伝統板・第二

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悦び ⑤ - 伝統

2024/12/09 (Mon) 10:58:41


《自分の魂の喜び》

       *「光明法語」(12月9日)より

真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。

一時五官を楽しませたように見えても、
五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。

自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。

「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「悦び ①」
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(2)伝統板・第二「悦び ②」
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(3)伝統板・第二「悦び ③」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7906306

(4)伝統板・第二「悦び ④」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8198597

           <感謝合掌 令和6年12月9日 頓首再拝>

日常茶飯事のすべてに喜びを見出してゆく - 伝統

2024/12/22 (Sun) 13:55:29


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より

某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。


「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
 この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
 ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
 突然起ったのであります。

 しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
 はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。

 私はこの福岡市のものでありまして、
 この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、

 一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
 私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
 幸いにして私は中位で当選しました。

 私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
 雑誌の名前を見たこともなかったので、
 実はあまり関心を持っていなかったのであります。

 それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも
 関心は持っていなかったのであります。

 ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
 というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。

 実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
 もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
 前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたので
 ありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。

 私は特に皆様に申し上げたいことは
 私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入っておりますと、
 何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。

 どうも魂の慰めがありません。

 そこで突然思い出したのが
 前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
 これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。

 だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
 見つけ出すにはどうしたらいいかという事の
 谷口先生のお話が載っておりました。

 それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』

 こういうようなことが書いてありました。

 私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。

 あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、
 ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。

 そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
 ということを知らされたのであります。

 いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
 その他の宗教の本なんか読んだのですが、
 すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
 娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
 ―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ―― 

 私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
 今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか
 と考えたものであります。

 今時間がありませんから、早く申し上げますが、何とかして
 自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。


 あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
 刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。

 それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
 それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。

 そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
 それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
 非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。

 もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
 ともかく深切でないのです。

 その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
 それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
 二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。

 一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
 なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、
 と言って興奮して怒るんです。

 みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
 そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
 朝から非常に気持ちが悪いんです。

 いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
 これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
 せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
 考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。

 1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
 それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。

 そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して
 試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。

 お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
 『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。

 初めは悲観しましたね、
 『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
 と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは
 『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。

 今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
 傲慢な気持ちがあったのでしょう。

 その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだ
 と気がついて、お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、

 『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
 雑役囚が何か持って来てくれるたびに
 『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。

 私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
 二日三日四日となると自然とちがってきました。

 今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
 こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。

 あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の
 一番暑い盛りですから、そういう時に向こうの方から方々一ぺん
 ぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
 『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。

 始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
 『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』
 こういうのです。

 『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』
 とこう言う。

 そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
 『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』
 こんな返事をする。

 監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
 それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。

 平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
 『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
 それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
 から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。

 私は初めて生長の家の教えというものが
 いかに偉大なものであるかということをはっきり認識したのであります。

 『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
 本当に分ってきたように思います。

 この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
 こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。

 したがってわたしは未決監に入ったということが、
 私の人生、将来にとってどのくらいよいことを教えてくれたかしれないと
 感謝しているのです。

 わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
 判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。

 わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
 これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。

 実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして
 来(こ)ようじゃないかというので、この四日から来ておりますが、
 ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
 かたがた上京して参ったのでありますが、

 あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
 ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな
 奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
 本日は時間がありませんから申し述べませんが、

 ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
 非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
 参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、

 皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
 なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを
 御想像願いたいと思います。

 私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
 これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。

 電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
 あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わ
 たしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受ける
 ことと思います。

 日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
 いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」


道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。

そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。

            <感謝合掌 令和6年12月22日 頓首再拝> 

天国の喜び - 伝統

2024/12/30 (Mon) 09:25:38


     *「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より

【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】

他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。

人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。

天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。

人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。

ニセ者の我を征服する喜びである。

真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。

創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。

すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。

奪い合いのない幸福でなければならない。

5つのパンを5千人に分っても尚(なお)
籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。

        <感謝合掌 令和6年12月30日 頓首再拝>

悲しみの奥地には、悦びの実相がある。 - 伝統

2025/01/07 (Tue) 10:55:03


   *「光明道中記」(1月7日《光明一元・歓喜の日》)より

【暗は光明に来てブッ突かれば
 ブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
                     (『生命の實相』第一巻)】

