伝統板・第二

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神の導き ④ - 伝統

2024/12/10 (Tue) 11:49:23


天の使とは

       *「光明法語」(12月10日)より

「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たりと
 言いしに因(よ)りて信ずるか、汝これよりも更に大いなる事を見ん』

また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
 神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』
                  (「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「神の導き」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6901784

(2)伝統板・第二「神の導き ②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7929618

(3)伝統板・第二「神の導き ③」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8238093

          <感謝合掌 令和6年12月10日 頓首再拝>

《神霊に導かれて》 - 伝統

2025/01/14 (Tue) 12:25:30


        *「光明法語」(1月14日)より

今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。

わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。

わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。

われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。

       <感謝合掌 令和7年1月14日 頓首再拝>

《神常に吾に宿り給うと信ぜよ》 - 伝統

2025/01/20 (Mon) 11:50:01


       *「光明法語」(1月20日)より

吾が全ての願いは
吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。

されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。

吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。


吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。

吾に何事でも勧めてくれる人は
神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。

吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。

            <感謝合掌 令和7年1月20日 頓首再拝>

《すべては神の導きである》 - 伝統

2025/02/22 (Sat) 10:48:08


           *「光明法語」(2月22日)より

どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。

人間知恵で突進している場合、
それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。

そんな時、思わぬ事件が起って、
その方向転換させて下さるのが神の導きである。

何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。

人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。

           <感謝合掌 令和7年2月22日 頓首再拝>

行き詰った時にはこうせよ - 伝統

2025/03/08 (Sat) 11:56:42


           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

          <感謝合掌 令和7年3月8日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2025/03/24 (Mon) 11:19:40


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

         <感謝合掌 令和7年3月24日 頓首再拝>

神の導きには時間の要素がある - 伝統

2025/05/05 (Mon) 11:10:21


        *「光明法語」(5月5日)より

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には
一段一段と階段を昇って行くが如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、
到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

            <感謝合掌 令和7年5月5日 頓首再拝>

天の声を聴く日 - 伝統

2025/06/04 (Wed) 11:23:47


           *「光明道中記」(6月4日)より

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

            <感謝合掌 令和7年6月4日 頓首再拝>

神、われを導き給う - 伝統

2025/07/10 (Thu) 11:11:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 令和7年7月10日 頓首再拝>

大生命の導き - 伝統

2025/09/13 (Sat) 10:28:51


    *「光明法語」(9月13日)より

吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。

大生命はみずから大自然を創造すると共に、
大生命の自主的支点とも称すべき吾々「人間」をつくって、
「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。

大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、
指導も惜しむものではない。

        <感謝合掌 令和7年9月13日 頓首再拝>

神を通じての目的実現 - 伝統

2025/10/19 (Sun) 11:50:00


          *「光明法語(10月19日)」より

精神波及はかくの如く効果をあらわすが、
それは、個別の精神と、個別の精神との間の感応であって、
神がそれを成し給うのではない。

最高の精神感応は、神は普遍者(どこにも在る)であらせられるから、
如何なるところにある人にでも、如何なるところにある物資でも
それは感応し、それが切実なる願いであるならば、
その人はいつの間にか自分のところに訪れ来り、
その物資は自分の処に呼び寄せられるのである。

それは上手下手はないのであって
神に波長の合う誠心(まごころ)の出た人なら誰でも出来る。

         <感謝合掌 令和7年10月19日 頓首再拝>

真に神に導かれる人となることが大切 - 伝統

2025/10/29 (Wed) 10:51:51


    *「光明道中記」(10月29日《断然決意の日》)より抜粋

大切なのは「神に導かれる」と云うことである。

信仰深くして、神と偕(とも)なりとの自覚を以ているばかりでなく、
真に神に導かれている人にして、機に臨み変に応じ
自由自在の叡智を有っている人でなければならない。

而もかくの如き人でも、
人の信義を裏切ることを極度に厭う人でなければ終を完うしない。

        <感謝合掌 令和7年10月29日 頓首再拝>

神智に照らされて歩む - 伝統

2025/11/25 (Tue) 12:11:17


          *「光明道中記」(11月25日)より
           ~一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                  (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。

然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。

神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。

功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら
今日の私はないであろう。

今日の私があるのは、
「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 令和7年11月25日 頓首再拝>

尊いのは、人の子のうえに「神の霊波」が昇り降りすることである - 伝統

2025/12/10 (Wed) 10:48:44


      *「光明法語」(12月10日《天の使とは》)より)

『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たり
 と言いしに因(よ)りて信ずるか、
 汝これよりも更に大いなる事を見ん』

また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
 神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』
              (「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。

         <感謝合掌 令和7年12月10日 頓首再拝> 

《神霊に導かれて》 - 伝統

2026/01/14 (Wed) 10:52:10


        *「光明法語」(1月14日)より

今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。

わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。

わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。

われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。

       <感謝合掌 令和8年1月14日 頓首再拝>

《すべては神の導きである》 - 伝統

2026/02/22 (Sun) 10:23:28


           *「光明法語」(2月22日)より

どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。

人間知恵で突進している場合、
それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。

そんな時、思わぬ事件が起って、
その方向転換させて下さるのが神の導きである。

何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。

人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。

           <感謝合掌 令和8年2月22日 頓首再拝>

行き詰った時にはこうせよ - 伝統

2026/03/08 (Sun) 11:20:56


           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
 不調和な出来事は決して存在しないのである。

 この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
 もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

          <感謝合掌 令和8年3月8日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2026/03/24 (Tue) 11:07:36


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

         <感謝合掌 令和8年3月24日 頓首再拝>

神の導きには時間の要素がある - 伝統

2026/05/05 (Tue) 09:00:18


        *「光明法語」(5月5日)より

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には
一段一段と階段を昇って行くが如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、
到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

            <感謝合掌 令和8年5月5日 頓首再拝>

天の声を聴く日 - 伝統

2026/06/04 (Thu) 12:52:46


           *「光明道中記」(6月4日)より

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

            <感謝合掌 令和8年6月4日 頓首再拝>

神、われを導き給う - 伝統

2026/07/10 (Fri) 09:03:19


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
 われによらずして神の国に到りし者なし」

とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 令和8年7月10日 頓首再拝>

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