伝統板・第二

3886371
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

実相を観ずる~「神想観」⑦ - 伝統

2025/06/17 (Tue) 12:06:44

正しく祈る日

       *「光明道中記」(6月17日)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、
 却(かえ)って魂の平和を失う。 (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、
使い方によっては又悪ともなるのである。

「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、
それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
 そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 (消滅)

   伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」(光明掲示板・第二) 」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7917883

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

(4)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6461369

(5)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」②」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6879320

(6)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」③」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7673407

(7)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」④」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7917801

(8)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8200207
        
(9)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」⑥」
     → https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8311370

           <感謝合掌 令和7年6月17日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2025/06/25 (Wed) 12:01:37


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和7年6月25日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきる神想観 - 伝統

2025/07/23 (Wed) 11:55:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、神の生命(いのち)が、
宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの内に、そして

「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」

との深い実感のうちに、
30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、
そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 令和7年7月23日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2025/07/28 (Mon) 12:27:10


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                       (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人で
あったから、雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
 粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。汝らの面前になげ向(だ)す。
 灯台下暗しで判るまい。
 判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
 自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
 その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、
宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和7年7月28日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2025/10/07 (Tue) 11:46:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月7日)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、
その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに
「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
 神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 令和7年10月7日 頓首再拝>

神想観と愛他の行を行なえ - 伝統

2025/10/10 (Fri) 11:42:52


    *「光明道中記」(10月10日《般若波羅蜜多を行ずる日》)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、
すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。

訳して智慧波羅蜜多と言っている。


禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることなく
自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。


神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)
として観ずるのであるから、般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを
同時に行なうものである。


檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 令和7年10月10日 頓首再拝>

「ありがたい」情感の神想観 - 伝統

2025/10/23 (Thu) 10:54:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 令和7年10月23日 頓首再拝>

神に融け入る神想観 - 伝統

2025/10/28 (Tue) 10:27:17


    *「光明道中記(10月27日)」より
      ~神に融け入る神想観をする日

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、
自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。
そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、
ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との充ち満ちてある
その妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 令和7年10月27日 頓首再拝>

神想観では、実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝す - 伝統

2025/10/28 (Tue) 10:28:26


    *「光明道中記」(10月28日《良き種を蒔く日》)より 

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを
具体的に認めることが出来ないならば、吾々の現実生活にも
それらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を
現象面に創造するのではなくして、ただ実相妙有の相(すがた)を
眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

       <感謝合掌 令和7年10月28日 頓首再拝>

神想観が足りないと、神の子の自覚がうすれ、禍に墜落する - 伝統

2025/10/31 (Fri) 11:47:43


神の子の自覚がうすれ、禍に墜落する
粟野真弘のblog(2025年10月30日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/59500800.html

《悟境の持続について》  

(問)

頓得の悟(ハツと一時にさとる)と云う様な状態で、
ハッと「我れ神の子なり」と自覚することが度々ありますが、

さて日常生活を送っていますうちに、
その頓得悟境と云うようなものが何時の間にかうすれて、
悟りの前と少しもかわらないような感激のない生活と心境に
陥ってしまうことが度々あるのであります。
 
これはどうしたら防ぐことが出来ましょうか。
 
また如何にしたら、澄み切った悟境と云うようなものを
持続することが出来るでしょうか。(I生)

 

(答)

それは中々好い質問であります。
 
人間神の子の自覚がうすれて来たときに、人は禍に墜落する。
病気も不幸も其処から出るのであります。

人間神の子の自覚が永続しないのは神想観が足りないからだと思います。

道元禅師は「祇管打坐」と云われました。
祇管(ひたすら)坐ることが必要なのであります。

生長の家へ来て、話を熱心にきく人でも、
神想観の時間になると帰ってしまう人がある。

これは話よりも、神想観の方が尊い行事であると云うことを
知らぬ人であります。

観普賢菩薩行法経にも

『端坐して実相を想え、慧日よく衆罪を消除す』

とあります。

端坐して実相を念じているときには、
そのまま仏・そのまま神の子であって、実相があらわれているから、
諸罪はそのまま無いのであります。

この行事を毎日毎夜行わぬ人は、いくら神の子だと一ぺん悟っても、
その実相が錆のために蔽われているのは、立派な名刀でも、
毎日打粉をふって磨かぬとその明晃々たる状態が錆によって
蔽い隠されるようなものであります。