悲しみは存在しない。それは無い心である。

文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代****人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味で
それを組み立てた。

「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。

喜べばいくらでも喜べるのが心である。

悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば
喜びだけがあることが判るのである。

ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、
悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に咬まれた小兎のように
悲しみによって振り回されるからである。

静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。

オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。

これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。

悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。

        <感謝合掌 令和7年1月7日 頓首再拝>

喜べば生命は伸びる - 伝統

2025/01/08 (Wed) 11:08:43


      *「光明道中記」(1月8日《魂浄まる日》)より

【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。
                 (『生命の實相』第一巻)】
  
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの
状態である。

伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。

浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。

寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで
楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。

また其の人が寒中水浴することが不快であり、嫌々ながら
人に勧められたために已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、
其の人はその水浴が無効であり、却って害があることを実証するために、
自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。

喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。

健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。

そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。

            <感謝合掌 令和7年1月8日 頓首再拝>

すべてに喜びを見出す - 伝統

2025/01/11 (Sat) 11:54:26

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より

一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。

自分のしている善いことに、
家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。

明るい半面ばかり見る者は常に生長し、
暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。

どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに
「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。

この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。

            <感謝合掌 令和7年1月11日 頓首再拝>

われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統

2025/02/28 (Fri) 10:52:22


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より

よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。

お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。

心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。

           <感謝合掌 令和7年2月28日 頓首再拝>

わが生命は神の生命の歓喜 - 伝統

2025/04/03 (Thu) 11:14:48


        *「光明法語」(4月3日)より)

われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。

神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。

われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。

生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。

         <感謝合掌 令和7年4月3日 頓首再拝>

悦びを語り、悦びを表現し、悦びを心に刻印する - 伝統

2025/06/05 (Thu) 12:02:08


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より抜粋

生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。

天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
 ―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。

人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、

言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。

           <感謝合掌 令和7年6月5日 頓首再拝>

創造(つく)り出すことが喜び - 伝統

2025/06/09 (Mon) 11:25:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より

人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。

体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。

自分の持物が少ないといって嘆くことはない。

釈迦は

あたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、

その王宮が苦しくなって飛び出したのである。

ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。

生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。

生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。

人間が神の子であるのは事実である
 ―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。

彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。

「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。

           <感謝合掌 令和7年6月9日 頓首再拝>

【喜び上手な人】 - 伝統

2025/07/05 (Sat) 08:27:53


   *メルマガ「人の心に灯をともす」(2025.3.6)より

   (山崎拓巳氏の心に響く言葉より…)

   プレゼントをあげて、すごく喜んでもらえたら、嬉しくなります。

   嬉しいから、すごく喜んでくれる人を、またまた喜ばせたくなります。

   これは物だけじゃなく、情報も知識も人も同じです。


   とにかく「すごく喜ぶ人」の所には、
   素敵なものがあちこちから集まってくるんです。

   だから、というわけではありませんが、
   おすすめの映画を紹介してもらったとき、
   誕生日プレゼントをもらったとき、
   仕事のコツを教わったとき、
   食事に誘ってもらったとき、
   面白い人を紹介してもらったとき...

