伝統板・第二

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神は愛なり⑪ - 伝統

2025/06/06 (Fri) 12:25:35


神を愛せよ

        *「光明法語」(6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
 凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。

愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。

「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7691841

(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7817467

(5)伝統板・第二「神は愛なり⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7907586

(6)伝統板・第二「神は愛なり⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7996672

(7)伝統板・第二「神は愛なり⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8139213

(8)伝統板・第二「神は愛なり⑧」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8234927

(9)伝統板・第二「神は愛なり⑨」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8269228

(10)伝統板・第二「神は愛なり⑩」
    → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8343094

           <感謝合掌 令和7年6月6日 頓首再拝>

《愛ある処に繁昌(はんじょう)は来る》 - 伝統

2025/06/15 (Sun) 11:29:00


     *『 生長の家 』(昭和25年12月17日の法語)より

愛は宇宙に於ける最大の創造力であり、最大の磁石的力である。
愛のあるところに愛せられるものは集まり、
愛のある者を栄えしむるのである。

仕事に対する愛は、その仕事に行き届いた注意力を与え、
その仕事を最も完全に遂行せしめる智慧を呼び出して来るのである。

愛は愛を完成するに必要な要素をついに呼び出して来るのである。
神を愛すれば、神の愛はわれらの方に引きよせられる。

既に神は人間を愛してい給うても、人間が神を愛しないとき、
神の愛は反撥(はんぱつ)せられて、
その祝福は吾らに達(とど)かないものとなるのである。

神を愛し、友を愛し、仕事を愛し、家庭を愛せよ。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12329573.html(消滅)

      <感謝合掌 令和7年6月15日 頓首再拝>

自分と云う手垢をつけるな - 伝統

2025/06/30 (Mon) 11:19:28


       *「光明法語」(6月30日)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、
神の子として愛しなければならぬ。

すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。

如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 令和7年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2025/07/07 (Mon) 10:40:12


        *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で
「諸愛ことごとく解脱し」と書かれているように、
仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。

これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、
本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

            <感謝合掌 令和7年7月7日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2025/07/15 (Tue) 11:32:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。

時計は回るようにできており、
時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、
捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、
講演旅行などで携帯する時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも
数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から帰ってくると、
本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。

知的に真理を理解したといっても、
それだけでは時計の構造を理解したと同じである。

時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、
真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、
教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば時計は動く。

それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、
愛することのできる人は、そして教えられたとおりに
素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 令和7年7月15日 頓首再拝>

神を愛することで、「神」の愛を捕捉(キャッチ)する - 伝統

2025/07/16 (Wed) 12:04:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。

神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、
神は生命であるから、財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではない
のである。

人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と
思っていては、父の心も気まずくなり、
その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、
神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、
神をただ「無限供給の源泉」として視るものは、
神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまでは
それを拒んでいたのである。

われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて
「神」の愛を捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、
われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 令和7年7月16日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2025/07/21 (Mon) 11:40:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、
わたしはまだどこかの点において「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、
行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 令和7年7月21日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる - 伝統

2025/07/25 (Fri) 10:03:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月25日)より

今日はさらに、

「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」

と念じよう。

そしてすべてのものの内に、
宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを
深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、
この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、
その反映として自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを
心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。
飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 令和7年7月25日 頓首再拝>

真理は愛の実践を要求する - 伝統

2025/07/30 (Wed) 11:43:31


      *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月30日)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、
やがてそれに自分が救われなくなり落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に

「最善の悔い改めは神の道を一心不乱に前進して、
 今までありし罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」

と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、
神の道に一心不乱に突き進むことを忘れているのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
 そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、
 そして、それゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。

ある人が真理に対する理解を得たとする。
そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除することが
できたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、
それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、
やがてその真理は自殺状態に陥って自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。

真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために知らされた
のだということを知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、
個々人として孤立した存在ではないということである。

われわれは自他一体の存在であるから、
この世の中に一人でも不幸な人が存在するかぎり、
真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、
その1本の歯にも比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、
自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、自分を磔けにした人々の
幸福のために神に祈り、そして従容として十字架につくことである。

かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 令和7年7月30日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 - 伝統