その打粉を打って毎日磨くのが、神想観であり、
毎日、自分の実相と対面する行事であります。

 
瑞巌和尚は、毎日、自分の実相にむかって

「主人公、主人公」

と云つて喚び出したそうでありますが、
ただ「主人公」とだけでは充分ではない。

主人公が一体何者であるかをハッキリ知って対面するのでなければ
本当に自分の実相に対面したと云う訳には行かぬ。

 
そこで、自分と云うものを「神の子」だとハッキリ知って
それを言葉でとなえて対面するのです。
 
これが神想観なのであります。

実際心境が段々高くなって行く人は神想観を怠らぬ人であり、
理論や智慧には明るくとも、生活が段々調わぬようになるような人は
神想観を怠る人に多いのであります。

 (『新版幸福生活論』165~167頁)

       <感謝合掌 令和7年10月31日 頓首再拝>

就寝前10分間の神想観 - 伝統

2025/11/24 (Mon) 10:57:36

       *「百事如意」(P30~31)より

(『生命の實相』で)就寝前10分間の神想観を勧めてありますが、
覚醒中は吾々の『念(ねん)』が外界の事件に移り代りに気を取られて
刻々変化致しますので、『念(ねん)』を常に一定傾向にとどめて
置くことは比較的難しいのでありますが、

睡眠前に神想観をして、『念(ねん)』を正しい傾向に向けて
置いてから眠りますと、『念(ねん)』の習慣性によりまして、
『正しい念(ねん)』を習慣的に持続して、

類(るい)は類(るい)を呼ぶ『念(ねん)の牽引力』によりまして、
睡眠時間中持続的に正しい念(ねん)、栄えの念(ねん)を呼び寄せ、
その念(ねん)の展開として、平和な事件、幸福な事件、繁栄の事件
などを引き寄せることになるのであります。


神想観中の思念には色々のやり方がありますが、
地の巻實相篇第十六章に述べてあるのは、その基本的な形式で
ありまして、

この形式で12ヶ月習熟して頂きましたら呼吸の方法は習慣的に
正しく静かになって来ますから、

その時には呼吸にとらわれず、『実相』の完全円満な相(すがた)
を念ずると云うことにして頂(いただ)くのであります。

その一方法としては『久遠の實在』にある『実相を観ずる歌』の
如く念じて頂くのであります。


           ・・・

*【実相を観ずる歌】<頭注「生命の實相」第8巻観行篇(P2)より>


(一)
   神はすべてのすべて、
   神は完(また)き生命(いのち)、
   神は完(また)き英知(みちえ)、
   神は完(また)き聖愛(みあい)。
 
   すべてのものの内に、
   神の生命は生くる、
   神の英知は生くる、
   神の聖愛は生くる。

   神はすべてにして、
   すべて一体(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
   ちから是を生かせり。

   天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


(二)
   神は生命にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを生かし、
   すべては吾れを生かす。

   神は愛にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを愛し、
   すべては吾れを愛す。

   神は知恵にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを知り、
   全てのもの吾を知れり。

   神はすべてにして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れ祈れば天地(てんち)応え、
   吾れ動けば宇宙動く。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。

           ・・・

『実相を観ずる歌』の言葉の通り、又は自己の素養に従って、
自己にピッタリする言葉でそれと同意味の念を繰り返し繰り返し
念じているうちに、

自己拡大の感が起こり、『実相即我(われ)』『宇宙即我(われ)』
の境地に入(い)り、小我(しょうが)なく、他我(たが)なく、
一切包容の大我(たいが)に帰入した感じを味わうに至るので
あります。

神想観は『術(じゅつ)』ではなく、『徹底祈り』でありますから、
信念が通ずれば、形式又は用語に捉われる必要はなくして
充分効果があるのであります。

       <感謝合掌 令和7年11月24日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2025/12/13 (Sat) 12:54:20