   いつでも喜びの気持ちを言葉や態度で「思いっきり」示すことが大事。


   たとえいただいたものが、あなたにとって趣味が合わなかったり、
   あまり必要のないものでもなんのその。

   あなたに「なにをしてくれたのか」は問題じゃないんです。

   「なにかをしてくれようとする好意」そのものが貴重なんです。


   逆に相手が照れてしまうくらい、大げさでもいい。

   相手の好意にしっかり気づいて、
   照れずに「ありがとう!」「うれしい!」と伝えましょう。


   《あなたへの好意は、あなたが喜ぶほど集まってくる》

       <『気配りのツボ』サンクチュアリ出版>

         ・・・

「喜び上手な人」と「喜び下手な人」がいる。

「喜び上手な人」は、「喜ばせ上手」な人でもある。


その喜びが大きければ大きいほど、相手の喜びは大きくなる。

逆に、ゼンゼン喜ばなかったり、
むしろ相手を冷やすようなことを言う人には、
「がっかりする」を通り越して怒りさえ感じるかもしれない。


素直に、無邪気に喜ぶ人には「可愛げ」がある。

可愛げがある人は、男女、年齢を問わず、誰からも好かれる。

喜び上手な人でありたい。

・・・

<参照>

「喜び上手」な人と「喜び下手」な人
https://note.com/uwanosorako_/n/n2c9f458496b9

           <感謝合掌 令和7年7月5日 頓首再拝>

素直に喜べる人だけが偉大なる人物 - 伝統

2025/07/31 (Thu) 11:46:24


      *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より

人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。

人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。

他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。

他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。

         <感謝合掌 令和7年7月31日 頓首再拝>

喜ばぬ『自分』は『非在(えせ)の自分』 - 伝統

2025/08/26 (Tue) 11:04:30


   *「光明道中記」(8月26日《法悦なき法悦の日》)より

【形の地獄の中にも極楽がある。(『生命の實相』第十一巻)】

(歎異抄第九条)

   念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ
   おろそかにさふらふこと、

   またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、
   いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、
   まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、
   唯円房おなじこころにてありけり。

   よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、
   よろこぶべきことをよろこばぬにて、
   いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。

唯円房が

「念仏を称えながらも
わたしは天に踊り地に舞うような法悦が感じられませぬ。
後生を欣求(ねが)う念仏を称えながらも、
私は急いで極楽浄土に往きたくはございません。
これは矛盾でございますが、どうしたものでございましょう」

とおたずね申上げましたら、

親鸞聖人は

「親鸞もお前と同じような疑問を持ったことがあるが、
唯円房よ、その方も同じ心だったな」

と仰せられました。

「よくよく考えて見れば、よろこぶべきことを喜ばぬ『自分』は
『非在(えせ)の自分』の証拠である。
非在の自分を”ある”かの如く思いあやまっているからこそ、
他力の悲願(おすくい)が必要なのじゃとありがたく思えば好い・・・」

と仰せられたのである。

       <感謝合掌 令和7年8月26日 頓首再拝>

大生命の歓喜 - 伝統

2025/09/09 (Tue) 11:02:15


      *「光明法語」(9月9日)より

大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。

而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。

それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に
喜びを感ずるのと同様である。

大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを
表現せんが為に造った。

           <感謝合掌 令和7年9月9日 頓首再拝>

《神の生命の歓喜》 - 伝統

2025/09/18 (Thu) 10:34:57


          *「光明法語」(9月18日)より

神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。

美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・

数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。

人間が喜べば神が喜ぶのである。

           <感謝合掌 令和7年9月18日 頓首再拝>

物質次元を超えた知の喜び - 伝統

2025/09/19 (Fri) 11:08:15

物質次元を超えた知の喜び
宇宙の兄弟たちへ(2024年10月20日)
https://www.spacebrothers.jp/2024/10/blog-post_20.html

(以下は抜粋です)

世界というのは、実は私たちの住む物質次元だけでなく、
さらに高次な精神世界が広がっています。

言ってみれば物質次元の世界というのは、
部屋の中にある金魚鉢の世界と言えます。

極めて限られた範囲の世界を示しているのです。

水槽の中には何粒の砂があるとか、何時になればエサが降ってくる、
金魚という存在はどのようなものかなど、
金魚鉢の中にあるものだけを学んでいます。


ですが、世界はその金魚鉢の外に広く広がっています・
広大な世界が広がっているのです。

それが従来から言われているような霊的世界であったり、
高次元世界と呼ばれるものです

霊的真理を学ぶというのは、この私たちの住む金魚鉢を飛び越えて、
さらに外に広がる広大な世界の探求でもあります。

簡単に全容をつかめるわけではありませんが、
その分、探求する価値があります。

金魚鉢しか知らない人からは理解されないでしょうが、
それはその人たちの認識が狭いだけなのです。

小さな世界に閉じこもって、広い世界に視野を広げていません。

真実の世界、精神世界を含めた広大な世界を探求し、学んでいく事こそ、
喜びであり、真の愛知者でもあるのです。

           <感謝合掌 令和7年9月19日 頓首再拝>

《自分の魂の喜び》 - 伝統

2025/12/08 (Mon) 09:51:15


       *「光明法語」(12月9日)より

真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。

一時五官を楽しませたように見えても、
五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。

自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。

「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。

           <感謝合掌 令和7年12月8日 頓首再拝>

日常茶飯事のすべてに喜びを見出してゆく - 伝統

2025/12/22 (Mon) 11:38:18


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より

某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。


「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
 この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
 ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
 突然起ったのであります。

 しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
 はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。

 私はこの福岡市のものでありまして、
 この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、

 一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
 私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
 幸いにして私は中位で当選しました。

 私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
 雑誌の名前を見たこともなかったので、
 実はあまり関心を持っていなかったのであります。

 それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも
 関心は持っていなかったのであります。

 ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
 というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。

 実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
 もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
 前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたので
 ありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。

 私は特に皆様に申し上げたいことは
 私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入っておりますと、
 何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。

 どうも魂の慰めがありません。

 そこで突然思い出したのが
 前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
 これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。

 だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
 見つけ出すにはどうしたらいいかという事の
 谷口先生のお話が載っておりました。

 それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』

 こういうようなことが書いてありました。

 私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。

 あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、
 ただ自由が束縛されている、魂の糧に飢えている。

 そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
 ということを知らされたのであります。

 いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
 その他の宗教の本なんか読んだのですが、
 すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
 娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
 ―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ―― 

 私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
 今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものか
 と考えたものであります。

 今時間がありませんから、早く申し上げますが、何とかして
 自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。


 あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
 刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。

 それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
 それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。

 そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
 それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
 非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。

 もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
 ともかく深切でないのです。

 その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
 それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
 二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。

 一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
 なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、
 と言って興奮して怒るんです。

 みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
 そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
 朝から非常に気持ちが悪いんです。

 いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
 これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
 せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
 考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。

 1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
 それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。

 そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して
 試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。

 お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
 『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。

 初めは悲観しましたね、
 『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
 と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは
 『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。

 今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
 傲慢な気持ちがあったのでしょう。

 その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだ
 と気がついて、お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、

 『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
 雑役囚が何か持って来てくれるたびに
 『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。

 私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
 二日三日四日となると自然とちがってきました。

 今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
 こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。

 あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の
 一番暑い盛りですから、そういう時に向こうの方から方々一ぺん
 ぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
 『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。

 始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
 『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』
 こういうのです。

 『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』
 とこう言う。

 そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
 『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』
 こんな返事をする。

 監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
 それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。

 平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
 『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
 それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
 から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。

 私は初めて生長の家の教えというものが
 いかに偉大なものであるかということをはっきり認識したのであります。

 『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
 本当に分ってきたように思います。

 この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
 こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。

 したがってわたしは未決監に入ったということが、
 私の人生、将来にとってどのくらいよいことを教えてくれたかしれないと
 感謝しているのです。

 わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
 判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。

 わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
 これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。

 実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして
 来(こ)ようじゃないかというので、この四日から来ておりますが、
 ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
 かたがた上京して参ったのでありますが、

 あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
 ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな
 奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
 本日は時間がありませんから申し述べませんが、

 ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
 非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
 参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、

 皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
 なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを
 御想像願いたいと思います。

 私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
 これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。

 電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
 あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わ
 たしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受ける
 ことと思います。

 日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
 いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」


道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。

そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。

            <感謝合掌 令和7年12月22日 頓首再拝> 

天国の喜び - 伝統

2025/12/30 (Tue) 09:54:50


     *「光明道中記」(12月30日《讃える喜びの日》)より

【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】

他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。

人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。

天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。

人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。

ニセ者の我を征服する喜びである。

真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。

創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。

すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。

奪い合いのない幸福でなければならない。

5つのパンを5千人に分っても尚(なお)
籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。

        <感謝合掌 令和7年12月30日 頓首再拝>

悲しみの奥地には、悦びの実相がある。 - 伝統

2026/01/07 (Wed) 10:22:24


   *「光明道中記」(1月7日《光明一元・歓喜の日》)より

【暗は光明に来てブッ突かれば
 ブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
                     (『生命の實相』第一巻)】

悲しみは存在しない。それは無い心である。

文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代****人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味で
それを組み立てた。

「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。

喜べばいくらでも喜べるのが心である。

悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば
喜びだけがあることが判るのである。

ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、
悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に咬まれた小兎のように
悲しみによって振り回されるからである。

