伝統板・第二
神癒 ⑨ - 伝統
2025/07/21 (Mon) 11:27:06
【体をただちに正常に戻す言葉】
【斎藤一人】
体をただちに正常に戻す!
この言葉を言って下さい!奇跡が起きます!
https://www.youtube.com/shorts/mlsxZBtf75E
「我は神なり、愛と光なり」(10回~20回唱える)
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 (消滅)
伝統第二「光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7823515
(2)光明掲示板・第三「神癒」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243
(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42
(4)伝統板・第二「神癒①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6458999
(5)伝統板・第二「神癒②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6910051
(6)伝統板・第二「神癒③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7640600
(7)伝統板・第二「神癒 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7820270
(8)伝統板・第二「神癒 ⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7989682
(9)伝統板・第二「神癒 ⑥」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8153560
(10)伝統板・第二「神癒 ⑦」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8265674
(11)伝統板・第二「神癒 ⑧」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8354160
<感謝合掌 令和7年7月21日 頓首再拝>
神の癒しを受けよ - 伝統
2025/08/04 (Mon) 10:50:24
*「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より抜粋
【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
(『生命の實相』第十一巻)】
神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。
神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。
癒しと云うのは神の創造の顕現であり、
神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。
だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。
不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
<感謝合掌 令和7年8月4日 頓首再拝>
倶に泣くことによって癒される - 伝統
2025/08/08 (Fri) 10:11:30
*「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より
【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
『生命の實相』第ニ巻)】
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、
しみじみと有難く感じられる。
「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。
「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。
人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。
自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。
「咎める」言葉が不結果を招く原因は、
こんな所にもあることが判るのである。
人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。
「愛」の中にこそ聖泉がある。
それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの
聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。
みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。
<感謝合掌 令和7年8月8日 頓首再拝>
天地一切のものに感謝し和解すること - 伝統
2025/08/11 (Mon) 11:06:17
*『 生長の家 』(昭和44年12月23日の法語)より
“神癒の力”は常に宇宙に充ち満ちているのである。
何故なら、神は、何時でも、何処にも、到る処に、常にいますからである。
それはラジオの放送が常にあるようなものである。
しかし常にあるラジオ放送も、こちらがスイッチを入れて、
波長を合わすまでは、それを受信することはできないのである。
あなたが神に祈ることは、受信セットにスイッチを入れたことに当る。
しかしスイッチを入れただけで、波長を合わせねば、
神癒の霊波の放送を受けとることはできないのである。
神癒の霊波を受信するためには、
あなたの心の波長を調整する必要があるのである。
その調整の道が天地一切のものと和解することである。
天地一切のものに感謝することである。
誰かを恨んだり、憎んだり、不平に思ったりしていたならば、
そのことに対してお詫びの心を起して、
新たにその相手の人に感謝の念を起し、
感謝の言葉を心の中で繰り返すがよい。
あなたが相手の人に感謝の念を起していることを
相手が知っておろうと、知らないでいようとそんなことはどうでもよい。
あなた自身の心の波長の問題である。
<感謝合掌 令和7年8月11日 頓首再拝>
症状は生命の活動、症状に感謝せよ! - 伝統
2025/08/22 (Fri) 10:14:00
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月22日)より
症状が生命の活動であって死の活動でないのは、
死んだら症状が無くなるので明らかである。
発熱や喀血や下痢や咳嗽(せき)を
病気の活動だと思うのは明らかに錯覚である。
いわゆるわれわれが「病気」だと思っているこれらのごとき症状は、
生活環境に抵抗または対応せんとする内部生命の活動の顕われであって、
「病気」そのものではないのである。
されば賢者は症状に感謝し、
発熱や喀血や下痢や咳嗽が起こるごとに、内部生命の、かほどまでにして
自分を生かそうとしている努力に感謝するのである。
<感謝合掌 令和7年8月22日 頓首再拝>
病気の正体は“エネルギー” - 伝統
2025/08/26 (Tue) 10:26:00
【並木良和さん】病気の正体は“エネルギー”だった!