     *「光明道中記」(12月13日神の叡智につながる日)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

        <感謝合掌 令和7年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2025/12/24 (Wed) 10:25:36


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
 今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
 神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)が
 わたしである。わたしは喜びそのものである。わたしは幸福
 そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても
心が統一し難いものである。

覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、直ちに
神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 令和7年12月24日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2026/03/20 (Fri) 11:17:07


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 令和8年3月20日 頓首再拝>

神想観は何分、必要か - 伝統

2026/03/28 (Sat) 11:40:59

神想観は何分、必要か
Web:粟野真弘のblog(2020年06月05日)
http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/2020-06-05.html

(以下は抜粋です)

谷口雅春先生選集第3巻『神癒への道』では、
「神想観は何分必要か」との問いかけに、次のようにお答えくださっています。


  癒しのための観想、すなわち信じ観じ観
 じ想うところの所謂る神想観は、一位何時
 間又は何回行ったらそれが有効な効果を現
 すであろうかと云うことは屡々初心者から
 尋ねられることであるけれども、それは
 「祈る人」が真に実相円満完全の姿を心に
 明朗静謐な気持で描き観じ得るまでの時間
 に正比例するのである。

 決して何時間又は何分間とその時間の経過
 のみを問題とする必要はないのである。

 実際に於いては「時間」は無いのである。
 「無い」という言葉がが不適当であるなら
 ば実相に於いては、すべての時間は「無」
 の中に握られているのである。

 『これを握れば一点となり、これを展けば
 無窮となる』 (『甘露の法雨』)のである。

 吾らが真に「実相」の中に超入し得る低の
 神想観の境地に達して「病気は無い」と念
 ずれば、瞬間の想念がよく完全にあらゆる
 病気を消滅せしめ得べきであるのである。

 キリストが瞬間的に相手の病気を癒した如
 き実例は、実に斯くの如くにして達し得た
 ものだと思われるのである。

 吾らに於いても信仰深き信徒が時として一
 瞬にしてかかる境地に達して、一瞬の間に
 相手の病気を消滅せしめた実例はないでは
 ないが、多くの場合に於いては、思念者自
 身が明朗静謐な心境に到達し得るのに平均
 二十分や三十分位はかかるのである。

 だから神想観の実修時間を普通三十分位に
 しているのである。その時間は眼前に起っ
 ている悲惨なる光景を見た時の心の動揺を
 自分の心の中で打消し得る時間にも関係し
 てくる。五官に触れる光景が悲惨であれば
 あるほど、こちらの心の動揺も激しいので
 あるから、それだけ思念する時間を多く要
 するのである。

(同書113~114頁)

            <感謝合掌 令和8年3月28日 頓首再拝>

實相の完全さのみを観よ - 伝統

2026/04/06 (Mon) 11:27:12


       *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、
神想観をしたら、こんな現実的結果が得られるから神想観をする
と云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、
”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

       <感謝合掌 令和8年4月6日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2026/04/17 (Fri) 10:47:27


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                        (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
   坐する者も神である。
   (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
   吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、
自分の周囲と内部、悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを
悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも周章狼狽することなく、
必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、
好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

          <感謝合掌 令和8年4月17日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2026/05/28 (Thu) 11:38:50


        *「光明法語」(5月28日)より 

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、
其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

          <感謝合掌 令和8年5月28日 頓首再拝> 

神想観についての心得書き - 伝統

2026/06/13 (Sat) 12:02:42

神想観についての心得書き 谷口雅春先生
seimeinojissoh(2023/05/25)
https://www.youtube.com/watch?v=HmbGl6U_lW4

  『光の泉』(日本教文社発行)昭和35年12月号 4~9ページ

(以下は抜粋です)

(1)肉体を安らかにどこにも偏りのないように統制する。

(2)リズミカルな規則正し呼吸をできるだけ静かにゆっくり行なう。

(3)自分の肉体、感情体、及び精神体のすべてが自分の脳髄をアンテナと
   して宇宙霊の流れ入る所の流入口となり、わが想念によって
   全身心が浄められ、それによって支配されると感ずる。