2025/08/04 (Mon) 11:03:44


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 令和7年8月4日 頓首再拝>

大慈悲そのものが弥陀の誓願 - 伝統

2025/08/11 (Mon) 09:01:14


   *「光明道中記」(8月11日《心の窓を開く日》)より

【心の窓を開けよ。実相の理想世界は既に其処に在り。(『生命の實相』第四巻)】

(歎異抄第一条)

  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、
  念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
  あづけしめたまふなり。


とは、現象的には法蔵菩薩が四十八の願をたてられてところの”それ”を
指すのであるけれども、弥陀は「ミチ足(タ)ル」の言霊(ことだま)であって、
宇宙普遍、一切所に満ち足り給う大生命が弥陀である。

「彼(か)の仏、去って去る所なく、来って来る所なく、生なく滅なく、
過、現、未来に非ず、唯(ただ)願に酬い生を度(ど)せんがために
西方に在(おわ)します」と趙宋(ちょうそう)の法賢訳の
「大無量寿経」にあるところの弥陀の本願である。

弥陀の本願は法蔵菩薩が四十八願以前に、
無始の過現未を超越せる本体有に実在する大慈悲そのものである。

宇宙の本体の中に在(そん)する救わずにおかない
大慈悲そのものが「弥陀の誓願」であって、
それは人間の思慮(おもいはからい)を超えたるものである。

すなわち「誓願不思議である」。
その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し
来(きた)って「念仏申さん」という思い立ちが起るのである。

だから、吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、
その心の中に「救わずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、
既に「摂取不捨(すくわずにおかぬ)」なのである。

       <感謝合掌 令和7年8月11日 頓首再拝>

駆け巡る愛の力 - 伝統

2025/08/18 (Mon) 10:14:32

駆け巡る愛の力
宇宙の兄弟たちへ公式スピリチュアルチャンネル(2025/08/17)
https://www.youtube.com/watch?v=xY34J4ySJs0&t=1s


・・・

『駆け巡る愛の力』スピリチュアル音楽
宇宙の兄弟たちへ(2025年8月17日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/08/blog-post_88.html

『駆け巡る愛の力』歌詞

根源の存在から
吹き渡る愛の力

宇宙を駆けめぐり
星を生み出した

微小なる粒子が
結びつき輝く

星々は引き寄せ合い
宇宙をかたちづくる

太陽の光は
三次元の愛の姿

地球を照らし
生命(いのち)をはぐくむ

私たちもまた
愛の力を宿す

偶然ではなく
愛が創り出した



見えず 聞こえず
けれど感じる力

真実の愛 永遠(とわ)の愛
魂に響く力

物質だけではなく
魂が本質だから

愛を感じ
愛を放つ

根源から放たれた
愛の光は

銀河を越え
地球へふり注ぐ

私たちの内に
みちあふれて

愛と情熱となり
世界を駆け巡る


       <感謝合掌 令和7年8月18日 頓首再拝>

常に愛念を送る - 伝統

2025/09/10 (Wed) 09:29:25


         *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月10日)より

「神の無限の愛われに流れ入り給いて、愛の霊光燦然として輝き給い、
 すべての不安、恐怖、憂鬱を雲のごとく散らしめたまうのである。」

常に暇あればかく念じて自分自身の心の中に神の愛をもって満たせ、
もしあなたがたれかに貸し金があったり、店子が家賃を払ってくれなかったり、
商品の決済をしてくれなかったりしたとて、その債務者が不正直で悪意があるとか、
払わぬつもりでいるとか考えてはならないのである。

もしそんな想念を起こしたならば相手はますます不正直になり、誠意がなくなり、
払わぬつもりになるばかりである。

自分に債務のある者を常に善意をもって扱い、善念を送り、愛念を送り、
無限供給の念を送ればその債務は速やかに払われる。

             <感謝合掌 令和7年9月10日 頓首再拝>

悪を語らず、神の愛を循環させる - 伝統

2025/09/11 (Thu) 11:41:31


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

             <感謝合掌 令和7年9月11日 頓首再拝>

そのままの心で愛を行ずる - 伝統

2025/09/15 (Mon) 11:16:31


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 令和7年9月15日 頓首再拝>

人・物を大切にするということは、神の愛を持ち来たすことになる - 伝統

2025/09/19 (Fri) 11:15:15


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、
「物を大切にすること」とはちがうのである。

「貪欲」は自己の本来の貧しさを恐怖して、
むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とは
その物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

