伝統板・第二

3780732
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無限の富を汲みだす⑪ - 伝統

2024/11/04 (Mon) 12:24:42


創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」がある

          *「光明道中記」(11月4日)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                     (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、
自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、
近来、資本主義の爛熟期に到達するに及んで「設け」ずして、
金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7895683  

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7752637

(9)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7895248

(10)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7989074

(11)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8084722

(12)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑧」
     → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8235501

(13)伝統板・第二「無限の富を汲みだ⑨」
     → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8261485

(14)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑩」
     → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8326268

          <感謝合掌 令和6年11月4日 頓首再拝>

無限供給を受くる日 - 伝統

2024/11/05 (Tue) 11:54:10


          *「光明道中記」(11月5日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。
                (『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、
金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、

金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、
金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、
其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 令和6年11月5日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2024/11/11 (Mon) 11:20:51

       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、
他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、
平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、

一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

          <感謝合掌 令和6年11月11日 頓首再拝>

自然に栄える日 - 伝統

2024/12/10 (Tue) 11:45:41


           *「光明道中記」(12月10日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                      (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

           <感謝合掌 令和6年12月10日 頓首再拝>

真の富はもっと精神的または霊的なものである - 伝統

2024/12/15 (Sun) 11:16:17


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より抜粋

富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。

多くの人たちは富とは物質の所有であり、
物質を所有することによって生活の安全感と優越感とを
確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、
生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、

「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に入(い)ことの
 難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」

と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ
・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではない
のである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、
そこから引き出し来(く)る悦びの豊富、美の感受能力、
鑑賞力の豊富さであることを知らねばならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、
樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。

彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、
腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、
ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、

それは人間として与えられたる至高の特権を放棄せるもの
と言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

            <感謝合掌 令和6年12月15日 頓首再拝> 

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2024/12/16 (Mon) 11:15:56


         *「光明法語」(12月16日)より)

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

        <感謝合掌 令和5年12月16日 頓首再拝> 

富は入用の程度で満足すること - 伝統

2024/12/25 (Wed) 09:31:20


     *「光明道中記」(12月25日《必ず一人を救う日》)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                     (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

          <感謝合掌 令和6年12月25日 頓首再拝>

人間への無限供給は神から来る - 伝統

2024/12/26 (Thu) 09:52:13

   *「光明道中記」(12月26日《愛念雲の如く湧く日》)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、自働的にそれが富自身を
追求するようになる時、それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

          <感謝合掌 令和6年12月26日 頓首再拝>

冥加のある「富」 - 伝統

2024/12/27 (Fri) 08:50:41


    *「光明道中記」(12月27日《無限供給の日》)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

          <感謝合掌 令和6年12月27日 頓首再拝>

富の感情をマスター - 伝統

2025/01/07 (Tue) 10:45:02

富の感情をマスターする | 引き寄せの法則 | ルイーズ・ヘイ
感謝してください( 2024/06/14)
https://www.youtube.com/watch?v=pVnO4nJlc4w

          <感謝合掌 令和7年1月7日 頓首再拝>

富と幸福 - 伝統

2025/01/23 (Thu) 10:28:57


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より

心の平和を得ることが幸福の本である。

心が平和を得なければ億兆の富といえども
なんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、
われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

         <感謝合掌 令和7年1月23日 頓首再拝>

白刃も処を得て正しく使用せられるとき、天下を平定する剣となり富となる - 伝統

2025/01/24 (Fri) 11:46:48


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月24日)より抜粋

病人においては「富」は罪への誘惑となりうることはある。
しかしそれが「富」そのものの罪でないのは、
白刃(はくじん)が殺人の用に供されようとも、
白刃そのものの罪でないと同様である。

