の初穂を神にお供へする』といふ行事が
自然發生的にあり、從來、それは國家的祝祭日として
”神嘗祭”と名付けられてゐたのである。

靈なる神が物質的食物をお喫りにならないのは明らかではあるけれども、
収穫の初穂をお供へするのは、

「この収穫は、神樣あなたの恵みの結實として得られたものでございます。
 こんなに立派に出來ましたから御覧下さいまして、お悦び下さいませ」

といふ氣持で、神にその結實の立派さをお見せ申して
お禮を申し上げる程の氣持で獻饌するのである。

それが終戰前の”神嘗祭”の意義であつた。

https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8251351

          <感謝合掌 令和5年10月14日 頓首再拝>

宿業を光明に転ずるには~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/15 (Sun) 18:03:08


           *『生長の家』(昭和47年2月号)より

宿命というものは、神が与えたものではないのである。 
それは生れ変りの 「前世代」〈複数〉 に
自分が “心” と “行い” と “言葉” とで
積み重ねて来た業の最後の “決算表” みたいなものである。 

その決算表を帳尻として、新年度を迎えたのが、
我らの此の世への誕生である。 

自分でつくった帳尻だから、それは自分が責任をもって
背負わねばならないが、前年度に赤字つづきの会社でも、
新年度に入って、社長の経営方針が変ると、
隆々としてその会社が栄えることもあるのと同じように、

宿命と見えるようなその人の運命も、今世の心の持ち方と、
実生活それ自体の経営如何によって、
どうにでも運命を改善する 「自由」 が
人間には与えられているのだから、宿命も宿命ではないのである。

 
しかしその運命の改善には “神の子” の自覚を深め、
神の叡智にどれだけ自分の心の波長が合って、 「神の心」 を
そのままに自分の生活を営むことが大切である。 

それには矢張り神想観を励むことが必要である。


「宿命と闘う」 というような “構える心” は必要ではない。 
相手を敵と見とめて心を構えるならば、
相手は一層自分を害する力を強めることになるのである。 

 
“宿命” というものは外部から自分の運命を規制するが如く
やって来るようだけれども、それは恰も癌細胞が何処か外から
人体を害するものが侵入して暴れ出したかの如く見えても、

実は外から来るのではなく、自分自身の体細胞が変形して
癌細胞となりつつ増殖しつつあるのと同じように

、宿業というものは、自分自身の善業・悪業の総結果として、
生れ変りの前世代の総決算としてあらわれて来ようとしているのだから、
それは 「敵」 ではなく、自分の積み立てておいた業果であるのだ。

 
だから、それが形にあらわれたら、見えざる世界に積まれた借金が、
形にあらわれて返済されつつあるようなものだから、寧ろ  

「ありがとうございます。 これで過去に借金した業が、
 形にあらわれて返済されたのであるから、
 これからは善いことばかり現れてまいります」  

と感謝合掌するがよい。

 
こうして心を明るい方に転ずることによって、
たとい暗い宿業が過去から積まれていても、
それを明るい方向に転ずることが出来るのである。


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晴れときどき(2014 年 4 月 18 日)

           <感謝合掌 令和5年10月15日 頓首再拝>

善人は一致団結せよ!  私たちは真理を握っている~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/16 (Mon) 20:13:26


        *昭和39年5月 生長の家青年会全国大会 御講話
         (『理想世界』 昭和40年2~3月号)
           『實相と現象』  より

さて、私たちが神のみこころに叶う良き願いをもっておりましても、
それがただ一人でその願いを成就しようと思って祈るよりは、
多勢、一緒に、それを祈る方が功を奏することが多いのであります。
 
「数は力である」といわれておりますし、
「点滴石を穿つ」という諺もありますように、一滴一滴の水では、
大した力はないけれども、その水が沢山集まって滔々と流れるようになると、
タービンを回転して、水力電気を起こして、無数の機械を
自由に運転することができるようになります。

その水が一つも集まらないで、ただバラバラと雨のしずくみたいに、
方々に広がって落ちているだけでは、それはただ地面をうるおすだけで
タービンを回転する力が出ないから、
電気を起こすわけにもゆかないのであります。

またバラバラに降った水が、一定目的に集中せられないで、
その分量が多い場合には、それは破壊的にはたらいて
洪水を起こしたりして人の迷惑になるだけである。 

それが本当に水力電気のようなものをおこして、人の為になるのには、
その多くの力を結集して一つの目的に向かって注ぐというところに、
それが偉大なる力を発揮し、建設的な働を成就するということになる
のであります。

 
そこで社会的、国家的、人類的な大きな目的に関する願いは
個人が一人一人で祈るよりも集団の祈りが一層効果をあらわすので、
教化部、道場等に集まって「早朝の祈り」とか「夕べの祈り」とかをするのが、
一層効果が多いのであります。