静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。

オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。

これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。

悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。

        <感謝合掌 令和8年1月7日 頓首再拝>

喜べば生命は伸びる - 伝統

2026/01/08 (Thu) 10:04:07


      *「光明道中記」(1月8日《魂浄まる日》)より

【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。
                 (『生命の實相』第一巻)】
  
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの
状態である。

伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。

浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。

寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで
楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。

また其の人が寒中水浴することが不快であり、嫌々ながら
人に勧められたために已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、
其の人はその水浴が無効であり、却って害があることを実証するために、
自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。

喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。

健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。

そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。

            <感謝合掌 令和8年1月8日 頓首再拝>

すべてに喜びを見出す - 伝統

2026/01/11 (Sun) 11:53:01


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より

一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。

自分のしている善いことに、
家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。

明るい半面ばかり見る者は常に生長し、
暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。

どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに
「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。

この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。

            <感謝合掌 令和8年1月11日 頓首再拝>

【人間が一番うれしいこと】 - 伝統

2026/01/21 (Wed) 10:43:48


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2025.9.20)より

   (やなせたかし氏の心に響く言葉より…)

   《人間が一番うれしいことはなんだろう?
    長い間、ぼくは考えてきた。

    そして結局、人が一番うれしいのは、
    人をよろこばせることだということがわかりました。

    実に単純なことです。

    ひとはひとをよろこばせることが一番うれしい。》

      (もうひとつのアンパンマン物語)より



   長い人生を生きてきたが、
   星の命に比べたら、百歳まで生きたって、
   瞬間に消え去っていくのと変わらない。

   人間は、宇宙的にいえば、ごく短い間しか生きはしないのだ。

   つかの間の人生なら、なるべく楽しく暮らしたほうがいい。


   それでは、人は何が一番楽しいんだろう。

   何が一番うれしいんだろう。

   その答えが「よろこばせごっこ」だった。


   母親が一生懸命に料理をつくるのは、
   「おいしい」とよろこんで食べる家族の顔を見るのがうれしいからだ。

   父親が汗をかいて仕事をするのは、家族のよろこびを支えるためだ。

   美しく生まれた人は、その美しさで人をよろこばせることができる。

   学問が得意な人は学問で、
   絵を描ける人は絵を描くことで。
   歌える人は歌で。


   人は、人がよろこんで笑う声を聞くのが一番うれしい。

   だから、人がよろこび、笑い声を立ててくれる漫画を長く描いてきた。

   自分が描いた漫画を読んで子どもたちがよろこんでくれる。

   その様子を見て、自分がうれしくなる。


   こうしてよろこばせごっこができることが本当に幸せだ。

   あなたは何をして、よろこばせごっこをしていますか?

          <『明日をひらく言葉』PHP文庫>

       ・・・

斎藤一人さんは「人を喜ばす」についてこう語る。


『「自分の人生、つまんないな」
 「オレって、ついてないな」といってた人でも、
 人を喜ばす人生を歩きだすと、展開がすごい違ってきちゃう。

 人生が急に輝きだす、っていうのかな。

 たとえば、前に、若い男の子で
 「自分と仲よくしてくれる人がどこにもいないし、世の中、つまんない」
 っていう人がいたんです。

 ところが、人を喜ばすことをやりはじめたら、
 会社やなんかで、仲よくしてくれる人が出て来て、
 毎日「楽しい、楽しい」って いいだしたの、その子。

 しばらくしたら、仲のいい人と一緒にサークルに出かけるようにもなって、
 そこでも人に喜ばれてて「自分は幸せだ」って。

 もっと驚いたのは、最近やけに顔が
 イキイキ輝いて、カッコよくなってきたから

 「なんか、いいことあったのかい?」って聞いたら、
 「サークルで知り合いになった女性に告白されて、今、つきあっているんです」って。

 その子のことを見てて、私、思うんだけど。

 よくね、定年退職だとかで、ずぅーっと家にいて、
 テレビを見て一日すごしてるような人に、
 周りが「こいいうサークルがあるから、行ってみれば」とかっていうんだけど。