2050年に訪れる医療革命と若返りの秘密
光の導き - 魂の旅( 2025/08/23)
https://www.youtube.com/watch?v=TgWNFF78yrE
<感謝合掌 令和7年8月26日 頓首再拝>
精神分析で止まるな! 感謝にまで誘え! - 伝統
2025/08/28 (Thu) 11:22:33
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月28日)より
若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、
なんとかしてその婚家先から逃げ出そうという思いを起こすと、
病気になったりすることがある。
病気になったら実家に帰れると思うと潜在意識が
その目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。
嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは
本当の真心を尽すことができないから、舅、姑から見ても百パーセント
その嫁が真心を尽しているというように見えないから、
舅姑の方でも不満足である。
そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。
そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。
けれども逃げ出すことができない。
逃げ出すことができないのを逃げ出すために
病気にでもなるほかしかたがない。
そこで潜在意識が病気をつくるのである。
夫婦間の仲がわるいために病気になれば、
胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。
岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは
父母が悪いと、父母を恨んだりすると脊椎カリエスになったり、
頭の病気になったりする。
こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。
「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうが
どんな悪いところであろうがわたしの家である。
わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」
そう思って、受くべきものを受けてしまう心境にならせたときに、
そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。
これが和解の真理の応用である。
和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解している
のじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。
痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、
下痢来たれば下痢に礼し、いかなる症状をも敵と思わず、
自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。
精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。
神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、
一転して「心臓が動悸しているので血が循(めぐ)っているのである。
ありがとうございます」と感謝の言葉を唱えさせるだけで、
治ってしまった実例がある。
以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは
札幌医大で両腎臓が結核に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、
腎臓の疼痛ごとに
「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」
とその疼痛に感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、
戦争中召集されて満州へ3年も従軍していてなんら病気が再発しなかった
と報告せられた実例もある。
腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、
それを調和させたとき治った実例は多い。
<感謝合掌 令和7年8月28日 頓首再拝>
イエスの奇跡 - 伝統
2025/08/30 (Sat) 09:26:57
【並木良和さん】イエスの奇跡~僕たちが向かっていく先、未来の姿
Anfini Royal Star ☆ channel(2025/08/27)
https://www.youtube.com/watch?v=fp8FMIlIsTA
<感謝合掌 令和7年8月30日 頓首再拝>
那智の滝での【病気平癒】 - 伝統
2025/09/02 (Tue) 10:20:51
那智の滝で奇跡※見た瞬間から心身の病気・不調・痛みがなくなる!
【病気平癒】
ヒカリTube( 2025/08/31 )
https://www.youtube.com/watch?v=fJSQH7kGyAc
<参照>
那智の滝に八咫烏様が降臨しました※お姿が見えたら強運です。
ヒカリTube( 2024/04/23 )
https://www.youtube.com/watch?v=ctB3DOwniOU
<感謝合掌 令和7年9月2日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2025/10/12 (Sun) 11:46:06
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、
皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 令和7年10月12日 頓首再拝>
《欲しい》と《たい》を捨てれば不思議に病気が治る - 伝統
2025/10/20 (Mon) 11:59:49
*「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》 )より
【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
(『生命の實相』第二巻)】
善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」「見《たい》」
「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。
この「《たい》」が心にある間は、
その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。
天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、
心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。
時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が
「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。
すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。
「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。
その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、
あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、
生命力が自由を得ないで病気に罹っている。
その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。
<感謝合掌 令和7年10月20日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2025/11/06 (Thu) 11:37:22
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 令和7年11月6日 頓首再拝>
その儘病気が治るようになっている - 伝統
2025/11/14 (Fri) 09:40:30
*「光明道中記」(11月14日執着が無くなる日)より
【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
(『生命の実相』第九巻)】
下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。
「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。
実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。
そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。
凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。
されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。
けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。
<感謝合掌 令和7年11月14日 頓首再拝>
自分を癒す5つの方法 - 伝統
2025/11/18 (Tue) 08:23:50
自分を癒す5つの方法 並木良和×本田健 対談
Ken Honda ( 2025/11/16 )
https://www.youtube.com/watch?v=evyz6VdakoU
4:36 感情を丁寧に味わう
5:48 自分を責めるのをやめる
6:46 心が喜ぶことを思い出す
8:03 感謝のノートを書く
10:06 信頼して、委ねる
<感謝合掌 令和7年11月18日 頓首再拝>
赦しと愛と平和 - 伝統
2025/11/21 (Fri) 10:31:25
