伝統板・第二

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光を灯す⑤ - 伝統

2025/01/09 (Thu) 11:01:06


論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。

相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。

ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「光を灯す①」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6649683

(2)伝統板・第二「光を灯す②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7166594

(3)伝統板・第二「光を灯す③」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7972401

(4)伝統板・第二「光を灯す④」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8245475

            <感謝合掌 令和7年1月9日 頓首再拝>

眼の光が澄むようになること - 伝統

2025/01/14 (Tue) 12:21:00


    *「光明道中記」(1月14日《微笑を楽しむ日》)より

【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
                       (『生命の實相』第一巻)】

優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。

赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。
眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。

澄んだ中にも色々の光がある。
その光が色々の内容を語っている。

智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、
慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。

争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。

世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。

やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。

人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。

        <感謝合掌 令和7年1月14日 頓首再拝

光への道 - 伝統

2025/01/17 (Fri) 12:04:10


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より

世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。

外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 令和7年1月17日 頓首再拝>

【ロウソクみたいな生き方】 - 伝統

2025/02/15 (Sat) 12:08:37


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2024.11.16)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   ■《自分を燃やしながら 周りを照らす ロウソクみたいな生き方をしたい》

   私は、ロウソクみたいな生き方をしたいと思っている。

   ロウソクって、自分を燃やしながら周りを照らすよね。

   それで、自分の炎を他に分けても炎は減らない。

   最後まで燃えていって、燃え尽きる寸前の炎が一番 大きい。

   私もこんなふうに、人の心に灯をともしながら生きたいなって思うんだ。


   ■《相手の気持ちを思いやりながら話す》

   相手の気持ちを思いやりながら話す。

   ちょっと気取っていえば、「ウイットのある言葉」でしょうか。

   話す言葉が明るくて、笑いがある。

   どんな話でも「笑い」は入れられる。

   楽しく話して、楽しくいろんなことができればいい。

   そうすれば、人間、お互いハッピーになれる。




   ■《「そうだよね、わかるよ」とまず、いうんです》

   意見の違う人であっても、「違う」といわない。

   「そうだよね、わかるよ」とまず、いうんです。

   「わかる」というのは、その人の意見に賛同しているわけではないの。

   「わかるよ」というと、そこではじめて、
   「こいつは、オレの仲間だ」と、人の心はふぁ~っと開くんです。

         <『幸せセラピー』KKロングセラーズ>

            ・・・

◆《早く老いることの原因は、肉体より精神にあります。

  精神に感激性のなくなることにあります。

  物に感じなくなる、身辺の雑事、日常の俗務以外に感じなくなる、
  向上の大事に感激性を持たなくなる、これが一番いけません。》

 (安岡正篤 運命を思いどおりに変える言葉/イースト・プレス)


感激性の高い人は、
ロウソクのように自ら燃える「自燃性(じねんせい)」の人。

何かを成し遂げようとするなら、
自ら燃える「情熱」や「感激性」を持たなければならない。

そして、自らのあかりで一隅を照らす。

さらに、「終わりよければすべて良し」の言葉通り、
あの世に行く間際の炎が一番大きくなるような生き方を目指すこと。



◆相手の心を冷やす人と相手の心をあたたかくする人がいる。

言葉のほんのちょっとした使い方ひとつで、人はどちらにもなれる。

ウイットにとんだあたたかい言葉を使うか。

そこには、「笑い」がある。

反対に、人の心を傷つける冷たい刃物のような言葉を使うか。

そこには、「不機嫌」がある。



◆相手がどんなことを言ってきても、まず肯定の姿勢で受け入れる。

それが「そうだね」とか「なるほど」、「わかるよ」という肯定語。

反対に、「でもね」とか「そうは言っても」、「だけど」という
否定語を使われると、テンションが下がる。

そして、多くの人は、あんまり話をしても聞いてもらえないな、と黙る。

否定は人を遠ざける。

肯定は仲間を増やし、好かれる。

       <感謝合掌 令和7年2月15日 頓首再拝>

吾々の内部には「光」が宿っている - 伝統

2025/02/26 (Wed) 11:56:33


     *「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」
(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。

吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

       <感謝合掌 令和7年2月26日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統

2025/02/28 (Fri) 10:45:48


     *「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
 常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。

形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから
新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

          <感謝合掌 令和7年2月28日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2025/03/09 (Sun) 12:01:37


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

        <感謝合掌 令和7年3月9日 頓首再拝>

丑満時に、黎明の光を観る - 伝統

2025/04/30 (Wed) 11:34:44


           *「光明道中記」(4月30日)より
            ~神一元の自覚愈々深まる日

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、
新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