(4)意志の力により、ある一定の言葉を心に念じてそれに精神を集中する。

          <感謝合掌 令和8年6月13日 頓首再拝> 

深く神想観を励む日 - 伝統

2026/06/14 (Sun) 11:42:49


       *「光明道中記」(6月14日)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に
 行く手を照らす炬火(たいまつ)である。(『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、
仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、
人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

           <感謝合掌 令和8年6月14日 頓首再拝>

正しく祈る日 - 伝統

2026/06/17 (Wed) 11:43:56


       *「光明道中記」(6月17日)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、
 却(かえ)って魂の平和を失う。 (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、
使い方によっては又悪ともなるのである。

「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、
それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
 そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

           <感謝合掌 令和8年6月17日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2026/06/25 (Thu) 12:11:17


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和8年6月25日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきる神想観 - 伝統

2026/07/23 (Thu) 11:14:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、神の生命(いのち)が、
宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの内に、そして

「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」

との深い実感のうちに、
30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、
そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 令和8年7月23日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる神想観 - 伝統

2026/07/25 (Sat) 11:28:25


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月25日)より

今日はさらに、

「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」

と念じよう。

そしてすべてのものの内に、
宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを
深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、
その反映として自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを
心の底深く知るがゆえに、感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。

飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 令和8年7月25日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2026/07/28 (Tue) 11:18:40


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                       (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人で
あったから、雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
 粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。汝らの面前になげ向(だ)す。
 灯台下暗しで判るまい。
 判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
 自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
 その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、
宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和8年7月28日 頓首再拝>

《足を踏みしだくこと》 - 伝統

2026/08/01 (Sat) 11:28:51


          *「光明道中記」(P238)より

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に
上位をして完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)
ことには、到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位
にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 令和8年8月1日 頓首再拝>

三種の神想観 - 伝統

2026/08/02 (Sun) 11:32:20


       * 谷口雅春先生・『 著信の力 』 ( 381 ~ 383頁 ) より
          新生篇 幸福への真理

魂の進歩は、日(ひ)に日(ひ)に与えられた其(そ)の儘(まま)を
素直に全心(まこと)をもって行(ぎょう)じて行(ゆ)くところにある。


神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、
行ずる意志力を招(よ)び出(い)だし、
その行じ得(え)させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向って行じているのでは
却って逆効果を呈することになる。


そこで神想観によって
その行じる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、

『 神の叡智 流れ入りて、常住坐臥 吾れを導き給う 』

と観ずる神想観である。


実行の意志力を強めるところの神想観は

『 神の力 われに流れ入りて 吾れに実行の勇気を与え給う 』

と観ずるところの神想観である。


『 全てなくてならぬものを与えたまいて有難うございます 』

と繰返し念ずるのが、感謝の神想観である。


吾等は 日常 この三種の神想観を 怠ってはならないのである。


叡智なき行は崩れる。
行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。


叡智と行と感謝と、そしてもう一つ 感謝を実行に表現すること、

それは愛を 隣人に対(むか)って行う報恩行である。


みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力(りき)みもない。

唯(ただ)有難いばかりである。

・・・

元記事は以下の掲示板です。

《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》
日時:2019年01月07日 (月) 22時20分
名前:明鏡
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=2464

         <感謝合掌 令和8年8月2日 頓首再拝>

神想観は実相を観る行である - 伝統

2026/09/03 (Thu) 11:45:27


*『如意自在の生活365章』(P124)より 

神想観というものは病気や不幸を癒(なお)すのではなく、
病気や不幸に対決するのでもないのであります。

その修行はただ実相にのみ心を転ずる。

そして病気や不幸を相手にせず、したがって病気や不幸を、
“実在するもの”として受け入れなくなるのです。
受け入れなくなるから、それを“存在するもの”として感じなくなる。

病気を“存在するもの”として感じなくなれば、
病気は既にそこに《ない》のであります。

不幸を“存在するもの”として感じなくなれば、
われわれの感覚の世界から不幸は姿を消してしまうのである。

       <感謝合掌 令和8年9月3日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.