伝統板・第二
無我 ⑦ - 伝統
2025/08/25 (Mon) 09:52:03
わがはからいにて行ずる光明思念であってはならない
*「光明道中記」(8月25日《謙遜になり切る日》)より抜粋
【神は祈ったから心を動かし祈らぬから罰を与えるようなものではない。
(『生命の實相』第三巻)】
念仏とは謂わば絶対者の力の廻向(えこう)し来る光明思想である。
吾々の行う光明思念も本当はその極致は、
わがはからいにて行ずる光明思念であってはならないのである。
「わがはからいにて行ずる光明思念」であるならば、
「わたしが光明思念をしてやったから病気が癒(なお)ったのだ」などと
恩に着せがましく、また自力の善をほこりがましく自分が
大先生になりすましすのであるが、
「自力」と云うものはひとつもないのであるから、
「わたしが光明思念をしてやった」と云うこともあり得ないのである。
大宇宙大生命の無辺の光明思念に”はからわれ”て
それが吾々に催し来たりて光明思念するように成るのである。
「念仏は行者のために非行非善なり」とは直に以て
「光明思念は行者のために非行非善なり」である。
この世に如何なる行と雖もわが”はからい”にて成し遂げる行とてなく、
この世に如何なる行もわがはからいにて成し遂げ得る「善」もない。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「無我 ①」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=6853330
(2)伝統板・第二「無我 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7616202
(3)伝統板・第二「無我 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7804252
(4)伝統板・第二「無我 ④」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=7990560
(5)伝統板・第二「無我 ⑤」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8232485
(6)伝統板・第二「無我 ⑥」
→ https://dentou.bbs.fc2bbs.net/?act=reply&tid=8338428
<感謝合掌 令和7年8月25日 頓首再拝>
【常住戦死の心】 - 伝統
2025/09/01 (Mon) 11:18:28
*「光明道中記九月こころ極まる<はじめの言葉>」
(初出は「生長の家」誌・昭和14年9月巻頭言)
宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。
天皇の大御心である。
「忠(ちゅう)」とは大御心に無我帰一する心である。
すなわち天之御中主大神の心に「中(ちゅう)」する心である。
「中(ちゅう)」とは的(まと)に中(あた)るであり、
御本質に貫き徹するのである。
宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、
無我になりて宇宙の心に従うのである。
吾らが大御心を行ずるのは、
それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。
そう云う第二次第三次の事物よりも、
尚々(なおなお)すぐれて無上價値なるものが大御心である。
その大御心を実現することは無上価値であるが故に、
そのような第二次、第三次のお蔭などは
心に微塵も止(とど)めないで、大御心を行ずるのが「忠」である。
そしてそれがまた生長の家家族の心である。
大御心を行ずる爲に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。
戦場に於て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。
これを「死」と云う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、
「肉体なし、物質なし」と吾らは云う。
その死に切った心だけでは消極的否定の心である。
そこに「大御心《のみ》あり」の大肯定がなければならぬ。
生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在とも言う。
<感謝合掌 令和7年9月1日 頓首再拝>
我でやれば失敗する - 伝統
2025/09/15 (Mon) 11:14:30
*「光明法語」(9月15日))
頭脳の知恵にのみ訴えて、
大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して
支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。
それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。
吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。
真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。
<感謝合掌 令和7年9月15日 頓首再拝>
【自分の体は自分のものではない】 - 伝統
2025/10/01 (Wed) 09:39:04
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2025.6.11)より
(京都文教大学学長、平岡聡(さとし)氏の心に響く言葉より…)
《このからだも命も所有物も、「私のものではない」と知ること》
人は働いてお金を稼ぎ、そのお金で様々なものを手に入れます。
そして、お金で〈私が〉買ったものは〈私の〉ものであり、
「それは〈私が〉買ったんだ。
だから〈私の〉ものだ。他人のものではない」
と主張します。
しかしそれは本当に私が買ったものであり、
究極的に私のものといえるのでしょうか。
人間には自己に関して二つの「とらわれ」があります。
その一つが「我執(がしゅう)」。
「私が、私が」という〈自我意識〉です。
もう一つが「我所執(がしょしゅう)」。
「私のだ、私のだ」という〈所有意識〉です。
人間は、「私が、私が」と自己主張をします。
よいことは「私がやった」、悪いことは「私はやってない」などと、
状況に応じて自己を出したり引っ込めたり、実に身勝手な存在です。
またひとたび自分の手に入れたものは「私のものだ」と主張し、
奪われそうになると必死で守ろうとします。
どんな人も、大なり小なり我執と我所執とを
振りかざして生きているのです。
「しかし、この私のからだや命は私だけのものだ」
と言われるかもしれません。
でも、これもよく考えてみると、本当に
〈私〉のものかどうかは疑わしくなります。
仏教は「縁起」を説きます。
つまり、私たち人間も含めてすべてのものは、
様々な 縁(おかげ)によって成立していると説きます。
時間的に〈私の命〉は無限の過去にさかのぼる
先祖の命の延長線上にありますし、
空間的には、知人・友人・先生・ご近所・家族などからの
おかげを被って生きています。
また食べ物や生活必需品を作るのにかかわった人や、
私の命を維持するために犠牲になった生き物、
さらにからだの中で働いている細菌類まで視野に入れると、
私以外のすべてが私の存在を支えているといえます。
〈私〉という存在の中には、
無数の〈私でないもの〉が私を支えているのです。
それでも「この私は私だけのものだ」と言えるでしょうか。
<『ブッダの処世術』ワニブックス>
・・・
筑波大名誉教授、村上和雄氏はこう語る。
『自分の体は自分のものだと思っているかもしれませんが、
実は私たちの体はすべて借りもの、要するに“レンタル”なのです。
レンタルですので、期限が来れば返さねばなりません。
これが「死ぬ」ということです。
貸し主は地球、宇宙、そして神です。
体は地球や神からの借りものという考えは、昔から日本にあります。
神は、私たちに体を貸した際、レンタル料、
まあ利息と表現してもいいですが、
そういうものを取るようなケチ臭いことをしませんでした。
すべての人に対して無償で貸してくれたわけです。
それでは、借り主は誰でしょうか?
それが魂です。』
《神(サムシング・グレート)と見えない世界
(矢作直樹・村上和雄/祥伝社新書)》より
まさに、体は神様からの借り物であり、
同時にその体は、多くのご縁によって生かされている。
自分のものであるならば、
どんなにぞんざいに扱おうが、乱暴に扱おうが
その人の責任だから、まわりからとやかく言われることはない。
しかし、この体は借り物である。