 
併し、祈っているだけで行動をおこさなければ、
物事は成就しないのであります。

行動を起こすにしても、一人一人ばらばらに行動しているのでは効果は乏しい。 
個人は互いに集会し団結して団体及び組織の力を利用し
節度ある集団運動をする方が実現の速度も範囲も大きくなるのであります。

 
今までの善人は、あまりにもおとなしすぎて黙って控え目にしていて、
悪人の方が団結して、言いたい放題のことを主張したり、
群集行動の圧力で利己的な要求を貫徹しようとする。 

それでは悪人が跋扈するばかりで、社会も国家も良くならないのである。

昨年の憲法記念日にも、愛国者の方の講演会はなかったが、
占領中に占領軍の圧力によって定められた憲法を擁護すると称する
左翼の団体が3つも大講演会を開いて、
大いに気勢をあげておったのであります。

私たちは、占領軍の圧力によって、
占領軍から提供された英語の憲法草案にもとづいて、
いちいちGHQ(占領軍司令部)に相談することを余儀なくされ、
占領の圧力のもとに、圧迫を感じながら自由意志を完全に
表現することができない中で作られた憲法に、
いつまでも甘んずべきではないのであります。

 
私たちは本当に国民自身の自由意志で、
日本国の歴史の伝統の上に立った日本精神によるところの
憲法を作らなければならない。

しかし、そういう正統の民族精神の愛国団体は、
あまり運動もデモンストレーションもしなかったのであります。 
これはまことに残念なことであると思うのです。 

反国家的な者が団結して、言いたい放題のことを主張したり、
群集行動の圧力でその要求を貫徹しようとしているのに、
善人は腕を拱いてじっとしてる。 

そんなことでは社会も国家も良くならないのであります。

 
本当の愛国者である善人が、その目的を一にして大同団結して
建設的に協力することによってのみ、
すみやかに日本の国家社会を良くすることができるのであります。

 
私たちは真理を握っているのであります。 
世界平和の根本となるところのもっとも高き
霊的な真理の鍵を握っているのであります。

吾々の想念は、ただこの肉体を支配し得るだけではなく、
先刻、朗読された台湾からの手紙にもあったように、
自分の周囲にあるものを変化する力をもっている。 

ミシンでもバケツの孔のあいたのでも、
ただ想念が変るだけでそれが直るほどの力をもっているのであります。

しかしそれは、個人の精神力だけでは、それほど強力であっても、
ミシンやバケツが直るだけで、広く台湾の****全体や
****ぜんたいを変化するというような力はないのであります。

 
そこで私たちは団結を必要とする。 
特に皆さんは人類救済の根本真理なる 『生命の實相』 の
完全な真理を学ばれたのですね。 

そういう人が、唯ひとりで為すところなくジッとしているのは残念です。 
またジッとしていないにしても、一人ずつバラバラに運動するだけでは、
それほどの影響を全世界に与えることは出来ないのであります。

そこで私たちは団結して、神想観を集団的に実践すると同時に、
その結果、内部からもり上がって現象世界に現れてくるところの行動も、
多勢が団結して秩序正しくそれを団結した行動として実践するとき、
その時にこそ私たちは、全国民を動かし、日本国家を万全の基礎の上に
安泰ならしめ、世界を動かし、地上の人類全体を平和にするところの
力と成ることができるのであります。

 
ですから、皆さんは、
この素晴しい真理をだれよりも先に知らして頂いた先覚者としての使命が
如何に重且つ大なるものであるかを自覚し、同志をできるだけふやして、
分派行動のようなことによって、団結の力を弱めることなく、
中央部から今度の議会には此の人を推薦すると決定したならば、
秩序整然、中央部の統制のもとに、一糸乱れず歩調を一つにして
動いて頂くことが必要なのであります。

そう致しましたならば、一人一人の力は弱くとも、団結の力により、
交響楽のように一人一人の力が増幅しまして、吾々の目標とする
理想実現の力は一層大きく強くなりまして、

日本国家の基礎を磐石の上に置くと同時に
全世界に本当に平和をもたらすところの原動力に
皆さんがなり得るにちがいないと信ずるのであります。


生長の家の発祥当時の声明である 『七つの光明宣言』 の終結に、
「吾らは地上に天国を実現するための実際行動を起こす」  と、
書かれていますように、生長の家は、決して個人だけの救いが目的ではない。 

個人も無論現実に多数救われつつあるが、その救われた人たちが、
自分だけ救われたらよいというような考えで卒業誌友になって、
ひっこんでいてはならないのであります。

皆さんは神に選ばれたる選士としての使命を自覚して、
一致団結して一層大いなる貢献を人類に対し国家に対して
成さんことを希望致す次第であります。

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VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-15)