 サークルに出かけたとしても、結局、行かなくなっちゃうと思うんです。

 だって、出かけていっても、そこで、
 自分がなにをしていいのかがわからない。

 そうすると、そこもやっぱり、楽しくないんだよ。

 だから、そういうサークルに行く前に、
 ふだんの生活のなかで、なにか一つ、
 人を喜ばせることをしてみると、いいかもわかんない。

 それで、人を喜ばすって、
 みんなが思っているほど、難しいことじゃないんだ。

 たとえば、女性に「いつも、キレイだね〜」って、いってあげたっていいし。

 外で食事をしたとき、お店の人に「おいしかったよ」というのもいい。

 友だちやなんかと会ったら、「あなたと会えて、うれしいよ」とか。』

      (斎藤一人 愛される人生 /KKロングセラーズ)より



「人間が一番うれしいこと」、

それは「人をよろこばせること」。

すると、「喜び」が「喜び」を連れてくる。

「喜べば 喜び事が 喜んで 喜び集めて 喜びに来る」


まず、人を喜ばせること。

人に与えることだ。

そうして、相手が喜べば、その「喜び」が、
喜んで、喜びをたくさん集めて、喜びに来てくれる。


人間が一番うれしいこと・・・

それは、「人をよろこばせること」。

・・・

<参照>

【人生変わる】やなせたかしの
「明日をひらく言葉」たち|
朝ドラ『あんぱん』史実解説あり
シンプリィライフ(2025/07/26)
https://www.youtube.com/watch?v=yJoYbuzBqFY

\目次/
00:00 開始
03:08 ①やなせたかしと小松暢の波乱万丈ストーリー

13:10 ②「人生は椅子取りゲーム」理論
15:08 ③人生は「よろこばせごっこ」

17:13 ④成功は「めぐり合うもの」
18:46 ⑤すべての経験には意味がある

20:46 ⑥不完全さこそが愛される理由
24:11 ⑦「逆転しない正義」とは?

26:27 ⑧絶望の隣は希望です
29:39 ⑨理屈抜きに生きる

30:51 ⑩運は自力で動かすもの

・・・

「明日をひらく言葉」 やなせたかし 著
note:向後善之(2025年10月15日)
https://note.com/yoshiyukikogo/n/n89ab6337c045


『明日をひらく言葉』
note:Mii(2025年10月18日)
https://note.com/mii881110/n/n629ed70e2d2a


『明日をひらく言葉』の魅力
note:kanako(2025年9月28日 )
https://note.com/kanako6483/n/n0091ae9dee70

       <感謝合掌 令和8年1月21日 頓首再拝>

《悦びは創造の力である》 - 伝統

2026/02/04 (Wed) 11:45:34


           *「光明法語」(2月4日)より

神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。

歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて
萬物の創造となったのである。

悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。

愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。

かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。

愛が形をかえて色々の文化を生ずる。

         <感謝合掌 令和8年2月4日 頓首再拝>

【自分に「ご褒美」をあげる】 - 伝統

2026/02/24 (Tue) 08:37:01


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2025.10.25)より

   (精神科医、樺沢紫苑氏の心に響く言葉より…)

   《『マイレージ・マイライフ』に学ぶ、大嫌いな仕事にやる気を見出すコツ》


   今の自分の仕事が嫌で、嫌で仕方ない。

   仕事に誇りを持てない。

   そんなマイナスのイメージを抱きながら、
   日々、生活のためにしょうがなく
   仕事をしている人も、少なくないと思います。

   そんな「苦しい」状況で、どうやって
   モチベーションを高めたらよいのでしょうか?


   そのヒントを与えてくれる映画が、『マイレージ・マイライフ」です。

   主人公のライアン (ジョージ・クルーニー)は「リストラ宣告人」、
   企業に代わって職員に解雇を宣告する仕事をしています。

   リストラされた人は絶望し、泣き崩れ、
   時には宣告人に対し激しく怒り出します。


   リストラの宣告は誰もやりたがらない、非常にストレスが多い仕事です。

   ライアンは、内心、嫌な仕事とは思いつつ、
   非常に高いモチベーションを保ち、前向きに仕事に取り組んでいきます。

   モチベーションを維持する方法について、
   一流企業から講演を依頼されるほど。

   彼の前向きに仕事に取り組む秘密は、何なのでしょうか?


