伝統板・第二

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神への信 ⑤ - 伝統

2025/06/05 (Thu) 11:59:49


神を認め、神と直結せよ

    *『光明法語』(6月5日《先ず神を認めよ》)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは
先ず「吾を認めよ」と云うことである。

人間でも親が子に求めているところのものは、
先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは
自分の生命(いのち)の親を、神を、認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神への信」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6948104

(2)伝統板・第二「神への信 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7753997

(3)伝統板・第二「神への信 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7933939

(4)伝統板・第二「神への信 ④」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8264944

            <感謝合掌 令和7年6月5日 頓首再拝>

神の全能を信じて常に神に振り向けよ - 伝統

2025/06/09 (Mon) 11:29:45


    *『光明法語』(6月9日)より

汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、
常に神に振り向くべし。

神はすべての解決である。

「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。

少々の疑いも、恐怖も持つべからず。
疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。

完全なる信のあるところ恐怖はないのである。

恐怖なくして神に振り向き、
「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
 如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」
と念ぜよ。

        <感謝合掌 令和7年6月9日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2025/06/12 (Thu) 12:09:05


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

           <感謝合掌 令和7年6月12日 頓首再拝>

神への信 - 伝統

2025/07/09 (Wed) 11:42:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、
その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、
今が、そしてその状態が自己の魂の進歩にとり最善の時であり、
最高の機会なのである。

われわれがわれわれ自身を見出すところの今の環境が、
その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、
そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、
事務所で働くこと、病める隣人をまたは親類縁者を看護すること
などは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、
神に対する義務のごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく
忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた日課を果たす
ということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、
また生活がわれらに齎(もたら)したるところのすべての位置において
全力を尽して試みることは、魂の向上の道に入るための日々の課業
であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、
それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、
人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。

すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、
またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから
御心を行じていてわれらは決して乏しきことはありえないのである。

神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、
すべてはよくなり自己に来るすべての事件は最初はいかに見えても
好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
 神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、
荊棘(いばら<けいきょく>)は切りひらかれ、道なき所に道を生じ、
砂漠に花咲き、豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して
湧き出ずるであろう。

         <感謝合掌 令和7年7月9日 頓首再拝>

神と直通する道 - 伝統

2025/07/17 (Thu) 10:54:41


        *「光明法語」(7月17日)より

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、
信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。

それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

         <感謝合掌 令和7年7月17日 頓首再拝>

神を疑うなかれ! - 伝統

2025/08/02 (Sat) 10:39:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 令和7年8月2日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統

2025/08/09 (Sat) 11:05:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月9日)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

      <感謝合掌 令和7年8月9日 頓首再拝>

「信」によって救われる - 伝統

2025/08/12 (Tue) 09:50:01


   *「光明道中記」(8月12日《業の消ゆる日》)より

【業は実際に於いて何処(どこ)にも実在するものではない。
                    (『生命の實相』第八巻)】

(歎異抄第一条)

   弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、
   ただ信心を要(よう)とすとしるべし。
   そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の
   衆生をたすけんがための願にまします。


弥陀の本願は、宇宙大生命の大慈悲そのものであるから、
老人であろうが、少年であろうが、善人であろうが、悪人であろうが、
問うところではないのである。

キリスト教の聖書には
「天の父は太陽の善人をも悪人をも照したまう如く、これを照し給う」
とあるのは、仏耶(ぶつや)真理を等しうしているのである。

ただ救われるのは、「信」によって救われるのである。
「信」は人偏に言(ことば)である。
人と神のコトバ即ち仏の誓願との一致である。

誓願とはコトバにほかならない。
仏の誓願と人間の心とが一致したとき、
人間は仏の誓願の中に溶け込むのである。

コトバは誓願であり、名号であり、本体であり、仏のイノチである。
仏のイノチの中に溶け込む時、
”そのまま救われている”実相があらわれるのである。

「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、
 ただ信心を要(よう)とすとしるべし」
である。

私は「老少善悪を選ばす」のほかに、
「肉体の生死の前後を選ばす」と附け加えたい。

「肉体の生死」如何が「救われ」に関係があるなら
弥陀の救いに条件を置くことになる。

       <感謝合掌 令和7年8月12日 頓首再拝>

弥陀による救いは、絶対力にて行われる - 伝統

2025/08/13 (Wed) 08:18:06


   *「光明道中記」(8月13日《弥陀の本願ありがたき日》)より

【光明念波は「類に非ざる念波」を反撥して災害から逃れる。
                   (『生命の実相』第十三巻)】

   しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
   念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、
   弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。


