伝統板・第二
ひかりの一日一言115~ひかりの語録(10月) - 伝統
2024/10/01 (Tue) 05:05:24
ひかりの一日一言《1日》
物質は影であって本物はもっと立派なものである。
本物なる実相はもっと立派なものなのであります。
*「美しき生活」(P172)
<感謝合掌 令和6年10月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2024/10/02 (Wed) 04:50:50
実相の写真ともいうべき現象界ならば
美しい写真であり立派な調和した相(すがた)があらわれる
のでありますけれども、
本物たる実相はもっと立派なものなのであります。
肉体人間でも、こう云う風(ふう)に縦横(たてよこ)厚みの
三次の拡がり面に映し出された写真ですから、縦横(たてよこ)
のみの平面の写真よりは巧(うま)く出来ていて美しいのです
けれども、
本物の人間(実相の人間)のほんの一部分しか
吾々は肉眼で見る事が出来ないのであります。
*「美しき生活」(P172~173)
<感謝合掌 令和6年10月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2024/10/03 (Thu) 05:05:25
五官に見えるものをそのまま本当にそこに《ある》と思っていると、
『無い』ものを《ある》とみている『迷い』と云うことになります。
そして『永遠に《あるもの》』『理念なるもの』『久遠人間』を
無いんだと思っていると、それが顛倒(さかさま)の迷いであります。
*「美しき生活」(P173)
<感謝合掌 令和6年10月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2024/10/04 (Fri) 05:03:15
『無』と云うのはアルように見えていても、
直(す)ぐ消えてしまうものという意味です。
『無』と云うことは『何(なん)にも無い』と云うことではなく、
常に相(すがた)が変じつつあるので、見える通りに《ある》のではなく、
その背後にある実在が顕現(けんげん)途上にあると云うことだと
知って頂きたいのです。
『物質は無い』と云うことも、それは『生命(せいめい)』の顕現途上で
あるから、その通りにそのまま《ない》、実在(ほんとにあるもの)から
まだまだ大いに割り引かれて顕(あらわ)れていると云うことであります。
*「美しき生活」(P173~174)
<感謝合掌 令和6年10月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2024/10/05 (Sat) 05:05:31
断見と常見
『形(かたち)』あるものを《そのままある》と思う事も間違いでありまして、
と云って全然『何もない』と見ることも間違いであります。
『何もない』と見るのを断見(だんけん)と云い、
『見えるまま《ある》』と見るのを常見(じょうけん)と申しますが、
断常(だんじょう)二見(にけん)に捉われないようになるのが
本当の悟りであります。
*「美しき生活」(P174)
<感謝合掌 令和6年10月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2024/10/06 (Sun) 05:06:20
家庭に何か紛糾(いざこざ)が起こりましても、
吾々はそれに捉われ、心を引っかからせてはならないのであります。
すべて悪しき顕れは本当にあるのではない。
『執着』や『迷い』の自壊作用として
そのような現象が顕現するのでありますから、
それを有難く感謝して受けるとき、
その『迷い』の自壊過程が速(すみ)やかに完了し、
光明(こうみょう)輝く幸福な世界が顕現してくるのであります。
*「美しき生活」(P174~175)
<感謝合掌 令和6年10月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2024/10/07 (Mon) 05:02:58
『真の人間』としての解放を、仏教では解脱と申します。
今まで縛られておったところの綱を悉(ことごと)く解いて
自由自在のすがたになる即ち、『真の人間』としての解放が、
『解脱』であります。
*「美しき生活」(P176)
<感謝合掌 令和6年10月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2024/10/08 (Tue) 05:03:07
自分の住む世界は、自分の心の反映でありますから、
自分が自由にならなかったら、世界が自由にならないのであります。
何か世界に悪いものがあって自分を縛っているように思うのは
迷誤(まよい)であって、それは、実に内界に於ける
吾々自身の縛りであるのであります。
ですから、生長の家では『先ず自分で自覚せよ』と
云うのであります。
*「美しき生活」(P177)
<感謝合掌 令和6年10月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2024/10/09 (Wed) 05:04:24
己自身を知らなかった時には
釈迦は煩悶懊悩(はんもんおうのう)して出家したのであります。
そして己(おのれ)自らを知ったときに悟りを開いて、
『天上天下唯我独尊』
―― 自分は天上天下で一番尊き者である ―― 、
斯(こ)うハッキリ自覚したのであります。
キリストはみずから『神の子』になると自覚したときに