しかも、神様からお借りしているのだとしたら、どうだろう。
とても、恐れ多くて、粗末に扱うことはできない。
「自分の体は自分のものではない」
という言葉を胸に刻みたい。
<感謝合掌 令和7年10月1日 頓首再拝>
「《わし》が」を捨てよ - 伝統
2025/11/01 (Sat) 11:02:13
*「光明道中記」(11月1日)より
~ 手垢のつかぬ愛行をする日
【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】
悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。
どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。
「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。
手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。
「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、
それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、
却って地獄への入口でさえあるのである。
何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。
「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」
とか何とか、不平や憎みの原因になるからである。
<感謝合掌 令和7年11月1日 頓首再拝>
七たび我を棄てる日 - 伝統
2025/11/06 (Thu) 11:35:15
*「光明道中記」(11月6日)より
【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】
道場へ来てこんなことを相談した人があった。
「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。
私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。
事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。
私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
可哀相さに同情して
『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
申しました。
そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと
仲人が言いますので、その女を妻に貰い受けました。
ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、
一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。
それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。
私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」
笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。
<感謝合掌 令和7年11月6日 頓首再拝>
自分を滅ぼす偽我を捨てる - 伝統
2025/11/07 (Fri) 09:24:04
*「光明道中記」(11月7日《自己を深く見詰める日》)より
【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】
「我(が)」と云うものは
そんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。
併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは
「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところの
ニセ物であるのである。
それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、
死んでも好いとも思うのであろう。
「本物の自分」と「ニセ者の自分」との
区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。
生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。
その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、
旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。
「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。
<感謝合掌 令和7年11月7日 頓首再拝>
我欲・我慢・我見・我癡は真理を知らぬのである - 伝統
2025/11/08 (Sat) 11:00:44
*「光明道中記」(11月8日《仕事に愛をそそぐ日》)より
【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。
(『生命の實相』第四巻)】
天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。
天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。
天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。
我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。
我がなければ天地間の供給みな人類のものである。
天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。
殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。
此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。
「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。
<感謝合掌 令和7年11月8日 頓首再拝>
「わしが」 「わしが」 の心を捨てよ - 伝統
2025/11/16 (Sun) 11:51:06
*「光明法語」(11月16日の法語傲(たか)ぶる心を捨てよ)より
神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。
自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。
「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。
<感謝合掌 令和7年11月16日 頓首再拝>
無我直心 - 伝統
2025/11/17 (Mon) 10:30:00
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より
仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。
キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」
と言い給いし、その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。
小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。
天理教祖の所謂(いわゆる)
「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。
文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。
無我直心を行ずるを徳という。
<感謝合掌 令和7年11月17日 頓首再拝>
「我」と云う自己が摧(くだ)ける事が必要 - 伝統
2025/11/19 (Wed) 10:27:40
*「光明法語」(11月19日の法語《心柔和なる者》)より
氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。
これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。
「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。
<感謝合掌 令和7年11月19日 頓首再拝>
無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべき - 伝統
2025/11/28 (Fri) 10:31:28
*「光明道中記」(11月28日《功成りて功に居らざる日》)より
【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】
「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、
押し落そうとするものが出て来るのである。
人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。
みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。
無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば
自然に大きくなる。
潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。
硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。
我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。
生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。
我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。
<感謝合掌 令和7年11月28日 頓首再拝>
《去私すなわち神》 - 伝統
2025/12/01 (Mon) 11:52:19
*「光明法語」(12月1日)より
「わが魂の底なる神よ。
あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。
我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。
これが私の祈りである。
我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。
悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。
あまり自分でたくまぬが好い。
<感謝合掌 令和7年12月1日 頓首再拝>
我(が)を捨て、神の恵みに波長を合わせる - 伝統
2025/12/02 (Tue) 11:55:33
*「光明法語」(12月2日)より
《神に波長を合わせ》
神は善人にも悪人にも、
太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、
自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。
色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。
オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。
よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。
<感謝合掌 令和7年12月2日 頓首再拝>
自分がカラッポになるとき、万事は順潮に行く - 伝統
2025/12/07 (Sun) 09:03:37
*「光明法語」(12月7日《逆らえば順潮も逆潮》)より
一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。
自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。
本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。
波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、
波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。
人生の行路もそのようなものである。
<感謝合掌 令和7年12月7日 頓首再拝>
無我になる - 伝統
2025/12/09 (Tue) 10:50:53
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より
まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。
無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。
「我(が)」を放さないとき、
その程度に「応じて、神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。
<感謝合掌 令和7年12月9日 頓首再拝>
自分とか、ないから。 - 伝統
2026/01/04 (Sun) 08:20:03
『自分とか、ないから』【1分要約】
1分で読書(2025/04/24 )
https://www.youtube.com/watch?v=J61ezgwk8GQ
・・・
<参照>
著者について
[第255回|前編]自分って何?
『自分とか、ないから。』が教える東洋思想の極意
石田衣良(2024/11/21)
https://www.youtube.com/watch?v=AbXoMCCCpnA
(0~13分頃までが該当)
<感謝合掌 令和8年1月4日 頓首再拝>
「我(が)」は「本当の我(われ)」を縛るところの《自己限定》 - 伝統
2026/02/18 (Wed) 10:18:07
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より
人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。
精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと
考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで
地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。
彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。
《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。
《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。
「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。
それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を
縛るところの《自己限定》である。
「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。
だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。
本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに
気がついた時には、人間は誰とも大調和するものである。
大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。
<感謝合掌 令和8年2月18日 頓首再拝>
我を捨て、天地の生命と一枚になりきる - 伝統
2026/04/19 (Sun) 10:24:06
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より
鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。
それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。
梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ!
