伝統板・第二
神と人 ⑥ - 伝統
2024/09/16 (Mon) 11:41:45
神の人間創造の目的
*「光明法語」(9月16日)より
神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。
外から創造したのではなく、
神は「内在の生命」として内から創造したのである。
演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、
硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、
或は美しき波模様をなして自然に配列されるが如く、
女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「神と人」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6979874
(2)伝統板・第二「神と人 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7686509
(3)伝統板・第二「神と人 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7901316
(4)伝統板・第二「神と人 ④」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8034724
(5)伝統板・第二「神と人 ⑤」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8292532
<感謝合掌 令和6年9月16日 頓首再拝>
人間は神の創造の中心 - 伝統
2024/09/25 (Wed) 10:57:29
*「光明法語」(9月25日)より
人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。
神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。
パイプの小なることを見て、
そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。
大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。
<感謝合掌 令和24年9月25日 頓首再拝>
個性を通じての表現 - 伝統
2024/09/28 (Sat) 11:25:07
*「光明法語」(9月28日)より
神は自己を表現するのに、
普遍であるばかりでは自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、
それは何らの表現をもなし得ない。
表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。
桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。
人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。
他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。
<感謝合掌 令和6年9月28日 頓首再拝>
神に一致する個性 - 伝統
2024/09/29 (Sun) 11:19:59
*「光明法語」(9月29日)より
神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。
神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。
神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。
七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。
<感謝合掌 令和6年9月29日 頓首再拝>
人は「神の宮」 - 伝統
2024/11/07 (Thu) 10:53:24
*「光明法語」(11月7日の法語)より
人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。
宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。
人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。
―― 斯く念ぜよ。
<感謝合掌 令和6年11月7日 頓首再拝>
キリストは、「人間は神の子である」と宣言したのである - 伝統
2024/11/08 (Fri) 11:49:10
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より
キリストに対するユダヤ人の呪いは
「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を涜(けが)すものである」
ということであった。
ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された
「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」
とエホバの宣言したところの物質人間でしかなかったのである。
キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」
と宣言したのである。
そして
「我(われ)は道であって、この道を通れば
すべての人間は神の子なることを自覚しえて、
永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」
と断言したのである。
キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。
<感謝合掌 令和6年11月8日 頓首再拝>
吾らは神の生命の枝 - 伝統
2024/11/17 (Sun) 11:56:48
*「光明法語」(11月17日の法語)より
「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。
かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。
更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。
「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。
<感謝合掌 令和6年11月17日 頓首再拝>
平等にして、差別がある - 伝統
2024/11/18 (Mon) 11:12:12
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月18日)より
仏を知る心が自分にあるのは、自分が仏であるからである。
理を知る心が自分にあるのは、自分が理であるからである。
自分が仏にして、すべての人が仏にして、初めて、
我れ彼を知り、彼(かれ)我(われ)を知る。
彼と我(われ)とは平等同自にして、しかも彼は彼であって我(われ)ではなく、
我(われ)は我(われ)であって彼ではない。
したがって彼と我(われ)とは平等にして、差別がある。
差別がなければ、我(われ)と彼との差別の認識ができないし、
我(われ)と彼と平等でなければ
我(われ)は彼を感ずることも、彼は我(われ)を感ずることもできない。
<感謝合掌 令和6年11月18日 頓首再拝>
《人間はすべからく偉大なれ》 - 伝統
2024/12/26 (Thu) 09:55:57
*「光明法語」(12月26日)より
神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。
神は決して神の子たる人間に
最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために
生きているものではない。
神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、
偉大なる生活を送らなければならぬ。
夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。
<感謝合掌 令和6年12月26日 頓首再拝>
《人生は何のためにあるか》 - 伝統
2025/01/01 (Wed) 11:23:21
*「光明法語」(1月1日)より
人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。
これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。
凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。
しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
<感謝合掌 令和7年1月1日 頓首再拝>
《神の人間創造の意義》 - 伝統
2025/01/02 (Thu) 10:02:50
*「光明法語」(1月2日)より
自己が自己を知り、自己が自己を観るには
それを客観化しなければならない。
換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との
相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と
相対に分化しなければならないのである。
眼が眼を見るには、
眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。
神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、
自己の外に自己の影を創造したのである。
<感謝合掌 令和7年1月2日 頓首再拝>
《神は親であり吾は神の子である》 - 伝統
2025/01/12 (Sun) 12:05:18
*「光明法語」(1月12日)より
神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。
神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、
自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。
