伝統板・第二
そのまま・法爾自然④ - 伝統
2024/12/21 (Sat) 09:54:05
実際の尊い体験~そのまま
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より抜粋
今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。
よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。
素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。
「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
いろいろ奇跡のお蔭を受けております。
昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、
昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、
昨日(きのう)お礼申し上げようと思いましたが、
他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
遠慮いたしましてつい今日に延びました。
実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、
昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、
もうそのことは全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、
そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。
そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。
あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが
『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を
困らせはしないか。そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、
誌友会の日は自動車で来たらどうか』
という忠告を受けたくらいでありますが、
それでもかつて怪我というものをしたことがありません。
ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。
そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、それを避けようと思って、
避けようとした瞬間、どうしたものか、《ずーん》とその川縁(かわぶち)から
中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。
ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。
普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。
ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたように
ズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。
その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで
落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
と言うので、見ますと、なるほど落ちています。
荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。
此の服を着ておりましたが、
どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
帰ってきました。実に尊い。
私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、
《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、
ただふわふわと『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。
これがありがたいのです》。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「そのまま・法爾自然」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6983067
(2)伝統板・第二「そのまま・法爾自然②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7723875
(3)伝統板・第二「そのまま・法爾自然③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8042995
<感謝合掌 令和6年12月21日 頓首再拝>
そのままの生活 - 伝統
2025/01/29 (Wed) 11:43:38
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より
悪はないのである。
引っかかるのが悪である。
柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。
緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。
天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、
風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、
《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。
そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。
雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。
雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。
借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、
いろいろのことを鍛えられる。
そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。
雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。
淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。
<感謝合掌 令和7年1月29日 頓首再拝>
天国は満ちたる杯(さかずき)の如し - 伝統
2025/06/25 (Wed) 11:55:52
*「光明法語」(6月25日)より
【天国は満ちたる杯(さかずき)の如し】
天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。
手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。
天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、
全てのよき友集い来るを見るであろう。
「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。
<感謝合掌 令和7年6月25日 頓首再拝>
法爾(ほうさながら)に動く - 伝統
2025/07/13 (Sun) 11:27:35
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より
神はすべてのすべてだとわかったら、
罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、
「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。
すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。
「ただ見出せばよい」といっても、
手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に
自然(じねん)に動き出してくるごとく素直に動けばよいのである。
「無理な動き」を厭うのであって、
「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。
<感謝合掌 令和7年7月13日 頓首再拝>
いっさいをそのまま受ける - 伝統
2025/08/18 (Mon) 11:47:25
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より
与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。
ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して
向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。
それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。
五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。
ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。
今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。
監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。
彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して
彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。
監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。
―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。
<感謝合掌 令和7年8月18日 頓首再拝>
任運無作、法爾自然 - 伝統
2025/08/24 (Sun) 11:17:08
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より
ひたすら道を求むるために
釈迦時代の弟子は親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。
「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。
いずれも大した覚悟である。
大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。
任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。
冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。
平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。
法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。
法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。
<感謝合掌 令和7年8月24日 頓首再拝>
法爾(ほうさながら)の境地 - 伝統
2025/08/25 (Mon) 09:58:45
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より
執着の愛は憎悪と裏表である。
憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。
法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。
天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。
搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。
<感謝合掌 令和7年8月25日 頓首再拝>
そのまま受け流す - 伝統
2025/10/19 (Sun) 11:52:29
*「光明道中記」(10月19日《心配のなくなる日》)より
【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。
(『生命の實相』第十二巻)】
「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、
那箇(いかん)かこれ明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。
善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かん
と言っている間は通力を失った状態であるから
本当の大善は出て来ないのである。
「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって
血を喀(は)いたりするのである。
善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。
「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。
「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、
それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。
心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。
血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。
すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。
<感謝合掌 令和7年10月19日 頓首再拝>
《無理にたくむな》 - 伝統
2025/12/06 (Sat) 09:30:11
*「光明法語」(12月6日)より)
人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。
迂余曲折しているままで美しいのであり、
その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。
そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、
我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、
美しい結果が得られないで苦しまなければならないのである。
行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。
<感謝合掌 令和7年12月6日 頓首再拝>
「そのまま」 - 伝統
2025/12/11 (Thu) 09:58:20
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より
「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。
「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。
老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。
神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。
われわれは実相という文字を書いて
それに「そのまま」とふりがなをつけることがある。
英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。
「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と
見えるような深い味わいをもっているのである。
そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。
人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に
鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。
ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。
どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。
<感謝合掌 令和7年12月11日 頓首再拝>
そのまま受けることが天意に協(かな)う - 伝統
2025/12/19 (Fri) 10:15:26
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より
避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。
そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。
進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。
<感謝合掌 令和7年12月18日 頓首再拝>
そのままの生活 - 伝統
2026/01/29 (Thu) 11:33:43
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より
悪はないのである。
引っかかるのが悪である。
柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。
緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。
天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、
風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、
《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。
そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。
雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。
雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。
借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、
いろいろのことを鍛えられる。
そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。
雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。
淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。
<感謝合掌 令和8年1月29日 頓首再拝>
法爾(ほうさながら)に動く - 伝統
2026/07/13 (Mon) 11:43:56
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より
神はすべてのすべてだとわかったら、
罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、
「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。
すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。
「ただ見出せばよい」といっても、
手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に
自然(じねん)に動き出してくるごとく素直に動けばよいのである。
「無理な動き」を厭うのであって、
「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。
<感謝合掌 令和8年7月13日 頓首再拝>