*「光明法語」(11月21日の法語)より
赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。
若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、
「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、
神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」
と思念せよ。
<感謝合掌 令和7年11月21日 頓首再拝>
神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統
2025/11/22 (Sat) 11:37:03
*「光明法語」(11月22日の法語)より
更に次の如く思念せよ。
「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが故に、
私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れている
のである。
だからどんなイライラしさも、
どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。
神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」
<感謝合掌 令和7年11月22日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2025/11/23 (Sun) 10:12:50
*「光明法語」(11月23日の法語)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 令和7年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2025/11/24 (Mon) 10:53:06
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 令和7年11月24日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2025/11/26 (Wed) 11:46:58
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 令和7年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2025/11/27 (Thu) 11:43:12
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 令和7年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2025/11/28 (Fri) 10:26:15
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 令和7年11月28日 頓首再拝>
人間の生活する4つの面 - 伝統
2025/11/30 (Sun) 11:22:03
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より
人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。
物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。
この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。
だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。
昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。
われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。
科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。
この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。
さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。
それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。
これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。
さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。
生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。
医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。
顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。
さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。
(初出は、『生長の家』(昭和26年10月号 巻頭言)
<感謝合掌 令和7年11月30日 頓首再拝>
生命の神秘を拝む日 - 伝統
2026/01/12 (Mon) 10:52:34
*「光明道中記」(1月12日)より
【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。
(『生命の實相』第ニ巻)】
肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。
それは毛細現象と云う毛細管が液体を吸着する力によってのみ
循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、
心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。
併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、
もう血液は循環しなくなるのである。
所詮は物理的構造はその補助であって、
生命機能の本体ではないのである。
生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って
肉体と云う装置を支配している。
そのためにこそ肉体は「生命体」として
普通の物質を試験管に入れたのとは
異なる物理化学的発展を遂げるのである。
生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。
<感謝合掌 令和8年1月12日 頓首再拝>
すべてを受ける心になったとき病気が治り易い - 伝統
2026/02/15 (Sun) 10:05:01
*「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日》)より
【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、
多くの人を病気にしている。 (『生命の實相』第四巻)】
同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。
みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。
それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。
すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。
「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。
そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。
彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。
彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。
<感謝合掌 令和8年2月15日 頓首再拝>
人の病気を治すには - 伝統
2026/03/07 (Sat) 09:14:30
*「光明法語」(3月7日)より
人の病いを心で治そうと思ったならば、
その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。
観たとおりに現れるのが心の法則であるから、
吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。
病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが
病気を消滅することが出来るのである。
此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。
<感謝合掌 令和8年3月7日 頓首再拝>
”降伏”こそが最強の治療法 - 伝統
2026/03/12 (Thu) 10:10:31
「病気と戦うな。戦えば戦うほど体は蝕まれる」
”降伏”こそが最強の治療法である理由
オカルティック現代(2025/12/09)
https://www.youtube.com/watch?v=tPgOImB6f0o
<感謝合掌 令和8年3月12日 頓首再拝>
生命の純粋波動を現せ - 伝統
2026/03/19 (Thu) 11:07:28
*「光明法語」(3月19日)より
肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。
生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。
生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。
自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである
<感謝合掌 令和8年3月19日 頓首再拝>