          <感謝合掌 令和5年10月16日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳(7)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/17 (Tue) 19:26:04


神想観の第六過程である「瞑想」は Contemplationを訳したのであります。
「黙念を持続的につづけておれば自然に瞑想になる」と
スター・デーリーは言っています。


「黙念」の場合には「吾々は本尊を通して本尊の中で念ずるが、
瞑想の場合には吾々の内で吾々を通して本尊が念ずるのだ」と
デーリーは注釈しています。


まことに神想観の深い状態に於ける心境を
道破(どうは)したものと言えましょう。


「自分」と云うものが「神」と対立していて、
「自分」が神に対して「祈る」と云う最初の状態から
段々「自分」が神に近づいて行って距離がなくなり、
ついに「自分」が神の中に入って念ずる

 ー まだその境地では、神の中に「自分」と云うものがありながら、
「自分が祈る」と云う感じがある限り、
神と「自分」と云うものの対立は消滅していないのであります。


それが段々、「自分」が無くなり、
「自分」と云うものが神に同化する境地になります。
自分と神とが一体になってしまう。


神が自分であり、神がこの肉体の中で念じておられるのだ
と云う境地になるのであります。

これが黙念→瞑想→既に成就せりとの強烈なる自覚への到達
と云う順序であります。

 【完】


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          <感謝合掌 令和5年10月17日 頓首再拝>

秩序ある愛の中で~谷口恵美子先生 - 伝統

2023/10/18 (Wed) 13:29:50


世の中の秩序が崩壊して、夫婦の秩序もなくなり、
家庭がゆらぎはじめていることが、現代のさまざまな問題の
根底をなしているように思われます。

中心に帰一して、秩序ある中に、互いの愛に応え合ってこそ
平和が生まれてくるのではないでしょうか。

 私たちは常に 『世界平和の祈り』 をします。


   「神の無限の愛 われに流れ入り給いて 愛の霊光燦然と輝き給う。

    その光いよいよ輝きを増して 全地上を覆い給い、

    すべての人類の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う」

 
このお祈りの言葉がはじめて示されたとき、 
「愛と平和の真理を満たし給う」 と終っていましたが、
しばらくたって、 “秩序と中心帰一” を加えられたことを覚えています。


愛と平和を唱える運動は世界に沢山ありますが、
それだけでは世の中は納まりません。

中心帰一と秩序の中でこそ本当の愛と平和の花が開くのであり、
それを実現させてゆくために、 “神の子として生きる” 使命を
私たちは与えられていると、この日しみじみと感じたのでした。


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晴れときどき(2014 年 4 月 20 日)

           <感謝合掌 令和5年10月18日 頓首再拝>

自己教養の努力と荘厳美~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/19 (Thu) 15:36:16


         * 『人生を前進する』  より

小泉信三氏がラジオ放送で、西洋の誰かが
「40歳以上になったら自分の顔に責任をもたなければならない」と
言った言葉や、

明治の文豪森鴎外氏が
「40歳以上になって若し親が生んでくれた通りの人相をしているなら
 恥じなければならない」と言った言葉などを引用して、
人間の容貌は、自分の心で造るのだということを話していたが、


その小泉信三氏は戦火で爆弾の破片を顔面に受けて、
いちじるしく皮膚が損傷しているにもかかわらず、
小泉氏全体の容貌から受ける感じは決して醜くはなく、
むしろ立派な感じを受けるのは、

小泉氏の深い教養がその肉体的損傷の不整形を補って
立派な精神的素養の雰囲気をその顔貌から放っているからである。 

これはドイツの勇将モルトケ将軍が顔を損傷して、
片目であったが少しも醜い感じがせず、その容貌に威厳の感じを
失わなかったのと好一対であると言えるのである。

 
諸君の教養は、諸君の容貌にあらわれるのである。

容貌の美しさというものは決して単なる形だけではないのである。
 内部から外貌へと盛り上って来る精神の美しさというものが
本当の美をつくるのである。 

 
精神的教養の深い者は、生れつきの顔の形がどんなに拙いようで
あっても、或る精神美というべきものを備えている。 

精神的教養の低きものは、どんなに生れつきの容貌が、
いわゆる「美貌」であり、「美人型」であっても、
何となくその容貌から発散する雰囲気が低卑であり、
引き締った感じがなく、どことなく空ろな価値すくない感じがする
ものである。