そうだ、「弥陀」は「去って去る所なく、来って来るところなく、
生なく滅なく、過、現、未来に非ず」して空間時間生滅(しょうめつ)を
超越せる絶対存在であり給うが故に、
その救いは絶対力にて行われるのである。

弥陀の救いの本願は、大実在の御意志であるが故に、
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪は存在し得ないのである。
弥陀の本願力の前には「肉体」の滅不滅は何らの障礙にはなり得ない。

そこに生長の家の説く阿弥陀仏に至心廻向すれば
「肉体そのまますくわれている、此処がこのまま極楽浄土になる」
と云う真理が裏付けられるのである。

宇宙大実在の我を救いたまわんとの本願の絶対力の前には
何物も礙(さ)えぎることが出来ないと云うのは真理である。

そこに『歎異鈔』の「他の善も要にもあらず」
「悪をもおそるべからず」の根拠がある。

本願の絶対力に触れるとき、無限燭光の光に触れて暗黒が消え去るように、
「他力の善」がおのずから自然に行われて悪が自然に消え去る意味である。

       <感謝合掌 令和7年8月13日 頓首再拝>

絶対の信 - 伝統

2025/08/15 (Fri) 11:03:18


   *「光明道中記」(8月15日《絶対信を獲(う)る日》)より

【解脱の中には因なし、因なきを以て解脱となす。(『生命の実相』第十一巻)】

(歎異抄第二条)

    親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの
    おほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に
    むまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
   
    総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて、
    念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。


ここに親鸞聖人の絶対信がいかに深いかがあらわれているのである。
『よきひと』と云うのは法然上人のことであるが、怜悧(さかしら)に
「念仏は何故(なぜ)極楽往生の因であるか」などとたずねると
当時の智者学者理窟やに対して、

「念仏は念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、
また地獄におつる業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり」と
ポンと撥ねてしまったところに、迷妄裁断の親鸞の力が見られる。

「弥陀は何故絶対力で衆生を救いたまうか」
と若し親鸞に訊(たず)ねるならば
「また総じてもて存知せざるなり」と応えるであろうと思う。

「何故神は完全であるか」と云う質問に対して私も、
「完全なものを神と称(よ)ぶのであって何故はない」
と云うように答える他はない。

       <感謝合掌 令和7年8月15日 頓首再拝>

絶対力という必然的存在への信 - 伝統

2025/08/16 (Sat) 11:20:10


   *「光明道中記」(8月16日《自力を捨てる日》)より抜粋

【悟るとは内在の仏が浮かび上がって来るのであって、
 脳髄意識の巧者ではない。    (『生命の實相』第十一巻)】


何故神は完全であるかと云うことは、神以上の存在に我々がなって見て、
神の由って来る所以を批判しなければ判るものではないのである。

ただ吾々は完全なる絶対者を立ててそれを実在の本源として立て、
それに全帰依を捧げなければ、到底たえられない要諦を
生命の内面に感ずるのである。

カントの所謂る「先験的要請(ア・プリオリ)」であるのである。
先験的要請は、人間の最も深い存在の根本に根ざすものであるから
否定せらるべきものではないのである。

親鸞聖人が「たとい法然上人に瞞(だま)されたとしても
どうせ他の行では救われない自分なのだから」と仰せられたのは、
決して自暴自棄的なお言葉ではない。

絶対力ある弥陀の誓願を立てなければ到底耐えられない
「先験的要請(せんけんてきようせい)」と、その「先験的要請」の
主張する絶対他力の必然的存在を爰(ここ)に高調されたのである。

       <感謝合掌 令和7年8月16日 頓首再拝>

弥陀の本願をたのむよりほかない - 伝統

2025/08/17 (Sun) 11:12:42


      *「光明道中記」(8月17日《この儘救われる日》)より

【迷いを去れば此の世界は光明浄土。(『生命の実相』第十一巻)】

(歎異抄第二条)

   弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言(きょげん)なるべからず。
   仏説まことにおはしまさば、善導の御釈(おんしゃく)、虚言したまふべからず。
   善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。

   法然の仰せまことならば、親鸞がまうすむね、
   またもてむなしかるべからずさふらふか。

   詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。
   このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、
   面々の御(おん)はからひなりと、云々。

ここに親鸞聖人はその信念が
「法然上人に騙されても好い、どうせ救(たす)からない自分だ」
と云うような意味で、自虐的なことを被仰っているのではないことが判るのである。