罪は「使用方法を誤る」ということと、「処を得ない」ということにある。

白刃も富も、処を得て正しく使用せられるとき、
天下を平定する剣となり富となる。

われわれの欲しないものを神が欲し給うかもしれぬという考えは、
神人分離の考えである。

われわれの欲せぬことを神が欲し給うかもしれぬというのであるならば、
あらゆる道徳の根拠は不確かなものとなってしまう。

われわれが善と思ったものが善でないかもしれず、
悪と思ったものが悪でないかもしれぬとしたら、
われわれは何を行なったらよいか分らぬことになり、

われわれは他人の貧乏を救うことも、
不幸を救うことも、病気を救うこともできぬことになる。

貧乏や不幸や病気が「善」であれば、それから人を救い出そうとする努力は、
人を「善」から追放する罪悪となるであろう。

しかし、何人(なんぴと)も、病気や不幸や貧乏から人々を救い出すことを
善事だと認めずにはいられない。

そうしたならば、病気や不幸や貧乏は「悪」であり、
神の欲し給わないものであることにまちがいはない。

では、病気や、不幸や、貧乏は人々が苦しいとして避けるものであるがゆえに
尊いという誤れる迷信を捨てなければならぬ。

人類が、病気や、不幸や、貧乏を真に尊敬しなくなり、
それを口実にして同情を求めなくなり、
悲劇を深刻だというような迷信から醒めるようになったとき、
人類の病気、不幸、貧乏は今よりも半減するであろう。

         <感謝合掌 令和7年1月24日 頓首再拝>

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》 - 伝統

2025/02/18 (Tue) 11:20:37


           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロック〇ェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

         <感謝合掌 令和7年2月18日 頓首再拝>

天の倉に貯える日 - 伝統

2025/02/22 (Sat) 10:46:08


           *「光明道中記」(2月22日)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。
                (「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、
天の倉に貯えられたる善行である。

すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを
先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と
言われるほどの不幸不運な人ならば、その人は天の倉に貯えられたる
自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、

その人が自己の運命を改善しようと思うならば、
先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、
少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

         <感謝合掌 令和7年2月22日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2025/02/25 (Tue) 12:03:39


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。
人のためになることを余計すればするほど、その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもので、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

         <感謝合掌 令和7年2月25日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2025/03/20 (Thu) 11:50:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 令和7年3月20日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2025/04/18 (Fri) 10:18:32


        *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、
ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ
太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわない
と云うことはないのである。

         <感謝合掌 令和7年4月18日 頓首再拝>

神よりの豊かなる生活 - 伝統

2025/04/19 (Sat) 11:39:35


        *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

         <感謝合掌 令和7年4月19日 頓首再拝>

他からくすめたた富は、地獄の使者(つかい) - 伝統

2025/04/20 (Sun) 10:51:22


     *「光明道中記」(4月20日《人を必ず救う日》)より

【皆の人々の喜びが此処に反射して帰って来てこそ事業は生長するんです。
                         (『百事如意』)】

世間にはただ投機的な活動や、
自分が儲けたら他が損をするような職業を営んでいて
巨利を博している人たちがあるにはあるが、そう云う人たちは
精神的には実にみじめな生活をしている。

それは隙を見て奪うにも似たる生活であるから、
その先鋭的な精神状態は自分自身を傷(きずつ)けて、
自分自身が神経過敏状態になるか、身体の各所に病気を持っている。

更にその尖鋭な精神状態は家族を傷け、家族たちがヒステリーに陥るか、
身体の各所に病気を持っているであろう。

労(サービス)せずして得たる金銭は、
その人の身につく資格なきものであるから、
それは必ずその人から飛び去ろうとする。

その飛び去る際に、その持主を肉体的快楽の賎奴(せんど)とするか、
執する物に離れる愛別の苦痛を与えて飛び去るのが普通である。
或る場合には金が溜(たま)れば必ず医者にとられる。

考えて見るならば金銭は何処(どこ)がそんなに尊いのであろう。
それは隣人を救う時に利用されるとき、
自分を高め勉強さすように利用されるとき、その時にのみ尊いのである。

隣人から奪ってこれを苦しめ、
自分を肉体的快楽の奴隷にまでならしめるような金銭は
却って地獄の使者(つかい)である。

            <感謝合掌 令和7年4月20日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2025/05/16 (Fri) 11:13:24


