伝統板・第二
生命の實相 ⑤ - 伝統
2025/08/03 (Sun) 11:37:21
『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月3日)より
プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。
水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。
私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。
水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。
・・・
<関連Web>
(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「生命の實相 (226)」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=67(消滅H28.11.25確認)
(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「『生命の實相』 (773) 」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=199
(3)「光明掲示板・第二」内スレッド「『生命の實相』 (122)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=58 (消滅)
(4)「光明掲示板・第三」内スレッド「『生命の實相』 (72)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=37
(5)「光明掲示板・伝統・第一」『生命の實相』 (51)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=32
(6)伝統版・第二「生命の實相①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6459727
(7)伝統版・第二「生命の實相②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7090507
(8)伝統板・第二「生命の實相 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7869594
(9)伝統板・第二「生命の實相 ④」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8237861
<感謝合掌 令和7年8月3日 頓首再拝>
神様を懐かしむ思いで、『生命の實相』を読む - 伝統
2025/09/02 (Tue) 11:29:42
*「光明道中記」(9月2日《内在の念仏を聴く日》)より抜粋
【淋しき時には我を思え。我は汝らの為に祈るものである。
(生命の實相第十一巻)】
他力真宗と生長の家とは随分その救いの立て方が似ているのである。
真宗で「他力」と言うところを生長に家では「実相」と言う。
真宗で「念仏」と言うところを「『生命の實相』を読めと言う。
「他力」は「大信心」であり、「大信心」は「仏性」であり、
「仏性」は「実相」である。
「他力」に救われると云うことは「念仏申す心」(実相)に救われている
と云うことである。
『生命の實相』を読んで、
その経釈が完全に出来るから救われると言うのではない。
盲目(めくら)の子でも母はそれに****を与えて救って下さっているのである。
どんな母であろうかと「知りたい心」は経文を解釈するような誇った心ではなく、
母懐かしさの心にすぎない。
<感謝合掌 令和7年9月2日 頓首再拝>
『生命の實相』の学は、如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにある - 伝統
2025/09/06 (Sat) 09:36:59
*「光明道中記」(9月6日《信心極まる日》)より抜粋
【汝の信ずるごとく汝になるのである。(『生命の實相』第一巻)】
『生命の實相』もその中の字句を甲是乙非と議論するためにとて
色々の諸学説が引用してあるのではない。
人間は救われ難しと色々の科学から結論している人々に
如来の慈悲を説き聴かせてあげるためにこそ
『生命の實相』の学があるのである。
<感謝合掌 令和7年9月6日 頓首再拝>
濁り水を捨て、『生命の實相』を読み、真理の水を注ぐ - 伝統
2025/11/03 (Mon) 11:51:46
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より
生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。
濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、
われわれは依然として濁り水を見るのみである。
怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、
すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。
せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。
よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。
心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、
今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。
<感謝合掌 令和7年11月3日 頓首再拝>
人間生命の本質実相を知らしめるのが『生命の實相』 - 伝統
2025/11/26 (Wed) 11:51:03
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月26日)より
病人をたんに「病める肉体」などと考えてはならないのである。
「病める物質」などというものは本来ないのであるから、
肉体を物質と考えているかぎりにおいて
「病める肉体」というものは本来ないのである。
肉体がたんなる物体ではなく「人体」であるかぎりにおいて、
それは必ず「精神的存在」であるという意味を含んでいるのである。
「物質は病みえない」で「心のみが病みうる」とすれば、
物心両面を備えている「人体」が病む場合にはどうしても
「心が病んでいるのだ」と考える方が正しいのである。
これを仏教的に言うならば「惑病同体」ということである。
肉体には「心」の作用の結果があらわれているばかりであって、
肉体それ自身には、肉体それ自身の細胞や成分の配列を変化する
力はないのである。
肉体を構成する成分はロボットの兵隊さんのようなものであって、
「心」という指揮官の命令する位置について命ぜられる職能につくのである。
だから薬剤をあびるほど服(の)んだところが、
心の中に「病気になりたい願い」や、
「もう死んでしまいたい」などとという悲しみがわだかまっていては、
その薬剤を完全に吸収して効果を発揮することはできないのである。
常に「物質」は主動者ではなく、被動者であるということに注目しなければ、
新しい本当の医学は生まれないのである。
こうして心が原因で病気に罹っている人を
カール・メニンジャー博士は『人間の心』の中で
釣針(つりばり)に引っかかった人だと言っている。
魚發(は)ねれば魚發(は)ねるほど水の中から飛び出して死んでしまうが、
引っかかった傷口がいっそうひどく痛んでくるかが落ちである。
(注:魚發は当用漢字にはないのでPCの関連で
<魚發>で一字としてとらえてください)
『生命の實相』を読んだ人が、本を読むだけで病気が治るというのは、
その書(しょ)が人間生命の本質実相を知らしめ、
苦痛や問題に引っかかっていた心が
自然にほどけるように書かれているからである。
石丸梧平氏は最近「中外日報」紙上で、
たまたま『生命の實相』を旅先で読んでみて驚いた。