<感謝合掌 令和7年1月12日 頓首再拝>
《天地に遍満する神の恩恵を知れ》 - 伝統
2025/01/24 (Fri) 11:48:57
*「光明法語」(1月24日)より
人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものに
とりまかれているのである。
神の恵みはあらゆるものに、
空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。
神の恵みは吾々をとりまいていて
一分一厘の逃れる隙間もないのである。
昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、
神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、
心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。
「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」
<感謝合掌 令和7年1月24日 頓首再拝>
神が養う - 伝統
2025/02/06 (Thu) 10:31:05
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より
世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。
わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。
親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。
親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て
母親の衣物(きもの)を濡らして困ったというほどであった。
これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。
親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。
人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。
このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。
働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には
豊かに必需物(なくてはならぬもの)を
与えたまうのが神であるからである。
ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。
ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。
<感謝合掌 令和7年2月6日 頓首再拝>
《人間は神的実現》 - 伝統
2025/05/10 (Sat) 11:43:51
*「光明法語」(5月10日)より
人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。
最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。
****食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。
仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。
その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。
<感謝合掌 令和7年5月10日 頓首再拝>
神は吾々の親様 - 伝統
2025/06/07 (Sat) 11:30:20
*『光明法語』(6月7日《神は不幸を与え給わない》)より
神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。
神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、
『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて
神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。
先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。
そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだ
と思わぬことである。
<感謝合掌 令和7年6月7日 頓首再拝>
神は神の子なる人間とともに、人格を備えている - 伝統
2025/06/08 (Sun) 12:00:45
*『光明法語』(6月8日)より
~神は人格であると同時に法則である
親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。
間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、
与えたる富はただ他を害する為のみに使う様な場合には
親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。
それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、
神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。
それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。
<感謝合掌 令和7年6月8日 頓首再拝>
人間は神の自己実現 - 伝統
2025/08/20 (Wed) 11:51:47
*「光明法語」(8月20日)より)
人間が神の自己実現であることは、
直覚認識によって知ることが出来るのである。
『法華経』にある
「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある
「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。
天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、
われ神の自己実現なりとわかるのである。
これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。
<感謝合掌 令和7年8月20日 頓首再拝>
神は五感も六感も超越せり - 伝統
2025/08/21 (Thu) 11:39:23
*「光明法語」(8月21日)より
「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。
感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。
感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。
六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、
視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。
<感謝合掌 令和7年8月21日 頓首再拝>
無相にして無限相 - 伝統
2025/08/22 (Fri) 10:16:19
*「光明法語」(8月22日)より
霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。
神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。
これを無相にして無限相と呼ぶ。
吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。
無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。
<感謝合掌 令和7年8月22日 頓首再拝>
普遍とその個體化 - 伝統
2025/09/02 (Tue) 11:19:46
*「光明法語」(9月2日)より
普遍にして無限なる「一」の生命は如何にして
自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと云えば、
普遍にして無限に行きわたるのは
自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。
表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。
普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。
<感謝合掌 令和7年9月2日 頓首再拝>
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたもの - 伝統
2025/09/03 (Wed) 11:05:06
*「光明法語」(9月3日《有限にして無限》)より
人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。
果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。
人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。
人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。
<感謝合掌 令和7年9月3日 頓首再拝>
個は如何にして表現されるか - 伝統
2025/09/04 (Thu) 12:04:19
*「光明法語」(9月4日)より)
普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。
牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。
普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。
<感謝合掌 令和7年9月4日 頓首再拝>
個別者の相互関係 - 伝統
2025/09/05 (Fri) 09:52:58