          <感謝合掌 令和7年9月19日 頓首再拝>

真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる - 伝統

2025/09/21 (Sun) 11:28:01


          *「光明法語」(9月21日)より

愛は生命の純粋感情であるから、
真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。

愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。

真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、
如何なる知的な作業も可能ならしめる。

想念も実は愛の産物であり、
愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。

愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。

           <感謝合掌 令和7年9月21日 頓首再拝>

全てのものを愛せよ - 伝統

2025/09/22 (Mon) 11:33:05


    *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。

併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を
彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、
朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。

”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

          <感謝合掌 令和7年9月22日 頓首再拝>

愛と執着とは異なる - 伝統

2025/09/23 (Tue) 11:25:17


       *「光明法語」(9月23日)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。
それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、
ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。

それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、
相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。
愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

       <感謝合掌 令和7年9月23日 頓首再拝>

宇宙荘厳の歌 - 伝統

2025/10/13 (Mon) 12:26:17

宇宙荘厳の歌
らむ(2021/12/28)
https://www.youtube.com/watch?v=WAFlEHoV328&list=RDWAFlEHoV328&start_radio=1


【宇宙荘厳の歌】

   (一)
     荘厳きわまりなき自然
     悠久きわまりなき宇宙
     立ちて仰げばあおぞらに
     銀河ながれて星無限

   (二)
     かみの叡智はきはみなし
     かみのちからは限りなし
     星と星との空間を
     ひく糸もなくひく不思議

   (三)
     不可思議不可知科学者も
     なにゆえ万有引力が
     あるかをしらずただ神秘
     万有むすぶは神のあい

   (四)
     ああかみの愛かみの愛
     宇宙にみちて万有を
     むすびあわせて荘厳の
     宇宙いまここけんげんす

   (五)
     もし愛なくば荘厳の
     宇宙げんぜず美しき
     人と人とのむつまじき
     むすびの世界あらわれず

   (六)
     われらいのちの本源を
     神にみいだし神の子の
     愛のいのちを生きんかな
     神のいのちを生きんかな

*「ついに、愛の宇宙方程式が解けました
  : 神様に溺愛される人の法則」保江邦夫・著 より

      <感謝合掌 令和7年10月13日 頓首再拝>

愛の2つの罠 - 伝統

2025/10/22 (Wed) 10:29:37

愛の2つの罠
宇宙の兄弟たちへ(2025年10月20日)
https://www.spacebrothers.jp/2025/10/blog-post_20.html

(以下は抜粋です)

(1)私たちの魂が、この地上で健やかに成長するためには、
   二つの異なる性質を持つ、神聖な愛のエネルギーが必要です。

   一つは、私たちに自立と強さを教える「父性的な愛」。

   そしてもう一つは、私たちを無条件に包み込む「母性的な愛」です。

   これらは、魂を育む光と大地のようなもの。

(2)お釈迦様の悟り

  ①真理への道は、この両極端にはない。

   苦行にも、快楽にもない。

   そのどちらでもない、調和のとれた『中道』にこそ、
   真実の光は射すのだ。

  ②自己を否定する苦行も、自己を甘やかす快楽も、
   どちらも真理の道から遠ざかる罠である。

   自己を痛めつけるだけの父性的な愛も、
   ただ甘やかすだけの母性的な愛も、
   どちらも真実からは遠いのだ。

   その二つの愛が調和した「中道」にこそ、
   魂を真に成長させる道はあるのだと気づいたのです。

(3)家庭における父性愛と母性愛

  ①父性的な愛は、子供に社会のルールを教え、
   困難に立ち向かう勇気を与え、
   一人前の人間として自立させようとします。

   時には厳しく叱り、甘やかしません。

   しかし、これが行き過ぎ、共感や優しさが伴わなければ、
   子供は常に評価を恐れ、自己肯定感を失い、
   愛のない殺伐とした心を持つようになってしまいます。


  ②一方、母性的な愛は、子供のありのままを無条件に受け入れ、
   安心感と癒しを与えます。

   しかし、これが行き過ぎると、子供の失敗を先回りして防ぎ、
   あらゆる要求を満たし、子供が自分で学び、成長する機会を
   奪ってしまいます。

   その結果、困難から逃げ、他者に依存する、
   自立できない人間を生み出してしまうのです。

(4)政治における父性愛と母性愛

(5)あなたの内なる父と母を統合する「中道」

   あなたの内にも、「内なる父」と「内なる母」が存在します。

   自分自身を厳しく責め立て、完璧であろうとする
   「内なる父」が暴走していませんか?