いままで読まずに「紙病院」だと軽蔑していたが、
その真理を叙述する話術のうまさに「これなら病気が治るはずだ」と
書いていた。
文章即宗教と言われる所以である。
<感謝合掌 令和7年11月26日 頓首再拝>
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である - 伝統
2026/01/21 (Wed) 11:03:17
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月21日)より
病は《ある》ように見えていても本来無いという思想は人間を光明に導く。
生長の家がこの思想を発明してから実に多くの人が救われている。
《ある》と思えば恐れられ、恐れれば生命力は萎縮し、
生命力が萎縮すれば病気は治らないのである。
心の変化で、人体を流れる変化を来たすことは早稲田心理学教室で発明した
嘘発見器(ライ・ディテクター)以来周知の事実である。
そして感応電流を人体に通ずれば健康にある影響を及ぼすのも周知の事実である。
そすれば心の変化が人間の健康に影響を与えるのも当然のことである。
しかも今までの医学は、
その診断を正確に患者につげることを道徳的責任のように思って、
患者の心を動揺せしむることの悪影響を考えなかった。
この点で医学は診断学であって、医術ではない場合が多かった。
患者の心を動揺せしめないで、生命力を内から振起せしめるのは術である。
読書によって生命力を振起せじめる文書術の極致を示したのが
『生命の實相』である。
これから後世に、もっと強く生命力を振起させる文章が出て来るかもしれない。
出ることを望む。
ともかく、薬物でないと生命力は振起しないと思われていたのを
文書術によって生命力を振起する道を拓いたのが『生命の實相』である。
学と術とはちがう。
現象学は現象を正確に告げる必要があるし、
人を生かす術は現象を飛び超えさせてしまう。
漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが姿なる
病める人は病は《ある》ように見えても本来《ない》。
この言葉を常住坐臥唱えよ。
病が本来ないという思想が、あなたの心の中に徹底したならば、
ほとんどすべての病は地上から姿を消すにちがいない。
<感謝合掌 令和8年1月21日 頓首再拝>
『生命の實相』は両方面から書いてある。躓かぬものは幸いである - 伝統
2026/02/21 (Sat) 11:09:26
*「光明道中記」(2月21日《躓かざる日》)より
【他(ひと)が怒ったら、
ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
(生命の實相第十一巻)】
真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。
『生命の實相』は両方面から書いてある。
腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。
薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。
だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。
また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。
自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、
扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、
「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。
人事処三相応である。
凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。
<感謝合掌 令和8年2月21日 頓首再拝>
『生命の實相』を読んで病気が治るも治らむも、心境の変化による - 伝統
2026/02/22 (Sun) 10:25:36
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より
『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。
刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。
先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。
たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。
『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。
たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、
「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。
すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた
閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」
この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって赦されんがための供物であると念いて服み、
二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、
三口目を手にしては是れ神の護りによりて
自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、
四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して
心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」
べきことがその前行の文章に書いてあるのである。
これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。
それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。
近代のサイコアナリシス(精神分析)は
観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。
この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。
『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。
しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、
または諸方皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、
自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。
<感謝合掌 令和8年2月22日 頓首再拝>
『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統
2026/05/29 (Fri) 10:21:50
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月29日)」より
治病能力のすぐれたる人に、宗教的感情の深い人が多い。
理論的に説明は上手であっても治病的能力の少ない人もある。
理論は脳髄皮膚の意識でも組み立てられるのであって、理論で肯定しながら、
感情の底では反撥しているような人もある。
思想や理論では恋するわけにもゆかないし、
恋しなかったら子を産むこともできないのである。
恋とは思想や理論でなくて感情である。
時には例外があるかもしれぬが、「子を産む」すなわち創造力の本体は