「光明法語」(9月5日)より
個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。
個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、
折角、個別化されたものも表現を完うする事が出来ない。
個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。
個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。
<感謝合掌 令和7年9月5日 頓首再拝>
大生命そのものの意志に一致させる - 伝統
2025/09/12 (Fri) 11:17:23
*「光明法語」(9月12日《沈滞と頽廃との原因》)より
大生命の援護(バック)を受けられないものは、
新しい生命の補給を大生命(神)から受ける事ができない。
かかる小生命は沈滞し頽廃し遂に病いを得たり、事業に挫折したりして
自己の運命の進展をみずから停止する事になる。
自己の運命を伸ばそうとする者は常に前進しなければならない。
新しきものを創造すべく努力しなければならない。
若し吾々が決意して新しきものを創造しようとするならば、
それは大生命そのものの意志に一致するが故に大生命が吾々を助けるであろう。
<感謝合掌 令和7年9月12日 頓首再拝>
神の人間創造の目的 - 伝統
2025/09/16 (Tue) 11:31:55
*「光明法語」(9月16日)より
神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。
外から創造したのではなく、
神は「内在の生命」として内から創造したのである。
演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、
硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、
或は美しき波模様をなして自然に配列されるが如く、
女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。
<感謝合掌 令和7年9月16日 頓首再拝>
人間は神の創造の中心 - 伝統
2025/09/25 (Thu) 11:25:15
*「光明法語」(9月25日)より
人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。
神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。
パイプの小なることを見て、
そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。
大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。
<感謝合掌 令和7年9月25日 頓首再拝>
個性を通じての表現 - 伝統
2025/09/28 (Sun) 11:43:49
*「光明法語」(9月28日)より
神は自己を表現するのに、
普遍であるばかりでは自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、
それは何らの表現をもなし得ない。
表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。
桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。
人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。
他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。
<感謝合掌 令和7年9月28日 頓首再拝>
神に一致する個性 - 伝統
2025/09/29 (Mon) 11:12:22
*「光明法語」(9月29日)より
神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。
神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。
神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。
七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。
<感謝合掌 令和7年9月29日 頓首再拝>
神と静かに語れ - 伝統
2025/10/08 (Wed) 10:37:48
*「光明法語(10月8日)」より
人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、
親子が静かに語る時間を持つと云う事であって
是非とも必要なる当然の行事である。
祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。
神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。
また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。
<感謝合掌 令和7年10月8日 頓首再拝>
人は「神の宮」 - 伝統
2025/11/07 (Fri) 09:26:02
*「光明法語」(11月7日の法語)より
人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。
宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。
人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。
―― 斯く念ぜよ。
<感謝合掌 令和7年11月7日 頓首再拝>
キリストは、「人間は神の子である」と宣言したのである - 伝統
2025/11/08 (Sat) 11:03:21
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より
キリストに対するユダヤ人の呪いは
「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を涜(けが)すものである」
ということであった。
ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された
「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」
とエホバの宣言したところの物質人間でしかなかったのである。
キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」
と宣言したのである。
そして
「我(われ)は道であって、この道を通れば
すべての人間は神の子なることを自覚しえて、
永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」
と断言したのである。
キリストは道標(みちしるべ)であった。
キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。
<感謝合掌 令和7年11月8日 頓首再拝>
吾らは神の生命の枝 - 伝統
2025/11/17 (Mon) 10:28:05
*「光明法語」(11月17日の法語)より
「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。
かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。
更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。
「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。
<感謝合掌 令和7年11月17日 頓首再拝>
平等にして、差別がある - 伝統
2025/11/18 (Tue) 08:27:23
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月18日)より
仏を知る心が自分にあるのは、自分が仏であるからである。
理を知る心が自分にあるのは、自分が理であるからである。
自分が仏にして、すべての人が仏にして、初めて、
我れ彼を知り、彼(かれ)我(われ)を知る。
彼と我(われ)とは平等同自にして、しかも彼は彼であって我(われ)ではなく、
我(われ)は我(われ)であって彼ではない。
したがって彼と我(われ)とは平等にして、差別がある。
差別がなければ、我(われ)と彼との差別の認識ができないし、
我(われ)と彼と平等でなければ
我(われ)は彼を感ずることも、彼は我(われ)を感ずることもできない。
<感謝合掌 令和7年11月18日 頓首再拝>
神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間 - 伝統
2025/12/26 (Fri) 09:43:52
*「光明法語」(12月26日《人間はすべからく偉大なれ》)より
神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。
神は決して神の子たる人間に
最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために
生きているものではない。
神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、
偉大なる生活を送らなければならぬ。
夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な
隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。
<感謝合掌 令和7年12月26日 頓首再拝>
《人生は何のためにあるか》 - 伝統
2026/01/01 (Thu) 11:20:47
*「光明法語」(1月1日)より
人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。
これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。
人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。
凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。
しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
<感謝合掌 令和8年1月1日 頓首再拝>
《神の人間創造の意義》 - 伝統
2026/01/02 (Fri) 09:45:26
*「光明法語」(1月2日)より
自己が自己を知り、自己が自己を観るには
それを客観化しなければならない。
換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との
相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と
相対に分化しなければならないのである。
眼が眼を見るには、
眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。
神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、
自己の外に自己の影を創造したのである。
<感謝合掌 令和8年1月2日 頓首再拝>
神は、われらに無限を与え給う - 伝統
2026/01/07 (Wed) 10:18:55
*光明法語(1月7日《神は無限の愛であり給う》)より
吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。
神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。
神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。
神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、
吾等の全身を健全ならしめ給うのである。
<感謝合掌 令和8年1月7日 頓首再拝>
《神は親であり吾は神の子である》 - 伝統
2026/01/12 (Mon) 11:01:44
*「光明法語」(1月12日)より
神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。
神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、
自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。
<感謝合掌 令和8年1月12日 頓首再拝>
神さまと人間の関係 - 伝統
2026/01/23 (Fri) 09:24:19
*note:西原宏夫(2022年10月19日)より
~小林正観・著『人生は4つの「おつきあい」』(サンマーク出版)
神さまと人間の関係は、親子の関係と同じだと思ってよいでしょう。
親子の関係を通して、神さまと人間の関係を見せられているともいえる
かもしれません。
親が子どもに、見返りや報酬を求めて
何かしてあげることは、まずありません。
何も見返りがなくても、何かをしてあげるのが、
親子の関係というものでしょう。
しかし、子どもがいつも「何もかも、してもらって当然」と思い、
そういう態度をとりつづけていたら、親としてもさびしさやむなしさ、
疲れを感じるようになるのではないでしょうか。
そんなとき、子どもがひと言「ありがとう」と言ってくれたら、
疲れやむなしさが吹っ飛んで、
「もっと何かをしてあげよう」という気になるものです。
そこに何かの下心が含まれていたり、
損得勘定や邪心があるのがわかっていたとしても、
親は子どものために何かをしてあげようと思うものではないでしょうか。
神さまもまた人に対して好意や善意を、絶え間なく、制限なく、
太陽の光のように降り注いでいます。
それに対しての見返りなどは求めていません。
しかし、人間がそれをあたかも自分の努力の成果であるように、
自分の能力によるもののようにしか思わなかったら、
いくら神さまでも、さびしさやむなしさを感じるかもしれません。
でも、たとえ心がこもっていなかったとしても、
あるいは下心や損得勘定があったとしても、
「ありがとう」と言ってくれたら、
神さまもむなしさや疲れが吹き飛んで、その人に対して
「もっとやってあげよう」と思うのではないでしょうか。
そんな神さまと人間の関係というものを、
神さまは親子関係を通して知らせてくれているようにも思います。
たとえば、雨が降ってきたとき、「雨が降って嫌だなぁ」と言ったとする。
でも、それは天に向かって文句を言っているようなもの。
一方、「恵みの雨だ、ありがたい」と言う人もいます。
天に向かって感謝している人だ。
小林正観さんは
「天気の悪口をつい口にしてしまう人は、自分に起きてくる物事に対して、
つい否定的な言葉を発してしまうクセをもった人」
だと言う。
こういう人には神様は味方してくれない。
https://note.com/hiroo117/n/n45e800d05b38
<感謝合掌 令和8年1月23日 頓首再拝>
神が養う - 伝統
2026/02/06 (Fri) 11:25:31
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より
世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。
わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。
親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。
親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て
母親の衣物(きもの)を濡らして困ったというほどであった。
これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。
親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。
人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。
このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。
働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には
豊かに必需物(なくてはならぬもの)を
与えたまうのが神であるからである。
ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。
ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。
<感謝合掌 令和8年2月6日 頓首再拝>
神に波長を合わせるのは人間の役目 - 伝統
2026/02/24 (Tue) 09:59:52
*「光明法語」(2月24日)より
~《心の波長を合わせるのは人間の役目》
「先ず神の国と神の国の義とを求めよ。その余のものは汝等に加えらるべし」
とイエスは言った。
このことは何時までたっても真実である。
世間普通の人は、物質のことは肉体人間の努力で得て、
魂の救われのことだけを、神様にゆだねたら好いように思っているが、
実は却ってそのアベコベが真実である。
実は心の世界のことは人間が神に波長を合わせなければならないのである。
心の波長を合わせる精神上のことは人間自身が努力をして、
あとは神が自然の理で実現し給うのである。
自分の心が何処(どこ)に立っているか先ず省みよ。
<感謝合掌 令和8年2月24日 頓首再拝>
神は吾々の親様 - 伝統
2026/06/07 (Sun) 12:01:47
*『光明法語』(6月7日《神は不幸を与え給わない》)より
神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。
神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、
『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて
神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。
先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。
そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだ
と思わぬことである。
<感謝合掌 令和8年6月7日 頓首再拝>
神は神の子なる人間とともに、人格を備えている - 伝統
2026/06/08 (Mon) 10:33:14
*『光明法語』(6月8日)より
~神は人格であると同時に法則である
親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。
間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、
与えたる富はただ他を害する為のみに使う様な場合には
親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。
それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、
神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。
それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。
<感謝合掌 令和8年6月8日 頓首再拝>
人間は神の自己実現 - 伝統
2026/08/20 (Thu) 10:34:39
*「光明法語」(8月20日)より)
人間が神の自己実現であることは、
直覚認識によって知ることが出来るのである。
『法華経』にある
「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある
「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。
天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、
われ神の自己実現なりとわかるのである。
これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。
<感謝合掌 令和8年8月20日 頓首再拝>