己(おのれ)自らを知ったのであります。
黒住宗忠は自分の生命(せいめい)は神の御(おん)生命(いのち)の
わけ生命(いのち)が宿ると己(おのれ)自らを知ったとき
肺病が治り立教の宣言があったのであります。
すべての宗教は自己を知ることから始まります。
*「美しき生活」(P178)
<感謝合掌 令和6年10月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2024/10/10 (Thu) 05:04:57
自己を知らなけば吾々は何時(いつ)までも奴隷である、
人間と云うものは人から縛られると腹が立ちますけれども、
自分で自分を縛っていつ場合には腹も立てないで、
それで当たり前と思っていることが多いのであります。
そして自分の観念に依って自分の自由自在さを
十重二十重(とえはたえ)に縛って、自由自在を失い、
勝手に貧乏になったり、病気になったりしているような人が
多いのであります。
斯(こ)ういう場合、縛られている自分自身を解放しますと、
自分の心が自由になり、その反映として自分の住む世界が
自由になるのであります。
*「美しき生活」(P178)
<感謝合掌 令和6年10月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2024/10/11 (Fri) 05:03:07
すべては自分の責任である。
ここから出発しますから、卑怯な依頼心などを有(も)たず、
自分の不幸を他人に帰して他(た)を怨むなどということは
ないのであります。
病気の治るのもすべてそれであります。
すべては自分の責任である ―― と云うことが分かって、
反省して、心の持ち方を更(あらた)めますと
自然療能が旺(さか)んになり病気が治るのであります。
*「美しき生活」(P178~179)
<感謝合掌 令和6年10月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2024/10/12 (Sat) 05:03:18
外界が自分に害を加えていると思って居る時には
中々病気が治らないのであります。
すべて自分以外のものを怨むと云うような心は
病気の因(もと)であります。
何故(なぜ)ならそういう心が起こって参りましたらどうしても
自分の心が乱れて、本当の心の落ち着きというものを
得(う)ることが出来ないのであります。
心が落ち着けば生理作用が整って病気が治るのは当然です。
*「美しき生活」(P179)
<感謝合掌 令和6年10月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2024/10/13 (Sun) 05:03:42
すべての幸不幸原因は自分にあるのだ、ということは、
この世界に自分を害するものは一つもなくなるのであります。
若し何人(なんぴと)かが害して居るように見えましても、
それは本当は自分で自分を害しているのであり、
自分の心境が反映したのでありますから、
他(た)を怨(うら)むことがなくなします。
それだけでも人間は心が解放されて、自由になるのであります。
*「美しき生活」(P179~180)
<感謝合掌 令和6年10月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2024/10/14 (Mon) 05:02:01
自分自身を害することを止(や)めたら、
此の自分と云うものは何人(なんぴと)からも
害されることはなくなるのであります。
自分が何でも受ける決心が出来たら
どんなものでも恐ろしくなくなるのです。
その時には、どんな苦しみでも苦しみでなくなるのであります。
*「美しき生活」(P180)
<感謝合掌 令和6年10月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2024/10/15 (Tue) 04:42:42
すべての聖者と云うものは
『何で受ける』決心ができている人であります。
其のまま自分に責任を帰している、
是(これ)が聖者のすがたであります。
*「美しき生活」(P180)
<感謝合掌 令和6年10月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2024/10/16 (Wed) 04:51:23
矢でも鉄砲でも何でも来い、自分がみんな受ける、
責任は皆自分にあると云う決心が出来た時に、
心が解放されて心の苦しみと云うものがなくなり、
病気もおのずから治るのであります。
*「美しき生活」(P183)
<感謝合掌 令和6年10月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2024/10/17 (Thu) 05:03:01
どんな治療を施(ほどこ)して貰っても治らないような苦しみが、
ただ単に心的苦痛の表現として現れて、肉体は診断して見ても
悪いところは少しもないことがあります。
これは、心の痛みが鬱積しておって、それがある『縁』に触れて
現れる時期にそれが一度に感覚と云うものに反射して
起こって来るものであります。
自分で自分の『心』を縛って、その苦しみを肉体の或る場所に
反映せしめて苦しんでいるのですから、
心を調和せしめるように誘導し、憎んでいる者には憎みを解き、
恨んでいる者には恨みを解き、心の縛りを解いて、心の自由を
回復せしめると、病気が治るのであります。