   自分自身を甘やかし、困難から逃げ続けようとする
   「内なる母」に支配されていませんか?


   自分を律し、目標に向かって進む強さ。
   そして、失敗した自分を赦し、ありのままを抱きしめる優しさ。

   この二つの愛を、あなた自身の内で統合できたとき、
   あなたは初めて、真に自立し、かつ他者に慈悲深くなれるのです。

      <感謝合掌 令和7年10月22日 頓首再拝>

帰天してから痛感した【自分への愛】【すべての者・エネルギー体への愛】 - 伝統

2025/10/23 (Thu) 09:31:25

天国ドキュメント】生きてる間に〇〇しておけば良かった~!!
MK虹の架け橋チャンネル(2025.10.21)
https://www.youtube.com/watch?v=mLrKCXKPqpQ

生きている時に、
『自分のこと大好き』だったら・・・
と思った。


自分が「めちゃ大好き」という思いで生きるていると、
自分が満たされ、
満たされた自分で、満たされた人生を創造できる。

そのためには、
「どんな自分も受け入れる」ということなのです。

ジャッジをなくして、どんな自分でも、すべて受け入れる。

生きている途上で、自分を愛するようになると、
本当の自己愛で人生は変わる。

       <感謝合掌 令和7年10月23日 頓首再拝>

愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいない - 伝統

2025/11/12 (Wed) 10:16:46


    *「光明道中記」(11月12日《人を審判(さば)かぬ日》)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに
「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだ
と云うことであるし、十字架の上にあっても
「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、
音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、
挺身して人類の代贖者(みがわりもの)になろうと決意した
イエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として
微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 令和7年11月12日 頓首再拝>

愛によってのみ生命は生まれる - 伝統

2026/01/01 (Thu) 11:23:04


      *「光明道中記」(1月1日《必ず楽しの日》)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、
その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、
その人の生命が生きる価値を失い、生き甲斐を失い、
病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、死へ近づいて来る
と云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

          <感謝合掌 令和8年1月1日 頓首再拝>

家族を愛せよ - 伝統

2026/01/04 (Sun) 09:36:08


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、
脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

          <感謝合掌 令和8年1月4日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2026/01/30 (Fri) 10:03:32


       *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

       <感謝合掌 令和8年1月30日 頓首再拝>

《愛は全身を相手にまかせる》 - 伝統

2026/02/06 (Fri) 11:28:44


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』
と言っていられる。
ここに言葉をききて素直に守ることが
『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
****ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。

            <感謝合掌 令和8年2月6日 頓首再拝>

報い求めぬ愛の日 - 伝統

2026/02/14 (Sat) 11:37:08


           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
 誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                 (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

           <感謝合掌 令和8年2月14日 頓首再拝>

相手の立場に立って相手を生かしてやるのが本当の愛 - 伝統

2026/02/16 (Mon) 11:41:47


    *「光明道中記」(2月16日《自己の尺度を捨てる日》)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
 相手を害(そこな)い、自分を害う。(『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、
実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、
悉く異なって見えるものである。

争いは、見る立場は一つしかないと云う根本的な迷誤(まちがい)から
発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、
或る人には斜めに見える。

もっと委(くわ)しく分けるならば、
一つの顔でも全然同じように見えることはあり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って
考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを
他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、

今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

         <感謝合掌 令和8年2月16日 頓首再拝>

《相手のためになることを実践せよ》 - 伝統

2026/03/11 (Wed) 12:00:18


           *「光明法語」(3月11日)より

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

         <感謝合掌 令和8年3月11日 頓首再拝>

愛は繁昌の基(もとい)である - 伝統

2026/03/16 (Mon) 10:58:21


           *「光明法語」(3月16日)より抜粋

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

         <感謝合掌 令和8年3月16日 頓首再拝>

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