         *「光明法語」(5月16日)より

富を獲得するためには何か不正なことを行なわないと得られない
と思うのは間違いである。

また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも
間違いである。

富と云うものは
神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 令和7年5月16日 頓首再拝>

《最大多数の最大幸福に奉仕せよ》 - 伝統

2025/05/17 (Sat) 11:01:54

《最大多数の最大幸福に奉仕せよ》

         *「光明法語」(5月17日)より

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は
百万長者となり、

「わかもと」を新案して
人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、
一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、

まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に
縛せられているからである。

            <感謝合掌 令和7年5月17日 頓首再拝>

「宇宙の富を引き出す」ワーク - 伝統

2025/05/19 (Mon) 10:50:16

「宇宙の富を引き出す」ワーク(宇宙銀行アクセスワーク)

あなたはもう働かなくていい。今すぐこのワークを実践してください
【プレアデスからのメッセージ】
ギンガの真理(2025/05/18)
https://www.youtube.com/watch?v=x4EMyHKtNAQ

(1)唱える言葉

   「宇宙銀行」「大金を引き出す」
 
(2)宇宙銀行ワーク

  ①朝と夜の2回、静かな環境で座ります。
   背筋を伸ばし、深呼吸を3回行ってください。

  ②両手の平を上に向けて膝の上に置きます。
   これは宇宙からのエネルギーを受け取る姿勢です。

  ③目を閉じて頭上約50cmのところに金色に輝く光の玉があると
   イメージしてください。
   これが宇宙銀行の入り口です。

  ④その光から金色のエネルギーがあなたの頭頂部から
   体内に流れ込み、全身を満たしていくのを感じてください。

  ⑤このエネルギーを感じながら「宇宙銀行」と10回、
   ゆっくりと唱えます。

  ⑥次に「大金を引き出す」と10回、心を込めて唱えます。

  ⑦最後に「ありがとうございます」と3回唱え、
   宇宙に感謝の気持ちを送ります。

        <感謝合掌 令和7年5月19日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2025/05/22 (Thu) 10:51:28


       *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

            <感謝合掌 令和7年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2025/05/23 (Fri) 11:42:21


      *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

         <感謝合掌 令和7年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2025/05/24 (Sat) 11:55:48


      *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

         <感謝合掌 令和7年5月24日 頓首再拝>

《既に与えられているものを完全に利用せよ》 - 伝統

2025/05/25 (Sun) 11:05:54


      *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

         <感謝合掌 令和7年5月25日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2025/06/07 (Sat) 11:28:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和7年6月7日 頓首再拝>

真の無限供給の循環 - 伝統

2025/06/21 (Sat) 11:44:05


    *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)より

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。
                  (『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ
吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、
自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、
日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来る
と思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

           <感謝合掌 令和7年6月21日 頓首再拝>

神意(みこころ)を行ずる日 - 伝統

2025/06/22 (Sun) 11:25:52


       *「光明道中記」(6月22日)より

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。(『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費にと
貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、やがて頭脳が役に立たなくなって
来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

           <感謝合掌 令和7年6月22日 頓首再拝>

「無限供給」は”今””既に””ここに”ある - 伝統

2025/07/14 (Mon) 09:46:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月14日)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、
法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 令和7年7月14日 頓首再拝>

神様の無限供給をいただく方法 - 伝統

2025/08/19 (Tue) 11:44:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の****をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 令和7年8月19日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2025/09/05 (Fri) 09:55:25


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月5日)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを
「お蔭」(神からの供給)の考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは
「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、

債務者の方からが、
「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。
 神の無限の供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、
 ありがとうございます」
と考えるがよい。

             <感謝合掌 令和7年9月5日 頓首再拝>

相手の「豊富」を念じることで、債権が生きてくる - 伝統

2025/09/06 (Sat) 09:32:42


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月6日)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方が、
実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、

「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 令和7年9月6日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2025/09/12 (Fri) 11:22:27


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 令和7年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2025/09/13 (Sat) 10:30:40


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」とかの
観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。

その恵みに報謝する働きをしておれば
必要なものはことごとくやって来るのである。

        <感謝合掌 令和7年9月13日 頓首再拝>

余り物を粗末にしてはならない - 伝統

2025/09/17 (Wed) 11:23:47


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月17日)より

宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報の法則がある。
原因あれば必ず結果があるという法則である。