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでも
いいたいような花びら、雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさには
なんらの卑猥の影もとどめない。
それだのに植物学者は
その花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。
人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、
智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。
天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、
いろいろと人間の理屈で考える。
打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が
不浄なものとして感じられてくる。
自分の快楽のために楽しもうと思って****を扱うから、
****が汚れたものに見えてくる。
<感謝合掌 令和8年4月19日 頓首再拝>
生長の家の思想は無我の思想である - 伝統
2026/04/27 (Mon) 11:33:46
*「光明道中記」(4月27日)より
~自ら戒めて心を傲(おご)らざる日
【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、
我が身は無いと云う実相を知ることです。(『生命の實相』第十七巻)】
生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。
私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。
私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。
生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。
「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。
生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。
他の宗教では暫く継続的に教化していると、
時とすると自分の信者を作ることがある。
真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。
そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。
<感謝合掌 令和8年4月27日 頓首再拝>
無我 - 伝統
2026/05/09 (Sat) 09:07:36
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より
我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。
第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。
「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、
第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。
<感謝合掌 令和8年5月9日 頓首再拝>
自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統
2026/05/18 (Mon) 10:24:40
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より抜粋
「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。
「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。
自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。
<感謝合掌 令和8年5月18日 頓首再拝>
「公的精神」 - 伝統
2026/05/19 (Tue) 11:39:36
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より
我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。
否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。
<感謝合掌 令和8年5月19日 頓首再拝>
自分とか、ないから - 伝統
2026/05/31 (Sun) 08:08:45
自分とか、ないから。教養としての東洋哲学
「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」
<しんめいP(著)、サンクチュアリ出版>
本要約チャンネル(2026/05/08)
https://www.youtube.com/watch?v=iiscs4K5NV0
【目次】
0:00 ご挨拶・導入
絶対に全員知るべき、東洋哲学のヤバすぎる偉人
0:42 ①仏教の開祖「ブッダ」
14:44 ②禅を世界に広めた変人「達磨大師」
25:59 ③密教を日本持ち帰った天才「空海」
・・・
本書の目次
https://www.sanctuarybooks.jp/book/detail/1462
・・・
自分とか、ないから。教養としての東洋哲学【しんめいP】
フェルミ漫画大学(2026/05/26)
https://www.youtube.com/watch?v=xXgisL9_jeg
0:00 はじめに:東大合格→無職→布団の底から救い出した東洋哲学
2:37 西洋哲学は「認識とは何か」、東洋哲学は「どう生きればラクになるか」
5:28 ブッダは6年間の苦行の末に「意味なくね?」と気づいた
7:42 体も思考も川のように変わるのに「本当の自分」なんてない
12:57 この世はぜんぶ言葉のラベルが作ったフィクション
18:25 「ダメな自分」も今の条件が揃っているだけ
23:03 欲を消すな、でっかくしろ——空海の答え
27:59 まとめ
29:15 END
・・・
「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」
【本要約】( 2024/10/28)
https://www.youtube.com/watch?v=TqRvcfK1hzU
<感謝合掌 令和8年5月31日 頓首再拝>
捨我精進の日 - 伝統
2026/06/09 (Tue) 10:37:16
*「光明道中記」(6月9日)より
【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
(『生命の實相』第十一巻)】
我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。
われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。
神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。
如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと
考えてはならないのである。
すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。
感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。
如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。
行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。
<感謝合掌 令和8年6月9日 頓首再拝>
天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統
2026/06/15 (Mon) 10:28:28
*「光明法語」(6月15日)より
自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。
「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。
「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。
自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。
<感謝合掌 令和8年6月15日 頓首再拝>
神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する - 伝統
2026/06/30 (Tue) 12:00:55
*「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より
【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】
若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。
そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。
自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。
それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。
全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。
神がすべての渾(すべ)てであるが故に、
今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、
神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。
あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、
すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝まなければならない。
衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。
<感謝合掌 令和8年6月30日 頓首再拝>
偽物(にせもの)を捨てる日 - 伝統
2026/07/02 (Thu) 11:20:27
*「光明道中記」(7月2日)より
【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】
寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施して
その功徳いくばくなどと思うのは凡(おそ)そ
これに過ぎたる愚問はない。
そういう問を発する心の中には、
「供養誇り」と云うホコリで醜く充満しているのである。
「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。
その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。
天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。
何か善いことをして、
それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。
《自分の》功徳がないと知るとき、
天地間はただ功徳で充満しているのである。
無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。
奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、
これが奇蹟である。
或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき
一切功徳を蒙(くら)ましているのである。
<感謝合掌 令和8年7月2日 頓首再拝>
「“わたし”」なるものは本来無い - 伝統
2026/08/18 (Tue) 11:29:35
*「光明道中記」(8月18日《無恐怖の心境の日》)より
【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】
(歎異抄第三条)
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をやと。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、
他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。
何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ――
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。
ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。
「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。
<感謝合掌 令和8年8月18日 頓首再拝>
「他力をたのみ奉る」 - 伝統
2026/08/19 (Wed) 10:40:35
*「光明道中記」(8月19日《大安心を得る日》)より
【罪業を浄めんと断食、水行をしても救われない。(『生命の實相』第十一巻)】
(歎異抄第三条)
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを
あはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せさふらひき。
「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような
「罪悪誇り」の人間ではないのである。
だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。
「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、
仏力に由るのである」と自己を謙る人を言うのである。
自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて
頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。
<感謝合掌 令和8年8月19日 頓首再拝>