毎日毎日の諸君自身の心の動きは、自己の容貌に対して鑿をふるって、
自分の将来の容貌をきざみつつあるのである。 

それと同時に毎日毎日の諸君自身の心の動きは、
自己の将来の運命を「自己の心の形」に造構しつつあるのである。 

だから、容貌と運命とはたいがいに自然に一致することになるのである。


しかし、将来の運命を決する手段としてのみ、
諸君の「今」の人生は存在するのではないのである。 

「今」が諸君自身の「人生」なのである。 

若き、諸君の如く有望なる青年が、熱心に自己教養のために、
自己改造のために、努力しているその相(すがた)そのものが
一種の荘厳美なのである。 

 
ロダンの如き大彫刻家が、作品を彫(きざ)むのに一所懸命の努力を
尽している光景を想像してみよ、その生命力みちあふれた努力
そのものが実に荘厳なる美しさではないか。 

然らば、諸君が、大理石や粘土や石膏に彫刻するのではなく、
実際に 「生きた人間の運命」 を一所懸命に彫刻しつつある光景
そのものが実に素晴らしい荘厳さではないだろうか。

それなのに多くの若い人たちは、この「生きた人間の運命」を
彫刻するという素晴らしい荘厳なる仕事に一所懸命の努力を
献げようとしないで、人生に生半可な努力しかしないで、
無駄なくだらない事に時間を浪費しつつあるということは
まことに嘆かわしきことなのである。 

諸君は決してそのような愚を学ぶことをしてはならないのである。 

 
私は諸君が今自己の本性が「神の子」であることを知り、
その「神の子」なる実相を、より一層明瞭に顕現せんがために
一分一秒と雖も自己教養につくすことの美と価値を知り得て、
一瞬も空費することなく努力せられんことを希望するものである。

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VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-18)

          <感謝合掌 令和5年10月19日 頓首再拝>

人生を善くする根本的悟り (1)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/20 (Fri) 18:48:44


        *『 光の泉 』 昭和四十二年四月号より

人間は“神の子”である
この自覚が根本である


『 愛と光との生活 』 の二百十二頁の四行目のところから
読みながら話すことに致します。


「 『 命(みこと) 』 という字は
 同時に 『 命(いのち) 』 という字であって、
 神様という意味であります。

 自分の生命(いのち)が神様だ、ということであります。


 男なら某(なにがし)の日子命(ひこのみこと)であり、
 女なら某の日女命(ひめのみこと)であるのであります。

 西洋ではこれを 「 神の子(サンノブゴッド) 」 というのです。

 どこでも同じことであります。


 ところが、それを自覚しないで、
 自分自身をいい加減な下らない人間だと思っているから
 “ 下らない行い ” が自然に現れてくるのであります。


 自分の自覚が 外へ現われるのでありますから、
 自覚を改めようとしないで『 現われる 』ところの形ばかりを
 抑えようとしても中々難しいのであります。


 しかし、『 現われ 』 の根元であるところの潜在意識を浄(きよ)めて、
 自分は神の最高の自己実現であるから神々(こうごう)しいものなんだ、

 本来 “ 日子 ” であり、 “ 日女 ” である

 というこの自覚を持つようにしますと、

 自然に神々しい行ないが出来てくるのであります。」


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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-11-10 )

          <感謝合掌 令和5年10月20日 頓首再拝>

“祈り” は実践と努力とによって完成する~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/22 (Sun) 18:49:20


         *『生長の家』(昭和33年12月号)より

「神」 なる “永遠の完全理想” に近づこうと云う努力が 
“真実なる祈り” である。

 
“真実なる祈り” とは、
「病気を治して貰いたい」 とか 
「金を儲けさせて貰いたい」 
と云うような利己的満足を懇願することではないのである。 

「神」 なる 「永遠の完全理想」 に近づくことによって、 
「永遠の完全理想」 の中には、病気も貧乏もないから、
自然、病気も貧乏も消滅してしまうのである。 

過去の心と行いとに対する懺悔の念が、
その人から “ニセモノ” の殻を脱がしめ、
神の波長に近づける心境にその人をするのである。

 
神に近づくには真剣でなければならない。 

「明るく笑え」 と言っても、
冗談や不真面目な笑いであってはならないのである。 

真剣に神に近づくことを求むる者のみが、
自己の人格を聖化することが出来るのである。 

誘惑に負けてはならない。 
吾々は自己の “心の波長” だけのものを受取ることが出来るのは、
ラジオ・セットと同じことである。

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晴れときどき(2014 年 4 月 22 日)

           <感謝合掌 令和5年10月22日 頓首再拝>

笑えない大病人、笑いの押売り  ―  杉浦慶一氏の指導~有留 弘泰 - 伝統

2023/10/24 (Tue) 13:26:00


      *『行』(昭和16年 9月・10月号) より

私が静岡県の気賀と云う町へ講演に参りました時、
影山林次郎さんと云う熱心な誌友の方の奥さんにお会い致しました。 

この奥さんは『笑い』によって子宮癌と云う医学では何うすることも
出来ない様な大病から救われてぴちぴちと元気に働いておられました。 

そのお話を少し詳しく致しましょう。 
それはただ病気の癒っただけではなく、
日本女性に対する尊い教を含んでいるからであります。

 
影山さんの奥さんはお嫁さん(息子貞夫さんの妻君)と枕を並べて
瀕死の床に横たわっていました。 

お嫁さんは腸結核と云う、これも大病で、
二人ともお医者さんからは匙を投げられ、
おまけに永らくの大病でその日の薬代にも事欠くと云う有様で、
この上何うすることも出来ず、ただ死を待っていたのです。