*「美しき生活」(P182)
<感謝合掌 令和6年10月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2024/10/18 (Fri) 05:05:46
若(も)し、心が自由にならないで、依頼心ばかり起こしている場合は、
神様がぱっと治すとしますと、依頼心ばかり増長せしめることになり、
その人は却(かえ)って救われない結果になるのでありますから、
神様がそんなことをせられる筈(はず)がないのであります。
そういう人間は、其の儘その病苦を受け苦しむことに依(よ)って
業が自壊作用して、縛りがほどけて自由解脱に近づくのでありますから、
病気を有難いお蔭であると思って、寧(むしろ)ろ感謝して
受くるべきであります。
*「美しき生活」(P183~184)
<感謝合掌 令和6年10月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2024/10/19 (Sat) 04:55:45
『神の子』の自覚は、自分はすべての力を有(も)っている代わりに、
すべての責任をも自分で背負うと云う覚悟を有(も)つことであります。
其の覚悟こそ『真の自分』としての解放であります。
*「美しき生活」(P184)
<感謝合掌 令和6年10月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2024/10/20 (Sun) 06:51:40
『真の人間』としての解放は吾(われ)自(みずか)らが
どんなものでも受ける力があると云う自覚に目覚めて、
そこから外の力に頼って居たところの卑怯な自縄自縛を
悉(ことごと)く投げ捨ててしまうのが解放であります。
これこそ真の解放であります。
外部に起こって来る悉(ことごと)くのものは
悉(ことごと)く自分の心の影であると悟って責任を
自分に帰(き)す
―― 是(これ)が『人間神の子』の自覚であります。
*「美しき生活」(P184~185)
<感謝合掌 令和6年10月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2024/10/21 (Mon) 04:58:09
本当に自己が解放され、自由が得られて来ますと、
責任を自分に反照しますから、
『みんなわたしが悪いのです、申し訳がありません。』と
あやまり切るようになるのであります。
そういう家庭では家族全体が幸福になれるのであります。
尤(もっと)も生長の家では『悪』が《ない》と申しますが、
『自分が悪い』と云いますのは、言葉の文(あや)でありまして、
一見『悪』と云う言葉を使いますけれども、
実は『それは自分の責任である』と云う意味であります。
『一切万事吾より発し吾にかえる』と云う
自主独立の自尊的宣言であって、若(も)しそれで悪いことがあれば
それは自分の責任である、と云うのであります。
是(これ)が『真の人間』としての解放であります。
他(た)の如何なる原因にも縛られないところの
自己宣言であります。
*「美しき生活」(P185~186)
<感謝合掌 令和6年10月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2024/10/22 (Tue) 04:59:14
他(ひと)を咎(とが)めるのは、
自己の解放が完全でない証拠で
暗黒思想と云わなければなりません。
真の光明思想は、一切の原因を自主独立の自分に帰して、
『一切万事吾より発し吾にかえる』と云うことを真に全生活に
肯定するのでありまして、これが真の自己の解放であります。
*「美しき生活」(P186)
<感謝合掌 令和6年10月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2024/10/23 (Wed) 05:05:51
事物には『《本当に》ある』事物と、
仮に現れているけれども『本当には無い』事物があります、
仮に現れているものを『現象』と云うのであります。
現象と云うのは現れでありますから、常に変わるものなのです。
そして現象の常に変わって一定の相(すがた)を止(とど)めない
ことを諸行無常と申しております。
行(ぎょう)とは波動のことであります。
行(ぎょう)は「行ない」と云う字でありますが、
吾々の行ないは生命(せいめい)の波動で成り立っているので
あります。
すべての波に由(よ)って成り立っているものは
悉(ことごと)く無常なるものであります。
あるかの如く見えても常(じょう)のすがたのないのが
無常であります。
現代の言葉で云えば『現象無常』と云っても好(よ)いのであります。
*「美しき生活」(P187~188)
<感謝合掌 令和6年10月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2024/10/24 (Thu) 05:03:36
現れているすがたはみんな常恒(じょうこう)なる一定の
変らないすがたと云うものがないのであって、
常に変わっているのであります。
(中略)
肉体のどんなところにある細胞でも(新陳代謝によって)
常に間断なく変わっているのであって、変わっていないかの
如く見えているのは、感覚が大雑把にしか物を見ない錯覚に
過ぎないのであります。
時々刻々順次陳(ふる)きを謝(さ)って新しきものが
置き代(かわ)りをして変りつつある、
常に無常なるものであります。