法然上人の語(ことば)は、善導大師の御釈(おんしゃく)は釈迦の説法から出て、
釈迦の説法は、釈迦の「先験的要諦」から出たのである。

釈迦の先験的要諦と親鸞の先験的要諦とが戞々(かつかつ)と相触れたところに、
弥陀の本願をたのむよりほかないと云う念仏往生の悟りが発生したのである。

「このうえは念仏をとりて信じ奉らんとも、
また捨てんとも面々の御(おん)はからいなり」とは
「そう云う先験的要諦は自分にない」と云う人には、
無理に信ぜよと言っても仕方がないと稍々(やや)鋭い親鸞の一面が現れている。

       <感謝合掌 令和7年8月17日 頓首再拝>

浄土の慈悲への信 - 伝統

2025/08/20 (Wed) 11:41:15


   *「光明道中記」(8月20日《何でも有難く感ぜられる日》)より抜粋

【信心とは仏の心が自分の中に生きることである。(『生命の實相』第十四巻)】

慈悲にも自力の慈悲と浄土門の慈悲とがある。
自力の慈悲では「現象我」の智慧で救おうとするのであるから、
その自力の「可哀相な」「悲しい」「何とかしてやりたい」のはからいが
却って相手の害する事になるかも知れないのである。

肺病の人を救ってやりたい。
「そんなに働いては病が増悪する。もっと安静にしていなさい」
と凡夫のはからい心で深切を尽せば尽す程
相手の病人は恐怖心に駆り立てられて病気が増殖するが如くである。
凡夫の慈悲は始終(はじめおわり)を全うする事が出来ない。

ただ念仏即ち「実相」を念ずる浄土の慈悲によってのみ
久遠の仏性は引き出され、肉体が死ぬにせよ生きるにせよ。
末徹(すえとお)りたる終りを完(まっと)うする慈悲になるを得るのである。

       <感謝合掌 令和7年8月20日 頓首再拝>

金剛の信心 - 伝統

2025/09/15 (Mon) 11:12:38


    *「光明道中記」(9月15日《肩の荷を卸(おろ)す日》)より抜粋

【「狭き門より入れ」とは自力の行を卸して入れとのことである。
                (『生命の實相』第十一巻)】

「弥陀の光明に照らされまいらする故に」
一念発起して金剛の信心が発現するのである。

金剛の信心は自分の力で起すのではなくして、
ここにある通り「たまわる」のである。

凡夫が信心を起して救われるのではなくして、
如来の本願力が吾々に廻(めぐ)り来って
自然に信心したくなるのである。

それは丁度、母の慈愛の心が廻り来って
自然に赤ん坊が****を吸うことを知るようなものである。
****を吸うのは、何の教育も受けていないで、自然と催して来る。

そう思えば自力で救われるところは一つもない。

みんな仏様のお計らいであるから、
念仏も自分が往生極楽の行を積むというような偉そうな気持でなしに、
如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと思ってすべきである。

      <感謝合掌 令和7年9月15日 頓首再拝>

既に救われていると云う自覚 - 伝統

2025/09/25 (Thu) 11:21:07


       *「光明道中記」(9月25日《信心決定(けつじょう)の日》)より

 【生命の真を形の世界にあらわすのが實人生である。(生命の實相第十二巻)】

(歎異抄十六条)

   信心さだまりなば、往生は弥陀にはかられまいらせてすることなれば、
   わがはからひなるべからず。悪(わろ)からんにつけても
   愈々願力を仰ぎまいらせば、自然(じねん)のことわりにて
   柔和忍辱のこころも出でくべし。

   すべて万(よろづ)のことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、
   ただほれぼれと弥陀の御恩の深重(じんじゅう)なること、
   つねは思ひいだしまゐらすべし。
   然れば念仏も申され候。

   これ自然なり。わがはからはざるを自然とまふすなり。

   これすなはち他力にてまします。しかるを自然といふことの別にあるやうに、
   わがもの知り顔言ふひとの候ふよし承(うけたまは)る浅ましく候なり。


「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なることを常に思い出だす」ときに、
自然の真理にて人間の心が柔和忍辱の心になって来ると云うことに
注目しなければならない。

肉体は本来無いのであるから肉体と肉体”ごころ”の間違を
一つ一つ悔改めるのが救われる原因ではない。
そうかと云って仏の善悪差別の救いに甘えて故意に悪を犯せと言うのでもない。