   それは、「マイレージ」です。

   彼は、仕事で毎日アメリカ中を飛行機で飛び回り、
   マイルが貯まることを楽しんでいます。

   彼の大きな夢が、1000万マイルを貯めること。

   彼は仕事自体に「喜び」や「達成感」を見出せないので、仕事以外に
   「自分にご褒美を与える」ことで、モチベーションを維持していたのです。

   仕事そのものが自分の「精神的報酬」になるのが一番ですが、
   もしそれが困難な場合は、仕事と関係ないところで、自分に
   ご褒美をあげる方法が非常に効果的です。


   モチベーションをつかさどる、脳の「側坐核(そくざかく)」。

   この部分は「報酬」をもらうことで興奮します。

   楽しい。嬉しい。
   仕事で何かを達成したり、人からほめられたり、愛されたり。

   こうした「精神的な報酬」が側坐核を興奮させ、
   やる気物質ドーパミンの分泌をうながします。


   物やお金など、物質的な報酬でも、
   脳のなかでは「嬉しい!」という精神的な報酬に置き換わります。

   ですから、自分にご褒美をあげるだけで、モチベーションがアップするのです。

   報酬を与えると脳は勝手に頑張ってくれる。

   何か目標を達成した場合、どんどん自分にご褒美をあげてください。

       <『「苦しい」が「楽しい」に変わる本』あさ出版>

         ・・・

人により、何かを達成したときのご褒美は、色々考えられる。

たとえば、「旅行」。

ちょっと贅沢なホテルで一泊して、
食事を愉しんだり、温泉旅館だったら、ゆっくりと温泉を楽しむ。

あるいは、ちょっとした「豪華なレストラン」を予約する。

「コンサート」や「イベント」のチケットを取る。


たとえ、モチベーションのあがらない仕事や行事であっても、
それを達成したら、気の置けない仲間と「食事」をしたり、
「一杯飲める」と思うだけで頑張ることができる。

特に、継続して半年間やらなければならない仕事など、
終ったら個人的な「打ち上げ」があると思うだけで
テンションを維持することができる。

また、日々の小さな報酬なら、
タスクが終わったら「一杯飲める」とか「スイーツが食べられる」、
「映画やドラマが見られる」という楽しみも設定できる。


たとえ、どんな状況でも、自分の中に
「楽しみ」や「報酬」を設定できる人は強い。

仕事がつらくても、人間関係が大変でも、
その中に、自分なりの「小さな喜び」を見つけられた瞬間、
その人の脳はポジティブに切り替わり、やる気のスイッチが入る。


「楽しく生きる」のか「つらいまま過ごす」のか。

すべては自分の心の設定次第で、変えることができる。

『自分に「ご褒美」をあげる』ことができる人でありたい。

・・・

<参照>

一瞬で「苦しい」を「楽しい」に変える方法があった!
【精神科医・樺沢紫苑】(2023/10/30)
https://www.youtube.com/watch?v=sRJ4Lm022nk


[読書備忘録]「苦しい」が「楽しい」に変わる本
note:k(2025年7月26日 )
https://note.com/yoshidddddddd/n/n19de367bab37

         ・・・

”「苦しい」が「楽しい」に変わる本”を読んで
note:まっきー(2020年8月11日 )
https://note.com/makky0122/n/n92a0cdeab169

(以下は抜粋です)

1.「苦しい」と「楽しい」の基本
2.「苦しい」が「楽しい」に変わる7つの方法
3.「苦しい」をモチベーションに変える技術
4.「嫌い」を「好き」に変える人間関係を改善する5つの技術
5.変えられない「苦しい」を「楽しい」を変える方法
6.究極の「苦しい」解消法

         ・・・

「苦しい」が「楽しい」に変わる本 の備忘
note:ナツ太郎(2024年4月7日 )
https://note.com/gifted_bloom/n/n3adf8eb1eba5

(以下は抜粋です)

「苦しい」が「楽しい」に変わる7つの方法

1.「楽しい」ことを考える

2.ポジティブに言い換える

3.「やらされ感」を「自発性」に変える

4.状況を客観視する

5.解決法、対処法を学ぶ

6.原因除去に執着しない

7.「今」にフォーカスする

          <感謝合掌 令和8年2月24日 頓首再拝>

われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統

2026/02/28 (Sat) 11:46:38


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より

よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。

お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。

心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。

           <感謝合掌 令和8年2月28日 頓首再拝>

真理がいっさいのよろこびの源泉 - 伝統

2026/03/27 (Fri) 11:34:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 令和8年3月27日 頓首再拝>

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