 
そこへ 杉浦慶一 と云う若い生長の家の先生が講演にその町に
来られたので、武田保さんと云う熱心な誌友の方が、
講演前の1時間を割いて貰って影山さんの家へ杉浦先生を案内されたのです。

 
杉浦先生が部屋に通られますと、影山さんの奥さんは、
早くこの苦しみを救って欲しいものだと、苦しそうな目つきで迎えました。 

ところが杉浦先生は 
『おばさん、暫くお待ちなさい。 一家では御先祖様が一番大切ですから
 先ず御挨拶をしましょう』 

と仏壇の前に行って 
『甘露の法雨』 と云うお経を朗々とあげられました。 
30分ほどで終りますと枕頭へ来て話し出されたのです。

 
杉浦先生のお話と申すのは次の如くでありました。 ―――

『おばさん、生長の家では本当は「病気は非実在(ない)」と云うのですよ。 
 しかしあなたは“ある”と云うでしょう。 私は無いと云う。 
 あなたは此処にコレこの通りあると云う。 

 有る、無い、有る、無い、と水掛論をしている間に30分位は経って了う。 
 30分で講演に行かねばならない私です。 

 それで今日は病気があると思うならそれでよろしい。 
 ただソレを訳もなく癒す秘訣を教えて上げよう。 
 それはおばさん、ニコニコと笑うことですよ』

と話されましたが、おばさんはニコリとせず 
『この永年の大病人、棺桶へ片足をつっこんだ病人が、
 何を気楽そうに笑えるものですか』 と云った顔付きをしています。 

コイツ中々手剛いぞと見て取った杉浦先生、
一くさり笑いの功徳を説かれましたが、
それでもおばさんは笑おうとは致しません。

 
頓智のいい杉浦先生です。 一計を案じて訊ねました。  

『おばさん、あなた頭から上にどこか痛いところがありますか?』  こ
の不意の質問におばさん、豆鉄砲を喰らった鳩のように目をパチクリしています。

  ――  畳みかけて杉浦先生。  
『目は痛みませんか? 耳は痛くないですか』  

おばさんは 『痛くありません』 と答える。

 『頬? 鼻は?』  『別に痛くはありません』  

『口は痛みませんか?』  
『昨日か一昨日か一寸痛みましたが、今日は何ともありません』  

 
その時杉浦先生は容(かたち)を改めて  
『おばさん、それでは頚から上にはどこも痛いところはないですね!』 
と駄目を押しました。 

おばさんはツイ釣りこまれて、 
『ハイ、どこも痛くはありません』  とキッパリ答えた。

 
待っていましたとばかり杉浦先生。 
『それじゃ笑って御覧なさい。 お腹は痛んでも
 頚から上は痛くはないんですから、頚から上だけで笑って御覧なさい!』  
と、すかさず『笑い』の押し売りです。

アッ気に取られ、又理の当然におばさんはとうとう苦笑いをさせられて了いました。

 
『それ御覧なさい。 そんなに立派に笑えるじゃありませんか』  

と褒めちぎって置いて

『そんな笑いが出来る癖に、私が来た時には何と云う不景気な顔をしていたのです。 
 まるで地獄の釜の蓋を開けて今出て来たばかりの亡者のような顔をしていましたよ。 

 あんな暗い顔をしていると、
 此れを見た家族の人が又暗いじめじめした心になり顔になる。 
 それをあなたが見て一層暗いじめじめした心になる。

   ―  御覧なさい、この家は真暗です。 
 それは太陽の光線のことを言っているのじゃないですよ。 
 心の世界のことです。 

 明るい晴ればれした心になりなさい。 
 そうすれば病気など直ぐ癒って了うのです。 
 だから晴れ晴れと笑うことです。 
 笑って御覧なさい。 きっと癒りますから』  

と云われましたが、おばさんは中々笑えなかったのです。


大病人の居る家、長い病人のある家、病人の絶えない家は
大抵家族の多くが暗いじめじめした心になっているものです。

建物は如何に明るく、光線のよく這入る近代的な家でも、
心の暗いじめじめとした家には病気が出来るのです。 

暗いじめじめした所にはバイキンや黴や毒茸などが直ぐ出来るように、
暗いじめじめした心には、バイキンや病気の“もと”の毒素が出来るのです。 

此れを笑いにより、喜び勇むことによって明るい心にすることは、
バイキンや黴を日向に晒すように病の“もと”を消して了うことなのです。

  ―  で、“病人のある家、不幸な家ほど皆が明るく笑わねばならないのです。”