現象と云うものはそう云う風(ふう)に無常なるものであって
一定の相(すがた)を持続しないものなのであります。
*「美しき生活」(P188)
<感謝合掌 令和6年10月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2024/10/25 (Fri) 05:04:58
物質と心
(1)物質とは、生命波動をある角度から眺めたもの。
(2)心とは、生命の振動。
永遠不変の「生命」から発した波動が「心」であり、
その「心」を静的面に投影して感じたのが静止物体の観念である。
(3)本当の心は、大脳をも造り出した叡智的エネルギーである。
*美しき生活(P190~P194)
<感謝合掌 令和6年10月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2024/10/26 (Sat) 05:01:35
物質はそれ自身の性質がなくて、
《それ》に働きかける『生命(せいめい)』によって、
色々姿を変化するのであります。
実は『生命(せいめい)』が物質に働きかけるのではなく、
物質は生命(せいめい)の波動を或る角度から眺めたもので
ありまして、
その実質は『生命(せいめい)』なのですから、その内面の
『生命(せいめい)』の働きようによって幾らでも
相(すがた)は変わるのであります。
では『生命(せいめい)』は如何にして働きだすかと云うと、
『心(こころ)』と云う眼に見えない働きによって働くのであります。
換言すれば『生命(せいめい)』の振動が
『心(こころ)』なのであります。
だから『心に健康を思えば健康を生じ、心に病を思えば病を生ず』
であります。
*「美しき生活」(P190)
<感謝合掌 令和6年10月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2024/10/27 (Sun) 05:00:00
この肉体と云う物質的一面があらわれているのは、
実は奥にある生命(せいめい)の振動 ―― 換言すれば
『心(こころ)』の表現としてあるのであります。
だから肉体の実質は何であるかと云うと心であります、
『心(こころ)』がこんな恰好(かっこう)にあらわれているのだ
とすると、心によってどうにでも健康が左右されても不思議でも
奇蹟でもないのであります。
だから『物質は物の実質にあらず、生命(せいめい)にあらず』と
説かれているのであります。
*「美しき生活」(P191)
<感謝合掌 令和6年10月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2024/10/28 (Mon) 05:03:45
何もないものが波を起こす、
波は無いけれども波を起した《もの》だけがあるのであります。
それが『生命(せいめい)』であります。
その生命(せいめい)の波動が『心(こころ)』であります。
『心(こころ)』と云うと、直(す)ぐ吾々は大脳から発する
精神的波動と云うものを考えるのでありますが、本当の心は、
大脳をも造り出した叡智的エネルギーであります。
叡智的なエネルギーがなければ大脳のような複雑な機構を
造ることは出来ませぬ。
*「美しき生活」(P194)
<感謝合掌 令和6年10月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2024/10/29 (Tue) 05:04:03
実在即ち『本当にあるもの』『ものそのもの』は
感覚では感じられない。
吾々の感覚に見えるものは
『本当に《ある》もの』その儘(まま)ではないのでありまして、
『本当に《ある》もの』が信念と云う心の波に依(よ)って
―― 信念には正念即ち正しい信念と、
妄念即ち迷いの信念がありますが ――
その信念に依って
『本当にあるもの』が屈折されて顕現しているのであります。
*「美しき生活」(P194)
<感謝合掌 令和6年10月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2024/10/30 (Wed) 05:04:23
正念(しょうねん)即ち正しい信念を持てば、心のレンズが
完全に素通しのレンズのようになって、実在の本当の相(すがた)
そのままが現われてくると云う事になりますが、
迷(まよい)の信念をもてば、非常に屈折されて
本当の相(すがた)とは似てもにつかぬような醜(みぐる)しい
悲惨満ち満ちた相(すがた)が現れてくるのであります。
病気とか不孝と云うものは『迷(まよい)の信念』によって
実相(じっそう)が晦(くら)まされてあらわれているので
あります。
『甘露の法雨』にはこのことを『感覚はこれ信念の影を見るに
過ぎず』と書かれております。
*「美しき生活」(P194)
<感謝合掌 令和6年10月30日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《31日》 - 伝統
2024/10/31 (Thu) 05:08:10
信念の正邪によってどうにでも現われてくるものでありますから、
五官に現れるものは幻(まぼろし)のような夢のようなもの
であります。
(中略)
苦しんでいる霊は本来ないのであります。
人間の本体なる『霊』は未だ嘗て病んだことも、苦しんだこともない
存在なのです。
ただ『心の波』が病んだり苦しんだりしているのであります。
*「美しき生活」(P194~196)
<感謝合掌 令和6年10月31日 頓首再拝>