「柔和忍辱の心」は救われる原因ではなくして、
”既に救われていると云う自覚”から来る自然の道理(ことわり)なのである。
その自覚から「自然に念仏申される心」が出て来る。

自然であるから自分のはからいではない。

全く他力である。

       <感謝合掌 令和7年9月25日 頓首再拝>

弥陀本願の全的救済を信ずる - 伝統

2025/09/26 (Fri) 11:40:42


       *「光明道中記」(9月26日《清浄の天地を観る日》)より

 【このまま仏である。このまま極楽往生しているのである。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十七条)

   辺地往生をとぐる人、つゐには地獄におつべしといふこと。
   この条いづれの証文に見え候ふぞや。

   学生(がくしょう)だづるひとの中に言ひ出ださるることにて候ふなるこそ、
   あさましく候へ。
   経論正教(しょうぎょう)をば、如何やうにみなされてさふらふらん。

   信心欠けたる行者は、本願をうたがふによりて辺地に生じて
   疑ひの罪を償(つぐの)ひて後、報土のさとりを開くとこそ、
   承(うけたまは)り候へ。

   信心の行者すくなきゆへに、化土(けど)におほくすすめ入れられ候ふを、
   遂にむなしくなるべしと候ふなるこそ、
   如来に虚妄を申し付けまいらせられ候ふなれ。


純粋の他力信者になり切れない者は報土のお浄土へ救い摂(と)って頂けないで、
辺地と云う化土(かりのところ)に往って遂には地獄に堕ちると言う者があるが、

そんなことは経釈のどこにも証拠がない。
これが学者と云う者から言われるのだから何と浅ましいことだろう。

純粋他力になり切れないでも兎も角念仏申す人は、本願の全的救済を信ぜず、
完全に三百六十度廻心(えしん)出来ないから一旦は化土(けど)に生まれて、
そこで浄(きよ)められて報土(弥陀本願の報いとして建てられた浄土)へ
生れる悟りを開く。

化土に生れる者は地獄に落ちると云うのは
弥陀の全的救いの誓願を嘘だと言うに等しい。

       <感謝合掌 令和7年9月26日 頓首再拝>

神が無限絶対の愛であるということを信じる - 伝統

2025/11/11 (Tue) 12:02:41


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。

ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。

なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

      <感謝合掌 令和7年11月11日 頓首再拝>

われ祈れば天地応(こた)え、われ動けば宇宙動く - 伝統

2025/12/16 (Tue) 11:53:18


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 令和7年12月16日 頓首再拝>

《汝は何者であるか》 - 伝統

2025/12/19 (Fri) 10:17:12


        *「光明法語」(12月19日)より)

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

         <感謝合掌 令和7年12月19日 頓首再拝>

神の完全を信じる - 伝統

2025/12/22 (Mon) 11:42:31


    *「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、
すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

       <感謝合掌 令和7年12月22日 頓首再拝>

《常に神吾を導き給うと信ぜよ》 - 伝統

2026/01/11 (Sun) 11:55:33


       *「光明法語」(1月11日)より

朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも
祝福されたる日であると信ぜよ。

而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。

また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。

しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。
然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。

         <感謝合掌 令和8年1月11日 頓首再拝>

《神常に吾に宿り給うと信ぜよ》 - 伝統

2026/01/20 (Tue) 10:30:53


       *「光明法語」(1月20日)より

吾が全ての願いは
吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。

されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。

吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。


吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。

吾に何事でも勧めてくれる人は
神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。

吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。

            <感謝合掌 令和8年1月20日 頓首再拝>

《天地に遍満する神の恩恵を知れ》 - 伝統

2026/01/24 (Sat) 10:12:50


        *「光明法語」(1月24日)より

人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものに
とりまかれているのである。

神の恵みはあらゆるものに、
空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。

神の恵みは吾々をとりまいていて
一分一厘の逃れる隙間もないのである。

昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、
神は善と共にいますのである。

人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、
心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。

「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」

        <感謝合掌 令和8年1月24日 頓首再拝>

意志の力で、汝の心に神を確立せよ - 伝統

2026/03/14 (Sat) 11:49:30


     *「光明法語」(3月14日《智慧は愛に先行する》)より

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ず汝の心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。

それは智慧の働きである。
この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認し得たときにのみ、
感情としての愛が湧き出てくるのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら
唯(ただ)愛行を努力するだけである。

              <感謝合掌 令和8年3月14日 頓首再拝>

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