けれども、おばさんは未だ充分にその原理が呑み込めないので
笑う気になれなかったのです。

 
そこで杉浦先生は声を励まして叱るように話されました。

『おばさん、よく考えて御覧なさい。 
 日本の女性はね、お腹の痛い時にでも笑うものですよ。 
 お腹の痛い時に笑ってこそ日本の女性なんです』

おばさんは益々判らなくなって了った。

『そうでしょう。 這えば立て、立てば歩めの親心。 
 蝶よ花よと育てた一人息子、だんだん生長して自分よりも背丈も
 伸びて逞しくなり、これで一家も安心だと思うと、
 やがて徴兵検査、甲種合格、入営。 

 やがて事変勃発、勇躍××だ。 
 停車場まで吾が子の晴れの××を送って行くお母さん。 

 それがおばさんだったらキットめそめそ泣くんでしょう。

  ―  所が日本の女性は笑うんです。 
 これがこの世の生き別れ、或いは死別となるかも知れない。 
 親を思う心にまさる親心、千万無量の物思い、胸も張り裂ける別れの悲しみです。 

 それは子宮癌のような生やさしい痛みではありませんぞ。 
 その心の痛み、お腹の痛みをグッと堪えて顔には出さず 

 「家の事は心配するな、 天皇陛下の御為、お国の為に生命を捨てて働くんだよ」 
 と吾が子を励まし、ニッコと笑って 「万歳!」 といさぎよく送り出す。 
 これでこそ日本の女性、日本魂の持主ですよ。

 僅かの苦しみに取り挫がれ、病気と云う敵に降参して泣きっ面をするような
 意気地なしは、もう日本魂が抜けて了っているのです。 

 そのぬけ殻に病気〈病い神〉が巣を喰うのです。

   ―  日本魂のある日本女性ならこれ位の痛みにはビクともせず、
 お腹は痛くとも笑える筈だ。 笑って御覧なさい』

と励まされ、おばさんは再度の笑いの押し売りに
とうとう晴れ晴れと笑って了ったのです。 

杉浦先生は大変喜んで、

 
『それだそれだ、笑うんですよ。 
 笑ったら自分の身体の中から不老長寿の霊薬が流れ出て
 自分の力で自分を癒して了うのです。 

 反対に泣いたり、悔んだり、悲しんだりすると
 身体中に毒が出来て自分で自分を痛めるのだ。 

 今まであなた方は知らないからではありますが、
 毒を造る心ばかりになっていたのです。 
 癒らないのは当然です。 

 でも随分長らく苦しんだので急に笑えないでしょうから、
 鏡を見て色々の顔をしてそれを映して無理にでも笑うんです。 
 笑いの練習をするのです。 

 本当に笑えるようになれば忽ち病気は癒って了うんですよ。 
 オヤ、もう時間が来たから失礼します。 
 確り笑って快くなるんですよ。 左様なら』

 
先生は急いで講演に出掛けました。


後にはおばさんとお嫁さん、魂のドン底にこたえた先生のお話に
夢から醒めた心持で気を取直していとも素直に鏡を取り寄せ、
自惚れ鏡ではありません、『ニコニコ鏡』を始めました。 

色々と面白い顔をして練習するうち、本当に朗かに笑えるようになり、
それから急に容態が変っていつか快くなって行ったのです。

 
武田さんのお話では、おばさんはもう翌日には元気になり始め、
二人とも一月も経たずして、田んぼに出て働くようになったことでした。

 
笑うことがこんなに大きな功徳があると云うことを知っている人は
まだ余り多くないと存じます。 
私も生長の家に来る迄はそれを知らない一人だったのです。 

その後病気を笑いの練習で癒した 尾形亀五郎さん と一緒に
講演したこともあり、その他各地を廻りますと、
笑いの練習で大病を救われた人は無数にあります。 

病人の絶えない家へ『笑い』が輸入されると、
いつかその家から病人がなくなります。 

病や不幸は、実は『笑い』の欠乏だと言える程なのです。

昔でも、黒住教の教祖宗忠公は1週間程の間に両親を亡い、
余りに悲しんで肺病になりましたが、後に悟って癒る時には
1週間程と云うものは気が違ったのではないかと
皆が心配する程お笑いになったと云うことです。 

又 別所彰善 と云うお医者様は現に笑いによって医者では
癒らない病人を癒すことを始め、大成功をしています。 

 
私も笑いの功徳を人々に施して見て驚くべき力を知ったのです。 
皆様も疑わず、素直に笑いの生活を始めて御覧なさい。 
キット此のおばさんに負けない尊い体験が得られます。



https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/1e744f6c077c8fc78bc376e13d6e0262
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-20)