「感情」であるのであって思想や理論にあるのではないのである。
人を真に動かすものは「感情」の力である。
人を癒す力も「感情」にあるのである。
世に迷信視せられている「お婆さん」や行者の小宗教で
病気が治る事実が続々あり、それに理論が透らないという理由で、
また、たまたま感情興奮を伴わない知的な人に試みて
治病成績が挙がらなかったという理由で、
それらの治病宗教を詐欺師するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。
『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いからである。
この点において、『生命の實相』は文章芸術である。
理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点を見のがしているのである。
もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と異(ちが)って
理論が透らないようなものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。
だから『生命の實相』は理論においても
古今独歩、古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる
一大生命学の理論体系をなしているのである。
この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。
芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用うるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験令状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。
しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、
宗教であるとも言いうるのである。
芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。
<感謝合掌 令和8年5月29日 頓首再拝>
『生命の實相』生活篇 - 伝統
2026/06/26 (Fri) 11:25:28
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月26日)より
今日(きょう)ひとりの誌友がわたしを訪問してこんな話をした。
「先生、先生は『生命の實相』の生活篇をお書きになるときに、
どんな状態であの強い御文章をお書きになったのですか? 」
「別にどういうことはない。あのころはわたしは会社へ通っていましてね、
朝5時に起きるとすぐ朝風呂へ参りまして、帰ると短時間神想観をして、
それから出勤時間まで、1時間ばかり机に対(むか)ってペンを執るのが習慣でした。
何を書こうかということは筆を執るときまで考えていない。
筆を執りはじめに、どんな本でもよい、何かの教科書でもよい。
有合せの机上の本のどこでも手当たりしだいのページを開いて
じっと2、3行見つめていると、
それが執筆を招(よ)び出す精神統一になって書くべきことが頭に浮かんで来る。
あとは頭に浮かんでくるままにペンを運べばよいのでした。
どんな本でも2、3行じっと見つめているというのは
ポンプの迎い水のようなものですねえ。
水晶球凝視法といって水晶の球(きゅう)を凝視していると、その水晶の表面に
いろいろの形が現われて来る現象がありますが、あれに似ていますね。
わたしのは水晶球の表面に現われてこないで頭に浮かんで来ます。」
「あの生活篇にはずいぶん力強い文章が書いてありますねえ。
わたしはあの一節を書き抜いて常に携帯して歩いています。
病人の枕許(まくらもと)にあの一節を書いて貼り付けておいてやりますと、
不思議に精神が光明に誘導されて病気の治る人があるので驚いています。」
「あの生活篇の価値を多くの誌友は知らないのですよ。
病気のことはほとんど書いていない。
生活の仕方を鼓舞するように書いてありますが、
生活が整ってくると自然病気が治ってくる。
朗々と読むとよいのですよ。だからあの部分だけ集めて
『光明の生活法』という一冊に纏めてあるのです。」
「あの中に『汝の床を今上げて起て! 』という実に力強い文章がありますが、
あの一句を私は脊椎カリエスで下半身不随になって歩くことのできない病人の枕許に
肉筆で書いておいて、毎日これを読んで、自分の心を鼓舞するのですよ。
そして『起(た)てる、必ず起(た)てる』とこれを読むごとに思うのですよ、
と言っておきましたら、数年間半身不随の青年が旬日のうちに起ち上がったのです。
言葉の力というものは不思議なものですなア。」
<感謝合掌 令和8年6月26日 頓首再拝>
『生命の實相』の本は、ただ真理を説いているだけである - 伝統
2026/07/05 (Sun) 08:15:46
*「光明道中記」(7月5日《臭味を脱却する日》)より
【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】
「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。
「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。
「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。
まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。
功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。
人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。
では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。
識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。
目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。
<感謝合掌 令和8年7月5日 頓首再拝>
『生命の實相』を必ず読む日 - 伝統
2026/07/12 (Sun) 12:22:39
*「光明道中記」(7月12日)より
【生長の家では外界をただ「自心の展開」として
自由自在に駆使し得るようになるのであります。
(『生命の實相』第七巻)】
四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は
非常な功徳があるとせられている。
「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と
同じことが書いてあると云うことを
私は『生命の實相』で指摘して置いた。
四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、
「大般若経」を一心不乱に誦していると、
その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。
こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて
私自身がその色々の奇瑞を見るまでは作り話だと思っていたが、
今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。
道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。
「姓名なんか訊いて何にするのです。
姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性(ぶっしょう)です」
少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。
<感謝合掌 令和8年7月12日 頓首再拝>