いかに狡猾に原因だけを造っておいて、結果だけをのがれようと試みても、
結果は早いか遅いか、あるいは他の形態をもってするか、
いずれにせよその人に報いてくるのである。

イエスが5つのパンと小さき肴(さかな)2つを5千人に分け与えて
なお12の籃(かご)にパンの余りが残っていたという奇跡が行なわれたときに、
なぜそのような奇跡があらわれたのであろうか。

それは愛のゆえに分け与えたこと、
そして「廃(すた)るものなきよう擘(さ)きたる余りを集めよ」
というイエスの教えを実行したからである。

無限供給を念じさえするならば、
物の余りを粗末にしてもさしつかえないと思うのはまちがいである。

        <感謝合掌 令和7年9月17日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2025/09/20 (Sat) 11:39:30


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 令和7年9月20日 頓首再拝>

行動せずとも天から富が降って来ると考えてはならぬ - 伝統

2025/09/21 (Sun) 11:25:23


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月21日)より

精神力をみだりに分散しては、
その戦力を消耗して大いに成功することはできないのである。

一人一業はその意味において成功の一つの要素である。

一業を志してそれに立ち向かう以上は、その方面にのみ心を集注しなければならぬ。
左を顧み、右に秋波を送り、精神力を四方八方に分散していて、一業といえども
水平線以上に出ることができないならば、その人が成功しえないのは当然のことである。

しかし、その事業に関することはあらゆる方面にわたって知識を収集し、
熟慮した上は迅速に断行することが必要なのである。

心に念じて描いておけば、
自分はなんら行動せずとも天から富が降って来ると考えてはならぬ。

             <感謝合掌 令和7年9月21日 頓首再拝>

魂が解き明かす、富の流れの真実 - 伝統

2025/09/27 (Sat) 08:06:29


宇宙の豊かさと響き合うために ~魂が解き明かす、富の流れの真実~
宇宙の兄弟たちへ(2025年9月25日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/09/blog-post_25.html

(以下は抜粋です)

(1)魂の奥底に眠る「豊かさへの抵抗」

(2)あなたを守るための、見えざる世界の愛

(3)豊かさを「エネルギー」として捉え直す

(4)豊かさの流れを呼び込むための、魂の変容

             <感謝合掌 令和7年9月27日 頓首再拝>

創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」がある - 伝統

2025/11/04 (Tue) 11:46:37


          *「光明道中記」(11月4日)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                     (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、
自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、
近来、資本主義の爛熟期に到達するに及んで「設け」ずして、
金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

          <感謝合掌 令和7年11月4日 頓首再拝>

無限供給を受くる日 - 伝統

2025/11/05 (Wed) 10:58:14


          *「光明道中記」(11月5日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。
                (『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、
金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、

金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、
金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、
其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 令和7年11月5日 頓首再拝>

無限の宇宙の繁栄エネルギーと繋がる - 伝統

2025/11/06 (Thu) 09:54:25


無限の宇宙の繁栄エネルギーと繋がるための究極のルール
宇宙の兄弟たちへ(2025年11月3日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/11/blog-post_3.html

(以下は抜粋です)

(1)私たち一人ひとりは、大いなる宇宙の繁栄エネルギーと繋がり、
   それを自らの内に留めるのではなく、社会や周囲の人々へと
   流していくことで、自らもまた豊かになっていくのです。

(2)エネルギーの流れを循環させる「与える」という宇宙の法則

   利己的な動機に基づく判断は視野を狭め、
   誰の協力も得られませんが、「人によかれ」という
   利他の心で物事を進めれば、周囲の協力が得られ、結果として
   自分自身も成功へと導かれるのです。

(3)真に「与える」とは、相手のためになり、
   世の中のためになる行いを指します。

   マザー・テレサの言葉

   「大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、
    それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。」