          <感謝合掌 令和5年10月24日 頓首再拝>

人生を善くする根本的悟り (2)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/25 (Wed) 18:53:19


修養と宗教的悟りの区別


「 『 修養 』 は腹が立ったりするのを外から抑えて行くのですが
 宗教の 『 悟り 』 は心の中から善くしてまいります。

 道を歩く時でも 机に向った時でも、

 『 自分は神々しい神の子である 』

 『 自分はミコトである、神々しい存在である 』

 ということを 心に唱えて 思い出すようにすると好いのであります。」


つづく・・・




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住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-11-10 )

          <感謝合掌 令和5年10月25日 頓首再拝>

夫婦の純潔~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/26 (Thu) 13:12:48


        *『白鳩』(昭和37年12月号)より

すべて内部で相争うものは崩れ去ります。

夫婦は本来一人格の霊が、二つに分れて、男性・女性の相異る
性別の肉体が宿っているものであります。 

だから “本来の一体” を自覚して仲よくするとき、
その家は繁栄し、家族は健康となり、
万事都合よく好運に事が運ぶのであります。

夫婦が不調和でありましたら、子供が始終病気に罹り、
商売が一時繁昌したように見えていても、
夫婦互いの不和や嫉妬で憎み合い、衝突破壊の念(こころ)が
家の中に漂っているから、やがては、その商売も破局の運命を
たどることになるのであります。

夫婦間の絶対純潔
 ―― これが、家運隆盛、子孫健康繁昌の基となるのであります。


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晴れときどき(2014 年 4 月 27 日)

           <感謝合掌 令和5年10月26日 頓首再拝>

神を全身全霊で体感する神想観~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/27 (Fri) 15:43:30


            *『神想観の神髄』 より

神想観を怠らず行じているうちに「人間・神の子」の真理が、
頭脳的な知識から、感情的な把握となり、更に進んで、
全生命的な把握になって来るのである。

 
大抵の人は「神」を単に、理論的に、又は「文字」の上で知っているのである。 
それが単に「文字」や「理論」である限りにおいて、
その神は「自己」の全存在から離れたものに過ぎないのであって、
生活の上に何の力をも現わすことはできない。

 
神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって、
自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、
私たちの生活は変貌しはじめるのである。 

それは「吾れみずからにては何事も成し得ず」という謙遜(へりくだり)と、
天の父〈神〉われにいまして御業(みわざ)を成さしめたまうのである」という
高らかな明るい自覚との、不思議な組合せができる。 

其処に於いて魂の神秘な安息(やすらぎ)が得られる。

 
肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、何か一層高き神秘的なものが
働いているという感情的な自覚、すべての宗教的な体験はそこから
生れて来るのである。 

しかしその自覚に達する迄には、頭脳的な追求も、知的な探求も必要である。

 
神への追求、神への探求  ―  それがたとい頭脳的な知的なものである
にしても、神への追求又は探求の奥には既に自己の本質が「神である」ことの
おぼろげなる自覚があるのである。 

そのおぼろげなる自覚を探求の緒(いとぐち)として手繰って行けば、
其処についに内在の神を見出し、内在の神に到達する大通りを
見出すことができるのである。

 
煙草を一度も経験しない人が、煙草を追求しないごとく、
未だ一度も神を経験しない人が神を追求しようという衝動を
かすかながらも感ずるはずはないのである。 

‘既に神は自己の内にまします’から神への聖なる求めが生れて来るのである。

 
こうして、人類の神への聖なる追求と、神をたずねる聖なる巡礼とがはじまる。 
或る人は神を「仏」の名に於いて仏教で見出す。 
ある人は神を「慈悲」の名に於いて慈善的な行為や隣人への愛行に於いて見出す。 
或る人は、神を教会に於いて見出し、教会の礼拝の中に神と自己との接触点を
見出そうとします。

 
しかし教会や寺院での神や仏は、それを教える牧師や僧侶の排他的な、
縄張り的な狭い心でゆがめられ、本当を神を見失わしめられ、
「その教会や寺院を去ったならば、神罰や仏罰で恐るべき災禍(わざわい)に
見舞われる」などとおどされて、神を求めたがゆえに、
却って神に縛られて自由を失うような結果になりがちです。

 
しかし本当の神は決してそのような神罰や仏罰で
人間を威(おど)したりする方(かた)ではないのであります。 

それは神をもとめる道に迷って何時の間にか、
「外」に神を求めていたからなのです。

 
正しく「神」を知り、本当の「神」に接するには、
神罰や仏罰を説かない、偏りのない「愛の神」を説く経典又は著述を
読まなければなりません。 

しかし読書だけでは、頭脳がその方向に振向くだけであって、
必ずしも全生命が神と一体感を得るにはきまっていません。 

 
もっとも 『生命の實相』 を読んで、その文章の力、言葉の力によって、
忽然脊椎カリエスが治ったというような人の中には、
ただ読書だけで自己内在の神を体感し得た人もありますけれども、