           <感謝合掌 令和7年4月30日 頓首再拝>

光が暗に向かって進軍するとき暗は消える - 伝統

2025/06/02 (Mon) 10:40:04


    *「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  


悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

            <感謝合掌 令和7年6月2日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2025/10/27 (Mon) 11:22:41


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月27日)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、

われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 令和7年10月27日 頓首再拝>

家庭を明るく - 伝統

2025/12/20 (Sat) 11:15:08


      *「光明道中記」(12月20日《大調和の日》)より

【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。

人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。

斯う云うことを考えめぐらせて見れば、その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。

人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を受けながらも
病気になる事実で明かである。

この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。

誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。

「何でもクヨクヨするな」 

この言葉を病人の多い家庭に捧げる。 

            <感謝合掌 令和7年12月20日 頓首再拝>

心の岩戸開きの日 - 伝統

2025/12/21 (Sun) 12:03:26


           *「光明道中記」(12月21日)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、
結局は失敗ではないのである。

明るいばかりでは此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

            <感謝合掌 令和7年12月21日 頓首再拝>

《心で光を見る》 - 伝統

2025/12/29 (Mon) 09:54:58



        *「光明法語」(12月29日)より

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
 その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。

 6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
 第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して
 二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
 何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
 星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

           <感謝合掌 令和7年12月29日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2025/12/30 (Tue) 09:49:17

        *「光明法語」(12月30日)より

光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

           <感謝合掌 令和7年12月30日 頓首再拝>

論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統

2026/01/09 (Fri) 09:24:29


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。

相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。

ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

            <感謝合掌 令和8年1月9日 頓首再拝>

「光」のみの世界に躍進しなければならぬ - 伝統

2026/01/12 (Mon) 10:55:41


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より抜粋

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高くこう翔(しょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

         <感謝合掌 令和8年1月12日 頓首再拝>

眼の光が澄むようになること - 伝統

2026/01/14 (Wed) 10:47:37


    *「光明道中記」(1月14日《微笑を楽しむ日》)より

【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
                       (『生命の實相』第一巻)】

優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。

赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。
眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。

澄んだ中にも色々の光がある。
その光が色々の内容を語っている。

智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、
慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。

争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。

世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。

やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。

人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。

        <感謝合掌 令和8年1月14日 頓首再拝

光への道 - 伝統

2026/01/17 (Sat) 10:54:15


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より

世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。

外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 令和8年1月17日 頓首再拝>

吾々の内部には「光」が宿っている - 伝統

2026/02/26 (Thu) 11:12:40


     *「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」
(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。

吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

       <感謝合掌 令和8年2月26日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統

2026/02/28 (Sat) 11:48:44


     *「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
 常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。

形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから
新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

          <感謝合掌 令和8年2月28日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2026/03/09 (Mon) 09:24:46


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

        <感謝合掌 令和8年3月9日 頓首再拝>

丑満時に、黎明の光を観る - 伝統

2026/04/30 (Thu) 11:19:20


           *「光明道中記」(4月30日)より
            ~神一元の自覚愈々深まる日

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、
新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

           <感謝合掌 令和8年4月30日 頓首再拝>

光が暗に向かって進軍するとき暗は消える - 伝統

2026/06/02 (Tue) 10:35:57


    *「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  


悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

            <感謝合掌 令和8年6月2日 頓首再拝>

神は光、光はわたしの内にある - 伝統

2026/07/26 (Sun) 10:39:06


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある

            <感謝合掌 令和8年7月26日 頓首再拝>

罪は存在しない、今”光”ばかりである - 伝統

2026/10/09 (Fri) 11:16:17


     *「栄える生活365章」(P68~69)より

不幸、恐怖、取越苦労、持越苦労と色々の経済上の制約、肉体の疲労、
老衰、病気・・・そんなものは自分自身の「迷いの心」(妄想)の
産物でしかなかったのである。


あなたは今後、そのような消極的な感情や想念の《とりこ》とは
ならないのである。

あなたは”神の子”であり、本来”神聖”であり、
”罪の子”として罪を背負って生まれて来たのではないのである。

神は決して”罪”を創造し給わないから、
”罪”ばど本来《ない》のである。

たとい現象的にあなたが過去に罪を犯していたにせよ、
それはあなたが光の方に向かっていなかった影の方の形であるから、
唯今(ただいま)、”神の子”として、”実相の光”の方に
振り向けば、罪は消えてもう存在しないのである。

光の方に振り向き給え。

過去は存在しないのである。

今、光ばかりである。

今、あなたは救われている!!

       <感謝合掌 令和8年10月9日 頓首再拝>

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