   「愛とは、大きな愛情をもって小さなことをすることです。」

(4)自分の利益を忘れ、ただ目の前の人の喜びや課題解決に集中する。

   その没頭状態こそが、宇宙の無限のエネルギーと直結する瞬間なのです。

   この状態では、人は最高のパフォーマンスを発揮し、
   同時に深い充足感と幸福感を得ることができます。

   そして、その結果として生み出された価値が、
   やがて自分自身への豊かさとなって還ってくるのです。

(5)宇宙の法則にはタイムラグがあります。

   蒔いた種がすぐに芽を出すとは限らないように、
   あなたの「与える」という行為の報いが、いつ、どこで、
   どのような形で返ってくるかは分かりません。

   しかし、忘れないでください。

   宇宙は完璧な帳尻合わせを行います。

   あなたが与えたエネルギーは、決して消えることはありません。

   それは宇宙に貯金され、あなたが最も必要とするときに、
   思いがけない形で、何倍にもなって返ってくるのです。

(6)私たちは皆、無限の宇宙の繁栄エネルギーと繋がる水門です。

   その水門を開き、豊かさの流れをせき止めることなく、
   多くの人々のために流していくこと。

   それこそが、私たち自身が真に豊かになるための唯一の道なのです。

          <感謝合掌 令和7年11月6日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2025/11/11 (Tue) 12:00:38


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、
他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、
平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、

一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

          <感謝合掌 令和7年11月11日 頓首再拝>

自然に栄える日 - 伝統

2025/12/10 (Wed) 10:53:11

           *「光明道中記」(12月10日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                      (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

           <感謝合掌 令和7年12月10日 頓首再拝>

真の富はもっと精神的または霊的なものである - 伝統

2025/12/15 (Mon) 11:58:19


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より抜粋

富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。

多くの人たちは富とは物質の所有であり、
物質を所有することによって生活の安全感と優越感とを
確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、
生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、

「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に入(い)ことの
 難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」

と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ
・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではない
のである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、
そこから引き出し来(く)る悦びの豊富、美の感受能力、
鑑賞力の豊富さであることを知らねばならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、
樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。

彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、
腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、
ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、

それは人間として与えられたる至高の特権を放棄せるもの
と言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

            <感謝合掌 令和7年12月15日 頓首再拝> 

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2025/12/16 (Tue) 11:59:36


         *「光明法語」(12月16日)より)

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

        <感謝合掌 令和7年12月16日 頓首再拝> 

龍に好かれ、富の流れに乗る - 伝統

2025/12/18 (Thu) 09:59:43


【斎藤一人】12月18日を境に日本が変わる
出来るだけ早く備えて…!
ありがとうch( 2025/12/17)
https://www.youtube.com/watch?v=k4GaHr3q8s8

(1)「天之御中主神様、お助けください」

(2)正当な欲を持つことは善

(3)自分なりの楽しい人生を築きましょう。

(4)自分の7割の力がベスト

(5)達成感は仕事を通して得られる

(6)2026年は時代の流れが速くなる

(7)龍神様はあなたの横にいる
   龍がついてる人は勢いがすごい。

(8)流れを止めない。

(9)龍が離れてしまう人の共通点

  ①ネガティブな言葉を多く使う人。

  ②感謝を忘れて全てが当たり前になる人。

  ③お金に執着してしまう人。

  ④他人を恨み、批判をする人。

  ⑤自然な場所、神聖な場所を軽んじる人、

(10)冬至(12月22日)は重要。

        <感謝合掌 令和7年12月18日 頓首再拝> 

富は入用の程度で満足すること - 伝統

2025/12/25 (Thu) 11:04:56


     *「光明道中記」(12月25日《必ず一人を救う日》)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                     (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

          <感謝合掌 令和7年12月25日 頓首再拝>

人間への無限供給は神から来る - 伝統

2025/12/26 (Fri) 09:45:56


   *「光明道中記」(12月26日《愛念雲の如く湧く日》)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、自働的にそれが富自身を
追求するようになる時、それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

          <感謝合掌 令和7年12月26日 頓首再拝>

冥加のある「富」 - 伝統

2025/12/27 (Sat) 10:56:44

    *「光明道中記」(12月27日《無限供給の日》)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

          <感謝合掌 令和7年12月27日 頓首再拝>

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