万人が万人とも読書だけで、
「内在の神」を全身全霊をもって体得するわけには行きかねます。

 
そこで神想観の実修が必要になるのです。

 
私たちは 「神があらはるば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのづから備はり、一切の生物ところを得て争ふものなく、
相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」  
と教えられています。 

 
神を顕わすのが神想観であります。


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/7fbd6c383b7df0a6301bd1b898c3ecbd
VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-22)

          <感謝合掌 令和5年10月27日 頓首再拝>

人生を善くする根本的悟り (3)~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/28 (Sat) 13:16:59


日本人の古代からの自覚

日本人は古来、自分自身を某の命といっておったのであります。

即ち、古代の日本人は 現代の唯物論の科学者が人間を肉体という
単なる物質の塊(かたまり)だと思っているのとは違って、

人間には 神の生命が宿っている、
即ち 「 某(なにがし)の命(みこと) 」 であると、
こういうように自覚しておったのです。

そして男を 「 何々彦命(ひこのみこと) 」 といった。
“ 彦 ” というのは “ 日の子 ” 言い換えると
“ 日の大神 ” の命ということである。


そして女を 「 姫(ひめ) 」 といった。
“ 日女(ひめ) ” というのは、
“ 日の大神 ” の女(むすめ)であるという意味であります。


こういう素晴らしい自覚を持っておったわけですね。


西洋では 即ち 神の子であると、
「 神の子(サンノブゴット) 」 とこういうふうにいったんです。

キリストが先ず “ 神の子 ” たることを自覚してそう言ったんです。


つづく・・・


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/db5ce584dc316f7509d2e415096beabb
住 吉 大 神 浄 め 給 う(2013-11-12 )

          <感謝合掌 令和5年10月28日 頓首再拝>

今日のあなたは~谷口恵美子先生 - 伝統

2023/10/29 (Sun) 15:46:15


谷口恵美子先生のご逝去の報に接し、
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
(10月22日午前2時に、101歳の天寿全う
  https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=7957 )

とともに、この制約された地上界から、
高き霊界へと天翔けられたたことをお祝い申し上げます。

おそらく、谷口雅春先生、谷口輝子先生、谷口清超先生の
お迎えを得たことと推察致しております。



掲示板「生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)」では、
多くの方々による、哀悼の意がを表されております。

その中で、志恩 さま による、
谷口 恵美子先生の詩が紹介されております。

このスレッドにも、謹写させていただきます。
(志恩 さま のお許しをお願いいたします)


谷口 恵美子先生講話集[ 神様からのいただきもの]より

谷口 恵美子先生の詩・

[今日のあなたは]

P121

  目の見える
  あなた
  今日は
  どのような
  美しいものを見ましたか

  耳の聞こえる
  あなた
  今日は
  どのような
  美しい音楽を聞きましたか

  口のきける
  あなた
  今日は
  どのように
  やさしく話しましたか

  歩くことのできる
  あなた
  今日は
  誰のために歩きましたか

  ベッドで動けない
  あなた
  今日は
  どなたに
  ほほえみかけましたか

  https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=7968

・・・

(以下は、谷口恵美子先生著「心の散歩道その2」(P214~215)より)

ありがとう


  今 言わなければ ならない言葉 「ありがとう」


  この次 言うつもりの 「ありがとう」は あの人に とどかないかもしれない


  何べん言ってもよい 言葉 「ありがとう」


   心の底から 感謝をこめて 「ありがとう」

          <感謝合掌 令和5年10月29日 頓首再拝>

家相について~谷口雅春先生 - 伝統

2023/10/30 (Mon) 13:15:26


       *『白鳩』(昭和37年12月号)より

家相を気にしてはならない。

家相は住む人の心の状態によって、どうにでも変るものである。

家相は家の輪郭や間取りだけで固定してしまっているもの
ではないのである。

 
それは人間の人相が顔の輪郭だけできまるものではなく、
顔の道具 〈眼、鼻、口等〉 の配置によって、よくも悪くもなり、
憤怒して眼をつり上げれば険しくなり、
笑って眼尻が下がればやさしくなるように、

家相はその家に住む人が家の道具を何処に配置するか、
その置き場所によって変るのである。

そして家具等を何処に置くかは、住む人自身の心できめるのであるから、
家相も人相と同じく自分の心によって良くもなれば悪しくもなるのである。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p35.html
晴れときどき(2014 年 4 月 29 日)

           <感謝合掌 令和5年10月30日 頓首再拝>

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