伝統板・第二
ひかりの一日一言110~ひかりの語録(5月) - 伝統
2024/05/01 (Wed) 05:01:50
ひかりの一日一言《1日》
時間は無形であるが、
その中からいっさいの善きものと価値あるものとが掘り出される。
時間を捨てるものはいっさいを捨てるものである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P102)より
<感謝合掌 令和6年5月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2024/05/02 (Thu) 05:05:31
時間を巧(たく)みに利用しないものは酔生夢死の徒(と)である。
酔生夢死(すいせいむし)が厭(いや)なら時間の利用法を知れ。
時間を巧(たく)みに利用するものは
終に自己のうちより天才を掘り出し、人生の至宝を掘り出す。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P102)より
<感謝合掌 令和6年5月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2024/05/03 (Fri) 04:53:47
不意に与えられた大きな時間はかえって徒費(とひ)されやすい。
五分十分という零細の時間は努めて利用する気になればかえって収穫が多い。
賭(か)けで儲けた金(かね)は徒費されやすく
コツコツ貯めた金(かね)がかえって大(だい)なる資産をなす。
同様に、少時(しょうじ)の間暇(かんか)に
自己の才能を磨くものはついに大天才となるのである。
天才と鈍才の別れ目は常日ごろの心がけにある。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P102)より
<感謝合掌 令和6年5月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2024/05/04 (Sat) 05:02:54
時間を観(み)ること、なお自己の生命(せいめい)を観る如くせよ。
自分の生命(せいめい)は時間で成り立っている。
時間を殺すものは自殺するものだ。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P102)より
<感謝合掌 令和6年5月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2024/05/05 (Sun) 04:59:42
偉大を思えば「偉大」が実現(でてく)る。
傑作を思わないものに、傑作はできない。
猫は過(あやま)って傑作を傷つけることができても、
傑作を作ることはできない。
傑作はただ「傑作」を思う者のみにできるのである。
猫に「傑作」ができないのは「傑作」を思わないからである。
人間よ猫になるな。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P102、103)より
<感謝合掌 令和6年5月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2024/05/06 (Mon) 05:01:27
できないことを数(かぞ)えるよりも、できることを数(かぞ)えよ。
できることを数(かぞ)えて、さらに百尺竿頭一歩を進めて、
さらにできることを殖(ふ)やせ。
なんじの進歩は目覚しいものがあるであろう。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P103)より
<感謝合掌 令和6年5月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2024/05/07 (Tue) 05:05:20
自分を「神の子」であると思えない者は
他(ひと)をも「神の子」と思えない。
「罪人よ、汝(なんじ)は地獄に堕(お)ちる」と説教している者は、
自分が地獄に堕(お)ちる人である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P103)より
<感謝合掌 令和6年5月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2024/05/08 (Wed) 05:04:55
本当に謙遜なとは、正直に、素直に、神の造ったままの自分
―― 「神の子」なる自分を、疑(うたが)わずに承認することである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P103)より
<感謝合掌 令和6年5月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2024/05/09 (Thu) 05:03:29
悪しき習慣は生命(せいめい)の浪費である。
良き習慣を日に日に殖やすものは「生命(せいめい)」を二倍に生きる。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P103)より
<感謝合掌 令和6年5月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2024/05/10 (Fri) 04:59:22
悪いことはおおげさに取り扱うな。
黙殺できたら黙殺せよ。
良いことは少しは誇張してもよい。
悪いことをおおげさに扱えば、自己暗示にかかって、
悪いことは増悪(ぞうあく)する。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P103)より
<感謝合掌 令和6年5月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2024/05/11 (Sat) 04:59:31
しかし、今の悪さは正直に承認するがよい。
だが、それが「本当の自分」でないことは
いっそう強く承認しなければならぬ。
そして「本当の自分」
―― 神の子にかえろうと、
さらにさらにいっそう強く心に絶叫しなければならぬ。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P103)より
<感謝合掌 令和6年5月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2024/05/12 (Sun) 05:00:33
弱い枝を刈りとられることによって、
その樹木はいっそう大きな花を開く。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2024/05/13 (Mon) 05:05:57
生命力を一つに集注せよ。
(集注=あつめそそぐこと)
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2024/05/14 (Tue) 04:45:21
人は交(まじ)わる者の性格に似てぃる。
子は親に似るのであるから、親は子を見て自分自身を直すがよい。
子は鏡である。
親が直れば子も直る。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2024/05/15 (Wed) 05:02:45
人と人との相違は、その想念だけの相違である。
想念(おもい)が正しければ愛も湧き、勇気も湧き、実行もおのずから伴う。
人は自分が何であるかを正しく思うことが大切である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2024/05/16 (Thu) 05:01:38
今に満足するものは「無限生長」の自己存在の神を見ないものだ。
まだまだ出せば出る力があることに目覚める者は幸いである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2024/05/17 (Fri) 06:38:11
押しの強さは事物の成就に欠くべからざる要素である。
強情と無智とは親子である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2024/05/18 (Sat) 05:00:25
神という心的(しんてき)存在が唯一(ただひと)つの実在である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2024/05/19 (Sun) 04:56:00
宇宙には唯(ただ)一(ひと)つの実在がある。
それは「永遠の我(われ)」という実在である。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2024/05/20 (Mon) 05:01:34
金鉱から黄金(おうごん)が出るのはその金鉱に本来、
黄金(おうごん)の純分(じゅんぶん)を含んでいるからである。
われらの永遠の救いの基礎は自身の本質が「永遠の我(われ)」
すなわち神の子であるという事実に成り立つ。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P104)より
<感謝合掌 令和6年5月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2024/05/21 (Tue) 05:04:44
至美至妙完全円満な「永遠の我(われ)」のほかに「我(われ)」は無い。
物質に執着して苦しんでいる「我(われ)」は「ニセ物の我(われ)」である。
といってそれは「ニセ物の我(われ)」というものがそこにあるというわけではない。
「ニセ物の我(われ)」が出ているとは、
本当は「本物の我(われ)」がそこに《いない》ということである。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P105)より
<感謝合掌 令和6年5月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2024/05/22 (Wed) 05:04:12
《自分》が腹が立つと思って怒(いか)ったり争(あらそ)ったりするのだが、
怒(いか)ってみたって、争(あらそ)ってみたって、
その怒(いか)っている自分、争(あらそ)っている自分は、
本当は「真の自分」でないことがわかったら、
本気に怒(いか)ることも争(あらそ)うこともできないではないか。
*「生命の實相」第22巻聖語篇(P105)より
<感謝合掌 令和6年5月22日 頓首再拝>